らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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元寺場跡 (松本市波田)  

◆白山信仰を今に伝える山岳系寺院跡◆

山城の記事もロクにアップ出来ないのに、「神社仏閣巡りしている場合か!」とお叱りを受けそうなのだが、戦国時代に築かれた中世城郭を語るには、宗教的な背景を知っておく必要もあるのです・・・(ま、苦しい言い訳か・・笑)

今回ご案内するのは、昨年6月に記事にした「若澤寺跡」(にゃくたくじあと)の前身のお寺だったと伝わる「元寺場跡」(もとてらばあと)。

元寺場跡 (30)
修験者の苦行とは比較できないにしても、素人の我らでもこの場所への到達は難儀した・・(汗)

【立地】

松本市の波田地区は長野県のほぼ中央に位置し、梓川流域右岸に広がる河岸段丘と飛騨山脈より分かれた山岳地帯、ならびにこれに連なる山麓平地より成り立っている。波田地区の中央にある白山(1387m)の山頂付近に「元寺場跡」(もとてらばあと)、中腹の水沢に「若澤寺跡」がある。また、若澤寺跡の沢を挟んだ北東には戦国時代の山城の波田山城がある。

元寺場跡 (2)
若澤寺跡(中堂救世殿)  久々に見学したら絵図看板が追加されていた。

若澤寺跡には何回か来ていて、その上の元寺場跡(1250m)と白山(1387m)へは、いつかチャレンジしたいと思いつつ、その機会が無かった。が、今回信濃先方衆の課題であった「殿様小屋」探索が藪が酷くて途中で頓挫したため、急遽未訪の白山修行の旅と相成った訳である・・・(笑)

周辺図①
周辺地図を見ると楽勝な高さに見えるが、若澤寺→元寺場跡までは比高300m、若澤寺→白山山頂に至っては比高437mとヤバイ

ロクな下調べもせずに、「1時間もあれば着きそうだネ・・・」なんて例の如くお気楽極楽で若澤寺の田村堂から白山目指して登り始めたが、白山信仰の権現様だけに、そうたやすく近寄る事は赦されなかった・・・(汗)

【元寺場跡の変遷】

元寺場跡は、若澤寺の前身のお寺と伝えられ、神仏一体で信仰されていた平安・鎌倉時代に山岳信仰の寺院として建てられたと推測されている。(当初は天台宗であったが訳あって途中から真言宗に宗旨を変えたらしい)
この元寺場跡では、平成11年から3年間、現地で発掘調査が行われ、その結果、平安時代から戦国時代にかけての皿や灯明具など、寺で使われていたことを示す遺物が多く出土した。
このことから、少なくとも一定期間は白山信仰の山岳系寺院として利用され、修験者の修行の場としても活用された事が確認された。
しかし、16世紀以降の遺物は発見されていないので、江戸時代以降はこの場所は利用されなくなったと考えられている。

元寺場跡 (6)
かなり傾斜のキツイ尾根を喘ぎながら登る。1100m付近から見る景色の高さに驚く。

元寺場跡 (7)
元寺場の手前標高1200m付近から見た松本平。信仰心があったとしても、毎回は勘弁して欲しい距離と高さである。


【白山頂上に祀られた白山権現】

その山の名前から、山岳信仰から修験道として体系化された白山信仰の拠り所で、現在は頂上には祠が一つあるだけだが、数段にわたって人工的な平場が確認出来るので、かつては白山権現を祀る建物があったものと推定される。
元寺場跡との比高差は137mもあり、道も消えかけた険しい道のりで人を寄せ付けない場所にある。

元寺場跡 (9)
白山山頂(1387m)の白山大権現の祠。

元寺場跡 (10)
白山の三角点。

元寺場跡 (14)
小屋掛けするには十分な山頂付近の削平地。

加賀・越前・美濃の白山信仰が何故この場所に?と思う方もいらっしゃるだろうが、この波田地区は飛騨と信濃の国境の地であり、古来より飛騨と信濃の深志を結ぶ交通の要衝であった為に信仰がスムーズに受け入れられたのであろうと推測される。

元寺場跡 (17)
白山からは梓川を挟んだ対岸に西牧氏の本城だった北条城が見える。


【元寺場跡の構成】

平成11年(1999)4月から3年間にわたり、考古学的発掘調査が行われた。大きく4つの人工的な平場から構成され、遺跡全体の面積は中腹にある若澤寺よりも広い。(若澤寺の広さは1.1ha)
「平場1」の基壇には、中心であった堂の礎石が残っており大きな建物が建っていたと考えられる。北側にもうひとつ方形の基壇があるが、礎石は見当たらないので増設工事中に中断したか建物を伴わない宗教空間であったかは不明だ。
南に一段下がった「平場3」には方丈のような建物の礎石群が発見されているので、少なくとも寺場跡には二つの建物があったと推定されている。

