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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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駆逐艦 島風  

◆唯一無二そして孤高の最速駆逐艦◆

主に空母か潜水艦のプラモしか作らない小生が、「駆逐艦が面白いことになってきた」などという某プラモ雑誌の特集記事に触発されて購入したのが、この「島風」である。

島風 (10)
ブラウザゲーム「艦これ」の人気艦ということもあり、45年ぶりにリニューアルされたTAMIYA製の島風。

1/700の艦船プラモの製作に関しては、根が真面目なので(←嘘つけ!)、チマチマと塗装と組立を繰り返しながらやるのがいつもなのだが、今回のような駆逐艦に関しては、ある程度先にパーツの組立と取付を完了して下地塗装を行いその上から重ね塗りして部分的に塗装していくというプロの技術を真似てみた。これが意外とすんなり身についたのにはビックリ・・・(笑)

島風 (1)
最初に砲塔や魚雷発射管を除いた大きなパーツを素組みしておく。

【艦歴】 ※TAMIYA製島風の組立説明書に書いてある艦歴について引用しています

太平洋戦争の真っただ中と言える1943年5月10日に舞鶴海軍工廠で竣工した日本海軍の駆逐艦が島風です。2000トンを越える艦船としては画期的と言える40.9ノットという強力な記録を達成しただけでなく、五連装酸素魚雷発射管を三基装備した強力な武装をもった、最新鋭の艦隊型駆逐艦として誕生したのです。

日本の駆逐艦の速力は大正初期に設計された峯風型で39ノットに達し、その4番艦として完成した初代の島風は40.7ノットという高速を記録していました。
さらに、駆逐艦の革命と言われた特型駆逐艦吹雪も、攻撃力や凌波性を飛躍的に向上させるとともに、38ノットという高速を発揮したのです。
ところが、軍縮条約の制約や、友鶴事件と第四艦隊事件の影響などにより、その後の初春型や白露型は性能向上にブレーキがかけられます。二つの事件の経験を取り入れて設計された朝潮型は船体の強度と復原性は向上したものの、速力と航続力は十分とは言えなかったのです。

島風 (2)
ブラックサーフェイサーで全体を下地塗装。

続く陽炎型と夕雲型では航続力を伸ばし、両型は速力が35ノットという点を除けば理想的な駆逐艦となりました。しかし、第一次世界大戦後のアメリカ戦艦の速力向上は目覚ましく、アイオワ級では30ノットを越えることが予想されたのです。駆逐艦は大型艦に肉薄し、搭載した魚雷でこれを沈めることが主任務だったため、魚雷を当てやすい位置に辿り着くために目標となる艦船より速いスピードが求められました。日本海軍ではおよそ10ノット以上のスピード差が必要と考えられていたため、35ノットではこれらの高速戦艦を襲うには速力が不足しているのは明らかでした。

1939年、軍令部は40ノットの高速駆逐艦の建造を要求し、第四次軍備補充計画(通称④計画)に基本計画番号F52と呼ばれる高速駆逐艦の試作艦の建造が盛り込まれました。この試作艦が、1920年に40.7ノットという高速を記録した初代の島風の名を引き継ぐことになったのです。なお、当時、初代の島風は健在で活躍を続けていましたが、二代目の建造に先立って、1940年4月に哨戒艇となり、第一号哨戒艇と改称されています。

島風 (3)
最近発売になった「舞鶴海軍工廠グレー」(TAMIYAカラー製)で塗装。リノリウムは専用ステッカーなので有難い。

高速駆逐艦として誕生した二代目島風。その速力を生み出す最大の鍵は軽くて強力な機関です。このためには、高温高圧缶(ボイラー)を使用することが理想的ですが、このような機関を実用化するためには構造、材料、信頼性などの難問をクリアーし、さらに政策には極めて高い精度が必要です。日本海軍は陽炎型で30kg/㎠、350度の高温高圧缶を採用し、9番艦の天津風には試験的に40kg/㎠、400度という缶を搭載。成功を収めていたので、島風にもこの40kg/㎠、400度の缶が採用される事になったのです。

