らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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かぎかけ山物見・つり鐘久保 (松本市波田竜島)  

◆深志領の西の境目「飛騨口」・「木曽口」を抑える要衝◆

2009年7月に始めたこのブログ、今月で7年を超える事になる。

熱し易く冷めやすい性格を自負する小生が7年も続けているなんて、信じられない暴挙であろう・・(笑)

今回ご案内するのは波田シリーズ第六段「かぎかけ山物見・つり鐘久保」。(・・・しつこい?)

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (44)
梓川に架かる雑炊橋(ぞうすいばし)。夏道と冬道(野麦街道)が合流する「かぎかけ山」と島々を結ぶ地点にある。

【立地】

●かぎかけ山物見

旧安曇村と旧波田町の境界に近く、梓川へ黒川が合流する所にある岩山が「かぎかけ山」である。南面は黒川に、西面と東面は梓川に削り取られているために、下部は岩盤が露出して絶壁となり、ごく限られた所に危うげな道が通っている。(現在は岩盤の崩落による落石が酷く通行禁止になっている)足下は梓川の渕になっているような道が100mほど続く。
夏道の西端の出口にあたる「かぎかけ山」は、島々集落の対岸にあり、ここからは島々谷や梓川の谷筋と、小嵩沢山(こたけさわやま)を通って徳本峠(とくごうとうげ)へ向かう峯道を見通すことが出来る。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (47)
雑炊橋から見た「かぎかけ山物見」の登り口。岩盤の崩落が酷く登山道も欠落して危険な状態。現在は立ち入り禁止。落石=即死

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (52)
崩落した「かぎかけ山物見」の登り口。百戦錬磨の「ていぴす殿」は強引に登ったが足場が脆く生命の危機に遭遇し辛うじて引き返したという。

●つり鐘久保(波田の撞鐘久保とも)

「鐘撞き」(かねつき)という言葉は狼煙台の跡地に伝わる言葉である。
天候不良で狼煙リレーが使えない場合は、鐘や太鼓を叩いて次の中継地の狼煙台に伝えていたのだという。
宮坂武男氏は「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」の「68.波田の撞鐘久保」として「かねつき」と「つきかね」は同意語であろうと推察している。そしてその場所はかぎかけ山の一段上にある日向岩あたりではないか?としている。

「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年発刊)では以下のような記載があるが、狼煙台としての考察はしていない。
カギカケ峠(日向岩辺りのことか?)から夏道の山道を四十八曲がりをたどり、山を越し黒川の二ノ沢に出る山路がある。二ノ沢には「つり鐘久保・堂平・法伝寺窪・まや」などの地名があり、堂平には昔「法伝寺」があったと伝えられている。

小生が勝手に推測するには、二ノ沢は黒川の上流の奥まった場所で、日向岩よりも上部の黒川山に近いので、黒川山付近の杣人(そまびと 林業を生業とする人々)の山岳信仰における宗教施設の跡地であった可能性は否定できない。
「つり鐘」はそのままの意味だと思うが、どうであろうか。

かぎかけ山物見
こんなザックリした概略図で良いのだろうか?ご理解いただけるのでしょうか・・・(汗)

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (50)
東の黒川橋から見た雑炊橋。往時の梓川はダムなど無いので、春先から夏は北アルプスの雪解け水で暴れ川だったと思われる。

【城主・城歴】

●かぎかけ山

「かぎかけ山の物見」は夏道の砦と連携して夏道を抑えるための物見として機能していたと思われる。
もちろん、平時にあっては深志領の西端の境目を守る物見砦として、地元の領民が交代で見張りを命じられていたのであろう。
飛騨口、木曽口からの侵入に備えるには格好の立地であり、万が一ここを破られても夏道の砦で迎撃出来る守備体制が敷かれていたと思われる。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (1)
雑炊橋からは崩落が酷く登れないので、東側から夏道経由でトライ。登り口は新渕橋の手前を左斜めに入り黒川林道沿いに進む。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (53)
出遭わなければ、お互い幸せに暮らせるのですw

●つり鐘久保(波田の撞鐘久保)

前述の通り、波田町誌に記載があるのは二ノ沢の「つり鐘久保・堂平・法伝寺窪・まや」である。
二ノ沢にあった「つり鐘」と軍事要素の「鐘撞」(つきかね)が同一であるかは断定する証拠がない。黒沢山に何か施設があったらしいのだが、場所も位置も確定できないので推測でしかないが・・。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (54)
夏道の途中から見た大野田・上波田方面。(東方面)

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (55)
西方面には島々の集落が見える。島々から徳本峠(とくごうとうげ)を越え上高地に至る道も鎌倉街道と云われたようだ。

林道のゲートから歩いて15分ほどで大きくカーブする場所がある。ここがかぎかけ山の一段上の日向岩(ひなたいわ)と呼ばれるところで、宮坂武男氏が「ここが波田の撞鐘ではないか?」として推定している。
通常の夏道は黒沢林道を進んだ竜島の発電所のあたりから一段下に入り、そのままかぎかけ山の「鍵懸大明神」の神社を経由し雑炊橋に下りていくが、林道が突っ切るこの道も裏道として存在していたように思えるがどうであろうか。

夏道と冬道
往時は稲核口の番所を通らない「夜盗道」(やとうみち)もあったようだが、はっきりしなくなっている。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (57)
日向岩のある場所には何故か鳥獣慰霊碑があり、カーブミラーの脇に石仏。

このまま下に下りれば夏道と合流し「かぎかけ山物見」に辿り着くようだが、信濃先方衆の日向岩探索は必須課題・・(笑)

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (10)
痩せ尾根を辿った先を「日向岩」というのであろう。かぎかけ山物見より50m高い場所なので狼煙台があったかもしれない。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (11)
黒川を挟んだ西側の対岸の峰。稲核を経由し角ヶ平~祠峠に向かう鎌倉街道はこの峰の裏側の山腹を通っている。


