らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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東城 (小県郡青木村村松)  

◆青木村の山城は結構おもしろい◆

一昨日の信州は雨模様。例年なら、キンキンに冷えた冷凍庫のような年末のはずが、拍子抜け・・・(汗)

夜半からは雨が雪に変わったようだが、今年の冬は暖冬になりそうな予感。さて、いつ山城納めをするか思案中・・・(笑)

CIMG1191.jpg
南側の夫神地区(おかみ)から見た子檀嶺岳(こまゆみだけ 標高:1223m)とその尾根に展開する山城。

今回ご案内するのは、その威容と連続する大堀切の美しさでは小県郡を代表する山城の西城の沢を挟んだ対岸に位置する東城。西城の支城ではないかと思われる。


【立地】

子檀嶺岳(こまゆみだけ)から南へ派生する一支尾根上にある。大沖沢川の谷を隔てた西側には西城が至近距離にあり、後背の子檀嶺岳の頂上には、子檀嶺城が聳えている。

城への行き方は、村松集落から尾根伝いに登る方法もあるらしいが、岩尾根でかなりキツく厳しい工程になるという。最も楽なのは、西の沢の林道(途中ゲートあり)を通って大きく右に曲がるヘアピンカーブから東の尾根の鞍部に取り付き、尾根沿いに南に下る方法である。オフロード車なら林道は問題ないが、ゲートから歩いても15分もあればヘアピンまで行ける。

東城(青木村) (73)
林道から見た登り口の鞍部。傾斜も緩いので楽勝だ。この尾根を南(右へ)に下っていく。

東城(青木村) (70)
鞍部から林道のヘアピンカーブを見下ろす。

鞍部から尾根を歩いて10分ほどで城域に達する。尾根の高低差はさほどでもないし、一本なので迷う事はない。

【城主・城歴】

大正十一年の「小県郡史」の青木村の城址の項に「東城址」(青木)として、以下の記載がある。

「青木村村松區字本山にある山城にして、俗に東城といふ。本郭は東西七間、南北十五間あり。北に當り堀切二條あり。西南に東西二間、南北五間の腰郭あり。南方山脊に沿いひ小郭三個あり。其廣?今明瞭ならず。四方凡五十間許の間は峻険登るに難し。嘗て尖り箭の鏃(とがりやのやじり)を拾ひしとあり。所傳なし。」

縄張りはかなりシンプルで、ここを単独の城と見るよりは、沢を隔てた西の対岸の西城との関連を考えるべきであろう。主郭の崩落した石積みは西城の主郭の石積みと同時期のものとみて差支えないような気がする。

東城見取図①

【城跡】

鞍部から南へ向けて尾根を登り、その後は搦め手側に向かう緩い下り坂となる。尾根筋の天然の岩場も防御の役目を担っていたのであろう。まもなく前後を岩場で囲まれた削平地があり、これが郭4となるようだ。

東城(青木村) (66)
郭4の入口。前後を天然の岩に囲まれた小さな郭だ。ここから城域に入る。

郭4からは比高差がほとんどなく尾根伝いに南に進む。

東城(青木村) (63)
松林なので藪も少なく快適だ。

しばらく尾根沿いに進むと堀切㋑に突き当たる。上巾は5m程度あるが、堀底はかなり埋まっている。堀切㋐との間に郭3を置いて二重堀切として主郭の背後を防御しているオーソドックスな縄張である。

東城(青木村) (7)
補助線を入れて北側から見た現場。

東城(青木村) (9)
堀切㋑の断面(東側より撮影)

●堀切㋐

主郭背後の堀切㋐は上巾も10mあり、堀切㋑に比較してもかなり長大で尾根の岩盤を叩き割った豪快な竪堀で美しい。

東城(青木村) (75)
上田・小県の山城には多く見られる「岩盤割って作った大堀切の友の会」(笑)

