らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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小幡陣屋 (別名:楽山園 群馬県甘楽郡甘楽町)  

◆信長公の次男信雄が非凡なる才能を示した美しい大名庭園◆

偉大な親父を持った息子の苦悩なんぞ、他人には分かる訳がない。

その親父が後継者として指名した長男ともどもあっけなく討死してしまったら、本家を継ぐと言いだしたものの心の準備など無理であろう。御神輿に担がれたまでは良かったが、百戦錬磨の妖怪たちに翻弄され坂道を転がり落ちてしまった。

今回ご案内するのは、土壇場で踏みとどまり家名を明治維新まで存続させた織田信雄の作と伝わる「楽山園」(らくさんえん)。

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楽山園の注文。高さ7m、門柱間4.5mで、屋敷の公式な出入り口であったという。

【立地】

信濃との国境の秩父山地から東へ派生する関東山地の稲含山を源流とする雄川(おがわ)が、富岡市で鏑川と合流する3km手前の小幡地区の河岸段丘上に位置する。陣屋の西側は雄川を挟んで紅葉山があり屏風の役目となっている。
江戸時代初期の築城で、小幡藩の藩邸として行政上の拠点としての機能なので要害性はあまり考慮していないようだ。

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中門を内側より撮影。意外と「門フェチ」だったりする・・(笑) 門の内側は桝形。

【藩邸とその周辺の構築物】 

建物は現存していませんが、藩邸としてある程度の軍事的な防御機能はキチンと施してあり、有事の際に備えています。といっても一時的な抵抗の為のものでしょうか。
それではツラツラと写真紹介しましょうか・・・(笑)

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中門の枡形を抜けて分岐点①。庭園よりもこの石垣と土塁にどうしても目が向く。

全体図①
パンフレットからの全体図。結構広い庭園なので、この図に基づいて掲載してみましょう。


元図①
入口の中門とその付近。

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西側より見た拾九間長屋。藩邸の使用人たちの居住地。現在は事務所と資料館になっている。


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この日の午前中に雨天決行して登った小幡氏の居城だった国峯城が背後に見える。ってか何で餅つき大会?

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庭よりもこのアングルに萌える・・(笑)

元図②
参考にしてください・・・

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北裏門。出口専用なのでご注意。

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北隅には作事小屋跡。

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分岐②から見た御殿(藩邸)方面。背後中央の山は国峯城(しつこい・・笑)

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藩邸北側の区画。

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藩邸跡(御殿)。奥に見える建物は「梅の茶屋」

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桶屋長屋から見た藩邸跡と庭門。中央奥の山城は「●●城」です・・・ハイ、正解ですw

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金明水井戸とその周辺。

【楽山園について】 ※甘楽町作製のパンフレットより引用

江戸時代初期に織田氏によって作られた小幡藩邸の庭園。池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の借景庭園で、「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園と位置付けられ、京都の桂離宮と同じ特色がある。

元図③
チョッと見づらいですが、ご参考までに。

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南東から見た昆明池を中心とした庭園。

「景石」の置かれた池を中心として、「中島」や「築山」を築いて起伏のある地形を造りだし、「梅の茶屋」や全国的にも珍しい五角形の形状をした「腰掛茶屋」など複数の茶屋を配し、それらを巡る園路にも工夫を凝らしています。

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梅の茶屋から見た庭園。

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梅の茶屋から見た五角形の腰掛茶屋。織田一族は多角形が好きなんだ。

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梅の茶屋から見た南東庭園方面。

借景庭園としても秀逸で、庭園の西側にある雄川(おがわ)を挟んで紅葉山、南方の連石山、熊倉山などの山並みを借景として取り込み、豊かな広がりを演出している空間構成は、「庭園美」の極みと言えます。

さらに、複数の茶屋を配していることから。「織田氏を茶事」との関連も深く伺うことができ、歴史的・文化的にも価値のある庭園です。

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背後を流れる雄川とその背景。残念ながら雨天の為「借景」は一部のみ。

