らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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楡沢山城③ (別名:木曽義仲の隠れ城 塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山)  

◆荒行の果てに見た伝説の城址の景色とは◆

「結界は越えたが、一線は越えておりません・・・・」(らんまる攻城戦記管理人談)

何処かの国の育児放棄したシングルマザーを名乗る元アイドルの一年生議員さんと「やっちゃえ日産」よろしくGT-Rを操る関西方面の市会議員さんの税金を使った火遊びと、我々水曜特集の川口浩探検隊の「一線」の意味は全く違う。とはいえ、前人未踏の地なのにテレビカメラが先回りして撮影し、我ら国民を巧妙に欺いたという点では川口探検隊も立派な詐欺師であろう・・・(笑)

「城跡としてのWEB初公開」・・・この言葉の誘惑には勝てない。「一線」とはこの事を示すのかもしれない・・・(汗)

楡沢山城 (110)
楡沢山城から南西方面の木曽平沢駅の北側の高台より撮影。坊主林道ですら簡単に登れる高さではない。

楡沢山城 (32)
平場と平場を区切る石の列の跡。人工の造作物と見れるかは微妙だ。

烽火台も含めた山城の標高の限界が1000m~1200mといわれるのは、その高さが天候に左右されるギリギリのラインだからである。もちろん、麓からの比高も勘案されるだろうが、狼煙をあげるにも女子供や老人が逃げ込んで敵をかわすにもこの高さが「結界」であり、一つの目安であろうか。

楡沢山城 (45)
ニセピークから熊笹を掻き分けて北へ歩く事5分。とうとう我々は楡沢山城の中心部に辿り着いたのである。

【城の伝承と履歴】

標高1,760mの楡沢山山頂にある事から通常は「楡沢山城」(にれさわやまじょう)と呼ばれているが、楢川村贄川(ならかわむらにえかわ)や平沢においては「木曽義仲の隠れ城」とか「木曽義仲の夏城」と言われている。また、辰野町川島では「瀬戸城址」と呼んでいる。「木曽義仲の隠れ城」(島田安太郎・舟木慎吾著 昭和四十八年刊行)では研究会のメンバーの提案により「朝日ヶ峯城址」と呼称を統一したようだが、浸透しなかったようである。

楡沢山城 (47)
1754mのピークの北側の削平地。主郭であろうか。V字形の二段でかなり広い。

楡沢山城 (46)
腰の高さまで生い茂る熊笹が城跡一面に広がる。何十年かに一度笹が枯れて城跡が鮮明になるようだが、いつになるやら・・。

「長野県町村誌」の贄川村「楡沢山の砦」の項に、「木曽氏砦の其一にして、本村の南にあり。中山道々路に続す。峻山にして其高さ百廿丈余、嶺上に至り四方を眺望すれば、数里外の村落と雖も一目瞭然足り。故に木曽氏茲に砦を築き、常に兵士を置き、之を守らしむ。敵襲来するの時い当り、是を遠見し狼煙を挙げて、鳥井峠の砦に報ず。同所の守兵これを見るや山吹山(日義村にあり)の砦に報ず。於茲再び烽火を挙げ、以って木曽氏の本城福島に報じ、敵兵防御の軍備をなせしと云ふ。嶺上東西三十間南北五十間平坦なる地あり。今に至って尚所々残礎を存す」とある。

楡沢山城見取図①
頂上付近の平坦地を等高線に沿うような形の横堀でガードしたような縄張。

郷土史研究家で、「木曽義仲の隠れ城」の共同著作者である舟木慎吾氏によれば、この城の築城目的は信濃に落ち延びてきた義仲を匿い育てる為であったという。知識も経験も不足している小生は否定も肯定もしないが、そんな思い入れもありかなーと思う。

楡沢山城 (49)
山頂は土塁状の5×50mの痩せ尾根にある。熊笹に覆われて何が潜んでいるのか分からない・・・(汗)

【城跡】

平均して腰の高さ、場所によっては胸までの高さがある大熊笹が城域一面を覆っているので、細部は捉えきれない。が、笹の海の高さの変化=地形を示しているので凡その見当はつく。ハッキリ確認出来るのは横堀と伝承されている見取図における㋐・㋑・㋒などの堀形である。
宮坂武男氏が指摘している通り、この横堀は「線状凹地」(せんじょうおうち)と呼ばれる等高線に生じた山塊の地層のズレや地滑りの跡で、南アルプスの山脈には多く見られる地形らしい。

