らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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長沼城 (長野市穂保)  

◆廃城による破却と千曲川の氾濫により失われた縄張が推定復元された戦国の城◆

北信濃の長沼城といえば、甲越紛争における武田軍の飯山口方面攻略の最前線基地として改修され、そして天正壬午の乱では上杉景勝が北信濃の海津城攻略の中継地点として活用し、江戸幕府となってからは森忠政、松平忠輝が領し、元和元年には長沼藩一万石として初代藩主佐久間勝之の居城として交通の要衝に位置する戦国の世を駆け抜けた貴重な平城であった。

「?、であった???、 今は無いの?」

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千曲川の堤防道路の下には長沼城の唯一の遺構として残る土塁があり天王宮が祀られている。(2010年11月撮影)

6年前、それでもと痕跡を求めて僅かな遺構しか残っていない長沼城を訪ねてみたが石碑以外は何も見つけることが出来なかった・・・。

先輩諸氏のブログやHPでも上にある写真ばかりが並ぶ。

naganuma2.jpg
6年前の探訪時の写真。「千曲之真砂」の長沼古城之図」を当てはめるとこんな感じで、千曲川の氾濫により本丸付近は壊滅。

その城歴は凄いのだが、なんせ遺構の欠片がほとんど無いので攻城戦記にも掲載を躊躇していた・・・・。

ところが、先日、長野県立歴史館の企画展「信濃国の城と城下町」を見学した際に「長沼城の復元縄張図」があってビックリ!!

長沼城の現状を憂えた地元の有志の方が平成20年に長沼歴史研究会を発足させ、長沼藩時代の検地帳や廃藩後の千曲川の増水による被災記録の古文書を読み解くという地道な努力を重ねて、平成26年に縄張の復元案をまとめたのだ。(「長沼城の研究 ~城跡の検証~」をその年に発刊)

長沼城復元縄張図①
足掛け6年という地道な努力により平成26年に完成した長沼城の復元縄張図。

今回は、長沼歴史研究会の皆様の長年に及ぶ努力に敬意を表しつつ、復元縄張図を辿りながら長沼城の歴史を振り返ってみたいと思います。

【立地】

長沼城は、千曲川の左岸、善光寺平の北よりの千曲川自然堤防上に築かれた平城である。飯山城と海津城(松代城)の中間地点にあり、往時は北国街道の脇往還が通る交通の要衝でもあった。

長沼城立地
※長野県立歴史館平成28年度冬季展「信濃国の城と城下町」の資料集5Pの地図を加工して一部分を引用掲載しています。

【城主・城歴】

長沼郷は古くは太田荘に属し、地頭は島津氏で長沼には南北朝の頃から島津氏の一族が住んでいたという。
戦国期に入り、島津氏は上杉方についた長沼島津氏と武田方についた赤沼島津氏に分裂。島津月下斎(忠直)は高梨氏とともに上杉方に属して長沼城を守ったが、弘治三年(1557)二月、葛山城が武田氏の手に落ちると、詰めの城大倉城へ退き第四回川中島合戦で景虎の先陣をつとめたが、退却し越後に逃れた。

長沼城跡2017 (10)
長沼城の大手門跡。長沼りんごホール(長野市役所の分館)の駐車場腋のクランク付近。

長沼城跡2017 (11)
城の北側にあたり、大手門を入ると侍屋敷が立ち並んでいたと推定されている。

永禄六年(1563)、武田信玄は戦乱で荒廃した長沼城下の地下人をふたたび戻すよう島津尾張守忠吉(赤沼島津氏)に命じている。永禄十一年(1568)には信玄は長沼城を拡張し、兵力を増強する。長沼城将として市川梅印、原与左衛門、島津泰忠等で守らせ、島津泰忠には本領夏川(飯綱町)・西尾張部(長野市)・普光寺(飯綱町)などを安堵した。これ以降、長沼城は上杉攻めの武田軍の最前線基地となった。