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梅の茶屋。詫び寂びが分かる年頃になりたい・・・(笑)

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梅の茶屋の内部はこんな感じ。

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南東庭園の築山と泉水(せんすい)

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南東庭園の築山の上から見た風景。「借景」とは背後の山を借りたこのような構成をいうのであろうか。

楽山園という名前の由来は、「知者(ちしゃ)ハ水ヲ楽シミ、仁者(じんじゃ)ハ山ヲ楽シム」という「論語」の故事から名付けられたといわれています。群馬県内に唯一存在する貴重な大名庭園で、国の名勝に指定されています。
(※引用終わり)

≪小幡陣屋≫ (おばたじんや 楽山園)

標高:210m 比高:-m
築城年代:江戸時代初期
築城・居住者:織田氏
場所:群馬県甘楽郡甘楽町小幡
攻城日:2017年8月15日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
館跡までの所要時間:- 駐車場:無料
見どころ:庭園、藩邸跡など
注意事項:特になし
参考書籍:甘楽町パンフレットなど
付近の城址:国峯城、内匠城など
SpecialThanks:清之介様のブログ情報を参考にさせていただきました⇒そよ風訪城日記

https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%A5%BD%E5%B1%B1%E5%9C%92/@36.228504,138.9076681,15.54z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x9be8ce54290837b4!8m2!3d36.2284163!4d138.914161

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Posted on 2017/08/20 Sun. 11:31 [edit]

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美濃国の境目の城 弾丸ツアー  

◆石垣の城の美しさを再認識した田舎先方衆の無謀な旅◆

「高石垣の上に建てられた白壁の塔層建築物に魅せられて・・」

中世城郭ファンのほとんどの方は、近世城郭の趣味からある日突然に「土の城スイッチ」が無造作に入り転じたものだと推定されます。残念ながら、きわめて明確で明朗な基礎を含めた建築工作物の趣味が、不完全で曖昧な土木工事の趣味へと移行するのかそのメカニズムは明らかになっておりません・・・・(汗)

そんな過程で土の城に魅せられた我ら信濃先方衆ですが、「石垣の城を愛でる」という原点回帰の弾丸ツアーを実施しました・・(笑)

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美濃を代表する美しい石垣の要塞「苗木城」。

【何故弾丸ツアーになったのか?】

5年もコンビ組んでる信濃先方衆ではあるが、納涼会を一度もやったことが無いので、この夏は泊りがけで開催しましょうという話になり、塩尻市の「信州健康ランド」で予約。温泉に浸って飲み会だけってのもアホらしいので、当日何処か城攻めしますか、という話になった。高速道移動で行けて18:00までには帰還出来る遠征場所ということで、奥三河か美濃が候補となり、最終的には美濃となった。

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十年ぶりの岩村城。相方の「ていぴすさん」が未訪との事でリストに加わった。

美濃といっても広く、候補としては信長公入城450年祭りと山麓居館跡の発掘調査を行っている「岐阜城」、先日の大雨で天主の鯱が落下して破損した状態が今しか見れない「犬山城」、小生のハンドルネームのルーツである森一族の「兼山城」、城館一体型で遠山の金さんヨロシク「明智城」、美濃に来たらここは外せないと評判の「苗木城」、織田軍の岩村城攻めの前線基地「小里城」。

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恒ちゃん(池田恒興)が設計・普請したという未完の不等辺五角形の小里城山城天守台。未完のままで放置され現在に至る。

最近ブロ友として友好条約を締結した美濃国在住のお城ブロガー「久太郎の戦国城めぐり」の管理人である久太郎様にアドバイスを求めたところ、苗木城を起点とした場合、移動距離と時間に難があり、特に岐阜城、犬山城、兼山城は再考を要し、明智城はこの時期は藪に覆われているので外すのが賢明との回答でした。

