FC2ブログ

らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

1011

「全国山城サミット上田・坂城大会 プレ大会」のご案内  

◆中世の山城の布教活動の為に「匿名希望」を捨ててもお役に立ちたいというザビエルの願い◆

このブログを開設したのは10年前の7月でした。

「地元の城がどうのこうの・・」とか言っている割には、美濃岩村城が大好きで、岩村城主だったと伝わる織田信長の小姓として有名な森蘭丸の名を冠したハンドルネーム(名前)を付けてブログを始めました。

当時はあまり深く考えもせず目立つかなあ~程度の軽い気持ちでしたが、後に他の方に聞いてみると、「きっと自意識過剰なナルシストのかたまりみたいな変なヤツが運営する変なブログ」、と思われていたとか・・・(笑)

長野の山城に特化したブログの匿名のアマチュア管理人のまま終わっても良かったのですが、小生のブログの読者の方から「上田市で山城サミットを開催するので、是非お手伝い頂きたい」とお誘いがあり、その気になった次第。

そんな訳で、今回、著名な講師陣に不釣り合いな管理人の名前。果たして分科会で閑古鳥が鳴かなければ良いのですが・・(汗)
信濃先方衆の同胞「長野県の歴史を探し求めて」の管理人ていぴす殿も助手を務めてくれるので、分科会終了後は皆さんの質問に答えてくれると思います。

チラシ

詳細は上田市のホームページのリンク⇒全国山城サミット上田・坂城大会 プレ大会をご確認ください。

資料代500円を払ってまでの見学に耐えるビジュアルではありませんが、「こんなヤツが、長野の山城ブログを書いているのか・・」と興味のある方は是非お越しください。先着150名なので、お申し込みはお早めに!!

20150330214234b93[1]

虚空蔵山①

ケムリの城見取図①
ケムリの城の縄張図

2015040510494106a[1]
燕城(つばくろじょう)の見取図。

プレサミットの前日は萩原さちこさんをアテンドして村上連珠砦の「ケムリノ城」と「燕城」、「飯綱城」をご案内の予定です。
遭難しないように頑張ります・・・(笑)

飯縄城見取図①
飯綱城見取図。

来年が山城サミットの本チャンですが、このプレサミットで、少しでも地元の山城に興味を持つ方が増えてくれたら、とっても嬉しいし、本名を晒した価値はありそうですね・・・(爆笑)

kokuzou (71)
飯綱城の遠景。(真冬に西側より撮影)




スポンサーサイト



Posted on 2019/10/11 Fri. 22:00 [edit]

CM: 10
TB: 0

0928

大熊荒城 (諏訪市湖南大熊)  

◆諏訪を追放された上社大祝継満が復帰を画策して新たに築城した山城◆

ブログの記事を更新し続けるというのは、現地踏査の時間だけでなく、下調べに関する時間、そして「さて、やりますか!」という気力と睡魔に耐える体力、そして家人との時間を犠牲にしないという制約(これ大事!)を乗り越えなければ出来ないのである・・(いや、小生だけか? 笑)

我が信濃先方衆の盟友「ていぴす殿」がブログを中断して2年ほど経過しているが、その呪縛を解き放ち、そろそろ本気出してもらいたいものである・・小生よりも若いし、知識も豊富なのだから・・・・(笑) 請願書を集めてくださいまし。届けますから・・(爆)

さて、今回ご案内するのは、諏訪の山城ではここだけ築城年月がキチンと判明している「大熊荒城」(大熊新城)である。

IMG_1173.jpg
看板立ててもらったのは有難いのだが、この看板の位置だと何処が城跡なのか初心者には全く分からない。主郭跡にも欲しい。

この山城の説明についても前回の有賀城と同じく「諏訪市史 上巻」(平成七年刊行)の記事を引用させていただく。

【所在地】

諏訪市湖南大熊。大熊地区の東南で、東側を権現沢川、西側を唐沢川の浸食によって形成された急斜面の痩せ尾根を利用している。権現沢の東尾根には片山、フネ古墳があり、上社と繋がって行く。

DSCF4570.jpg
登り口は唐沢川沿いのS字カーブの途中から尾根を入るのが分かり易いし道形もハッキリ残る。権現沢川側は藪で分かりづらい。

DSCF4566.jpg
塹壕のような道形をひたすら登るので、迷う事はないが、いったい何処まで登ればよいかという不安に襲われる・・・

【築城と変遷】

築城の初めは「諏訪御符札之古書」に次のように書かれていて、文明十八年(1486)六月頃に、下位殿(おりいどの~大祝を退位した人の名称)=諏訪継満によって築城された。