東城(青木村) (17)
西斜面を下る堀切㋐。

東城(青木村) (19)
主郭背後は夥しい数の石が散乱している。主郭背後の石積みが崩れた痕跡だと考えても良さそうだ。

東城(青木村) (14)
郭3から見た主郭方面。石積みの散乱がハンパ無い量であることが分かる。

●主郭とその周辺

主郭は27×11の長方形で、東側の斜面を除いた周囲に石が散乱している。往時は西側の沢に対して郭の縁を石積みが囲んでいたと想定され、単なる土留めの石積みが崩れたものでは無いような気もする。対岸の尾根にある西城の主要部も石積みが見られるので同時期の改修と考えられる。

東城(青木村) (23)
北側から見た本郭。

東城(青木村) (26)
主郭の広さと確かな削平には驚いた。

東城(青木村) (29)
一段下の郭2。17×9の長方形だ。

東城(青木村) (38)
郭2から見上げた郭1との接続部分。石が虎口のようになっている。

郭2から更に南側に30mほど下るとテラス形状の段郭を置いて見張り台のような郭5に至るらしいが、今回調査はパスした。

東城(青木村) (34)
郭2から下は自然地形の岩場が続く。この落差があれば南側からの侵入も困難であろう。

●西側の帯郭と石積み跡

尾根の東西の斜面は傾斜がきつく、沢から登るのは困難だと思われるが主郭の西側には二段の帯郭が確認出来る。これは、沢筋からの攻撃に対して築かれたもので、周囲には石積みが散乱している。この石積みが主郭と帯郭の間の斜面に対して打ち込まれたものなのか、主郭を囲んでいたものが崩れたものか、帯郭の土留めなのかは判断が難しい。

東城(青木村) (42)
結構広い主郭下の西側の帯郭。

東城(青木村) (77)
主郭と帯郭の間の斜面に散乱する石。往時の形状はどうだったのか?

東城(青木村) (51)
更に一段下にも帯郭が確認出来る。傾斜は結構急なのだが・・。

飯縄山の裾に築かれた黒丸城は戦国末期まで改修が続けられた山城で、同じ青木村の城でありながら西城とこの東城は全く違う縄張で対比が面白い。石積みを用いるスタイルはこの辺の山城でもかなり多くみられるので、この辺りの土豪も築城技術のトレンドとして取り入れたのだろう。

構造もよく似ているので、西城の支城として築かれ、東方面の監視の役割も持っていたのだと推定されるがどうであろうか。

東城(青木村) (79)
岩盤堀切の㋐。素晴らしい・・(笑)

≪東城≫ (ひがしじょう)

標高:774m 比高115m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小県郡青木村村松
攻城日:2016年12月4日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:15分(林道のカーブより)
駐車場:無し、路駐
見どころ:岩盤堀切、石積みなど
参考文献:「信濃の山城と館③上田小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 「小県郡史」
注意事項:秋は止め山なので避けましょう。冬は鉄砲隊に注意。

東城(青木村) (1)












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Posted on 2016/12/29 Thu. 08:00 [edit]

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古城 (小県郡青木村沓掛)  

◆平城の物見として保福寺峠の往来を監視した砦◆

先日、二年半近く小生の城攻めライフを支えてきたスマホが突然死してしまった・・・・。

慌てて18時近くに携帯電話ショップに駆け込み色々と調べてもらったが、修理担当者曰く 「お別れの時が参りました」 ギョッ!!

