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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0705

水の手城 (リテイク 上田市東内)  

◆2010年の心残りを2015年にリベンジして、2018年ようやくお披露目となる◆

今思えば、初心者の頃は険しい山城に挑む時、気力だけではカバーできない現実を思い知る事が多々あり、数多く挫折してきた。

体力ももちろんだが、積み重ねた経験値が何よりも重要なファクターなのだと最近つくづく思うのである。
といっても、年を重ねれば体力的に到達が困難な山城があるので、行けるうちに行かないと後悔するという矛盾もある・・・(笑)

でもね、あの頃の山城に対する情熱は今の比ではなかったと懐かしくさえ思う・・・「好き」を続ける事は難しい・・・(汗)

今回リテイクしてお届けするのは、駆け出し故の激しさで体力配分を間違えて自滅した水の手城である。

水の手城2 (1)
鳥羽城の攻略後に水の手城へ。途中で足の筋を違えてしまい、苦痛に顔を歪めながらの攻略となってしまった・・(汗)

水の手城2 (3)
A地区の最初の段郭。連郭式で削平も甘く年代もかなり古く、初期の水の手城の姿である。

【立地】

依田窪地区を流れる依田川水系の内村川の左岸、東内の富士嶽山(1034.3m)から南東へ延びた尾根上に水の手城がある。この山は急峻な岩山なので、東尾根筋から登る。

水の手城見取図①
城域は広く、4区域から成る。随時拡張されていったと見るべきであろう。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」に「和子組 子の方(北)四町山上にあり。東西十五間、南北十間塁址あり。東に古井ありて四時水を湛ゆ。西に大堀切一条あり。深さ一丈八尺、北は峻険歩を進め難し・・・」とあり、城歴についてはふれていない。

水の手城2 (7)
スミマセン、堀切㋐ではなくて㋑でした・・・(汗)

水の手城2 (9)
A地区最終の郭。周囲は岩場で囲まれている。

【城跡】

ここは宮坂武男氏の解説に従い、A・B・C・Dの四区画に分けて見てみよう。年代順に拡張していった経緯が読み取れる。

●A地区

東尾根の先端で三方は急斜面で人を寄せ付けない。二条の堀切を認めるが、郭の削平は曖昧。西端の岩盤で囲まれた高所が往時の主郭であろうか。ここからB地区に行くには岩盤北側の斜面を慎重に移動しないと辿り着けない。

水の手城2 (10)
A地区の最高所から見る鳥屋城。居住区間というよりは物見の部類であろう。

●B地区

堡塁1・2の二つの岩峯と沢筋の平地郡で構成される。堡塁2の背後に二ヶ所大きな平場があり、居住区と推定される。今回は足の故障で探索を断念したが、沢筋に湧水場があり、これが水の手と呼ばれ城の名の由来であろうか。

水の手城2 (13)
A地区からB地区への移動は滑落の危険があるので神経と体力を使う。北側の斜面にう回路があるが獣道である。

水の手城2 (15)
「こんな山の中で何やってんだろうオレ!」・・・自問自答は毎度の事である・・(笑)

水の手城2 (17)
堡塁1。さて、この急斜面を満身創痍でどうやって登れというのか・・・(汗)

水の手城2 (23)
堡塁1から眼下の国道254号線。

水の手城2 (25)
堡塁2に続く尾根筋。西側の居住区(逃げ込み城)の物見であったと想像される。

水の手城2 (29)
B地区の西側の居住区。2010年はここで矢尽き刀折れたのである・・・(汗)

水の手城2 (30)
恐らく沢筋から上がったこの尾根筋(B地区とC地区の境)は古道が走り「乗り越し」であったと思うがどうであろうか。

ここで右足が悲鳴を上げていたが、騙し騙し未だ見ぬC地区・D地区へ・・・・・・・・・・・・・・・辛かった・・・・・。


●C地区

水の手城の中心部分である。主郭の東下に石積みで補強された段郭を置き、主郭は28×11の楕円形で南側に虎口が開く。背後は二重の岩盤堀切が遮断。一条目は北側斜面に竪堀となり下る。オーソドックスな作りだが三方の傾斜が厳しいのでこの程度でも充分な防御力がある。

