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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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仁熊城 (東筑摩郡筑北村仁熊)  

◆麓からの道も途絶えた隠れ城◆

2012年12月、我ら信濃先方衆は初めてこの山城に挑み天候の急変により挫折。その4年後の2016年11月に片道90分かけてようやく辿り着いた。

その時のオフショット記事はこちら⇒中信濃のラスボス仁熊城に挑む

あれから2年以上経過してしまい、記憶が確かなうちに記事にしておかないと後悔しそうなので、今回記録することにした・・(汗)

仁熊城(筑北村) (103)
城跡とは全く違う場所に平成23年に建てられた標柱。宮坂氏は平成10年に城址を比定しているが何故ここなのか説明して欲しい。

【立地】

筑北村と生坂村の境界に位置する岩殿山(1007.6m)が南北に形成する山脈の北側の中間点に位置する。山麓の集落の細田地区から直接見る事は出来ない。西側の丸山集落(現在は廃村)のある谷を挟んで生坂村側には大城と京ヶ倉が対岸の山脈に聳えて見え、古来より境目を見張る場所であったようだ。
現在、城址に通じるハッキリとした道はなく、麓の細田集落から鉄塔までの保安道を登りその先は尾根伝いに急峻な獣道を辿り、850mの三角点を目指す。その後尾根を南に縦走すると地理院地図の902m地点手前が城跡である。

仁熊城(筑北村) (98)
前回挫折したルートとは違うルートでチャレンジ。鉄塔から上には道形もなく獣道を這い上がる荒行(毎度の事さ・・笑)

仁熊城(筑北村) (102)
黙々と尾根を辿る途中で見える景色は疲れを癒してくれます。ここが中信濃のスクランブル交差点。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では「仁熊古城地 仁熊村ヨリ戌亥ノ方余廿町四十間、本城ノ平長七間、横三間、台所ノ跡ト伝ヘタル所アリ、今モ水少ツツアリ、戌ノ方ニ馬場ノ跡アリ、城ヨリ麓マデ五町四十間、東向ノ城ナリ、青柳伊勢守持チナリ、近江守清長ノ聟仁熊某ト云フ者居レリト云フ、此山松平丹波守領主ノ時ヨリ留山トナス」とある。この記載は「信府統記」の記述をそのまま記載しているという。

この記載から、この城は青柳城を本拠とした青柳氏が隣接する日岐氏との境界を監視する境目の砦として築かれたようである。南北を縦走する尾根伝いの道は古来より間道として利用されていたらしく、岩殿山を越えた南尾根には高松薬師城や高登屋があるので、ネットワークとして機能していいたことも充分考えられる。

仁熊城見取図①

【城跡】

尾根に何ヵ所かピークはあるが、縄張はいずれの頂点も使うことは無い。筑北村の教育委員会が標柱を立てた場所は三角点のある峰のピークの一つには違いないが、人工的な加工はなくただの素山で、素人目にもここが城跡とされた理由が分からない。
そこから二つのピークを越えて南下した尾根と沢筋が宮坂武男氏の比定する城跡で、ここは人工的な削平と盛土(土塁)、そして数段の段郭(居住空間)、井戸跡などがあり、明らかに城跡と判明する。

ここは、当初物見が置かれた単郭であった場所を切羽詰まった豪族が逃げ込み場所として居住空間を増設したものととらえてよいだろう。彼らの敵とは・・・・そう、武田晴信(信玄)であった。

仁熊城(筑北村) (15)
長野県町村誌に「馬場ノ跡」と記載された郭2。×3の北側に突き出した削平地である。

仁熊城(筑北村) (17)
土塁で目隠しされた郭1。物見郭を除けば城域での最高所に位置する。

仁熊城(筑北村) (30)
郭1の南側に削平された郭3が確認出来る。

最初はこの部分だけで物見として利用されていたと思われる。隣接する日岐氏(丸山氏)の領地とは険しい渓谷を隔てているので、攻め込まれる心配もなかったようだ。

仁熊城(筑北村) (37)
鞍部の郭4。ほぼ方形に削平されかなりの広さがある。ここから北西方向の沢に降るように数段の郭が造作されている。

鞍部にはこの城跡最大の広さを誇る郭4があり、そこから北向きの沢筋に向けて6段の削平地が確認出来る。日当たりはともかくとして隠れ家的な分譲地である。掘立建物をテキトーに造作すれば敵が通り過ぎる数週間ぐらいは籠れそうである。(チョッと冬は厳しいが・・・)
天水溜の井戸跡もあり、籠城が長引く事態になれば、最悪は南の尾根伝いに逃げる事も想定していたのかもしれない。

