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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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二場城2 (リテイク 小県郡青木村当郷)  

◆信濃先方衆、青木村にて今シーズンの山城納め その4◆

青木村の今シーズンの最終は当郷地区にある「二場城(ふたばじょう)」。相方のていぴす殿のリクエストに応じたのですが、小生もこの城を訪問するのは実に9年ぶり・・・。

当時の曖昧な記憶では、雑木林に覆われた曖昧な遺構しかなかったように思えたのだが、今回は「スッキリ」(笑)
初回訪問の記事はこちらを参照➾ 二場城

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一瞬見上げた二場城のその光景に我が目を疑い、すわ、「史跡破壊か!」と思ったが、里山再生事業で史跡部分は問題なかったので一安心。

【立地】

上田市室賀と小県郡青木村の境に位置する飯縄山(いいずなやま 932.4m)の南麓の支尾根624mの先端に築かれた砦で、麓には見返りの三重塔で有名な大法寺、砦から北へ600mにはこの砦の本城とされる黒丸城がある。
古来、東山道の浦野駅があった場所の近くにあり、室賀峠、青木峠、保福寺峠からの往来を見張るには格好の場所に位置する。

二場城見取図①
ざっくりこんな感じの砦。

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郭3。伐木によりその全貌がお出まし。前方には土留めの石積が確認出来た。

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堀切㋐の東側に接続する腰郭。以前は藪に埋もれていた石祠が日の目を見ている・・・。

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その上の郭2と主郭の接続部分には石積みが見られる。


【城主・城歴】

小県郡史には二場城址として「二場城は浦里村当郷字日向の山の頂にあり。本郭は東西の幅、南邊にて十七間、北邊にて五間、南北十八間三尺あり。西南の方凡七尺低下して長二十七間、幅四間三尺の腰郭を南より西へ巡らす。更に南下して長九間、幅三間の腰郭あり。東南㋑下りて長十四間、幅三間の腰郭あり。北の方に堀切三箇所あり。所傳なし。」とある。

長野県町村誌にも黒丸城の麓にある砦として記載があるが、「何人の城址か詳ならず」としている。

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主郭と郭2。切岸はしっかり造作されている。

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主郭の切岸には土留めの石積が確認出来る。かなりアバウトな積み方なので戦国初期のものであろうか。

【城跡】

主郭は茄子のような形で東側に長さ15m、高さ1m弱の土塁がある。主郭背後の北側の尾根は二条の堀切㋑と㋒で遮断されているが、上巾はいずれも4~5m程度で脆弱である。
主郭の南側は三段の腰郭があり、削平はしっかりしている。西尾根を堀切㋐で遮断しているが、かなり曖昧な作りである。

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主郭の東に残る土塁痕

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南側から見た主郭(39×26)

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主郭から見た郭2とていぴす殿と南側の山々。東山道の監視には絶好の立地条件である。

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主郭背後の堀切㋑。

全体的に単純な物見砦の域を出ない作りで、堀切も浅く加工度も低い。黒丸城の砦として機能したと思われるが、戦国末期には捨て置かれたように思える。

9年前は笹薮に覆われて細部の観察は出来なかったが、今回尾根先全体を伐木し笹薮も完全に刈り払われた事で、貴重な遺構を目の当たりにすることが出来てラッキーだった。


≪二場城≫ (ふたばじょう 朝倉但馬守城)

標高:622m 比高80m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小県郡青木村当郷
攻城日:2019年4月28日(初回訪問:2010年)
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:15分
駐車場:無し
見どころ:堀切、石積み、切岸など
参考文献:「信濃の山城と館③上田小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 「小県郡史」
その他:現在伐尾根全体を伐木作業中なので、作業の無い日曜日のみ入山可能。植林もしているので、見学時に新たに植えた苗木を踏まないように注意が必要。

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毎度の事ながら、城址に重機が入っているとゾッとします・・・(汗)


Sは路駐場所(バス停近く)。集落内は狭いので駐車しない事。
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Posted on 2019/05/10 Fri. 23:04 [edit]

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城山 (小県郡青木村奈良本)  

◆信濃先方衆、青木村にて今シーズンの山城納め その3◆

前回紹介した「乗城」と「石川陣跡」そして、今回ご案内する「城山」の城址は、信濃先方衆の相方である「ていぴす殿」が「青木村誌」から得た情報を元に探訪している。

小生の地元バイブルである「小県郡史」には全く掲載の無い城跡なので、宮坂武男氏も未訪問に終わったのであろうか?

