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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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大草城 (上伊那郡中川村大草沖町)  

◆南朝に誠心誠意を尽くした香坂高宗の居城◆

amazonプライムビデオで、「どろろ」の2019年アニメのリメイク版の全話を見終えた。結構画像がグロいのでR18指定である。

原作はあの神様仏様の手塚治虫である。1967年から約1年少年サンデーに連載され、1969年にモノクロでテレビアニメ化された事は子供ながらに覚えていたが、物語の内容はすっかり忘れてしまい、記憶にあるのは、あのエキセントリックな歌詞の主題歌だけである・・・(笑)

物語の舞台は戦国時代の初期なので、山城マニアには時代背景に共感しながら鬼神との戦いを実感出来るかと・・・。

今回ご案内するのは、南北朝時代における南朝方の信濃の英雄「香坂高宗」の居城と伝わる大草城。

大草城(中川村) (2)

【立地】

大草城は、天龍川の左岸にあり、深沢川を利用した丘陵に位置している。本丸を中心に、北方と西方に出丸があり、堀が本丸の北、東、西にあった。
また、本丸の南は、深沢川によって深さ40m~50mに切られており、天然の要害と言える。しかし、現在は一部本丸部分にその面影を残しているが、大草城址公園として整備され、村民の憩いの場になっている。

大草城見取図①

【城主・城歴】

ここ大草城址は、南北朝時代の後醍醐天皇第八皇子宗良親王にゆかりのある所である。宗良親王は、南朝方の勢力拡大のために各地を転戦していた。興国四年(1343)、信濃の宮方を頼って、大河原(大鹿村)の香坂高宗のもとに身を寄せた。
香坂高宗は、当時大河原・鹿塩・四徳・大草に勢力を張っていた。そして大草城に住みひたすらに親王に仕えた。

親王が大河原城を拠点に活動出来たのは、天龍川東地域に香坂氏をはじめ藤沢氏・頃河内氏・中沢氏・知久氏の宮方を支える豪族がおり、更に諏訪氏へと繋がりがあったからである。

大草城(中川村) (3)
本城には東隅に石組みの上に東屋が造成されているが、公園化による造作物で往時の遺構では無い。

大草城(中川村) (5)
東屋から見下ろした本城。往時は周囲が土塁で覆われていたと思うが、取り払われてしまっている。

以後三十年余、この地を中心に各地を転戦したので、「信濃宮」「大草あの宮」「信州大王」と呼ばれた。また親王は歌人としても名高く、「李歌集」に「わが世をありやと問はば信濃なるいなとこたえよ峰の松風」「君のため世のためなにか惜しからんすててかひある命なりせは」などという歌を残している。

大草城(中川村) (6)
西に突き出す形の郭2(西城)。防御性も高く、展望もよいので城主の居館が可能性が高い。

大草城(中川村) (8)
本城と西城の間には堀切(西ノ堀)があり、埋められてしまったという。

戦国期には、伊那の諸族と同様に武田氏に属していたらしい。
天正十年(1582)、織田信長が本能寺で不慮の死を遂げた時、伊那谷は徳川氏と北条氏との勢力の争いの場となった。
いち早く行動に移したのが徳川方の下条頼安(兵庫介)で、伊那の諸氏に家康に対して忠誠を尽くすという起請文を出させている。
その中に大草休斉(香坂氏)の名もある。

大草城(中川村) (7)
郭2(西城)から見た本城と切岸。

【城跡】

公園化による改変でかなり壊されてしまい堀なども埋められてしまったが、雰囲気はそれなりに何とか感じられるのが救いであろうか。見取図にも描いているが、本城、西城、外城の大きく3つの郭から成る堅固な城で、西城と外城の間は堀で遮断されていたと思われる。
発掘調査報告書によれば、西城からは、天目茶碗、中国青磁、茶臼等が発見された。また外城地区からは掘立柱建物址9棟、鍛冶場が検出され、鉄鏃、刀の飾り金具、槍先破片、ろくろ、鎌などが出土したという。武具の修理の場と推定されるものの、中国青磁や陶磁器も発見されているという。