そこで、我ら信濃先方衆、弾丸ツアーの行く先として検討に検討を重ねた結果、「苗木城」⇒「岩村城」⇒「小里新城」⇒「小里城」⇒「小里城山城」⇒「鶴ヶ城」⇒「信州健康ランド」と相成りました・・・(笑)

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小里城の麓の居館跡の重厚な虎口。

準備万端で意気揚々と出掛けた当日、朝8:30には苗木城に到着。そこまでは良かったのだが、あまりの素晴らしさに感動してしまい、城域を端から端まで十分に堪能した挙句に歴史資料館まで見学するという暴挙に出て11:00まで滞在。次の岩村城も中世の山城の遺構を探索し資料館まで見てしまい昼飯食べたら14:30という有り様。小里城山城は比高約180mをイッキに登り16:00に離脱して宴会場の信州健康ランドへリターンし18:00には現地着。

「何やってんだ、俺たち・・・・」(笑)

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まあ、時にはスケジュール通り行かない事もあるさ、と乾杯!(爆)

次の日は予定してなかったのですが、せっかくなので近世城郭続きの縁で松本城へ。外堀の発掘調査現場も見学しました。で、何年かぶりで天主閣まで登りましたよ。

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改めて真面目に見ると、松本城の連立天主閣の美しさには脱帽ですw

最初に飲み会ありきという設定だったので、美濃国への遠征はかなり無理がありましたが、久々の石垣の城には感嘆しきり。
石垣に魅せられなければ、土の城への切替スイッチONも無かったんだろうな・・なんて改めて思います。

分かっていてもスタンプラリーが出来ない体質の信濃先方衆・・・・それはそれで妙に納得しておりますw

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苗木城の天主台から見下ろした大矢倉。城フリークにしか理解できない言葉にならない造形美がそこにありました。

今回の訪問先が記事になるのはいつでしょうか?お約束など出来るものではございません・・・(笑)

Posted on 2017/08/12 Sat. 23:03 [edit]

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楡沢山城③ (別名:木曽義仲の隠れ城 塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山)  

◆荒行の果てに見た伝説の城址の景色とは◆

「結界は越えたが、一線は越えておりません・・・・」(らんまる攻城戦記管理人談)

何処かの国の育児放棄したシングルマザーを名乗る元アイドルの一年生議員さんと「やっちゃえ日産」よろしくGT-Rを操る関西方面の市会議員さんの税金を使った火遊びと、我々水曜特集の川口浩探検隊の「一線」の意味は全く違う。とはいえ、前人未踏の地なのにテレビカメラが先回りして撮影し、我ら国民を巧妙に欺いたという点では川口探検隊も立派な詐欺師であろう・・・(笑)

「城跡としてのWEB初公開」・・・この言葉の誘惑には勝てない。「一線」とはこの事を示すのかもしれない・・・(汗)

楡沢山城 (110)
楡沢山城から南西方面の木曽平沢駅の北側の高台より撮影。坊主林道ですら簡単に登れる高さではない。

楡沢山城 (32)
平場と平場を区切る石の列の跡。人工の造作物と見れるかは微妙だ。

烽火台も含めた山城の標高の限界が1000m~1200mといわれるのは、その高さが天候に左右されるギリギリのラインだからである。もちろん、麓からの比高も勘案されるだろうが、狼煙をあげるにも女子供や老人が逃げ込んで敵をかわすにもこの高さが「結界」であり、一つの目安であろうか。

楡沢山城 (45)
ニセピークから熊笹を掻き分けて北へ歩く事5分。とうとう我々は楡沢山城の中心部に辿り着いたのである。

【城の伝承と履歴】

標高1,760mの楡沢山山頂にある事から通常は「楡沢山城」(にれさわやまじょう)と呼ばれているが、楢川村贄川(ならかわむらにえかわ)や平沢においては「木曽義仲の隠れ城」とか「木曽義仲の夏城」と言われている。また、辰野町川島では「瀬戸城址」と呼んでいる。「木曽義仲の隠れ城」(島田安太郎・舟木慎吾著 昭和四十八年刊行)では研究会のメンバーの提案により「朝日ヶ峯城址」と呼称を統一したようだが、浸透しなかったようである。