元寺場跡見取図①
パンフレットに掲載されている発掘調査図を転載しています

元寺場跡 (19)
白山山頂に向かう稜線から少し東へ下った場所に広大な元寺場跡が出現する。

元寺場跡 (21)
堂跡の基壇1。方形に盛土されているのが確認出来る。

元寺場跡 (23)
堂跡の礎石。しっかり残っている。

元寺場跡 (26)
堂跡の北側の「基壇2」。ここには礎石が無いが、堂跡と似たような広さだ。

元寺場跡 (22)
平場2から見下ろした平場3。藪の下に礎石が発見され、建物跡が確認されたという。

1270mの高所に広大な山岳寺院の跡がある、というのも驚きだが、若澤寺跡から片道1時間以上もかかるこの場所で3年間に渡る発掘調査作業が行われていたというのも驚嘆である。さぞかし屈強な肉体と体力をお持ちの調査隊だったのであろうか・・(汗)

元寺場跡 (27)
平場3の建物跡地。基壇が無いので坊さんや修行僧が生活を営んだ方丈があったのだろうか。

元寺場跡 (29)
標柱のある場所が寺の正面入り口。(南側の平場3より撮影)

元寺場復元図①
戦国時代にはこのような山岳系寺院がこの地にあったと推定される。(パンフレットより転載)

元寺場跡 (33)
今回、信濃先方衆は修行の旅となった。毎回険しい場所にある遺構にお付き合いいただいている頼もしい相方の「ていぴす」さん。

元寺場跡 (35)
東側の参道から見上げた元寺場の入口。後光が差しています・・・

絵図①
江戸時代に描かれた「彩色若澤寺絵図」にも元寺場付近の白山社が描かれている。建物はその後朽ち果てたのだろうか?

今回の訪問後、旧波田町(現在は松本市)教育員会のが平成17年に発行した「若澤寺を探る2」を探して読んでみた。(順番が逆だろうが!・・・笑)
素晴らしい調査報告書で、とても感嘆した。たぶんないだろうが、この報告書を呼んだ後に、もう一度現地に建ってみたいと思った次第である。波田町の地域の歴史に対する真摯な姿勢を感じた。

最後に、小生のここ数年のテーマとなっている「宗教空間を取り込んだ戦国時代の山城」の問題提起として、ここにパンフレットの鳥瞰図を転載してみたい。

復元図①

この図を改めて見た時に、ハッと気が付いた。これこそが、戦国時代における「若澤寺宗教空間復元図」なのだ。

上田市にある塩田城、松本市四賀の虚空蔵山城が極めて酷似している。山岳信仰や修験道を基調とする宗教空間に山城を取り込み、民衆の信仰を保護し為政者の統治を正当化しているように思われる。
しかし、このテーマに突入するのはかなりの覚悟と調査・裏付けが必要で、先日岩櫃城フォーラムで拝聴した斎藤慎一氏の講演に共感しつつ、宗教という得体のしれない分野に対する恐怖心もあり、イマイチ踏み込めない世界でもある・・・(汗)

元寺場跡 (31)
取り付け金具が恐ろしい力で破壊されていたので、説明板を木の根に置きなおした。この先誰がこの場所に来るのだろうか。

≪元寺場跡・白山≫ (もとてらばあと・はくさん)

元寺場跡→標高:1250m 比高:300m (若澤寺跡より) 白山→標高:1387m 比高:437m (若澤寺跡より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市波田地区
攻城日:2017年10月9日 
お勧め度:★★☆☆☆ (山岳系寺院に興味がある方のみお勧め)
白山までの所要時間:90分 駐車場:林道脇に路駐
見どころ:祠、基壇、基礎跡
注意事項:元寺場跡から若澤寺へ続く旧参道は途中で道が消滅するので行ってはいけません。我ら信濃先方衆は遭難寸前だった
参考書籍:「若澤寺史跡保存会パンフレット」・「若澤寺発掘調査報告書」(波田町教育委員会)
付近の寺跡:西光寺、阿弥陀堂、熊野権現、盛泉寺など 
Special Thanks:ていぴす殿 

元寺場跡 (2)

