らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0716

三木秀綱夫妻の終焉地伝説 (松本市奈川・波田)  

◆史実と伝説が交錯する三木氏の逃避行悲話◆

昨日の健康診断で右耳の南朝難聴と判定されてしまった。北朝に味方すれば完治するのか・・・そういう問題じゃない?(笑)

という訳で、小生の右耳のサポーター募集開始・・・詳しくはWEBで・・・(爆)。

深志領の西端の境目だった飛騨口・木曽口を押さえた波田地区の探訪は、今回で区切りとしたい。

この地域のラスボスは「殿様小屋」。相当な覚悟がないと間違いなく遭難するので我ら信濃先方衆は二の足を踏んでいるのだが・・(汗)

IMG_5998.jpg
信濃先方衆の最後の目的地は西牧氏が最後に立て籠った殿様小屋の探索。宮坂武男氏も到達出来ずに終わった未踏の地だ。

今回ご案内するのは「三木秀綱夫妻の終焉の地」。

激動の戦国時代の中にあって飛騨一国を統一しながら、秀吉に抗い佐々成政に与した為に滅ぼされた三木自綱(頼綱)。
自綱の二男で松倉城主であった三木秀綱は、徹底抗戦を唱え籠城するも金森長近に攻められ、落城と共に夫婦で信濃への逃亡と再興を計り北アルプス越えを敢行したが、その途中で落武者狩りに遭い落命したという。

【今回の調査に関する動機】

「波田町誌 歴史・現代編」(昭和六十二年)を読み進めると、この地域には三木秀綱夫妻の遭難の伝説があり、近年まで「秀綱神社」なるものが多く存在していた事を初めて知った。

そんな話を信濃先方衆の相方の「ていぴす殿」に伝えると、さすがによくご存知で「そういえば、島々神社に秀綱の奥方の最期を伝える説明板がありましたよ」と言って案内してもらった。

DSCF0947.jpg
かぎかけ山の対岸にある島々神社。ここに三木秀綱の方の遺品が祀られており、近年に安曇資料館に移されたという。

DSCF0948.jpg
島々神社の西隣の社と「秀綱公と奥方の伝説」の看板。そろそろ書き換えないと字が読めなくなっている。

ここでやめておけば、「ふーん、そんな伝説もあったんだね・・」で終わるのであろうが、義仲・義経大好きな判官贔屓の血が騒いでしまい、「敗者の歴史となった三木秀綱」について気が済むまで調べる事になった・・・(汗)

IMG_5922.jpg
島々神社は国道158号線の松本市役所安曇支所の東側にある。

【波田町誌の記述】

波田町誌(歴史現代編)には「秀綱伝説と史実」(P191)について以下の記述がある。

三木氏は元は京極家の執事で飛騨益田郡萩原豪を本拠に桜洞から上呂・下呂などに進出し、三木自綱(よりつな)のとき高山に近い松倉に城を築いている。永禄元年(1558)には天神山城主の高山外記を亡ぼし、ほぼ飛騨一国の主権を握った。

天正十三年(1585)豊臣秀吉は越中の佐々成政の討伐に際し、佐々の与党の三木自綱とその嫡子の松倉城主三木秀綱を討つことを越前大野城主金森長近に命じ、長近は飛騨へ攻め込み、破れた秀綱は中尾峠から大野川、奈川角ヶ平に出て、そこで殺された。奥方は徳本峠(とくごうとうげ)を越えて、波田の淡路城へ逃げようとして島々谷へさしかかったとき、土地の杣(そま)に殺された。
三木氏の一族は波田に住んで「森」と変名したといわれ、飛騨萩原にも三木氏の残党に森と称する一族がおり、水無神社の神官も森姓を名乗っている。

IMG_5920.jpg
三木夫妻はこの場所で再度合流する予定だったというがその願いは叶わなかった・・(島々神社から見た野麦街道)

奥方一行は波田の春日淡路守を頼り、秀綱一行は木曽福島の興禅寺には叔父が住職で居たのを頼って行ったものと言われる。安曇村の島々では死んだ秀綱の奥方の伝承は、「殺した杣(そま ※林業を生業とする人)の家系から代々悪病が出ている。」とて、怨念を払うために蚕玉神社に霊を祭っており、秀綱奥方の奥方の持ち物は現在稲核水殿の「安曇村民族資料館」(現在の松本市安曇資料館)に展示されている。