島風 (4)
駆逐艦や軽巡のリノリウム甲板と抑えの金具の塗装はかなり厄介なので、ステッカー仕様は助かるが、慎重に作業したい。

さらに、出力は天津風の52,000馬力に対して島風は75,000馬力を発揮。戦艦大和の1/25の排水量の船体に、大和の半分にも及ぶ大出力の機関を搭載していたと言えばその高速性も頷けるでしょう。
また、魚雷発射管3基と大型機関を搭載したため夕雲型に比べて全長が約10m伸び、艦首の形状は甲型駆逐艦までのダブル・カーブ型から艦首先端を前に突き出した凌波性に優れるクリッパー型に変更されています。

島風 (5)
未塗装の兵装を仮組みしてみるました。

主砲は陽炎型と同様の高角砲兼用の12.7cm連装砲3基(計6門)うを搭載。そして、魚雷兵装は軍令部の要求では、次発分をなくす代わりに7連装という空前の大型発射装置を2基搭載し、14門14発とすることになっていましたが、連7連装発射管は動力が故障した時、人力で旋回させることが不可能なため、5連装発射管3基(計15門、15発)を搭載。陽炎型などの4連装2基(次発装填装置付き、計16発)に比べると1発少ないものの実質的には攻撃力は同等、しかも発射される61cm酸素魚雷は外国艦に搭載された魚雷に比べて圧倒的に強力でした。

島風 (6)
島風のみ採用された5連装酸素魚雷×3門。従来型の艦隊決戦ならば高速艇から繰り出される酸素魚雷は間違いなく必殺技である。

島風はまず、全力テストで軸馬力75,850馬力、排水量2921トンで40.37ノットを記録した後、105パーセントの過負荷全力テストで79,240馬力、2894トンで40.9ノット(時速換算で約75km/h)を記録しました。
初陣は1943年7月のキスカ島撤退作戦で、その後、南方へ転戦。そして、1944年10月のレイテ沖海戦ではその高速性を生かして奮戦し、最後の戦闘行動は「多」号作戦と呼ばれたレイテ島のオルモックへの兵員物資輸送作戦でした。
同年11月8日、第二水雷」戦隊旗艦として、浜波、長波、若月および5隻の輸送船と共にマニラ湾を出撃。11日午前10時、オルモック湾に到着したとき、350機というアメリカ軍艦載機の猛攻を受け、3時間にわたって激闘を繰り広げたものの船団は全滅、長波、若月も沈没し、満身に痛手を負った島風も、この日の午後5時10分、大爆発を起こし波間に消えていったのです。

島風 (7)
毎度の事ながら、空中線(アンテナ線)は納得できない仕上がり・・・(汗)。ミシン糸が使えそうなので今後は試してみたい。

海戦の主力が空母と航空機に取って変わった時代の流れと、戦況の悪化により高温高圧缶を量産することができず同型艦が建造されることは無かった島風型駆逐艦。
それでも、島風は短い生涯の間にその性能を遺憾なく発揮し、最速・最強を誇った艦隊型駆逐艦の傑作といえるでしょう。

島風 (8)
完成した島風。地上を駆ける最速のF-1マシンは美しいのと同様に海を最速で駆ける駆逐艦もそのフォルムは美しいのである。といっても最近のF-1マシンはどう見ても酷いフォルムなのだが・・(汗)


【駆逐艦島風の主要データ】

基準排水量:2,567トン
全長:129.5m 全幅:11.2m
馬力:75,000馬力
速力:計画39.0ノット 公式:40.9ノット
魚雷発射管:61cm五連装魚雷発射管3基
主砲:12.7cm連装砲3基
爆雷投下軌道2組
レーダー:22号電探1基、13号電探1基
竣工年月日:昭和18年5月10日 舞鶴海軍工廠。

島風 (9)
12.7cm連装砲と5連装魚雷発射管が下地塗装なしで本体に組み込んだのでチョッと違和感のある仕上がり・・・(汗)

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Posted on 2018/11/06 Tue. 21:35 [edit]

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大明神山の砦 (高崎市倉渕町)  