大草城(中川村) (13)
本城の南下の斜面には郭4で古城と呼ばれる郭がある。

大草城(中川村) (15)
本城の南東の公園と駐車場は後世の造成なので、城の遺構では無い。

大草城(中川村) (21)
現在は駐車場となっている郭3(外城)。武具や武器の製造・修理の職人たちの小屋が林立してたのであろうか。

光明天皇を擁護する足利尊氏の北朝(京都)と、吉野に遷宮し皇位に執着する後醍醐天皇が南朝として抗争を繰り広げた56年間を南北朝時代と呼ぶ。

後醍醐天皇の第八皇子として南朝方の東国平定の任務を負った宗良親王(むねながしんのう・むねよししんのう)が、南信濃の国衆である大草城と大河原城の城主であった香坂高宗に招かれ、大河原城に征東府を置き、三十有余年を過ごしたという大鹿村の城址の数々は、我ら信濃先方衆が心血注いで訪問しブログに掲載したので、是非ご覧いただきたい・・・。

大草城(中川村) (20)
郭3(外城)より見た郭2(西城)の険しい切岸と深い谷。

≪大草城≫ (おおくさじょう)

標高:604m 比高:65m(深沢川より)
築城年代:不明
築城・居住者:香坂氏
場所:上伊那郡中川村大草
攻城日:2015年9月22日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分けではeasy)
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:郭、堀形、切岸など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:あら城、大草休斉館、葛島城、前沢城など



大草城(中川村) (11)
宗良親王の為に鬼神になることすら厭わない香坂高宗の忠誠心にはひたすら敬服。
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Posted on 2020/03/10 Tue. 22:20 [edit]

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船山城 (上伊那郡中川村片桐)  

◆時代の変遷により大きく2区画に分かれ拡張された河岸段丘の城◆

未だ掲載出来ずにいる過去の大量の取材写真をどうするのか?というのは結構悩ましい問題である。(⇐もちろん、管理人の怠慢によるものであるのは言うまでもないが・・・汗)

さすがに10年以上前の現地調査における写真は、現在の遺構の状態とかけ離れているケースが想定されるのでブログ記事として掲載するのは難しいが、5年前ぐらいなら一言注釈を入れればお赦し戴けると思うし、山城にも詫びが入れられるかと・・(笑)

そんな言い訳を語りつつ、今回ご案内するのは、上伊那地方の河岸段丘の城を代表する「船山城」(ふなやまじょう)。

船山城① (1)
長野県史跡に指定されている船山城跡。指定史跡なのに駐車場が無いのは長野県独自の文化かもしれない・・(汗)

【立地】

天竜川の右岸、上伊那郡と下伊那郡の境界上に位置している。(具体的には中川村と松川町の境界線)この場所は天龍川の氾濫原に面した段丘の先端部にあたり、南側には南沢の浸食谷があり天然の要害である。その形があたかも船を山の上に置いたような地形から、古くから船山城と呼ばれている。

船山城見取図①
中央の堀切㋒を境として城の成立時期が2区分に分かれる。

船山城① (58)
御射山神社の鳥居脇の貯水池は堀切㋐の一部で三日月堀の名称が伝わる。この辺りに城の大手門があったという。

【城主・城歴】

船山城についての詳細は不明だが、片切郷の中心部にあり、城の造りや付近の地名などから、平安時代の末期よりこの地方に勢力を持ち、多くの支族を分派させた片切氏の居城と考えられている。
片桐氏からは、名子氏、大島氏、飯島氏、赤須氏、上穂氏、岩間氏、葛島氏、前沢氏、座光寺氏などの諸氏が近郷に分知してそれぞれに居城を構えている。

船山城① (31)
二の丸は現在果樹園や畑などの耕作地となっている。本丸と二の丸は「城畑」と呼ばれている。

伊那谷に勢力を伸ばした片切氏であったが、戦国時代に入り武田氏が伊那に侵攻してくると、伊那衆は鈴岡城の小笠原信定の元に抵抗するものの、各個撃破されやがて武田氏の支配下に組み込まれていった。片切氏とその一族も伊那春近衆として秋山信友の配下となり、三河、遠江、美濃方面へ遠征したり大島城の修築工事にも従事した物と思われる。
天正十年(1582)に武田氏が滅亡するとともに船山城も廃城になったものと考えられている。

船山城① (25)
本丸との間の堀切㋑は南側のみが残るが、堀切に墓所が置かれ残念な事になっている。

船山城① (29)
北側の堀切㋑は埋められてしまい痕跡も残らず。

【城跡】

城跡は大きく二つの部分に分けられる。その一は㋒の堀よりも東の1・2・3の郭の位置するいわゆる「出丸」とと呼ばれる砦部bンと、その二は西側の「城畑」と呼ばれる本丸・二の丸の広大な居館部分である。
堀で台地上を分割して、五つの郭が並んでいるが、先端の三つの砦部分の郭は船山の名が生まれた所で、両側が急崖に護られていて堅固な要害である。