「文明十八年 丙牛 御射山明年御頭足
一 上増、赤沼、島津常陸守朝国、(中略)
一 左頭 高梨本郷、御符礼五貫六百六十文、高梨刑部大輔政盛代官河村惣左衛門尉秀高、下位殿当軍大熊荒城 取立候、六月十日 甲申 除如此御座候間、(以下略)」

(諏訪大社上社の神事である御射山の儀式のこの年の当番は北信濃の豪族「島津氏」と「高梨氏」及び、かつて大祝だった下位殿の諏訪継満が務め、継満は大熊荒城を築城した、の意)

DSCF4563.jpg
一の木戸跡と呼ばれる分岐。(諸説あり)

築城への経過は、上社大祝であった継満が、かねてより準備して、文明十五年正月八日夜前宮神殿の酒宴の席で、惣領家の諏訪政満、同嫡子宮若丸・同舎弟小太郎・同御内人十余人を殺害して惣領家を滅亡させ、諏訪領内の政治祭祀権を一手に握ろうとしたが、惣領家に味方する矢崎肥前守政継・千野入道子孫・有賀・小坂・福島・神長守矢満実子供等に反撃され、二月十九日夜干沢城から伊那(高遠)に落ちて行った。

大熊荒城見取図①
急造の山城ゆえ、単純な縄張である。

それから一月後の三月十九日、下社遠江守金刺興春が継満に味方して、寄力勢百騎ばかりで高嶋城を討ち上原城・武津を焼き高鳥屋小屋に入った。

上社惣領家側では矢崎肥後守・神平・神二郎・千野兄弟・有賀兄弟・小坂兄弟・福島父子等で下社勢と合戦し、下宮殿兄妹三騎・大和兄弟四騎・武居六騎など計三十二騎を討ち取り、興春の首は大熊城に二夜懸け置かれ、同二十一には「下宮悉く焼き捨て広野となる」と「守矢満実書留」に記されている。

DSCF4561.jpg
一の木戸と二の木戸の間の竪堀。

翌文明十六年になると伊那の軍勢(小笠原左京大夫政貞・知久・笠原・諏方信濃守継宗等)三百騎ばかりを整えた継満が、五月三日杖突峠より攻め入り磯波・前山に陣を張り、同六日にはその西方に在る片山古城を整備して立て籠もった。

これに対し郡内惣領家側は干沢城に馳せ籠った。敵の軍勢は時々増加するのに、味方に加わるものはなかったが、小笠原民部大輔長朝・同舎弟中務大輔光政が安曇・筑摩二郡の軍勢を以て味方し来り、片山の向城(大熊か)に陣取り干沢城と連携して鶴翼の陣(かくよくのじん)を張って強勢となった。
「当社定めて御感応有らん」と満実書留は記しているが、この時の勝敗は詳らかではなく、恐らく継満は陣を解いて稲へ引き上げたものと思われる。

DSCF4558.jpg
二の木戸。簡単な造作である。

DSCF4555.jpg
二の木戸三の木戸の間にある石門。ここにも簡易的な防御施設が置かれていたのであろう。

その後、伊那の旧大祝側と諏訪の惣領側で交渉が進められ、和解が成立して荒城の築城や御射山御頭への参加となったのであろうが、これは伊那へ追放された大祝継満が諏訪へ復帰する為の足掛かりとしたものであろう。~(引用終わり)~

DSCF4550.jpg
城の中枢部手前の三の木戸。往時の地上の構造物は分からないが礎石に岩や石積を用いている。

「諏訪御符札之古書」によれば、せっかく諏訪に復帰できた継満であったが、北信濃の高梨摂津守から神長に収められる御符銭の取立のことで、晨朝守矢満実を怒らせ、満実に二ヶ月にわたって調伏され、文明十八年9月16日に祈り殺されたとされている。
不運の人生を絵にかいたような気の毒な大祝であったようです。

DSCF4548.jpg
城域中枢部の東側の塹壕は山道が風雨により削られたもので、横堀では無いと思う。往時は諏訪と伊那高遠を結ぶ尾根の間道として使われていたのだろう。

【城跡】

唐沢と権現沢に挟まれた細尾根の中段に築かれた山城ではあるが、麓からも限られた範囲でしか見る事が出来ない場所にある。
一の木戸、二の木戸、三の木戸と呼ばれ伝わる遺構ぶぶんには石積みも散見されるが、柵程度の簡単な構造物があったに過ぎないと思われる。

DSCF4546.jpg
城域先端の切岸。

DSCF4545.jpg
主郭の北側の尾根は段郭を重ねるオーソドックスな防御手法である。

主郭は8×16mの長方形で背後にはL字形の土塁が確認出来る。2郭との間には堀切があるが、幅も深さも物足りない。
郭3、郭4へと連続するのだが、本気でこの城で防御しようとは思えない適当な普請に終始している。
「張りぼて」の城としての役割だったようだ。