◆VS北条の最前線に新たに築城された技巧的な監視砦◆

10月20日から山城シーズンのオープン戦として群馬県富岡市周辺の山城群を踏査したのだが、最後に攻め込んだ宇田城でチャドクガの幼虫群(毛虫)の衣類を貫通する猛毒毛のステルス攻撃に晒され腹部周辺が被弾、皮膚科で全治二週間の診断となった・・・(汗)

今回ご案内するのは、そんな一筋縄ではいかないグンマ帝国で「Powerd by 真田昌幸」と伝わる対北条軍向けの小さな要塞である。

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登り口は麓にある浅間神社なので迷う事はない。


【立地】

烏川の右岸、浅間神社の裏山の大岩壁の上に造られている。浅間神社の裏側より遊歩道があり、岩山の間を縫うように10分ほど登ると虎口がありそこから堀底道に入り、砦の中心まで遊歩道が整備されている。
チョッとやり過ぎの感はあるが、遺構を大きく改変してはいないので許容範囲かと・・・(笑)

大明神山の砦見取図①
小さいながら洗練されたそのフォルム(縄張)は一切の無駄がない。

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堀切㋑に入る部分は虎口となっている。

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かなり埋まってはいる堀切㋑。掻き上げた土で土塁を作りかさ上げしているのが分かる。

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西側の斜面に竪堀となる堀切㋑。

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堀切㋒。上巾8mぐらいか。

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南尾根の最終堀切㋓。この先は尾根伝いに登ると平場になる。城の搦め手と推定される。


【城主・城歴】

この城についての史料・伝承は不明。立地や縄張から戦国末期の姿を残していることから、この地域が緊張状態にあった天正十年頃、北条氏が吾妻侵入を進めたのに対して真田昌幸が気空いたのではないか、と推定されている。
天正十年、北条氏政は厩橋城に着陣し、岩櫃城攻めを始めるが、真田方の城代矢沢頼綱が諸将を要所へ配備してこれに備えている。大戸口へ続く権田・川浦は最も侵入になり易い地であるために大いに強化されたと思われる。

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削平された場所は郭2。三日月堀のような形状の堀切㋑に対して馬出のように張り出している。

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堀切㋐。郭1への切岸はかなり厳しい傾斜であることが分かる。

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主郭に通じる遊歩道。往時は縄梯子で出入りしたものと推定される。

【城跡】

主郭は山頂にあり、周囲にところどころ土塁が残るが全周せず東側には見当たらない。北から東方面の斜面は岩崖に囲まれていいるのでその必要はなかったようだ。
一段下は横堀㋐が取り巻き、郭2が横堀㋑に突き出る形となり、武田氏の三日月掘と馬出によく似た防御ラインを構成している。
このあたりの巧みな縄張は真田昌幸が武田流を引き継いでいるようにも思えるがどうであろうか。

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北側から見た主郭。

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主郭から烏川を挟んだ対岸の権田城を臨む。北条の侵入に備えた立地であることがよく分かる。

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主郭の北側は数段の段郭が残る。

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横堀㋐の北側の処理。かなり曖昧になっている。

力で押し寄せる北条軍にはゲリラ戦で対抗するのが効果的だということは、信州における依田信蕃との共同戦線で実証済みの昌幸である。敵の動きをいち早く察知し、先手を打つためにはこのような砦をいくつも臨時に築き出鼻を挫く作戦が功を奏したのであろう。

お手軽に登れて、made in Sanada の技巧がしっかりと味わえるお勧めの砦である。


≪大明神山の砦≫ (だいみょうじんやまのとりで 駒形砦)

標高:570m 比高:90m 
築城時期:戦国末期
築城・居住者:真田氏
場所:高崎市倉渕町川浦
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:10分 駐車場:浅間神社の駐車場
見どころ:土塁、二重横堀など
付近の城跡:木戸沢番所、刀工権田屋敷、権田城、天狗山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:特に無いが、ガレ山なので足元や頭上に注意
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



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Posted on 2018/11/02 Fri. 21:26 [edit]

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郷士谷津の砦 (群馬県富岡市)  