水の手城2 (35)
岩盤で屈強に補強された主郭手前の段郭。

水の手城2 (37)
主郭から見下ろした段郭。その先には内村川流域の旧丸子町の市街地が広がる。

水の手城2 (38)
5年越しのリベンジで辿り着いた水の手城の主郭(28×11) 後方に土塁が確認できる。

水の手城2 (40)
主郭背後の岩盤二重堀切。足の痛みを忘れる一瞬がここにありますw

水の手城見取図①
再度見取図を掲載しておきましょう・・。

水の手城2 (49)
この城域最大の堀切㋒。上巾9mの圧巻の岩盤堀切。

水の手城2 (56)
堀切㋓。上巾3mだが、堀切㋒のサポートなのでこの程度でも機能する。

●D地域

尾根に居住空間を新たに築いたとは言い難く、退路の確保を行うための戦闘空間であろうか。特に堀切も無いので、主郭の後詰めの兵士を置いたようでもある。或いは櫓台でも置いたのであろうか。

水の手城2 (63)
D地区の郭。

水の手城2 (64)
郭の中央にある櫓台跡。

水の手城2 (66)
D地区の西側は堀切など無く尾根伝いで地山に続く。

水の手城2 (4)
水の手城のリベンジには鳥羽城に引き続き「ていぴす殿」にお付き合い頂いた。(写真はA地区)


≪水の手城≫ (みずのてじょう)

標高:900m 比高330m (C地区)
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市東内和子
攻城日:2015年3月15日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:45分  駐車場:無し
見どころ:景色、堀切、土塁、郭など
付近の城跡:鳥羽館、鳥羽城、鳥屋城など
注意事項:ある程度の体力と技術、山城踏破の経験値は必要。岩盤剥き出しのため尾根の北側をトラバースするので滑落注意。
参考書籍:「信濃の山城と館③ 上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、長野県町村誌など
SpecialThanks:ていぴす殿

水の手城2 (75)
西内郵便局付近から見た水の手城の遠景。

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Posted on 2018/07/05 Thu. 21:59 [edit]

CM: 13
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0620

鳥羽城 (上田市腰越深山 リテイク)  

◆7年前の未熟さを3年前にリベンジして、ようやく本日お披露目となりました◆


一昨日発生しました大阪北部地震で被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。微力ながら信濃の山国より余震が収まる事を願うばかりでございます・・・・・・・。

さて、今回ご案内するのは鳥羽城のリテイク記事である。2011年といば、小生が山城探訪を始めてまだ2年目の青二才の頃である。

とりあえず見よう見まねで始めたスタンプラリーのような山城巡りだったので、遺構もへったくれも無くて、とにかく城跡の中心に辿り着ければ満足していた。

今思えば、ずいぶんともったいない事をしていたが、その後再訪問する事で二度美味しいと思えるようになったので何より・・(笑)

鳥羽城2 (5)
今回も鳥羽館跡と推定される龍福寺の脇の土手から尾根伝いに登る。

鳥羽城2 (7)
鳥羽稲荷大明神の鳥居の先に尾根があるので迷うことは無い。

【立地】

依田川へ武石川が合流する所の西の山が鳥羽山で、鳥羽氏の居城と伝えている。ここには同氏が安置した矢除観音があり岩堂が三つあり、矢除観音の奥の院で往古戦闘の際に伏兵を置いた所という。
鳥羽館跡から尾根を詰めても攻略出来るが、途中で道が無くなりスリリングな刃渡りを強いられるので体力・技術を要する。

鳥羽城2 (8)
20分ほど尾根を辿ると道が消えるので、手足をフル稼働させて前回主郭と間違えたピークに登って小休止。

鳥羽城2 (14)
転落したら絶対助からないであろう岩場の刃渡り。一人がやっと通れる幅しかないので通過するまでに極度の緊張を強いられる。

鳥羽城岩盤
度胸だけでは通れない岩場。


鳥羽城2 (18)
刃渡りから見た依田川流域の諸城。烽火台としても及第点の立地であることが分かる。

鳥羽城2 (17)
鳥屋城保存会の方々には大変お世話になりながら、恩返しができず申し訳ありません・・・(汗)

鳥羽城2 (20)
丸子城⇒根羽城⇒鳥屋城と峰続きなので縦走した方もいるらしいが、ここは効率を考えると個別攻略が良いかと・・・(汗)

【城主・城歴】

小県郡史(大正十一年発刊)には鳥羽「城址」として以下の記載がある。

鳥羽城は丸子町腰越區鳥羽山の字深山屋敷にある山城なり。本郭は東西十二間半、南北八間半許あり。東に凡二間許低下して一郭あり。二の丸といふ。東西四間半、南北八丁許あり。又下ること三間許にして一郭あり、三の丸といふ。
東西六間半、南北十間半許。本郭より西北に一郭あり。東西六間、南北四間。同じく東南に降りて一郭ありて東西六間、南北十五間。鳥羽山は四方峻険にして、南より西に亘りて依田川をめぐらし、東に深山の集落ありて、丸子・佐久方面に連絡す。里傳に鳥羽氏の居城にして、天文中福島肥後守之に拠るといふ。
福島肥後守は佐久郡芦田城主依田信蕃の組下にして此城に居る(千曲真砂) 天正十一年三月二十二日岩尾城の戦に主従共に戦死して廃城となる(信濃細石)