【城跡】

波田の撞鐘久保については写真で見ていただいた通りで、遺構らしきものはなく自然地形を利用したものであろうか。
かぎかけ山物見についても、鍵懸神社(かぎかけじんじゃ)の辺りを削平し番兵を交代で置いた程度のものであり、冬道にしても夏道にしても雑炊橋の直上のこの山を押さえられたら行軍は極めて難しくなる。
狼煙台も平時は神社辺りに置かれていたと思われる。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (18)
日向砦と鍵懸大明神の間にある石碑。周囲は広大な削平地になっているが、明治時代にこの辺りも養蚕が盛んであったらしく後世の耕作地の址らしいが断定は出来ない。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (32)
神社の削平地を調べる「ていぴす殿」

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (29)
社殿の周囲は土塁が囲む。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (30)
夏道沿いを威嚇するように伸びる土塁の全長は50m近くある。これは往時のものであろう。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (20)
鳥居は朽ち果ててしまったが、神社自体は大事にされてきたようだ。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (36)
神社から雑炊橋へ下る斜面。この先は崩落が酷いようなので調査は中止した。

【所感】

「夏草の砦」とは、木曽口・飛騨口に通じる街道を取り込んだ広域の城塞であるが、自然地形を利用した簡単なものである。
昔の旅人ヨロシク「弥次喜多道中」をていぴす殿と楽しんだ訳で、極端な緊張感は感じられなかった。

梓川の水位の少ない、楽な冬道を通過すればよいようなイメージを持たれると思うが、厳冬期の北アルプス越えが現代の防寒装備でも困難を極めるのに、四百年前は想像を絶する。そもそも通行人など皆無であったと思われる。

「夏道を押さえよ」  このことであろう。

ここから飛騨へ通じる鎌倉道は古来よりの往還であったというが、次回は三木秀綱伝説と共にその謎にチャレンジしてみたい。

●雑炊橋(雑司橋)の新旧

DSCF1191.jpg
江戸時代の雑炊橋(復元模型 安曇資料館展示品) 「はね橋」と呼ばれる構造で12年に一度架け替えが行われたと伝わる。

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (43)
斜張橋と呼ばれる現在の雑炊橋。昭和62年に完成している。


≪かぎかけ山物見・つり鐘久保≫ (かぎかけやまものみ つりかねくぼ)

標高:831m・875m 比高:110m・150m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市波田竜島
攻城日:2016年6月12日、2016年7月2日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:20分
駐車場:路駐
見どころ:土塁など
参考文献:「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年) 「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:黒川林道は波田のセブンイレブンに申し出るとゲートの鍵をかしてもらえるので、日向岩まで車で進入出来る。
付近の城跡:夏道の砦、殿様小屋、隠れ小屋、池尻砦など
Special Thanks:ていぴす殿

かぎかけ山物見・撞鐘堂 (46)
雑炊橋付近からみた「かぎかけ山物見」の全景。

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Posted on 2016/07/11 Mon. 22:25 [edit]

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夏道の砦 (松本市波田赤道)  

◆天正壬午の乱のさなか、深志領から逃げ出す木曽義昌から人質奪回作戦が敢行された砦◆

「境目の城や砦は緊張感MAXで実に興味深い・・・」 

そんな事を書くと不謹慎のようであるが、飛騨領、木曽領との境だった波田地区は中世の遺構や伝承が数多く残り楽しい。

今回ご案内するのは「夏道の砦」(なつみちのとりで)。砦といっても遺構などほとんど残っていないのだが・・・(汗)

しかし、こんな超マイナーな砦を扱う物好きは、小生と「ていぴす殿」の信濃先方衆ぐらいで、まさに信濃大好きの真骨頂である(笑)

夏道の砦(松本市波田) (22)
入口は国道158号線の新渕橋の手前を左折し黒川林道に入り途中から鷲沢に入った鷲沢砂防堰堤の手前.。

林道を上るのだが、軽自動車なら4WDじゃなくてもOK。砂防ダムの脇に適当に止めよう。

夏道の砦(松本市波田) (23)
道形がしっかり残っているので迷うことはありません。5分も歩けば砦に入ります。

【立地】

梓川の右岸、鷺沢と前俣沢の間にある段丘上に夏道が通っていて、そこに夏道の砦がある。対岸が旧安曇村大野田になり「大野田小屋」ともいわれる。

中世から近世の木曽および飛騨への道は、冬は松本から上波田あたりで梓川左岸に渡って八景山(やけやま)を通り、日当たりのよい大野田島々から左岸通り、または雑炊橋を渡って橋場に出て稲核に向かう道を利用した。
夏は傍から大野田夏道を通り、かぎかけ山から橋場へ下り、番所を通って右岸を通り稲核へ出た。
夏道の砦はその名の通り、夏道に沿って作られた砦である。

夏道と冬道
夏道と冬道(推定) ※国土地理院の地図に加筆しています


【砦の経歴】

小笠原家の家臣であった岩岡家が記した「岩岡家記」には「夏道の砦」について以下の記載がある。

「一、天正九年(1581)十一月 木曽義昌、信長公と内談にて、勝頼公へ逆心仕りなされ候につき、甲州より木曽の抑えとして、御人数遣わされ、奈良井にえ川(贄川)に陣取り申し候 
いねこき口へは古畑伊賀・西牧又兵衛仰せ付けなされ候こと

一、天正十年尋午の二月二十六日に、右の古畑伊賀・西牧又兵衛、木曽へ内通仕り、甲州型深志を引き切り、近辺郷中の者苅り立てて、大ぬた夏道に取りこもり候こと」
(「いねこき口とは旧安曇村橋場のことで、「大ぬた夏道」は波田町前渕上段の小平地で砦が作られていた⇒夏道砦のこと)