◆ほとんどの中世城郭跡は私有地だという認識を肝に命じて欲しい◆

中世の山城や城館巡りをしていると、時々残念な表示板を目にする。

「私有地につき立入禁止」

よほどの観光地でない限り、我々が趣味で巡る場所は私有地であり、そこには必ず土地の所有者が存在する。

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郷士谷津の砦の段郭に建てられた「立入禁止」の表示板。

大抵の場所は、柵や出入り禁止のロープなどがなく地主様の暗黙の了解(ご厚意)があり、隅々まで見る事が出来る。じつはこれ、実にありがたい事なんです。
国や自治体の史跡指定を受けていなくても、地主さんが私有地を解放してくださるのは、その場所が未来に語り継ぐ場所だと承知しての大判振る舞いなんです。

今回訪問した「郷士谷津の砦」(ごうしやつのとりで)は、残念ながら真新しい「立入禁止」の標識があった。
城跡訪問者とは断定できないまでも、地主さんがわざわざ標識を立てるということは、重大なマナー違反があったのであろう。


【立地】

高田川の右岸の丘陵上の郷士谷津集落の後背の小山に立地する。城跡へは郷士谷から城内を通る林道経由で登れる。
※現在城跡へは立入禁止

【城主・城歴】

確かな事は不詳だが、里傳では稲葉筑前守が築いたとされ、稲葉氏は高田氏に関連する人物と伝わる。

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城内を貫通する林道より一段下の段郭。


【城跡】

宮坂武男氏の縄張図によれば、独立した小高い小山の頂部に主郭を設け、周囲を数段の段郭が囲み主郭背後の尾根を長大な堀切が遮断する構図である。
残念ながら立入禁止看板により実際の現地調査は叶わず推定だけである。

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従来のSNSの記事を見ても、特に出入り禁止については書かれていなかったので、最近の出来事らしい。

確かに耕作地を踏み荒らされたり、ゴミが落ちていたりすれば気分が悪くなるのは当たり前の事だ。

という訳で、今回は「郷士谷津の砦」を踏査出来なかった。いつか再び解放していただけるとよいのですが・・・。

城跡訪問時は当たり前のマナーを守る事・・・これ大事です。

出入り禁止になると、その次に訪問予定されている方々が締め出されてしまいます。お互い、肝に命じましょうネ。


≪郷士谷津の砦≫ (ごうしやつのとりで)

標高:280m 比高50m
築城時期:不明
築城・居住者:稲葉氏
場所:富岡市妙義町
攻城日:2018年10月21日
お勧め度:-
城跡までの所要時間:-
見どころ:-
付近の城跡:菅原城、神成城など
注意事項:現在は立入禁止
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)

Posted on 2018/10/28 Sun. 20:37 [edit]

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航空母艦 隼鷹 (TAMIYA製)  

◆武運に恵まれ終戦まで活躍した数少ない改装空母◆

相変わらず艦船プラモ作りに没頭する日々が続いている・・・。

「そろそろ山城へ行こうよ!!」という心の声も聞こえたような聞こえないような・・・聞こえないふりしてるだけか・・・(笑)

今回紹介するのは、商船からの改装空母ながら蒼龍クラスの高い能力を持ち終戦まで活躍した航空母艦「隼鷹」(じゅんよう)。

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特徴的な艦橋一体型の煙突を持つ空母は、隼鷹、大鳳、信濃の三隻だけで、隼鷹はその試作であった。

【艦歴】 ※TAMIYAウォーターラインシリーズNO.212航空母艦隼鷹の説明文引用。

始めから軍艦として作られた正規空母に比べれば、防御力はほとんどないと言っても良い商船を改造した航空母艦にもかかわらず、昭和17年5月に完成して以来、北はアリューシャン列島から南はソロモンまで、太平洋の各地を転戦し、いくたびもの損傷にもめげず、終戦まで活躍した航空母艦隼鷹は、武運にも恵まれた数少ない軍艦の一隻だった。

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タミヤ製は甲板の白線や紅白の標識はステッカーなどないのでマスキングテープを駆使する羽目になる。結構面倒だ・・(汗)