楡沢山城 (47)
1754mのピークの北側の削平地。主郭であろうか。V字形の二段でかなり広い。

楡沢山城 (46)
腰の高さまで生い茂る熊笹が城跡一面に広がる。何十年かに一度笹が枯れて城跡が鮮明になるようだが、いつになるやら・・。

「長野県町村誌」の贄川村「楡沢山の砦」の項に、「木曽氏砦の其一にして、本村の南にあり。中山道々路に続す。峻山にして其高さ百廿丈余、嶺上に至り四方を眺望すれば、数里外の村落と雖も一目瞭然足り。故に木曽氏茲に砦を築き、常に兵士を置き、之を守らしむ。敵襲来するの時い当り、是を遠見し狼煙を挙げて、鳥井峠の砦に報ず。同所の守兵これを見るや山吹山(日義村にあり)の砦に報ず。於茲再び烽火を挙げ、以って木曽氏の本城福島に報じ、敵兵防御の軍備をなせしと云ふ。嶺上東西三十間南北五十間平坦なる地あり。今に至って尚所々残礎を存す」とある。

楡沢山城見取図①
頂上付近の平坦地を等高線に沿うような形の横堀でガードしたような縄張。

郷土史研究家で、「木曽義仲の隠れ城」の共同著作者である舟木慎吾氏によれば、この城の築城目的は信濃に落ち延びてきた義仲を匿い育てる為であったという。知識も経験も不足している小生は否定も肯定もしないが、そんな思い入れもありかなーと思う。

楡沢山城 (49)
山頂は土塁状の5×50mの痩せ尾根にある。熊笹に覆われて何が潜んでいるのか分からない・・・(汗)

【城跡】

平均して腰の高さ、場所によっては胸までの高さがある大熊笹が城域一面を覆っているので、細部は捉えきれない。が、笹の海の高さの変化=地形を示しているので凡その見当はつく。ハッキリ確認出来るのは横堀と伝承されている見取図における㋐・㋑・㋒などの堀形である。
宮坂武男氏が指摘している通り、この横堀は「線状凹地」(せんじょうおうち)と呼ばれる等高線に生じた山塊の地層のズレや地滑りの跡で、南アルプスの山脈には多く見られる地形らしい。

楡沢山城 (50)
城址ピークの南側の「舟くぼ」と呼ばれる線状凹地(見取図の㋐) 巨大な土塁状の壁が深さを際立たせている。

この巨大な線状凹地(舟くぼ)が源平合戦の頃に構築されたという説が正しいのか、ていぴす殿の被写体で検証してみよう。

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舟くぼ(堀切㋐)に突撃していく「ていぴす殿」

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長さ50mほどある横堀㋐。ここで彼は得体のしれない巨大なタランチュラに似た生物に遭遇し恐ろしさに声も出なかったという。

楡沢山城 (54)
城域のピークの1754m付近。三角点は元々ないが、この状態では確認など無理である。

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12:30に楡沢山城のピークへ到達。しかし、相変わらず笹薮に覆われたここで昼食や休憩がとれるはずも無い。

ピークから北西の斜面には数段の平坦地が認められる。人工的に手を加えたとしても、この高地ではごく僅かな作業に留まったと思われる。

楡沢山城 (61)
主郭と思われる平場。

楡沢山城 (67)
主郭の北側斜面に展開する段郭。

【舟木慎吾氏の作製した説明板の痕跡】

「木曽義仲の隠れ城」の著者である舟木慎吾氏は楡沢山城の研究・執筆とともに、城址に畳一畳の自作の説明板を背負いあげて立てたという。平成13年の調査時に宮坂武男氏は、朽ち果ててはいたが、その熱く語られた説明板の半分を確認したという。
我々も必死にその痕跡を探した。圧倒的な熊笹の藪に諦めかけたが、見事発見したのである。