長沼城跡2017 (1)
長沼城跡の復元縄張図と現在地の説明板がポイント箇所に設置されているので有難い。

長沼城跡2017 (9)
守田神社は現在地よりも100m東にあったというので、城の鬼門除けの役割を担っていたと推定される。

天正六年(1578)三月、御館の乱の時には、武田勝頼は上杉景虎の援軍として長沼城に入り越後へ出兵している。

天正十年(1582)三月に武田氏が滅亡すると川中島四郡は織田の将の森長可の支配下となり森は海津城に入城する。武田の信濃先方衆であった芋川親正は森長可の配下となる事をよしとせず、上杉景勝の支援を受けて自らが総大将となり反織田方の牢人衆と百姓や一向宗門徒約八千を集め大蔵城で一揆を蜂起。景勝の命を受け密かに長沼城に入城していた島津忠直と共に飯山城を攻撃するが、森軍の反撃に合い撤退。逆に長沼城を落とされ1200人余が討死。大蔵城に籠城していた婦女子約1000人が撫で斬りにされ、一揆は鎮圧された。芋川親正と島津忠直は越後に逃れた。

長沼城跡2017 (3)
守田神社の境内の南側が北側の三日月堀跡だという。

長沼城跡2017 (4)
神社側から見た北三日月堀の痕跡。僅かだが積雪の段差に往時の土塁(岸)の痕跡が残る。

長沼城跡2017 (5)
西側寄り撮影。微妙な段差がお分かりいただけるでしょうか。

天正十年六月、本能寺の変により信長が横死すると森長可は美濃へ逃れ、上杉景勝が北信濃へ侵攻し川中島四郡を手中に収めた(天正壬午の乱)。景勝は6月27日に長沼城に入城し川中島四郡の仕置きを行い、長沼城は城将として島津忠直が命じられ、河北郡司として北信濃統治をおこなった。また、武田方であった島津泰忠は赦され忠直付きとなっている。

長沼城跡2017 (6)
北三日月堀付近から見た二の丸跡。廃城により破却埋め立てされ、耕作地となり現在に至る。

長沼城跡2017 (13)
大手門から西へ。復元縄張図では三の丸に侍屋敷が置かれ、その外側に外堀があったと記されている。

長沼城跡2017 (19)

長沼城跡2017 (21)
三の丸西側の侍屋敷の中に建てられている吉祥庵。1650年の建立。この38年後に長沼藩は改易され城も廃城となった。

長沼城跡2017 (22)
現在では民家が立ち並ぶかつての侍屋敷通り。

慶長三年(1598)、上杉景勝の会津転封に従って島津忠直が長沼城を去ると、豊臣秀吉の蔵入地として代官の関一政が入城。その後、江戸幕府が成立すると、森忠政(森可成の六男で長兄は長可、長可が戦死すると森家の家督を継いだ)、松平忠輝が領し、元和元年(1615)に大坂の陣の功績により佐久間勝之に与えられ、ここに長沼藩(一万八千石、一部は近江領)が成立する。
※佐久間勝之は蒲生氏郷の家臣であったが氏郷の死去のあと、秀吉より既に長沼城を与えられていたという説もある

長沼城跡2017 (23)
二の丸正面にあったとされる西三日月堀の説明板。

長沼城跡2017 (25)
西三日月堀跡(推定)。堀の外側のカーブが筆境として確認出来るとしているが、全然見えない小生の目は節穴のようだ・・・(汗)

長沼藩は、佐久間勝之⇒勝友(勝之の次男)⇒勝豊(勝友の長男)と続き、佐久間勝親(婿養子、日向高鍋藩秋月種信の五男)の代の元禄元年(1685)に、将軍綱吉の御側小姓を命じられたが病と称して出仕せず、その後仮病とであったことが露見して改易、廃藩となった。

長沼城跡2017 (26)
二の丸の堀跡前に立つ三の丸の説明板。

長沼城跡2017 (27)
三の丸と言われても、耕作地が広がるばかり。

長沼城跡2017 (31)
説明板には中堀とあるが、二の丸の外堀の北側であろう。一部水路として残されたようだ。

【復元縄張図から見た城跡】

今回「長沼歴史研究会」の皆さんの努力によって蘇った「復元縄張図」は、「千曲之真砂」に掲載されている「長沼古城図」を基本に地形や地名(字名)を調査し辿ってつくられたものと推察される。