いずれにせよ「地元の城は、地元のヤツがキチンと調べて、世間に公表しなければならない」・・・この事である・・・(笑)

滝仙寺館(青木村) (5)
城山は麓の真田家家臣「池田出雲守定信」の居館である瀧仙寺館の要害と伝わる。(写真は2015年4月の改修工事中の瀧仙寺)


【立地】

小県郡青木村と松本市横川の境に聳える御鷹山(1623m)から派生した支脈の917mの尾根先にあり、滝川ダムの北東に位置する。城山麓には池田出雲守定信を中興の祖とする瀧仙寺がある。寺院が建立される前は在地土豪の居館がおかれ、池田氏の代になり改修が続けられたという。

城跡の背後まで林道が入っているが、途中からかなりの悪路になるので、オフロードのジムニークラスでも厳しい。滝川ダムへの道との分岐で無理せず車を捨てて徒歩で行くのがお勧めだが、松茸山なので7月~11月は無用のトラブルを未然に防ぐためにも入山しない事。

城山跡縄張図(青木村) - コピー1
久々に巻き尺で測定しつつ自力作製した縄張図。下には断面図を参考に付け足しておいた。

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郭2から見た主郭と堀切㋐。

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主郭から見下ろすとこんな感じ。

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切岸の角度と堀切の大きさが知りたい方の為に「ていぴす殿」に登場願おう・・(笑)

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堀切㋐の東斜面側には竪土塁を挟んで竪堀㋔を追加普請している。

【城主・城歴】

「青木村の史跡と文化財」には「城山は山城で池田氏の居城跡と伝えられている。築城年代は不詳。」と記している。地元では烽火台であるとの伝承もあり、青木村では平成三年四月に本郭を調査したというが、残念ながら炭やその他の遺物等も見当たらず狼煙台としての使用を裏付ける証拠は見つからなかったという。

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楕円形の主郭は背後の堀切側を削り残してU字型土塁としている。この辺の山城で良くみられる手法である。

良くわからないという方は、上の写真といたずら書きをしてみた下の写真を比較するとご理解いただけるかもしれない・・(汗)

城山主郭①

実は、こういうアグレッシブな補助線を書き加える手法は城マニアの皆さまから見れば元来ご法度なのだろうが、写真をただ掲載してあるよそ様のブログやHPを拝見してもさっぱり分からなかった(失礼・・)事に疑問を持ち、編み出した手法である。

「小学三年生でも分かる山城ブログ」・・・って言い過ぎか・・・(笑)

この趣味に限らず、誰でも初心者からスタートして経験を積みレベル上げしていく。ある程度のレベルになったとしても、入門してくる初心者を思いやる心を忘れてはいけないと思うのです。(ローマは一日にして成らず・・・何のこっちゃ・・笑)

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主郭の南側の切岸には石積みが残る。かなり崩落したようだが、平土留めようの平石が確認出来る。

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かつては本郭の周囲を囲むように平積みの石積みが残っていたという。

青木村誌では続いて「築城についての記などが記録皆無の為、池田氏の居城との伝承も明らかではないが、本郭からの眺望がすこぶる良い事、また構築の全容からみて、郭が小規模であることからして、山麓に居を構えたであろう土豪の、見張りの砦あるいは烽火台などとしても考えられる山城である。」と記載している。


【城跡】

当初、青木村誌の縄張図を見た時に、「単郭に段郭を重ねた程度の簡易な物見砦」ぐらいに考えていたが、現地踏査するとかなりしっかり手の加えられた山城であり驚いた次第である。

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主郭背後の二重堀切を主郭より見下ろす。

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いわゆる「W型」と呼ばれる堀底を持つ二重堀切。北側は集合掘りとして竪堀となり北側斜面を遮断している。

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二重堀切から見上げた主郭の切岸。

城山跡縄張図(青木村) - コピー1
再度縄張図を掲載します。

主郭は楕円形で背後は削り残したまま。土塁で囲む意図は無く、背後の二重堀切との切岸の高さを稼ぐためであろう。主郭の前後を堀切で遮断し、東側の堀切の先には削平が不完全な郭2(19×15)を置いて切岸加工している。また、傾斜の緩い南斜面側には数段の段郭を置き攻城兵を頭上から攻撃できる空間を造作している。
搦手には二重堀切を設営し、尾根の林道手前に上巾10mの堀切で遮断している。

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二重堀切の堀切㋒はかなり埋没している。

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郭5(8×4)

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郭3(20×10) しっかり削平されている。

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郭4(14×4) 真面目に測量するってのも久しぶりでした(笑)

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郭3から見た堀切㋐への切岸。

当初は物見台程度の平場が、武田軍の占領下において境目の山城として改修されたものであろうと推察される。黒丸城ほどの戦国末期の技巧性は無いが、西城や東城と同様の時期の改修が考えられる。