仁熊城(筑北村) (50)
大きさをお伝えする為ていぴす殿にご登場願ったが、段郭は居住性を持つ空間であった。

仁熊城(筑北村) (54)
居住区のある北側の沢は最終的に崖となり落ちるので、こちらからの侵入は心配ない。

仁熊城(筑北村) (57)
段郭も竪堀の調査もそうだが、「下りたら上る」という体力消耗は毎度の事ながらキツイ・・・(笑)

【物見砦からの景色】

縄張図にも描いたが、城域の南側の一段高い場所に周囲を岩場で囲まれた剥き出しの物見台がある。ここからの見晴らしは素晴らしいの一言であるが転落注意。
恐らく往時もこの隠れ小屋の物見として使われたのであろう。

仁熊城(筑北村) (80)
対岸には深い渓谷を挟んで、日岐丸山氏の物見砦である京ヶ倉と日岐城の詰め城の大城が指呼の間に見える。

仁熊城(筑北村) (83)
日岐領の北の砦である金戸山(かなとこやま)まで眺望できる。

仁熊城(筑北村) (85)
青柳氏の本城の青柳城も見渡せる。烽火が連絡手段だったと思われる。


【山岳信仰と山城の関り】

近年、山岳信仰を(恣意的に?)利用した山城の築城について掘り下げた議論を耳にするようになった。個人的にも中信濃の山城の多くはこの問題について避けて通る事は出来ないような気がしている。
ただ、何でもかんでも宗教と結び付けて考えるのは短絡的であるし、一時期流行った「神社・仏閣」=「豪族の居館跡」という裏付けのない安易な想定も危惧している。

しかしながら、信濃の山脈(やまなみ)は、北信濃の三大霊場(戸隠・小菅・飯縄山)に集った多くの修験者が己の鍛錬のために登り、縦走し修行をしている。信者も礼拝の為に山道を辿る事も多かったと伝え聞く。

この仁熊城(にゅうまじょう)も単なる逃げ込み城ではなく、こうした宗教に関わる山道を抑える為に構築されたと見れるかもしれない。その事は、小生の今後の山城を研究する上での重要な課題だと認識している。

仁熊城(筑北村) (3)
GPSによる仁熊城の座標。経験の浅い方は遭難の危険があるのでお勧めしません。


≪仁熊城≫ (にゅうまじょう 隠城・細田砦)

標高:870m 比高:200m(大日堂より)
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:東筑摩郡筑北村仁熊
攻城日:2016年11月13日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:90分 駐車場:無し(邪魔にならないように耕作地の脇に路駐)
見どころ:土塁、削平地、展望
付近の城跡:竹場城、安坂城、日岐大城、京ヶ倉、青柳城など
注意事項:事前の調査とそれなりの装備はマスト。道が無いので険しい山城探訪の経験値の無い方は御法度。遭難します。
参考書籍:「信濃をめぐる境目の山城と館・松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
Special Thanks:ていぴす殿

hikioojyo (41)
対岸の日岐大城から見た仁熊城。こんなショット撮るヤツの気が知れない・・・(笑)


「S」は駐車可能な場所。(付近にお住まいの方にはひと声かけた方が無難です)
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Posted on 2019/02/13 Wed. 22:06 [edit]

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横谷入城 (松本市浅間温泉)  