元寺場跡 (3)
若澤寺跡に残る石仏には、廃仏毀釈で切断された首に痛々しい傷が残る。「排除」という名目で被害にあった寺院の哀しさである。
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Posted on 2017/10/17 Tue. 21:12 [edit]

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茶臼山陣場 (長野市篠ノ井有旅)  

◆第四次川中島合戦における武田信玄の本陣跡◆

増え続ける城跡の訪問数にブログの更新が追いつく日が来るのだろうか・・・・毎日アップしたとして2年はかかりそうだ・・(汗)

明日の事は誰にも分からないので、せめて心残りの無いように精進するとしよう・・(笑)

今回ご紹介するのは、4年前に訪問した武田信玄本陣跡と伝わる茶臼山陣場。もはや当時の記憶など断片的でしかない・・(汗)

茶臼山陣場 (1)
長野市篠ノ井駅から県道86号線に入り茶臼山動植物園の入口を過ぎて信里小学校前を右折し農道を200mほど入る。Y字路を左へ

【立地】

長野市篠ノ井の西方丘陵上に茶臼山がある。この山稜は南北に伸びる 平頂山稜で、現在では茶臼山北峯(標高730m)のみ姿を見ることができるが、地すべ り発生前はその南に並んで茶臼山南峯(推定標高 720m)が存在していた。この南峯の 頂上が割れ、東側の斜面に地すべりが発生し失われた。現在地形は大きく変わってしまったが、この山上の平坦地一帯が川中島合戦時の陣場跡と考えられている。

茶臼山陣場 (2)
稜線に沿った農道の北側に旗塚の標識が見える。

茶臼山陣場 (4)
稜線の北側は地滑りで崩落しているが、その内側に数ヶ所旗塚が残っている。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」の旧石川村の古蹟に「茶臼山の砦」で、「村の北方にあり。東西十間南北九間の平坦にして四郡を一望に観る。中央に大山祇命を祭る。里俗伝に永禄四年(1561)九月甲越戦争の際武田信玄は本郡有旅村の茶臼山に本陣を据へ、弟刑部小輔信廉此砦に将となり、以て上杉謙信が妻女山の動静を候がひしと云ふ。」とあり、「茶臼山砦ノ図」が載っている。
隣接する山布施村にも川中島合戦における信玄の本陣との言い伝えが残り、ここを有旅城とする説もあるが、それらしい遺構は見当たらない。

茶臼山ノ砦
「長野県町村誌」に掲載されている茶臼ノ砦図。※長野県町村誌より転載。

茶臼山陣場 (5)
No.8の旗塚。旗塚は全部で9基あったようだが、現地で確認出来るのは6基のみである。

【城跡】

茶臼山の北嶺の山頂はここから北東350mにあり、その間の部分は地滑りで大きく崩落している。ここの山頂部は狭く南側を除く三方は地滑りで出来た崖に囲まれかつての面影は知る由もないが、昭和初期の写真には崩落前の南峰と北峰が写っている。
これだけの旗塚があれば、北峰と南峰の稜線の間に砦としての遺構が残っていても不思議でないが、大規模な地滑りで崩落している現状では確認のしようがない。
大軍を率いて武田軍が陣地として布陣したのは、旗塚のある稜線から信里小学校までの緩い南向きの台地上と推測される。ここからは川中島の様子が手に取るようにわかる位置である。

茶臼山陣場 (16)
武田軍が駐留したであろう南斜面。

茶臼山陣場 (26)
旗塚の東端には武田信玄陣場跡の石碑が建立されている。

茶臼山陣場 (21)
尾根の稜線の北側は抉れるように崩落している。

茶臼山陣場 (22)
指呼の間に川中島が見下ろせる。

茶臼山陣場 (24)
尾根先は断崖に囲まれているが、かつてこの先に南頂と東小屋があったらしい。

【茶臼山の地滑りについて】 ※長野市立博物館のHPより引用

地すべりの発生は、1847年(弘化4年)の善光寺地震によって地下に割れ目が生じたことが原因と考えられます。1884年(明治17年)に南峰頂上に地割れが生じ、その後山体の東側が徐々に沈みはじめ、山腹の各所にも亀裂が生じました。1930年(昭和5年)になると、梅雨期の長雨を契機に地すべりが活発化し、地すべり地上部全体で移動が始まりました。その後長いあいだ地すべりが続き、地すべりの先端は2km下の山麓まで達しましたが、1965年(昭和40年)から深井戸や排水トンネルの掘削などの強力な排水工事が実施されたことにより、次第に安定化しました。地すべりがおさまった後、広大な地すべりの跡地は恐竜公園や自然植物園として整備され、市民の憩いの場となっています。

