らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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金剛寺 城代屋敷・高土手・向ヒ屋敷見張番所  

◆米山城の里「金剛寺」集落の史跡 最終回◆

年末感謝祭の「金剛寺シリーズ」は残念ながら今回で最終回である。

特に「戸石米山城保存会」の方々から協賛いただいた訳でもないが上田を想う「郷土愛」に感謝したい。

戸石城2013 (15)
戸石城から見た真田の里。

【金剛寺 城代屋敷】

天文10年(1541)の海野平合戦でこの地域が村上氏の支配下になると、海野氏や真田氏の築いた物見砦を改修または新たに広げて現在の戸石城の基本が完成したものと思われる。
城の大手口に当たる金剛寺集落には、村上氏の城代屋敷が作られ現在も地名として残っている。

宮坂武男氏の調査によれば、城代屋敷地として推定されるのは二通りの説があるという。

金剛寺城代屋敷図①

●1の説
・南からの大手道が屋敷地部分で突き当っている
・敷地西側が「西の小路」と呼ばれていた
・東は戸石城への大手に当たり、西は西山物見砦に登る道がある
・城代屋敷の地名は1を指し2は上手村という地名
・城代だったと伝わる石井氏の墓が敷地内にあった(現在は米山城に移転されている)

金剛寺集落 (34)
城代屋敷1の100m南に土塁跡がある。

金剛寺集落 (1)
屋敷の東から戸石城への大手に繋がる道。

金剛寺集落 (5)
村上時代の戸石城は西側が大手だったらしいが。

※「城代屋敷1」は現在民家が多くプライバシーに配慮し撮影は遠慮しました・・(汗)

●2の説
・薬師堂跡から北側にかけてL字の土塁跡になっている。
・矢出沢から用水を引き入れている
・まとまりのある方形をしている

金剛寺集落 (17)
松代道と分岐する左側一帯

金剛寺集落 (35)
薬師堂跡は屋敷西側の防御土塁の跡だという

金剛寺集落 (40)
明治時代に焼失したという玉蔵寺の跡。中世以前に建立されたというお寺の跡地も屋敷に入る?

まあ、どっちにしても巨大過ぎるので実際はもう少しコンパクトだったように思う・・・。

真田氏が上田城に本拠を移した後も、戸石城は支城として機能していたので真田統治時代にも引き続き城代屋敷が置かれていたという。

金剛寺周辺史跡図


【高土手】

東條健代神社の北方250mの場所が「高土手」と言われていて、約60年前に果樹園造成の際に壊されたという。
現在、その場所には何も無い・・(汗)
高さ約2m程度の土塁で、金剛寺集落の南城戸として機能していたという伝承があるらしい。

金剛寺集落 (28)
高土手は写真の家の手前にあったという


【向ヒ屋敷見張番所】

金剛寺集落の南端で米山城の南西麓に見張番所と呼ばれる伝承地がある。伊勢山集落へ通じる道沿いの監視小屋だったのだろうか。米山城の入り口にも当たる場所なので番所のような小屋があったのかもしれない。

金剛寺集落 (14)
最近「義清街道」と命名されたらしい道路の途中にある。

金剛寺集落 (13)
説明板と石柱まで設置してある!!スゴイ。

このあたりは「むかひやしき(向ヒ屋敷または向屋敷)」と呼ばれているので城に関する構築物があったのだろう。
見張番所があった場所は周囲を石垣で囲まれた敷地になっているが、往時のものとは判断が出来ない。
金剛寺集落の入り口にあたるので、或いは口留番所が置かれたのかもしれない。

金剛寺集落 (15)
微妙な配列の石垣。

金剛寺集落 (16)
石垣の上段は「むかひやしき墓地」がある。墓地の土留めで石垣が組まれた可能性もある。


【義清水】(又は義清井戸)おまけでアップ

かつては村上井戸と呼ばれ、米山城・砥石城を守る村上の兵士の水の手だったと伝わり、後に村上義清の名を付けて「義清水」と呼ばれた。
集落にはかつて九ヶ所共同の井戸があったというが、上水道の普及により現在はこの一か所のみが残ったという。

金剛寺集落 (32)

金剛寺集落 (30)


さて、四回に渡ってお送りしました「信州の一乗谷だった金剛寺シリーズ」、如何でしたでしょうか?