残念ながら長沼城は元禄元年の廃藩による廃城の際に、建物は破却され全ての堀は埋め立てられて石垣も撤去され完全な更地となり耕作地化してしまった。
加えて千曲川の氾濫原に隣接していたために度重なる洪水により嘗ての本丸付近の地形もだいぶ浸食・変形してしまい原形を留めていないいまいようだ。

長沼城跡2017 (32)
中堀跡の水路脇を堤防側に向かって歩くと櫓台跡の説明板。

長沼城跡2017 (34)
二の丸の北東で鬼門(隅欠)の位置に当たる。ここには望楼のような建物かあったのか?

本丸があったと推定される場所は、西側を堤防道路が貫通し東側は千曲川の河川敷となっているので全く不明だ。千曲川を背にした輪郭式の縄張りで、本丸と千曲川の間には馬場があったと指定されているが、川沿いには石垣は積まれなかったらしい。

長沼城跡2017 (36)
こんな積雪の中をわざわざ長靴に履き替えて狂ったように城跡巡りしているのは小生のみ・・・(汗)

長沼城跡2017 (38)
この堤防がなかった往時はどんな城跡だったのだろうか・・。現在の場所からは全く想像できない。

長沼城は元々は島津氏の居館であったが、永禄四年(1561)の武田軍の北信濃侵攻において、信玄に命じられた弟の武田信豊が大規模に改修し丸馬出を備えた武田流の縄張りの平城となり、その原型が出来たものと推察される。

長沼城跡2017 (42)
二の丸と西三日月堀の連結路付近は「おんま通り」と呼ばれていた。おんまは「馬」なので馬出しを意味しているようだ。

長沼城跡2017 (43)
広大な二の丸跡。冠木門跡は特定できていない。

永禄十一年(1568)、信玄は馬場美濃守信房に命じて長沼城を更に大規模に改修させ、越後攻めの最前線として大部隊が常駐できるようになったという。この時に侍屋敷を含めた総構えが出来たものであろうか。

武田滅亡後も北信濃の重要な戦略上の拠点として随時拡張と増強をされたものと推定される。また、上杉景勝の統治時代には、長沼城下を繁昌させるために北国街道の脇往還は横道でなく長沼の城下を通行するように命じたという。

長沼城跡2017 (45)
本丸内堀跡。積雪で雪の下に水路があるのが分からずトラップに引っかかり落ちました・・・(笑)

長沼城跡2017 (48)
堤防道路(本丸跡)に登って内堀付近を見下ろしてみた。

長沼城跡2017 (54)
堤防道路には新しく復元縄張図と説明板が建てられていました。地元の方の熱意に感謝ですw

長沼城跡2017 (52)
小生がグダグダと語るよりも分かり易く要約された城歴・・・(笑)

長沼城跡2017 (53)
現在千曲川の河川敷にはかつてこのように本丸と馬場があったんだと想像してみた。

いかがでしたでしょうか。「らんまると歩く雪の長沼城址」・・・・(爆)

遺構の跡と思われる場所に、最近流行りのVR(バーチャルリアリティー)を組合わせてスマホ片手に往時を偲ぶってのもありかと思います。是非ご検討いただければ幸いです。

長沼城跡2017 (57)
唯一の遺構として紹介される事の多い南三日月堀の土塁の一部。(堤防側より見下ろして撮影 天王宮がある)

長沼城跡2017 (64)
天王宮が祀られている土塁の一部を西側より撮影。手前の道路と土塁の右側に三日月堀があったのだという。

長沼城跡2017 (62)
せっかくなのでもう一枚。冒頭の写真と見比べていただくと整備されたのが分かるかと思います。

長沼城跡2017 (68)
こんな感じで想像していただけると良いかと思いますw

長沼城跡2017 (70)
城域の南端の貞心寺も周囲を堀に囲まれた屋敷跡だった。

復元縄張図の南端には周囲を堀に囲まれた方形の居館跡が二つ描かれている。東側は貞心寺で、長沼藩二代目藩主佐久間勝友が早世した長兄の嫡男である勝盛に5000石を分知した際に、勝盛が知行所(代官屋敷)を置いた場所である。(長沼知行所)
元々侍屋敷のあった場所を勝盛が譲り受け利用したと思われる。

