らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0626

鳴雷城 (塩尻市宗賀床尾)  

◆木曽へ通じる境目の烽火台として利用された砦◆

ブログを始めてから来月で8周年を迎えようとしている・・・・。

飽き性の小生が、「継続は力なり!」などと偉そうに言うつもりは全く無くて、明日更新が止まっても不思議ではない・・・(笑)

全く読者もいない状態から始めたブログが、今では毎日300を超える皆様に見て頂ける日が来るなんて夢にも思わなかった・・(汗)

この場を借りてご来城頂いた皆様には厚く御礼申し上げますともに、どこかの総選挙のようなまさかの「結婚宣言」は今のところありません(重婚は日本国内では認められておりません・・・・笑)。
が、いつか来るかもしれない「離婚宣言」(三行半)には恐れ慄いております・・・・・(爆)

鳴雷城 (59)
砦の東尾根に立つお地蔵様。ここの山道が嘗ては生活道路だったことを物語る証人である。

今回ご案内するのは、塩尻市にある「鳴雷城(なるかみじょう)」(読み仮名をふらないと読めませんよネ)

鳴雷城 (2)
塩尻市宗賀の床尾(とこお)集落にある床尾神社に車を止めさせていただき5分ほど南に向かうと登山口の看板がある。

【立地】

塩尻市の桔梗ヶ原から奈良井川沿いの木曽路の洗馬宿に入る手前の西側の独立峰が鳴雷山である。山頂からの眺望に優れ、後世には鳴雷神社が勧進されて雨乞いの場所となる。毎年八月のお盆明けに雨乞いの火祭りが行われ、地元の床尾神社から松明の灯が夜通しで山頂の鳴雷神社まで連なる。
隣接する霧訪山(きりとうやま 1305.7m)、大芝山(1210m)との間には尾根伝いに山道が網の目のように通じており、小野と洗馬、床尾や平出を結ぶ生活道路だった事が伺える。また、奈良井川を挟んだ西の対岸には、三村氏の居城だった妙義山城がある。

鳴雷城 (61)
登山口より約200mほど登ると二股の分岐(比高850m付近)になるので左へ。大門先は通行困難とあるが・・従来の大手か?

鳴雷城 (4)
毎年とは限らないようだが、火祭りで松明が登るらしいので登山道はキチンと整備されている。

鳴雷城 (6)
登り口の分岐点が再び合流する地点の道標。(1030m) 大横手?大手口を横に進む道の呼び名か?初めて聞いた・・(笑)

【城主・城歴】

史料・伝承等不明だという。山麓の宗賀地区は「長野県町村誌」によれば、古来は嶋立氏、水上氏の所領とあり、後に小笠原氏、武田氏、武田氏滅亡後は再び小笠原氏と領主が目まぐるしく変転している。戦国期には府中と木曽の境目の烽火台の中継地点としてその役割を果たしていたのであろう。

鳴雷城 (7)
大手口は道がハッキリしないので、大横手方面に向かい東尾根の堀切㋐を目指す。(ピンボケごめんなさい・・笑)

鳴雷城見取図①
何年縄張図を描こうと、二番煎じはテキトー故に本物を越えられない・・・(汗)

鳴雷城 (8)
大横手道から見上げた堀切㋐。ようやく城域に入ったという実感を感じるひと時です。

鳴雷城 (14)
東尾根に堀切3本。こちらを警戒していたらしい。

鳴雷城 (23)
西尾根から見た堀切㋐とその先のお地蔵さん。

【城主・城歴】

史料・伝承等なく不明だという。麓からは目立つ独立峰の山なので、雨乞いの儀式に適していたのかもしれない。松本平の最南端に位置し、桔梗ヶ原が木曽路に通じる洗馬や本山との境目に当たるので、戦国時代には府中や木曽方面からの烽火の中継地点として活用されたと思われる。