DSCF4536.jpg
主郭と背後の土塁。

DSCF4530.jpg
主郭と2郭の間の堀切。

DSCF4527.jpg
郭2(9×5)

DSCF4526.jpg
削平のはっきりしない郭3。

DSCF4524.jpg
曖昧な郭3と郭4の処理。

DSCF4521.jpg
郭4の背後の土塁を南側から撮影。

宮坂武男氏は、大熊荒城について、以下のように記述している。

「以上のように、この城はいかにも急ごしらえのもので、加工度も少なく、まことに簡単な造りであるが如期したようないきさつの中で生まれたものと思われ、継満以降使われた形跡がなく、その後の改修を受けていないので、文明年中の築城を知る上で貴重な遺構といえよう。付近にシンジョウ、キツネツカ、マワリメ、カラサワ、シンデンクネ、ゴンゲンサワ、ユノウエなどの字名が残る。」

DSCF4518.jpg
郭4~背後の鉄塔まで調べてみたが、堀切なども見当たらず、この城の築城の動員数は極めて少なかったと思われる。

その後、高遠(諏訪)継満の跡を継いだ頼継は、天文十一年(1542)六月、積年の望みである諏訪惣領家を乗っ取るために甲斐の武田信玄と手を結び杖突峠を越えて諏訪へ侵攻。甲州勢は長峰筒口原に押しかけた。
惣領家の諏訪頼重は、上原の居館に火を放ち桑原城に後退するも甲州勢に囲まれて開城・降伏。その後甲州に送られて自刃。

諏訪郡は宮川を境に東を武田、西を高遠(諏訪)頼継が治める戦後処理となったが、諏訪一円の支配を臨む頼継はこれに反発。九月に上原城を落とし諏訪下社を奪取するが、知らせを受けた信玄は軍勢を派遣し宮川橋辺で頼継を打ち破り、杖突峠を越えて逃げる高遠勢を追撃し高遠の居館に迫る。伊那口からも板垣信方の率いる別動隊が援軍の藤沢頼親を破り高遠を包囲。持ちこたえられなくなった頼継は和議を申し入れ、諏訪一円は完全に武田氏の配下となり彼の望みは完全に断たれた。

この時に荒城も廃城となったのであろう。


≪大熊荒城≫ (おおくまあらじょう 新城)

標高:1,000m 比高230m 
築城時期:文明十八年(1486)
築城・居住者:諏訪継満
場所:諏訪市湖南大熊
攻城日:2017年4月29日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:30分  駐車場:無し。唐沢川の道路脇に路駐。
見どころ:堀切、石積みの門跡など
付近の城跡:真志野城、武居城、大熊城、大熊荒城、小坂城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版) 「諏訪市史 上巻」(平成7年)


Ⓢは駐車位置。(砂防ダムの道路脇)

DSCF4575.jpg
麓から見た大熊荒城。


Posted on 2019/09/28 Sat. 23:41 [edit]

CM: 0
TB: 0

0923

有賀城 (諏訪市豊田)  

◆戦国末期まで改修が続けられた諏訪を代表する隠れた名城◆

諏訪の城と言うと、真っ先に思い浮かぶのが「浮城」で名高い日野根高吉が築いた近世城郭の高島城でしょうか。

次に諏訪惣領家の本城、そして武田統治時代に郡代の置かれた上原城、そして信玄に攻められた諏訪頼重が上原城を捨てて籠城し降参した桑原城まで言えれば立派な城マニアの仲間入りですね。

今回ご案内するのは、諏訪のマニアックな山城として一度はその目で見て欲しい管理人お薦めの「有賀城」(あるがじょう)。

有賀城(諏訪市) (4)
城跡は江音寺の裏山にある。江音寺の東側の沢の登り口には表札付きの冠木門があるので迷う事はない。

諏訪地域の城は、築城の主体者によって、
①諏訪惣領家VS上社大祝家VS下社大祝家という諏訪家の争乱時代に各拠点に築かれた城
②上記の三大拠点の間に点在するように諏訪氏一族の小坂氏、花岡氏、大和氏に有賀氏らによって築かれた城
③武田信玄の侵略により攻略・改修された城、または統治拠点とされた城
の三者に大きく分けられると城郭研究家の河西克造氏は述べている。なるほど的を得て分かり易いと小生も納得する。

有賀城はどうかというと、築城時は②でその後③で大きく改修を受け戦国末期まで使われたと推定されている。

有賀城(諏訪市) (8)
厳冬期の2月、比高95mとはいえ雪で覆われた山城巡りはスパイクピン付き長靴が基本。が、防寒性は劣るのでしもやけ注意(汗)