夏道の砦(松本市波田) (2)
上の夏道と呼ばれた道を登っていく。

木曽義昌の謀反を知った武田勝頼は、深志城の城代であった馬場民部に命じて、波田郷の古畑伊賀(伯耆)と畑五郎座衛門を稲核口の橋場と夏道砦へ入れ、梓川の対岸の西牧郷の西牧又兵衛を大野田城と焼山(八景山)の城日影砦(じょうひかげとりで)などへ派遣してその戦力で、木曽氏の侵入に備えさせたのである。

しかし時勢をを見るに敏で、しかも木曽義昌とは長く隣接して唇歯の間柄にあった古畑・西牧・畑氏らは武田を見限って、織田信長と通じた木曽方へ加わり、急遽波田や西牧の住民や郷士をかり集めて、深志の馬場民部らの攻撃に備え、大野田城と夏道砦に立てこもり、木曽方の旗を立てた。

夏道の砦(松本市波田) (19)
台地(平場)に上がる手前には木戸があったと思われる痕跡が残る。

武田氏の凋落が現実となると、それまで武田氏に帰順していた小笠原氏の旧臣の二木氏や岩波氏・岩岡織部などは時機到来とばかりに武田から離反していった。

天正十年(1582)三月、織田・徳川連合軍による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、信長は木曽義昌に武功の恩賞として安曇郡と筑摩郡を加増した。

夏道の砦(松本市波田) (16)
夏道砦の入口。ここを横堀と見なす説もあるようだが、どうみても道形。

●天正壬午の乱勃発による小笠原洞雪の深志入城と木曽義昌の安曇・筑摩からの撤退

武田滅亡後の天正十年(1582)六月、信長が本能寺で斃れると、武田氏の旧領は上杉・北条・徳川の奪い合いとなる(天正壬午の乱)
小笠原家旧臣の二木・岩岡・岩波らはこの機会を利用し小笠原家の復興を画策し、長時の嫡男の貞慶を探すも連絡が取れず、やむを得ず上杉景勝の元に寄寓していた長時の弟の洞雪を深志城に迎え入れるべく景勝に申し入れた。景勝も安曇・筑摩の実質的な支配者となるためこれを受け入れ、大軍に守らせ洞雪を深志に向かわせた。

夏道の砦(松本市波田) (15)
砦の内側から見た入口。ここから唯一「横矢」が掛けられる。

この動きを察知した木曽義昌は形勢不利を悟り、本拠地である木曽福島に引き上げた。
だが木曽義昌は木曽へ引き上げる際に、安曇・筑摩の土豪より本領安堵と引き換えに差し出されていた「人質」を同行させ、それを木曽の家臣となった古幡放棄(伊賀)と西牧又兵衛らに預け、大野田・夏道砦に閉じ込めて木曽口からの攻撃を封鎖せしめた。

夏道砦の見取図①
砦というよりは街道を引き込んで段丘を利用した簡単な陣地だったらしい。

小笠原長時の旧臣らは、木曽義昌を追い出し上杉方の力を借りて洞説を深志城主として迎え入れた。
二木一族・岩岡織部・岩波平左衛門・青木加賀之助・飯田左馬之助らは、木曽方についた古幡伯耆(伊賀)らが人質を入れて立て籠もっていた大野田・夏道砦を攻め立てて、「人質」の父や子を猛攻撃の上に奪い取り返した。

「拙者(岩岡織部)乗り付け、父佐渡をうばい取り申し候、その上雑仕橋(雑炊橋)にて木曽の者一人討取り申し候事」(岩岡家記)

夏道の砦(松本市波田) (14)
砦の内部。石塁の址と道を挟んだ反対側に一段高い削平地が確認出来る。

【大野田・夏道砦】 ※波田町誌より引用転載

大野田・夏道砦(入小屋)とは、安曇村大野田とその対岸の波田町前渕と竜島の中間で両集落より一段上にある山腹の小台地を指す。
この夏道は上・下があり「下夏道原」は東となりの「なろ原」とは、鷺沢(さぎさわ)の深い谷によって区分されている。その段丘の先端に立つと眼下東方に波田・梓川村をのぞみ、対岸に安曇村の大野田や島々の集落が見える。また、遠景は松本平の一部をのぞむ三ヘクタールの小平地で、梓川の河床からは500mほどの断崖上の切所である。

大野田風景①
長ったらしい説明文よりも一発で理解できる風景がこれだ(笑)

夏道原には矢竹が群生し、古銭も出土したことがあるので、かつては人が住んでいたと思われる。普通砦に見られるような、土塁・曲輪などの人工的地形は見られないが、鷺沢から下道原へ登る道には、かなりの人口の跡がみられ、その入口は深く窪地を作り、敵に備えた様子がみられる。

夏道の砦(松本市波田) (13)
唯一遺構の残る砦入口を西側から撮影。


【所感】

街道を取り込んだ陣城で、これといった遺構もない。耕作地化に伴う改変と鉄塔建設により往時の姿がどうであったかを辿るのは厳しい。なんでここから木曽口?と思う方もいるかもしれないが、藪原から鳥居峠を越えて奈良井⇒深志よりも藪原から奈川経由で波田⇒深志に入るのが距離的には長いものの少数の軍事行動では楽だったと思われる。
実際に夏道を歩くと、往時の飛騨越えの旅人の苦労が少しだけ分かったような気がしました。

夏道の砦(松本市波田) (10)
鉄塔付近も砦に含まれているようですが、獣の気配を感じて撤収・・・(汗)

夏道の砦(松本市波田) (8)
鉄塔手前の削平地と空間。掘立小屋に人質を収容していたのはこの辺りであろうか?


