らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0713
谷戸城 (山梨県北杜市大泉) 
アウェイでの城攻めは土地勘が無いので難儀する。
迷ってグルグルしてると時々面白い旧所・名跡を発見して寄り道しちゃうので始末が悪い・・(汗)
谷戸城の近くにある深草城を探していたら「金生遺跡(きんせいいせき)」を見つけちゃった。

谷戸城の入口にある北杜市考古資料館を見学したあとだったので、チョッとだけ寄ってみた。
このあたりは、縄文時代の祭祀施設と集落があり、その後も中世の城館(深草館)と集落が存続していたという。

縄文時代のストーンサークルと住居が復元された公園。
戦国の城に飽きたら古代の祭祀について調査したいと思ってますが・・・(笑)
今回ご案内するのは平成5年11月に国史跡指定を受けた谷戸城(やとじょう)。
山城の基本パーツがしっかり確認出来る初心者にも優しい史跡公園です。城跡のそれぞれの場所に、そのパーツの丁寧な説明と発掘調査時の貴重な写真があるので、安心して見学出来ますよ。

北側から見ると小山というよりは岡の上という感じ。城域を道路が貫通しているが残念だが仕方なかろう。
【立地】
八ヶ岳の南麓の裾野にいくつか点在する流れ山の一つに築かれている。独立した小山でその形から茶臼山あるいは城山と呼ばれている。この一帯は湧水が多く、泉川、宮川、衣川、甲川となって地域を潤していて古くから開発された場所である。

北東から見た城域の北側側面。
【ほくと・山城の里】 ※現地説明板より引用
大治五年(1130)、常陸国(茨城県)から甲斐国に配流となった源義清・清光親子の土着は、甲斐国に大きな歴史のうねりをもたらしました。甲斐源氏の誕生です。
清光(1110~1168)は、御牧(みまき 馬を飼育するための官営の牧場)に近い逸見(へみ 八ヶ岳南麓の台地一帯を指す古い地名)に目を付け、ここを本拠とし、逸見清光と名乗りました。清光が本拠とした北杜市域には、若神子城(わかみこじょう 古城・南城・北城)や谷戸城跡のような山城のほか、鎧堂(よろいどう)、清光寺、逸見神社、白旗神社といった神社仏閣まで、初期甲斐源氏にまつわる伝承をもつ旧跡が多くあり、戦国大名武田氏に繋がる甲斐源氏は、ここから甲斐全域に広がりました。

北側を遮断する堀切㋐。道路で分断されているが、発掘調査では堀を渡る土橋が確認された。
段上または台上と呼ばれる八ヶ岳南麓の台地上は古来より逸見氏の勢力下にあり、武田信虎が享禄五年(1532)に甲斐を統一するまでは、守護武田氏だけでなく諏訪氏、佐久の大井氏などとの戦いが幾度となく展開されました。
台地上に点在する山城や砦も、この頃に使われたと考えられます。軍用道路といわれている棒道は、この台地を通って信濃へ抜けており、天文十七年(1548)に武田信玄が信濃へ出兵した際は、谷戸に陣所を構えたとの記録が残っています。(高白斉記)
天正十年(1582)、武田家滅亡後の甲斐国の領有をめぐり徳川家康と北条氏直が争った天正壬午の戦い(てんしょうじんごのたたかい)では、信濃側から甲斐に侵入した北条方により台地上はほぼ制圧されました。北杜市域は主戦場となり、この時にいくつかの城が北条氏により修築されたと推測されています。 (引用終わり)

発掘調査図を参照して作成。
【城主・城歴】
平安時代末期に居積み清光が築城したと伝わる。逸見の地を本拠とした清光は多くの男子に恵まれ、その子らが甲斐国内で勢力を扶植したことから、次の代では甲斐国の広い範囲を甲斐源氏が支配する事となる。
なかでも武田信義は頼朝の同盟軍として平家討伐に功を上げ、戦国大名武田家の礎を築いた。
が、強大な勢力となることを警戒した頼朝からは遠ざけられ中央政権に参画出来ず、同等の立場から御家人に転落を余儀なくされたという。
前述にある通り、谷戸城が文献に現れるのは「谷戸の御陣所」として高白斉記での記述である。
棒道の中継地点として佐久方面の侵攻作戦に利用され、武田滅亡後の甲斐領争奪戦では若神子城、獅子吼城、笹尾塁、旭山砦とともに北条軍の拠点として改修が施されたようである。