有賀城については「諏訪市史 上巻 原始 古代 中世」(平成7年 諏訪市発行)に詳しいので引用し写真と共に解説したい。
※読むのが面倒な方は、縄張図と写真とコメントだけ見て省略してもいいですが、小生も一生懸命入力したので気が向いたら後で読んでください・・・(笑)

【立地】

所在は諏訪市豊田有賀字天狗山。豊田有賀の集落から辰野町に通ずる有賀峠の登り口、西側を中沢川の浸食で急崖とされた尾根の先端の高峰を利用している。通称では城山・寺山(山麓直下に江音寺がある)と呼ばれ、古くから諏訪と上伊那を結ぶ重要通路を扼する位置にある。

有賀城見取図①
「あっ、武田さんちの改修ですよね」と思わず声に出しそうなセオリー通りの最終形かと。

【築城と変遷】

築城については「豊田村誌」に「承久(1219~1222)の頃に、有賀四郎居之、応永年中(1394~1428)有賀美濃入道性存居之」とある。
有賀氏は諏訪氏の一族で、「神氏系図」では大祝信濃権守敦忠の弟有光が、有賀次郎として鎌倉時代の初めに有賀郷に土着したことがわかるので、承久の頃有賀四郎が有賀にいたことは確かな事と思われる。しかし土着早々に築城することは困難であったろうし、諏訪における築城の最初は鎌倉時代末から南北朝の争乱期と考えられるので、承久の頃にはまだ城が無かったものと思われる。

有賀城(諏訪市) (13)
「タショクボ」と呼ばれる沢を登ると主郭背後の大堀切㋓の堀底に辿り着く。上巾22mは圧巻である。

有賀城(諏訪市) (19)
主郭背後の三連の堀切の真ん中の㋑。堀切㋐と堀切㋑の間の頂部の削平地には不動の石碑が祀られている。

次の応永年中有賀美濃守入道性存の時であるが、「大塔物語」に応永七年十月乳七日の大塔合戦に諏訪勢300騎の総大将として性存の活躍が記されており、直接的築城の史料は無いが、この時に既に城は存在しており、諏訪の主要山城の一つとして十四世紀初期に形成されたと考えられ、以後代々有賀氏の拠所となった。江音寺の南麓山裾の字丹波屋敷は、応仁の頃(1467~1469)の有賀丹波好照の居館と伝えられる。(慶長の頃、千野丹波房清がいたともいうが、房清は天正十八年小田原合戦で死亡している)

有賀城(諏訪市) (139)
有賀城の登り口にある江音寺隣の「丹波屋敷」は「千野丹波守屋敷」と説明板にあるが、有賀丹波の誤りのようである・・・(汗)

天文十一年(1542)の武田信玄侵入の際は戦場とならなかったし、九月の諏訪頼継・祢宜満清等の反乱の際は、有賀氏は武田方に有賀紀伊守、諏訪方に有賀遠江守と二分して戦い有賀城は存続した。しかし有賀氏はそれより六年後の十七年七月の西方衆の反乱で武田方に破れ諏訪から追放された。

有賀城(諏訪市) (20)
堀切㋑と㋓の間の東側斜面に片掘㋒を入れて四連続の堀切としている。

有賀城(諏訪市) (22)
堀切㋑

有賀城(諏訪市) (26)
堀切㋐。主郭背後の大堀切㋓を除いた㋐㋑㋒㋓は武田時代の追加普請のようである。

有賀峠は諏訪、伊那間の重要路なので、有賀城には武田方の武将原美濃守虎胤が入城する。その後、長坂虎房を代官として諏訪に派遣し乱後の処理が終わったところで、天文十八年三月、この叛乱で唯一武田方に参加した千野靭負尉に、尾口郷の代替地として有賀郷が与えられる。有賀城も当然原美濃守から千野氏の支配下に移ったものと思われる
そこで千野氏は本拠地を大熊から有賀に移し、大熊から有賀の一帯に勢力を張ったのであろう。

有賀城(諏訪市) (40)
主郭背後の大堀切㋓から主郭に通じる虎口。

有賀城(諏訪市) (42)
主郭背後に巨大な土塁を備えた本郭。南半分を土塁で囲んでいる。諏訪地方では見られないので今のところ有賀城だけである。

廃城については天正十年(1582)の織田軍の諏訪侵入時が考えられる。高遠城の激戦は有名であるし、伊那から諏訪への重要拠点であるから見過ごすことなく破却されたであろう。
そのことは僅か三ヶ月後の六月二日の本能寺の変で信長が死亡すると、数日の中に諏訪へも伝わり、諏訪氏の一族衆による政権回復の動きが生じる。