◆浅間地区を領有した赤沢氏の物見砦か◆

湯治場として松本藩のお殿様も通ったという浅間温泉。その歴史は古く、天武天皇に仕えた豪族の古墳も周辺にみられるという。

さて、今回ご案内するのは、その浅間温泉を見下ろす尾根上に築かれた横谷入城(よこやいりじょう)。前回ご紹介した茶臼山城とともに浅間地区を見張る赤沢氏の砦と伝わる砦である。

横谷入城 (1)
登り口のふるさと公園駐車場から横谷入城を見上がる。ピークを二つほど越えた奥側になる。

【立地】

浅間温泉の東方、大正山(1050m)から南東に延びる尾根先の大音寺山(887m)に築かれている。以前は西側の上浅間配水池の沢沿いの道を登るルートだけだったようだが、平成18年に尾根の東側からの遊歩道が整備され、二年前には「浅間温泉ふるさと公園」として西側の御殿山も含めて大規模に整備されたので迷わず城跡まで辿り着ける。
しかし遊歩道の整備に伴い城跡の遺構がかなり崩されてしまい、宮坂武男氏が踏査した平成8年の縄張図とはかなり違ってしまっている。

横谷入城 (3)
ふるさとは公園宿泊客のトレッキング用の遊歩道整備が目的のようだが、効果はどうなんだろうか。

横谷入城 (30)
つづら折れの遊歩道を10分ほど登ると最初のピーク。ここは平場で堀切があるらしいのだが・・・。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では赤沢氏の持ち城で部下に守らせたとあり、「松本市史第二巻」にも「赤沢氏の持城で稲倉城の要砦で物見城とも呼び、天文年間には浅間孫太郎が守っていたが武田氏により落城、破却されたとある。

横谷入城見取図①
宮坂武男氏の縄張図(平成8年)によれば、良好な遺構が残っていたはずなのだが・・・。

赤沢氏の所領は、女鳥羽川上流の稲倉(しなぐら)を中心とした集落と浅間峠を越えた女鳥羽川下流の浅間周辺なので、浅間峠の街道を監視する砦としてはもちろん、烽火台としての機能も併せ持っていたのかもしれない。

横谷入城 (29)
必死に探した堀切㋖。が、土手付きの痕跡すら分からない状態。

横谷入城 (8)
城の中枢部に入る手前の削平地は「アルプス展望台」として新たに標柱とベンチ数台が設置されていた。

横谷入城 (6)
物見としては申し分ないロケーション。

横谷入城 (7)
遠く塩尻市方面まで見渡せる。

【城跡】

頂部に単郭を置き、前後を数条の堀切で防御した簡単な縄張だが、主郭の東側には土留めの石積が確認出来る。
西の沢筋の遊歩道には「空堀」の表示があるが、これは伐木の作業道を兼ねた山道のようであり、竪堀ではなさそうである。
遊歩道の整備に伴い城跡は大規模な伐木が行われた結果、雨水や風雨が地表を削り堀切は崩れてしまったようである。

横谷入城 (9)
城址に立つ新しい標柱。

横谷入城 (10)
22×13の主郭。削平されているだけで土塁で囲まれた痕跡はない。

横谷入城 (25)
主郭の東側には土留めの石積みが散見出来るが西側の斜面には無かった。

宮坂武男氏の縄張図によれば主郭の西側には三条の堀切があったようだが、現在では崩落したか整備過程による改変でその姿がハッキリしない。堀切㋒はほぼ壊滅状態である。

横谷入城 (28)
かすかな堀形を辿るとこんな感じに二重堀切になっていたと思われる。

同じように主郭の東側の鞍部へかけての尾根にも堀切が二条あるがライン、遊歩道整備でエッジラインが欠け、北へ下る竪堀㋑の堀底には切断された倒木が積まれて埋もれていて肉眼での確認も困難な状況に追い込まれている。

横谷入城 (13)
強引に補助線を入れてみたが、チョッと厳しい・・・(汗)

横谷入城 (17)
西斜面から竪堀となっている堀切㋑の僅かな痕跡を探してみた。

横谷入城 (21)
堀切㋐も堀底が歩道となり一部破壊されたようだ。

城域の東側の鞍部は平地になっているので小屋掛けが出来そうだ。現在「堀切」と表示された標柱が立つ場所は一見すると確かに竪堀に見えるが元々は古道で沢筋の作業道として拡幅されたものであろう。だが、途中に水源があることからこの砦の登城口だった可能性もある。