鳴雷城 (28)
東尾根を進むと堀切㋒(上巾7m)。

鳴雷城 (29)
東尾根からは三段の削平地を辿り本郭へ。

鳴雷城 (32)
簡単な烽火台ではあるが、円郭をさ重ねる縄張。

【城跡】

現在「通行困難」となっている床尾からの直線登山道が大手道だったようである。現在、舞台のある場所から北側の参道は使われていないようで、道も消えかけている。舞台の一段下の段郭は両サイドに竪堀を備えているがほとんど埋まっている。
三方の尾根を持つ独立峰の烽火台は、北側を大手とし南を搦め手としていたようだが、東尾根は緩い鞍部に生活道としての山道が走っていたせいか、二重の堀切を穿っている。

鳴雷城 (33)
やっとの思いで主郭に辿り着く。松明を持って毎年登るという地元の小学生に笑われそうである・・・(汗)

鳴雷城 (35)
主郭に建つ鳴雷神社の本殿。

鳴雷城 (37)
北側の大手から見るとこんな感じです・・・(笑)

鳴雷城 (36)
本郭の南側の堀切㋓。藪に埋もれていて探すのに難儀した。

現代では考えられないが、この時代は山道が最も安全で最短の交通の主要手段であったようだ。
川沿いは氾濫の危険があるし、平地では危険に対して身を隠すことが出来ない。明治時代に鉄道が敷設されたことにより、それまでの交通路は劇的に変化し、生活道路だった山道は次第に廃れていく運命を辿った。

鳴雷城 (44)
堀切㋓を西側より撮影。

鳴雷城 (38)
舞台の一段下の腰郭(5×18) 両サイドに竪堀の跡がみられる。

≪鳴雷城≫ (なるがみじょう)

標高:1093.5m 比高:310m
築城年代:不明
城主;不明
場所:塩尻市宗賀床尾
攻城日:2016年11月6日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:45分
見どころ:堀切、段郭など
注意事項:9月~10月末は松茸山として止め山になるのでこの期間は避ける事。
駐車場:床尾神社借用
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:霧訪山狼煙台、川鳥城、上田城、妙義山城、本山城など



鳴雷城 (64)
床尾地区から見た鳴雷城。
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Posted on 2017/06/26 Mon. 21:57 [edit]

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中山砦と鍬形原烽火台 (松本市中山)  

◆巨大霊園に眠る遺構も伝承も不確かな砦跡◆

取材したまま眠る約300城に及ぶ過去の在庫をどうしたものかと思案中である・・・(汗)

城名と写真2~3枚と場所を提示するだけなら、毎日更新すれば来年の今頃にはスッキリするだろう。(それも大変な労力だが・・)

んーん、それはそれで姑息な手段と誹りを受けそうなので、精一杯、そして少し手を抜きながらペースアップするという結論・・(笑)

なので、今回手を抜いて(ってか、遺構が無いので)ご紹介するのは「中山砦と鍬形原烽火台」

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松本市街地の南東に位置する巨大な中山霊園。北端には桜の名所として有名な弘法山古墳がある。(県道63号の南側より撮影)

【立地】

松本市街地の南南東で、市営の巨大な霊園の墓地が山塊を埋め尽くす中山の頂部に中山砦と鍬形原烽火台が存在したと考えられている。背後の鉢伏山の山稜からは独立した峰であるため、頂上からは松本盆地の眺望は素晴らしく要害地形であるが、山頂部は開発等により広範囲で平坦地化されてしまい往時の遺構は消滅している。

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山頂に残る鍬形社跡の鳥居。全山霊園になっているが、頂部は公園で運動場やマレットゴルフ場がある。

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中山砦跡に残る鍬形社の石碑。ここの参道に近年まで堀形が存在していたようだが、殆んど消滅している。

【城主・城歴】

「信府統記」や「長野県町村誌」にも記載が無く、史料・伝承等もはっきりしない。ただ、「松本市史第二巻」に「鍬形原烽火台(中山)」について発掘調査の結果が記載されている。また「東筑摩郡・松本市・塩尻市誌 第二巻」にも小笠原氏の砦群として地図に四つの矢印があり、その一つとして(あるいは二つ)該当する可能性があるという。※「信濃山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年戎光祥出版)より一部引用。