そこには強烈な「郷土愛」があり、ふるさとへの熱烈な「誇り」があります。

少子高齢化の波は、住みなれた先祖代々の土地を捨て便利な都市部に集中する現象を生み出し、先祖に申し訳ないと思い不便な山村に住み続ける人々は「限界集落」という未来の見えない不安に苛まれる。

ふるさとの歴史・文化・生活様式、慣習、言い伝え・・・誰かが伝えていかなければ消えてしまいます。

私たちも金剛寺集落の皆さんのように、「ふるさととキチンと向かい合う」姿勢を見習うべきではないか?

そんな事を感じました。

金剛寺ガイドマップ

戸石城・米山城を訪問する際は金剛寺集落にも是非お立ち寄り下さいませ。


≪金剛寺城代屋敷・高土手・向ヒ屋敷見張番所≫

標高: 
築城年代:
築城・居住者:
場所:上田市住吉
攻城日:2013年12月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆
史跡までの所要時間:-分 駐車場:金剛寺公民館借用
見どころ:特に無し
注意事項:住宅地の撮影はプライバシーに注意
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編 宮坂武男著」
付近の城址:柏山城(上・下)、西山城、城代屋敷、戸石城、米山城、長島堀の内など

金剛寺ガイドマップ2



Posted on 2013/12/29 Sun. 22:00 [edit]

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砥石城の福沢出丸・金剛寺峠の番所・砥石城の番城  

◆米山城の里「金剛寺」集落の史跡③◆

食べログと間違われそうなトップページのラーメン写真に違和感を覚える方も多いと思う。

そのうち飽きて元に戻るので、今しばらくお付き合い願いたい・・(別に店から宣伝料を貰っている訳ではない・・笑)

元祖ニュータンタンメン本舗上田店
元祖ニュータンタンメン本舗上田店「ニュータンタンメン大辛700円」(上田市神畑)見た目よりは辛く無い。カプサイシンダイエットにもなるので一石二鳥である。4段階の辛さが選べる。病みつきになる旨さは保証しますよ!(笑)

さて、このまま続けると「金剛寺編」で年越しになりそうなので、禁断の3枚抜き・・(汗)

例のマップを参考に見て頂くと地理的関係は分かり易いと思われる。

金剛寺周辺マップ

【福沢出丸】

天文十年(1541)、村上・武田連合軍が海野平合戦で勝利し敗北した海野氏は上州へ逃亡。(※この時の武田家当主は信虎)海野氏の領有していた金剛寺集落も村上の支配するところとなり、その時築かれた砦で松代へ通じる街道を監視したという。村上氏の重臣福沢氏が拠ったので「福沢出丸(福沢砦)」と伝承されたようだ。

金剛寺集落 (8)
場所は松代街道を金剛寺峠に進む途中の右側にあるという。

伝承では、戸石城の北方搦め手の奥の沢が矢出沢川に突き出る崖状にあったとされる。
それらしき場所の対岸には説明板があるが特定できていないようだ。

福沢出丸 (3)
本気度の高い看板(汗)。川を渡った右側の崖の上あたりと書かれている(推定)

福沢出丸 (5)
アイスバーンの急斜面を登る勇気がなく「やーめーたあー」(笑)

福沢出丸 (2)
対岸の台地から見た推定場所。

宮坂武男氏は神なので踏査されたようだが、「全く捉えようがない」と仰せられている。
なので、凡人の小生の出番では無い・・・(ってか言い訳・・汗)

金剛寺集落北①
宮坂氏が気にとめたのは出丸推定場所の西に張り出した場所にある削平地であった。

福沢出丸 (7)
街道の物見砦としては最適な場所で防御力も高そうだ(対岸から撮影)

福沢出丸の脇の沢は水が沁み出ているので、矢出沢川を含めた戸石城の搦め手の水の手を守っていた可能性もありそうだ。


【番所】

福沢出丸を過ぎてしばらく歩くと分岐点に差し掛かる。馬頭観音の石仏は分かったのだが「峠の湯跡」??