横谷入城 (19)
鞍部に接続する堀切遊歩道。平成18年度の整備事業の際に空堀跡の看板が立てられたが、検証する必要はあると思われる。

横谷入城 (14)
鞍部と城域を遮断していれば堀切と考えられるが、乗り越しにもならずに大正山方面に続いている。

武田信玄の中信濃侵攻の際に、この付近の土豪は悉く小笠原を離反し武田の軍門に降っている。赤沢氏もその一人であり、武田統治時代には既に横谷入城はその役目を終えて使われなくなっていたと思われる。
また、ふるさと公園の案内図には「横谷城」という表示があるが特に遺構は確認できないという。


≪横谷入城≫ (よこやいりじょう)

標高:887mm 比高:160m (ふるさと公園駐車場より)
築城年代:不明
築城・居住者:赤沢氏
場所:松本市浅間温泉
攻城日:2018年3月17日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り(無料)
見どころ:アルプス展望台からの眺望、石積み
注意事項:特にないが、温泉街の道路は狭いので通行に注意。
参考資料:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城址:茶臼山城、伊深城、早落城など

横谷入城 (32)
浅間温泉の西側の女鳥羽川沿いから見た横谷入城遠景。

Posted on 2018/03/25 Sun. 19:12 [edit]

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茶臼山城 (松本市浅間温泉)  

◆赤沢氏の初期の要害城◆

そろそろ真面目に記事をアップしていかないと過剰な在庫を抱えて倒産しそうである・・・(笑)

写真2~3枚と適当な感想でも書いていけば何のこともないだろうが、地元のヤツがそんな体たらくでは恥ずかしいしネ・・・(汗)

今回ご案内するのは、立入禁止の為に周辺の観察だけで終わった茶臼山城。

IMG_5591.jpg
「一人ぐらい見逃してくれよ~いいじゃねえかよ・・・」と思いつつ、不法侵入してはいけません。

【立地】

浅間温泉の後背の山尾根先端部に築かれている。ここは麓からも良く見える。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」には「本村の卯の方にあり。東西八間、南北十間、赤沢氏の持城たり。籏本姥貝左衛門と云す者に之を守らしむ。武田氏の大軍乱入・・・・・」とある。赤沢氏は小笠原氏に属し、その居館は本郷小学校の校庭あるいは温泉街の枇杷の湯付近にあったらしいが、その後稲倉城の麓の御屋敷平へ移ったという。

茶臼山城見取図

【城跡】

主郭にはかつて古墳があったようだが取り壊されて小屋が建てられている。城の主要部も耕作により改変された上に近年の道路の開通や貯水池の建設で遺構が壊されてしまい、往時の様子は推測するしかない状態。しかも主要部は立入禁止。主郭背後には堀切があったかもしれないがそれすら分からない。説明板には南方に30mの空堀とあるが、城への通路だった可能性もある。

IMG_5590.jpg
まあ、踏査出来ないので遠方から見るだけ・・・(笑)

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道路沿いに説明板があるのは有難いのだが、入りたいなあ。

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哀愁を帯びた標柱がイイ!

「信府統記」にも茶臼山城について記載があるが、「次の曲輪等ハ形崩レテ分明ナラズ」とあるので、この時点で既に主郭以外の郭は不明確に改変されていたようである。

IMG_5596.jpg
道路側から主要部分を撮影。この土手を登りたい衝動を抑えるのが難しい・・・・(爆)

小笠原長時の配下として稲倉城を本城とした赤沢氏だが、武田信玄の侵略時に武田方に降る。その後武田氏が滅亡すると小笠原貞慶の部将として刈谷原城主を命じられるが、天正十年(1583)に古厩氏・塔ノ原氏とともに謀反を企てるも事前に発覚し翌年松本城内で切腹となり赤沢氏は絶えた。