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二重堀切の先の郭6。削平は曖昧だ。

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搦手の堀切㋓。自然地形のように見えるが、東斜面の遮断の為に加工されたとみてもよさそうである。

以上見てきたように、青木村誌のいう小規模な烽火台跡ではなく、地元の豪族が境目の危急を知らせる砦として大勢力が改修を命じて詰めさせた砦と考えるのが妥当な気がする。

武田氏時代には青木峠や保福寺峠などの主要街道の見張砦として使われ、信玄亡き後の第二次上田合戦の際には、保福寺峠からの侵入に備えて真田の守備兵が入ったものと想定するがどうであろうか。

古城(青木村沓掛) (5)
対岸の沓掛温泉にある古城の登り口から見た城山。


≪城山≫ (じょうやま)

標高:917m 比高:217m(滝川ダムとの林道分岐点より)
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:小県郡青木村奈良本
攻城日:2019年4月28日、2019年5月3日(再踏査、縄張図作成)
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:30分
見どころ:二重堀切、切岸、郭など
付近の城跡:平城、古城、瀧仙寺館など
注意事項:止め山にて7月~11月末までは原則不可
参考書籍:「青木村誌」
SpecialThanks:ていぴす殿


※Sは路駐可能な箇所。四駆でもスタックしそうな轍の酷い荒れた林道なので、歩いて行きましょう。

Posted on 2019/05/06 Mon. 22:06 [edit]

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石川軍陣地跡  

◆信濃先方衆、青木村にて今シーズンの山城納め その2◆

小生もこのGWは9連休なので、休み明けに無事社会復帰できるか、今から心配である・・・(汗)

山々は新緑に覆われ始めているので、毎日山城へ出掛けてもイマイチ感動が少ないのは事実でしょうか・・(笑)

さて、今回ご案内する第二弾は「石川軍陣地跡」。1600年、西軍となった真田昌幸の征伐軍として秀忠に従った松本城の石川秀長(石川数正の嫡男)が、上田城の支城「冠者城」(かじゃじょう)を攻めた際の陣地と伝わる場所である。

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道の駅あおきから見た「子檀嶺岳」(こまゆみだけ)。冠者城の別名を持つ山城だが、ここは詰め城で本城は麓の西城とも。

青木村には三ヶ所の石川軍陣地跡が伝承として伝わる。そのうちの二ヶ所は、保福寺峠の街道筋にあり標柱もあるが、沓掛温泉の西側の山麓に伝わる陣地跡は村誌にのみ記載され、特に標柱らしきものはない。


【青木村沓掛に伝わる石川軍陣址】

この場所も「ていぴす殿」が青木村誌より仕入れた情報で、数段の削平地と石積み跡が残るという。
資料に示された場所を訪問し数ヶ所を探索するが、段郭は確認出来ても、石積み跡を発見することは出来なかった。

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広大な削平地で石積を探すていぴす殿。

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植林で削平された場所なのか、往時のものなのか判断できない地形。

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まあ、陣場としては雨風凌げる木陰のが良いと思うので、この辺りでも良いかと・・・。

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陣場跡近くの街道筋から見た青木村中心部方面。正面に先ほどまで踏査していた城山跡が見える。


【1600年(慶長5年)の冠者城攻めは史実なのか?】

秀忠軍として真田征伐に石川玄蕃頭康長(松本藩主)、日野根徳太郎吉重(諏方高嶋藩主吉明の弟の高明の子)は従軍し、家康の命により秀忠軍が中山道を美濃へ向けて進発すると、海津城の森忠政らと共に上田城の抑えを命じられている。

この時、石川康長と日野根吉重が真田の家臣池田出雲の守る冠者城を攻め、当初は戦いを有利に進めたが、池田長門守のだまし討ちに遭い、逆襲され敗走したという。

この話は「上田軍記」という松代真田藩の家臣が江戸時代(17世紀初頭)になって書いた書物に記されており、この書物は「上田合戦起こりのこと~安房守昌幸父子の九度山蟄居のこと」についてほぼ家記に近い形で編纂されたものだという。
歴史小説とは違うらしいが、真田沼田藩にて編纂された「加沢記」と同じく、誇張されたり史実を取り違えたりしている部分もあるようなので、史料としての信憑性には欠けているようである。

上田軍記について詳細を知りたい方は内容も含めてこちらへ⇒信州上田軍記


【保福寺峠の石川の陣地跡~おまけ】

小県郡青木村~松本市保福寺町を結ぶ県道181号線は、かつての東山道であり、東信濃と中信濃を結ぶ重要な街道であった。
江戸時代には松本藩側に番所が置かれ、人や物資の往来を監視するほどであった。