≪夏道の砦≫ (なつみちのとりで 大野田小屋・大ぬた小屋・入小屋)

標高:830m 比高:115m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市波田赤松
攻城日:2016年6月12日
お勧め度:★☆☆☆☆ 
所要時間:5分
駐車場:路駐
見どころ:石塁、道形
参考文献:「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年) 「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:周辺に熊の気配あり。熊除け対策を万全にするか、単独訪問は避ける。
付近の城跡:若澤寺跡、波田山城跡、櫛木城、波田の撞鐘久保、かぎかけ山物見など
Special Thanks:ていぴす殿

夏道の砦(松本市波田) (6)
西側に続く夏道。江戸時代もここを通り飛騨や木曽へ向かう人々の重要な間道であったという。



夏道の砦遠景①
対岸の冬道沿い(大野田)から見た「夏道の砦」の遠景。

Posted on 2016/07/06 Wed. 23:00 [edit]

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淡路城 (松本市波田上波田)  

◆外様ながら小笠原家中で立身出世し、秀政の重臣となった春日淡路守の屋敷址◆

昨日は二か月ぶりの信濃先方衆の合同遠征。

初夏の城巡りは異例中の異例であるが、長年の課題である小笠原領の「木曽口」「飛騨口」の謎解きに迫ってみた次第・・。

その様子については近日中にアップしたいと思うておりますが、例の如くお約束は出来かねます・・・(笑)

DSCF0986.jpg
白骨温泉の入口に築かれた池尻砦も今回の目的地。馬場美濃守の「ため息」が聞こえそうな飛騨攻めの最前線の砦ですw

今回ご案内するのは松本市波田シリーズ(旧波田町)の「淡路城」(あわじじょう)。

いまでは史跡碑のみが残る屋敷址なのですが、盛者必衰の戦国哀史はここにも伝わるのです・・・(涙)

淡路城 (1)
気が付かないで通り過ぎてしまった史跡碑・・(汗)

【立地】

前回ご案内した櫛木城から東へ600mの段丘上に作られた屋敷址とされ、木曽口・飛騨口に通じる野麦街道は眼下に抑える立地である。

淡路城 (2)


【城主・城歴】

石碑には「慶長十九年(1614)築城」とある。

淡路城址については、「波田町誌」で以下の記載があるので引用転載してみます。

「春日淡路守道次(又は信次)は『笠系体系』によれば、天正十二年(1584)に川中島に攻め込んだ小笠原貞慶に、大日方源太左衛門と共に降参している。

春日氏は七二会村(長野市七二会)の戸屋城萩野城笹平城の城主であったが、小笠原家に降ってからは頭角を現し、慶長十二年には秀政に属し、その重臣となり、慶長十八年(1613)に小笠原氏が信州松本へ八万石で移封したときは、1,000石(あるいは1,300石)の家老となっている。

昭和九年発行の『波田村誌史料』には、「本村西波多官林西南隅に城址あり。東西一丁三十七間・南北五十三間、老松生い茂り四周の土手高さ三尺あまり存せりと、(明治九年頃)東南隅に三十間余隔たり馬場跡あり、東西三間・南北五十間、今は畑なり西の方出丸と唱へ七十間離れ、東西四十間・南北三十一間、慶応年間まで形を存せり。同年開墾、畑になる。(中略)天正の初め春日淡路といふ人之に居る。」

淡路守は小笠原秀政の家老にして、慶長の検地を監督し、元和元年小笠原忠真に従い、大坂の役に従軍せしも、終る所を知らず。という。

淡路城見取図①
波田町誌P188の見取図を引用。東に堀切が貫通しているが、現在は北側に一部痕跡を残すのみである。

春日淡路守は大坂夏の陣にも小笠原秀政父子に従い出撃している。激戦を極めた大坂夏の陣で小笠原秀政・忠脩(ただなが)は父子は戦死してしまい、戦後処理は春日淡路守が一人で取り計らっている。

春日淡路守が波田に住んだらしいことは「淡路屋敷」によってもほぼ間違いないとみられるが、波田町内には史料は少ない。

淡路城 (3)
屋敷跡地。

●謎の父子自害

淡路屋敷は天正十二年(1584)ごろに春日氏が松本へ出てきてから屋敷として作られ、天正十八年(1590)に小笠原氏が古河に転封して二十三年後の慶長十八年(1613)に再封までは空屋敷となっていたのか、石川氏時代に留守居の者が置かれていたのかは明らかではない。

元和三年(1617)に小笠原忠政は播州播磨10万石の地を将軍秀忠より与えられて転封しているが、なぜか証に移ったのちになって春日淡路(1,300石)とその子春日蔵人(300石)の父子は「生害滅す」とされている。

淡路城 (4)
耕作地が広がるばかりで、遺構は何もない。

春日淡路ほどの人物にしては、明石において生害滅すというのは、寵姫(妾)が禁制の切支丹になっていて処刑された「十三経塚」の伝説と関係がありはしまいか。

●「十三経塚の話」

戦国時代の終わりから安土桃山時代に、松本城主の小笠原貞慶と秀政の二代に仕えた家老に、春日淡路守道次という侍があった。この淡路守は小笠原家中では千三百石取りで、天正十三年ごろから波田に住み、段丘上に「淡路屋敷」をかまえていたが、元和三年大坂夏の陣の後に、難波の遊女津由と共に行方不明になったとも伝えられている。

この春日淡路が全盛のころ、奥女中で「カナザシ姫」という寵姫(かこいひめ=妾)を「御殿場」の別邸に住まわせていた。姫は十二人の侍女にかしづかれ暮らしていた。
ところがこのカナザシ姫は、下波田の「三日市場」へ毎年特産の麻を買いにやってくる、近江商人によってキリシタン宗門に入信を薦められてキリシタンとなっていたのである。

徳川氏が江戸幕府を開くころからは、きびしい禁教令が出されて、改宗しないキリシタン宗徒には容赦ない極刑が待っていた。
しかし女性ながら深く信仰を持ったカナザシ姫と十二人の侍女たちは、最後まで教えを捨てようとしなかったため、御殿場の南にある磔松原という所で処刑されたと伝えられる。

淡路城 (5)
元和三年(1617)には明石への転封に伴い廃城になったのであろうか。

大久保長安事件に松本藩主の石川数正の後継である康長が連座して改易となっている。小笠原氏の後任の石川氏はキリシタンを保護していたので、春日淡路守の妾がキリシタン信者となった可能性は高く、石川氏の改易の責任が春日氏に及んだ可能性は否定できないという。

