らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0617
入山城(千曲市) 
本日は篠ノ井あたりの城館巡りツアーの予定で、ホントは攻める予定じゃなかった城でございます・・・(汗)
「チョッと寄ってみるか」 いつもの悪いクセです。
で、60mぐらいの比高だったんで「者ども、かかれー!!」となった訳です(笑)

北側の貯水池へ向かう林道の脇から東の尾根伝いに攻城戦を始める。
秋に備えてある程度の下調べはしてあったので地図など無くても「なんとかなるでしょう‥‥」

でもねえ、朝まで雨が降ってたし晴れ間が出て来てサウナ状態。
「湿度サイコー!!」って叫んでの進軍でございました。(おバカであります)
15分ぐらいで腰郭に遭遇し二つ目を越えると尾根先の郭4(10×9)へ到達する。

郭の入り口には神社跡らしく後世に作られた石段の跡がある。

石の祠がある郭4。参拝する人も絶えたのであろうか。
長野縣町村誌の新山村には以下の記載がある。
※新山(あらやま)は昔は荒山という地名だったが、大小の河川の氾濫で耕作地が流亡し荒れる事が続いた為に改名したのだという。
【古城址】
本村申の方にあり。日影山の嶺上。一平地をなし、東西六十間許、南北八間、中に堀切四ヶ所あり。西の方西山に接し三方険峻なり、高六十間許。
往古堤山より、該所へ用水を通ぜし堰路あり、諸氏の城壚なるか不詳。
お気づきだろうか。「堰路」とは水路の事である。その謎は後半に明らかになる。
入山城の城主、城歴についてはハッキリしていないが、長野縣町村誌によると麓に「入山氏邸址」があり、入山氏はこの地方を領有した村上氏の支流である寄合氏の舎弟であったことが記載されている。
山田氏や屋代氏のように村上一族が主家の被官になったと思われる。

正直なところ、「比高も低いし堀切の四本も大した事ないんだろうなあー」と思ったが、攻めてみると、なかなかどうして小ぶりながら立派な砦だったのだ・・・・(汗)

堀切㋐。上巾15m、堀底からの高さ10m。

北側の斜面へ50m以上の長さで竪掘となっている。
「なかなかの切れ味でござる。して、その次は?」

本郭の周囲に残る石積み。

本郭(20×10)。北西の隅は土塁を築いている。
この郭(1)を主郭と見る理由は、西の背後を迫り上げた土塁と、その先にある堀切の大きさである。
恐らく、郭2を挟む㋑と㋒の堀切は二重堀切にするつもりで造作されたに違いない。
郭2を二重堀切の堀底土塁として削る予定がそのまま放置されたのであろうか?

郭2から見た堀切㋑と本郭方面。

この城郭で最大の上巾と深さを誇る堀切㋑。天正期の改修と見て間違いないだろう。
こんな小城にバンバンと凄まじい堀切を割って、しかも全て北の斜面に対して竪掘としている。
南斜面は短い。

堀切㋒。上巾10m、深さ5m。やはり北面に竪掘として深く刻まれている。

この城域で最大の面積を誇る郭3(36×15)。小屋掛け出来そうな広さである。
さて、この城の最終形は誰によるものだろうか?
天文二十二年以降に千曲川左岸の大岡以北の猿ヶ馬場峠を抑え、塩崎城まで勢力下に収めた武田晴信が敢えてこの場所を強化する必要は感じられない。
天正十年に始まった天正壬午の乱で川中島四郡を制圧した上杉景勝が、麻績に通じる四十八曲峠から攻めてくるかもしれない小笠原貞慶に対しての砦とみるのはどうであろうか?
もしかしたら翌天正十一年、海津城の副城代でありながら、領地の荒砥城を城番制にさせられ上杉の待遇に不満を持ち徳川に内通した屋代秀正が逃げ込み城として密かに改修していたのかもしれない・・・チョッと無理があるか・・・(笑)

最終の堀切㋓。上巾6m、深さ4mで、四連の堀切では最も脆弱である。
堀切㋓の先を郭と見るのは難しい判断である。
しかし前述したように「堰路」呼ばれる城の水の手である水路があったので城域と見ても良いと思う。

30m続く水路址。この土塁の上を木製の樋(とい)が走っていたのか、土掘りの簡素なものだったのか?
山城攻城では、初めてお目にかかった造作物である。
里山辺の水番城(林大城の隣の山城)にも、水の手を尾根伝いに確保した同様の遺構があるようだが未確認だ。
勢いで攻め落とした砦城だが、収穫は大きかった・・・(爆)