鳥羽城見取図②

【城跡】

麓の居館とは別に、険しい岩山の山頂に築かれた詰め城にも戦闘施設と居住空間が区分けされている。
見取図では、鳥羽山のピーク周辺は土塁で囲み三方の尾根を堀切で遮断し厳しい防御を敷くものの、北尾根筋の東斜面は小屋掛けを意識した二つの広い削平地が造成され、段郭まで置かれている。
加工度は高くないが、東西は険しい断崖で人を寄せ付けず、登城口もかなり制限されるので、少数での防衛には向いているだろう。

鳥羽城2 (24)
根小屋か?と思うほど丁寧に削平された郭。小屋掛けに最適である。

鳥羽城2 (25)
この高所では井戸も無理なので天水溜を備えたか。

鳥羽城2 (30)
日当たり良好の優良物件。逃げ込み城としての機能もあったと思われる。

鳥羽城2 (34)
宮坂先生の縄張図では根小屋から東麓の深山集落に通じる山道が描かれていたが、途中で寸断され辿る事は無理だった。

●鳥羽城の中心地区

居住空間から土橋状の土塁を南へ進みピークの主郭を目指す。堡塁から高低差を利用した堀切㋐で遮断された尾根はかなり厳しい処理で攻城兵を迎撃する。

鳥羽城2 (40)
居住区から本城へ。

鳥羽城2 (41)
堀切㋐の手前の堡塁。

鳥羽城2 (44)
高低差を利用した堀切㋐。かなり厳しい落差である。

鳥羽城2 (50)
堀切㋐を西側より撮影。あっ、ていぴす殿が写り込んでる・・・・って心霊写真かい!(笑)

鳥羽城2 (54)
主郭手前の段郭。周囲を囲む土塁は曖昧な処理に終わっている。

鳥羽城2 (58)
石碑の建つ主郭(22×14)。

主郭には「鳥羽氏先世塁址」と記された石碑が建っている。運び上げるのは結構大変だったと思われる。

主郭の石碑は「福嶋氏石碑」で、「長野県町村誌」に宝暦四年「宝暦四年、伊勢御師福島某、本村鳥羽城本丸跡へ石碑を建て、鳥羽氏の旧地のある事を明にす。石碑南向きにして、正面に鳥羽氏先世塁址と記し、左に孝孫従四位下度会神主未済建、右に宝暦四年三月」と詳細が記されているという。

鳥羽城2 (61)
1744年にこの石碑をここまで持ち込む執念とは・・・(汗)

鳥羽城2 (63)
主郭の西側の土塁壁。風化が進んでいる。

●南尾根の処理

主郭から伸びる南尾根には堀切一条を置いて郭4を置いている。依田川からの敵を想定しているが、岩場が連続するので堀切の防御だけで充分だったようである。

鳥羽城2 (65)
南尾根と主郭を遮断する堀切㋓。上巾6m。

鳥羽城2 (66)
郭4(20×10)

●北東尾根の処理

大手を北尾根の麓にある鳥羽館とするか、北東の尾根先の深山集落方面とするかで大きく変わる。
実際に現地を歩くと、大手は深山集落から登る東尾根で、北尾根は搦め手のようである。が、しかしこれは鳥羽城の最終運営時点の話であり、当初は根小屋などなくピークに物見を置いた単純な作りだったと思われる。

鳥羽城2 (74)
主郭と郭2の間の堀切㋑。かなり埋もれてしまい不明確になっている。

鳥羽城2 (75)
北東尾根はオーソドックスな連郭方式。

鳥羽城2 (77)
郭2。

鳥羽城2 (81)
削平の途中で造成工事が止まったような郭3。

郭3の先は段郭を重ねて堀切㋒を間に挟むシンプルな縄張であったが、鳥羽城の正攻法はこのルートなので、セオリー通りの処理であろう。

鳥羽氏の孫が福嶋を名乗り、信玄の幕下となり鳥羽城の城主となって、武田氏滅亡後は依田信蕃の家臣となり岩尾城の戦いで信蕃と共に討死した。
伝承を鵜呑みにする訳にはいかないが、城歴を知る事で鳥羽城への見方が変わるのもまたしかり。