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鍬形社と烽火台跡(三角点のある場所)の間はマレットゴルフ場に改変され段差(切岸)も消滅したらしい。

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おお、堀形or古墳の石室と思いきや、マレットゴルフの池跡らしい(紛らわしいわい!!・・・怒)

【砦跡】

宮坂武男氏の調査記録が平成6年なので、それから23年経過し、さらに状況は酷くなっている。宮坂氏の報告では三角点の北方の尾根には堀切が認められ、三角点の廻りも辛うじて円形の土壇が残り狼煙台跡の痕跡を残していたようだが、その後改変されたようで三角点以外は何も確認出来なかった。

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三角点は生垣に囲まれていたが、周囲の段差は何もなかった。

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ここの生垣が三角点。鍬形原烽火台はこの場所だったらしい。

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三角点の先の北尾根遊歩道にはかすかに堀形が確認出来る。唯一の遺構であろう。

山全体が霊園になっているので、非常に珍しい。何度も付近を通過していたが、この霊園に立ち入るのは初めてである。
あの世に行ったからといってこの景色がみえるのだろうか?

天邪鬼と言われようが、生きて見るからこそ価値があるように思う。

皆さんも生きているうちに、色々なところに出掛けて、沢山の素敵な風景を心にその目に焼き付けてくださいネ・・・。

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砦跡付近の霊園から見た南松本・塩尻市方面。

≪中山砦と鍬形原烽火台≫ (なかやまとりでとくわがたはらのろしだい)

標高:836m 比高:215m
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市中山
攻城日:2016年11月6日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:景色のみ
注意事項:近くにサッカー用の運動場がありプライバシーに注意
駐車場:公園用の駐車場有り
参考書籍:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:小池砦、馬場家屋敷、赤木北城、赤木南城、八間長者城、埴原城など。



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全景。


Posted on 2017/06/20 Tue. 22:41 [edit]

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齢松山城 (茅野市本町)  

◆鬼場城の後詰めの駐屯地か◆

こんなに難しい読み名の山城は珍しい。齢松山城と書いて、「れいしょうざんじょう」と読む。

名前の由来は、江戸時代の安永年間(1772-80)に本町にある「齢松山福寿院」(れいしょうざんふくじゅいん)という曹洞宗のお寺にこの主郭部を寄贈したので、この名がついたという。

このお寺、諏訪高島藩の二の丸家老諏訪頼雄が開基とされるが、八代目頼保の時に諏訪藩の跡目争いで三の丸の千野家との政争に敗れ、家名断絶となり、その妻子を祀る墓所があるという。その話はいずれまたの機会に。

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麓のコンビニから見た城跡。畑の脇道を登り、その先の鳥居のある場所から適当に斜面を5分も登れば城域である。

【立地】

西側の支脈の中腹に上原城のある永明寺山(1119.6m)の南へ延びた支尾根上にある。標高871m、比高51mで集落に面した小山に築かれている。城の主郭部は、かつて矢ヶ崎、塚原の財産区であったものを、江戸時代の安永年間に齢松山福寿院に寄贈されたことから、この名がついているという。

齢松山城見取図①
郭2つを堀切で囲んだ古典的な縄張である。

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地山との境界を示す堀切㋐。

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南東方面よりみた堀切㋐と郭2。残土で盛った土塁で深さを稼いでいる。

【城主・城歴】

諏訪市の支族矢ヶ崎氏の居城と伝えられるところから、往古は「矢ヶ崎城」と呼ばれた可能性はある。また鬼場城が別名「矢ヶ崎城」と言われたらしいので、鬼場城と区別して、別の呼び名があったことも考えられる。

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主郭より北東の郭2方面を見下ろす。

齢松山の山号を持つ福寿院の創立年代は不明であるが、創立当時の所在地は、小字古屋敷の一角と考えられており、現在地に移ったのは万治二年(1659)あるいは寛文初年(1661~)頃のようである(茅野市史 中巻)

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郭2から見た堀切㋑と主郭方面。堀切㋑は二重堀切だった可能性がある。