DSCF1192.jpg
現在の安曇資料館。水殿ダムの道の駅「風穴の里」の手前にあり、入場料は無料。

奈川村角ヶ平でも秀綱を殺した後に色々の「たたり」が出たため、角ヶ平に「秀綱神社」をまつり、昭和四十年に奈川度ダムによる水没後は神社を波田町森口の「三神社」に合祀した。

天正十三年は天下の体制が大きく変わった都市である。松本城主の小笠原貞慶はこのとき「人質」の長子秀政を徳川家康に出して親交を結んでいたので、豊臣方の金森長近に追われた三木秀綱の奥方が、小笠原氏を頼って淡路城に向かったというのは、この時代の史実にあてはまっている。

しかし、春日淡路と三木氏の関係については不明であり、あるいは三木氏は一族森神官家を頼ったとの見方が妥当ではなかろうか。

IMG_6003.jpg
この時期は上高地へ向かう観光客の中継地点として賑わう「風穴の里」。安曇資料館はここの手前のカーブを左折した場所。

次に奈川角ヶ平(ながわつのがだいら)で死んだ秀綱であるが、「信府統記」にある「土民に討たれ死ぬ」というのが史実らしい。奈川の豪族古畑孫助(伯耆守重家)は、このとき小笠原貞慶に臣従しており、徳川方の小笠原氏を頼って落ちていく三木秀綱を討ったとは思えないので、あるいは木曽義昌の手の者が、奈川で秀綱を待ち受けていたかもしれない。
木曽氏はこのとき豊臣方であって徳川方の小笠原とは対峙していたからである。

【飛騨・越中と信濃を結ぶ鎌倉道】

源頼朝により鎌倉幕府が成立すると、地方の御家人たちは「いざ鎌倉!」に備えたり、鎌倉と故郷の往復に備えて鎌倉道を整備したのだという。
岐阜県高山市と長野県松本市はその国境が険しい北アルプスであり、比高差も約2500mと尋常な高さではないので一般的に考えれば道など無かったと思いきや、飛騨と信濃を結ぶ間道として6月~10月頃まではかなりの通行量があったという。越中や能登の海産物はこの鎌倉道を介して牛や馬の背に揺られて信濃に運ばれてきたのであろう。

三木夫妻逃避行の図
鎌倉道は2つのルートが想定されていて、徳本峠を越える北側も現在の沢沿いルートとは違い、山の尾根を通っていたらしい。


【松倉城の落城と三木氏の滅亡】 ※安曇資料館の掲示板を引用。「飛騨誌」並びに「定本 飛騨の城」参照

天正十三年(1585)、三木自綱は秀吉の命に従わず越中(富山城)の佐々成政に同意して秀吉打倒をくわだてた。そのため秀吉は金森長近に命じて自綱を討たせた。

天正十三年8月15日、小島城・小鷹城・古川蛤城等を攻め落とした長近は蛤城に入り、田中城(吉城郡国府町)に立て籠る三木自綱と対決した。長近は牛丸又右衛門を使者として自綱に降伏をすすめたが自綱はこれを聞かず反抗したので、長近は田中城に総攻撃をくわえた。歴戦の勇将長近の攻撃に自綱は力及ばず、謝罪して赦され国外へ逃れた。

翌16日、長近は高山盆地に攻め入り鮎崎山(現高山市北山公園)に本陣を構えた。
自綱の次子秀綱は畑六郎左衛門を参謀に家臣や土豪を総動員して松倉城に籠城防戦した。一方可重(ありしげ 長近の長男)軍は益田街道を北上して三木氏の属城を次々と落とし鍋山城(高山市松ノ木)を本拠とし長近軍と合体した。
これにより金森軍はいよいよ勢いを増し、天正十三年8月17日、秀綱が立て籠もる松倉城に迫り城下に火を放った。

戦いの中で参謀畑六郎左衛門らが戦死し、主将秀綱は動揺する部下を押さえ切れず、また籠城軍のなかの藤瀬新蔵というものが金森軍に寝返りをうち本丸屋形に放火したため松倉城は落城寸前となった。

IMG_5995.jpg
安曇資料館の常設展示室。(撮影許可をいただいています)秀綱夫人の遺品は一番奥の左側にあります。

秀綱はもはやこれまでと覚悟し、弟季綱(系図に不明)と奥方をともない二、三の家臣に護られて深夜松倉城を抜け出した。伝家の宝刀「三池典太」の太刀を持って鍋山城に辿り着いてみれば、ここもすでに可重軍に占領され、金森軍があふれ近づくことも出来なかった。

