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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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菅の山城 (下高井郡山ノ内町)  

◆鴨ヶ岳城砦群の南端を守り更科峠を監視した砦◆

5月31日で移動制限の自主規制が撤廃され、関所の往来は手形不要となる。

果たしてその事が吉と出るか凶と出るかはしばらく見守るしかない。二次感染に備えるのは国民の義務かと・・・(汗)

今回ご案内するのは、鴨ヶ岳城の南端に位置する菅の山城(すげのやまじょう)である。
なんせ4年前の探訪を今頃記事にしているので、今現在を保障するものではありません・・・悪しからず・・・(笑)

菅の山城 (1)
更科峠。軽自動車なら通行できるが結構荒れている。山ノ内町側からはかなり狭くてヤバイ。遠いが中野市側からのアプローチが無難。

菅の山城 (96)
更科峠の頂上あたりから適当に北の斜面を登ると手作り誘導看板がお出迎えしてくれる。

【立地】

中野市と山ノ内町の境で、山ノ内町の佐野集落の西側の更科峠の北側の山に位置する。尾根を北西に800m辿れば鎌ヶ岳城⇒鴨ヶ岳城に通じる。尾根を南に進み山脈を越えれば高山村の山田方面に出られる。
鴨ヶ岳城の北尾根の先端にある箱山城が箱山峠を押さえて北の守りとなったように、南端の更科峠を押さえる為に築城されたと思われる。

菅の山城見取図①
主郭の前後を堀切で絶ち切り、堀切は掻き上げた土で竪土塁にしたようだ。電波塔の立つ郭5は馬出で城内の一部であろう。

菅の山城 (10)
西側から見た堀切㋒。盛土で高さを稼いでいるのが分かる。

菅の山城 (11)
堀切㋒の断面。(南側より撮影)

【城主・城歴】

詳細は不明である。
山ノ内町誌によれば、高梨一族で須毛郷の地頭であった小島氏が拠ったとされる。また、「長野県町村誌」では「間崎城」として大坂山にあって、高梨某が築いて、その臣時田甲斐守が居り、後に同氏の臣、竹腰次郎が居城したとしている。
小島氏の経歴も色々伝わっているようだが、近隣の山城との位置関係を見れば、築城の主体は高梨氏で鴨ヶ岳城、鎌ヶ岳城の南の守りを担当とした説が案外的を得ているのかもしれない。

菅の山城 (30)
郭3~郭2の間は天水溜(雨水を集めた水の手)あるいは伏兵を置いた勢溜と推定されるが、写真で表現するのは困難。

菅の山城 (31)
郭2(7×10)

【城跡】

山頂に三条の堀切を入れたオーソドックスな縄張で、防御の指向性は東の尾根伝い。そこには馬出を入れている。
郭3と郭2の部分はかなり面倒な造りだが、雨水溜による水の確保が目的のようにも思える。
立地から考えても、高梨氏の詰城の鴨ヶ岳・鎌ヶ岳城を防衛するための南の出城であろう。

菅の山城 (33)
城域最大の幅を誇る堀切㋑(上巾11m)

菅の山城 (34)
南斜面に竪堀として落ちる堀切㋑。堀切左右の土手が竪土塁状に加工されているが、掻き上げの土砂を当てただけであろう。

菅の山城 (40)
主郭背後の堀切は極めて鋭利な刃物です・・・(笑)

菅の山城 (46)
29×12の長方形の主郭には祠が建つ。

菅の山城 (48)
上巾8mの堀切㋐。

高梨氏の詰城である鴨ヶ岳・鎌ヶ岳城とほぼ同時期の遺構であろう。
この地域の山城は、峠を取り込むまたは監視する部類の山城が数多く点在する。甲越紛争における北信濃の戦いは、ある意味上杉謙信の退却退路確保に心血を注いだようにも思える。

これは小生が現地の山城を歩いて感じた直感である。謙信の野望はやはり関東管領であり、甲越紛争は北信濃の国人を家来に組み入れ臣従させるための空手形だったと・・・。

菅の山城 (55)
郭4(12×13)

菅の山城 (72)
馬出と呼ぶのも気が引けるが、一応城内と推定される郭5.