≪茶臼山城≫ (ちゃうすやまじょう)

標高:720mm 比高:55m 
築城年代:不明
築城・居住者:赤沢氏
場所:松本市浅間温泉
攻城日:2018年3月17日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し (道路が狭いので路駐は広い部分へ)
見どころ:特になし
注意事項:不法侵入禁止。配水池も立入禁止。
参考資料:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」 (宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:横谷入城、伊深城、早落城など

IMG_5593.jpg
東側斜面の堀形。かつての登城通路だった可能性もある。

Posted on 2018/03/21 Wed. 14:58 [edit]

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平瀬南城 (松本市島内下田)  

◆平瀬本城の南を守る竪堀の美しい砦◆

今週初めに遊びに来た娘と孫の置き土産「インフルエンザB」に罹患し絶賛悶絶中である・・・・(笑)

健康の有難味が心に染み入る今日この頃ではある・・・(爆)

さて、今回ご案内するのは「いつでも行ける」と思いつつ今回やっとその気になった「平瀬南城」である。

平瀬南城 (68)
保存会の方の努力で最近見学者用駐車場が整備されました。ありがたい事ですw

【登り口】

ここは信濃先方衆の同僚である「ていぴす殿」が保存会に入っているので、事前に聞いておけばよさそうなものを、例の如く思い付きで攻め込んでしまったので、直登は覚悟したものの「さあて、どう登りますか・・・」(汗)

犀乗沢沿いに本城方面へ向かい登れそうな斜面を探すが結構キツそうだ。北沢と南沢の川が合流する木橋付近に何かあるぞ・・。

平瀬南城 (2)
おお、ここに看板があるではないか。素晴らしい(笑)

が、道らしきものなどない。険しい尾根先が川に落ちる斜面に辛うじて獣道らしき跡が付いているだけ。

「さて行きますか!!」いつもの事である・・・(笑)

先日、盟友ていぴす殿にお聞きしたら、南沢の砂防ダム沿いに遊歩道を設置する計画はあるが教育委員会の許可待ちとの事。いつになるか分からない様なので、「転落注意」の装備で挑む事をお勧めします。
※ちなみに小生はこの時期はスパイクピン付きゴム長が主力装備。抜群の安定感とコスパだが、防寒対策を忘れずに!

平瀬南城 (3)
比高60mほど登ると緩い下りの尾根(郭3)に到達。笹薮が酷いが歩けないほどではない。

【立地】

芥子望主山(けしぼうずやま 891.6m)の支脈が犀川に突き出る手前の尾根に築かれている。同一尾根の東側の山田集落付近には信玄本陣跡の伝説が残るという。南沢を挟んだ対岸の尾根には平瀬本城(714m)、平瀬山北の城がある。

平瀬南城縄張図
今回は「長野県の歴史を探し求めて」の管理人ていぴす殿の縄張図を借用しました。(無断転載禁止)

平瀬南城 (6)
続いて郭2.

【城跡】

尾根先に郭を三個繋げた一見何の変哲もない連郭式の砦なのだが、主郭の東サイドに横堀を加工し、背後を四重の加工度の高い堀切を穿ち、竪堀として斜面に落として最終的に南沢に収斂(しゅうれん)させている。
平瀬本城ほど複雑な処理はしていないが、同時期に加工されたものであり、斜面煮立って眺めると感動する美しさである。

平瀬南城 (10)
主郭(27×16)西側に土塁が盛られている。

【横堀】

傾斜の緩い南沢側に対する備えとして横堀を入れ更にその先を竪堀として落とすことで侵入を制限している。
砦とか支城というレベルではなく独立した一つの城としての防御機能である。

平瀬南城 (12)
主郭の東側に横堀が走る。

平瀬南城 (17)
主郭背後との接続部分(堀切①)