ネット接続は我慢出来ても、電話回線の不通で通話が出来ないというのは小生の生業において致命傷であった。翌日の代替え手続きが完了する午前11時までの約20時間は生きた心地がしなかった・・(汗)

DSCF3445.jpg
左が通信不能となり力尽きたiPhone5S、右がクラウドからバックアップデータを移植された新しいiPhone7。

10万円近い高額のスマホでも、所詮は消耗品という認識なのか・・・まあ、家電と割り切るにしても3年で壊れたらリコールものであろう(笑)

それでも最新鋭機のスペックは凄い。が、新しいホームボタンには戸惑うし老人には使いこなせないのが現状。小生は防水機能がついた事を最大の評価としているが、如何であろうか・・・(爆)

そんな事はどうでもよいとして、今回ご案内するのは青木村に眠る珠玉の山城シリーズ第二弾の「古城」(ふるじょう)

古城(青木村沓掛) (5)
沓掛温泉の薬師堂の裏山が古城。東山道の保福寺峠への分岐点であり監視するにも良い立地である。


古城(青木村沓掛) (8)
薬師堂から遊歩道を登り「風穴」のあたりから尾根をテキトーに直登すれば30分で辿り着くが、傾斜がかなりキツイので結構しんどい。

※ちなみに、上記の写真に石積みが写っているが、これは近世の耕作地の土留めと境界の石垣で城跡の遺構では無い。

【立地】

青木村の夫神岳(おがみだけ 標高:1250.3m)より西へ派生する支尾根の中段にある二段のたるみの上部の所にあり、西の山下が沓掛温泉になる。登路は、沓掛温泉の駐車場から北側に進み竹林の東へ迂回して尾根の東の畑から登る方法と、薬師堂の遊歩道を奥に進み風穴あたりから倒木で荒れた尾根を直登する方法がある。後者は下山途中で道をロスする可能性があるので、テープ等で目印を付けると安心だ。

古城(青木村沓掛) (10)
薬師堂から登る事約20分。二段目の平場が城域となる。二重堀切が出迎えてくれる。

古城(青木村)見取図①
城の大手と搦め手を二重堀切で穿った郭二つの連郭式の砦である。

【城主・城歴】

大正十一年の「小県郡誌」には「古城は青木村沓掛區荒屋城山山頂にあり。本郭東西十間、南北八間、四方峻険なり。所伝なし。或いは物見ならんかと」あるが、はっきりしたことは分からない。

古城(青木村沓掛) (58)
二重堀切の㋒と㋑を郭2から見下ろす。段差がお分かりいただけるでしょうか。

古城(青木村沓掛) (67)
南側から撮影した二重堀切と土手。

古城(青木村沓掛) (61)
北側の沢に下りる竪堀㋑。

【城跡】

二重堀切の先にある郭2(18×12)と切岸を隔てて連続するその上の郭1が城の中心で郭1の後部は一段高い土塁が残る。その背後上巾9mの堀切㋓で遮断されている。

その先は一騎駆のような痩せ尾根で三条の堀形があり、続く東の尾根筋を二重堀切で遮断している。さらに尾根を登ると堡塁のような地形があり、そこで城域は終わっているようである。

古城(青木村沓掛) (59)
城の中枢部。

古城(青木村沓掛) (53)
郭1から見た郭2の全景。

古城(青木村沓掛) (55)
郭2と郭1の間を区切る切岸。

古城(青木村沓掛) (54)
主郭。

古城(青木村沓掛) (79)
主郭から見下ろした背後の堀切㋓

古城(青木村沓掛) (80)
堀切㋓の堀底から見上げた主郭(郭1)

古城(青木村沓掛) (25)
一騎駆けのような痩せ尾根は東尾根に続く。

古城(青木村沓掛) (26)
北斜面のみに穿った竪堀㋔と㋕

古城(青木村沓掛) (31)
城域の東側最終の二重堀切とその上の堡塁。落差のある堀切は埋まりかけているが確認出来る。

古城(青木村沓掛) (35)
北斜面に対して長く竪堀となる堀切㋘(堀切㋗も同様)

古城(青木村沓掛) (40)
城域の最終の堡塁。この先は倒木と藪が酷く遺構は確認出来なかった。


古城と呼ばれてはいるものの、前回紹介した平城の城の山よりもしっかりした造りで、遠く子檀嶺山や西城あたりまでも視界が良好なので物見や狼煙台としては平城よりも立地が良い。
以前は簡単な物見が置かれていた所を平城の築城に伴い繋ぎの狼煙台として改修したと思われるがどうであろうか。