菅の山城 (75)
現在は電波塔の立つ5郭。

菅の山城 (82)
郭5の周辺にも、段郭の跡が見られる。

≪菅の山城≫ (すげのやまじょう 菅城・間崎城)

標高:710m 比高:125m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下高井郡山ノ内町寒沢
攻城日:2016年1月11日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:C(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:更科峠より15分
駐車場:無し
見どころ:堀切、竪土塁、郭など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編 宮坂武男著」
付近の城址:鴨ヶ岳城、鎌ヶ岳城、箱山城など

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山ノ内町の麓から見た菅の山城。

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Posted on 2020/05/31 Sun. 21:39 [edit]

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鼻見城 (上水内郡飯綱町三水)  

◆眺望に優れる芋川氏の山城◆

「緊急事態宣言」という曲を「関白宣言」でお馴染みのさだまさし氏に依頼するという話があったが、本当だったのだろうか?

それよりも、ACジャパンの「にゃんぱく宣言」がデモテープをそのまま採用して正式なレコーディングをしていないというエピソードを、さださん本人がラジオで話をしていたのを聴いてビックリした・・・(笑)

今回ご案内するのは、のちに上杉家の代々の江戸家老にまで昇りつめた北信濃の国人芋川氏の山城「鼻見城」である。

IMG_1653.jpg
東側の麓から遊歩道があるようだが、北側の道路から城跡の手前まで林道で入れるようだ。途中案内看板がある。

【立地】

上水内郡の旧三水村(現在は飯綱町)芋川地区の後背の鼻見城山(723m)のピークにある。野尻湖の南南東約3kmで、斑尾川に沿った平地が開けて古くから肥沃の地であったようだ。芋川は野尻と飯山を結ぶ最短コースの交通の要衝にあり、甲越紛争の際には武田も上杉もこの場所を重要視している。
山麓には芋川氏の居館があり、北北東2kmには芋川氏の本城である若宮城がある。

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郭3(現地説明板では郭2)には復元された井戸がある。主郭は公園化による改変で切岸の一部が変形してしまったようである。

鼻見城見取図①
東西に細長い山頂を堀切で分割し両脇を削平しただけの簡素な縄張である。

【城主・城歴】

芋川氏の初期の要害城として築かれたものであろうと推定されている。北信濃の豪族(国人)である芋川氏の経歴については、その後掲載を予定している「芋川氏館」で詳細を述べたいと思うが、芋川氏が一躍有名となった事件は、武田征伐後に信長の命により川中島四郡の領主となった森長可に上杉景勝の後ろ盾を得て反乱を企てた「芋川の乱」であろう。
※詳しくは過去記事を参照願います。

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主郭の説明板と秋葉社

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公園化による整備で東屋が建てられている。

【城跡】

城址に立つ説明板には、主郭とその北側の復元井戸が建つ郭の二つで構成されているように描かれているが、見取図で示す通り、頂部の尾根を堀切で分割し、頂部を主郭とし、西側を郭2(副郭)とみているが削平が不完全なために地山とされている。

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主郭と郭2の間の堀切。堀切というよりは単純に郭を区画するためのもので、竪堀にもなっていない。

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堀切南側の郭4。

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郭2。人工的な削平があまりみられないので、地山と言われても仕方ないか・・・。

驚いた事に、郭3には井戸が復元されている。宮坂武男氏が指摘するように、このような標高の高い場所の山城に掘抜き井戸は考えにくく、雨水を溜めるいわゆる「天水溜」の穴だったと思われる。
また、北側斜面は比較的傾斜も緩いので、馬による荷駄の運搬も行われていただろうと推測されている。

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お気持ちは分かりますが、この程度の山城にこのような立派な井戸は不要かと・・・(汗)

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郭3から見た郭1との切岸。古いタイプながらもしっかり削ってます(笑)

地元の教育委員会では、鼻見城は芋川氏の本城である若宮城を補完する副城であろうとの見解が述べられていました。
なるほど、城址からのロケーションは素晴らしい。善光寺平から野尻口方面を監視するにはうってつけの場所だということがこの場所に立つと分かります。

IMG_1650.jpg
最終的に芋川氏は表面的には武田信玄に降るが、その立地条件ゆえに上杉謙信にも通じていたのであろう。

≪鼻見城≫ (はなみじょう)

標高:722.7m 比高:185m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上水内郡飯綱町三水芋川
攻城日:2017年5月28日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:C(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:北側の林道駐車場所より10分
駐車場:林道のどん詰まりに2台ぐらい可
見どころ:堀切、切岸、井戸跡、眺望
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」、芋川氏館発掘調査報告書(三水村教育委員きあ)
付近の城址:芋川氏館、若宮城、矢筒城など