平瀬南城 (14)
横堀は北斜面に竪堀として落ち、途中で郭3に接続している竪堀と合流する。

平瀬南城 (15)
かなり浅くなっているが段郭ではなく横堀である。

【連続堀切と集合堀の処理】

尾根の背後に連続竪堀を数条入れ、更に長大な竪堀として斜面を走らせ最終的に集合掘とさせる技法はこの地域の山城の特徴であり、小笠原氏関連の山城で多く見られる。
平瀬南城も例外では無く、その特色を踏襲している。(もちろん平瀬本城も同じである)
この加工度の高さは戦国末期の改修であろう。

平瀬南城 (18)
尾根を断ち切る堀切②

平瀬南城 (23)
城域最大の堀切②は上巾11m。巨大な竪堀として斜面を下る光景は圧巻である。

平瀬南城 (25)
堀切②は西斜面側にある程度延長している。

平瀬南城 (28)
西側斜面を竪堀として落ちる堀切②

堀切②の先の南尾根を断ち切る堀切③・④・⑤についてはかなり埋もれているが、南沢に向けて竪堀となり集合掘りとなる光景は素晴らしいの一言である。

平瀬南城 (29)


平瀬南城 (31)
南尾根はこんな感じ。

平瀬南城 (34)
水の手方面に落ちる堀切④

平瀬南城 (45)
水の手から見上げた堀切⑤

平瀬南城 (44)
四条の竪堀は水の手付近で合流し1本の集合掘となって南沢に向かう。

平瀬南城 (47)
集合堀の拡大。

平瀬南城 (51)
写真ではそのスケールの大きさをお伝え出来ないのが残念・・・・。

平瀬南城 (50)
このような土の構築物を見て感嘆している姿を人に見られたら「関わらない方がいいよ・・」とか言われそう・・・(笑)

平瀬南城 (53)
集合掘の北側にも一条竪堀を穿って斜面からの侵入を防いでいる。

さて、如何でしたでしょうか?

解説能力の無さを写真で補おうという姑息な手段はいつもの事なのでご勘弁くだされ・・・(笑)

平瀬南城は平瀬本城の支城という位置づけですが、かなり加工度は高く、少数の精鋭が立て籠もれば数日間は敵を引きつけておけるだけの戦闘力があるように思えました。
平瀬城(北城・本城・南城)ですが、武田の改修というよりは、小笠原貞慶が安曇野・小谷方面への軍事拠点として新たに築城したのではないか?という説もあります。色々と想像力を膨らませるのは楽しいですよネ。

平瀬南城 (32)
主郭からみた奈良井川と梓川の合流地点。武田が攻略した平瀬城はあの場所になる平瀬氏居館だというのが最近の定説だとか。

≪平瀬南城≫ (ひらせみなみじょう 平瀬南支城)

標高:677mm 比高:107m (犀川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市島内下平瀬
攻城日:2018年1月7日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:片道15分 駐車場:有り
見どころ:堀切、長大な竪堀、集合堀、水の手
注意事項:登り口は急なので手袋、滑りにくい靴は必須
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編 宮坂武男著」
付近の城址:平瀬本城、平瀬北の山城、平瀬氏居館跡、光城、田沢城など

Posted on 2018/01/13 Sat. 19:32 [edit]

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楡沢山城③ (別名:木曽義仲の隠れ城 塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山)  

◆荒行の果てに見た伝説の城址の景色とは◆

「結界は越えたが、一線は越えておりません・・・・」(らんまる攻城戦記管理人談)

何処かの国の育児放棄したシングルマザーを名乗る元アイドルの一年生議員さんと「やっちゃえ日産」よろしくGT-Rを操る関西方面の市会議員さんの税金を使った火遊びと、我々水曜特集の川口浩探検隊の「一線」の意味は全く違う。とはいえ、前人未踏の地なのにテレビカメラが先回りして撮影し、我ら国民を巧妙に欺いたという点では川口探検隊も立派な詐欺師であろう・・・(笑)

「城跡としてのWEB初公開」・・・この言葉の誘惑には勝てない。「一線」とはこの事を示すのかもしれない・・・(汗)