古城(青木村沓掛) (71)
雑木林で視界が良くないが、西側正面に子檀嶺山(冠者ヶ岳城)が見える。

≪古城≫ (ふるじょう)

標高:895m 比高:235m(沓掛温泉より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小県郡青木村沓掛
攻城日:2016年12月4日
お勧め度:★★☆☆☆
館跡までの所要時間:30分 駐車場:沓掛温泉外湯の駐車用利用
見どころ:二重堀切、郭、切岸
注意事項:特にないが、秋は茸山(キノコ)となるので8月~10月末までは避けた方がよい。
参考文献:「信濃の山城と館③ 上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P398参照) 
付近の城址:平城、池田長門守居館跡など



古城(青木村沓掛) (75)
平城の本村集落付近から見た古城の遠景。












Posted on 2016/12/23 Fri. 19:33 [edit]

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平城 (小県郡青木村)  

◆背後に狼煙台を備える山を抱えて街道を押さえた土豪の要害◆

意外と思われるかもしれないが、地元の山城を全てコンプリートしている訳ではない・・・(汗)

「上田・小県」のカテゴリーで142ヶ所を掲載していても、まだ「宮坂教」の神が踏査した全ての領域には届いていないのである。

今回ご案内するのは、台地に築かれた「城の家」の訪問から4年ぶりの「城の山」の踏査で、その全容を逐次解明することが出来た青木村の平城(たいらじょう)の解説である。

平城 (2)
東側から見た平城。なかなかの要害である。

【立地】

青木村の沓掛温泉の南側に一する天狗山(1122m)から北へ派生した尾根の末端部にあたり、相染川の左岸の段丘上に居館である「城の家」があり、その後背の山上に「城の山」お呼ばれる砦がる。山下の集落は沓掛地区の中心の集落で本村である。
相染川の谷は南へ遡行すれば豆石峠になり、峠を越えれば西内の鹿教湯に通じ、東行すれば野倉を経て別所や前山へも出られるところである。また、天狗山の西の沢からは保福寺峠を越えて会田にも通じている。

平城 (4)
北側の沓掛公民館より見た平城。本村の集落に突き出た断崖の上に居館(城の家)があり要害の地である。

【城主・城歴】

「小県郡史」(大正十一年)には「青木村沓掛區字本村の山頂にあり。本郭東西十間、南北二十軒許、残礎尚存す。四方峻険敷𠀋、攀づるに難し。築城者詳ならず。」とある。
この方面には南北朝の頃より田沢氏や奈良本氏が所領を有していたことが諏訪大社の神長官守矢氏による「守矢文書」の記録で知られている。その後天文十年頃に村上氏の配下である福沢氏の支配下に入ったようである。武田の侵略で村上氏が追放されたあともこの城館は地域支配の拠点として存続していたと考えられるが、詳しい事は不明である。


平城jpg

【城跡】

麓の居館である「城の家」と狼煙台(物見)と思われる城の山」とそれぞれ見てみよう。

●城の家(居館部分) ※2012年12月訪問

2012年12月の取材当時は声掛けしてもお留守だったようなので、庭のみ撮影させていただいた。広さは90×45で下の道路からの比高は約30mほどある。沢を挟んだ西側のにも緩い傾斜の削平地があるようだが、不法侵入する訳にもいかず断念した。
背後の「城の山」に続く傾斜地にも段郭があるようだが、許可を得ない状態では入れないので諦める。