長沼城跡20171 (1)
ここは佐久間勝盛5000石の知行所が置かれたが23歳で亡くなり嗣子なく断絶となった。

北信濃における重要拠点として海津城とともに武田に築かれた長沼城。廃城と破却によりその姿は謎のベールに包まれていたが、かつての雄姿を見る事は敵わないが、少しずつだが往時の輪郭が見えてきたことは凄い進歩だと思います。

平成29年度には長野市教育員会による試掘も予定されているので、今後の調査に期待が持てます。

≪長沼城≫ (ながぬまじょう)

標高:332m 比高:-m
築城年代:不明
築城・居住者:島津氏、武田氏、上杉氏、森氏、松平氏、佐久間氏
場所:長野市穂保
攻城日:2017年2月11日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
館跡までの所要時間:-分 駐車場:長沼りんごホール借用
見どころ:南三日月堀土塁痕、北三日月堀塁線跡など
注意事項:民間住宅への無断侵入禁止、耕作地も通路以外は無断侵入禁止。地元の方とすれ違ったら挨拶を忘れずに。
参考文献:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P307参照)、「長沼城復元縄張図」(平成26年 長沼歴史研究会)
付近の城址:西巌寺、佐久間氏館(佐久間長助居館)、大蔵城など

長沼城跡2017 (55)
堤防道路の東屋の横に解説版があります。東屋を下った先に三日月土塁痕があり天王宮が祀られています。

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Posted on 2017/02/20 Mon. 16:56 [edit]

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表木城 (伊那市西春近)  

◆西春近の南部を統治した表木氏の館城◆

「おんな城主 直虎」は最初の2~3回見ればいいかなあーなんて思っていたら、子役の演技に引き込まれてしまい毎回見る羽目になっている・・・(笑)

亀之丞(のちの井伊直親)が井伊谷を追われ、青年になるまでの12年間を過ごした地が南信濃の松岡城(松源寺)というのも何かの因縁であろうか。もうしばらくはお付き合いしてみますか。

で、今回ご案内するのは、上伊那(かみいな)の表木城。この辺りは段丘を利用した館城が多いのが特徴で、似たような縄張の城がしばらく続くのだが、ご了承願いたい。

IMG_1175.jpg
平成26年3月に設置された地元の自治会協議会の標柱と説明板。後世に伝えたいという気構えが感じられて嬉しかった。

【立地】

表木城は、伊那市西春近表木下村の西側段丘崖面上を利用して構築された平山式館城で、郭が南北に長い方形連郭式に含まれる。城郭の東側はJR飯田線開削時に破壊されたらしく、残念ながら往時がどのような形態を留めていたのかは不明となってしまった。

表木城①
飯田線が城内を貫通してしまったが、これだけ遺構が残っているので良しとすべきであろう。

表木城(伊那市) (1)
城域南側から見た表木城。堀切㋑の道路は地元では「ほりみち」という呼び名らしい。

表木城(伊那市) (3)
堀切㋑。道路を設置するには都合の良い幅であったらしい・・(笑)

表木城(伊那市) (10)
郭3(南郭)は東西に二段の段差を持つ変則的な郭だったようだが、飯田線に分断されていまい細部は不明のままだ。

表木城(伊那市) (12)
線路に分断されたが僅かに残る郭3の東側。

【城主・城歴】

※以下は「定本 伊那谷の城」(1996年 郷土出版社)のP64の飯塚政美氏の記述を引用し掲載。

表木一帯は典型的な中世郷村制を形成していたとみえて「鰍在家(かじかざいけ)」なる小字名がかなりの広範囲にわたって残存している。「表木」の名が文献上に初見されるのは文明十九年(1487)である。
この年の七月、高遠の諏訪継宗は伊那の軍を統率して諏訪に攻め込んだ。この経過を「諏訪御符礼之古書」では次のように記している。
「此年七月二十七日、信州有賀へ箭(や)あそはし候、同年被食福島孫七、真木殿、面木氏、中沢高見打死候、御射山無御延引故候、八月七日迄、鞍懸御陣被御座候有賀へ矢射、其間之りうか埼之城取立候、御知行候」。この合戦で福島孫七、真木氏、面木氏、中沢高見氏は討死している。福島孫七は伊那福島郷の、真木氏は福島郷に隣接している牧郷、面木氏は表木郷、高見は駒ケ根中沢郷の地頭であったろう。