矢ヶ崎氏の館の位置ははっきりしないが、この殿屋敷であった事も考えられ、裏山へ砦を築き、本町、塚原の一帯を領知していたと考えられる。一説には殿屋敷に住んだのは小池氏であるとも言われる。
※「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)P177の説明文引用。

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北東斜面の処理。堀切がここで二股に分かれている。

【城跡】

主郭(22×16)と副郭、それらを囲む3本の堀切で構成された古い縄張の城館である。北東の尾根続き以外の三方を急斜面で囲まれた要害の地で、尾根を遮断する二つの堀切が守りを堅固としている。
特に堀切㋑はその幅広さから二重堀が穿ってあった可能性は高い。

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東側より見た堀切㋑。主郭との落差もかなりある。

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三方を土塁に囲まれた本郭(22×16)。

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主郭に最近建てられたらしい説明板。宮坂氏に依頼して縄張図も掲載すれば完璧なのに、惜しい・・。

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主郭北側の段郭。横堀が埋められた跡のようだが、真相は・・。

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南西に落ちる竪堀㋒。

全体的に規模は小さく、比高も50m程の小山にあるので築城年代は鬼場城よりも古い年代のだと想定される。
武田軍が大門街道の監視砦としての鬼場城を強化していく過程の中で、上原城との連携を考慮され使われたものと想定される。

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西側の段郭。

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主郭の切岸。

≪齢松山城≫ (れいしょうざんじょう しろやま)

標高:871m 比高:51m
築城年代:不明
城主;不明
場所:茅野市本町
攻城日:2017年4月29日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:10分
見どころ:堀切、土塁、郭など
注意事項:特になし
駐車場:ファミマで買い物しましょう。
参考書籍:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
付近の城址:鬼場城、上原城、御天城、埴原田城など。



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コンビニから見た齢松山城全景。

Posted on 2017/06/16 Fri. 22:24 [edit]

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小池砦 (松本市寿小池)  

◆三日月形の水堀の残る貴重な砦跡◆

基本的に登山は好きではない。山城がどうしても険しい山の上にあるケースが多いので、仕方なく登っているというのが現状だ。

でも、登山用品は大好きなのだ。装備が良ければ本気で北アルプスに行けそうな妄想をしている・・・(笑)

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日帰り登山~山小屋一泊用のザックなら35Lクラスで十分。ショルダーハーネスが身体にフィットしているかがポイント。

最近の流行は「North Face」らしいので、家人からの贈呈品で、小生も帽子と登山靴下はバッチリ・・(笑)

でもね、ザックはフランスのミレーがお気に入りで、ユーザーでもあります。。ここはこだわりですw その話はいずれまた・・。

今回ご案内するのは松本市の市街地にありながら、その三日月の水堀遺構がキレイに残る小池砦。

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ここは松本市寿にある「小池堤(灌漑用の池)」を目印に向かうと分かり易い。

【立地】

塩尻北インターから西へ1.2km、塩尻市との境に近い松本市寿小赤の小池集落の北、塩沢川に面した台地上に砦がある。一帯は構造改善で原地形はほとんど失われているが、この場所だけは、よく旧態を残していて、砦の面影を知る事が出来る。

小池砦 (1)
弧を描く西側の水堀。

小池砦 (2)
稲荷社のある北側は道路に面して空堀で残る。

小池砦見取図①
砦の中は民間地なので、土地所有者の許可の無い侵入は厳に謹んでください。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」に「塞(とりで)」として、「本村(豊丘村)の東南小池にある。武田氏これを築して、要害の便と為す。方今民有に属す」とあり、武田氏の築城を伝えている。そして、砦跡居住の百瀬氏の伝承では、武田逍遥軒信綱の砦で、百瀬氏は武田氏を名乗っていたのを百瀬に改名したといい、「百瀬家累代墓」には武田の紋をつけている。

小池砦 (3)
湧水により今も水を湛える三日月形の堀。(北側より撮影)