失望落胆した秀綱は、「宝刀三池」を従者の家臣に渡し豪農池ノ端総左衛門に預けさせた。これが今の高山市国分寺蔵の重要文化財「伝小烏丸の太刀」である。
奥方及び弟季綱と共に落ちていく先は間道を逃れて信州路へ。安房峠を越えて大野川へ。しかし奈川村角ヶ平(つのがたいら)において土民のためにあえない最期をとげた。ときに姉小路中納言三木秀綱は三十二歳の若さであった。これにより三木氏七代の正統はここに亡び去った。

DSCF1179.jpg
三木氏の末裔は最終的に500石取りの旗本となったという。


【三木秀綱夫妻の伝説】

以下は地元に伝わる三木秀綱夫妻の伝説である。かなり長くなるが、お付き合い願いたい。

天正十三年(1585)秋の頃飛騨から信濃に急ぐ一群の旅人があった。これは飛騨高山の松倉城主三木秀綱が豊臣秀吉の将、金森長近ととその子金森可重に攻められ松倉城が落ちようとするとき、父自綱が「わが姉小路家は公卿の出で代々勤王の名家である。この度の戦いで家系が断絶するのはしのびない」と一子秀綱をさとして、秀綱奥方の里である筑摩郡波田の淡路城に落ち延びて後日の挽回をはからせるため、人目を忍ぶ落人の群れであったのである。

高原郷から中尾峠へさしかかるころ、「大勢の旅は人目につきやすい」ということで中尾峠(北アルプス焼岳の北側の峠)の頂上で落ち合う場所を島々と決め、秀綱は安房峠を越えて大野川へ、奥方は徳本峠(とくごうとうげ)を越える事にし、道を急いだ。

DSCF1143.jpg
奈川度ダムから見た祠峠と角ヶ平方面。ダム建設によりかつての集落は水没し秀綱神社も水没した。

秀綱は大野川村の里庄の家に宿をとったが早くも追手に迫られた。里庄は秀綱を桑の大ボテに入れて桑をかぶせてかくまったが追手は聞き入れずに火を放つという。里庄は「蚕には罪がないから生き物を外に出すまで待ってくれ」と頼んで蚕と桑の入った大ボテを外に出し秀綱は難を逃れた。

DSCF1137.jpg
野麦峠(県道26号線)の角ヶ平隊道の北側の出口で偶然見つけた角ヶ平の水没記念碑と秀綱神社の史蹟碑。

秀綱はそれから祠峠にさしかかり土民の家に立ち寄って食を求めたところ、粟めしを出してもてなしてくれた。出立寸前お礼に持参していた金・銀の小粒を椀一杯に出した。これをみた峠の土民は奈川の豪族に知らせて攻めさせた。峠を下った秀綱は角ヶ平の河原の絶壁に追い詰められ、もうこれまでと覚悟を決め懐の金・銀を「石になれ」と前の渕に投げ込み自刃したという。その後この淵を秀綱渕と呼ばれるようになった。

DSCF1128.jpg
角ヶ平の秀綱神社がダム建設で水没する為に記念碑をここに建てたらしい。秀綱の末裔の方の筆跡で石碑が書かれている。

大野川の里庄の家は年々蚕がよくできて繁昌したが、峠の家は悪病が続いて苦しんだ。また淵に投げ込まれた金銀の小粒は川底に光っているが里人が拾おうとすると小石に変わってしまうという。

DSCF1135.jpg
水没した場所を探す訳にもいかないが、地形図から探すとおおよその場所はあの辺りのようです。

一方奥方は徳本峠を越えて島々への道を急いだ。途中持っていた梨を食べて渇きをいやし、その種を地に落として「姉小路家再興の期あらばここに生えて梨の実よ甘かれ、然らずんば渋かれ」と祈ったという。ここに実る梨の皮が厚く渋いのはそのためだという。

IMG_5987.jpg
秀綱夫人の遺品と伝わる手鏡と懐刀。(安曇資料館蔵) ※撮影許可あり。

それからしばらして杣人(そまびと 林業を生業とする人)に行き会い道を聞いたところ奥方の身なりの良いのに悪心をおこし捕らえて木に縛り付け絹の内掛や懐刀を奪って立ち去ったという。
奥方は嘆き悲しみ、懐中の鏡に顔を写して「鏡は女の魂の宿るところ、魂隗永久に鏡に残り、恨みをはらさん」と髪を逆立てて息絶えたという。

DSCF1173.jpg
秀綱夫人の着物(打掛)