有賀城(諏訪市) (46)
大土塁には石積みが二段見られるが、秋葉大権現の石碑の勧進に伴う後世の作業であり改変であろう。

有賀城(諏訪市) (47)
正面には上原城から郡代を移転した高島城(茶臼山)と岡村政庁が見える。湖畔周辺のロケーションはもとより、遠く蓼科山や八ヶ岳まで見渡せる。

すなわち、大祝職にあった諏訪頼忠を擁して、高島城(茶臼山)もいた弓削重蔵を追い出し旧領回復の旗揚げをしたのが六月十日、その諏訪勢の中心となったのが千野左兵衛伊豆守昌房で、金子城より挙兵したという。

千野氏の本拠は有賀城で、織田軍に破却されていなければ挙兵は当然金子ではなく有賀であったはずである。諏訪頼忠・千野昌房塔は高島城で諏訪の支配権を回復すると、その後天正十二年に金子城へ移り、更に同十八年には徳川家康の関東転封によって、頼忠も諏訪の地を離れ武蔵国奈良梨へ移るのである。

有賀城(諏訪市) (63)
主郭から見下ろした西側斜面の堀切の交差関係。ため息ものです・・・(笑)

有賀城(諏訪市) (45)
主郭から北斜面の防御軸であるL字堀切㋕を見下ろす。この堀も武田軍による追加普請と考えられる。

【城跡】

あくまで推定の域を越えないが、有賀氏時代の有賀城は、物見程度の広さの主郭の前後を堀切で絶ち、尾根に数段の腰郭を造作した程度であろうか。

現地を踏査した現在の状況については、大勢力による大規模な工事量の土木改修が施され、この拠点がこの地域を統治するにあたり、敵対勢力に対抗するための軍事要塞として確立された事が感じられるのである・・(・・チョッと何言ってんだかわかんない・・・笑)

有賀城(諏訪市) (56)
主郭から見下ろした西側の巨大堀切㋔。攻城兵からは絶望的な高さであり、守備兵からは投石でも仕留められる切岸の角度。

有賀城(諏訪市) (69)
主郭から堀切㋔越しに見下ろした郭2。主郭が機能不全を起こしても郭2が指揮の中心となるような設計である。

有賀城が大きく改修を受けたのは、西方衆の反乱後に原美濃守虎胤が入城した時あるいは天正十年の織田軍による信濃侵攻に備えたものと考えられるが、大規模な改修は有賀峠経由での諏訪への侵入阻止を目的とした後者と思われる。

伊那と諏訪を結ぶ有賀峠の出口を抑える要衝として、峠側に面する西尾根を厳しくチェックできるように四段の方形の郭を置き、万が一の敵の攻撃に備え、横堀に竪堀を連結させ塹壕として使用できるような工夫が随所にみられる。

有賀城(諏訪市) (70)
堀切㋔と横堀㋘は直結されていない。大堀切からの敵の侵入を遮断する意図が感じられる。

有賀城(諏訪市) (74)
主郭南側の横堀㋗は大堀切㋔と直結している。つまり堀切㋔に誘導することで郭2を主体とする籠城兵による狙撃が可能になるのだ。

有賀城(諏訪市) (77)
なかなか苦労する横堀の写真も雪を利用するといい感じに映りますよね。

グンマーの山城巡りをすると、城郭研究家の山崎一氏の唱える「一城別郭」という定義を必然的に思い出すのだが、有賀城も主郭と郭2~郭5は、そんな定義があてはまるのかもしれない・・とついつい思ってしまう。

万が一主郭が敵に占拠されても、副郭(郭2)による戦闘継続が可能であろうと・・・(汗)

有賀城(諏訪市) (78)
郭2の土塁の上から撮影した主郭の切岸。

有賀城(諏訪市) (80)
土塁から見下ろした郭2(15×188)

郭2と郭3の南半分を囲むように築かれた土塁は、防御目的だけでなく、移動用の通路として使用されたのではないか?と想定されている。ちなみに郭4と郭5には無いので小生としてはどうなんでしょう?というしかない。

有賀城(諏訪市) (84)
郭2から見上げた郭1。

有賀城(諏訪市) (88)
郭2と郭3の間の切岸。攻城兵がまともに登れる角度ではない。

有賀城(諏訪市) (91)
郭2から北側斜面に深い竪堀となる堀切㋔を見下ろす。

宮坂武男氏は、この郭2~郭5にかけての構築について、「もちろん主郭を守る目的はあるが、それと同時に峠から見て、城の備えを重厚に見せ、尾根の稜線を守るためにつくられているようにみえる」と考察されている。
宮坂氏が中世の山城をビジュアル面から考察されるのは、氏の描いた鳥瞰図をみればなるほどと頷ける。

有賀城(諏訪市) (92)
郭3。

有賀城(諏訪市) (93)
郭3から見下ろした郭4。(写真下の数字は郭4の誤り・・・失礼しました!)

