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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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権田城 (高崎市倉渕町権田)  

◆権田淡路守が築き大戸但馬守が居城したと伝わる城◆

10月初旬の三連休だったが、山城への訪問意欲も湧かずどうしたものかと・・・・(汗)

その気の無い女子を口説いても仕方がないので、その気になるまで待つ・・・そんな心境ですかネ(笑)

今回ご案内するのは、高崎市倉渕町シリーズ第三弾の「権田城」(ごんだじょう)。

権田城 (39)
城址周辺の生活道路は狭いので、麓の東善寺の駐車場をお借りして車を捨てて徒歩で巡りましょう。

【立地】

高崎から東吾妻へ向かう草津街道(国道406号線)の倉渕町権田、倉淵小学校の裏手の丘陵上の高台に位置する。ここからは権田地域はもとより烏川流域の交通路や大明神の砦、天狗山の砦と連絡が出来る。この場所は、吾妻郡の大戸口あるいは大笹口へ通じる交通の要衝で、軍事的にも重要な拠点であった。麓の元村には刀工権田政重の屋敷跡が残る。

権田城見取図①
耕地化による改変もあるものの、往時の凡その縄張りはそのまま残っているようだ。

権田城 (3)
堀切㋐は耕運機置き場のようだが、しかっり残っている。

適当に登って城跡の標柱を見つけてひと安心・・(笑)
農作業中のおじさんが地主さんだったので、許可を頂き権田城の見学。信州上田から来たといったら驚いてましたが。

権田城 (5)
郭1と接続する長大な竪堀㋒の間に農道が通るが、本来は何もなかったはずだ。

【城主・城歴】

口碑によれば、この城は権田淡路守の居城であると言われている。その後、箕輪の長野氏に属した大戸城の大戸真楽斎の支配下に入り、権田城はその舎弟大戸但馬守が居城とした。武田軍の上州への侵攻が始まると大戸氏はいち早く武田氏に降り、真田氏の配下として大戸の要衝を守った。
武田氏が上野国の西毛地区を占領すると、大戸真楽斎は石倉の砦の守備についたり、勝頼に従って広木大仏の戦いに大戸八郎三郎を派遣している。

権田城 (6)
北側に土塁の残る主郭は40×38の方形。

天正十年(1582)、本能寺の変で信長が横死すると、上野国を支配していた滝川一益は上方に去り、北条が上州の支配を狙い岩櫃城の攻略の為に大戸へ侵入してきた。
勝頼亡き後、岩櫃城の城代であった真田昌幸の配下となった大戸真楽斎は、舎弟の但馬守と共に三ノ倉で北条勢を迎え撃つが、多勢に無勢でこれを支えきれずに大戸城まで後退。大戸城で三日間の籠城戦に及ぶが衆寡敵せず大戸真楽斎は討死し、大戸城は落城し北条勢により大改修され岩櫃城攻略の最前線の拠点となった。

権田城 (9)
郭1と郭2の間の堀切㋑は上巾12m。耕地化により埋められたようだが、辛うじてその痕跡は残っている。

大戸兄弟による三ノ倉迎撃戦で、権田城は大明神山の砦や天狗山の砦と共に防衛拠点として機能していたと思われるが、圧倒的な兵力差に為すすべもなく自落したと考えられる。

権田城 (15)
郭2から対岸の天狗山の砦と大明神山の砦を臨む。

「加沢記」によれば、北条勢に占拠された大戸城は、真田信之の奇襲により奪還されたとするが、信憑性は定かではない。
その後も東吾妻郡への北条勢の侵攻は続くが、小田原の役が勃発すると撤兵。
その後、徳川氏の北条領への転封により、大戸、権田、三ノ倉は松平近正に与えられ、三ノ倉城を居城とした。権田城はその後廃城になったと思われる。

権田城 (17)
鷹さ6mの切岸を介して郭3.