その後、しばらくして杣人がここを通ったところ、奥方の姿は以前のままで少しも変わっていないので不思議に思ってそばへ寄ってみると、急に笑みをたたえ全身が崩れ落ちたという。杣人は恐れおののき家に帰って寝たきりになり、その後悪病にかかって亡くなったという。

IMG_5989.jpg
秀綱夫人の小袖。

IMG_5990.jpg
秀綱夫人の着物。鑑定の結果、鏡以外は本物であると立証された。

これらの遺品は島々神社に納めれていたものである。

また、一説には、秀綱は飛騨萩原の禅昌寺の親類にあたる木曽福島の興禅寺を頼らんとして安房峠越えをしたとも言われている。

IMG_5994.jpg
安曇資料館に展示されている秀綱夫人の遺品。※撮影許可を取っています。

秀綱神社は数多くあるようで、中尾峠(焼岳の北側)には石碑があり、北アルプス登山者の方のブログに多く記載があります。また、奥方の遭難の地である徳本峠の島々側の登り口には慰霊碑があるようです。(んーん、確か万見仙千代様のブログにあったような気もしますが⇒「三木秀綱の奥方」

DSCF1199.jpg
奥方が遭難した島々は徳本峠の入口にあたる。

史実があって伝説が脚色される・・・

最近まで、敗者の悲劇を語り継ぐ民衆の姿がそこにあったのだ。

DSCF1201.jpg
島々谷川を辿れば、秀綱夫人の伝説が蘇るかもしれない・・

「生き延びる事が、お家再興の近道なのだ」

そう信じて北アルプスを越えた三木秀綱だったが、あと一歩で夢が途絶えた。

佐々成政も三木自綱も「秀吉に叛いたから凋落したのだ」と、結果論で言われてしまう事が多く、戦国大名としては評価が低いが果たしてそうであろうか。

そうなるべくしてなった歴史など無い。そのことを今一度考えてみたい。

【三木秀綱夫妻の終焉地伝説取材への協力お礼】

●ていぴす様

●松本市立博物館附属施設 松本市安曇資料館及び2016年7月10日の担当職員様(お名前聞きそびれてしまいました)


角ヶ平隊道の北側にある水没記念碑の場所はこの辺。
スポンサーサイト

Posted on 2016/07/16 Sat. 00:45 [edit]

CM: 8
TB: 0

1130

村上氏時代の虚空蔵山城とその背景  

◆村上氏の東信濃進出の攻守の重要拠点◆

村上氏連珠砦群と云われる城郭群は以下である。

砥石城(本城・桝形・戸石)、柏山城、花小屋城、矢島城、牛伏城、荒城、飯綱城、持越城、虚空蔵山城、高津屋城、ケムリの城、物見城、燕城、和合城(14城)

虚空蔵山砦群⑥上田道と川の駅から見た東側の城砦群。(戸石城は見えない)

村上義清は葛尾城を本城としたという歴史書が多いのだが、小生は否定したい。

それは中世の城郭のほとんどが「居館+詰城がセット」という狭義な考え方から派生したものであろう。

葛尾城跡 039葛尾城背後の堀切と石積み。


実際に葛尾城(葛尾城・岩崎城・姫城)を訪れると分かるが、東北信に覇を唱え甲斐武田氏と同じ名門の清和源氏の嫡流である村上氏がそんなプアで古風な詰城を持つ訳が無い。

murakami (7)村上氏居館跡(坂城町坂城の満泉寺付近)

南北朝の争乱より国人土豪の盟主として君臨した村上氏は自らの城を持つのではなく、領地を接する場所に境目の城を築く事で本拠地の専守防衛システムをいち早く構築したのであろう。

筑摩郡に対しては荒砥城の山田氏、水内郡に対しては屋代城の屋代氏、室賀峠の抑えとしての三水城(狐落城)、小県郡との境として虚空蔵山砦群、松代街道と真田郷の抑えとして戸石城。

猪突猛進の田舎武舎というイメージが定着した村上義清であるが、山城を駆使したネットワークの構築ではその才能が凡庸では無かった事が立証されると思う。

証城 (39)荒砥城の尾根上の証城から村上氏の本拠地を囲む城砦群。

天文十一年(1542)から武田晴信の諏訪攻めから信濃侵攻が本格的となり、翌十二年には長窪城の大井貞隆が捕えられ小県郡の依田窪地域は武田の支配下となる。隣接する塩田庄を領有していた村上義清は急いで連珠砦群を完成させて武田との直接対決に備えたものと思われる。