【館跡】

現場は改変が進み遺構は全く確認出来ない。東西に二ヶ所堀形の址があるというが、屋敷址のものかは断定出来ない。
江戸時代初期の屋敷址で、居住年数も僅かだったらしいので仕方ない。
馬出も想像するしかない・・(笑)

七二会の春日さんが貞慶の配下としてこのような場所で活躍されていたとは知りませんでした・・・(汗)

まだまだ勉強が足りないようでございますw



≪淡路城≫ (あわじじょう)

標高:722m 比高:35m
築城年代:慶長18年
築城・居住者:春日淡路守道次
場所:松本市波田上波田
攻城日:2015年6月21日、2016年7月2日
お勧め度:★☆☆☆☆ 
所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:史跡碑のみ
参考文献:「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年)
注意事項:耕作地につき無断侵入禁止。
付近の城跡:若澤寺跡、波田山城跡、櫛木城、夏道の砦、かぎかけ山物見など
Special Thanks:ていぴす殿

淡路城 (7)
東側に残る「一の堀跡」

Posted on 2016/07/03 Sun. 22:47 [edit]

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0629

櫛木城 (松本市波田上波田)  

◆小笠原家重臣の櫛置(櫛木)父子二代が50年間在城した城◆

この頃はもっぱら神社仏閣巡りに精を出しております・・・飽きっぽいのでいつまで続くか・・・・(笑)

先週は飯山市の小菅神社を訪問し、偶然に出羽三山の有難い修験者様ご一行の修行を垣間見させていただきました。
その様子はまた別の機会にアップしようと思うておりまするw

今回ご案内するのは、波田山城の麓の館城として櫛木氏が滞在したという櫛木城(くしきじょう)。

松本市1506 (16)
残念ながらバイパス道路により一部破壊されたが、遺構は良く残っている。(主郭北側より撮影 2015年6月)

松本市1506 (8)
現在は果樹園となっている主郭の外側には説明板がある。

【立地】

上波田集落の西側の段丘上で、波田氏の水沢の館があったという波田神社から100m東に位置する。上波田バイパスの工事に伴い切岸や堀切の一部が破壊されたが、高台から眼下を通る野麦街道を監視するには絶好のロケーションであり、木曽口や飛騨口を抑えるにも恰好の場所で、背後の水沢には詰め城としての波田山城、信仰の中心として若澤寺が控えている。

櫛木城2016 (19)
小生の下手な縄張図を掲載するよりも既存の図を借用したほうが百倍分かり易い・・(笑)

松本市1506 (13)
「城畑」と呼ばれる本郭。現在は果樹園となっている。

【城主・城歴】

櫛置氏(櫛木とも)と西光寺城(櫛木城)については、波田町誌に詳しいので「歴史現代編」より以下を引用します。

●櫛置氏の出自

櫛置(木)氏は小笠原氏が初めて甲州から信州へ入ったときには、一門として同行した古い家臣で、四天王といわれている。史料上に初めて櫛置氏の名がみえるのは、応永六年(1399)十月二十一日の市河文書である。(文書略)
また翌応永七年七月十九日には小笠原信濃守長秀は「小笠原櫛置入道殿」に充てて、信濃守護より指令書を出しており、在国の守護代官は小笠原櫛置石見入道清忠、小笠原赤沢対馬守秀国・それに古米(こめ)入道の三名が国務を執っていた。

松本市1506 (11)
主郭と二の郭の間は堀切で遮断されている。

この後守護小笠原長秀は善光寺町平柴の守護所に入り守護権を確立するため制礼を掲げ、川中島では村上氏の所領に対して「守護入部の所務」を命じたことで、国人層の反発を買い信濃国人一揆により大塔で敗れ、守護の地位を追われている。(大塔の乱) このときは伊那勢と少数の府中の武士が守護と行動をともにしており、坂西長国・古米入道・常葉入道・櫛置石見入道らの重臣や一族が討ち死している。
櫛置石見入道は文武両道の達人であったが、死に臨んで避遠の土と化す口惜さを詠じて、腹掻き切って大塔古城の露と散った。

「苦しくも 都の花に別れ来て 今日信濃路の 露と消えぬる」 (櫛置清忠詠)

櫛木城2016 (23)
二の郭に建つ史跡碑。

「大塔物語」によれば、このとき櫛置五郎太郎・波田小次郎らも同行随身しているが、生死のほどは定かでない。
永享十二年(1440)の「結城陣番帳」にも「櫛置殿」がある。また文明五年(1473)に、将軍足利義政は美濃萩島・大井両城を陥れた小笠原一族の戦功を褒めているが、その中に「小笠原櫛置九郎右衛門殿」とみえている。

櫛木城2016 (22)
二郭の奥には西光寺があり、縄張に組み込まれていた。

●父子二代50年間の在城

小笠原一族の重臣櫛置氏が波田郷にいつ来たのであろうか。波田町上波田の西光寺跡には「櫛木城址」と云われる所がある。
「旧東筑摩郡誌」によれば、「再興寺城址(西光寺城) 正長年中(1428)櫛木正盛ここに居りしが事歴明らかならず」とある。
「波田村の生い立ち」(百瀬長流編)では「寛正三年(1462)櫛木紀伊守政盛波多郷地頭にて来り、西光寺の隣地に内城を築き居館してより、寺は櫛木氏の保護を受け、櫛木氏と同道して郷内に居住した小笠原将士の氏寺となった。」と述べている。

櫛木城2016 (23)
二の郭と三の郭を隔てていた堀切は消滅してしまったようだ。

櫛置氏が波多郷へ入った年代については、諸説があって詳らかではないが、当時の状況から判断すると、小笠原長朝が文明十二年(1480)に上社の与党であった仁科氏を攻め、西牧郷で人家千軒も焼いた前後に、重臣の櫛置九郎右衛門を波多郷の抑えとして、西光寺の隣に西光寺城を、また光明寺山頂に山城(波田山城)を築き、武士団(20騎)を上波田町と郷内要所に配したとみられる。
この櫛置九郎右衛門は「神戸村の歴史」(穂高町中島弥生著 昭和十六年刊)によれば「櫛木市正(いちのかみ)一俊=寛正文明年代の人」とあるので、同一人物ではなかろうか。