城域の正面となる北側は大手となるが、傾斜が緩い為に二重堀切になっている。

東斜面に対して竪掘となる堀切㋑。北条時代の改修であろう。
【城跡】
城は、流れ山と呼ばれる小山を利用して築かれており、北に巡らせた横堀と西側を流れる西衣川で区画している。城内は山頂部の一の郭を中心に、二の郭から五の郭まで円心状に配し、西側の山裾には館が置かれていたと想定される六の郭が広がる。
各郭の出入り口は「喰い違い虎口」(くいちがいこぐち)が多用され、空堀は等高線に沿うように掘る横堀が発達している。
発掘調査による出土品は14~15世紀のものが中心を占め、現代に伝わらなかった歴史を持つ城跡であることがわかってきている。
●東斜面
郭4の土塁の東外側斜面は部分的に帯郭らしき跡が見られるが、自然地形を生かしてそのままにしたようだ。
斜面には通路を兼用したであろう長大な横堀が掘られ、東衣川と共に二重の防御構造となっている。

東斜面の横堀。戦国末期の仕様であろう。
●郭4
輪郭を低い土塁で囲った奇妙な形の郭である。説明板によれば、造成された痕跡がなく、発掘調査では縄文土器が出土したという。東の斜面まで続く低めの土塁は防塁として造成していたようだが、どうも工事の途中で放棄されたらしい。
城内で最大の面積を誇る謎の郭だ。

郭2手前の帯郭から見た郭4

土塁の断面(北側の境界)

郭2との接続部分。どうしたかったのか縄張りの意図がチョッと分かんない・・(笑)
●帯郭(郭2の北側緩衝地帯)
郭2への虎口手前は堀が掘られ、郭4と郭5を繋ぐ連絡通路としての役目だったという。
パッと見は巾の広い堀に見えるが、違うらしい・・・(汗) オレの目は節穴らしい・・(爆)

ここを奥に進むと東端の郭5に連結する。

郭2へは簡単には行かれない仕組みだ。
●郭2・郭3
実質的な城の中枢部で、掘立建物の跡が確認されている(現在の東屋付近)。周囲を囲む高土塁の内側に堀を周回させた独特な作りである。
あくまで推測だが、元々の縄張りは西の居館を除けば1・2・3の単純な輪郭式(りんかくしき)の城で、土塁も低く高さを稼ぐ方法として土塁の内側を掘ってあったのだろう。
それを北条さんが改修して内側の堀を巾を広げて深く掘り下げ、残土を土塁のかさ上げに利用しただけの話だと思う。
にしても、見事な仕上げではある・・(笑)

土塁の頂部は幅広く兵士の犬走りとしても使える仕様だ。石垣よりも防御性の高い「土の壁」である。

旧式の内堀仕様が最新の防御システムに刷新されている。地形に合わせた縄張りの見本である。

堀底に逆茂木(さかもぎ)を置いてあげればバッチリでしょう。(郭2の東側)

郭1から見下ろした郭2の東側。

西側の郭3。横堀の為に面積が狭く帯郭のような感じ。補助線を引かなくても良いので嬉しい(笑)

郭3の南側。郭1からの斜面は切岸として丁寧に加工されているのが良く分かる構図。
●郭1(本郭)
谷戸城の最高所にある郭で、周囲を高さの違う土塁で囲まれている。これは、本郭が平時は物見や烽火台として役割を担っていたためで、北側と東側は高く、その他方面は低く作られている。
また、土塁を切る形で東と北西に虎口(こぐち)が開いていて、北西は喰い違い虎口(くいちがいこぐち)としている。これは土塁をずらす事で直進的な敵の侵入を妨げる効果があり、郭の内部を見えづらくする効果もある。

土塁の高さの違いを示してみました。

北西の喰い違い虎口(ヘタクソ!!・・・汗)

東側の平虎口(ひらこぐち)。後詰め投入用だろうか?