鳥羽城遠景
依田川沿いから見た鳥羽城遠景。

≪鳥羽城≫ (とばじょう)

標高:843.8m 比高:290m 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市腰越深山
攻城日:2015年3月15日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:45分  駐車場:無し
見どころ:景色、堀切、土塁、郭など
付近の城跡:鳥羽館、鳥屋城、鳥屋山砦、根羽城、丸子城など
注意事項:ある程度の体力と技術、山城踏破の経験値は必要。岩盤剥き出しの痩せ尾根は転落注意。
参考書籍:「信濃の山城と館③ 上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、小県郡史など
SpecialThanks:ていぴす殿

Posted on 2018/06/20 Wed. 21:34 [edit]

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0220

祢津下ノ城2 (リテイク 東御市祢津)  

◆圧巻の長大な土塁付き二重竪堀で武装された東信濃を代表する堅固な山城◆

このところリテイク記事が続き、過去の自分の呪縛から逃れようとする日々が続く・・・(笑)

そんな事をやり始めたら、過去記事を全てリニューアルする羽目になり無限ループの連鎖が始まる・・・(汗)

それでも、「山城は幾度となく再訪することで新たな発見もあり、往時の本当の姿に近づく事が出来るかもしれない・・・」

今回ご案内するのは、幾度となくアテンドした山城マニア垂涎の隠れた名城「祢津下ノ城」(ねつしものじょう)である。

IMG_5015.jpg
西側より見た祢津下ノ城の遠景(東御市海善寺より撮影)

今回も縄張図を新たに描く気力などないので、宮坂武男氏の図面を引用させていただき現地で撮影した写真をもとに解説したいと思う。

祢津下ノ城縄張図①
著作権は作図者の宮坂武男氏に帰属します。無断転載はご遠慮ください。

【大手門】

登城口から整備された遊歩道をしばらく登ると、左右に土塁を伴う横堀が現れる。
東側の横堀の端は登り土塁も確認出来、その防御の厳重さからこの場所が恐らく往時の大手門であったと思われる。

IMG_4872.jpg
大手口から東側の横堀。(真横から撮影)

IMG_4874.jpg
全体を把握するために斜め上から見下ろして撮影。

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大手口と左右の横堀防御を斜め上から撮影。東側の横堀の土塁は一部を残すのみ。

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東側の横堀の先は横移動を制御する登り土塁が確認できる。(同色で見づらいため補助線使用)

【桝形門】

大手門からさらに登り数段の段郭を経ると、急坂を屈折させた左右に土手を伴う狭い場所となる。この場所が恐らく桝形門で、主郭に至る攻城兵を阻止する最終防御ラインであろう。

ここは元々あった帯郭を改修し桝形虎口を開けて土塁を築いて門が置かれたと考えられる。現在遊歩道はこの桝形門の接続する帯郭から直接本郭に通じているが、これは公園化に伴う後世の改修で本来は別の通路があったと考えられる。

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下から見た桝形門。石積みが散見される。

IMG_4880.jpg
桝形門の左右の土塁は石積みで補強されていたと推定されるが、後世の改修による破損が酷く往時の状態は不明だ。

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全体像を分かり易くするため桝形を少し登った場所から見下ろして撮影。公園化整備と桜の植樹のため遺構が改変された可能性がある。

【主郭】

南に石積みで補強された虎口を開ける場所以外は土塁が全周していて、主郭背後はかなりの高さがある。一般的には背後の堀切の高低差を稼ぐためと思われがちであるが、それだけではなく、中枢部である主郭を敵に見通せないようにした工夫だともいわれている。

IMG_4883.jpg
正面虎口から見た主郭。オレンジシートは烽火リレーイベント用のドラム缶の保護用。正面奥の土塁が一段高くなっている。

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主郭背後の高土塁から撮影した主郭全景。

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主郭虎口の石積み。南側に虎口を開けているが、守備側の実際の出入りは背後の堀切を経由させたものであろうか。

【主郭背後の処理】

信濃の山城の主郭背後はそのままストレートに大堀切で断ち切るケースが多くみられるが、祢津下ノ城は主郭背後に武者溜りのような平場を設置した後に大堀切で断ち切っている。これは、背後の尾根に連続する郭と堀切の高低差を意識したもので、ここに伏兵を置き攻城兵を狙撃させるような意図を感じる。或いは桝形門から北へ回り込み、ここから主郭へ出入りをさせたのかもしれない。

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郭2から見た主郭背後の防御処理。

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堀切㋐。

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堀切㋐を東斜面から撮影。竪堀としてそれほどの長さは無いが、他の堀切との兼ね合いならばこの程度で充分であろう。