飽くなき城への探求心とその情熱。我々も見習いたいものである。

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標柱(説明板)が固定されていたであろう支柱の跡。

【笹薮の海と線状凹地】

それにしても一面の笹薮。岩原古城も酷かったが、ここも似たようなものだ。足下に何が潜んでいるかも確認できない状況はかなり辛いし、ヘタに休息すらできない。外気温の上昇に伴いハエが顔の周囲を飛びイライラしてくる・・・。

楡沢山城 (72)
城域北限の郭。この台地は「神を祀るという台地」という名がついている。

楡沢山城 (76)
見取図における横堀㋑。曖昧だが等高線をなぞるような窪地である。

楡沢山城 (78)
横堀㋑から見上げた城域。こんな標高の高い場所にこれほど広い場所があるとは。

楡沢山城 (81)
城域ラストの横堀㋒。(南側より撮影)

楡沢山城 (83)
巨大な線状凹地の㋒。人工造作物であれば、御坂城の横堀に勝るとも劣らない。

楡沢山城 (84)
㋒の拡大。自然の造形にしては限りなく人工の造作物に近く、我を忘れて撮影する美しさがあった。

当日のルート
さあ、城ヶ平経由で帰りましょうか。

【城ヶ平】

城域を離脱した我々は、城ヶ平に向かった。幸いなことに北へ向かう尾根上には辛うじて道形が残っていたので相変わらず腰まで生い茂る熊笹行軍であったが下りだったので精神的には楽だった。

楡沢山城 (89)
城ヶ平に向かう途中にも線状凹地の堀形が何ヵ所か確認できた。

楡沢山城 (90)
城ヶ平。ここから坊主林道までは道など無い。結構な傾斜地で疲労困憊の足腰にはキツイ下り坂であった。

楡沢山城 (91)
途中の下り斜面で視界が開けるポイントがあったが両足の痙攣で横移動が叶わず望遠撮影。道の駅まで比高600mぐらいか?

楡沢山城 (93)
坊主林道に戻れた時には、正直なところ、嬉しかった・・・(笑)


≪楡沢山城≫ (にれさわやまじょう 瀬戸城 一夜城 木曽義仲隠れ城 要害城 朝日ヶ峯城)

標高:1,754m 比高:865m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山
攻城日:2017年6月24日 
お勧め度:☆☆☆☆☆ (遭難の恐れ有り 経験・装備がない限りお勧めしません 自己責任で)
館跡までの所要時間:4時間30分 駐車場:道の駅ひらさわ借用
見どころ:線状凹地
注意事項:遭難の危険あり。単独訪問不可。熊生息。熊笹ラッセル必須。
参考文献:「信濃の山城と館④ 松本・塩尻・筑摩編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P249参照) 
付近の城址:奈良井城、本山城など
SpecialThanks:ていぴす殿 (感謝感謝でございますw)

楡沢山城 (5)
さすがに日本最高所のラスボスは、手強かったのである。

楡沢山城 (111)
贄川宿より見た楡沢山城。

楡沢山城 (112)
拡大写真。二度・・・は無いだろうなあー(笑)

Posted on 2017/08/10 Thu. 22:50 [edit]

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楡沢山城② (別名:木曽義仲隠れ城 塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山)  

◆果てしなき大熊笹の藪漕ぎに心が折れ、挙句の果てに城址を間違える寸前にまで追い詰められたラスト85分間◆

【山の神の怒りの痕跡の残る林道を歩く】

坊主林道(ぼうずりんどう)と名付けられた道幅の広い林道が、上伊那郡辰野町方面の牛首峠から楡沢山城の近くの標高1500m付近まで続いているのだが、この道を通行するには営林署の許可が必要である。仮に営林署の許可が下りたとしてもあちらこちらで寸断され、廃道に近い状態だというのが、実際に歩いてみて分かった。