ここには青木村から保福寺峠に向かう途中、二ヶ所の石川軍の陣址の標柱がある。

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一遍水という水場近くの標柱。

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まあね、陣場はどこも似たような平場なようで・・(笑)

みなさん、さっきの「上田軍記」の描写でお気づきだと思うが、小諸に本陣を置いた秀忠軍。もちろん従軍の各武将の陣地も小諸かその周辺での設営であるはず。

石川康長と日野根吉重の部隊だけが保福寺峠に陣地を構えるのは合点がいかない。彼らの部隊がそれぞれの領地から保福寺峠を越えて陣を構えるなら理解できるが、わざわざ小諸から危険を冒して敵陣の真田の領地に侵入するとは思えない。

最初に冠者城攻めありきを具現化する為に松本藩から石川軍が派兵された・・・という話を裏付けする後付けの標柱であろう。

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それらしき史実っぽい注釈の書かれた標柱。

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数段平場が道路沿いに展開しているが、正直よくわからない。

実のところ、石川・日野根の部隊が攻めたという冠者城というのも正確にどの山城なのかは不明なままである。

小県郡史の「子檀嶺城(こまゆみじょう)」の記載にも、真田昌幸の統治時代に反乱を企てて立て籠もった斎藤某を信幸が大筒を麓から山頂に撃ち降したという伝承の記載はあるものの、慶長五年の紛争には触れていないし、長野県町村誌にも載っていない。

否定も肯定も出来ないが、地元で尾ひれ羽ひれついた伝承になった・・というのが真実のようである。

≪石川の陣地≫

場所:青木村沓掛釜房1ヵ所1ヵ所、青木村奈良本2ヵ所
造営時期:慶長5年(1600年)9月
お勧め度:無し
所要時間:-
見どころ:特になし 
注意事項:特になし
参考文献:「青木村誌」「信州上田軍記」など

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保福寺峠入口の石川軍本陣付近から見た子檀嶺岳。

Posted on 2019/05/04 Sat. 20:17 [edit]

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乗城 (小県郡青木村田沢)  

◆信濃先方衆、青木村にて今シーズンの山城納め その1◆

寝て起きたら「令和」の元号に変わっておりました・・・昭和は遠くなりにけり・・・(笑)

「平成最後の・・・・・」ってのが昨日までブレークして、きっと今日からは令和最初の・・・」ってのがはやりなんだろうなあ~。

今回ご案内するのは、我が信濃先方衆の「平成の山城納め・青木村編」。

子檀嶺岳①
青木村の北に聳える子檀嶺岳(こまゆみがたけ)から見下ろした青木村中心部。

小県郡の西端に位置する青木村は、古来より東山道が通り駅も置かれ、保福寺峠を越えて松本平に通じる交通の要衝でした。
戦国時代に入り、武田の統治下に入るが、武田氏が滅亡し真田氏配下となると、東筑摩との境目として砦が多く築かれました。

黒丸城、東城、西城、子檀嶺岳城、古城・・・いずれも保福寺峠、青木峠や地蔵峠、修那羅峠を越えて侵入する敵への備えだと思われます。

今回我々は、青木村誌に掲載されているが宮坂武男氏が未訪の乗城(のりじょう)、城山跡(しろやまあと)、石川軍陣地跡の三ヶ所と、黒丸城の出城と伝わる二場城(ふたばじょう)の調査に向かった。
以下、その内容をダイジェスト版でお伝えしたい。


【乗城】(のりじょう) 

立地:青木村田沢の木立地籍。集落内にある子檀嶺神社は屋敷址と伝わる。子檀嶺岳(1223m)の南西支脈の先端。

乗城①
尾根を削平した単郭で、両サイドの沢側は石垣で防御されている。

城歴:地元に城の名前と伝承が残るが詳細は不明

乗城②
郭の西側の石垣。堅固な組み方なので往時の遺構か?という疑問符は残る。

城跡:郭の上に更に広い鞍部があり、そこも調査したのだが、城の遺構など無くただの自然地形だった。郭は単郭で、人工的に尾根を削り削平したものだと確認。前後に堀切や段郭でもあれば確証が持てるのだが・・・。

乗城③
東側の石垣遺構。三段の石垣だったようだが、植林時に崩されたか崩落してしまったようだ。

ていぴす殿とも検証したのだが、石垣の上には柵が置かれ、三段の石垣の中央部に木戸が置かれたものであろう。
西の峠筋の沢は急で登坂が困難なので、敵の襲来は東沢筋を想定したと思われる。
単郭だが、峠の見張には格好の立地である。