平城 (7)
城の家から見た城の山。比高差50mほどあり、登り口に三段ほどの段郭があるという。

平城 (8)
中央の沢は「みやしき」と呼ばれるらしい。対岸の西側にも削平地が確認出来る。

平城 (9)
段郭は墓地となっているようだ。結構傾斜のキツイ斜面なので、居館から城の山に登るにはどう行ったのであろうか。

平城 (11)
三方を険しい断崖に囲まれた居館部分は要害度も高く、充分な広さも兼ね備えている。

●城の山 ※2016年12月訪問

城の家の南背後の急峻な比高50mの小山が「城の山」と呼ばれ、狼煙台あるいは物見が置かれたと想定されている。主郭は28×20の広さがあり、その北側に副郭、その先にも小さな郭がある。主郭背後の尾根側を二重堀切で断ち切った簡単な構造である。

ここへの行き方は、「城の家」から登るのが順当なのだろうが、居館に住む末裔の方のプライバシーに配慮して背後の林道からお邪魔することにした。オフロード車か軽トラの四駆なら林道経由で背後からあっという間に接続出来る。

平城(城の山) (37)
林道の接続部分から一度下ってから登ると二重堀切がお出迎えしてくれます。

平城(城の山) (28)
上幅6mの堀切㋑。かなり埋まっている。

平城(城の山) (27)
堀切㋐は今も鋭い竪堀を形成している。

平城(城の山) (15)
主郭。

平城(城の山) (22)
主郭と郭2の間の切岸。

平城(城の山) (17)
郭2(19×6)。

平城(城の山) (18)
郭3(10×5)。

「城館一体型の背後の要害」というと堅固な詰め城のように思えるが、往時のスタンダードとしてはこの程度のものが主流だったと思われる。
平時は物見や狼煙台としての機能を備えていれば良いので、籠城戦など想定の範囲外であったと思われる。万が一の際は対岸の古城に籠ったのであろう。

平城(城の山) (10)
西の沢に落ちる竪堀㋐。

こんな辺境の地に城館一体型の居館の必要性など感じないと思われる諸氏が多いと思うが、現在の地図を当てはめて考察するのは無理な話なのだと心得ていただきたい。

平城(城の山) (26)
堀切㋐は結構しっかり残っているので驚いた。

今でこそ寂びれてしまったが、往時は東山道の保福寺峠を抜けて筑摩へ通じ、また、鹿教湯温泉から武石峠を越えて中信濃へ入る中世のスクランブル交差点であったのだ。

平城(城の山) (19)
「城の山」からは北側の正面に子檀嶺城(こまゆみじょう)と古城が視界に入る。

平城は、中世の地方の土豪の居館の形状を示すとても貴重な遺構なのだが、青木村教育委員会にはその価値が認識されていないようである。
「青木村の中世城郭=黒丸城・子檀嶺城」の既成概念を捨て、この平城、古城や東城、西城にも言及すべきであろう。

≪平城≫ (たいらじょう)

「城の山」 標高:763m 比高:70m(居館より) 「城の家」(居館) 標高:690m、比高:30m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小県郡青木村沓掛
攻城日:2012年12月、2016年12月 
お勧め度:★★☆☆☆
館跡までの所要時間:- 駐車場:無し
見どころ:二重堀切(城の山)、削平地(城の家)
注意事項:「城の家」の居住者の方は現在不在との情報もあるので無断侵入は絶対に禁止。
「城の山」への訪問も林道経由が望ましい。
参考文献:「信濃の山城と館③ 上田・小県編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P403参照) 
付近の城址:古城、池田長門守居館跡など

平城 (5)
平城の登り口から見た古城。平城の詰め城は沓掛温泉の背後の古城であろうか。答えは風の中・・・(笑)

Posted on 2016/12/13 Tue. 21:50 [edit]

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女神岳城2 (リバイス 上田市野倉)  

◆真田氏に反旗を翻した斎藤が立て籠もった山城◆

GW前半は家族への滅私奉公が中心なので、後半戦にゲップが出るほど城巡りでもしようかと・・・(笑)