腰郭から見る坂城町方面。
そうそう、実は長野縣町村誌に掲載されている入山城の古絵図が秀作なんですよ。
左右反対にすると、小生が調べて描いた縄張図に合致するわけで・・・・。
まさに「シンプル イズ ベスト」

≪入山城≫ (いりやまじょう 新山城)
標高:510m(主郭) 比高:100m(見性寺より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:千曲市上山田新山
攻城日:2012年6月17日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:15分(見性寺脇の配水地への林道脇より)
見どころ:四本の大堀切、土塁、石積み、水路設備
その他:秋は止め山になる可能性があるので避けましょう。
参考文献:長野縣町村誌など

山麓の見性寺と入山城。
Posted on 2012/06/17 Sun. 21:13 [edit]
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あれれ
なんとなく一番槍になってしまいましたが、
おゆるしを(笑
例の水路跡ですが縄張り図を拝見すると
水路跡の盛り土部に柵を立てたら
面白そうだなあと思ってしまいました。
また、戦略的な位置ずけとしては、
荒砥城の戦闘前哨(時間稼ぎ)てきな意味合いの
荒砥城の外郭だったのではないでしょうか。
それにしても、山城のふもとにはお寺がありますねえ
おそらく落城で空になった居館をお寺の建物に
流用したのかなあ、なんて妄想していますが(笑
Re:丸馬出様
いつもコメントありがとうございます。
夏の攻城戦はご法度みたいな「惣無事令」を前回の記事で宣言しているので、発令した作者がその掟を破ったのでコメントのしようが無いのでしょう(笑)
景勝に叛いた屋代氏と塩崎氏は麻績へ逃げて室賀氏の元へ身を寄せていたようで、その後徳川家康の命令により「境目の城を早急に築城しろ!」と云われたようです。(対上杉、対真田)
三水城も狐落城もその時に大きく改修されたようですが、ひょっとしたら前線基地として入山城も改修された可能性も否定できません。(北側斜面へ向けた深く長い竪掘りは荒砥城に対する備えかも?)
真田昌幸が徳川方に臣従すると、彼らの出番は消滅したのでしょう。
上杉への内通を決めていた昌幸は、徳川に忠誠を誓っていた室賀氏を謀殺して小県の統一を急ぎ第一次上田合戦における上杉軍の援軍を迎い入れる準備を完了する・・・。
上杉軍もひょっとしたら室賀峠を越えて上田城への援軍をスタンバイしていたかもしれないというのも妄想かもしれませんネ(爆)
初夏の山城はきついねえ
いい遺構が残っているとは聞いていましたが、美味そうな堀切がバンバンですね。
しかし、直線連郭式の典型で笑います。
水道配管はなんでしょね。
配水池になっている山城も多いけど。
しかし、夏はつらいですねえ。
気温35℃の時、山城行ったことありますが、討死ものでした。
Re:あおれんじゃあ様へ
師匠、実直な信州人の築城技術というのはこの程度のものだったのでしょう。
しかも上水道付きの心配りはさすがです。天水溜めの不衛生な水など飲んでお腹を壊しては戦になりませぬ(笑)もともとあった南北朝の古式ゆかしき古城を強引に改修したのでしょうネ。
夏の攻城戦といえば、村上連珠砦群や青木村の黒丸城、清滝城を想い出します。
脱水状態で登りつめた城は、熱中症を通り越すものでしたが、ビョーキの自覚症状が無いので「感状」という栄誉に固執していたように思えます(爆)
藪ばかりの写真で後悔しきりですが、妙な達成感があるのも事実でしょう。
「夏の攻城戦はご法度じゃ!」
そう云いつつ、お忍びで掟破りも「いとをかし」でしょうか・・・(笑)
竪堀ですが
屋代氏と塩崎氏の改修説も可能性はあると思うのですが
上杉さんに抑えられている荒砥城の目の前で工事するのは
さすがに、難しいと思われますので
荒砥城に入ったときに後退陣地として改修した
というのはどうでしょう。(時間があったか謎ですが)
ほかの可能性としては、
・入山氏と山田氏は仲が悪かった
・武田さんによる、荒砥城の後退陣地への改修
といったところでしょうか。
夏といえば、笹洞城の北側なんてどうでしょう
杉林で下草がないのでオススメです。
たしか川に橋があってそこから突入しました
Re:丸馬出様
場所の高い低いはありますが、全体的な雰囲気は狐落城に良く似ているので同一人物の縄張かもしれませんね。
竪掘を北に向けているのも共通点でしょうか。
長く持ちこたえる場所では無いので一時的な避難場所で尾根を伝って逃げる構造みたいです。
夏場の攻城戦は涼しいところで展開したいのですが、無理でしょうネ(笑)
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