金剛寺集落 (25)
その昔ここに湯屋でもあったのだろうか?

この松代道は松代藩士の佐久間象山(さくまぞうざん)が若かりし頃に向学心に燃えて、上田の岩門の大日堂に住む活文禅師(かつもん)の教えを乞うために馬で通った道でもある。(17歳の時に1年間通ったという)上田と松代は片道約30km以上の距離である。
※活文禅師の岩門の大日堂は岩門城を参照願います。

金剛寺番城 (1)
V字部分が金剛寺峠。先は長そうだ(汗)

金剛寺番城 (2)
峠道を振り返ると柏山城が見える。戸石城の西側を守る砦として重要視されたのが分かる位置にある。

氷点下に近い外気温の中を登って行くと、右側に石積みの立派な敷地がある。番所跡かと思ったが近代の構築物のようだ。

金剛寺番城 (4)
その昔は立派な建物があったのろうか。

金剛寺の区誌によれば、峠の手前に番所があったとされるが、それが戦国時代における村上の番所なのか、真田の番所なのか、ハタマタ上田藩時代の口留番所なのかはっきりしない。
現地を見ても削平されたような場所など無く、峠の地蔵のある場所でもないようだ。

金剛寺番城 (6)
この辺りらしいのだが・・(汗)

金剛寺番城 (13)
峠のお地蔵さんに聞いても答えてくれなかった・・(笑)

金剛寺番城 (9)
金剛寺峠。残念ながら堀切に見える人は病気の疑いがあります・・(爆)

「そんなに松代道って重要な街道だったのかしら?」と思う方がいても不思議じゃありません。

今じゃ当たり前のように上田市と隣接する坂城町は国道18号線が通過していますが、北国街道の整備された江戸時代よりも前の上田と坂城町は完全に遮断されていて、往来するには以下のルートしかなかった。
①千曲川右岸の室賀峠を越える
②屏風のような険しい虚空蔵山の尾根を縦走する(又は和合城の先にある菖蒲平を越える)
③大叡山を越えて松代道に下り真田経由

つまり戸石城は村上領の東端の上田における境目の軍事拠点としては最も重要であり、それ故歴代の城代は百戦錬磨の猛将であった。

武田信玄が強引にこの城を攻め「戸石崩れ」なる手痛い敗戦を被ったのも、この城を落とさなければならない理由が明確だったからである。

金剛寺番城 (16)
金剛寺峠からは真田の里が一望である。真田幸隆が旧領を回復しようともその動きは戸石城から全て見渡せるのだ。

峠の北側の小山は地元では「番入道」と呼ばれている砦跡らしいが軍事構築物は発見出来なかった。

金剛寺番城 (19)
番入道。地山にしか見えなかった。


【番城】

金剛寺峠から300mほど稜線を南へ辿ると戸石城の枡形城に入るが、その中間地点の堡塁が「番城」(または菊畑之城)と呼ばれている。戸石城の搦め手側にあたるのだが、堡塁に名前があったとは驚きである・・(汗)

金剛寺番城 (25)
堀切があるわけでもないし。

金剛寺番城 (28)
郭っぽいが特に人工的な加工があるとも思えないし。

塩田城を囲む尾根に築かれた稜線上の橋頭保(堡塁)の類に良く似ていて、同じ手法で施工したのだと思う。

戸石城も「戸石城・本城・枡形城」という小城の名をつけているので、それに倣い堡塁にも名前が付けられた可能性は否定できない。
戸石城の搦め手の出城とも伝わるようだが、それらしき遺構は発見出来なかった。(西側の尾根は未踏査だが)