有賀城(諏訪市) (99)
雪のコントラストが無いと、中々こんな写真は撮れないかもしれませんネ。

有賀城(諏訪市) (106)
最終の郭5。足跡を付けずに写真撮影するのは結構大変だったりします・・・(笑)

有賀城(諏訪市) (102)
郭5から下の尾根は数段の段郭を設営して搦め手側からの攻撃に対する防御としている。

さて、説明の下手さ加減を写真を並べて誤魔化す悪い癖は治らない・・・ご容赦ください・・・(汗)

ここからは尾根に並べられた郭の西側の横堀の防御構造を見て見ましょう。

西側の斜面は横堀+竪堀の組合せで、横堀は二重だった可能性がある(または造作途中で終わったか)
部分的に下の帯郭にも堀の形状が認められるので、風雨で埋まったように思えるがどうであろうか。それにしても狭いぞ!と言われると何とも言えないが(笑)

有賀城(諏訪市) (108)
郭4と5の西側の横堀と竪堀㋛。(上の段)

有賀城(諏訪市) (109)
この写真は上の写真の下の段の二重横堀構造の部分(分かりづらいので補助線を描いた)

有賀城(諏訪市) (111)
郭4の西下の横堀。

有賀城(諏訪市) (116)
郭3と郭4との西下横堀と竪堀㋚。

つらつらとまた写真展になりそうなので、まとめとして下の写真。あとは現地をご確認ください・・・(汗)

有賀城(諏訪市) (123)
一番奥に主郭が見える。

巷でよく囁かれる「武田の城」と言うには無理があるが、武田統治時代に武田軍による監修と大規模な土木改修工事が実施され、有賀峠からの敵の来襲に備えた城であることは間違いのないところであろう。下諏訪町の桜城とともに、在地土豪の城を武田が改修した城として、是非訪れて欲しい山城である。


≪有賀城≫ (あるがじょう 天狗山城)

標高:925m 比高195m 
築城時期:不明
築城・居住者:有賀氏、原氏、千野氏
場所:諏訪市豊田有賀
攻城日:2016年2月7日
お勧め度:★★★★★(満点) 
城跡までの所要時間:15分  駐車場:江音寺の墓地駐車場借用
見どころ:竪堀、横堀、連続郭など
付近の城跡:真志野城、武居城、大熊城、大熊荒城、小坂城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版) 「諏訪市史 上巻」(平成7年)


Ⓢは登り口。

有賀城(諏訪市) (144)
北側の県道16号線から見た有賀城遠景。



Posted on 2019/09/23 Mon. 10:21 [edit]

CM: 4
TB: 0

0916

戦国 小笠原三代 -長時・貞慶・秀政- (長野県立歴史館 開館25周年記念 秋季企画展)  

◆信濃の山城を語るには、信濃国守護代小笠原氏は避けて通れない◆

中信濃の山城は、実戦経験こそ少ないがコンパクトで技巧的な縄張を持つ魅力的な山城が多く、県内はもちろん、県外の中世城郭ファン垂涎の地域であるという。

信濃の山城研究の第一人者である宮坂武男氏の部数限定の「信濃の山城と館④ 松本・塩尻・筑摩編」(2013年 戎光祥出版)は、増刷の予定もない為、ネットでは中古本が高値取引されているという。
かつての「日本城郭体系 第8巻 長野・山梨編」のような現象になるのでしょうか? チョッと心配・・・(汗)

今回ご案内するのは、長野県立歴史館の久々の気合の入った秋季企画展。(違う企画展が気合入ってないという事では・・汗)

企画展①

SNSで情報は仕入れていたが、すっかり忘れてしまい「壮年性のアルツハイマーか?」と訳の分からぬ言い訳をしつつ本日訪問。

武田信玄や上杉謙信など、信濃制服を巡り紛争を繰り広げ戦国武将についての研究はかなり進んだが、元々信濃国守護代であった小笠原氏の研究は遅々として進まず、不明な点が多い。出版物も限定的で、なかなか分かり易く解説されたものを探すのも難しい状況である。

そんな中、今回の企画展「戦国 小笠原三代 -長時・貞慶・秀政- 故実とネットワークを縦横に駆使した一族の命運」

展示品と説明書き、時代背景を分かり易くした効果があり、「うらぶれ放浪信濃守護代・長時」と「父ちゃんを見捨てて武田に降った旧臣への復讐い鬼と化した」貞慶ファンの素人の小生にもよくわかりました・・・(笑)
※復讐の鬼と化した心理的状態に突っ込んでいないのは不満でしたが・・・(汗)