乗城⑥
見張砦としては十分な広さであり、逃げ込み城としてはちょっと狭いか。

乗城④
郭から見た修那羅峠、青木峠方面。

子檀嶺岳城の出城と見れない事も無いが、この砦が造られたのは武田氏滅亡後の天正壬午の乱以降ではないかと推察される。
真田氏が小県郡を掌握し、領土防衛の為に峠の往来を監視させたものと思われるがどうであろうか。


≪乗城≫ (のりじょう)

標高:800m 比高:140m(田沢川より)
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:小県郡青木村田沢
攻城日:2019年4月28日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:20分
見どころ:削平地、石垣
注意事項:地形図アプリは必携、民家の裏山なので人がいたら挨拶。
参考書籍:「青木村誌」

乗城⑤
麓の集落から見た乗城。

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Posted on 2019/05/01 Wed. 12:58 [edit]

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志賀城跡(佐久市志賀)の西尾根遺構損壊事件  

◆地権者の無届作業による埋蔵文化財包蔵地の志賀城跡損壊事件◆

小生は読者の皆様がご存知の通り、twitterのアカウントを持ち、城郭探訪の際にはタイムリーに記事を発信しております。

4月14日(日)に、たまたまフォロワーの方のtweet記事を見て、愕然として我が目を疑うような写真に遭遇しました・・・(汗)

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ああ、ここは紛れもなく佐久市志賀にある雲興寺裏山にある志賀城の西尾根の最終堀切と附属する段郭の場所に違いない・・・。

記事を掲載したフォロワーさんに確認すると、どうやら北側の林道から作業道を開けているらしい。

なんでここに重機が入って作業道を開けなくちゃいけないの???伐木とか必要なの?・・

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現状についてtwitterを発信し、多くの仲間に事実を知ってもらい拡散していただいた。

すぐに数年前の白馬村の三日市場城の城址破壊事件を思い出した。

これ以上破壊をすすめさせては絶対にいけない・・・。時間との戦いだった・・・。

地権者が自分の所有地をどうしようが自由かもしれないが、ここは地元はおろか、全国区にその名の知れた志賀城址なのである。

その日のうちに、信濃先方衆の相方の「ていぴす」殿に連絡を取り、明日現地を訪問し損傷個所の確認をすることになった。
幸いな事に、地元佐久市のtwitterのフォロワーさんに今回の経緯と作業者について情報を提供してもらうことが出来た。

情報提供者には、佐久市の教育委員会に問い合わせするように依頼した。

「アマチュア城郭探訪家の我々に何が出来るのか?」

ダメもとで、長野県の教育委員会と佐久市の教育委員会に直訴することしか思い浮かばなかった・・・。

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志賀城の北側の林道から作業道の開けられた場所を捜索していた我ら信濃先方衆は、全くの偶然で地権者に話を聞く事が出来たが、市役所通報への相手からの報復措置も十分あり得るので詳細は伏せておく。

その後、直ちに佐久市の埋蔵文化財事務所に出向き、具体的な場所と縄張図を示して志賀城西峯損壊の件を通報し、保全を求めた。担当者は直ちに作業停止命令を出すと約束してくれた。

が、その通報の過程で、担当者からまさかの笠原城や高棚城と場所を勘違いしていないか?の言及となる。

申し訳ないが、我ら笠原城も高棚城も現地訪問しているし、志賀城と間違えるはずはない事を伝えた。担当者は沈黙した・・。

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その後、フォロワーの皆さんには多大な共感と拡散をいただき、その事が佐久市長の柳田氏にも伝わる事となり、柳田市長よりも直接返信をいただきました。

柳田市長のスピード感溢れる素早い対応、さすが・・・・。SNSの何ぞやを心得ていらっしゃる・・・・。

本日、市長より、経過について再度ご報告を賜りました。

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宮坂武男氏の鳥瞰図を載せるとは、なかなかツボを心得ていますネ(笑)

この市長なら、間違いなく処理してただけると安心しました。

小生を応援していただいた皆さん、ありがとうございます!!

地元の山城は、地元のヤツらが守らにゃ、誰が面倒みるのさ!! 我ら信濃衆の行動力も地元愛あっての胆力でございますw

志賀城(佐久市) (1)
笠原一族の菩提寺である雲興寺とその背後の志賀城。

小生のブログ記事を印刷して、志賀城の登城者に配布してくださる雲興寺様にも、ささやかな恩返しが出来るといいのですが・・。



Posted on 2019/04/17 Wed. 22:47 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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