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西光寺を取り込んだ縄張。水堀だったのだろうか。

櫛木紀伊守政盛は天文十七年の塩尻峠の合戦において戦死しているので波多郷在城は「小笠原分限録」には「小立野小池山城主・二十騎」(現在の生坂村小立野)とあることから見ても「分限録」の書かれた大永四年(1525)より以前であったとみられている。
したがって櫛置氏は波多郷西光寺城に約五十年間父子二代在住していたことになる。

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西光城の仁王門跡。(現在は波田神社隣の田村堂に移築されている)

櫛木紀伊守政盛の持ち高は三百五十貫文(水田約100ha)、千石取りの分限で、二十騎の将であったことが「六万石史料(上巻)」にみえる。

櫛置氏は二十騎の武士と多くの従臣を率いて、西光寺城へ入ったとみられ、その使命は対岸の西牧郷地頭で三千貫文(約800ha)の身代と、百六十騎を擁する安曇郡南部最大の豪族、西牧讃岐守満兼とその一族与党に備え、なおまた木曽氏や飛騨の三木氏の侵入を抑えるため、羽柴・夏道砦・桂ハザマ・波田山城・西光城内城と一連の城塞を設けて、小笠原領の西の鎮台として要衝の地を固めていたのである。

松本市1506 (31)
縄張りの南側には武士団の屋敷があったようだ。

武田信玄により深志の小笠原長時が追放された後の波多郷の記録は少なく、武田氏の支配下では輿山城守政信が波田の郷司に任命されたという。

その後、武田が滅亡し織田が斃れ天正壬午の乱が勃発すると、小笠原長時の息子である貞慶が徳川家康の後ろ盾で旧領回復に成功する。安曇や波多郷を支配していた西牧氏は貞慶に追われ奈川に逃亡。波多郷は旧領回復に功績のあった百瀬石見守に与えられたとう。


【城跡】

上波田バイパス工事による改修を受けているものの、崖渕に四条の堀切があり、主郭、二郭、三郭の連郭式の河岸段丘上の館城の跡が確認出来る。西光寺は天台宗の独立した寺として往時は本堂・阿弥陀堂・地蔵堂・仁王門・僧房・鐘楼を配置していたとされるが、現在の改変された城域で範囲の特定は難しい。
※阿弥陀堂と仁王門は波田神社の南側に移築されて残っている。

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田村堂の脇に残る西光寺の仁王門。木造金剛力士像は長野県宝の指定を受けている。

櫛木城2016 (7)
同じく田村堂の横に残る西光寺の阿弥陀堂。

小笠原領の西端の境目であった波多郷。境目であるが故に、この地域では様々な悲喜こもごものドラマが生まれている。
もうしばらく波多郷の古跡にお付き合い願いたいと思う・・・。


≪櫛木城≫ (くしきじょう 再興寺城 西光寺城)

標高:732m 比高:38m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市上波田
攻城日:2015年6月21日、2016年6月12日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:-
駐車場:波田神社脇の専用駐車場
見どころ:堀切など
参考文献:「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年)
注意事項:耕作地は無断侵入禁止。
付近の城跡:若澤寺跡、波田山城跡、淡路城、夏道の砦、かぎかけ山物見など
Special Thanks:ていぴす殿

松本市1506 (35)
東の三郭よりみた城域と西光寺跡。

Posted on 2016/06/29 Wed. 21:52 [edit]

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波田山城 (松本市上波田)  

◆木曽口・飛騨口の境を抑え、対岸の西牧氏に備えた小笠原一門の山城◆

前回で「若澤寺跡」を取り上げた以上、逃げ道を自ら塞いでしまったので隣接する波田山城は記事にするしかない・・・(汗)

宮坂武男氏の縄張図を参照して久々に描く山城の見取図は実に面倒だ。やはり方形居館は簡単でいいなーと思う(笑)

波田山城2016 (144)
登り口は水沢林道から「はた歴史の遊歩道」が城跡の南側に通じているので迷う事はなく、城址もある程度整備されている。

この城は昨年6月に「ていぴす殿」にアテンド頂き、「こんな狭い林道をガンガン飛ばして大丈夫かしら?」と心配しつつ初回訪問。険しい山城なのにあっさりと登り口に行ける手軽さに感動・・(笑)。しかし、その時の写真がピンボケばかりで使えずに、今回1年ぶりの単独再訪となった次第。

波田山城2016 (1)
入口に立つ説明板。豪快な鳥瞰図(作者不明)と宮坂武男氏の縄張図が掲載されている。が宮坂氏の名前掲載が無いが大丈夫か?

波田山城2016 (3)
登城口には沢を堰き止めて作ったような天然の水堀がある。遊歩道だが、この近くまでは車高の高い軽自動車なら入れる。

【立地】

北アルプスの奥穂高岳を源流とする梓川が松本平の平野部へ出るところの右岸の上波田集落(かみはたしゅうらく)の後背の名刹若澤寺の表参道が登るところで、城への登り口は水沢林道の遊歩道沿いが最も分かり易い。また、城跡の南の沢から東山麓の中沢へ若澤寺の裏参道が通り、現在は「はた歴史の遊歩道」となっている。城跡から北方山麓へ下る四本の尾根やその沢筋にも山道があり、往古はこれらの道を使って登城したことが考えられる。波田地区の浄水場のところを「御天城」(おてんじょう)と言い、裏参道を「大名道」と言うらしい。