小池砦 (4)
武田とは断定出来ないものの、牧野島城とここでしか見られない水堀仕様の三日月堀。

一方、「寿地区景観整備委員会」が平成三年七月に建てた案内板では、「天文年間に小笠原氏が出城を築いた所で、のちに小池郷地頭頭小池との左馬亮信道の屋敷となった・・・・」とある。この小池氏は赤木氏と同族の者であるかどうかは不明であるが、関係はありそうである。この城の発生を、逍遥軒の築城はとにかく、武田氏に関連した砦の可能性はある。
※「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」P31「小池砦」の記事より引用

小池砦 (5)
500年を越えて存在する美しい水堀。

小池砦 (7)
南側より撮影。

【城跡】

西側の崖下には半円形、つまり三日月堀が残り、北と南にも堀跡があり、土塁も残る。土塁状には稲荷社(白山社とも)が残る。(今回は未確認)東の道辺り(五千石街道)に堀があり、三日月堀の東が主郭で、五千石街道の東が付属の郭と思われる。
往時は郭を土塁が周回し、堀切も周囲を巡っていたと思われる。
※「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」P31「小池砦」の記事より引用

小池砦 (9)
南側から見た小池砦。

小池砦 (10)
西側より見た小池砦。

小池砦 (14)
北側より見た砦(主郭)跡。

≪小池砦≫ (こいけとりで とりで)

標高:654m 比高:5m
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市寿小池
攻城日:2015年12月5日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:三日月の水堀、土塁など
注意事項:許可なく住宅地への立ち入りは厳禁。プライバシーに注意。
駐車場:小池堤の北側にスペースあり。
参考書籍:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:馬場家屋敷、赤木北城、赤木南城、八間長者城など。



小池砦 (11)
この先も残して欲しい遺構である。

Posted on 2017/06/14 Wed. 23:21 [edit]

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只今、勉強中につき・・  

◆聖徳太子じゃあるまいし、同時に色々とキャパの無い頭に詰め込むのは無理かと・・◆

「知ったかぶり」が良くないのは当然なのだが、同じように勢いに任せて何の予習も無しに城址巡りをするのはどうかと思う・・(汗)

さりとて、中世城郭や在地国衆・武家に関する専門書はなかなか高くて、小遣い削る程度の覚悟では到底追いつけない散財であるのも事実であろう・・・。

だが、それでも「武士は食わねど高楊枝」の志を持ち、この趣味に邁進するのが平民の心意気であろうか・・・(笑)

信濃小笠原氏①

信濃の室町時代~戦国時代を語るには、信濃の守護であった小笠原氏を知っておかねばなるまい。しかし、この一族、意外と知られていないケースが多いのも事実であろう。

井川城①
府中小笠原家の本城は清宗の時に井川城⇒林城へ移したと伝わる。(写真は井川城跡に唯一残る土塁)

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府中・鈴岡・松尾の三家に分裂した小笠原家は天文三年頃に府中の長棟によってようやく統一された。(写真は林大城)

最終的に、豊前小倉藩、越前勝山藩として生き残った小笠原家の真実に迫る一冊。感想はいかに・・・。

中塔城①
信玄によって駆逐された信濃守護の小笠原長時の最後の籠城戦の舞台となった中塔城。


【障子掘の遺構が発掘によって明らかにされた芋川氏館の真実に迫る】

北信濃の国衆の芋川氏居館(上水内郡飯綱町)の発掘調査は、2002年~2014年まで4回実施されている。その結果、一辺60mの方形館で周囲を上巾8mの堀が周囲を囲んでいたことが判明した。

芋川氏①

そして城館を囲む堀の堀底には「障子堀」が確認されたのである。

芋川氏館①
2014年の発掘調査を受けて新設された現地説明板。

芋川氏②
2004年の第3次発掘報告書。

芋川氏③
東堀の堀底の障子堀の写真の掲載されている第4次発掘調査報告書。

素人の目視による城跡踏査は限界があるが、専門家による発掘調査結果には大抵新しい発見がある。

芋川氏館②
芋川氏居館跡の遺構として残る森家の北西の敷地の土塁に刺さる古い標柱。

芋川氏居館跡については、しっかりお勉強してから記事にしたいと思いますw

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Posted on 2017/06/11 Sun. 22:10 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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