今回ご案内するのは「若気の至り」でテキトーな写真と解説で恥ずかしい限りの6年前の女神岳城のリテイク記事である。

女神岳城2015 (1)
登山口は野倉公民館の北側の民俗資料館から東へ300m入ったところになる。乗用車は資料館か公民館に置かせてもらおう。

女神岳城2015 (2)
杉林を道なりにしばらく進む。

女神岳城2015 (3)
女神山天宮大神の鳥居があるので、そこから一直線に伸びた恐ろしい傾斜の斜面を約20分程度ひたすら登る。

【立地】

信州の鎌倉として有名な塩田平のいで湯「別所温泉」の南側に聳える女神岳(926.9m)の山頂に城跡がある。現在の山頂周辺は松林で覆われ視界は良くないが、塩田平周辺の城跡は一望出来る立地となる。秋は松茸山で止め山となるので8月末~11月上旬までは無用のトラブルを避けるため登山は控えよう。

女神岳城縄張図① 001
独立峰に築かれたシンプルな縄張だが、主郭前後の堀切の遮断が念入りである。

女神岳城2015 (19)
息絶え絶えに神社の祠に辿り着いくとそこからが城域となる。(女神山天宮大神・城山大神の対の祠)

【城主・城歴】

長野県町村誌には隣接する馬伏城の記載があるが、女神岳城については何もない。「宝永年間 信濃国郡絵図」には斎藤源左衛門拠城とあるらしい。

慶長五年(1600)、斎藤源左衛門が一揆をおこしてここに拠り、真田氏に抵抗したとされ、その時のもう一つの拠点が馬伏城らしく、長野県町村誌にその事が記載されている。この年は関ヶ原の戦いがあり、昌幸・信繁父子が上田合戦で公儀(幕府)を妨害したとして九度山に配流されている。真田氏の配下であった土豪の斎藤氏が何故真田に反乱を企てたのかは定かではない。第二次上田合戦の最中なのか、領主が昌幸⇒信幸に替わった時の反乱なのかはよくわかっていないらしい。この城で合戦があったのかも不明である。

女神岳城2015 (10)
神社から南東へ向かう尾根。

女神岳城2015 (12)
南東の尾根先の平場。見張り台であろうか。

女神岳城2015 (25)
最初の堀切㋐(上巾3m)

女神岳城2015 (28)
神社から北東の主郭への接続部分。

【城跡】

塩田平から見ても結構目立独立峰の山で、東西の斜面はかなり急で人を寄せつけない。大手は比較的傾斜の緩い北尾根または北東尾根となり、北東の尾根には落差を付けた四条の堀切を入れて警戒している。

●四連続の堀切

東西は急斜面なので遮断のみが目的。四連続の薬研堀は結構深く鋭い。写真撮影で表現するのも厳しい・・(ってか使える写真にロクなもが無かった・・・汗)

女神岳城2015 (31)
主郭背後の四連続堀切の最初の㋑と㋒

女神岳城2015 (34)
堀切㋑の堀底断面。

女神岳城2015 (35)
手前の堀切㋑から郭2方面に連続する堀切。

女神岳城2015 (38)
㋒の堀底から見た隣接する㋓との堀壁。深く険しい。

女神岳城2015 (44)
4本のうち、真ん中二本は斜面に対して短い。東西の斜面は急なので尾根を遮断する効果だけを狙ったものであろう。

女神岳城2015 (47)
最終の堀切㋔から見上げた郭2の塁壁。かさ上げした土塁でより高く見える(ピンボケご容赦!)

●主要部

頂部に主郭、段差を付けて副郭(郭2)、そして東の更に一段下に郭3を置き、石積みが全ての郭の周囲を囲む仕様は実に見事である。城の規模としては小さいのだが、領民を動員して大掛かりな石積みを施す土木作業が斎藤氏単独で出来たのかは疑問が残る。

女神岳城2015 (56)
郭2。主郭の周囲を囲んでいた石積みが崩れて散乱している。

女神岳城2015 (58)
郭2の外周の石積み(手前)と郭1の外周の石積み(奥)