波田山城2016 (5)
南側の段郭で構成される尾根にもこんな感じで木戸があったのかもしれません。

波田山城2016 (9)
東尾根との合流地点。

波田山城見取図①
五つの尾根が広がる為に、段郭を多用し主要部を四条の大堀切で遮断する処理が技巧的である。


【城主・城歴】

「信府統記」では「波田山古城の地」として「波田村ヨリ十一町二十間、光明寺沢ト云フ所ノ峯ナリ、今ニ土手一重、乾堀ノ跡モアリ、本城ノ平 東西六間、南北二十間 波田某ノ要害ナリ、居住ノ地此辺ニアリシト云フ」とあり、光明沢の山にあると言っている。
「長野県町村誌」では、「城山」として「本村の西南に当たり、直立二町山上に城址あり。東西二十間、南北二十五間、中央に井あり 今に清水湧出す。年号詳ならず 畑六良左衛門時能之を築くといふ。文化年間(1804-17)まで石壁存すと雖も本村真言宗若澤寺明治四年に廃寺になる。増営に付、之を取壊し用ふ。遺濠なを形を存せり。昔時、畑六良左衛門時能、東国より姥と共に此の地へ来たり住す・・・・」とあり、後に六良左衛門は新田義貞に属して越前鷹巣城で討死したと伝説があるとしている。

波田山城2016 (12)
分岐から東尾根に向かう。堡塁から下った先に堀切㋔。

波田山城2016 (18)
堀切㋔から少し下ると北斜面に対して長大な竪堀となる㋕が現れる。展望台のあるあたりが城域の東端になっていたようだ。

いくらなんでも波田山城の築城時期を南北朝時代に遡るのは無理があるので「波田町誌」(昭和62年発刊)で調べてみた。要約すると以下のようである。

●波多郷と源姓波田氏

波田氏の名称は既に鎌倉時代の内田埴原地頭としてみえているが、波多郷(波田)の名は、室町時代の永享十一年(1439)に若澤寺に源信盛が大檀那となって寄進した梵鐘銘が初見である。

波田町(現在の松本市波田)と山形村には平安時代より信濃十六牧としての官牧「大野牧」(牧場)があり、埴原に置かれた朝廷の牧監庁(ぼくげんちょう 信濃の牧の監督官庁)の役人であった源姓の波田氏が土着して鎌倉時代に地頭となり、大野牧を横領し私牧化して勢力を拡大したものと推定されている。

波田山城2016 (32)
登城口(南斜面)と東尾根の合流地点。北東の沢に対して三連の竪堀を入れている。

波田山城2016 (37)
本城と北城を断ち切る豪快な堀切㋐。

牧場経営によって得た経済力をバックに源姓波田氏は、近隣の寺社の造営や仏像・鐘楼等の寄進を行い次第に武士化をすすめ、居館も堀ノ内から上波田の段上に城館を構えて移ったと伝わる。(水沢の館、現在の波田神社付近)

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西光寺跡に鎮座する波田神社。源姓波田氏の水沢の館跡と伝わり、波田町を見下ろす高台の上にある。

この時の信濃の守護は小笠原貞宗で、建武の新政の頃から足利尊氏に属して活躍した功績が認められ守護として任命されたという。したがって国府の置かれた府中に近い波多郷もまた小笠原氏に力を貸したと思われ、南朝に近い西牧氏や南朝方の姉小路氏を警戒し高台の水沢に館を移したと想定される。

太平記に登場する南朝方の畑時能が波田山城の築城に関与したとの説も伝わるが、南朝方の英雄がわざわざ北朝方の小笠原氏に同調する波田郷に出向いて源姓波田氏を排除し、波田山城を築城するとは考えにくい。明治維新で一時的に南朝方の人気が高くなった事もあり、その時の南朝贔屓における想像の産物だったと思われる。

波田山城2016 (36)
本城の南下の段郭(25×7)。丁寧に削平されている。

武士としての波田氏の行動は「私本大塔記」によると、応永七年(1400)に小笠原長秀が信濃守護となって、川中島平へ入った時の従軍武将中に、「波田小次郎・百瀬・輿・塩原・清原」の名が見える。
次いで「結城陣番帳」には永享十二年(1440)に小笠原政康の軍中に波多殿・同名中殿とある。
この二つの戦記は室町時代初頭における、小笠原氏と終始行動を共にしていた波田氏とその一族の動きを示すものである。
百瀬氏は波多郷、清原氏は竹田郷、塩原氏は小坂郷の土豪的武士であり、輿氏は内田埴原郷の地頭で、池田判官代跡を名乗った波多腰大和守清勝のことであろう。

波田山城2016 (48)
北城(37×13)

波田山城2016 (57)
北城の先には一段下がって帯郭が展開する。

波田山城2016 (63)
北城の周囲を囲む帯郭。

波多郷の源信盛の名は至徳四年(1387)に、牛伏寺地蔵胎内銘に見え、それから五十二年後の永享十一年(1439)に若澤寺鐘銘にも見える。したがって結城合戦(1440)ごろは六十歳以上の老人であるので、あるいは子息が出陣戦死したのであろうか。
宝徳二年(1450)には若澤寺拝殿鰐口施主に西牧郷の「讃岐守信兼」とあるので、波多郷の主権が西牧氏に移った。また、長録二年(1458)には平朝臣六翁の名が鰐口や供養碑にみえているので、源信盛死去によって跡取りが絶えたため西牧氏や仁科氏の支配下に入ったのだろうか。

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若澤寺の「阿弥陀来光三尊種子碑」には「長録二年(1458)平朝臣六翁沙弥盛高禅定門願主」と刻まれている。

波田氏の没落については、はっきりはわからないが、江戸時代の文化年中に江戸の文人十返舎一九が書いたという「水沢」の写本によると、源信盛の死後「お家騒動」があって、家老が家督を横領したことが書かれている。
いずれにしても源姓波田氏の正統は信盛によって中断しており、戦国期に見える「波田某」については、古くから小笠原方の「波多郷」を宿敵の仁科・西牧氏に奪われた小笠原長朝が、文明十二年(1480)になってから失地回復のため、仁科・西牧氏と戦って波多郷を奪回し、有力な家臣櫛置氏と小笠原系武士団を波多郷に入植させている。

