らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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富士ノ塔砦 (長野市平林富士ノ塔山) 
さすがに義仲シリーズを5作連続で掲載すると、書き手も読み手も飽きてくると思われるので、一度時代を500年前に進める(笑)
今回ご案内するのは、晴天の日には是非お出掛けしていただきたい「富士ノ塔砦」。
ちょっとスリリングだが、軽自動車か二輪なら舗装された林道が城跡のすぐ下まで通っているので簡単に訪問出来る。

道路脇の駐車スペースに建てられている看板。

旧小田切村立の小鍋尋常小学校玄関の復元建物。廃校に伴い入地区から移設し登山者の休息所として利用されている。
【立地】
長野市の西側、犀川と裾花川の間の山地の主峰が富士ノ塔山である。遠くから見て富士山に似ている事から、この名がある。また、この山は一名 浅間山、国見山とも呼ばれ、山頂に浅間大明神木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀る神社があり、六月一日に山開きをかねて例祭が行われる。
登山路は湯山、国見、枇杷、平林、平柴よりあるが、平柴から林道が通じているので軽自動車なら直下まで入れる。
ここからの眺望は晴天なら、川中島平全域に小県方面、戸隠、鬼無里、犀川沿いの諸村が見えるが、何分にも高い為に霧が巻く事がある。天候に左右されやすい物見(烽火台)だったようだ。

浅間社への参道。鳥居がある。

小田切八景を読んだ浅井洌(あざいれつ 県歌「信濃の国」の作詞者として有名)の短歌碑が残る参道。
【城主・城歴】
小田切氏は鎌倉時代の初め(1185前後)に佐久群より地頭としてこの地に赴任してきた。小市の館に居を構え、小田切をおさめ、寛正七年(1466)に窪寺に進出、後に今里(現在の川中島町今里)まで勢力を伸ばした。
天文年間、村上義清らとともに武田晴信の信濃侵攻に備えてこの烽火台が築かれ、重要な役割を果たしたものと思われる。
その後、小田切駿河守幸長は吉窪城を築き、甲越紛争で旭山城を巡る攻防戦(第二次川中島合戦)が激化すると、落合備中が守る上杉方の葛山城の援軍として葛山衆とともに籠城する。

弘治三年(1557)二月、和議を破り雪で動けない越軍の隙を衝いた武田軍は葛山城を急襲。籠城軍は奮戦するも、水の手を絶たれ火攻めに遭い落城。小田切備中守も討死する。
武田の支配が確定するとともに次第にこの砦も使われなくなったものと思われる。

主郭(23×14)に建つ浅間社。

南側の物見台。ここからは川中島平が一望できる。

北側の物見台。ここからは裾花川の流域と戸隠方面が臨める。
【城跡】
浅間社の建つ山頂は23×14ほどの長方形で西側に低い土塁の跡が確認出来る。更にその西側の一段下がった場所に郭2があり北側に土塁の痕跡が残る。
参道から登った先にある防災無線基地の建物がある東側も郭跡のようだ。

主郭北側の説明板の立つ場所に土塁の跡。

郭2(12×10) 東側より撮影

郭2から見た主郭の切岸と土塁の残欠

郭2の北側の土塁

主郭の東側。現在の東側の出入り口はあとから作られたもので往時の虎口とは違うかもしれない。
小市の麓や居館からは約600mの比高差があるので、物見兵士の小屋がどこかに置かれていたと思われる。
現在の駐車場や、その北にある無線基地の平地、休憩所あたりにあったかもしれない。

訳のわからん(失礼)モニュメントが置かれている。合併100年の記念事業らしい・・・
では、ここからはその見事なロケーションをご覧ください・・・(笑)
【戸隠方面】

【川中島方面】

ざっくりとこんな感じ

倍率上げて松代方面。

倍率上げてその南。

更科方面。小松原城は小田切氏が築城したと伝わる不思議な縄張りの城である。

甲越紛争が目の当たりに繰り広げられたのあろう。
≪富士ノ塔砦≫ (ふじのとうとりで)
標高:988m 比高:610m (小市の国道より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市平林富士ノ塔山
攻城日:2015年6月7日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:5分
駐車場:有り
見どころ:土塁跡、ロケーション
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
注意事項:林道は走行注意
付近の城跡:旭山城、小田切館(小市館)、窪寺城、葛山城など
その他:天気の良い日に行きましょう

長野道の姨捨SAから見た富士ノ塔砦遠景(ってか遠過ぎでしょ!)
Posted on 2015/06/27 Sat. 11:32 [edit]
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行かれましたか
よくこんな高い場所に造ったもんです。しかし、ここに来るのは怖かったわ。道狭すぎ!そこにミニバンだもんねえ。
ここに来ると、やはり戦国は中途半端な世界じゃないことが分かります。並みの高さじゃねえ。
しかし、この砦、ここからは高すぎ、遠すぎて地上の様子は分からんでしょう。だから物見じゃないですね。
やはりここから狼煙を上げ、山間の仲間に敵襲を連絡することと、敵に存在感をアピールして牽制することが目的でしょう。
そういうことは現地に立って、景色を見ることで良く理解できますわ。
Re: あおれんじゃあ様へ
乗用車であのような狭い林道を突撃するとは、さすがお師匠様でございますw
小生のような小心者は軽自動車でもドキドキハラハラの連続・・・(笑)
この場所に登ると「お山の大将」になった気分で善光寺平を全方位臨めますが、天気の悪い日は何も見えん・・・(汗)
それでも麓からは目立つ位置なので烽火が上がれば「小田切殿、迎撃態勢充分とお見受け致す!」
いつも思うのですが、塩生、七二会、芋井、戸隠・・・集落がある事が不思議でございます。それにもましてこのような長閑な田舎にも戦国乱世が襲っていたとは。一般の民衆にはさぞかし迷惑千万だったんでしょうねえ。
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