楡沢山城 (6)
幅4m以上のしっかりした林道に驚く。高度成長期ならではの土木工事量に驚愕する。

楡沢山城 (10)
そして林道を進むとクーさんの新しい「ウンチ」に驚くのである。まあ、この辺に住んでいてもおかしくはないか・・・。

楡沢山城 (11)
標高1500mの林道にガードレールとは信じがたいがひたすら歩く。

楡沢山城 (12)
山の神の怒りに触れたような土砂崩落で林道が埋まっている。これじゃジムニーも通れないし戦車ででも厳しいか・・(汗)

坊主林道を歩く事35分。平地を延々と歩くのもかなり疲れる。当初は、城ヶ平の真西の直下辺りから坊主林道を離脱する予定でいたが、相方のていぴす殿よりショートカットコース経由での最終トライを提案される。
前人未到のルートに挑むという冒険心と、帰路に備えて体力温存という一石二鳥を狙った我らは、「八甲田山死の彷徨」の夏バージョンを体験する事となったのである・・・(汗)

楡沢山城 (9)
楡沢山城に通じる城ヶ平の真下に辿り着くには、気が遠くなりそうな距離を歩くのである。「悪魔の囁き」に抵抗しながら・・・。

当日のルート
当初ルートを変更した後の行程。どのみち、道など無かろう・・・というのが我々の一致した見解であった。

【人間の侵入を拒み跳ね返す急斜面を覆う一面の大熊笹との死闘】

信濃先方衆のルートの当日変更は時々行われる。地形図が読めるので、合理的なルートを探索する。(なるべくラクしたいだけだが・・・笑)

当初の計画である城ヶ平からの攻城ルートも事前の情報から笹薮漕ぎを覚悟していたので、どこから城跡を目指そうと笹薮は避けて通れないならどこからトライしても一緒ぐらいに思っていた・・・・・。

楡沢山城 (13)
ポイント③地点から見上げた変更ルートの尾根。10分後には地獄の大笹薮のお出迎えに閉口する。

残念ながら、心が折れてしまったので、途中の写真など一切ない。

行けども行けども終わる事のない急斜面の大藪漕ぎに体力的にも精神的に追い詰められていた。正直、もう止めたかった・・(汗)

「進退ここに極まる・・・・」 とはこのことであった。1,000以上の山城を踏破してきたのだが、ここで諦めるのか・・・。

我々は楡沢山城まであと比高150m地点にいた。戻るも地獄、進むも地獄。何が出るか分からない笹薮のラッセルも限界。

「ここまで来たらもう登るしかありません!!もう少しで稜線に出るはずです。」 相方のていぴす殿の声に救われた気がした。

楡沢山城 (16)
見渡す限りの大熊笹。何処にも迂回出来ない。急斜面の向こうに空は見えてもゴールが見えない恐怖との戦い。

楡沢山城 (17)
足が何度か痙攣してしまい小休止。もはや林道に戻る事も困難であった。

1,600ⅿの山岳地帯で藪漕ぎすること1時間。強靭な笹薮に押し戻され斜面に倒れながら、両足が痙攣しても這いつくばって何とか稜線手前に辿り着いた。

すると、傾斜が緩くなり熊笹の背丈もかなり低くなった場所に横堀状の窪地を発見。「ここから城域なのか?」

楡沢山城 (18)
横堀状堀状の窪地。

【到達した喜びも束の間、「ああ勘違い」で冷静さを取り戻し、偽ピークからホンモノの城跡へ】

極限に追い詰められると、そこから脱出したい一心で物事が冷静に見れなくなるらしい。

「横堀状の窪地」「段郭」「尾根筋のピーク」 苦難の末に辿り着いたのは、確かに城跡の条件が揃っていた地形だった・・。

楡沢山城 (20)
段郭らしき遺構。

楡沢山城 (25)
主郭と勘違いしていた平場。

楡沢山城 (33)
ここが城の遺構なのだと信用させるに十分な散乱した石積み跡。

宮坂武男氏の縄張図と、ていぴす殿が持参した「「木曽義仲の隠れ城」(龍門堂)に描かれた朝日ヶ峯城(楡沢山城)の縄張図を確認すると、類似した地形だったので、ここが城跡と思い込み、二人して疲労を忘れて写真撮りまくりだった・・・。