茶臼山陣場 (25)
ここから北峰の頂上を目指す事も出来るようだ。

妻女山に陣を敷いた謙信が動かないのを見た信玄は、茶臼山の陣を引き払い海津城へ入城したという。
その後、謙信が妻女山から霧に紛れて兵を移動させ、武田軍の背後を突き、大規模な軍事衝突となるのである。

茶臼山陣場 (18)
石碑の横に「川中島の戦いゆかりの会」の方々が建てた解説版があります。


≪茶臼山陣場≫ (ちゃうすやまじんば)

標高:699m 比高:50m (信里小学校より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市篠ノ井有旅
攻城日:2013年2月3日 
お勧め度:★☆☆☆☆
本丸までの所要時間:10分 駐車場:なし
見どころ:旗塚、石碑
注意事項:転落注意
参考書籍:「長野県町村誌」
付近の城址:石川城、二ツ柳城、須立之城、飯森城、篠の城

茶臼山陣場 (32)
茶臼山陣場遠景。(奥の右側の峰が茶臼山の北峰)



Posted on 2017/10/09 Mon. 06:09 [edit]

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苗木城 ③ (岐阜県中津川市苗木)  

◆十二代続き一度も国替えの無かった遠山氏の居城◆

気が向けば毎日でも更新するのだが、気が乗らないと放置プレイ・・・(汗) 「継続は力なり」と世間では云うものの小生には無関係。

さて、いよいよ何とかしないと「苗木城 その③」(笑) 気力が続くか甚だ疑問ではある・・・(爆)

苗木城 (154)
本丸から見下ろした「武器蔵」とその先の「二の丸屋敷跡」(石垣修復中)

【坂下門~大門~駈門】

なんせ信濃の山奥のどーしようもない山城を見ている田舎者なので、正規ルートで見学が出来ない哀しさをお赦し戴きたい(笑)

本丸を下りて坂下門を通り、城の正面へ。ここに「苗木城」の正規看板があり驚いた(ってか、一般の方には常識らしい・・)

苗木城三の丸付近
かつての大手道と思われる四十八曲りを加えてみました。

苗木城 (156)
坂下門。二脚門で別名「久世門」とも。

苗木城 (159)
綿蔵門。坂下門と大門の間の門跡。全部で15ヶ所もある門の大半が本丸付近に集中している。

●御朱印蔵

将軍家から与えられた領地目録や朱印状などの重要な文章や刀剣類が納められた建物。これらの収蔵品の虫干しは毎年必ず行われ、蔵への出入りには石の梯子が使用されたという。

苗木城 (161)
正面から見た御朱印蔵。


●大門

苗木城内で一番大きな二階建ての門で、二の丸と三の丸を仕切る。門の幅は二間半で、二階部分は物置に利用されたいた。
領主の江戸参勤出立時などの大きな行事以外の時は開けず、普段は東側のくぐり戸を利用していたという。

苗木城 (164)
大門跡。ここを通らなければ城の中枢部へは入れない。


●牢屋

大門の東端の奥には牢屋が建てられていた。二間×四間ほどの大きさで日の当たらない岩の上に建てられていた。
明治初年頃に起きた苗木藩の政争には、多くの上級武士が捕らえられ、この牢屋に収監され処断されたという。

苗木城 (172)
久々に怨念を感じた写真(ただ単にブレているだけか・・・)

苗木城 (171)
牢屋建物はここにあったという。


●駈門~竹門~四十八曲り

三の丸へ通じる門は、東に駈門、南は風吹門があり、それぞれの門の先には竹門という門番のいない扉が竹の門が置かれていた。東側の駈門(かけもん)は、かつての城の大手道にあたる門なのでかなり重厚な作りになっている。

苗木城 (178)
東側から見上げた駈門入口。

苗木城 (177)
近くば寄って、枡形を見よ(笑)

苗木城 (177)
城内から見下ろすとこんな感じ。不明門と同じように結構な高低差があります。

苗木城 (176)
駈門の石垣の積み方は~「はい、打込石乱層積みですね」(笑)

苗木城 (180)
駈門から下るとその先に竹門。二脚門で、扉が竹製だったことからその名が付いた。「切込石整層積み」です。しつこい?