堀切㋐の先には長方形の郭2と扇形の郭3を落差のある切岸で接続させている。郭3の西側の斜面は堀切㋔が竪堀となって接続し攻城兵の移動を制限している。

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郭2。

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郭2から見下ろした郭3。

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郭2と郭3の接続部分の切岸。かなりの落差があり階段が無ければ登れない・・。

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郭3の西側に接続する竪堀㋔。

【長大な二重竪堀を基調とした搦め手の堀切群】

この城の最大の見どころは、搦め手から東斜面を麓まで這う石積み堀底土塁付きの長大な二重竪堀と搦め手を守る竪堀群とのコラボであろう。

滋野一族とはいえ、祢津氏がこの山城にこれだけの土木工事の人的・物量的投下が可能だったのかは疑問が残る。

仮説を立てるとすれば、天正壬午の乱で北条方への従属を決めた祢津氏に対して、信濃へ侵攻した北条軍が北信濃への前線基地として祢津上ノ城を駐屯地として整備し、その守りとして祢津下ノ城を改修したという事はかんがえられないだろうか?
そんな想像も楽しいものである。

祢津下ノ城縄張図①
またスクロールして戻るのも大変だと思うので縄張図に再登場願った・・・(笑)

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郭3から見下した郭4との間の堀切㋑。上から見るとW型の折れを伴う変則的な堀で東斜面で二重竪堀と連結し収斂する。

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郭4に接続する「池」。ここは後世の改変による造作で「水の手郭」ではないらしい。この日は池の水も無く歩いて横断できた。

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搦手の最終で西斜面を豪快に下るW堀切の㋕と㋖。ため息ものですw

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東斜面に対して竪堀となる堀切㋓。本来は㋖と繋がっていたものであろう。

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堀切㋑と㋒。尾根を分断する竪堀は全て東斜面の巨大な二重竪堀に収斂(しゅうれん)する。芸術的な美しさだ。

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二重竪堀との合流地点から見た堀切㋑と㋒。

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堀切㋒。残雪に埋もれた石積みが見えるでしょうか?竪堀の両サイドの土塁は石塁で補強された堅固なものです。


【東信濃では珍しい集合竪掘と石塁で補強された二重竪堀】

中信濃では小笠原系の山城に多く見られる集合竪堀だが、東信濃では上田市の室賀にある竹把城ぐらいで非常に珍しい。更に二重堀切の堀底土塁だけでなく外側の土塁にも石塁を伴うのはかなり特殊である。
周辺の他の山城には見られない特異な防御システムとその設計はこの城の重要性を物語っている。

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東斜面を長大な竪堀となり麓まで下る二重堀切。そのシルエットの美しさには言葉が浮かばない・・・。

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石塁で補強されている堀の外側の土塁。

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途中林道により二重竪堀は2ヶ所寸断されているが、この写真は上側の寸断ヵ所からの撮影。

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林道の上側の寸断された二重竪堀の下方向写真。これだけ残っているのはある意味素晴らしい。

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林道の下側の寸断された場所から見上げた二重竪堀。この土木工事量は凄い。

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上記場所から見た斜面下の写真。

今回のリテイク解説はここまでとしたいが、紛れもなく東信濃を代表する中世の山城である。この地域では珍しい輪郭方式の縄張りと、斜面を這うように作られた長大かつ巨大な二重竪堀は戦国末期の改修のテイストを充分に堪能出来る秀逸さである。

一度と言わず二度、三度と訪れて欲しい山城である事は間違いない・・・・。

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抜群のロケーション。

≪祢津下ノ城≫ (ねつしものじょう )

標高:826m 比高:130m
築城年代:不明
築城・居住者:祢津氏
場所:東御市祢津
再踏査日:2018年2月4日・11日
お勧め度:★★★★★ (満点)
城跡までの所要時間:10分
駐車場:登山口脇に数台のスペースがあるが、途中の道路が狭く急坂ですれ違いも難しいので城前集会所を借りよう。
見どころ:東斜面を下る長大な二重竪堀、主郭背後の堀切群、大手門、枡形門、主郭周囲の土塁・石積など
注意事項:林道経由で搦め手まで登るなら軽のオフロード4WD以外は無理なので注意。
参考文献:「図解山城探訪 第三集 上田小県資料編 宮坂武男著」(縄張図)


登り口はここ。

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Posted on 2018/02/20 Tue. 22:27 [edit]

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真田氏の山城ネットワークの近況 (上田市真田町)  