表木城(伊那市) (15)
堀切㋑は線路によって一部を埋めたてられたが、南の防御ラインとして厳重に仕切っていたのであろう。

「下高井郡山ノ内町温泉寺所蔵武田信玄書状」によれば、永禄三年(1560)十月、武田信玄は京都清水寺成就院に伊那郡面木郷を寄進している。このことからして戦国期には表木氏は信玄配下となっていたことがわかる。

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主郭の四方を囲む堀切㋐。巾・高低差ともに文句なしの防御である。この地域のトレンドとして根付いたようである。

表木城(伊那市) (26)
主郭西側の虎口。全方位を2m~3mの土塁が囲む主郭の唯一の入口である。

表木郷一帯は諏訪神社関係御造営に積極的に取り組んだとみえて次のような記録がある。まず大永四年(1524)二月び「造営日記帳」に面木、天正六年(1578)二月の「造営手形之事」に表木郷、さらに同年「諏訪社上社郷柱諸役造営帳」には「面木之郷弐百、三百文 代官 百姓輪番」。

表木城(伊那市) (29)
主郭内部。飯田線の破壊が無ければ50×50の方形だったと推測される。

表木城(伊那市) (32)
主郭の周囲は葯4mの高い土塁が周回している。


伊那武鑑根元記」によると、「表木主膳十八貫ヲ領シテ仝村表木ニ住ス共ニ小出犬坊丸ノ末孫ニテ世々高遠城ニ属シ、天正年中仝氏ノトキ家名ヲ失ヒ其跡年貢地トナル」と記してあるが、その事実は詳らかではない。この文献の信憑性は問われるが、全般的に考えると、この十八貫文領から推察して、表木城は一時期に築城したのではなく、徐々に規模を拡張したのではないか。
総合的にみて、表木城は室町時代前期頃にその母胎が築かれ、戦国期に滅亡したと想定され、この「流れとともに表木一族の変遷を物語ってくれているのであろう。周辺には「タイホウ」という小字名がある。 

(以上、引用終わり)

表木城(伊那市) (40)
郭2(北郭)。

【城跡】

主郭は高さ4mもある立派な土塁が三面を取り巻いていて、西側中央に虎口が開いている。東側は飯田線の線路の為に削られているが、本来の姿は方形の形で周囲を土塁で囲まれていたと推定される。
主郭を取り囲む堀切は上巾20mほどの巨大な薬研堀で、堀底から土塁の上部までは10m以上の高さがある。
北側と南側には大堀切を隔てて郭が連なり、更にその外側も堀切で防御されているので、連郭式の館城であったようだ。

表木城(伊那市) (41)
郭2の北側の堀底は水路が走っている。

表木城(伊那市) (49)
主郭と郭2(北郭)の間の堀切㋐。上巾20mを越える。

表木城(伊那市) (48)
堀切㋐は箱堀ではなく薬研堀で、往時はもっと深く傾斜もキツかったと推定される。

表木城(伊那市) (52)
堀切㋒の線路より東側。

郭3の南側には横堀㋓が構築されているが、主郭を周回する堀切㋐とは接続されていないので、あとから普請されたのであろう。
宮坂武男氏はこの堀切㋓を大手方面と推定しているが、堀切㋑の堀底を経由して西へ回り込むのが大手という事も考えられる。

表木城(伊那市) (57)
堀切㋓の脇を郭3に向けて登る「ていぴす殿」。

南信濃の戦国時代は、武田信玄が諏訪氏を滅ぼすと同時にいち早くその占領下におかれた為に、戦国大名の国境紛争とは無縁に思われがちであるが、弱小の国衆故に家名存続に対する執念は北信濃の国衆よりも強かったかもしれない。