Ⓢは城跡に通じる林道への分岐点。軽自動車なら何とか通行できる。Ⓖは駐車場。オフロードならその先まで行ける。


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飯綱町庁舎付近から見た鼻見城。

Posted on 2020/05/20 Wed. 20:13 [edit]

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関屋城 (長野市松代町豊栄)  

◆地蔵峠越えの松代街道を監視した砦か◆

先月から休日は自宅軟禁中(?)なので、プラモ製作数とかブログ記事の更新回数が伸びても良さそうなものだが、天邪鬼っぽい思想なので「それは違うだろう・・・」という訳の分からぬ回答となる・・(笑)

10年前の長女の結婚式と披露宴のDVDを見ながら、夫婦で涙腺崩壊しているのが正しい「Stay Home」なのだと思う・・(笑)

今回ご案内するのは、北信濃の川中島城砦群の一つであろうと伝わる関屋城(せきやじょう)である。

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主郭背後の見事な大堀切(南側)

【立地】

長野市松代町豊栄(まつしろまちとよさか)の関屋集落にあり、城址の東側は上田市の真田町へ通じる松代街道の地蔵峠の入口を抑える場所にある。明徳寺の南、小沢2つを隔てた300mの位置で、集落のある関屋川(蛭川)に面して急崖になっている。

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大堀切の北側は長大な竪堀となって沢を刻んでいるが、産業廃棄物の不法投棄で困った事になっているようである。

関屋城見取図①
主郭背後の土塁は崩されたが、主郭と一段下の段郭で構成された古いタイプの縄張りであろう。

【城主・城歴】

神氏(みわし)の関屋氏が代々拠った所とされる。関屋氏は諏訪大祝の後裔で、平安時代より松代地方を領した豪族であったが、明徳(1492~1500)以後、村上氏のために滅ぼされたと言われている。
その後の城主は不明だが、地蔵峠を越える街道の海津城の裏口を守るには良好な位置にあるので、見張り兵が置かれた可能性はあると思う。

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この農道は主郭背後の土塁を破壊した時に周回用として新たに造られたようである。

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東側から見た土塁跡。一見すると櫓台の郭のように見えるが、元々は主郭を目隠しするように高い土塁があったと推定される。

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尾根先を切断し北側に落ちる竪堀が斜面を遮断している。(上巾18m)

【城跡】

城址一帯は耕作地化され、現在は植林で大きく変貌してしまい往時の遺構を観察するには難しい状況となっている。
尾根先の舌状台地が主郭で、一段下に囲むような段郭が置かれ、尾根の根元は一条の大堀切で切断されている。
主郭とその下の郭の南側は石積みの切岸になっているが、これは近年の耕作地化による土留めであろう。また、北側斜面に数段の帯郭のような平場が数段あるが、遺構とは関係ないようだ。

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主郭内部(35×20)

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主郭南側の石積み。崩落留めで積まれたようで、三段で構成されている。城の遺構ではない。

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松代周辺は石積みの城が多いが、これは時代が新しいと誰もが気が付く。

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この帯郭は城の遺構のような気がするが・・・。

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主郭の先端から見下ろした段郭。

元々は在地土豪の要害として造られたようであるが、麓の屋敷等の場所は布目だという。宮坂武男氏によれば、この辺りには未だ見発見の砦が2~3あると伝わるが、場所の特定には至っていないという。

関屋城の正面には武田統治時代のノロシ山が良く見える。が、その高さゆえに、普段は麓の関屋城が活用されたようにも思うのだが、どうであろうか・・・。

ノロシ山①
関屋城から見たノロシ山。天候に左右される狼煙台は、麓の砦から次の砦へ銅鑼や鉦叩きで伝える方法が主流だったとも・・。

≪関屋城≫ (せきやじょう)

標高:510m 比高:45m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市松代町豊栄関屋
攻城日:2017年4月16日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:関屋集落から10分 
駐車場:無し (明徳寺の裏道経由で城までの農道は道が荒れているので、道路脇の南側の堀切から直登するのが良い)
見どころ:堀切、主郭、土塁跡など
注意事項:特に無し
Special Thanks to ていぴす殿
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」
付近の城址:ノロシ山、清滝城、尼巌城など