◆中世の山城入門者にお勧め「真田氏の山城・居館巡り」◆

父親の一年忌が1月5日なので、新年のご挨拶は遠慮させていただきますが、本年も宜しくお願い申し上げますw

さて、年末年始になると「城納め」だとか「城初め」がtwitterで賑わうので、小生も大晦日・元旦と真田氏の山城を巡ってみました。

「懐かしいなあー」と思う方や「これから行ってみたいなあー」と思う方も、しばしのほどお付き合いくだされ・・・(笑)

また、各お城の詳細や場所を知りたい方は、小生のブログ内の「検索欄」に城名を入れて検索していただくとヒットするかもしれません・・(汗)

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天白城の名物「岩盤大堀切」

【尾引城】

登り口から5分もあれば主郭に辿り着きます。城正面を数段の段郭で防御し、城の背後は三重の堀切で遮断。尻尾のような尾根先にも小さな段付き郭を置いて搦め手に備えています。(この先を登ると詰めの城の横尾城へ)

この城は、対岸北側の根小屋城と共に松代街道を監視し、同時に東側の打越城(おっこしじょう)との間にある内小屋(現在の信綱寺のあるかつての居館区)を防御する役割を担っていたと考えられます。

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真田丸のおかげで山城の入口には説明板が最近設置されました。
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主郭には秋葉神社が祀られている

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主郭背後の三重の堀切

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堀切から主郭を見上げるとこんな感じ

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東に真田氏本城がよく見えます


【根小屋城】

こちらも登り口から15分もあれば主郭に着きます。尾引城と同様に正面に数段の腰郭を置いて備え、背後は深い二重堀切で遮断しています。残念ながら堀切を含めた搦め手方面は深い笹薮で覆われ詳細の確認は難しくなっています。
村上氏砦でしたが、村上氏退去後は武田氏の山県隊寄騎の大熊備前守朝秀(嘗ては謙信の家臣)がこの城を守ったと伝わります。

主郭(高い城)のある場所から南の沢を挟んだ対岸に副郭(低い城)を置くこの地域の山城では珍しい縄張が特徴です。
低い城の探訪者は少ないので、この城へ来た際には是非寄ってみてください。

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登り口にある説明板。背後の川は「神川」(かんがわ)

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虎口の石積み

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主郭。おっと、城代家老がいらっしゃるようですよ・・・。

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「こんにちわ!またお邪魔しますんで、宜しくお願いしますネ」

城址は大熊氏の筆頭家老のカモシカさんの生活空間なので、冬場は大抵お目にかかる事が出来ます。
しばらくすると退去してくれますが、機嫌の悪い時はどいてくれないので、そんな時は無理せず退却しましょう。

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対岸の尾引城、横尾城。遠く真田氏本城も見える。

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対岸の低い城。石碑と東屋が見える。ここには明確な遺構がある訳ではなく、その後信仰の場所として使われたらしい。

【洗馬城】

根小屋城から松代街道を西へ進んだ大庭地区にある山城。小学校のある場所は「萩の館跡」と伝わり真田氏の出自に関係した居館らしい。洗馬城(せばじょう)は海野氏方の千葉氏(せばし)が守った城とされ、村上軍との戦いにその名が出てくるという。

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登り口の説明板。

城の正面に複数の腰郭を造作して防御とし、主郭の背後に堀切を穿つ手法は近隣の他の山城と同じ手法である。

但し注意して欲しいのは、この主郭の西尾根を遮断するのは古道の「乗越」(のりこし)であり、大堀切ではない。登り口の上田市教育員会の説明板も大堀切としているが、間違いであろう。もう一つ北側に続く尾根には小さな堀切が二ヶ所ほど確認出来る。

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主郭。かつては土塁が周回していたと推定される。

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この城の記事でほとんどの方が「巨大な堀切」と紹介している西尾根との乗越。麓の神社と実相院を結ぶ山道のピークで自然地形であろう。

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もう一方の主郭の背後の北尾根には二条の堀切が確認出来る

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西に奥まった位置なので、尾引城を介さないと真田氏本城との直接の連絡は難しい。


【真田氏本城】

大晦日だというのに数台の県外車と見物人が訪れていたのには驚いた。この場所に立つと、ここが有事の際における真田氏の山城ネットワークの戦闘指揮所なのだという事がハッキリ分かる。
果樹園として大きく改変されてしまった城の半分は最終形だったはずなので、今日見ることが出来ず残念である。
それにしてもここからのロケーションは素晴らしい。

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遠い昔のように思える「真田丸」(笑)

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主郭背後の高土塁は防御と共に敵から本郭を隠す役目を担っている。