残念ながら表木氏は刻一刻と変節を遂げていく戦国時代を乗り越えられなかったが、彼らの居館城はこうして残ったのである。
彼らの魂は、不明な点の多い表木氏の経歴を調べる研究者の出現を待ち望んでいるのかもしれない・・・・。

表木城(伊那市) (23)
地元の自治会の皆さんが現地に立てた説明板。内容もしっかり精査されていたので驚いた。

≪表木城≫ (おもてぎじょう )

標高:647m 比高:30m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:伊那市西春近
攻城日:2015年2月22日 
お勧め度:★★★★☆ 
館跡までの所要時間:5分 駐車場:無し(路駐)
見どころ:大堀切、土塁、方形居館跡
注意事項:線路への立ち入りは厳禁。
参考文献:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P279参照)、「定本 伊那谷の城」(1996年 郷土出版社)
付近の城址:物見や城、小出城、義信の城など
Special thanks:ていぴす殿

表木城(伊那市) (18)
伊那谷の城は、飯田線に破壊された場所が結構多いのが特徴かもしれない・・・(汗)






Posted on 2017/02/10 Fri. 22:13 [edit]

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小黒城 (伊那市西町)  

◆住宅地の中に眠る中世の館城◆

二年前に同胞のていぴす殿にずいぶんと南信の城をご案内いただいたのだが、お披露目することも無く眠ったまま・・(汗)

賞味期限もさる事ながら、記憶も曖昧になる前に引っ張り出して掲載することにしました・・(笑)

小黒城(伊那市) (10)
郭3の跡に神社(大山社)がある。

【立地】

前回ご案内した伊那市の春日城の約500m南にあり、小黒川が天竜川に合流する地点の河岸段丘上に位置する。周辺は住宅地が造成され、段丘下は飯田線と国道153号線が走り、その周囲には商業施設が並ぶ。開発から取り残されたように小黒城がある。

小黒城(伊那市) (2)
神社脇の鉄塔は堀切㋓が埋められた場所に立っている。見学の際はこの場所に止めさせてもらおう。(道路が狭いので注意)

【城主・城歴】

この城についての記録や伝承は全くなく不明。長野県町村誌には「小黒の古堡」として「本村の内東南にあり。残塁尚存す。何人の居住せしや事歴分明ならず」とある。その絵図には二つの方形の曲輪が並びその周囲を堀が囲んでいるという。

小黒城見取図①
小黒城概略図。(yahoo地図に加筆)郭として確認出来るのは1と3で、2は残念ながら住宅地となり改変されてしまった。

小黒城(伊那市) (13)
神社(郭3)の北側の道は堀切跡。突き当たりには主郭が位置する。

【城跡】

天竜川に注ぐ小黒川の合流地点が形成する河岸段丘は比高が約30m程にもなるので、この段丘の先端は要害地形となっている。先端角地の主郭は52m×50mのほぼ方形で、周囲を高い土塁で囲まれている。土塁の所々には土留め用に用いたとみられる石積も散見出来る。

宮坂武男氏が訪問した平成9年の時の縄張図では郭2が果樹園になっていたが、小生が訪問した時にはすでに住宅が建てられており遺構は確認出来なかったが、主郭との間の堀切㋐は辛うじて残されていた。

小黒城(伊那市) (17)
堀切㋒。右が郭3(大山社)、左が郭1。春日城の堀との共通点が伺える。

小黒城(伊那市) (18)
堀切㋒を南側より撮影。郭4は宅地造成により壊滅したようだ。

郭3の西側の鉄塔のある場所から南側は斜面に堀形が確認できるので、鉄塔も含めて北側に一条堀切があり、郭4の先でL字に折れて堀切㋐に接続していたものであろう。
郭3と郭4は現在道路で仕切られているが、形状を見るとここにも堀があり区分けされていたものと想像できる。