船山城① (22)
本丸(西側より)

船山城① (23)
本丸の先の堀切㋒から先のエリアは「出丸」と呼ばれる砦群で、船山城の初期と考えられている。

船山城は、最初は東半分の部分が造られ、居館は山下の田島平になり、㋒の堀中を登ったものと考えられている。その後、上段の台地の開発が行われ、本丸、二の丸の部分が造成され居館もそちらに移動して、城下も西側の台地上に移り、城の大手も西側に変遷したものと思われる。

船山城① (35)
堀切㋒。通路以外は藪が酷く堀の形状の把握は難しい。朽ちそうな「出丸」の標柱がお出迎え。

船山城① (8)
堀切㋒の本丸側には土留めの石積が確認出来る。

●郭3
全長100m、最大幅28mの細長い三角形の郭で、堀切㋒側は盛土して土塁が築かれて防御を厳重にしている。

船山城① (3)
背後の土塁上には稲荷社が祀られている。

船山城① (5)
郭3の内部。藪が酷くて・・・これでも県指定史跡なのでしょうか・・・(汗)

●郭2
最大幅12mの細長い郭で、北側は土塁を削り残して一騎駆けの痩せ尾根として堀切㋓で断ち切る。

船山城① (42)
堀切㋒。(上巾15m)

船山城① (48)
堀切㋓は城域最大の上巾21mを誇る。

船山城① (10)
郭2の中心部。

●郭1
船山城の初期の主郭。最も早く造られたもので、次第に郭2、郭3と拡張され、根小屋式の山城が形成されたものと考えられている。背後を上巾11mの堀切㋔で遮断している。両辺に土塁痕が残り、そこに船山稲荷神社が勧進されている。47×16mの楕円形で、北側の尾根筋に麓へ通じる道がありここに虎口が開いている。麓の先端は二条の堀切で絶ち切っている。

船山城① (15)
堀切㋔(上巾11m)

船山城① (17)
郭1。(47×16)

船山城① (20)
背後の土塁には船山稲荷が勧進され、県指定史跡の標柱、説明板が建てられている。

船山城① (50)
郭1の北側に開く虎口。当初の麓の居館との通路だったのであろうか。

船山城① (21)
東斜面を守る堀切㋕。


≪船山城≫ (ふなやまじょう 県史跡)

標高:357m 比高:80m (国道より)
築城年代:不明
築城・居住者:片切氏
場所:上伊那郡中川村片桐南田島
最新攻城日:2015年9月22日
お勧め度:★★★☆☆
本城までの所要時間:-
見どころ:堀切、土塁など
駐車場:無し。御射山神社脇に路駐。
付近の城館:前沢城,葛島城、大草城など
参考資料:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)


Ⓢは御射山神社。この脇に路駐。

しかし、5年も前の写真を見ても「ここは何処?あたしは誰?」状態・・・(笑) 記憶を辿るだけで1時間もかかる有り様。
「おお、Googleストリートビューがあるじゃん!」と思いついたが、農道までは入ってくれない・・・(汗)

「鉄は熱いうちに討て打て!」 その通りです(笑)

船山城① (2)
入口の説明板に見取図を書いておかないと、誰も先端の城跡まで辿りつけないと思うのだが・・・(長野県教育委員会殿へ)

Posted on 2020/02/23 Sun. 13:13 [edit]

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小山城 (山梨県笛吹市八代町)  

◆小山穴山氏の築城にして、天正壬午の乱で鳥居元忠が配備され徳川が改修したと伝わる城◆

twitterのフォロワーさん以外の読者の方々には、一ヶ月もブログを放置すると死亡フラグが立ちそうなので、気力を振り絞ってテキトーに更新したいと思います・・(⇐、おいおい、それはそれで失礼だと思うが・・・笑)

今回ご案内するのは、5年前の信濃先方衆甲斐遠征で未だ掲載していない小山城。甲斐の城館もなかなか魅力的で大好きです。

IMG_1031.jpg
城址碑ファンには堪らないであろう重厚感のある石碑。

【立地】

笛吹川の支流、天川の浸食によって形成された段丘上に記事かれた城である。北側に鎌倉往還(御坂路)、南側に若彦路が城の南北を通り、交通の要衝にある。これらを抑える目的で築城されたと推定される。

IMG_1030.jpg
説明板のある東側の虎口。まずはその巨大な土塁に圧倒される。

小山城③
道路によって改変されたもののよく形態を留めている東側の堀。

【城主・城歴】

築城者や築城年代ははっきりしないが、「甲斐国志」(かいこくし)は穴山伊豆守の居城として記録している。穴山氏は巨摩郡穴山を本拠とする武田一族で、穴山義武が祖とされる。