【大矢倉】

さて、物語は佳境に近づき、お待ちかねの「大矢倉」。えっ?誰も待ってないの?残念・・・(汗)

苗木城 (186)
大矢倉の石垣。これだけでも単独で見る価値充分の芸術品だ。

外観は二階建てに見えるが、実際は三階建ての建物であったという。一階は三方を石垣で囲まれ倉庫として使われていた。
苗木城最大の櫓建築で、二階と三階には矢狭間が設けられ、大手門である風吹門を北側から防御するために17世紀前半に建てられた。

苗木城 (188)
色々なタイプの石積みが組み合わされていて面白い。

苗木城 (190)
三方を石垣に囲まれると、なんだか強くなった気がする・・・(笑)

苗木城 (197)
〇〇は高いところが好きなので、どうしても登って撮影してみた。良い子はマネしないでネ!

苗木城 (199)
大矢倉から見た天守台。ここからでも結構な比高差がある。

苗木城 (202)
この石垣の積み方は何でしょうか? 正解は後で。

●北門

大矢倉の北側に隣接する形で北門があった。この門は土塀付きの門で門番はいなかった。ここから先、東側に下ると木曽川に、北側に進むと家臣の屋敷に通じていた。
北側にある池は雨水溜の貯水池で、馬の飲み水に利用されていた。

苗木城 (209)
北側より撮影した北門跡。その先は風吹門に通じるので門番は不要だったようだ。(奥の石垣は大矢倉の石積み)

苗木城 (204)
北門脇の池。こんなに濁っていれば、馬も嫌がっただろうなあー(汗)

●風吹門

駈門と共に三の丸に通じる門で、苗木城の実質上の大手門だった。説明板の写真を撮り忘れた為に、どのような構造だったか判明しない。時間に追われる訪城記のありがちな凡ミスであろう。

苗木城 (214)
苗木城の訪問者の誰もが最初に目にするであろう風吹門。我々は最後にようやく目にしたのであった・・(汗)


苗木城 (230)
苗木遠山資料館に展示してある風吹門(モノホン)。質実剛健の見本のような門ですw


苗木城 (212)
そして、駈門の標柱のポストにパンフレットがある事に気が付いたのであった・・・・(笑)


【苗木遠山資料館】

城跡をしっかり堪能した我ら「田舎ネズミ友の会」は、麓の「苗木遠山資料館」に320円を支払って遠山家の史料を中心とした苗木j領と苗木城に関わる資料を見学させていただいた。

秀逸なのは苗木城の復元ジオラマで、小生の知り合いは見なくちゃ良かったと言うが、小生も相方も「狭いながらも、楽しい我が家」の復元に「秀樹・感激・バーモンドカレー」(死語)となった。

苗木城 (215)
城郭というよりは、何処かの山奥にある温泉施設の旅館みたい。

石垣と建物の組合せでありながら、近代城郭のそれとは一線を画した復元ジオラマに戦慄よりも親近感を覚えた・・(笑)

たった今巡ってきた場所に、このような建物が理路整然と並んでいたのである。

「おったまげー!!」(笑)

苗木城 (226)
模型に注釈がないので、メモ書きするとこんな感じである。

1万石という小さな藩が、大名としての気力と気構えを苗木城に集約してい事を強く感じた。

このような立地にありながら、代々治めた遠山氏が明治維新まで常に臨戦態勢にあらんとした心構えは立派である。


≪苗木城≫ (苗木城)

標高:429.2m 比高:170m
築城年代:不明
築城・居住者:遠山氏
場所:岐阜県中津川市苗木高森
攻城日:2017年7月30日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
本丸までの所要時間:- 駐車場:あり
見どころ:色々な年代の石垣、天守台の懸造など
注意事項:特になし
参考書籍:苗木遠山資料館パンフレットなど
付近の城址:安築城、阿寺城、霧ヶ城、阿木城など
SpecialThanks:ていぴす様

苗木城 (249)
城山大橋から見た苗木城。


















Posted on 2017/09/28 Thu. 21:22 [edit]

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苗木城 ② (岐阜県中津川市苗木)  

◆狭い土地を有効活用する建築工法~縣造(かけづくり)~◆

さて、お待ちかね?(誰も期待していない) 「苗木城探訪記その②」でございますw

小学生の遠足の作文のような拙い記事と写真に今しばらくお付き合いくださいませ・・・(笑)

苗木城 (62)
木曽物見の手前の南端に突き出した巨岩の上には物置小屋があった。この石垣は「切込石整層積み」です。覚えまして?(笑)

