らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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西山城(大町市) 
◆本郭と二の郭が離れすぎている奇妙な城◆
一週間のご無沙汰でございます。
先週末は地区の運動会に強制参加でヘロヘロ状態。無理したので筋肉痛が一週間・・・(やっぱ年だなぁー)
「さて、行くべ行くべ大町市へ・・・」(笑)
今回ご紹介するのは大町市と松川村の境にある西山城。

大町市を通る国道147号線(通称:千国街道)の沓掛駅交差点の手前を西に曲がり、県道496号線を経由してアルプスあづみの公園入口を右折すると案内板があります。
地元の保存会の皆さんが整備してくれていますので、登山道も明確です。感謝感謝でございます。

西山城の築城時期は定かでないが、仁科氏の被官西山氏であったとされ、のちに矢口氏に替わったという。信府統記にも城主は矢口筑前守で、居館は山麓の西山集落にあり、菩提寺は松庵寺とされる。(松庵寺は明治時代に廃寺となり筑前守の五輪塔が残るという)

登り始めて15分ほどで三の郭に到着。細長い郭で切岸による段差を付けているが、防禦度は低い。

二の郭までの尾根を三本の堀切で絶っている。最初の堀切。

二番目の堀切。順を追う毎に深くなる??

二の郭手前の三番目の堀切。巾、高さとも申し分無いゾ!(笑)
後の写真を見て頂けばお判りになると思うが、この城の当初の本郭は「二の曲輪」だったのだ。
「三の曲輪」と「二の曲輪」は連続性があり、中世城郭が戦国仕様に改変された跡は、他の城との共通点がある。

背後を土塁で盛り上げた二の郭。背後には深い大堀切を備える。
この郭、実は背後をかなり深い二重(または三重)の大堀切で絶ち切っている。
つまり終点なのだ。
小生が踏破してきた城跡の「お決まりパターン」なのだ。

高さ8m以上、上巾15m?

二重に堀を穿ついつものパターンですな。
恐らく、仁科氏の時代はここまでの構築で、現在残っている「一の曲輪」は武田軍による別棟の増築(?)というのが正しい推測なのかもしれない。
何故なら、この二の曲輪から一の曲輪まで500mの尾根上には
「何も無い!」のである。

何も無い尾根を500m歩くのも苦痛だ。
途中で野生の猿を見かけ彼らの襲撃に備える緊張感はあったが、何とか無事にやり過ごす・・(汗)
中世、安曇地方を支配した仁科氏は、領国内を支族の者や主な被官たちに分割支配させ、現在の大町市の中心部分を直轄領とした。
仁科氏は南方の備えに力を入れていたが、高瀬川右岸地域における直轄領の守りとしてこの西山城を重視していたと考えられる。

手前にある二本の厳重な堀切を越えて、ようやく「一の曲輪(本郭)」に辿り着く。

本郭の回りは腰廓を巡らせている。
武田氏に降った仁科氏は、領内の主要な城の改修を命じられたのかもしれない。
武田晴信からしてみれば、安曇野の防禦を高める事で川中島へ集中する事を第一に考えたのだろう。

近年造営された神社のある「一の曲輪」。周囲の防禦施設は他の曲輪とは一線を画している。

城跡から大町市街地方面。
この郭は明らかに要塞だ。
五段の段郭と二本の堀切を組み合わせており、二の郭、三の郭とは作りが違うのだ。

主郭背後の堀切。

堀切りの先には敵を翻弄させる五段の郭が連続する。
とはいえ、自分が寄せ手の大将だったら、こんな山奥まで攻める気にならない・・・(笑)
二つの異なる時代様式が合体した奇妙な城。
それもまた中世の山城巡りの面白さだと思う。

宮坂武男先生の鳥瞰図。ゴッドハンドとは才能を超越した者に許される称号だ。
≪西山城≫ (にしやまじょう)
標高:870.0m 比高210m
築城年代:不明
築城・居住者:西山氏、矢口氏
場所:大町市常盤西山
攻城日:2011年10月23日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:駐車場より本郭まで徒歩40分。
見どころ:信州築城方式と武田流山城築城の違いを体感せよ。
その他:猿出没注意。
参考文献:探訪信州の古城~城跡と古戦場を歩く~(郷土出版社)

大崎山城からみた西山城全景。
一週間のご無沙汰でございます。
先週末は地区の運動会に強制参加でヘロヘロ状態。無理したので筋肉痛が一週間・・・(やっぱ年だなぁー)
「さて、行くべ行くべ大町市へ・・・」(笑)
今回ご紹介するのは大町市と松川村の境にある西山城。

大町市を通る国道147号線(通称:千国街道)の沓掛駅交差点の手前を西に曲がり、県道496号線を経由してアルプスあづみの公園入口を右折すると案内板があります。
地元の保存会の皆さんが整備してくれていますので、登山道も明確です。感謝感謝でございます。

西山城の築城時期は定かでないが、仁科氏の被官西山氏であったとされ、のちに矢口氏に替わったという。信府統記にも城主は矢口筑前守で、居館は山麓の西山集落にあり、菩提寺は松庵寺とされる。(松庵寺は明治時代に廃寺となり筑前守の五輪塔が残るという)

登り始めて15分ほどで三の郭に到着。細長い郭で切岸による段差を付けているが、防禦度は低い。

二の郭までの尾根を三本の堀切で絶っている。最初の堀切。

二番目の堀切。順を追う毎に深くなる??