小黒城(伊那市) (20)
果樹園だった郭2には壮大な石壁の庭園を持つ民家が建っている。

小黒城(伊那市) (21)
広大な巾を持つ堀切㋐。やはり春日城との共通が想定される。

●主郭

周囲を土塁で囲まれた貴重な遺構で、住宅地の中にこのような場所が残されていたことに驚くと共に地主の方に感謝したい。
ていぴす殿はよほどこの城館がお気に入りなようで、数え切れないほど訪問しているのだという。
伝承不詳の城とはいえども、せめてここだけは何とか後世に残して欲しいと思う次第である。

小黒城(伊那市) (24)
広大な主郭。

小黒城(伊那市) (26)
土塁で囲まれた方形居館であることがよく分かる。

小黒城(伊那市) (30)
主郭から見下ろした堀切㋐。

小黒城(伊那市) (41)
土塁に残る土留めの石積み。

小黒城(伊那市) (42)
堀切㋒越しに見た対岸の郭3(神社)

小黒城(伊那市) (35)
西側の平虎口。

春日城に近い事や堀の構造・縄張がよく似ていることから、小黒城の主は春日氏に近い人で、春日城の南側の防衛を担った事が想定される。

これほど見事な遺構が残る小黒城、官民挙げて後世に残して欲しいと切に願う次第である。


≪小黒城≫ (おぐろじょう )

標高:667m 比高:30m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:伊那市西町小黒
攻城日:2015年2月22日 
お勧め度:★★★★☆ 
館跡までの所要時間:5分 駐車場:無し、鉄塔付近にスペースあり
見どころ:大堀切、方形居館など
注意事項:住宅密集地なので撮影時のプライバシーに注意、道路狭いので無断駐車厳禁
参考文献:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P279参照)
付近の城址:春日城、狐林城など
Special thanks:ていぴす殿

小黒城(伊那市) (36)
主郭の見事な土塁。

Posted on 2017/02/05 Sun. 10:45 [edit]

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「信濃の国をめぐる城郭」シリーズを完結させたいという野望  

◆越後の国境を越えなかった宮坂武男氏の謎◆

亡き父の葬儀を終え、色々な手続きや四十九日の段どりが一段落した。分家の身上なので仏壇も無いしお墓も用意してないし「お気楽オヤジ、ええ加減にせい!」という状態・・(汗)

さりとて身内の死という経験は初めてなので何もかもが初体験で手探り状態だし死者に鞭打つ訳にもいかない・・・(汗)。
でもって、今は相続人の確定という作業に入っている。

父の出生地が兵庫県だという事はなんとなく聞いていたが、父の人生の半分は全く不明である。少しは会話でもして聞いておくべきだったと後悔しているが、戸籍謄本の改正原戸籍を調べると、小生の知らない彼の人生の履歴書の一部を垣間見る事が出来る。

兵庫県朝来郡山口村○○○番地(現在の兵庫県朝来市)

そう、天空の城の竹田城や生野銀山で有名な朝来市(あさごし)である。この続きはいずれまた何かの機会にご報告出来ればと思う。

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「えっ、ようやく買ったの?」 と思われそうだが、その通りである。

宮坂本シリーズのラストを飾るこの本の出版は2015年11月。甲斐も上野も中途半端で南進する事に躊躇していたのである。

「今年こそは飛騨の山城と城館巡りに行きたい・・・」 その思いが募り、とうとう購入したのであった・・・(笑)

この本に掲載されている346の城館で行った事のある城は「岩村城」と「設楽城」のたった二ヶ所だけである・・・(汗)

iwamura18[1]
岩村城の六段壁。

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設楽城の郭2に残る土塁。

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まあね、仏様になるm為に三途の川を渡り、四十九日までに凡そ730kmを歩いておる父の供養にでもなればとブログを再開してみました。

それにしても宮坂武男氏が越後に攻め入らなかったのは、武田信玄の版図を意識しての造作なんでしょうかねえ・・・。

何はともあれ、この本を購入してしまったからには、まだまだあの世には行けませんなあー・・・(笑)

Posted on 2017/01/31 Tue. 22:39 [edit]

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0113

忌中  

先日、父が亡くなり喪に服しております。

忌中につき、2月22日までブログの更新は控えさせていただきます。

何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

by らんまる攻城戦記管理人

閻魔大王1

Posted on 2017/01/13 Fri. 09:09 [edit]

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