が、「待てよ、この場所の地形、何か違うなあー」  この直感は経験値の為せる第六感であった。

楡沢山城 (42)
ここがピークの1754m・・・??なんか違うよなあ・・・。

楡沢山城 (36)
見方によっては尾根の郭に対する切岸で、一段下は帯郭のようにも見える。

疲労困憊はピークに近かったが、尾根に出てしまえば勇気凛凛で頭は冷静さを取り戻した。(ってか、アンパンマンかい!)

スマホのアプリの国土地理院の現在地は、「城跡の手前」を指している。

「さあ、先を急ごうか・・・・・・・」 この事であった。

楡沢山城 (3)
当日のオンタイムのスクリーンショット。ピークはまだ先なのが認識できると思うが・・この時はクライマーズハイだったようだ・・(笑)

危うく城跡を誤認するところだった我らは、腰まで埋まる笹薮の平原をピーク目指して進み、ようやく城跡に辿り着いたのである。

次回衝撃のラスト、「笹薮は、もうお腹一杯・・・そして伝説へ」を待とう・・・(笑)

楡沢山城 (23)
標高1700mの山岳の連なる高地に築城する必要もないし、横堀も必要ないと思うのだが・・・。





Posted on 2017/08/03 Thu. 22:23 [edit]

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楡沢山城① (別名:木曽義仲隠れ城 塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山)  

◆国内最高所にある伝説の山城への挑戦◆

信濃の山城で標高が100m~1200mとかに位置すると、かなり高い部類には違いないが、登り口自体が結構な標高なので「比高差」(登り口の標高から目的地までの標高の差)という物差しで測るとそれほどでもなく、平均すれば比高差は200m~400mぐらいで、500mを越えるとそれでも結構しんどい部類にはいる物件であろうか。

我ら信濃先方衆の山城探訪におけるMAXの標高と比高差を誇るのは、岩原古城(さるが城)で、標高1510m、比高差は700mである。

んで、今回ご案内するのは、先日チョコっとお披露目しました「木曽義仲隠れ城」の楡沢山城。(にれさわやまじょう)
標高1754m、比高差865mに位置する山城は国内最高所であり、比高もマストだと思われる。

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今回ばかりは綿密な登山計画が要求される。なので事前に購入した地理院地図に磁力線を引いてコンパス使用法も復習しておく。

【攻略までの経緯】

この難儀な山城については、信濃先方衆の相方である「ていぴす」殿から何度か聞かされていた。彼も何度か下調べで攻略ルートを探していたという。

秋口には廃村となった桑崎集落に通じる林道が閉鎖されてしまうこと、中腹に通じる坊主林道は営林署の許可が無ければ通行不可であること、標高が高い為に降雪が早く訪問する期間が限られてしまう事など・・・。

「そんな難儀な山城、慌てて行かずとも・・・」 なんだかんだ言い訳をして先延ばししていた。

2014年の春先にtwitterで知り合った「くうくう」さんとツイパで信濃合同城攻めでご一緒した事のある「naomochi-u」さんがSNS関連での楡沢城の一番乗りを実践された事をT/Lで知った・・・。

んーん、残念ながら我々は地元の利をもっていながら先を越されてしまったが、naomochi-uさん(彼は登山家でもある)から贄川ルートと城跡付近の情報が得られ、日帰り挑戦が可能な事が分かっただけでも有難かった。

当初計画①
SNSを駆使して情報収集の結果、このルートが日帰りで楡沢城に辿り着くべく最短ルートとして信濃先方衆の評定で決定された。

いつもならスマホの地図アプリ(国土地理院の地図表示方式)に頼るのだが、木曽の険しい坊主岳山系に電波が届くのかは疑問だったので、アナログ方式の基本であるコンパスと地図も準備し体制は万全とした。遭難するわけにはいかないのである・・(汗)

