らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0220
沼ノ城 (下伊那郡松川町古町) 
先週末から居座った冬将軍の置き土産の処理で肉体疲労寺の荒修行はピークである・・(汗)
いつもなら平均20分程度の会社までの通勤時間が90分にも達する修羅場になっている。
行き場(捨て場)の無い残雪は道幅を狭くして車のすれ違いにも苦労する有り様である。
まあ、ボヤッキーはそれぐらいにして今回から舞台は高森町のお隣の松川町へ移ります。

ここが城跡といわれても「????」と困惑する。
今回ご案内するのは、その遺構が全く確認出来ない「沼ノ城」(ぬまのじょう)
確かに分かるのは立地条件の重要性と往時の見晴らしの良さであろうか。

【立地】
国道153号線と県道226号線の交わる山吹交差点の東側段丘上に立地する。東200mに大島城があり、天竜川に突き出す台地となっている。北側の崖下を唐沢川が流れ西側は天竜川の氾濫原で削られた要害の地である。

電波塔と墓地周辺が城跡らしいが耕地化により見る影も無い。
【城歴】
昭和53年(1983)にまとめられた「長野県の中世城館跡」の調査報告によると大島村誌に記録があり、天文から天正年間に大島城の支城であったとされる。
報告書には150m×150mの方形館跡として記載されているが、現地を見る限り方形なのかは判断できないし150mのスクエアというのも裏付け根拠を見つけだすことは出来なかった。

東側から見た城域。
この地は平安末期に片切氏から名子氏、大島氏が分割統治していたらしいが、沼ノ城については記載が無く城歴もハッキリした事が分からない。
ただ、西の大沢川を挟んで名子氏が原ノ城の龍ノ口氏と境を接していたので、隣接する大島氏の見張り砦やそれに類する城館があったとしても不思議ではないと思われる。

唐沢川側の縁は堀のような跡に見える後世の整地で全く関係が無い。
宮坂武男氏によれば、唐沢川側の斜面に三本の竪土塁があるようだが、竹藪の中に突入しても空しさだけ残った(笑)

松尾氏の墓があるが、代々の城守りだったのだろうか?
【城跡】
耕地整理により全く痕跡など無い。電波塔と松尾家の墓地周辺に方形の居館があったらしいが何の根拠資料もないという。
雑木林と竹林が邪魔してロケーションの素晴らしさも感じることが出来なかった。
すぐ隣は大島城であり、この場所に物見砦が置かれたであろう事は充分考えられる。
武田の大島城改修以前にどのような形で城館が置かれたのかは知る術も無い。

墓地から見た城域北側。
≪沼ノ城≫ (ぬまのじょう)
標高:494m 比高:45m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡松川町古町
攻城日:2014年2月1日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し、路駐
見どころ:無し
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」
付近の城址:大島城

南西の高森消防署付近から見た沼ノ城遠景。段丘上の城であることが分かる。
Posted on 2014/02/20 Thu. 21:17 [edit]
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ここは違うのかな?
こんばんは、自分もここへ行きましたが。。。。。なにも無かったな~。
名子の資料館の館長さんによればここは沼の城ではなく、国道の対岸辺りに沼に関係した
地名がありこのあたりか、館長さんの見立てでは名子城の出城とされている南方の城や
城山城ではないかとのご教授をいただきましたが真実はいかに。
たしかに北の城の位置などを考えると名子氏の領地側に大島氏の領地が食い込んでいる
感じをうけるのでその説もありかなと考えています。
それにしてもこの大雪しんどいですね。期間の短い城跡めぐりがさらに
短くなりそうですね。いつお会い出来るのやら。
Re:ていぴす様へ
改修前の大島城の規模が小さなものであれば、見張り砦ぐらいは置かれていたのでしょうか。
それにしても仰せの通りで何も無い(笑)
これから掲載予定の北ノ城も破壊が酷くて記事にするのも苦労しそうだが、あの場所は本城防衛には重要だった事がわかりますネ。
しかしこんなに大量に降られてしまうと身動きが取れません(汗)
共同軍事作戦は三月中旬以降でしょうねえ。あっという間に春が来て山城シーズン終了の予感・・・(爆)
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