金剛寺番城 (30)
ある程度加工されているし。

金剛寺番城 (31)
搦め手方面の敵を狙撃する程度の広さしかない。

複合式の山城として全国区の戸石城のお膝元である金剛寺集落。地元特製のパンフレットには「一乗谷(福井県)に比して優るとも劣らない」と宣言している。

朝倉氏の城下町と比較してどうか?という論評は野暮であろう。その郷土愛が大事なのである。

それにしても、この年の瀬にこのような場所を徘徊していて良いのか自責の念に駆られる・・・(爆)


≪戸石城 福沢出丸≫ (といしじょうふくざわでまる)

標高:630m 比高:20m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市住吉
攻城日:2013年12月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:金剛寺公民館借用
見どころ:特に無し
注意事項:良くわかんないので気を付けてね。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編 宮坂武男著」
付近の城址:柏山城(上・下)、西山城、城代屋敷、戸石城、米山城、長島堀の内など

≪金剛寺峠番所≫ (こんごうじとうげばんしょ)

標高:780m 比高:150m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市住吉
攻城日:2013年12月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:30分(金剛寺集落より徒歩) 駐車場:金剛寺公民館借用
見どころ:特に無し
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編 宮坂武男著」
付近の城址:柏山城(上・下)、西山城、城代屋敷、戸石城、米山城、長島堀の内など

≪戸石城 番城≫ (といしじょうばんじょう)

標高:808m 比高:180m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市住吉
攻城日:2013年12月22日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:40分(金剛寺集落より徒歩) 駐車場:金剛寺公民館借用
見どころ:特に無し
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編 宮坂武男著」
付近の城址:柏山城(上・下)、西山城、城代屋敷、戸石城、米山城、長島堀の内など

金剛寺白山城 (25)
白山城付近から見たそれぞれの場所。


↑地図のメモリ地点は金剛寺峠。




Posted on 2013/12/28 Sat. 21:49 [edit]

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金剛寺 白山城(上田市住吉)  

◆米山城の里「金剛寺」集落の史跡②◆

今年もまだ四日間あるので、個人的な山城納めはギリギリまでわかんない・・(笑)

山がダメなら平地の城館攻めで数量稼ぎという姑息な手段もありかと・・(汗)

あごばんらーめん (2)
あごばんらーめん(上田市中丸子)「濃厚あごらーめん750円」魚介系とんこつは評価が分かれるがレベルは高いと思う。替え玉注文までは出来なかったが、どんぶりの汁は久々に飲み干した。戦闘能力の高さは素晴らしい。

んで、今回は特集の続きで「白山城(しらやまじょう)」のご紹介。

【白山城】

金剛寺の洞源寺の裏山の白山(しらやま)地籍に存在した城だというがハッキリしない。墓地跡から尾根を伝う道がかすかにあり、途中何ヵ所かの削平地らしき場所になるが、堀切や切岸といった軍事構築物の遺構も無い。

金剛寺散策マップ
八ヶ所の城跡記号のある金剛寺マップ。記号を見ただけで突撃ラッパの鳴り響く諸氏もいるだろう・・(笑)

辛口の批評で申し訳ないが、ここに砦を置く必要は西山城砦群同様に無いと思うのである。

この尾根から東太郎山の稜線に道があるなら警戒する必要もありそうだが、地形からも無理があるように思う。

金剛寺白山城 (1)
この尾根を登ると、推定跡地に到達する。

地元の方の作成したウォーキングマップには「白山城685m」と記載されているので、その場所までとりあえず宮坂氏と同様に登ってみた。
神に見つけられないものを、凡人が探し当てるはずも無いのだが・・・・(笑)