権田城 (19)
なーんだ、農地かーと思うと見落としてしまう土塁。

権田城 (20)
高さ7mの切岸を介して郭4.

【城跡】

城は上ノ久保から東は鉄火、北は高座、南は花輪に至る南北に、300m。東西最大幅150mの細長い丘陵を利用して築かれ、腰郭、空堀、土居の一部が残っている。
東西50m南北40mの本丸と、その南側の空堀と接して二の丸が続き、城の西側は急崖となっている。大手は南、搦め手は北にあり、南西には珍しい笹曲輪がある。
※標柱の説明板より引用

権田城 (24)
3と3‘は農道で分断されているが、元々は一つの郭であろう。

権田城 (12)
城域の東側には長大な箱掘。途中埋められているが、全長は200mに及ぶ。

権田城 (35)
巨大な箱掘は通路としての機能もあるようだ。北条氏による改修も考えられると思うが、どうだろうか?

権田城 (30)
郭5から郭3方面。改変が著しいが、ここらへんが城の最南端であろう。


≪権田城≫ (ごんだじょう)

標高:556m 比高:85m (国道406号線より)
築城時期:不明
築城・居住者:権田氏、大戸氏
場所:高崎市倉渕町権田
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:15分 駐車場:東善寺借用
見どころ:土塁、堀切、切岸など
付近の城跡:木戸沢番所、刀工権田屋敷、大明神山の砦、天狗山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:農耕地なので、許可なく農地に入らない事
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



権田城 (1)
東善寺の駐車場より見た権田城。
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Posted on 2018/10/08 Mon. 21:09 [edit]

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天狗山の砦 (群馬県高崎市倉渕町)  

◆北条の侵入に備えて真田昌幸が築いたと伝わる砦◆

前回の記事の巻頭カラーの迷彩塗装の軽空母「大鷹」が好評だった・・・全く本文と関係ないのだが・・・・(笑)

今回ご案内するのは高崎市倉渕町シリーズ第二弾の「天狗山砦」である。

昌幸パパの名前さえ出せば、閲覧数はうなぎのぼりになるのか・・・??

天狗山の砦 (1)
登り口は麓の「角落山大権現」(つのおちやまだいごんげん)の赤い鳥居。ここからひたすら参道を登る。

【立地】

烏川の右岸、大明神山の砦のすぐ南500mの位置に天狗山がある。大明神山と同様、烏川を挟んで権田城と対峙して烏川の谷筋を見張る形である。登り口は東麓の内手橋のすぐ隣にある「角落山大権現」の赤い鳥居のところから山頂への参道がある。農道と参道の分岐点が不明確で幸い畑に住民の方がいたので教えて頂いた。
参道は直線で尾根筋を登るので結構しんどい。

天狗山の砦 (26)
参道は砦の廃城後に大権現を勧進したときに造られたもので、往時の大手とは違うだろう。

天狗山の砦 (24)
急坂を登ると一度尾根の削平地に出るが、ここは城域には含まれないようだ。


【城主・城歴】

史料・伝承は無いが、この地域の諸城砦は権田城を除いて他のものは武田氏の下で吾妻地方の経略に関わった真田昌幸が天正記に入って北条氏の侵入に備えて築いたものと考えられている。
北条は大戸の手丸子城を手中にするが、天正十八年の侵入も小田原の役の開戦で中断し、それ以後は、下室田松山城に居城した上田上野介の支配下に入り、天正十八年北条氏滅亡後は徳川領となり、松平近政が大戸・権田・三ノ倉五千石を知行し三ノ倉に居城するが、その他の城砦は必要が無くなり廃城となる。