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東には天白城の雄姿。斜面が伐木されたので、主郭背後の大堀切が竪堀となって斜面を下る様子が観察できる。

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松代街道もキッチリと動向が確認出来る。(洗馬城は見えない)

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もちろん、戸石城やその支城の伊勢崎城(虚空蔵山)も。

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上州方面の有事の対応も怠りなく。

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主郭と背後の高土塁。

【打越城】(おっこしじょう)

信綱寺の前身は打越寺(おっこしじ)といい、元々横尾氏の菩提寺であり、その周辺は内小屋と呼ばれ居館元々があったと推定される。信綱寺の黒門がある尾根は打越城と呼ばれ、内小屋の東側を防衛する砦として南の尾引城と共に重要な役割を担っていたという。

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黒門の東側の駐車場に説明板があります。

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信綱寺の表参道となっているこの尾根は嘗ての砦跡と知る人は少ない・・・(汗)

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黒門の先を尾根伝いに進むと墓地を抜けて尾根の最高地点の主郭へ。この先は堀切が一条あるのみだ。

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打越城の西側の駐車場より見た真田氏本城。


【真田氏居館】

地元では御屋敷と呼ばれ、真田幸隆・信綱が居住したと伝わる。信綱が長篠の戦で戦死した後は正室の北の方が住まわれ、勝頼の命により真田家当主の座を継いだ昌幸は戸石城のある伊勢崎で政務を執ったという。
台形の巨大な居館は土塁が全周し東には堀、北側は大沢川が天然の堀を形成している。
上田城築城後、この居館の荒廃を恐れた昌幸は神明宮を勧進し現在に至っている。

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西側の巨大な土塁。堀は耕作地化により埋められたか?

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搦手となる北側は大沢川を天然の水堀として防御している。

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居館の東側に鎮座する皇大神宮。

【天白城】

真田氏本城のすぐ南の山の尾根先に築かれた砦で、里伝では信綱が居館造成に際して新たに築城したという。
城の正面に段郭を重ね、主郭の背後は岩盤を叩き割った上巾8m程の大堀切が北の斜面に向けて巨大な竪堀となっている。
主郭の周囲を石積みで囲み小さいながらも加工度の高い砦である。

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麓の北赤井神社。ここから城跡へ登る。

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主郭を囲む石積み

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石積みその2

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主郭(16×13)

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北側から見た岩盤大堀切。見事だ。

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巨大な竪堀となって北側の斜面を下っていく

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真田氏本城も指呼の間である。

天白城が何故ここに築かれたのかは、ここから一望できる景色が答えを出している。
本城からは見えなかった洗馬城も含めた真田山城ネットワークがここからは全て把握できるのだ。

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松尾城と遠見番所。

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寒さも忘れてしばしその圧巻の風景に感動だ!(笑)

さて、如何でしたでしょうか?

年末年始を山城とともにお送りしてみました・・・えっ?松尾城と遠見番所も行けって?・・(汗)

この時期にどうしても訪問したい方はそれなりの装備とスパイクピン付き長靴は必需品です。
比高は天白城の140mがマックスですが、雪と氷、それに落ち葉の積もった道は低い場所でも危険が伴いますので、春先が良いといます。

では、リクエストにお応えして松尾城の写真を2枚。(2016年1月2日の撮影・・・・笑)

松尾城201612 (26)

松尾城201612 (32)


















Posted on 2018/01/03 Wed. 14:22 [edit]

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鷲尾城 (東御市新張奈良原)  

◆「図解山城探訪 第三集 上田小県資料編」のトップに掲載されていた城◆

今さら何を・・・と思うかもしれないが、小生の山城への情熱のスイッチを押したのは宮坂武男氏の「図解山城探訪」シリーズである。(当時は非売品、県内の図書館でも館内閲覧のみで貸出禁止のところが多かった)

現在は「信濃の山城と館①~⑧」(戎光祥出版)として2012年度より随時内容も改訂され限定数量ながら販売されているが、今も長野県の山城の第一級資料としてゆるぎない地位を確立し山城ファン垂涎のバイブルでもある。

yamasirotanbou[1]

今回ご案内する山城は、小生が初めて東御市の図書館で拝見した「図解山城探訪 第三集 上田小県資料編」の一番目に掲載されていた山城である。取り立てて比高が高いとか奥深い山だとかでもなく、何回かチャレンジする機会はあったものの何故か後回しとなり、東御市における未訪の城として唯一残っていた。「いつでも行ける」と思うか「今しか行けない」と思うか・・・心掛け次第であろう・・・(笑)