隼鷹は元の名を橿原丸(かしわらまる)といい、日本郵船が北米航路用に計画した大型高速客船から改造されました。今日のように旅客機が発達していない戦前は、海外旅行と言えば船と決まっており、太平洋でも、大西洋でも、各国が競って豪華客船を就航させていたのです。
当時、海国日本の象徴の一つと言われていた日本最大の海運会社日本郵船は、昭和15年の東京オリンピック開催に合わせ、昭和12年、いわゆるオリンピックボートとして新田丸、八幡丸、春日丸などの豪華客船の建造を計画したのです。
この中でも、特にサンフランシスコ航路に予定されていた橿原丸と出雲丸の2隻は、総トン数27,700トン、速力24ノットで、大西洋航路で活躍していたイギリス、フランスなどの海の女王たちにもひけをとらない豪華客船であり、完成のあかつきには太平洋の女王として君臨するものと期待を集めていたのでした。

橿丸①
※TAMIYAウォーターラインシリーズNO.212航空母艦隼鷹の説明文掲載の図を転載しています。

ところで、かねてから日本海軍は大型高速商船を戦時には特設航空母艦に改造して使用するする事を考え、浅間丸、龍田丸、秩父丸(後の鎌倉丸)などの建造にあたって政府を通じて多額の補助金を出していました。しかし、これらの客船では空母に改造した場合、大きさでも速力でも十分とは言えない為、昭和8年頃より、正規空母に近い能力を持つ特設空母ができるような超大型艦の建造を希望していたのです。
このため、橿原丸、出雲丸(のちの空母飛鷹)の建造について費用の6割を政府が援助し、そのかわりに戦時には空母に改装することで昭和13年の議会で予算が成立、早速、設計が開始されました。

この設計にあたって海軍が出した主な要求は次のようなものでした。
全長210m以上、幅25m以上、速力は公試運転、半載状態で24ノット、馬力は全力60,000馬力、正常48,000馬力、必要に応じて3ヶ月以内で空母に改装出来る事。などで、全ての面で空母に改装される事を前提として設計が進められたのです。

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船窓をドリルで加工しウェザリングで錆を表現する。

日本郵船は自社の大型客船に神社の名を付けるのを例としていました。出雲丸は出雲大社から、橿原丸は神武天皇とその皇后をまつり、神話にある建国創業の地と伝えられている橿原宮(現在の奈良県橿原市)の旧跡に設けられた樫原神宮から名前をとったものです。

こうして樫原丸の建造は昭和14年3月から三菱長崎造船所で始められました。しかし、その直後から国際情勢は悪化しはじめ、昭和15年に入ると緊張の度は一段と高まってきたため、昭和15年10月、建造中の橿原丸などを特設空母に改装することが決定されたのです。
そして翌16年1月21日、正式に海軍で買収し、6月26日、第102号艦の名で進水しました。昭和17年7月5日、太平洋の女王となるはずであった橿原丸は、その名も改め、いかめしい日本海軍の航空母艦隼鷹として完成したのです。

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後部の格納庫は結構作り込んでいるのだが、甲板を被せてしまうと見えない・・(汗)

航空母艦としての隼鷹は、公式排水量27,500トン、日本のそれまでに建造された空母の中では翔鶴級につぐ巨艦で、中型の蒼龍を上回る大型艦となったのでした。速力は正規空母と比べれば25.5ノットと低いものでしたが、他の改装空母よりははるかに高く、格納庫は上下二段式で搭載機数も常用48機、補用5機の計53機で蒼龍級に次ぎ、改装空母の中では最も多数の搭載機数を誇っていました。
飛行甲板の大きさも長さが蒼龍級よりも少し短い程度で幅は逆に飛鷹の方が広いものでした。武装も田の改造空母より強力で、蒼龍級と同様に12.7cm高角砲12門、25mm3連装機銃8機を搭載していました。この対空兵装は後に更に強化され、25mm3連装機銃が15基、2連装2基、単装27機に増やされ、12cm28連装ロケット砲6基も増設されたのです。
総合的に見た場合、速力がやや低い点、そして商船からの改造空母としての宿命的な防御力の弱さを除けば、ほぼ中型の蒼龍級に匹敵する能力を隼鷹は持ち、実際、改装空母でありながら正規空母に近い近い戦闘力を発揮し、日本海軍機動部隊の中堅として活躍したのです。