金剛寺白山城 (2)
西側には海野氏の開基とされる洞源寺(どうげんじ)がある。村上氏の統治時代は廃寺にされたがその後復興したようだ。

この趣味には常に「神社(或いは祠)」「お寺」「お墓」の「三種の神器」がつきまとう・・(汗)

最近は誰も訪れない荒れた墓地を多く見かけるようになった。その昔は村祭りも行われただろう神社や祠も朽ち果てて放置されているケースもある。嘆かわしいが、「限界集落」の現実がそこにある。

金剛寺白山城 (3)
ご多聞に漏れず斜面には墓地がある。

金剛寺集落北①
地図に落とすとこんな感じ。

金剛寺白山城 (4)
墓地上にある曲輪(?)

金剛寺白山城 (5)
さらに尾根上を進むと白山(しらやま)という地名の平場に出るが、城や砦だという痕跡など何も無い。

堀切じゃなくともせめて「土塁」とか「段郭」があれば証拠になりそうなのだが、緩い稜線を奥へ奥へと進む。

金剛寺白山城 (11)
白山社跡。

上記の場所が標高685mの白山城跡のようだ。意図的な段差があるが神社のものか砦の遺構かは判別出来ない。

人工的な削平地っぽい平場もあるが、何とも言えない。

金剛寺白山城 (12)
城址の遺構と見るには無理がある段差(境界線)

金剛寺白山城 (13)
人工的な加工の跡とも見れるが、ビミョーだ(笑)


金剛寺白山城 (14)
この尾根に堀切を穿つと伝承は「白山城」という史跡になるのだ・・しかしそれは「捏造」というルール違反に他ならない・・(汗)

大正時代までこの場所で白山社としての儀式が行われていたようなので、全てを否定することも出来ない。

海野氏領有時代に物見または集落全体の監視砦が置かれたかもしれない。

金剛寺白山城 (20)
白山城からみた南方面。

何のカケラも無い砦の探索だったが、時々神様は「この趣味を持つものにしか理解できない」ご褒美をくれる。

この尾根の東側の柏山城上の城の全体がここから良く見渡せるのだ。

金剛寺白山城 (19)
ズーム5倍で柏山城上の城。背後の切岸と堀切まで透けて見えるようだ。

宮坂武男氏が今年の春先に金剛寺を訪問したのは、恐らく地元の「戸石米山城保存会」の要請があっての事かもしれない。(あくまでも推定である)

郷土愛とは、時に神をも動かす重要なファクターになるらしい。

金剛寺白山城 (23)
宮坂氏が撮影し本に掲載した祠を小生も撮影してみました(笑)

≪金剛寺 白山城≫ (こんごうじ しらやまじょう)

標高:685m 比高:60m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市住吉
攻城日:2013年12月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:15分 駐車場:金剛寺公民館借用
見どころ:特に無し
注意事項:西側の稜線沿いに有刺鉄線があるので気を付ける事。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編 宮坂武男著」
付近の城址:柏山城(上・下)、西山城、福沢出丸、城代屋敷、戸石城、米山城、長島堀の内など

戸石城2013 (123)
戸石城から見た白山城とその周辺。









Posted on 2013/12/27 Fri. 21:59 [edit]

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金剛寺 西山城砦群  

◆米山城の里「金剛寺」集落の史跡①◆

本文とは全く関係無いのだが、クリスマスイブイブの今日は軽井沢方面に出掛けてみた。

平林城 (4)
平林城(中央の黒い森)。天正壬午の乱で佐久へ攻め込んできた北条氏が築城したという見どころ満載の城らしい。

ゴルフをやりに来たのではなく、お目当ての軍事構築物の下調べなのだが、やはりゴルフ場の一部と化していた。シーズン終了なので門は固く閉ざされ、おまけに高圧電流の電線が周回している。
南は湯川に面した断崖絶壁なのでよじ登って入れるレベルでは無い・・(ってか犯罪行為は止めましょう・・汗)