二の郭手前の三番目の堀切。巾、高さとも申し分無いゾ!(笑)
後の写真を見て頂けばお判りになると思うが、この城の当初の本郭は「二の曲輪」だったのだ。
「三の曲輪」と「二の曲輪」は連続性があり、中世城郭が戦国仕様に改変された跡は、他の城との共通点がある。

背後を土塁で盛り上げた二の郭。背後には深い大堀切を備える。
この郭、実は背後をかなり深い二重(または三重)の大堀切で絶ち切っている。
つまり終点なのだ。
小生が踏破してきた城跡の「お決まりパターン」なのだ。

高さ8m以上、上巾15m?

二重に堀を穿ついつものパターンですな。
恐らく、仁科氏の時代はここまでの構築で、現在残っている「一の曲輪」は武田軍による別棟の増築(?)というのが正しい推測なのかもしれない。
何故なら、この二の曲輪から一の曲輪まで500mの尾根上には
「何も無い!」のである。

何も無い尾根を500m歩くのも苦痛だ。
途中で野生の猿を見かけ彼らの襲撃に備える緊張感はあったが、何とか無事にやり過ごす・・(汗)
中世、安曇地方を支配した仁科氏は、領国内を支族の者や主な被官たちに分割支配させ、現在の大町市の中心部分を直轄領とした。
仁科氏は南方の備えに力を入れていたが、高瀬川右岸地域における直轄領の守りとしてこの西山城を重視していたと考えられる。

手前にある二本の厳重な堀切を越えて、ようやく「一の曲輪(本郭)」に辿り着く。

本郭の回りは腰廓を巡らせている。
武田氏に降った仁科氏は、領内の主要な城の改修を命じられたのかもしれない。
武田晴信からしてみれば、安曇野の防禦を高める事で川中島へ集中する事を第一に考えたのだろう。

近年造営された神社のある「一の曲輪」。周囲の防禦施設は他の曲輪とは一線を画している。

城跡から大町市街地方面。
この郭は明らかに要塞だ。
五段の段郭と二本の堀切を組み合わせており、二の郭、三の郭とは作りが違うのだ。

主郭背後の堀切。

堀切りの先には敵を翻弄させる五段の郭が連続する。
とはいえ、自分が寄せ手の大将だったら、こんな山奥まで攻める気にならない・・・(笑)
二つの異なる時代様式が合体した奇妙な城。
それもまた中世の山城巡りの面白さだと思う。

宮坂武男先生の鳥瞰図。ゴッドハンドとは才能を超越した者に許される称号だ。
≪西山城≫ (にしやまじょう)
標高:870.0m 比高210m
築城年代:不明
築城・居住者:西山氏、矢口氏
場所:大町市常盤西山
攻城日:2011年10月23日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:駐車場より本郭まで徒歩40分。
見どころ:信州築城方式と武田流山城築城の違いを体感せよ。
その他:猿出没注意。
参考文献:探訪信州の古城~城跡と古戦場を歩く~(郷土出版社)

大崎山城からみた西山城全景。
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Posted on 2011/10/23 Sun. 21:40 [edit]
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コメント
小城こそが本郭
俺もここの本郭は二の曲輪こと、小城と思いますわ。
背後の2重堀切、尋常なもんじゃないですね。
この部分、規模や構造から言っても古い感じだし。
大城は確かに新しい感じがします。
ここ熊さんが出るそうですよ。地元の人が「止めとけ」と言ったけど、ラジオ大音量にして大城まで行ったなあ。
あおれんじゃあ #- | URL | 2011/10/24 21:17 * edit *
Re: あおれんじゃあ様へ
あ、師匠、そういうクマ情報は早めに言って下さいね(笑)
おかげで猿と一戦交えるところでしたので・・・(何言ってるか自分でも全然わかんない・・・爆)
さすが師匠の洞察力には感服いたします。
登山口の説明板が無ければ二の曲輪で撤退というのが普通ですよネ。
大城も武田流と考察されているようですが、仁科氏が武田に謀反しても籠れるように改造したのではないかと勝手に推測しております。
らんまる #- | URL | 2011/10/24 22:03 * edit *
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