女神岳城2015 (60)
郭2の外周の石積み。笹洞城とよく似た仕様の石積みで往時のトレンドだろう。

石積みを用いた山城は北信濃、特に松代町周辺に数多く存在するが、東信濃でも松尾古城、祢津下の城、矢立城、天白城、丸子城、和合城などに見られる。

古いタイプは単純に土砂崩落を防止するための土留めの役割であったが、戦国時代末期近くになると西国の石垣技術を取り入れた独自の石積み技法が北信濃・中信濃を中心に展開していったようである。鉄砲や重装備の攻城兵に対しての防御として取り入れられたようだが、平積みの石積みはせいぜい1.5~2mの高さが限界だった。平城では無意味だが、山城では充分な効果が期待出来たはずだ。

女神岳城2015 (63)
約500年の風雪に耐えた石積み。現代にその遺構が残っているのは奇跡に近い。

女神岳城2015 (69)
丁寧に削平された主郭。三等三角点が置かれている。

女神岳城2015 (65)
主郭から東段下の郭3を見下ろす。結構な段差がある。

女神岳城2015 (78)
主郭の東外周の石積み。至福の時である・・(笑)

女神岳城2015 (73)
郭3.ここから郭2へは直接入れず堀切㋔を通って郭2⇒郭1へと連絡したものであろうか。

女神岳城2015 (76)
このご褒美が拝めるなら「心臓破りの20分一本勝負」はお安い御用だと思います。

●北東尾根の堀切

大手筋と思われる傾斜の緩い尾根にはやはり四条の堀切を置いて厳重に遮断している。落差を付けて堀の内側を削る事で防御効果を増大させているのが分かる。幾重に重ねる段郭も効果的だが、地面の柔らかい女神岳は堀切を刻むのが早かったと思われる。

女神岳城2015 (79)
堀切㋕の堀底を郭3からのぞき込むとこんな感じ。

では、補助線を外して同じ写真。堀切写真でその険しさを視覚でお伝えするのは難しいものです・・・(笑)

女神岳城2015 (79)
小生の視点で見えましたか?

女神岳城2015 (84)
堀切㋕の堀底断面図。斜面をかなり人工的に削らないとこういう角度にはならない。

女神岳城2015 (86)
落書きした堀切㋖

女神岳城2015 (86)
落書き無しで堀切㋖が上の写真のように見えたら「山城マイスター初級検定」終了・・(笑)

女神岳城2015 (88)
堀切㋖の堀底断面。長い年月の土砂の堆積でかなり埋まっているが、発掘調査すればさらに1m以上は深いと思われる。

女神岳城2015 (92)
堀切㋗(上巾10m) もはや補助線は不要であろう・・・(笑)

女神岳城2015 (95)
最終の堀切㋘。間伐の作業道がすぐ近くまで開通していたのには驚いた。

リテイクの女神岳城、如何でしたでしょうか?

「えっ、6年前と比較しても進歩してない」  ・・・・・(汗)

人生、常に奢ることなく前進あるのみです・・・(なんのこっちゃ・・・笑)

女神岳城2015 (97)
北東尾根先からは何とか山田集落が見え、その先には独鈷山。

斎藤氏が真田氏に反乱を企てて籠った城と伝わるが、実際には徳川軍の上田攻めの際に内通してこの城に籠城したのではないのだろうか。関ヶ原の合戦の戦後処理で昌幸・信繁父子の九度山への配流が決定したのは12月である。第二次上田合戦の際に、保福寺峠を越えて青木村で真田昌幸の配下の池田長門守と合戦となった石川康長(石川数正の息子)と呼応する形で蜂起し女神岳城に立てこもったのではないのだろうか?