長窪城② (55)晴信の小県郡攻略の前線基地となった長窪城。

天文十六年(1547)には佐久地方で最後まで抵抗していた志賀城、小田井城が落城。

天文十七年二月、両者は上田原にで合戦に及び武田は手痛い敗戦となったのはご存知の通りである。

kokuzou (22)虚空蔵山から見た古戦場。


この合戦において村上連珠砦群はかなり有効に働いたと見て間違いないだろう。

長窪城から砂原峠を越えて進軍してくる武田軍と部隊の配置は、虚空蔵山の各砦の物見から報告され、室賀峠を越えて決戦場に向かう村上軍に逐次伝令が走ったと思われる。

この合戦で武田軍が敗れると、村上義清は佐久へ進軍し武田の宿城であった内山城に放火。佐久衆は蜂起して前山城を奪還する。

maeyma (11)前山城の主郭と背後の堀切。


同年七月、武田晴信は服従していた諏訪西方衆の矢島氏、花岡氏が小笠原長時に寝返ったとの報で諏訪へ出陣し小笠原軍を塩尻峠の戦いで破る。
九月には佐久へ攻め入り前山城を攻め落とし、佐久郡の十三の城が自落したという。

天文十八年には佐久を完全に平定し、翌年の七月には府中に攻め入り小笠原長時を放逐し林城を破却し深志城を前進基地として修築する。

まさに阿修羅の如き働きで、宿敵村上氏との正面衝突を避け、背後に回る巧妙な包囲網を完成させつつあった。

砥石城跡 059東側より見る砥石城全景。

一方の村上義清は武田軍の脅威が去ると、北信濃の高梨氏へ攻め入り領土拡大を企てていた。

武田晴信は、鬼の居ぬ間に砥石城を攻めるが城将山田国政(荒砥城主)の屈強な抵抗に攻めあぐねて手間取っていると、村上義清が砥石城の危急を知り全軍を率いて戻ってくる事を知らされる。

慌てて退却しようとするが、城よりの追撃軍により壊滅的な打撃を受け、ほうほうのていで諏訪に逃げ帰った。

世に言う「砥石崩れ」である。

この時も連珠砦群が重要な働きをしたものと思われる。

砥石城跡 050

村上領の東端に位置し、松代街道と真田郷を抑えた砥石城は村上義清にとっても生命線であった。

筑摩を手に入れた晴信にも奢りがあっただろうが、それ以上に武田軍を二度に渡って退けた村上義清は得意満面であったろう。

義清は十一月に小諸や佐久の桜井山城(稲荷山城)を攻めて気勢をあげている。

katumasori001 (36)勝間城(稲荷山城)

翌天正二十年五月、晴信配下の真田幸隆が奇策をもって砥石城を奪取し彼の旧領であった真田郷を取り戻すと、状況は一変してしまう。

連珠砦群も東半分は機能を失ったと思われる。

砥石城が手に入れば、境目の城の虚空蔵山は無理に攻める必要など無い。

川中島への出口である更科郡の荒砥城・屋代城、室賀峠を抑える狐落城(三水城)を確保すれば葛尾城に籠っても逃げ道は無くなる。

tumikusa (3)

荒砥城遠景㋐

天文二十二年(1553)、着々と村上包囲網を敷いた武田晴信は、室賀、屋代、塩崎氏を調略により内通させる。
これにより筑摩方面からの攻撃が可能となり、四月に村上氏側より武田氏に寝返った大須賀氏と共に狐落城を急襲。

城将の小島兄弟は討死し狐落城は落城、村上方の拠点は葛尾城と虚空蔵山城のみとなった。

狐落城③ 017

それぞれの境目の城あってこその村上軍であり、後詰め無き葛尾城への籠城など全滅を意味する。

村上義清は越後の長尾景虎を頼って落ち延びた。

葛尾城も虚空蔵山城もこの時自落したと伝わる。

虚空蔵山遠景①

もはや利用価値など無くなったはずの虚空蔵山の連珠砦が再び脚光を浴びたのはそれから30年後、そう、天正十年に勃発した世に言う「天正壬午の乱」であった・・・。

詳細は次号へ。







Posted on 2012/11/30 Fri. 21:49 [edit]

CM: 12
TB: 0

0914

会田塚(松本市)  