隼鷹①
日本の航空母艦における煙突と一体型の艦橋は隼鷹が最初であった。 ※TAMIYAウォーターラインシリーズNO.212航空母艦隼鷹の説明文掲載の写真を転載しています。

なお、隼鷹の艦橋は煙突と一体になっており、煙突が外側へ28度の傾斜を持っているのが特色となっている。この煙突は大鳳に利用する予定で実験中だった案をそのまま利用した物で、これを採用したのは日本の空母では隼鷹が最初でした。

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隼鷹は初陣は昭和17年6月のM1作戦でミッドウェー攻撃に呼応して3日と5日にダッチハーバーを攻撃、その後、第2航空戦隊に編入されて10月上旬にソロモン方面へ進出、ガタルカナル島攻撃、南太平洋海戦(10月24日)、第三次ソロモン海戦、(11月9日)、ガタルカナル撤収作戦などに参加。ラバウルへ派遣されて「い号作戦」に参加。そして6月、再度トラック島へ進出、飛行隊は11月上旬ブインへ派遣され、搭載機の無くなった隼鷹は8月から10月の間、シンガポールやトラック島への輸送にあたっていましたが、11月5日、沖の島付近で敵潜水艦の魚雷により損傷、利根に曳航され呉に帰還しました。

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翌19年2月に修理を終えた隼鷹は、6月19日、20日のマリアナ沖海戦に参加。第二航空戦隊旗艦として活躍した隼鷹は煙突付近に2発の命中弾を受けて修理のために日本へ帰還、修復後、ブルネイ方面への輸送任務にあたっていましたが、12月9日、潜水艦の魚雷を受け船体を損傷し、佐世保へ帰ったのです。
そして翌20年3月に修理を終えたのですが、搭載する飛行機も無く再び出撃することもないまま終戦を迎えたのです。

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【航空母艦隼鷹の主要目】

排水量:27,500トン
水線長:215.30m
最大幅:26.70m
最大速力:25.5ノット
搭載機数:常用48機、補用5機
飛行甲板:長さ210.3m 幅27.3m
完成年月日:昭和17年5月3日
工廠:三菱長崎造船所

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どんだけ空母が好きなの?とよく聞かれますが、その生い立ちと波乱万丈の生涯故の判官びいきかと・・・(笑)


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せっかくなので、最近完成した蒼龍と比較してみた。その威容は正規空母を凌駕する逞しさである。

Posted on 2018/10/16 Tue. 23:14 [edit]

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権田城 (高崎市倉渕町権田)  

◆権田淡路守が築き大戸但馬守が居城したと伝わる城◆

10月初旬の三連休だったが、山城への訪問意欲も湧かずどうしたものかと・・・・(汗)

その気の無い女子を口説いても仕方がないので、その気になるまで待つ・・・そんな心境ですかネ(笑)

今回ご案内するのは、高崎市倉渕町シリーズ第三弾の「権田城」(ごんだじょう)。

権田城 (39)
城址周辺の生活道路は狭いので、麓の東善寺の駐車場をお借りして車を捨てて徒歩で巡りましょう。

【立地】

高崎から東吾妻へ向かう草津街道(国道406号線)の倉渕町権田、倉淵小学校の裏手の丘陵上の高台に位置する。ここからは権田地域はもとより烏川流域の交通路や大明神の砦、天狗山の砦と連絡が出来る。この場所は、吾妻郡の大戸口あるいは大笹口へ通じる交通の要衝で、軍事的にも重要な拠点であった。麓の元村には刀工権田政重の屋敷跡が残る。