楡沢山城 (110)
楡沢山城から南西方面の木曽平沢駅の北側の高台より撮影。坊主林道ですら簡単に登れる高さではない。

楡沢山城 (32)
平場と平場を区切る石の列の跡。人工の造作物と見れるかは微妙だ。

烽火台も含めた山城の標高の限界が1000m~1200mといわれるのは、その高さが天候に左右されるギリギリのラインだからである。もちろん、麓からの比高も勘案されるだろうが、狼煙をあげるにも女子供や老人が逃げ込んで敵をかわすにもこの高さが「結界」であり、一つの目安であろうか。

楡沢山城 (45)
ニセピークから熊笹を掻き分けて北へ歩く事5分。とうとう我々は楡沢山城の中心部に辿り着いたのである。

【城の伝承と履歴】

標高1,760mの楡沢山山頂にある事から通常は「楡沢山城」(にれさわやまじょう)と呼ばれているが、楢川村贄川(ならかわむらにえかわ)や平沢においては「木曽義仲の隠れ城」とか「木曽義仲の夏城」と言われている。また、辰野町川島では「瀬戸城址」と呼んでいる。「木曽義仲の隠れ城」(島田安太郎・舟木慎吾著 昭和四十八年刊行)では研究会のメンバーの提案により「朝日ヶ峯城址」と呼称を統一したようだが、浸透しなかったようである。

楡沢山城 (47)
1754mのピークの北側の削平地。主郭であろうか。V字形の二段でかなり広い。

楡沢山城 (46)
腰の高さまで生い茂る熊笹が城跡一面に広がる。何十年かに一度笹が枯れて城跡が鮮明になるようだが、いつになるやら・・。

「長野県町村誌」の贄川村「楡沢山の砦」の項に、「木曽氏砦の其一にして、本村の南にあり。中山道々路に続す。峻山にして其高さ百廿丈余、嶺上に至り四方を眺望すれば、数里外の村落と雖も一目瞭然足り。故に木曽氏茲に砦を築き、常に兵士を置き、之を守らしむ。敵襲来するの時い当り、是を遠見し狼煙を挙げて、鳥井峠の砦に報ず。同所の守兵これを見るや山吹山(日義村にあり)の砦に報ず。於茲再び烽火を挙げ、以って木曽氏の本城福島に報じ、敵兵防御の軍備をなせしと云ふ。嶺上東西三十間南北五十間平坦なる地あり。今に至って尚所々残礎を存す」とある。

楡沢山城見取図①
頂上付近の平坦地を等高線に沿うような形の横堀でガードしたような縄張。

郷土史研究家で、「木曽義仲の隠れ城」の共同著作者である舟木慎吾氏によれば、この城の築城目的は信濃に落ち延びてきた義仲を匿い育てる為であったという。知識も経験も不足している小生は否定も肯定もしないが、そんな思い入れもありかなーと思う。

楡沢山城 (49)
山頂は土塁状の5×50mの痩せ尾根にある。熊笹に覆われて何が潜んでいるのか分からない・・・(汗)

【城跡】

平均して腰の高さ、場所によっては胸までの高さがある大熊笹が城域一面を覆っているので、細部は捉えきれない。が、笹の海の高さの変化=地形を示しているので凡その見当はつく。ハッキリ確認出来るのは横堀と伝承されている見取図における㋐・㋑・㋒などの堀形である。
宮坂武男氏が指摘している通り、この横堀は「線状凹地」(せんじょうおうち)と呼ばれる等高線に生じた山塊の地層のズレや地滑りの跡で、南アルプスの山脈には多く見られる地形らしい。

楡沢山城 (50)
城址ピークの南側の「舟くぼ」と呼ばれる線状凹地(見取図の㋐) 巨大な土塁状の壁が深さを際立たせている。

この巨大な線状凹地(舟くぼ)が源平合戦の頃に構築されたという説が正しいのか、ていぴす殿の被写体で検証してみよう。

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舟くぼ(堀切㋐)に突撃していく「ていぴす殿」

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長さ50mほどある横堀㋐。ここで彼は得体のしれない巨大なタランチュラに似た生物に遭遇し恐ろしさに声も出なかったという。

