らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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楯の城 (長野市信更町三水) 
今日の朝7:00の外気温は-11℃。ひょえー!この冬一番の冷え込みであった・・・
このぶんだと先日降った大雪が月内に消えるのは無理でしょうね(汗)ましてや山間部は根雪か・・。
で、長野市信更町シリーズ三作目は「楯の城(たてのじょう)」
現在の地図でいうところの県道70号線、390号線、395号線は戦国期における犀川流域から川中島への主要道だったと思われ、街道を抑えるように城砦が築かれている。(和田城での地図参照)

宮坂武男氏の「図解山城探訪」の復刻版である「信濃の山城と館② 更埴長野編」では、弘化四年(1847年)の善光寺大地震で地形がかなり変形したが城跡は残ったとされ、長野懸町村誌を引用し武田の幕下の金丸弥左衛門が此処に拠ったとし、武田滅亡後は上杉景勝に従い会津移封の際に廃城になったとしている。


1847年5月に発生した善光寺大地震(マグニチュード7程度)は、現在の飯山市から長野市大岡までを震源とする直下型地震で、人的被害は甚大であり犀川流域も地形の陥没や隆起を伴い広域に渡る自然災害も引き起こしたという。松代藩はこの地震の復興費用で財政危機に陥り幕末まで解消出来なかったという。

犀川流域で甚大な被害を受けたのは虚空蔵山(平倉山)付近で、崩落した土砂が犀川を堰き止めてしまい二村が水没したという。
楯の城が形が変わるほどの被害を受けたのは事実らしいが、どの程度の規模だったのかは不明である。


牧野島城や大岡口から犀川を下った東の丘陵地帯にあり、往時の古道を衝立のように塞ぐ要害の地である。
長野県は地震と縁が無いような印象を受ける方が多いと思うが、地震や地滑りにより壊滅的な打撃を受けた山城が多いのも事実である。





信州の山城には「メジャー」も「マイナー」もない。
まして規模の大小や比高差とか標高の高低、縄張りの精巧さ・・・みんな違って面白い。
どっかの歌じゃないけど、それぞれがオンリーワンでいいじゃないですか・・(笑)
取るに足らない小さな伝説の砦が無数に散らばっている
「そこに立たなければ、見えない風景」
小生はそれを拾い集めて伝えていきたい・・・・・・・・・・・・・・・・

≪楯の城≫ (たてのじょう)
標高:490m 比高80m
築城年代:不明
築城・居住者:金丸氏
場所:長野市信更町三水
攻城日:2013年1月13日
見どころ:切岸
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
注意:路上駐車は場所に注意
付近の見どころ:和田城、上尾城、屏風城、和田城など
参考文献:「信濃の山城と館② 宮坂武男著」
Posted on 2013/01/19 Sat. 22:36 [edit]
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みんな違って面白い
メジャーも、マイナーも無い。みんな違って面白い。
名言ですね。ビビッときてしまいました。
らんまるさんは詩人でもあられるのですね。
例え変人扱いされようと、報われることが少なくても、
拾い集め続けて下さい。
応援させて頂きます。
Re:武蔵の五遁様へ
力強い声援、かたじけのうございます。
山間の村も人が絶えるのは時間の問題でしょうか。
里の老人が古き城跡の口伝をタスキのように繋ぐ時代が終焉に向かっているのだとしたら、私たちは叡智の限りを尽くして個々の城の存在を記録していくのが使命だと思います。
際限無き星屑を集めるように城跡を集める。
もし我々が矢尽き刀折れて斃れる事があっても、その意思を継ぐ者が必ず現れると信じております。
こげな物件が?
知らん城です。
ほとんど平場だけの単純構造ですね。
まあ、ほとんどの城ってこの程度のものが多いですね。
でも、それでいいのです。堀切1本で十分です。
善光寺地震の影響はどうだったのでしょうね。
茨城北部や福島の多くの城、震度6強で揺られているのですが、一部、切岸が崩れているものもありますが、あまり大きなダメージを受けたような感じはありません。
信州の城もそれほどのダメージはなかったと思うのですが・・
電波塔が
県道70号線を抑えるには絶好の位置ですねえ
おそらく、鞍部は切通しとかになってたのかなあ
と妄想していますが、電波塔が残念ですねえ
Re:あおれんじゃあ様へ
善光寺大地震の際の被害は直接的な土砂崩ればかりでなく、地震の影響による土砂崩落で犀川が堰き止められダム湖となり周辺の村が水没した損害のが大きかったと聞き及びます。
信更町三水周辺も虚空蔵山の崩落により水没し楯の城も水中に没したのでしょうか。伝承がキチンとあるのですが、おおよその場所しか推定できない奇妙な城には違いありません。
Re:丸馬出様へ
地元の方に聞いても、この場所が砦跡だったという認識の方はいませんでした。
そのうち、ここに集落があった事すら忘れられる日が来るような気がします。
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