櫛置氏入城後に、波多郷は小笠原氏によって、源姓波田氏の分流から取り立てて「波田殿」を名乗らせ、小笠原氏の「籏本槍備衆、百四十貫文、十騎の将」として波田山城主としていることが考えられる。

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帯郭から見た北城の壁(へき)。

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北城の北側は光明沢に竪堀を穿ってその周囲は段郭を重ねている。

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北城の西側には一段下がって楕円形の郭(20×10)があり、堀切㋐に接続している。

波田山城2016 (78)
本城と北城を遮断する豪快な堀切㋐。

●小笠原四天王と呼ばれた櫛置氏(くしきし 櫛木氏)による波多郷の統治

源姓波田氏の領有であった「波多郷」の主権は、宝徳二年(1450)には西牧郷の讃岐守信兼がにぎり、その後長録二年(1456)には若澤寺施主として平朝臣六翁沙弥盛高がみえている。
信濃一円を平定した守護小笠原氏は、その後、伊那郡伊賀良庄の小笠原家と信府井川の小笠原家に分裂抗争が続き、また諏訪神社も上社と下社が争うなど内紛があり、守護職は名ばかりとなり、小笠原持長(井川)は諏訪下社に味方して、上社及び伊那小笠原氏と合戦を行い大敗するありさまで、自領地を保つことさえ精一杯の状態であったから、波田氏の領土が西牧氏や仁科氏の手に渡ってもこれを取り戻すだけの余力は無かったのであろう。

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堀切㋐から見た本城と北西下の段郭。

波田山城2016 (86)
主郭(本城)に入るには、一段下の帯郭に入り西側の堀切㋑から馬出を経由するというスタイルで、この仕組みは林大城と共通。

しかし文明十二年(1480)になると、小笠原長朝(井川)は、穂高において仁科盛直を攻めて破り、続いて諏訪上社の党である西牧・仁科・山家の諸氏の平定にむかっている。

波多郷に進出していた西牧氏は、小笠原長朝によって根拠地である北条於多屋館(おたや)と城下町の民家千軒ほどを焼かれ大きな打撃を受けたとみられる。

小笠原民部長朝は上社と下社の内紛に乗じ、神社領を横領したり、安曇・筑摩両郡の内で上社に味方する領主を討伐して守護権の回復と領土の拡大をはかったわけである。波多郷をも仁科・西牧氏から取り上げて直参の部将である櫛置氏を派遣して地頭とし、上波田に西光寺城と波田山城を築いて西牧氏及び飛騨・木曽口へ備えとしたのである。
※櫛置氏の出自等については櫛木城(西光寺城)の掲載時に触れてみたいと思う。

波田山城2016 (90)
本城の虎口から見下ろした馬出(5×5)

波田山城2016 (88)
馬出から見上げた本城の虎口。

【城跡】

白山(1387m)の中腹にある若澤寺と水沢を挟んだ977mの山頂(本城)を主郭として、両袖に北城・南城の主要な郭を置きその間うを三条の堀切で穿った中世の山城である。 元々は段郭を多用する戦国初期の山城様式であったものを、小笠原長時配下の櫛置氏が長大な堀切を入れて防御を高めたものと想像される。

波田山城2016 (89)
北西斜面の横移動は㋐と㋑の長大な堀切で制限を余儀なくされる。


波田山城2016 (93)
土塁の全周する主郭(本城)

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主郭には井戸跡が残っている。

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井戸跡。掘れば湧水であったようだ。(宮坂氏は天水溜めと考察している)


本城の東に位置する北城を中心とする段郭は大手口の防衛が主目的となり、光明沢に竪堀を入れ幾重にも重ねた郭で攻城兵の攻め口を絞る工夫が見られる。併せて本城及び南城についても、野麦街道から梓川を隔てた西牧領からの攻め手を想定し、段郭の構築も結構細かく刻んでいる。

波田山城2016 (104)
本城の南側の帯郭。

波田山城2016 (105)
南城から見た堀切㋑。

波田山城2016 (115)
南城の削平地。

波田山城2016 (116)
南城と堀切㋑。

波田山城2016 (117)
西尾根の堀切㋒とその先の馬出郭(20×10)

波田山城2016 (120)
西側最終の堀切㋒。

波田山城2016 (130)
とっても厳しい竪堀㋑。

波田山城2016 (132)
城域の南斜面の移動を制限する堀切㋑と㋓。

波田山城見取図①
戻るのが面倒な方に縄張図を再掲。

縄張図を見ると、とても複雑で戦国末期の城のように思えるが、主要な郭の間を大堀切で断ち切る技法や尾根に対して段郭を重ねる手法は戦国初期の山城に共通のものである。
横堀や畝状竪堀を確認する事が出来ないので、波田山城の最終の活動時期を特定することは難しい。

天正十年(1582)に小笠原貞慶が深志に復帰した際には、波田山城は櫛置の城として、「VS木曽義昌・VS西牧氏」への重要な役割を果たしたと思われるのだが、記述が少なく詳細は不明である。

波田山城2016 (134)
南斜面に三連の竪堀を配置しているのは配慮すべき重要課題である(笑)

≪波田山城≫ (はたやまじょう 秋葉城)

標高:993m 比高:240m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市上波田
攻城日:2015年6月21日、2016年6月12日
お勧め度:★★★★☆ 
所要時間:15分
駐車場:無し、路駐
見どころ:堀切、土塁、井戸跡、切岸など
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、「波田町誌 歴史現代編」(昭和六十二年)
注意事項:秋は止め山(松茸山)なので8月下旬あたりから入山禁止。夏でも雑草や藪が少ないので遺構は良く見えるのでお勧め。
付近の城跡:若澤寺跡、櫛木城跡、淡路城、夏道の砦、かぎかけ山物見など
SpecialThanks:ていぴす殿

若澤寺後201606 (44)
若澤寺跡から見た波田山城方面。


Posted on 2016/06/25 Sat. 23:17 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

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