西側から見た本郭全景。
発掘調査結果によれば、郭の北側に直径20cmほどの小さい穴が30基見つかったが、建物跡を示す配列ではなく、柵のようなものが建っていたあとではないかと解説している。

北条軍の主力の置かれた若神子城方面を臨む。
●郭2・郭3の南虎口/南帯郭
郭2と郭3の接続部分は南口として喰い違い虎口になっている。
一段下の南帯郭からの通路で、増強部隊はここを介して郭3または郭2に堀を走って迎撃に向かったのだろう。
搦め手側だが、万が一に備えて喰い違い虎口にする念の入れようである。

主郭からみた南口。

かなり改変されたが、発掘調査では虎口の遺構が確認されている。

南帯郭。通路にしか見えない・・(汗)
●搦め手虎口
縄張図の竪掘㋖の部分。防御としての堀切というよりは、通路としての堀切だったと推定されている。

城域南側の道路から見た堀切㋖。

城の中心部に向かう竪掘り。通路と云われれば通路ですが。

搦め手の西側にある逸見清光公の墓。後世の英雄伝説で建立されたんでしょうね。
●郭6
居館があったとされる郭6(西の丸)は西衣川を境とする広い郭である。宅地化及び耕作化で改変されているが、土塁や堀切が一部残存している。

郭6の南側。

居館跡には住宅が建っている。
●郭5
南東の尾根の一角に位置してきれいに削平されている。この方面にも通路があり、途中竪掘を入れている。


竪掘㋕。
【戦国の城を楽しもう!】
気が付いたらカンカン照りの初夏の日差しの中を汗だくになりながら90分も熱心に見学してました。
イチイチ感動しては「凄いなあー」 独り言も多くて、傍から見たら完全にアホですわ、きっと・・(笑)
立派な考古資料館もセットで見れる(大人200円)し、云う事ありませんわー。
「国指定史跡」の称号はハンパありません。思いっきり楽しんで堪能させていただきましたよ。

北杜市考古資料館。古代~中世までしっかり学べます。ここでも30分勉強しちゃいました。
あっ、そうそう、せっかくなので天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)における北条さんの甲斐侵攻の拠点を地図で示しておきましょうネ。こういう地図を掲載すると、思わず出掛けちゃう人もいるんだろうなあー(爆)

※能見城防塁は徳川さんが抑えてました。
≪谷戸城≫ (やとじょう、茶臼山)
標高:860.5m 比高:40m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:山梨県北杜市大泉谷戸
攻城日:2014年7月2日
お勧め度:★★★★★ (見どころ満載、整備状況も最高なので)
城跡までの所要時間:-分
見どころ:全部隅々まで見ましょう
注意事項:特に無し
駐車場:北側、南側にも専用駐車場あり
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著) 現地解説版
付近の城址:深草城、旭山砦など

城域南側の深草城から見た谷戸城遠景。
Posted on 2014/07/13 Sun. 17:01 [edit]
« 板垣駿河守信方の墓 (上田市下之条) | 馬場美濃守信房の墓 (愛知県新城市長篠) »
こんばんは、らんまるせんせ。地図を見て、おお、行ってみよう!っと思ったかもねぎまるです。
教えていただいたのに、いまだに「ししガオー城」と読みました。ごめんなさい…f(^_^;
ストーンサークルも見たいなあ。面白そうだなあ。静岡の隣なら近いなあ。距離感喪失してるけど、行きたいなあ。ルビーの家康ルートで行ったらえらいことになるのかなあ。帰りに諏訪湖で温泉したいなあ。
らんまるせんせの、もこもこ案内文の方が看板より分かりやすいし、やたらと誘われます。
大阪は朝から30度越えです。あちーです。これからは引きこもります。
Re: つねまる様へ
日に千里を駆ける貴殿とはいえ甲斐の国は遠く、信玄公が京に旗を立てる事がいかに困難だったか・・(汗)
まとまったお休みでもないと、日帰りで来れる場所ではありませんねえ・・(笑)
人にはそう云いつつ、関西の山城攻めに遠征したいなあー、信州も山梨も飽きたし、でも遠いなあー(爆)
でも、今年の夏はチョッと変です。蝉の声がしないんです、山に登っても。秋に出陣するのかしら(汗)
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