天狗山の砦見取図①

天狗山の砦 (21)
主郭手前にある四段の段郭のうちの一つ。

天狗山の砦 (18)
主郭には大権現社が建ち、周囲は砦の遺構の土塁が周回している。

天狗山の砦 (17)
勧進による破壊は最小限に抑えられたようだが、風化と共に土塁もはっきりしなくなっている。

【城跡】

山頂の主郭は三角形で周囲を土塁が取り巻いている。南東尾根の一段下には台形の副郭が置かれ、その先は堀切で穿ち平場の尾根を遮断している。この方角が搦め手であったようだ。現在参道の登る東尾根には四段の段郭が認められる。
おそらくこの砦は烽火台と物見の役割を担い、権田城、大明神山の砦と共に善光寺道と草津街道を監視したものと考えられる。

天狗山の砦 (13)
主郭を周回する土塁。

天狗山の砦 (10)
北西尾根の副郭と堀切。

天狗山の砦 (7)
堀切を挟んだ先には平場があるが遺構は特に認める事が出来なかった。

天狗山の砦 (4)
沢を挟んだ対岸500mには大明神山砦が連携して備えている。


≪天狗山の砦≫ (てんぐやまのとりで)

標高:590m
築城時期:不明
築城・居住者:真田氏?
場所:高崎市倉渕町川浦
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:20分 駐車場:無し(鳥居近くに路駐)
見どころ:土塁、堀切など
付近の城跡:木戸沢番所、権田城、大明神山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:特になし
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



天狗山の砦 (2)
登り口からみた砦跡。

Posted on 2018/09/25 Tue. 21:44 [edit]

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刀工権田政重屋敷  

◆武器職人の屋敷跡◆

そろそろ山城シーズン再開の準備をしようとは思うのだが、艦船プラモに体力と時間を費やす日々が続く。

大鷹①
改造空母第一号の「大鷹(たいよう)」 迷彩色仕様は渾身の力作・・・と自負しているのだが・・・。

最近真面目に更新しているブログも縄張図作成は結構面倒クサいので、安易な平地の城館の記事ばかり・・・(汗)

今回は記念すべき700城目なのだが、小生にとっては通過点なので、特別な記事など掲載する気は毛頭ない・・・(笑)

心を入れ替えるつもりなどないので、今回ご案内するのは久々の越境の地上野国の「刀工権田政重屋敷」。

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国道406号線沿いの屋敷跡。やはり通り過ぎてから気が付く・・・(汗)

【立地】

烏川の左岸、権田城の大手に近く屋敷伝承地がある。第六区公民館の南側の国道端で標柱がある。権田城の周辺には「鉄火(てっぴ)」「矢谷戸」の地名が残るが鍛冶と関係があるのだろうか。

刀工権田政重屋敷
屋敷とその周辺の見取図。

【刀工権田政重】

面倒なので、以下、現地の説明板を掲載しておく・・・(←いいのか。そんな手抜き対応で・・・・笑)

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まあね、「政重」という名は権田家の代々の当主である刀工が名乗る名跡だったようです。

【屋敷址】

現在みられる屋敷跡はあまり広くないが往古の屋敷跡の広さは不明。また、ここには古くから冷たい水があり、あまりに冷たく刀が打てなかったという伝承もあるらしい。

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現在の場所に往時の遺構を探すのは難しい。


≪刀工権田政重屋敷≫ (とうこうごんだまさしげやしき)

標高:467m
築城時期:不明
築城・居住者:権田氏
場所:高崎市倉渕町元村
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し 
見どころ:無し
付近の城跡:木戸沢番所、権田城、大明神山の砦、天狗山砦、観音山小栗邸址など
注意事項:住民のプライバシーには充分注意
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



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対岸には二つの砦がよく見える。もちろん、両方探訪しました!