図解 山城探訪 第三集 上田小県資料編 (102)
「図解山城探訪」では1番目の山城だったが、改訂出版された「信濃の山城と館」では4番目に変更されている。

【立地】

東御市から地蔵峠を越えて群馬県嬬恋村鹿沢に通じる県道94号線の途中の奈良原集落の西側「鷲尾山」の山頂に築かれている。比高は麓を流れる所沢川より約150m程度である。

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奈良原集落からの鷲尾城遠景。右のピークが主郭。

【城主・城歴】

立地から祢津氏の本拠地である祢津下の城・上の城の詰めの城と考えられてきたが、簡素な縄張で改修された跡もないので祢津氏に属する在地土豪の城であったようだ。

大正十一年発刊の「小県郡史」には鷲尾城址として「祢津村新張區(ねつむらみはりく)小字楢原の西山なる鷲尾の山上にある山城なり。麓より登ること約五町にして本郭に至る。本郭は東西十間、南北一町。二郭は東西狭き處にて五間廣き處にて十間、南北に二町に亘り段あり。城跡中堀切二條あり。石垣の残るあり。先なるを鷲尾城といひ、後なるを萩城(はぎのしろ)といふ。新張の聚楽より一里十町の山奥にして僻阪の地たり。所傳を聞かず」とある。

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最近東斜面全体が伐木されたようだ。比高100mぐらいなら直登でも何とかなりそうと腹を決めて登る。

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藪の直登も厄介だが、禿山の急斜面の直登も掴む枝や木が無いので「転落注意」。

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「ういやつ」のジムニー君がゴミのように見える高さである・・(汗)

何だかんだ20分間急斜面を直登して二郭へ到達。尾根部分も伐木されていて遺構が鮮明に見易くなっていたのは有難いのだが、来年の夏は藪化必死であろう。そうでなくとも斜面に蔓延る棘科の植物に刺されまくって直登したので「こりゃ痛そう・・」

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二郭南端の岩を利用したと思われる木戸。ここが城域の南限らしい。

【城跡】

段差のある郭を二つ繋げ、主郭の前後を堀切で断ち切った簡素な縄張の山城である。小県郡史(ちいさがたぐんし)では、主郭を「萩城」南側の二の郭を「鷲尾城」と記載しているが連続しているので一つの城であろう。南限には岩を利用した木戸が設けられ、北側の鞍部方面にも天然の岩石を削り出して防御構造としている。

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木戸の南側の削平地。

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木戸側より見た二の郭。削平は曖昧だが結構な広さだ。

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伐木されたおかげで眼下に奈良原集落が良く見渡せる。

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二の郭と主郭の間には高低差を利用した堀切があるが短い。

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主郭側より見下ろした堀切。かなり浅くなってしまったようだがこの城では最も大きな堀切である。

主郭は堀切側に土塁の遮蔽を付けて二段の長方形を成している。北側には岩で虎口を作り更にその先に堀切を穿っている。

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主郭と南の堀切側の遮蔽土塁

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北側より遮蔽土塁を撮影

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本郭北側の虎口。左右を土塁と岩石で守っているのが分かる。

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虎口を北側より撮影。小さな山城だけど上出来だネ(笑)

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虎口を抜けると落差を利用した岩盤堀切。結構鋭い。

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堀切の先は岩が剥き出しの痩せ尾根が続く。

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痩せ尾根の北の先にある岩盤堀切。ここまでが城域であろう。

さて、如何でしたでしょうか?

在地土豪の簡単な物見または逃げ込み城的な簡素な作りですが、こんな高地集落にも城が必要だったとは驚きです。

それにしても6年も7年も放置した甲斐があってか、伐木されてスッキリした遺構が見れて良かった。

結論として、「いつ行くの?」   「今でしょ!」  (古いなあー 笑)

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何とご褒美には城跡から「富士山」が拝めましたよ!


≪鷲尾城≫ (わしおじょう 萩城)

標高:1236mm 比高:150m (所沢川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:東御市新張奈良原
攻城日:2017年12月3日
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:20分 駐車場:墓地の駐車場借用(墓地までは軽自動車じゃないと無理かも)
見どころ:堀切、土塁、眺望
注意事項:伐木用の作業道が途中まであるが、最後は斜面を直登する。
参考文献:「信濃の山城と館③上田小県編 宮坂武男著」 「小県郡史」(大正十五年)
付近の城址:祢津支城、祢津下の城、祢津上の城、矢立城など

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まあ、こんな感じかしら。

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場所はここです。





Posted on 2017/12/10 Sun. 11:17 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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