穴山伊豆守は宝徳三年(説明板には二年)に、小石和に居館のある甲斐守護の武田信重(伊豆守の従兄弟)を襲って敗死させるも、成敗されたという。その後小山穴山氏は信重の子の信介の弟基経が継承している。

小山城(笛吹市) (6)
南側の隅の土塁の上には徳川軍の改修により櫓台があったと推定されている。

永正の頃(1504)、穴山伊予守信水が住し、大永三年(1523)三月、鳥坂峠を越えて攻め込んできた南部下野守と花鳥山で戦うが敗れ、小山城に籠城するも利あらず、二之宮の常楽院で自刃したという。(甲斐国志) 
その後小山穴水氏の動向が確認出来ないので、小山城の穴山氏は滅亡したと思われる。小山城を接収した南部氏は天文17年(1548)に武田晴信により罪を得て城を捨て廃城になったと現地説明板にあるが、定かではない。

小山城見取図(笛吹市)①
現在残る姿は方形居館そのものだが、東を除く土塁の三隅は大きく堀に張り出し櫓台があったと思われる。

小山城が再び記録に登場するのは、天正十年(1582)に勃発した天正壬午の乱である。本能寺の変後、武田の旧領は北条、徳川、上杉の三つ巴nの草刈り場の様相を呈した。

当時の甲斐は、北条軍が都留郡全域と北巨摩の八ヶ岳南麓の七里岩台地上に侵攻しこれを制圧。徳川家康はこれに対して、新府城や能見城などを拠点に北条軍に対抗したが、この時都留郡の北条軍の動向を監視したのが小山城であったと伝わる。

小山城(笛吹市) (12)
西側より見た南櫓台と堀。叩き土塁と張り出した形状、堀は拡幅された様子が確認出来る。

徳川家康は、小山城に重臣鳥居元忠を派遣し、騎馬130騎、雑兵600人を配備したとしう。(騎馬武者1名に徒歩兵4名だとしてざっと1200名か?)
城将の鳥居元忠は、八月十二日、御坂城を出陣し、甲府攻略を明座して鎌倉往還を下りてきた北条氏忠ら一万余人を、この小山城から出て迎え撃ち撃破している。
その後、北条と徳川が和睦するに及び、天正壬午の乱が終結すると、小山城はその役目を終え廃城になったものと思われる。

小山城(笛吹市) (14)
堀の幅の違いから徳川改修時には南側の虎口が大手と推定されているが、耕作地への改変により往時の姿は見えない。

小山城(笛吹市) (15)
徳川改修時代の大手と呼ばれる南側の虎口から館内部。

小山城(笛吹市) (18)
南面の堀切は徳川により幅を広げて掘り下げたものであろうか。

【城跡】

現存する城跡は単郭の方形館である。発生からして小山穴山氏の城館として築城されたもので、それが天正壬午の乱の時に、土塁や堀の強化が行われたばかりか、駐留する兵の数から付近にも外郭を増設した形跡がある。
北東部の堀形や岬状に突き出た一角や西側の部分、南のあたりはその時に強化された所であろう。
また、土塁の北東隅を除く三隅は櫓台として改修されて実際に櫓が建てられたものと思われる。

小山城(笛吹市) (22)
南側の堀切は土塁によりかさ上げされている。

小山城(笛吹市) (24)
東屋の置かれる西側の櫓台址。血気盛んな鳥居元忠軍の雄叫びが聞こえそうである。

土塁内の広さは東西67m、南北55mで広いとは言えないが、堀幅は上巾16mから22mを数え、土塁の外側斜高は10mから13mもあり、実に雄大豪壮である。
この規模は勝沼氏館の復元されたものを遥かに上回るもので、天正壬午の乱における徳川勢の修築によるものと考えられる。

小山城(笛吹市) (25)
これだけの遺構をよくぞ現在まで伝えていただき、感謝感謝でございますw

小山城(笛吹市) (29)
西側の堀と土塁。千名の兵士の収容には西側の台地も宿営地として活用したと思われるがどうであろうか。

小山城(笛吹市) (35)
方形居館を戦闘の城に大規模改修するとこうなる!!という見本です。

小山城(笛吹市) (41)
とはいえ、切岸の美しさにはハッとさせられますw

小山城(笛吹市) (44)
小山城の北側の堀と切岸。

小山城(笛吹市) (46)
徳川の土の城の特徴である叩き土塁。さりとて断定はできませんネ(笑)