Posted on 2018/09/17 Mon. 20:53 [edit]

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小幡陣屋 (別名:楽山園 群馬県甘楽郡甘楽町)  

◆信長公の次男信雄が非凡なる才能を示した美しい大名庭園◆

偉大な親父を持った息子の苦悩なんぞ、他人には分かる訳がない。

その親父が後継者として指名した長男ともどもあっけなく討死してしまったら、本家を継ぐと言いだしたものの心の準備など無理であろう。御神輿に担がれたまでは良かったが、百戦錬磨の妖怪たちに翻弄され坂道を転がり落ちてしまった。

今回ご案内するのは、土壇場で踏みとどまり家名を明治維新まで存続させた織田信雄の作と伝わる「楽山園」(らくさんえん)。

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楽山園の注文。高さ7m、門柱間4.5mで、屋敷の公式な出入り口であったという。

【立地】

信濃との国境の秩父山地から東へ派生する関東山地の稲含山を源流とする雄川(おがわ)が、富岡市で鏑川と合流する3km手前の小幡地区の河岸段丘上に位置する。陣屋の西側は雄川を挟んで紅葉山があり屏風の役目となっている。
江戸時代初期の築城で、小幡藩の藩邸として行政上の拠点としての機能なので要害性はあまり考慮していないようだ。

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中門を内側より撮影。意外と「門フェチ」だったりする・・(笑) 門の内側は桝形。

【藩邸とその周辺の構築物】 

建物は現存していませんが、藩邸としてある程度の軍事的な防御機能はキチンと施してあり、有事の際に備えています。といっても一時的な抵抗の為のものでしょうか。
それではツラツラと写真紹介しましょうか・・・(笑)

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中門の枡形を抜けて分岐点①。庭園よりもこの石垣と土塁にどうしても目が向く。

全体図①
パンフレットからの全体図。結構広い庭園なので、この図に基づいて掲載してみましょう。


元図①
入口の中門とその付近。

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西側より見た拾九間長屋。藩邸の使用人たちの居住地。現在は事務所と資料館になっている。


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この日の午前中に雨天決行して登った小幡氏の居城だった国峯城が背後に見える。ってか何で餅つき大会?

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庭よりもこのアングルに萌える・・(笑)

元図②
参考にしてください・・・

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北裏門。出口専用なのでご注意。

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北隅には作事小屋跡。

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分岐②から見た御殿(藩邸)方面。背後中央の山は国峯城(しつこい・・笑)

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藩邸北側の区画。

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藩邸跡(御殿)。奥に見える建物は「梅の茶屋」

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桶屋長屋から見た藩邸跡と庭門。中央奥の山城は「●●城」です・・・ハイ、正解ですw

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金明水井戸とその周辺。

【楽山園について】 ※甘楽町作製のパンフレットより引用

江戸時代初期に織田氏によって作られた小幡藩邸の庭園。池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の借景庭園で、「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園と位置付けられ、京都の桂離宮と同じ特色がある。

元図③
チョッと見づらいですが、ご参考までに。

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南東から見た昆明池を中心とした庭園。

「景石」の置かれた池を中心として、「中島」や「築山」を築いて起伏のある地形を造りだし、「梅の茶屋」や全国的にも珍しい五角形の形状をした「腰掛茶屋」など複数の茶屋を配し、それらを巡る園路にも工夫を凝らしています。

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梅の茶屋から見た庭園。

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梅の茶屋から見た五角形の腰掛茶屋。織田一族は多角形が好きなんだ。

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梅の茶屋から見た南東庭園方面。

借景庭園としても秀逸で、庭園の西側にある雄川(おがわ)を挟んで紅葉山、南方の連石山、熊倉山などの山並みを借景として取り込み、豊かな広がりを演出している空間構成は、「庭園美」の極みと言えます。

さらに、複数の茶屋を配していることから。「織田氏を茶事」との関連も深く伺うことができ、歴史的・文化的にも価値のある庭園です。

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背後を流れる雄川とその背景。残念ながら雨天の為「借景」は一部のみ。

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梅の茶屋。詫び寂びが分かる年頃になりたい・・・(笑)

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梅の茶屋の内部はこんな感じ。

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南東庭園の築山と泉水(せんすい)

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南東庭園の築山の上から見た風景。「借景」とは背後の山を借りたこのような構成をいうのであろうか。