企画展②

開館25周年記念講演(小笠原氏は将軍になれたのか 10月13日)や、小生の尊敬する歴史館の専門主事の村石正行氏による連続講座(小笠原家の武と知 9/21・9/28・10/5)についての詳細は⇒「戦国 小笠原三代 -長時・貞慶・秀政-」 をご確認ください。

小生は笹本館長より広告宣伝費を頂いているわけではないが、この企画展(入館料 大人300円)は素晴らしいし、良くこれだけの史料を集めてきたものだと素直に感動し、一人でも多くの中世城郭ファンが期間中に訪れて欲しいなあーと心から思っております。
(まあ、県外の方は中信濃か北信濃の山城とのセット訪問がおすすめかと・・・)

最後に、管理人のお勧め。「今回の小笠原三代の企画展の特別本は絶対に購入すべし!!」

IMG_0002.jpg

遠方のために来れない方や、10月に入っての訪問の方は、企画展の本(定価:1,000円)は郵送でも取り扱いがありますので、お問い合わせをお願いします。

もちろん、企画展示を見学に来た方は購入しても絶対に損はしない本で、カラー218ページで、展示物の写真や解説はもちろん、時代考証証に関わるその分野第一級の著名人の論考やコラムが掲載されていて、この内容で1,000円は絶対にあり得ない。

※郵送での購入のお問い合わせは 電話:026-274-2000 長野県立歴史館管理部 まで。

宮坂鳥瞰図①
小笠原氏に関連する美しい山城の鳥瞰図(宮坂武男氏 作図)も掲載されています。

まずは企画展をその目で見て欲しい。

そして名門小笠原家が何故信玄に信濃を追放されながらも、幕末まで家名を存続することが出来たのか、そのエポックメイキングの立役者である小笠原三代~長時・貞慶・秀政~を再評価していただければ幸いです。

Posted on 2019/09/16 Mon. 21:37 [edit]

CM: 4
TB: 0

0913

大井城 (佐久市岩村田)  

◆佐久一円に覇を唱えた大井氏の居城◆

詳細なスケジュールはまた改めて告知したいと思いますが、11月2日(土)の「全国山城プレサミット上田大会」では分科会の講師を実名で務めさせていただく事となりました。 ⇐ビジュアル終わってんのに大丈夫なのか?・・・(汗)

もち、翌週の可児市で開催される「全国山城サミット」には来年の実行委員の研修隊の一員として、一泊二日でお邪魔しますので、「管理人の素顔を見たいゾ!!」という方は迷わずお出掛けください!⇐ きっとブログの読者数が激減するだろうなあー(笑)

果たして、「こんな何処の馬の骨ともわからんヤツに中世城郭を語らせていいのだろうか?」という上田市教育委員会の和根崎氏の疑念には激しく同意します・・・(笑)

さて、今回ご歩案内するのは、今から6年前に取材した佐久市にある大井城(王城)である。(放置プレイには今更驚かない・・・汗)

大井城見取図
航空写真に落書き出来るイイ時代になったなあーと思う方は「いいね」を押してくれ!!

王城② (3)
大井城の真ん中に位置する王城は「王城公園」として整備されました。


【立地】

佐久市の岩村田市街地の東北部の湯川の断崖上に、北から「石並城(いせならびじょう)、王城(おうじょう)、黒岩城(くろいわじょう)の三城が並んでいて、この三城を合わせて大井城、あるいは岩村田館と呼んでいる。湯川側は断崖で、西側には、円満寺の西側に田切りがあり、それも利用して、市街地との間に堀を設けている。
ここは道のあつまる所で、交通の要衝に立地していて、北佐久の雄大井氏にふさわしい占地と言える。

※「信濃の山城と館①佐久編」(宮坂武男氏著 P224引用)

王城② (5)
ここが県史跡ならば、何故に下伊那の大島城が県史跡に指定されない理由を長野県教育委員会にお聞きしたい・・・

【城跡】

公園に改変された王城は、一辺100mの不等辺四角形で、周囲を土塁で囲まれていたことは何となく推察できそうだ。
オオケヤキのあるあたりは一段高くなっているので、櫓台があったようである。