春になったら許可取って調べましょう。調査中にゴルフボールを打ち込まれそうで怖い場所だ・・・(笑)

さて、今回から少しの間は「おらが上田市自慢の戸石米山城の城下町・金剛寺」の城跡関連の史跡をご紹介します。

金剛寺周辺マップ
この図を見て「ピン」と来る方もいるかと・・・(笑)散策のご参考になれば・・

【金剛寺とは?】(こんごうじ)

以下は大雑把ならんまるの解説・・(汗)違っていても大目に見てね(笑)

江戸時代上田藩にも金剛寺村として記載がある南北に細長い集落で、東太郎山の支脈の東端の尾根に築かれた戸石米山城の西側を流れる矢出沢川(やでさわがわ)の流域に位置する。
金剛寺の名前は集落のお寺に由来するものとされ「金剛山 玉蔵寺(こんごうさんぎょくぞうじ)」の山号と寺名を合成し仙石上田藩時代の命名という。※玉蔵寺は明治42年に焼失

金剛寺白山城 (18)集落の北の白山城(推定)付近から撮影した現在の金剛寺集落。

海野氏配下の小宮山氏が長島の堀の内に居館を構え、その詰めの城として米山城(小宮山城)を築いたという。
その後、海野平合戦で海野氏が村上義清・武田信虎の連合軍に敗れ上州に去ると、周辺は村上氏の支配下となり戸石城が新たに築城され、金剛寺は城代や将兵の屋敷が置かれ城下町として発展したという。(城代屋敷という字名もある)

その後、城の主が村上氏から真田氏に替わり、昌幸の居城時代に戸石城の大手口は東の伊勢山側に変更となり城下町も伊勢山集落へ移ったらしい。(あくまでも推定の話です)

【西山城砦群】

西山城砦群①

地元の説明板には以下の記載がある(参考程度)

立地:金剛寺集落の西側の南北の尾根(西山)にある三つのコブ。

城歴:1330年代に海野氏が西の村上氏に備えたものとされ、築城年代も戸石城より古いと伝わる。南から西山城、中の城、花見城(けみじょう)と名前がついている。

金剛寺西山城砦群 (1)
鞍部に看板があるのには驚いた。尾根先からでもいいが集落からも登り道がある。

金剛寺西山城砦群 (6)
途中には堀っぽい沢があるが自然地形だろう。

●西山城(標高:644.8m)

微かに何段か段差のあり頂部には三峰社がある。最近立てられた説明板にも二度びっくり(笑)

金剛寺西山城砦群 (14)
西山城の頂部。地山にしか見えない。

金剛寺西山城砦群 (10)
手前には段郭らしき削平地?

●中の城(標高:647m)

西山城から50mほど下って登ると再びコブの頂点がある。しかし看板は無い。予算が無くなったのか?(汗)

金剛寺西山城砦群 (23)
やはりただの地山にしか見えない。

●小屋掛け跡のような場所(畑跡)

見るべき城跡の痕跡も無く「年の瀬にこんな場所に居ても良いものだろうか?」という自責の念に駆られる(笑)
ようやく削平された小屋掛け跡のような場所を発見しホッとする。

金剛寺西山城砦群 (30)
畑の跡らしいが小屋掛けした匂いがする・・(どんな嗅覚してるんだろう・・)

金剛寺西山城砦群 (37)
しかも段郭だし。

金剛寺西山城砦群 (32)
畑の排水溝は竪掘に見える・・(汗)

金剛寺西山城砦群 (34)
東斜面から見ると郭っぽい。

●花見城(けみじょう 標高:658m)

最終のコブだが、やはり地山にしか見えない。老眼だろうか。しかも嗅覚も全く反応しない・・(笑)
この先は柏山城に続いている。最初から柏山城があれば全て事足りるのでこの程度の物見はいらないはずだが。

金剛寺西山城砦群 (43)
頂上に軍事的な要素は無い。

金剛寺西山城砦群 (41)
熱意と伝承だけでは断定出来ないような気もしますが・・。

金剛寺西山城砦群 (42)
イザ柏山城へ(今回は遠慮しました)