楽山園という名前の由来は、「知者(ちしゃ)ハ水ヲ楽シミ、仁者(じんじゃ)ハ山ヲ楽シム」という「論語」の故事から名付けられたといわれています。群馬県内に唯一存在する貴重な大名庭園で、国の名勝に指定されています。
(※引用終わり)

≪小幡陣屋≫ (おばたじんや 楽山園)

標高:210m 比高:-m
築城年代:江戸時代初期
築城・居住者:織田氏
場所:群馬県甘楽郡甘楽町小幡648-2
攻城日:2017年8月15日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
館跡までの所要時間:- 駐車場:無料 入園料:300円
見どころ:庭園、藩邸跡など
注意事項:特になし
参考書籍:甘楽町パンフレットなど
付近の城址:国峯城、内匠城、八幡山砦など
SpecialThanks:清之介様(ブログ情報を参考にさせていただきました)⇒そよ風訪城日記

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史料館に展示してある復元模型。



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拾九間長屋(資料館)の小幡藩初代藩主織田信雄公の木造。信長公の文化人としての才能の血を受け継いだのであろう。

Posted on 2017/08/20 Sun. 11:31 [edit]

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刎石堀切 (安中市松井田町坂本)  

◆大道寺駿河守政繁の碓氷峠の悪あがき◆

真田パパ幸の思惑は外れ、「徳川内野聖陽家康とゆかいな仲間たち」は事もあろうに北条高島氏政と和睦してしまった・・(汗)

ドラマでは、堺信繁が小諸城と碓氷峠の兵站補給を遮断するよう進言し策が採用されているが、ここで残念ながら脚本から割愛された武将が二名ほどいる。パパ幸を徳川方に引き入れる調略をした依田信蕃と、北条方の小諸城将として松井田城より赴任していた大道寺駿河守政繁である。

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依田信蕃が信濃において初めての大名の地位となるまであと一歩の夢を絶たれ討死した岩尾城。(佐久市 長野県指定史跡)

徳川家康の天正壬午の乱における対北条戦の圧倒的に不利な戦いを五分五分まで挽回出来たのは、依田信蕃の功績が一番で、その信蕃の調略に応じた真田パパ幸が二番であろう。
※依田信蕃の生涯については岩尾城を参照願います。

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松井田城遠景(2009年6月撮影)

さて、肝心の大道寺家であるが、後北条氏の宿老として代々仕え、政繁のパパ重興(異説あり)の代から関東七名城の一つである川越城代を任されていたという。父の跡を継いだ政繁は氏綱、氏政、氏直の三代に仕え、名だたる合戦には参戦し数々の武功を挙げたという。

松井田城跡 047
松井田城の安中郭に建つ大道寺政繁の記念碑。(2009年6月撮影)

天正十年六月、信長が本能寺で横死すると、東国では武田遺領をめぐり上杉vs北条vs徳川の争奪戦が始まる。(天正壬午の乱)
上野国に侵入した北条氏直は、織田方の将である滝川一益を神流川の戦いで破ると信濃との境に位置する重要拠点の松井田城の城代として大道寺政繁を任命し、そのまま信濃に進駐。小諸城を拠点として圧倒的な軍事力を背景に佐久・小県の国衆を降し北信濃に進出していた上杉景勝と決着を着けるべく対峙。

小諸城 (16)
天正壬午の乱で、北条軍の信濃侵攻の拠点だった小諸城。大導寺政繁が城代に任命されていたという。(写真は三の門)」

だが、上杉方の海津城代だった春日信達の北条方への内通が露見し景勝により成敗されると、氏直は上杉方との決戦を回避し甲斐へ進駐していた徳川家康の排除に向かう。

北条との兵力差では絶体絶命の徳川軍であったが、依田信蕃の進言により真田昌幸を北条方より寝返らせ、碓氷峠を越えて伸びる北条軍の兵站補給の遮断に成功すると息を吹き返し、佐久の国衆は依田・真田の勧誘工作で徳川に寝返り、甲斐の緒戦では北条方に勝利し、氏直は和睦せざるを得ない状態に陥ったのである。
この時北条方の信濃の拠点であった小諸城には大道寺政繁が残り、指揮を執っていたと伝わる。