では、また見取図の拡大図で場所を確認しながら進みましょうか。

苗木城中枢部


【木曽物見~小屋仕切門~的場~本丸口門】

清水門から南東部分の帯郭には「木曽物見」と呼ばれる監視小屋があり、木曽口からの侵入を常に警戒していたと思われる。
、また、二の丸へ侵入した敵が本丸へ突入する最後の防御地であるため、帯郭を階段状の石垣で囲み更に小屋仕切門を置き厳重な警戒態勢を敷いている。

苗木城 (60)
木曽物見から木曽川を挟んだ対岸。

苗木城 (58)
雨に煙る中津川市街地方面。(左の建物は中津商高)

苗木城 (65)
帯郭を石垣で階段状にして大軍の通行を不可能にしている。ここの石垣は「打込石乱層積み」だ。

●「打込石乱層積み」って?

積石の形が不規則で、他の石垣と比べて大きい積石を使用しています。積石の表面を平らにして、積み上げてあります。

苗木城 (66)
拡大するとこんな感じ。

苗木城 (67)
でもね、最終の帯郭の石垣は「ノミ伐り加工整層積み」だったりする・・(笑)


●小屋仕切門

城の二の丸から南側の通路は崖沿いに石垣が築かえr塀が建てられていた。この仕切門の「仕切」の意味は、二の丸と本丸との境を意味しこの先は本丸となる。
門は屋根付きの二間×四間半の建物で、門の右側は小屋(物置)として利用されていた。

苗木城 (68)
仕切門のあった場所から南側の通路を見る。ここで攻城兵を遮断するには理想の場所です。

苗木城 (69)
小屋仕切門の物置小屋の跡。


【的場~千石井戸~具足~武器蔵】

小屋仕切門を越えるとようやく城の中枢部に入るのだが、螺旋階段のようになかなか本丸には辿り着けない構造と防御が待ち構えている。

●的場とその周辺

的場~千石井戸に向かうと、本丸を取り囲む高石垣に圧倒される。ここは作りこそコンパクトでも近世城郭なのだという事を改めて思い知らされるのだった・・・(汗)

苗木城 (72)
本丸を囲む城壁ともいえる石垣に固唾を飲む一瞬である。

苗木城 (85)
千石井戸を撮影するていぴす殿。本丸口門の背後の石垣は下部が「野面石乱層積み」と上部の「切込石整層積み」の組合せ。

苗木城 (74)
的場跡には突き当りに標的の盛り土も残存している。

苗木城 (75)
的場から見た千石井戸・本丸口門方面。

苗木城 (82)
城内の最高所にある千石井戸。どんな日照りでも枯れる事はなかったといい、今も満面の水を湛えている。

苗木城 (84)
余談だが、ここから見下ろす三の丸の大矢倉の石積みは美しい。

苗木城 (87)
本丸口門を登った先に「具足蔵」「武器蔵」が並列に並ぶ。

苗木城 (90)
武器蔵の通路から見上げた天主台の懸造(かけつくり)。京都の清水寺の舞台の構造と同じ建築手法。あの柱の上に建物があった。

苗木城 (98)
往時の懸造を再現したというが、巨石とのコントラストが絶妙である。ちなみに壁面を構成する石垣は「野面石乱層積み」である。


【笠置矢倉~玄関口門~馬洗岩】

武器蔵の東の突き当りの高台には笠置矢倉(かさぎやぐら)があった。常時は何も置かれていなかったらしいが、懸造で三層の建物だったらしい。名前の由来は、正面に笠置山が見えることからついたのだという。

苗木城 (100)
笠置矢倉から見た西方面。

苗木城 (107)
笠置矢倉方面から見た天主台周辺。

苗木城 (108)
本丸への最終の門の「玄関口門」があった場所。左下に武器蔵が見える。

苗木城 (113)
天守台の南側にある「馬洗岩」。まさかこの上で馬を洗うのは無理だが、白米伝説の実演場だったかもしれない。

通常は玄関口を通らないと天守建物には入れないが、馬洗岩のある南側は勝手口として機能していたようである。城主の滞在する居間と従者が控える次の間に台所が接続しているので、平時の使用人の出入り口だった可能性はある。ここの石積みも見事なので、裏口見学者には必見であろう。

苗木城 (114)
馬洗岩から本丸天守への通路。石垣の種類は「切込石整層積み」・・(しつこい・・笑)

苗木城 (115)
一瞬、迷路が突き当りとなる錯覚を起こす石垣。

●「切込石整層積み」とは?