楡沢山城 (54)
城域のピークの1754m付近。三角点は元々ないが、この状態では確認など無理である。

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12:30に楡沢山城のピークへ到達。しかし、相変わらず笹薮に覆われたここで昼食や休憩がとれるはずも無い。

ピークから北西の斜面には数段の平坦地が認められる。人工的に手を加えたとしても、この高地ではごく僅かな作業に留まったと思われる。

楡沢山城 (61)
主郭と思われる平場。

楡沢山城 (67)
主郭の北側斜面に展開する段郭。

【舟木慎吾氏の作製した説明板の痕跡】

「木曽義仲の隠れ城」の著者である舟木慎吾氏は楡沢山城の研究・執筆とともに、城址に畳一畳の自作の説明板を背負いあげて立てたという。平成13年の調査時に宮坂武男氏は、朽ち果ててはいたが、その熱く語られた説明板の半分を確認したという。
我々も必死にその痕跡を探した。圧倒的な熊笹の藪に諦めかけたが、見事発見したのである。

飽くなき城への探求心とその情熱。我々も見習いたいものである。

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標柱(説明板)が固定されていたであろう支柱の跡。

【笹薮の海と線状凹地】

それにしても一面の笹薮。岩原古城も酷かったが、ここも似たようなものだ。足下に何が潜んでいるかも確認できない状況はかなり辛いし、ヘタに休息すらできない。外気温の上昇に伴いハエが顔の周囲を飛びイライラしてくる・・・。

楡沢山城 (72)
城域北限の郭。この台地は「神を祀るという台地」という名がついている。

楡沢山城 (76)
見取図における横堀㋑。曖昧だが等高線をなぞるような窪地である。

楡沢山城 (78)
横堀㋑から見上げた城域。こんな標高の高い場所にこれほど広い場所があるとは。

楡沢山城 (81)
城域ラストの横堀㋒。(南側より撮影)

楡沢山城 (83)
巨大な線状凹地の㋒。人工造作物であれば、御坂城の横堀に勝るとも劣らない。

楡沢山城 (84)
㋒の拡大。自然の造形にしては限りなく人工の造作物に近く、我を忘れて撮影する美しさがあった。

当日のルート
さあ、城ヶ平経由で帰りましょうか。

【城ヶ平】

城域を離脱した我々は、城ヶ平に向かった。幸いなことに北へ向かう尾根上には辛うじて道形が残っていたので相変わらず腰まで生い茂る熊笹行軍であったが下りだったので精神的には楽だった。

楡沢山城 (89)
城ヶ平に向かう途中にも線状凹地の堀形が何ヵ所か確認できた。

楡沢山城 (90)
城ヶ平。ここから坊主林道までは道など無い。結構な傾斜地で疲労困憊の足腰にはキツイ下り坂であった。

楡沢山城 (91)
途中の下り斜面で視界が開けるポイントがあったが両足の痙攣で横移動が叶わず望遠撮影。道の駅まで比高600mぐらいか?

楡沢山城 (93)
坊主林道に戻れた時には、正直なところ、嬉しかった・・・(笑)


≪楡沢山城≫ (にれさわやまじょう 瀬戸城 一夜城 木曽義仲隠れ城 要害城 朝日ヶ峯城)

標高:1,754m 比高:865m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山
攻城日:2017年6月24日 
お勧め度:☆☆☆☆☆ (遭難の恐れ有り 経験・装備がない限りお勧めしません 自己責任で)
館跡までの所要時間:4時間30分 駐車場:道の駅ひらさわ借用
見どころ:線状凹地
注意事項:遭難の危険あり。単独訪問不可。熊生息。熊笹ラッセル必須。
参考文献:「信濃の山城と館④ 松本・塩尻・筑摩編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P249参照) 
付近の城址:奈良井城、本山城など
SpecialThanks:ていぴす殿 (感謝感謝でございますw)

楡沢山城 (5)
さすがに日本最高所のラスボスは、手強かったのである。

楡沢山城 (111)
贄川宿より見た楡沢山城。

楡沢山城 (112)
拡大写真。二度・・・は無いだろうなあー(笑)

Posted on 2017/08/10 Thu. 22:50 [edit]

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