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装備のチェックは厳重である。

最近、(といっても2014年度版だが)のSNSの情報によれば、城址は腰までの高さのある熊笹に覆われていて現状の地形を掌握することは難しいと書かれていた。

つまり、晩秋に攻めようが春先に行こうが初夏にチャレンジしても、何十年に一度起こる熊笹の総枯れが無い限り遺構などまともには調査できないという事実がそこにあった。

「ならば、時は今・・・・」  我々の答えは単純明快であった。 決行は6月24日(土)と決まった。

楡沢山城 (95)
木曽ならかわ道の駅からポイント①までの比高は414m。山城3つ分の比高におののくものの、覚悟を決めて行かねばなるまい。

午前8:00に登山を開始して少し登ると鳥居があり平沢の稲荷社があった。

楡沢山城 (1)
地元で大事にされてきたようだが、最近は手入れされなくなっているようだ。

稲荷社から尾根伝いにしばらく急な山道が続くが、途中から道形がハッキリしなくなる。それでもポイント①までは何とか喘ぎながら到達することが出来た。

楡沢山城 (1)
当日のオンタイムのスマホ地図アプリのポイント①のスクリーンショット。(1304m)幸い電波は受信出来ているので一安心。

ここから坊主林道までは、等高線の間隔が詰まっていく=急坂という認識は地図が読める方には納得だろう。
我々も覚悟していたが、それにしてもこの急坂の角度はは想定外であった。

楡沢山城 (2)
小生の人生も「山あり、山あり」(笑)。 冗談はさておき、道に迷ったら安易に沢を下りてはいけないという鉄則は肝に銘ずべし。

そういえば、お城仲間の武蔵の五遁さんより、「楡沢山城に挑戦する際には、お仲間に加えていただきたい」との仰せを思い出したが、ご期待に沿う事は出来なかった。
万が一の不測の事態を想定した場合に、「安全は全てに優先する」という信濃先方衆の鉄則があるので、この場をお借りしてお詫びしたい。我々の安全自体も確証が無いのに、何かあったらご家族に申し開きが出来ない・・という小心ゆえであります。

楡沢山城 (4)
坊主林道手前の最終の登坂。標高約1520m。

楡沢山城 (5)
何とか坊主林道まで辿り着く事に成功する。(ポイント②)ここまで登山開始から105分なので、まずまず順調といったところか。

ここから当初計画のポイント③(城ヶ平の直下の登り口)までは坊主林道を横移動するつもりだった・・・。

楡沢山城 (2)
スマホ地図アプリのオンタイム画面。アナログの地図とコンパスと並行で使用することにより位置の確認の二重チェックを怠らなかった。

ここから約2km近く、坊主林道を歩くのである。

40度近い急斜面を登り続けた後に、カンカン照りの林道を並行移動するのは、結構しんどいものである。
しかも、林道から見た城跡への道のりを望見した時には、気が遠くなるような距離感に襲われてしまった。

そう、その思いと焦りが、我々を「ショートカット」という禁じ手に走らせる要因になったのである・・・。

楡沢山城 (8)
坊主林道から城跡方面を臨む。ここから更に林道を横移動して比高350mに挑むというのは、体力的にかなり厳しい。

次回、「心が完全に折れた85分の熊笹藪漕ぎと、誤認続きだった城跡の特定」を待て!!  (笑)

楡沢山城 (9)
歩くと分かるが、山の神の怒りに触れた坊主林道は至るところが土砂崩れや鉄砲水により寸断され崩落が酷い。

※この登山計画と表記しているルートは、楡沢山城への正しい道順を示すものではありません。ご注意願います。

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万が一に備え、家人に送った楡沢山城の地図情報。それなりの覚悟は必要であろう。

Posted on 2017/07/26 Wed. 22:21 [edit]

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