王城② (11)
公園化された王城跡。

王城② (14)
長野県指定天然記念物の「王城のケヤキ」。ここが一段高い場所で湯川に面しているので櫓台があったかもしれない。

王城② (18)
王城跡より西側の堀形を見下ろす。かつては湯川の氾濫原として沼地か泥田だったと推測される。

【城主・城歴】

「石並城」「王城」「黒岩城」の三つの城の中で最も古いのは石並城と考えられている。

鎌倉幕府に仕え、北佐久に所領を持つ小笠原系大井氏は次第に勢力範囲を広げ、中先代の乱では小笠原貞宗と共に足利尊氏に味方したため、朝廷軍の攻撃を受け、建武二年(1335)12月に落城している。(信州大井城合戦 当主は大井朝行)この時の城は石並城と推定されている。

その後、南朝方の衰退により勢力を盛り返した大井氏は、文明年間に佐久盆地の北部で勢力を拡大し全盛期を迎えたが、南部の覇権を狙う小笠原系伴野氏と度々衝突を繰り返した。この頃の居城は王城へ移ったものと考えられている。
※大井氏は甲斐源氏武田氏の加賀美遠光の七男朝光、伴野氏は六男時長が土着した家柄である。

文明十一年(1479)の8月、大井氏と伴野氏は合戦となり、当主の大井政朝は伴野氏に捕らえられて大井氏の執事であった阿江木入道は討死し、伴野方の勝利で終わった。

王城② (19)
王城西側の堀形から見た王城の切岸。自然地形を利用しただけで手を加えてはいなかったと思われるが。

王城② (21)
王城と石並城の間の巨大な天然堀切。

伴野氏が大井氏の詫びを受け入れ、当主の大井政朝が文明十五年六月に死去。弟の安房丸が大井城主となる。
以前より佐久方面への勢力拡大を画策していた北信濃の豪族村上氏が、この代替わりのタイミングを狙い翌十六年二月に大井領に侵入し、大井城(王城)を攻め落とし城下の岩村田集落を火攻めして焦土と化した。
ここに大井宗家は滅亡したが、岩尾・耳取・芦田・相木(阿江木)などの各地に居住する大井一門・家臣の所領はそのまま残った。

その後、依田系大井氏が黒岩城に入り、武田氏滅亡後は後北条氏に従うも依田信蕃に攻められ落城したようだが明確な史料は無い。

王城② (25)
石並城の主郭跡。

大井宗家が滅んだ事により、南佐久の伴野氏は村上氏と直接対峙するという想定外の苦境に立たされてしまった。
軍事力では到底敵わない村上氏に対抗する為、伴野氏は隣接する甲斐国の武田信虎に援助を求めた。
この事が、のちに武田氏に信濃侵略の口実を与える事になるとは、伴野氏も思っていなかったであろう。武田に蹂躙される佐久の悲劇はここから始まったのである。

王城② (32)
石並城より西へ150mの場所にある巨大な堀形。往古の湯川の氾濫原と思われ、巨大な湿地は天然の防御として利用されたらしい。

【城跡】 ※「信濃の山城と館①佐久編」のP224の宮坂武男氏の記述を引用

●石並城 (いしならびじょう)

荒宿の東側に堀が現存し、その範囲は相当に広かった事を伺わせる円満寺の墓地と畑の中に堀が残っていて、ここから南の地域の東西80m、南北200mの細長い部分がまとまりのある形となる。
それより北の墓地の部分の道が崖下へ下る辺りまでが一部にまとまりそうに見えるが、はっきりした堀形が見えない。

王城② (27)
円満寺の東側の墓地の堀形。

●王城 (おうじょう)

※文中の記事参照

●黒岩城 (くろいわじょう)

王城の南に続く台地上で、広さは王城より幾分広くなる。南の部分が失われているが、これが大井城の末期の中心になった所とされる。ここで問題になるのは、何故時代と共に中心を移したかということである。
一度落城したところを外して、その隣接地へ拡張して行った為に次第に大きな城となっていったようで、時代的な推移が問題として残る。

王城② (36)
黒岩城の中心部分。

王城② (7)
王城から道路を隔てて見た黒岩城。

湯川の断崖とかつての氾濫原を利用した崖渕城で、技巧さには欠けるものの中々の規模である。
昭和61年・62年の王城周辺の発掘調査では、多量の焼土が検出されているので、文明16年の村上氏による焼き討ちによるものと推定されている。

≪大井城≫ (岩村田館/石並城+王城+黒岩城)

場所:佐久市岩村田荒宿 (標高709m 比高19m)
攻城日:2013年7月8日
お勧め度:★★☆☆☆
時間:-
見どころ;堀跡、郭跡など
注意:耕作地は無断侵入禁止
参考文献:「信濃の山城と館①上田・小県編」(宮坂武男著)、「信州の古城」



王城② (40)
湯川の対岸よりの遠景。

Posted on 2019/09/13 Fri. 07:39 [edit]

CM: 2
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top