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地蔵峠へ向かう豊栄保育園側から見た関屋城。


集落側の南堀切出口から登るのが早いが、耕作地を進むので地元の方にはしっかり挨拶しよう。

Posted on 2020/05/11 Mon. 20:41 [edit]

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0504

髻山城 小城 (長野市若槻西条・飯綱町))  

◆髻山城の東南を守る出城◆

毎年恒例の山城トップシーズンの店閉まいとなるはずはずだったGWは、「Stay Home」で終了のゴングが鳴る。

「臥薪嘗胆」そして「捲土重来」を誓って後詰めを待ち続ける高天神城の籠城戦である・・・勝頼さん、見殺しにするなよ!(笑)

今回紹介するのは、存在自体知る人が少なく訪れる人無き髻山城の小城である。

小城位置
髻山城の南東に位置するのだが、案外訪れる人はほとんどいない・・(汗)

髻山城の記事自体も10年前の昔の記事なので、リテイクせにゃあかんと思っているのだが、その為にはもう一度現状を取材しないといけない・・・。不要不急の外出制限発令中につきいましばらくお待ち願いたい・・・(汗)

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髻山城の主郭から見た小城。信玄は長沼城との連携も視野に入れて対上杉の要害としてこの山城を重要視していたという。

【立地】

髻山城(もとどりやまじょう)の本城は、長野市と飯綱町の境にある三登山(みとやま 標高923m)の東端の髻山(標高744m)に位置し、小城は髻山城の山頂から南東300mのj標高674mの小山にある。今回は別途に掲載しているが、本城と小城で髻山城と総称されている。この山は元々火山なので、小城のある山も派生して出来た山だと推定されている。

髻山城小城見取図①
本城の技巧的な改修工事に比較すると手はあまり入れられていないようである。

髻山城小城 (32)
鞍部から比高50m程度なので迷う事はないが、久々に感じた不気味な感じはなんだったのか?(汗)

【j城主・城歴】

詳細はリテイク記事の際に記載したいと思うが、元々は北信濃の在地土豪の城で甲越紛争が勃発すると上杉方に与して戦い、紛争が長引くと上杉に譲渡され善光寺平の背後を守る城として葛山城、大峰城などと連携しながら甲軍に備えたとされる。
しかし、永禄四年以降は善光寺平は武田の支配下となり、髻山城も武田方に帰属したものと思われる。

髻山城小城 (34)
北斜面の竪堀。掻き上げ土塁のようだが、現状では確認出来なかった・・。

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頂部からは数段犬走のような細い腰郭が周回する。

【城跡】

頂部の22×19の主郭には土塁の囲みは確認出来なかった。宮坂図では北斜面に塹壕のような竪堀が示されていたが、髻山城の本城ほどはっきりしたものでは無い。改修中に放棄されたのであろうか。
一段下に犬走のような郭が周回するが、植林作業時の作業道のようでもあり判断が難しい。

髻山城小城 (16)
主郭。

髻山城小城 (17)
主郭の周囲は土留めの石積で囲っていたようだが、遺構との判別が難しい。

髻山城小城 (11)
南斜面の段郭。削平が曖昧。

髻山城小城 (24)
宮坂図にある西斜面の竪土塁を懸命に探したが見当たらなかった・・・俺の目は節穴らしい・・・(笑)

髻山城の本体に比べると加工度も低く、甲越紛争の初期に上杉方が出城として簡単に手を入れた程度であろう。それに、比高差は約80mあるので、連携も結構大変だと思われる。直接の連絡通路は採石場により破壊されてしまい、現在は東の大手道にまわるか、西の山裾を回り観音清水のある場所からしか本体に登れない。

髻山城小城 (33)
頂部からの展望は無理なので、登り口からの風景。


≪髻山城 小城≫ (もとどりやまじょう こじょう)

標高:674m 比高:175m(北国街道より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市若槻西条・飯綱町
攻城日:2016年5月5日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:鞍部から10分 駐車場:無し (狭い農道なので路駐厳禁)
見どころ:主郭の土塁、堀切など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」
付近の城址:髻山城、若槻山城、三日城、矢筒城など



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髻山城遠景。(小城の遠景を探しましたが見当たらかったので悪しからず・・・汗)

Posted on 2020/05/04 Mon. 09:49 [edit]

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0430

下の城 (上伊那郡宮田村中越)  

◆天竜川を眼下に望む館城◆

国難に臨む姿勢としては基本「Stay Home」である。ワクチン開発という後詰めを待ちつつ「臥薪嘗胆」(小生の好きな言葉・・なんで?)