権田城見取図①
耕地化による改変もあるものの、往時の凡その縄張りはそのまま残っているようだ。

権田城 (3)
堀切㋐は耕運機置き場のようだが、しかっり残っている。

適当に登って城跡の標柱を見つけてひと安心・・(笑)
農作業中のおじさんが地主さんだったので、許可を頂き権田城の見学。信州上田から来たといったら驚いてましたが。

権田城 (5)
郭1と接続する長大な竪堀㋒の間に農道が通るが、本来は何もなかったはずだ。

【城主・城歴】

口碑によれば、この城は権田淡路守の居城であると言われている。その後、箕輪の長野氏に属した大戸城の大戸真楽斎の支配下に入り、権田城はその舎弟大戸但馬守が居城とした。武田軍の上州への侵攻が始まると大戸氏はいち早く武田氏に降り、真田氏の配下として大戸の要衝を守った。
武田氏が上野国の西毛地区を占領すると、大戸真楽斎は石倉の砦の守備についたり、勝頼に従って広木大仏の戦いに大戸八郎三郎を派遣している。

権田城 (6)
北側に土塁の残る主郭は40×38の方形。

天正十年(1582)、本能寺の変で信長が横死すると、上野国を支配していた滝川一益は上方に去り、北条が上州の支配を狙い岩櫃城の攻略の為に大戸へ侵入してきた。
勝頼亡き後、岩櫃城の城代であった真田昌幸の配下となった大戸真楽斎は、舎弟の但馬守と共に三ノ倉で北条勢を迎え撃つが、多勢に無勢でこれを支えきれずに大戸城まで後退。大戸城で三日間の籠城戦に及ぶが衆寡敵せず大戸真楽斎は討死し、大戸城は落城し北条勢により大改修され岩櫃城攻略の最前線の拠点となった。

権田城 (9)
郭1と郭2の間の堀切㋑は上巾12m。耕地化により埋められたようだが、辛うじてその痕跡は残っている。

大戸兄弟による三ノ倉迎撃戦で、権田城は大明神山の砦や天狗山の砦と共に防衛拠点として機能していたと思われるが、圧倒的な兵力差に為すすべもなく自落したと考えられる。

権田城 (15)
郭2から対岸の天狗山の砦と大明神山の砦を臨む。

「加沢記」によれば、北条勢に占拠された大戸城は、真田信之の奇襲により奪還されたとするが、信憑性は定かではない。
その後も東吾妻郡への北条勢の侵攻は続くが、小田原の役が勃発すると撤兵。
その後、徳川氏の北条領への転封により、大戸、権田、三ノ倉は松平近正に与えられ、三ノ倉城を居城とした。権田城はその後廃城になったと思われる。

権田城 (17)
鷹さ6mの切岸を介して郭3.

権田城 (19)
なーんだ、農地かーと思うと見落としてしまう土塁。

権田城 (20)
高さ7mの切岸を介して郭4.

【城跡】

城は上ノ久保から東は鉄火、北は高座、南は花輪に至る南北に、300m。東西最大幅150mの細長い丘陵を利用して築かれ、腰郭、空堀、土居の一部が残っている。
東西50m南北40mの本丸と、その南側の空堀と接して二の丸が続き、城の西側は急崖となっている。大手は南、搦め手は北にあり、南西には珍しい笹曲輪がある。
※標柱の説明板より引用

権田城 (24)
3と3‘は農道で分断されているが、元々は一つの郭であろう。

権田城 (12)
城域の東側には長大な箱掘。途中埋められているが、全長は200mに及ぶ。

権田城 (35)
巨大な箱掘は通路としての機能もあるようだ。北条氏による改修も考えられると思うが、どうだろうか?

権田城 (30)
郭5から郭3方面。改変が著しいが、ここらへんが城の最南端であろう。


≪権田城≫ (ごんだじょう)

標高:556m 比高:85m (国道406号線より)
築城時期:不明
築城・居住者:権田氏、大戸氏
場所:高崎市倉渕町権田
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:15分 駐車場:東善寺借用
見どころ:土塁、堀切、切岸など
付近の城跡:木戸沢番所、刀工権田屋敷、大明神山の砦、天狗山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:農耕地なので、許可なく農地に入らない事
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



権田城 (1)
東善寺の駐車場より見た権田城。

Posted on 2018/10/08 Mon. 21:09 [edit]

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