小山城(笛吹市) (51)
北隅の櫓台にある東屋。朽ち果てるなら無用の長物かと・・・。

小山城(笛吹市) (61)
小山城の中心部。とても千人は収容出来ない・・・(汗)


【天正壬午の乱と甲斐国】

甲斐(山梨県)の山城は残念ながら認知度が低く、躑躅ヶ崎館、新府城、要害城、岩殿城ぐらいであろうか。武田信玄の本拠地であるために、戦乱とはあまり関係もなく実戦を経験した城も少ないというのが理由のようである。

ところが、天正十年の本能寺の変の後で勃発した武田遺領をめぐる天正壬午の乱では、甲斐国は北条と徳川の覇権争いの表舞台となり峡北・峡中で死闘が繰り広げられる。しかも僅か1年間という凝縮された期間だけというのがミソである。

この「天正壬午の乱」に関連した山城・城館は、有無を言わせない実戦に関わる緊張感を持つ。
数年前、寝ても冷めても峡北・峡中に通い詰めた小生の語録に間違いはないと思う・・(人生間違いの連続?・・笑)

天正壬午の乱
そのうち平山先生が宣伝料を払ってくれると信じたいが・・・(笑) サッとの知識を得るなら右側の書籍。突き詰めるなら左側。


≪小山城≫ 

標高:344m 比高:24m
築城年代:不明
築城・居住者:小山穴山氏 鳥居元忠
場所:山梨県笛吹市八代町高家
最新攻城日:2015年2月21日
お勧め度:★★★★☆
本城までの所要時間:-
見どころ:堀切、切岸など
駐車場:無し。路駐。
参考資料:「甲信越の名城を歩く・山梨編」(吉川弘文館) 「甲斐の山城と館㊤ 北部・中部編」(宮坂武男著 戎光祥出版)



御坂峠①
小山城から見た御坂峠。

Posted on 2020/02/16 Sun. 22:36 [edit]

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戸石城 リテイク⑤(砥石城とその周辺)  

◆山城攻めの武田軍の精鋭部隊を苦しめた「砥石-米山防衛ライン」◆

こんばんは。

年末年始にamazonプライムビデオの「スラムダンク」にハマってしまい、先日101回目の最終回を迎えて放心状態となりました(笑)

日本の男子バレーがミュンヘンオリンピックで金メダルとなった事に痛く感動して、中学時代はバレーボール部に入り朝から晩まで練習漬けの日々。三年生になるとキャプテンを志願して地区優勝。何と県大会まで進んだのですが初戦であえなく敗退・・。青春の涙は塩辛よりもしょっぱいものだと知りました。

部活の日々といえば、部室が隣だったバスケ部と野球部に対して壁越しの仁義なき戦いを繰り広げる日々・・・・(笑)
「てめーら、汗くさいから、何とかしろ!」 8×4などというデオドラントなど高くて買えないドアホな少年時代・・・(汗)

今思えば、桜木花道以下の幼稚なヤツラのおバカな抗争でした・・・(爆笑) バスケ部は特に毛嫌いしていた記憶が・・(笑)

戸石城2013 (95)
本城の馬出(郭8)から南に進むと砥石城へ。※全体城域を示す戸石城と区別するために「砥石城」として使い分けしています

【山城攻めの巧者武田も攻めあぐねた地の利に護られた堅城】

残念ながら全国区ではないので、小生の探訪した山城は信濃とその周辺の一部であるが、抵抗する峻険な信濃の山城を各個撃破していった武田軍は、群雄割拠の戦国時代においてトップクラスの戦果を挙げていると推定される。

武田軍には間違いなく山岳ゲリラ戦の専門部隊(エキスパート)があり、城攻めでは先鋒隊として敵陣深く潜入し味方の手引きを行ったのであろう。

砥石城見取図①
この砦への通路は南西の尾根筋と陽泰寺からの東尾根のみ。

戸石城2013 (97)
本城の馬出からの尾根との接続部分の堀切。本来はW底の二重堀切で遮断されていたが、後世の耕地化による改変とみる。

山城攻めでは百戦錬磨の武田軍が、何故戸石城の攻略に失敗したのか?