石の形を調整して積み上げて作られています。積石の面はあまり加工されておらず、他のタイプの石垣と比べて積石が小さいものを使用しています。

苗木城 (117)
天守の台所から見た馬洗岩。この上に馬を乗せるのは至難の技であろう。

苗木城 (118)
裏口入学と言われようと、天守のてっぺんに登り詰めるこの一瞬がたまらないのである・・(笑)

●天守台

幕末まで存続した城持ち大名で、1万石クラスは遠山氏だけだったという。石高の多い大名でさえ、城の維持管理には多額の修繕費用が伴い、城が荒れ放題というのも珍しくなかった。松平氏時代の上田城なんて藩主屋敷以外は「烏の寝ぐら」とまで言われ、鬱蒼とした雑木林に変わり果てていたと伝わる。
遠山氏の苗木城は、明治維新まで建物も石垣もベストな状態に保たれていたというから、驚きである・・・(汗)

苗木城 (121)
高森山の頂上の巨岩でさえ、遠山氏の魔術にかかればご覧のとおりである。

苗木城 (124)
「お山の大将」の瞬間にトキメク・・・(笑)

苗木城 (122)
天守台の東端。何故か「千畳敷」の名前。名前だけでも広くあって欲しいという願いから?

苗木城 (123)
千畳敷にある景色の解説板。ここからも見えるが、天守台に登る前にこの解説版を理解してからお山の大将になろう(笑)

苗木城 (125)
この懸造(かけづくり)の上に天守建物があったというが、秘密基地じゃあるまいし、チョッとスリリング。(正面は城山大橋)

苗木城 (126)
天守台から見た東方面。遠山のお殿様が毎日眺めたであろう景色です

苗木城 (130)
天守台から南方面。「晴れじゃなくて残念かって?」 いやいや、小雨降る苗木城も風情があります・・(負け惜しみ・・・笑)

苗木城 (132)
本丸の居間部分。お山のてっぺんなので、城内も隅々まで見渡せます・・・といっても往時は建物の屋根ばっかりかもしれません。

苗木城 (133)
通常天守台へは、玄関口門から北→東へ廻り、本丸玄関から千畳敷に入り次の間に登るという念の入ったルートである。

苗木城 (135)
通常の見学コースは本丸玄関→千畳敷跡→木製階段→次ノ間→天守台。

苗木城 (139)
天守台の北側の本丸空間。ここの端には小屋が建っていてその直下には千石井戸と本丸口門がある。

苗木城 (143)
本丸広場から東下の的場を見下ろす。

苗木城 (144)
本丸広場より天守台方面。攻城兵がここまで辿り着ける確率はかなり低いと思われるが、どうであろうか。

苗木城 (146)
玄関口門跡。武器蔵から侵入した攻城兵は、ここを突破しないと本丸広場に入れない。

さあ、今宵も飽きてしまったので、ここまでにしたいと思います・・(笑)

あと何回分割すれば最終回になるのでしょうか・・・(汗)

秋の夜長は、気合が足りませぬ。

苗木城 (140)
本丸天守台の懸造(かけつくり)も凄いのだが、三の丸の大矢倉の孤高の迫力に魅せられている・・・(爆)

次回は三の丸との接続部分と嘗ての大手門と思われる駈門などをご紹介したいと思いますが、いつになるかしら・・・。

Posted on 2017/09/19 Tue. 21:37 [edit]

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苗木城 ①(岐阜県中津川市苗木)  

◆岩山の巨岩と石垣との組合せが見事な山城◆

最近は、岩村城よりも苗木城のが人気が高いらしい。どちらも堅牢な石垣が組まれた山城なのだが、限られた狭いスペースで天然の巨岩を利用し縣造(かけづくり)という独自の建物の構築法は、「狭いながらも楽しい我が家」という庶民感覚に迎合したらしい(笑)

我ら信濃先方衆、日頃は土木構築物ばかり見ているので、久々の近世城郭の石垣は感動を新たにしてくれるので有難い。

苗木城 (165)
隅から隅まで見て回って史料館まで見学して3時間も滞在した苗木城。楽しかった・・(笑)

【立地・城主・城歴】

中津川市内を東西に流れ貫く木曽川の右岸、一段と高くそびえる高森山(432m)にある。木曽川から天主跡までの比高は約170mあり、自然の地形を有効に利用した山城である。

苗木城の築城時期については、一説に大永六年(1526)頃とされている。その後戦国の動乱の中で遠山氏は苗木城を追われますが、関ヶ原の戦いの後再び城主となり、以後明治維新まで十二代にわたり苗木城を治めた。