●総括

海野氏時代の物見としても「何で三ヶ所?だんご三兄弟じゃあるまいし・・」

堀切無いから軍事構築物じゃない!とは言わないまでも物見が置かれたという説明では地理上の説得力に欠ける。

この場所からは村上さんの動向は全く見えないのである。

柏山城は村上時代に戸石城への繋ぎとして堀切を伴った砦に変貌を遂げているのだから、この砦の存在価値に??である

宮坂武男氏もかなり苦労して解説して(というか、かなり無理して)いるが、なんで急に「第8集の補遺」として追記したのか疑問に思っている。

余計な詮索はともかく、神が今年の三月にこの地を訪れているので、神の足跡を辿る事が出来て嬉しかった・・(涙)

≪金剛寺 西山城砦群≫ (こんごうじにしやまじょうさいぐん)

標高:658m 比高:62m (花見城) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市住吉
攻城日:2013年12月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:10分 駐車場:金剛寺公民館借用
見どころ:畑跡は雰囲気と堀っぽいのがお勧め
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編 宮坂武男著」
付近の城址:柏山城(上・下)、白山城、福沢出丸、城代屋敷、戸石城、米山城、長島堀の内など

戸石城2013 (128)
米山城から見た西山城砦群と柏山城。小生の意見の根拠がご理解いただけるかと思います。



Posted on 2013/12/23 Mon. 21:12 [edit]

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長島の堀之内 (上田市 住吉)  

◆米山城の山麓にある小宮山氏の城館跡◆

改変著しい平地の城館跡に往時の遺構を見出すのは難しい事である。

しかし敢えてそれをご紹介していく地味な作業こそ「フランシスコ・らんまる・ザビエル」の布教活動なのである(笑)

米山城といえば砥石連郭城郭群の一端を担う城であるが、独立した単独の山城時代がありその城館も存在したのだ。


長島の堀之内 (1)


砥石城の城代屋敷や家臣の屋敷があった場所としては城郭群の東側に位置する金剛寺集落が有名だが、築城年代の古い米山城の城館は南側にある長島の堀之内地籍にあったと伝わる。


「小県郡誌」では詳細について記載が無く、「千曲真砂」によれば米山城とは「小宮山城」であり海野氏の配下である小宮山氏が長島堀之内に城館を構え詰の城としていたという。




長島の堀之内 見取図①
矢出沢川の断崖を利用した城館。


小宮山氏は海野氏の一族で海野氏と同族とされる。
その支配地は岩門から神科及び国分寺方面、伊勢崎城(虚空蔵山砦)に及んだというが、村上軍の侵攻により砥石城が築城されると、米山城は砥石城に組み込まれる。その後の小宮山氏の動向は不明である。


長島の堀之内 (4)
北側より城館の南側を見る。


館の跡地は全て耕作地となり改変されていまい今では見る影も無いが、矢出沢側の崖淵を利用した要害の地であったことが想像出来る。


長島の堀之内 (2)
城館跡から見た金剛寺集落・柏王城・米山城。


「砥石崩れ」で撤退する武田軍を追撃するための前進基地だったかもしれない。
そう妄想すると城館巡りも悪くない・・(笑)

≪長島の堀之内≫ (ながしまのほりのうち)
 
標高555m 比高10m(矢出沢川より)
築城年代:不明
築城・居城者:小宮山氏
場所:上田市住吉長島
攻城日:2012年4月22日
お勧め度:★☆☆☆☆
見どころ:何も無いのですが雰囲気だけでも・・・。
その他:付近には柏王城、砥石連郭城郭群、金剛寺武家屋敷跡、そして米山城。
参考文献:「図解 山城探訪 第三集 上田小県資料編」(宮坂武男著)



Posted on 2012/08/02 Thu. 21:53 [edit]

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