さて、真田丸の復習はそれくらいにして(笑)、松井田城代の大道寺駿河守政繁が築いたという「刎石堀切(はねいしほりきり)」をご案内しよう。

刎石堀切 (2)
坂本宿側から見た碓氷峠の登り口と刎石山。あの険しい山の尾根伝いに峠道が通っている。ここからの比高差は300m。

【立地】

旧中山道の坂本宿から碓氷峠に入り、群馬県と長野県の県境にある熊野神社へ向かう途中で、刎石山(標高810m)と栗ヶ原との鞍部に立地する。坂本宿から登ると旧国道18号線の東屋の脇に中山道の峠道への入口があり、愛宕山城と堂峰番所が守っている。

刎石堀切 (66)
堂峰番所跡。ここから北東の尾根筋に愛宕山城がある。

刎石堀切 (7)
堂峰番所から登ると刎石坂の手前に「覗」(のぞき)という場所があり、坂本宿を一望出来る。ここで一休み。俳人の小林一茶はここで「坂本や袂(たもと)の下の夕ひばり」と詠んだという。

堂峰番所を過ぎてしばらくすると碓氷峠の最大の難所と言われた刎石坂(はねいしざか)の急坂があり、登り切る場所に弘法の井戸、その先に刎石茶屋跡がある。この辺りからは平坦な道となり、途中には東山道時代の碓氷坂の関所推定地とされる場所に東屋が立つ。そこから10分ほど下り鞍部に出た場所が堀切跡である。

刎石堀切 (59)
碓氷峠の最大の難所と云われた刎石坂。

刎石堀切 (10)
茶屋跡。嘗ては四軒の茶屋で賑わっていたという。

刎石堀切 (12)
茶屋の先に進むと「碓氷坂の関所」推定地がある。899年に東山道の関所が置かれたという。

刎石堀切 (18)
刎石山の尾根伝いの平坦な峠道をひたすら歩く。この先で猿軍団(または秀吉軍?)と遭遇し焦ったが何とか通してもらう・・・(汗)

刎石堀切② 001
こんな感じの現地状況図。


【堀切の設営】

天正十七年(1590)、秀吉による小田原攻めが全国の諸大名に発令されると、北条家家臣で松井田城代の大道寺駿河守政繁は、東山道を攻め上がる北国・信濃勢(前田・上杉・真田・松平・小笠原)を阻止する為に碓氷峠の刎石に堀切を穿ちこれに備えた。
同年三月、前田利家を総大将とする豊臣軍35,000は碓氷峠に向かう。松井田城の大道寺駿河守政繁はこれを迎撃せんと刎石の堀切付近に展開するが、予想以上の寄せ手の大軍勢に驚愕し慌てて撤兵し、松井田城での籠城に作戦を切り替えたという。

刎石堀切 (20)
堀切の手前200mぐらいからは峠道を挟むような地形。伏兵を置き上から攻撃出来そうだ。

刎石堀切 (22)
堀切手前100m地点。上から攻撃されれば反対側は急斜面なので逃げ道が無い。

刎石堀切 (26)
堀切手前50m。両サイドのコブを利用して挟撃が可能だ。

【堀切跡】

幅数メートルの岩の細尾根に続く鞍部の平坦地を両側を削って幅を狭くし土橋に加工してある。攻め手は並列から縦列に展開せざるを得なくなり、そこを守備側が道の両サイドの小山から攻撃しようと意図して造作されたものであろう。
ゲリラ戦で敵を一時的に足止めしようとしたらしいが、想像を絶する大軍に歴戦の猛将の大道寺駿河守もさすがに「無駄な抵抗」として諦めたのかもしれない。