苗木城見取図全体
苗木城の建物配置図。明治の廃藩置県の時まで全て現存していたが、建物が払い下げられ解体されたという。残念な事である。

【遠山氏と苗木領】

中世の苗木領は現在の中津川市苗木・坂下・福岡・蛭川地区が含まれていたと思われる。鎌倉時代より地頭としてこの地を治めていた遠山氏は、戦国時代になると高森山(城山)に城を築き、織田氏・武田氏と縁戚関係を結び勢力を広げた。

本能寺の変の後、豊臣氏に従わなかった遠山氏は一時城を追われ、徳川氏に身を寄せた。関ヶ原の戦いに先立ち、家康より旧領奪還を命じられ、苗木城を取り戻し、この功績により苗木領一万石余を賜る。
これにより遠山氏は苗木領主として、初代友政から十二代友禄にわたり一度も国替えが無く、江戸時代を通してこの地を治めた。

苗木城 (3)
駐車場から竹門に入ると「切込石整層積み」という石垣に囲まれた足軽長屋の郭が現れる。

苗木城 (4)
足軽長屋跡。足軽が城に出仕する時は必ずこの場所に立ち寄る決まりになっていたという。

苗木城 (6)
「おお、あそこが天主台か・・・」足軽さんたちが毎日眺めた風景でも我々には感動ものであった。

苗木城 (13)
小里城もそうだったが、やたらと「マムシ注意」の看板。岐阜県の城にはそんなに多く生息しているのか?

苗木城 (14)
風吹門への通路の北側には天然の巨岩と「谷積み技法の石垣」の組合せが続く。「おら、ワクワクすっぞ!」(笑)

苗木城 (15)
石垣フェチにも人気の苗木城。全部で6Typeの石積みが観察できるそうな。

苗木城 (19)
長大な堀?と思いきや、後世に作業道として盛土されたんだね。我々は天邪鬼(へそ曲がり)なので、作業道経由で二の丸突入。


【二の丸~的場~不明門~清水門】

ここからは解説が面倒だし、写真をツラツラとアップするのが得策(ものぐさともいう)なので、当日我らが辿ったルートに沿ってみてみましょうか・・(笑)

苗木城二の丸付近
そうは言っても見取図が無いとどこなのか分かりませんよネ。

苗木城 (21)
風吹門と二の丸の接続部分の石垣を西下方面から見上げる。複雑な折れを伴う「切込石整層積み」という技法。惚れ惚れ(笑)

苗木城 (23)
二の丸から見上げた大門の石垣。大門と附属する建物が並んでいた。この石垣は「切込石整層積み」と呼ばれる。

苗木城 (24)
現在は通路のようになっている二の丸だが、往時は目一杯建物が林立していたようだ。

苗木城 (31)
別の角度(二の丸の西端、的場手前の住居跡)から見た本丸口方面。

この城には、的場(まとば)が二ヶ所あり、一つは本丸下の東側に、そしてもう一つは二の丸の端に位置する。日頃から軍事訓練を怠らなかったようである。

苗木城 (34)
二の丸端にある的場。この辺の石垣は最近修復されているようである。

苗木城 (37)
的場の石垣も違うタイプの2面で構成されている。

苗木城 (45)
不明門に続く岩場にも徹底して石積みが敷かれている。


●不明門跡(ふめいもん あかずもん)

苗木城の縄張りの南西隅の一段低いところにある門で、往時は二階建てだったという。二階部分は物置で床下となる一階部分は門であった。幅約一間の通用口の両側は石垣で、高さは最大で3.2mほどあるという。
普段は締め切られ忍びの門であったというが、城外に通じるルートは定かでは無いという。

苗木城 (48)
両側を石垣で囲んでいる不明門。

苗木城 (50)
不明門とその周辺の石垣は「切込石整層積み」タイプだ。

●清水門(しみずもん)・八大龍王

不明門から東へ進むと、城の南口である清水門に接続する。ここは城内を仕切る門で、門の北側の岩場には清水が湧き出ていてどんな時も枯れる事が無く、水場として利用されていたという。
また門の北側には遠山家の守り神とされる八大龍王の祠が明治になってこの場所に移設されたという。

苗木城 (54)
城内を東に進むと清水門跡と八大龍王の祠。

苗木城 (56)
正面から見た八大龍王の祠。

そろそろ飽きてきたので、続きは「苗木城②」で・・・(笑)

また写真を並べるだけの記事なので、あまり期待しないでくださいネ(爆)










Posted on 2017/09/17 Sun. 14:26 [edit]

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