「神は乗り越えられない試練を与えない」このことである。春の選抜野球やインターハイを涙ながらに見送った高校生諸君の痛みに比べれば、山城探訪を我慢する事など取るに足らない。

さて、今回ご案内するのは上伊那シリーズ宮田村の「北の城・下の城」の下の城(しものじょう)である。

北の城・下の城(宮田村) (33)
北の城橋から天竜川南方面を撮影。

【立地】

下の城は、前回ご案内した北の城の南約200mに隣接しやはり天竜川の絶壁の上にあり、南には小田切川に続く台地に接している。北は大沢川が天竜川いそそぐ谷に面した天然の要害の位置に立地している城館跡である。
行き方は、北の城の駐車場から南曲輪沿いに遊歩道が設置されているが城跡は藪が酷いので細部の観察には難がある。

北の城・下の城(宮田村) (39)
耕作地脇の畦道を南に歩いて行きます。

北の城・下の城(宮田村) (77)
大沢川に架かる吊り橋を渡るとそこから城域になります。

下の城見取図①
天竜川の断崖を利用した館城である。

北の城・下の城(宮田村) (43)
リバーランド天竜公園の遊歩道が城の南端を通るが、近年は歩く人も絶えたようで歩道の両サイドは藪で荒れ放題。

【城主・城歴】

北の城の中越氏を参照願います

北の城・下の城(宮田村) (46)
郭3の南を遮断する堀切㋒。天竜川に落としている。

北の城・下の城(宮田村) (43)
郭3方面への突入を諦める・・・(汗)

【城跡】

今回は藪が酷くて郭3の周辺や細部の観察がままならなかったが、主郭の周囲は土塁がめぐらされてその外側には閉口して堀が設けられている。室町時代中期の形式の名残りを留めているこの構造は、堀底から見上げた土塁の比高が通常の倍にある。西側の土塁中央部には、大手(虎口)の位置ではないかと思われる切込が見られる。その西側には堀が南北に設けられている。
また、主郭の南側には幅の広い堀を隔てて郭2が造成され、さらにその南を堀切で遮断している。主郭の西側にも郭4があったと想定されるが土地改良工事により変形してしまったようである。城上の井という湧水が湧き出る沢を天然㋔堀として城域の西を防御したものと思われる。

北の城・下の城(宮田村) (52)
主郭(52×48)。さすがにここへは突撃したが、藪で細部が捕らえられない・・写真も無理だ・・(汗)

北の城・下の城(宮田村) (54)
主郭南側の堀切㋑。

北の城・下の城(宮田村) (58)
郭2(41×15)

北の城・下の城(宮田村) (56)
郭2の南を遮断する堀切㋐。(上巾5m)

北の城・下の城(宮田村) (62)
城域西側の郭4との接続部分

北の城・下の城(宮田村) (64)
主郭の虎口付近から堀切㋓に沿って北側。堀切㋓は「城上の井」の沢と連結するようである。

北の城・下の城(宮田村) (75)
主郭土塁の切込み。ここが大手(虎口)だと想定される。主郭内を探索するには藪漕ぎする度胸と装備も必要。

まあね、これほど酷い藪城とは思わないで訪問したものですから・・・(笑)
伊那方面は冬に行っても藪漕ぎが当たり前なので・・・だからといって夏の終わりに行く事ないでしょうに・・・(汗)

北の城・下の城(宮田村) (66)
城の水の手と伝わる「城上の井」。井戸ではなく湧水だったようで、流れ落ちる沢が天然の堀切を刻んでいたようである。

5年前の記憶を辿りながら記載する記事は、まず写真を見ながら「ここはどこ? 私は誰?」状態からスタートする・・・(笑)

おぼろげな記憶のある場所はなんとかなるのだが、記憶喪失の場所もあるのでこの先不安は尽きない・・・(汗)


≪下の城≫ (しものじょう)

標高:610mm 比高:20m(天竜川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡宮田村中越
攻城日:2015年9月22日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:主郭の土塁、堀切など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:下の城、中越館、塩田城など

北の城・下の城(宮田村) (32)
北の城端から見た下の城方面。




Posted on 2020/04/30 Thu. 20:27 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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