刎石堀切 (51)
狭間を抜けた先の緩い下りの右カーブの先に土橋と堀切が見える。

刎石堀切 (30)
ここが「刎石堀切」(はねいしほりきり。または大道寺堀切の名も)

もっと長大で巨大な堀切かと期待していたのだが、チョッと短い。土橋など残さずにいっそ断ち切ってしまえば良かったようにも思えるのだが、時間が無かったのか人手不足だったのか、中途半端な構築で終わっている。
二、三千程度の軍勢ならば何とか時間稼ぎも出来たであろうがその10倍は想定外か・・・(笑)

刎石堀切 (31)
堀切跡には説明板が建つ。

それでも碓氷峠では怒涛の如く押し寄せる豊臣軍と迎え撃つ北条方の大道寺軍とで多少の小競り合いがあったらしいが、この程度の防御施設では支えきれなかったのであろう。

刎石堀切 (37)
西側の沢に向けて落ちる堀切。

刎石堀切 (41)
東側の沢に落ちる堀切は一部が杉林となっているが、往時はもちろん何もなかったはずである。

この峠道を前田利家、上杉景勝、真田パパ幸、松平康国(戦死した依田信繁の嫡男で小諸城主)、小笠原貞慶らの北陸勢・信濃勢三万五千の大軍が威風堂々と行軍していたかと思うと鳥肌(チキンスキンとも・・・・笑)ものである。
二列縦隊で通ったとしても全軍が峠を下りるには三日三晩は要したのかもしれない。

刎石堀切 (42)
看板裏の西側の堀切の拡大写真。

刎石堀切 (50)
南東側から見た東側の堀切。尾根を大きく抉っているのが判る。

実はこののち、碓氷峠の中山道を再度大軍が通る事があった。そう、慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠率いる徳川軍の主力部隊でその数は三万八千であったと伝わる。
第二次上田合戦の伏線となった碓氷峠越えが、真田丸ではどのように描かれるのか楽しみであるが、案外一瞬でワープすると思われる・・・・吉田剛太郎の本能寺の変なんて瞬殺でしたもの・・・・(笑)

刎石堀切 (34)
堀切の北側の通路は痩せた岩尾根を縫うように栗ヶ原に続いていた。

それにしても、たかがこれだけの遺構の為に往復6kmの碓氷峠の中山道を歩くヤツがいるだろうか?

最近では、同業者の富岡武蔵さんが徘徊したと聞き及び、あのお方ならそのまま軽井沢町の熊野神社まで走破する比類なき偉業を達成したと思われる・・・最近ご無沙汰しているが、本人に聞いてみたいものである・・・(笑)


≪刎石堀切≫ (はねいしほりきり 大道寺堀切)

標高:780m 比高:300m
築造年代:天正十六年~十七年
築造者:大道寺駿河守政繁
場所:安中市松井田町坂本刎石山
訪問日:2016年3月6日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
堀切跡までの所要時間:片道70分 駐車場:無し(東屋の脇に路駐)
見どころ:大堀切とその周辺の陣地遺構
注意事項①猿軍団(秀吉とウザい仲間たち)と遭遇したら目を合わせることなくひたすら進む。決して威嚇してはいけない。②刎石坂付近では落石に注意。装備はトレッキングと同じレベルで登山ステッキか登山用のポールがあれば楽です。
参考文献:「信濃をめぐる境目の山城と館」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)
付近の城址:愛宕山城、坂本城、虚空蔵山狼煙台、堂峰番所など

刎石堀切 (73)
東屋の観光案内板の地図ではそれほどの大変さは伝わらない。

刎石堀切 (79)
旧中山道碓氷峠の安見絵図には「ほりきり」と書かれており、刎石坂は「はんねいし」と表記され箱根よりも難所と書かれている。

さあ、あなたも吟遊詩人となり、中山道は碓氷の峠道を歩いてみましょう。自分探しの旅はここから始まる・・・・(笑)











Posted on 2016/03/12 Sat. 21:49 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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