まあ、そのうち真実が明らかになるのをお待ちしておりますw


≪女神岳城≫ (めがみだけじょう)

標高:926m 比高:200m
築城年代:不明
築城者・城主:不明
場所:上田市野倉
訪問日:2015年11月7日
お勧め度:★★★★☆ 
所要時間:20分
見どころ:石積み、堀切など
周辺の城跡:馬伏城、塩田城、峰小屋城(独鈷山山頂)、駒形城など
注意事項:秋は松茸山の入山禁止なので注意。
参考文献:「信濃の山城と館③上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)

女神岳城2015 (119)
東信濃を代表する石積みの美しい山城である。

女神岳城2015 (127)
西塩田方面から見た女神岳城。

Posted on 2016/04/30 Sat. 20:05 [edit]

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室賀氏墓所 (上田市上室賀)  

◆室賀ロスはいつまで続くのか・・◆

上半期の真田丸的流行語大賞は「黙れ、こわっぱ!!」で決まりでしょう・・・(笑)

しかし、もうそのセリフが聞けないのはとても残念。そんなムロガーロス状態の貴方のために室賀氏の墓所をご紹介。

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五百年前、室賀盛清によって開かれたという前松寺。三度の火災で焼失するも住職や寺の檀徒によって再興され今日に至る。

真田昌幸によって室賀氏当主の正武が謀殺されると、室賀氏の領地は真田の領土として併呑された。これにより小県郡は全て真田領として統一されたのである。

この時より室賀一族は真田氏に仕えるもの、徳川を頼って甲斐に落ち延びたもの(のちに旗本に取り立てられた)等分かれたとされる。
現在の室賀地区には室賀家は存在しない。信之の松代移封に伴い、松代へ移住したようである。
※上田市の富士山には室賀姓が残っているが、正武の正室の実家だとされるが、定かではない。

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室賀氏の史跡保存の為に110年ぶりに整備された室賀氏の墓所。地元の方の熱意には頭が下がります。

実は、室賀氏の墳墓は前松寺ではなく、毘沙門堂の旧地(所在不明)にあったものを、江戸時代に徳川の幕臣となった室賀氏が佐渡奉行から役替えの帰り道に先祖の墓参りをした際に、村で前松寺の裏山に移し祀ったとされている。

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宝篋印塔、五輪塔など五基が村人の努力により現地に現存する。

地元の郷土史研究家の西沢氏によれば、笹洞城も室賀氏の墳墓も原畑城(室賀氏居館)からは鬼門(北東)に位置しているので、鬼門除けだろうとしている。
それが事実だとすると、笹洞城の大手は南尾根であり、室賀水上神社からの道は鬼門となり大手筋とは考えられない事になる。

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重厚な山門。地元出身の佐藤清五郎の作といわれる彫刻も残っている。

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神社仏閣の趣味には100年早いようだが、竜の「阿吽」彫刻はこれなんだろうなあー、とは一応分かるような気がする・・(汗)

室賀氏の家紋は「丸に上」で、主家である村上氏と同じである。(分流の屋代氏も同じ)

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本堂の屋根には家紋が記され、室賀氏が開基である事を物語っている。

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室賀氏の墓所は寺の裏山にある。(誘導看板あり)

前松寺より、笹洞城のあった下洞山を見ると、結構険しいのがわかる。

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天文二十二年、武田信玄の小県侵攻に際し、村上方であった室賀氏は屋代氏と共に村上義清を見限り、武田方に降る。退路を断たれる危険を察知した義清は葛尾城を諦めて越後に退去した。

真田パパ幸に謀殺された室賀正武の墓所は今もって不明である。平山優センセも探索されているようであるが、全くもって分からない。郷土史研究家で室賀墓所の改修に携わった西沢氏ですら、わからないとの仰せである。

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前松寺の本堂。


≪室賀氏墓所≫

標高:620m 比高:20m
築城年代:不明
築城者・城主:室賀氏
場所:上田市上室賀
訪問日:2015年3月
お勧め度:★☆☆☆☆ 
所要時間:3分
見どころ:特になし
周辺の城跡:原畑城、伊勢崎城、跡部城、三水城、狐落城、浦野城、岡城など
注意事項:特になし

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Posted on 2016/03/25 Fri. 23:19 [edit]

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