楡沢山城 (50)
城址ピークの南側の「舟くぼ」と呼ばれる線状凹地(見取図の㋐) 巨大な土塁状の壁が深さを際立たせている。

この巨大な線状凹地(舟くぼ)が源平合戦の頃に構築されたという説が正しいのか、ていぴす殿の被写体で検証してみよう。

IMG_1931.jpg
舟くぼ(堀切㋐)に突撃していく「ていぴす殿」

IMG_1932.jpg
長さ50mほどある横堀㋐。ここで彼は得体のしれない巨大なタランチュラに似た生物に遭遇し恐ろしさに声も出なかったという。

楡沢山城 (54)
城域のピークの1754m付近。三角点は元々ないが、この状態では確認など無理である。

IMG_1937.png
12:30に楡沢山城のピークへ到達。しかし、相変わらず笹薮に覆われたここで昼食や休憩がとれるはずも無い。

ピークから北西の斜面には数段の平坦地が認められる。人工的に手を加えたとしても、この高地ではごく僅かな作業に留まったと思われる。

楡沢山城 (61)
主郭と思われる平場。

楡沢山城 (67)
主郭の北側斜面に展開する段郭。

【舟木慎吾氏の作製した説明板の痕跡】

「木曽義仲の隠れ城」の著者である舟木慎吾氏は楡沢山城の研究・執筆とともに、城址に畳一畳の自作の説明板を背負いあげて立てたという。平成13年の調査時に宮坂武男氏は、朽ち果ててはいたが、その熱く語られた説明板の半分を確認したという。
我々も必死にその痕跡を探した。圧倒的な熊笹の藪に諦めかけたが、見事発見したのである。

飽くなき城への探求心とその情熱。我々も見習いたいものである。

IMG_1940.jpg
標柱(説明板)が固定されていたであろう支柱の跡。

【笹薮の海と線状凹地】

それにしても一面の笹薮。岩原古城も酷かったが、ここも似たようなものだ。足下に何が潜んでいるかも確認できない状況はかなり辛いし、ヘタに休息すらできない。外気温の上昇に伴いハエが顔の周囲を飛びイライラしてくる・・・。

楡沢山城 (72)
城域北限の郭。この台地は「神を祀るという台地」という名がついている。

楡沢山城 (76)
見取図における横堀㋑。曖昧だが等高線をなぞるような窪地である。

楡沢山城 (78)
横堀㋑から見上げた城域。こんな標高の高い場所にこれほど広い場所があるとは。

楡沢山城 (81)
城域ラストの横堀㋒。(南側より撮影)

楡沢山城 (83)
巨大な線状凹地の㋒。人工造作物であれば、御坂城の横堀に勝るとも劣らない。

楡沢山城 (84)
㋒の拡大。自然の造形にしては限りなく人工の造作物に近く、我を忘れて撮影する美しさがあった。

当日のルート
さあ、城ヶ平経由で帰りましょうか。

【城ヶ平】

城域を離脱した我々は、城ヶ平に向かった。幸いなことに北へ向かう尾根上には辛うじて道形が残っていたので相変わらず腰まで生い茂る熊笹行軍であったが下りだったので精神的には楽だった。

楡沢山城 (89)
城ヶ平に向かう途中にも線状凹地の堀形が何ヵ所か確認できた。

楡沢山城 (90)
城ヶ平。ここから坊主林道までは道など無い。結構な傾斜地で疲労困憊の足腰にはキツイ下り坂であった。

楡沢山城 (91)
途中の下り斜面で視界が開けるポイントがあったが両足の痙攣で横移動が叶わず望遠撮影。道の駅まで比高600mぐらいか?

楡沢山城 (93)
坊主林道に戻れた時には、正直なところ、嬉しかった・・・(笑)


≪楡沢山城≫ (にれさわやまじょう 瀬戸城 一夜城 木曽義仲隠れ城 要害城 朝日ヶ峯城)

標高:1,754m 比高:865m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山
攻城日:2017年6月24日 
お勧め度:☆☆☆☆☆ (遭難の恐れ有り 経験・装備がない限りお勧めしません 自己責任で)
館跡までの所要時間:4時間30分 駐車場:道の駅ひらさわ借用
見どころ:線状凹地
注意事項:遭難の危険あり。単独訪問不可。熊生息。熊笹ラッセル必須。
参考文献:「信濃の山城と館④ 松本・塩尻・筑摩編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P249参照) 
付近の城址:奈良井城、本山城など
SpecialThanks:ていぴす殿 (感謝感謝でございますw)

楡沢山城 (5)
さすがに日本最高所のラスボスは、手強かったのである。

楡沢山城 (111)
贄川宿より見た楡沢山城。

楡沢山城 (112)
拡大写真。二度・・・は無いだろうなあー(笑)
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Posted on 2017/08/10 Thu. 22:50 [edit]

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コメント

一線を越えて

完全に一線を越えてますわ。
しかし、えらい場所ですね。

小生には人工物に見えますが、自然でもできるのかなあ?
氷河地形ならこんなフラットな感じの地形はできるようですが。

城としてもこんな高い場所に城など造ってもしょうがない気もします。
逃げ込み城でももっと低い山で適したところはいくらでもありそうだし・・・。
でも、心配性の極致ならあり得るかも?
ここは祭祀の場所ってこともありえるのではないのでしょうか?

あおれんじゃあ #- | URL | 2017/08/11 20:50 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

あの世も越えそうな勢いでした・・・(汗)

現地を調査した舟木氏曰く、若干の人工的な盛り土も確認出来た、と本には書いてありました。
氷河期のカール扇状地の縮小版とも取れるような自然地形を利用した砦でしょうか。鳥居峠の峠山烽火台から繋ぐにしても標高が高すぎて晴天以外の日は使い物になりません。
考えられるのは、危機が迫った義仲の幼少期に一時的に避難した場所という事かも。

師匠の言うように中世の山岳信仰があった可能性も否定できませんね。

らんまる #- | URL | 2017/08/12 09:02 * edit *
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