答えはその恵まれた立地条件と、「籠城戦に後詰めは必須」という当たり前の鉄則に敗れ去ったとみるが果たしてどうであろう。

screenshot_20200118_210457.png
国土地理院の地図に加筆修正しています。


●城の東西が天然の河川による堀で守られ敵を寄せつけない

戸石城の東側は神川の深い渓谷に護られ、西側は矢出沢川と城代屋敷の置かれた金剛寺集落があり、集落の西の尾根に柏城(上の城・下の城)を築いている。松代街道に通じる北側は、根古屋城が背後を守り、地蔵峠を監視下に置いている。

なので、城攻めは南正面を突破する正攻法しか無くて、水の手を断ち切る武田軍の得意の手法にしても、水の手に辿り着く事すら困難という局面に打開する方法が無かったというのが真実のようである。

金剛寺集落 (11)
城域西側の矢出沢川。村上家臣団の屋敷のある金剛寺集落側から武田軍が攻め入る事は考えづらい・・。

戸石城2013 (98)
砥石城の素敵な空間。

戸石城2013 (102)
ほぼ垂直に近い切岸。この砦への出入りは縄梯子だったということが伺える。

その名の如く、復元された櫓門からの南登城ルートは滑りやすい上に脆い小石の尾根、そして心臓破りの急崖が続く。
籠城兵側は蟻のように這い上がる攻城兵の頭上に石を落とせば面白いように潰れる。

戸石城には、佐久の志賀城で敗れた兵士も籠城軍として入り「武田憎し」の怨嗟は留まる事を知らなかったという。
小競り合いを仕掛けてもいたずらに兵を失うだけで、七千の武田軍は僅か五百の籠る城を遠巻きに囲むしかなかったのであろう。
(まあ、実際の兵士数は双方ともその1/10ぐらいだったと推定されるが・・・)

戸石城2013 (113)
砥石城の主郭(25×20)

戸石城2013 (107)
主郭からは連携する出城の米山城、そして遠方に上田市街地が一望できる。

戸石城2013 (117)
武田軍は現在の富士見台団地あたりに布陣したのだろうか。


戸石城2013 (114)
真田方面のロケーション。真田の里はこの時は未だ村上の勢力下であり、幸隆の一族の矢沢氏も村上氏の配下であったという。

戸石城2013 (119)
砥石城の東尾根を遮断する堀切(上巾10m)

現在主流となっている整備された南側の登山道(櫓門コース)は、砥石と米山を繋ぐ尾根筋からの登りが大変である。
今は階段があるが、その昔はロープ伝いで急峻な尾根を息絶え絶えに登るしかなかった・・・。
攻城兵の苦労が分かったような気がしたものである・・・(汗)

戸石城2013 (122)
砥石城の南登り口。階段が付いていなかった昔は「転落注意!」のスリル。

戸石城2013 (120)
堀切不要の岩尾根。南口から砥石城を攻めるのは困難であることを体験する瞬間である。

【米山城】

複合城郭である戸石城における米山城の役割はかなり重要だったと思われる。小さな郭3つの出城だが、砥石城と連携することで最大の防御ラインとなっている。
公園化され村上義清公の大きな石碑があり、かなり変形しているが、この場所に砦があると無いでは防御に差が出る。

戸石城2013 (126)
本城ではなく、何故米山城に村上義清の碑がたっているのであろうか?

戸石城2013 (129)
村上時代の城代家老屋敷があったとされる金剛寺集落。城下町がその時から形成されていたのであろうか。

戸石城2013 (134)
米山城の副郭。堀形も郭の東西に認められるが、ハッキリしたものではない。

戸石城2013 (136)
主郭と副郭の切岸。結構あいまいである。

さて、5回シリーズの「戸石城」如何でしたでしょうか。

地元の城を真面目に観察して真面目に記事にしてみる・・・・案外難しいものだと知りました・・・(笑)


≪戸石城 砥石城と米山城≫ 

標高:800m 比高:160m(陽泰寺より)
築城年代:不明
築城・居住者:村上氏、真田氏
場所:上田市上野
最新攻城日:2019年12月22日 (雪の残る写真は2013年2月の撮影)
お勧め度:★★★★★(満点) ここを知らずして信濃の山城は語れない
本城までの所要時間:20分
見どころ:堀切、切岸、石積みなど
駐車場:有り(陽泰寺の駐車場借用)
参考資料:「甲信越の名城を歩く」(吉川弘文館)など


㋹点は砥石城 Ⓢは米山城 Ⓖは復元櫓門。

戸石城2013 (112)
真田昌幸が上田城に居城を写した後は、後詰めの城して信幸や幸村が入城した戸石城。彼らも見たであろう城跡からの風景。

Posted on 2020/01/22 Wed. 11:09 [edit]

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戸石城 リテイク④(本城と福沢出丸)  