◆強い霊気を感じる場所◆

ふと先日、リンクさせていただいているサムライ左近法律事務所の先生にご紹介してもらった会田塚と光城跡を訪ねました。

kouden001.jpg

会田氏の居館のあった旧四賀村殿村にある廣田寺を訪ねます。
もともと会田氏の菩提寺は此の寺の山を越えた東側にある知見寺だったのですが、小笠原氏に滅ぼされた際に寺も焼き払われてしまい、知見寺の住職が開基である岩下豊後守の位牌を持って廣田寺に逃れて来たという。

kouden002.jpg
↑滋野氏出身の会田岩下氏の家紋は六文銭。なので山門や本堂の屋根にも六文銭が彫刻されている

小県郡にある海野平の豪族滋野氏を本家とする一族は、東筑摩郡の四賀地方に移り住み会田岩下氏を名乗り、会田虚空蔵山城、苅谷原城、光城、塔ノ原城を戦略拠点として地域支配を強化していった。

koudenoo3.jpg

天文二十二年(1553年)、信濃侵略で小笠原氏を追放した武田晴信は深志城を拠点として、善光寺平への道を確保するために四賀、麻績方面への侵攻を開始する。攻城を開始した3月30日からおよそ三日間で苅谷原城を落とし、塔ノ原城は自落、会田城は放火により開城を余儀なくされ、会田氏は武田氏の軍門に降る。

kouden004.jpg
↑廣田寺から臨む虚空蔵山城

同年4月末、村上義清支援で上杉謙信が信濃に出兵し第一次川中島合戦となる。9月に戦局を有利に進めた謙信は麻績の青柳城、四賀の会田城を落とすが、すぐさま夜襲で武田軍が奪い返す(筑北合戦)

武田氏滅亡後、この地方は上杉景勝の勢力下となり、会田氏も上杉に従う。

徳川家康の後ろ盾で旧領を回復した小笠原貞慶は、天正十年(1582年)10月に会田氏を攻め滅ぼす。

kouden005.jpg

会田塚は会田氏滅亡の際に、一党の具足や刀剣が遺骸の変わりに埋められたところと云われています。

場所が分からずに諦めてしまった方々も多いとの事でしたので、住職に聞いてしっかり見てきました。

場所:廣田寺の本殿手前を左に曲がり寺を出ます。墓地を抜けて沢を挟んだ西側に「しだれ桜」が1本ある場所があります。そこが会田塚です。

kouden006.jpg

左近先生は「霊感の強い場所」と云われてました。

なるほど、一族の怨念なのでしょうか、僕の場合はもっと酷い状況になりました。

・この場所で涙が止めどなく流れました。
・その後訪れた近くの崩れかかった無人寺で、瓦屋根が崩れて落下してきた。
※寺の前を立ち去って数秒後の出来事。ガシャーンという音に振り返るとさっきまで立っていた場所に瓦が散乱
マジヤバかった・・・

霊感は強いほうでは無いのですが、悪戯されたのかもしれません。
その後は何もありませんでしたが・・・・(汗)

kouden007.jpg
↑殿村遺跡の発掘調査でしょうか(旧会田中学校跡)

城と古戦場のマサハレ様によると、会田氏の最後の場所はこの場所から南の沢の尾根にある「覆盆子城」であり、≪ 覆盆子(いちご)は「一期」で、会田一族がその一期をとげた城である(『四賀村誌』)≫としています。

いつか訪れて鎮魂したい場所でもあります・・・・(んーん、余計ヤバくなりそう?)

小県郡青木村に伝わる伝説では、会田虚空蔵山城から逃れて小県に向かう途中の十観山(じっかんざん)の頂上で自害したとも云われています。

主君を変えても何とか家名を残そうとした信濃の小豪族の悲劇は、会田氏だけではありません。
非情な戦国の世を想い、会田塚では涙が流れたのでしょうネ。

十観山 022
↑十観山の山頂から臨む四賀村の会田地方。

≪会田塚≫
場所:松本市会田 廣田寺の北側墓地付近
見どころ:廣田寺とその付近、殿村発掘場所など  
注意:心を無にして塚に向きあいましょう。(決して囲みの石を越えてはいけません)

Posted on 2010/09/14 Tue. 23:44 [edit]

CM: 6
TB: 0

1010

福島正則終焉の地  

★豊臣秀吉子飼いの猛将の末路★

すっかりご無沙汰してしまいました。
信州も台風18号の通過後は秋の深まりが加速しているようです。

今回は城の話題を離れて、信州で亡くなった福島正則(天地人では石原良純が演じてます)の墓所の訪問記を綴ってみます。

福島正則 018
りんごも赤く色づく季節でございますw
-- 続きを読む --

Posted on 2009/10/10 Sat. 22:35 [edit]

CM: 2
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

▲Page top