◆ブームになろうがなるまいが、城址を整備し続ける地元の皆さんに心より感謝の気持ちを!◆

そんな事を書けばお叱りを受けそうだが、長野県の山城で一番有名な山城は間違いなく戸石城であろう。

信玄の落とせなかった城、そして彼の生涯二度目の「軍配違い」(敗戦)というニュースを往時の日本全国に配信したのである。

今回ご案内するのは、シリーズ第四話「戸石城の中枢」。郭と郭を区画する切岸の美しさはこの城の特徴でもある。

戸石城2013 (40)
北側から見た主郭背後の大堀切。(上巾14m)。箱掘は戦国末期の改修による増設のように思える。

桝形城から尾根筋を下ると上巾14mの巨大な箱掘で遮断される。本城の主郭背後の堀切なのだが、両サイドを竪堀で掘り下げるという加工はせず、尾根の遮断のみである。
現在、本城と呼ばれるこの区域の本格的な改修は真田昌幸時代ではないか?と勝手に推測している。

戸石城2013 (50)
西側斜面への加工も短い。

【おさらい 戸石崩れ】

天文19年9月の世に言う「戸石崩れ」は、七千で取り囲む武田軍に対して僅か五百の村上軍籠城兵が応戦。
難攻不落の戸石城を武田軍が攻めあぐねているうちに、北信濃で高梨氏と争っていた村上義清が信玄の戸石城攻めを知り、急遽高梨氏と和睦。

戸石城攻めから撤収する武田軍を村上義清率いる本隊二千が急襲し、武田軍は敗走。約一千の兵が討取られ横田備中守高松は殿軍を務めて討死。信玄自身も身代わりを立てて窮地を脱出するという負け戦であったという。

話は逸れるが、小生が武田信玄に興味を惹かれる元となった小説は、新田次郎の「武田信玄」だった・・・。

戸石城2013 (59)
主郭とその背後の土塁。

新田次郎の小説「武田信玄」における「戸石崩れ」の章で、戸石城への総攻撃を命じられた横田備中は晴信(信玄)に対して、「叛く佐久を殺せば、佐久は限りなく叛くでしょう。佐久の人ことごとく叛いて死に絶えても、草木が武田に叛くでしょう」と諫言し、壮絶な戦死を遂げている。今でも脳裏に強烈に焼き付いているフレーズで、生涯忘れる事はないと思う。

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2郭から主郭への入口。ここは後世の造作であって、郭2から直にに主郭へ入るとは考えられない。堀切側からというのがセオリーかと。

戸石城本城
整然とした本城の区割りは武田時代~真田時代に造作されたのであろうか。

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郭2と郭1(本郭)の開口部。ここを本来の虎口と捉えるのは無理がある。郭2の西側を迂回し堀切から本郭に入ったのであろう。


【福沢出丸】

2013年の暮れに「砥石城の福沢出丸・金剛寺峠」という記事で、戸石城の福沢出丸について書いた。

金剛寺集落の説明板には所在が断定できない旨が書いてあったが、「甲信越の名城を歩く 長野編」(2018年 吉川弘文館発刊)
の尾見智志氏(現信濃国分寺資料館館長)の縄張図と記事には、上記見取図の本郭背後の堀切の西側の尾根先が福沢出丸だとしている。

福沢出丸 (3)
金剛寺集落側の説明看板。この尾根は、見取図の福沢出丸より更に北側の尾根筋である。

村上統治時代の戸石城の城下は伊勢山ではなく、戸石城の西麓の金剛寺集落と伝えられている。家臣団の屋敷も金剛寺集落に建てられたという。有事の際には、金剛寺集落から福沢丸のある尾根を登る道が城への最短ルートであると、尾見氏は解説している。小生も現地を見た限りでは異論はない。

前項でも述べたが、恐らく村上時代の戸石城は、米山・砥石・桝形で構成された山城で、現在「本城」と呼ばれる場所は加工されず、尾根先の福沢出丸と呼ばれる場所に物見が置かれていたと推定される。

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堀切から福沢出丸へは道形が確認出来るので、それを辿るとよい。

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出丸というよりは、尾根先の小さな物見だが、本城が存在しないとすればこれでも立派な出丸としての機能であろうか。

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福沢出丸の全容。小さな砦だが、村上氏の家臣の名を冠しているので往時はそれなりに重要視されたのであろう。

【真田統治時代の美しき本城】

根拠もなく断定してはいけないが、現在「本城」と呼ばれるゾーンの全面改修は真田統治時代ではないかと推定される。

天文十九年、戸石城攻略を諦めた撤退中に、まさかの村上軍の逆襲で手痛い敗北を被った武田信玄であったが、翌年、真田幸隆がかねてよりの周到な調略により戸石城の奪取に成功する。

その後、信玄は佐久の内山城の郡代を戸石城に移動させて兵を置き村上軍の奪還に備え、飯富兵部虎昌に塩田城攻めを命じ、自身は葛尾城攻略に向かうも、村上義清が謙信を頼って一旦本拠地を捨てて越後に落ち延びると、戸石城はその戦略的価値を失ったようである。

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本郭から見た郭2、郭3。

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耕作地化の影響があるにしても、キチンと整備された城跡は、地元の方の熱意の賜物です。

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切岸で区画される山城が美しいと思うのは、小生の価値観の違いだろうか?

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郭3。

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山の尾根の上に、切岸で整地された大きめの区画された郭があるとは思えないほどの広さには驚く。

謙信に泣きつき、その後ろ盾で一度は塩田城に返り咲いた村上義清であったが、電光石火の武田軍の侵攻で再び越後へ逃走。
信玄は、塩田城に飯富虎昌を入城させて北信濃攻めの兵站拠点とするが、その後東山道と室賀峠を抑える街道の要衝の地に岡城を新たに築城し、拠点を移した。

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横堀を入れる事無く切岸のみの区画で構成される郭群は、ある意味分譲団地の売り出し中みたいだが美しい(笑)

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郭5。

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郭2と郭3の間の切岸。

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郭3と郭4の間の切岸。息をのむ造形美とはこのことであろう・・(笑)

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馬場から主要部への侵入は結構しんどい作りを意識している。

その後、武田氏統治時代の戸石城の動向は知る事は出来なくなるが、天正十年(1582)真田昌幸が家臣の湯本三郎右衛門所属の地侍に宛てた安堵状から、戸石城は「伊勢山」と呼ばれており、天正十一年に真田昌幸が上田城を築くまでの間、拠点としていたことが知られているという。

また、第一次上田合戦では真田昌幸の長男の信幸が遊軍として上田城攻めの徳川軍を翻弄し、第二次上田合戦ではその信幸が徳川軍として戸石城に入城し父と弟の籠城する上田城をけん制していた事が「浅野家文書」などで確認されている。

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郭4から見た郭8(馬出し)方面。

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郭8(馬出)と郭7の間の切岸。石積みでは表現できない土の城の美意識を感じる瞬間でもある・・(笑)

大規模な郭の配置と馬出を伴う縄張は武田による縄張を踏襲したようにも思える。真田幸隆の本領を塞いでいた戸石城は、村上義清の脅威が過ぎ去り、北信濃制圧における戦略的価値が無くなると同時に、信玄から払い下げられたのであろうか・・・。

幸隆も昌幸も、武田における家臣時代は上野国攻略の先鋒として働き、地元には戻る時間など無かったことを考えれば、戸石城の本格的な整備は武田家滅亡後に発生した「天正壬午の乱」以降であり、間髪入れずに突貫工事されたのだと思う。

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馬場と呼ばれる郭8。主郭背後以外は堀切を全く使わない縄張は貴重である。

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地元の方の長年に渡る整備が無ければ、見る事の出来ない極めて貴重な以降である。

さて、如何でしたでしょうか今回の「本城編」。

本邦初公開の「福沢出丸」も含め、さすがは美しき戸石城の本城。

昨今の山城ブームなどとは無縁の時代から黙々と継続された地元の方々による城跡の整備。

「いたみ入ります」 感謝の思いを胸にしっかり勉強することが恩返しに他ならない。

戸石城2013 (90)
丁寧に加工された切岸は、石垣をも上回る強靭な防御という事を改めて知る。

次回は「再発見 戸石城シリーズ」最終回の砥石城とその周辺を予定。気長にお待ちいただければ幸いかと・・・(笑)


≪戸石城 本城と福沢出丸≫ 

標高:800m 比高:160m(陽泰寺より)
築城年代:不明
築城・居住者:村上氏、真田氏
場所:上田市上野
最新攻城日:2019年12月22日 (雪の残る写真は2013年2月の撮影)
お勧め度:★★★★★(満点) ここを知らずして信濃の山城は語れない
本城までの所要時間:20分
見どころ:堀切、切岸、石積みなど
駐車場:有り(陽泰寺の駐車場借用)
参考資料:「甲信越の名城を歩く」(吉川弘文館)など


Ⓢは陽泰寺の駐車場。Ⓖは大手口の登山道入り口。㋹は本城の主郭。

Posted on 2020/01/16 Thu. 23:01 [edit]

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