らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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只今、勉強中につき・・  

◆聖徳太子じゃあるまいし、同時に色々とキャパの無い頭に詰め込むのは無理かと・・◆

「知ったかぶり」が良くないのは当然なのだが、同じように勢いに任せて何の予習も無しに城址巡りをするのはどうかと思う・・(汗)

さりとて、中世城郭や在地国衆・武家に関する専門書はなかなか高くて、小遣い削る程度の覚悟では到底追いつけない散財であるのも事実であろう・・・。

だが、それでも「武士は食わねど高楊枝」の志を持ち、この趣味に邁進するのが平民の心意気であろうか・・・(笑)

信濃小笠原氏①

信濃の室町時代~戦国時代を語るには、信濃の守護であった小笠原氏を知っておかねばなるまい。しかし、この一族、意外と知られていないケースが多いのも事実であろう。

井川城①
府中小笠原家の本城は清宗の時に井川城⇒林城へ移したと伝わる。(写真は井川城跡に唯一残る土塁)

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府中・鈴岡・松尾の三家に分裂した小笠原家は天文三年頃に府中の長棟によってようやく統一された。(写真は林大城)

最終的に、豊前小倉藩、越前勝山藩として生き残った小笠原家の真実に迫る一冊。感想はいかに・・・。

中塔城①
信玄によって駆逐された信濃守護の小笠原長時の最後の籠城戦の舞台となった中塔城。


【障子掘の遺構が発掘によって明らかにされた芋川氏館の真実に迫る】

北信濃の国衆の芋川氏居館(上水内郡飯綱町)の発掘調査は、2002年~2014年まで4回実施されている。その結果、一辺60mの方形館で周囲を上巾8mの堀が周囲を囲んでいたことが判明した。

芋川氏①

そして城館を囲む堀の堀底には「障子堀」が確認されたのである。

芋川氏館①
2014年の発掘調査を受けて新設された現地説明板。

芋川氏②
2004年の第3次発掘報告書。

芋川氏③
東堀の堀底の障子堀の写真の掲載されている第4次発掘調査報告書。

素人の目視による城跡踏査は限界があるが、専門家による発掘調査結果には大抵新しい発見がある。

芋川氏館②
芋川氏居館跡の遺構として残る森家の北西の敷地の土塁に刺さる古い標柱。

芋川氏居館跡については、しっかりお勉強してから記事にしたいと思いますw

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Posted on 2017/06/11 Sun. 22:10 [edit]

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碓氷峠で発見されたという陣城を訪ねて  

◆時間をかけて検証する必要があると思うが・・◆

5月13日、碓氷峠で陣城の遺構が発見されたというニュースが全国を駆け巡った。twitterのTLはその話題で持ちきりだった。
「真田昌幸らの北条攻略拠点か、「陣城」跡を発見

豊臣方の小田原攻め(1590)における兵站補給基地として築城されたのではないか?と推定されており、昨年の真田丸効果から続く山城ブームも拍車がかかりそうな発見である。

そんな話を耳にしちゃうと、居ても立ってもいられない性分なので、本日は碓氷峠へ出陣したのでありますw

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この日は横川から碓氷峠を走る「安政の遠足」なる行事があるとは知らず、しかもそのゴールが熊野皇大神社だとは・・(汗)

仮装行列遠足(?)で賑わう峠の頂上から5分ほど下ると中山道との分岐点になる。
新聞記事によると、陣城は熊野皇大神社から東へ250m付近なので、この付近になる。

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何の気なしにこの分岐点を中山道方面に向かうのだが・・・

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「長坂」という看板に沿って中山道を進むのだが、城域はこの分岐から南の三角地帯だと後で知ったのである・・・(笑)

中山道を用心深く下るとすぐに「あそこに見えるは、土塁でしょうか、それとも堀切跡でしょうか・・・」

深く霧が巻く悪天候の中であったが、嗅覚という恐ろしいビョーキがその存在に気が付く。

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「ここなのか?」

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新聞記事の写真の箇所はここらしい。

場所の特定が極めて疑問なので、霧雨の中を隅から隅まで歩き回ってみた。

陣城の定義がイマイチ曖昧なので、自分としての判断は「山城の遺構に違いない」との結論である。

碓氷峠陣城跡か①
現地を歩いた感覚で思い出しながら描いた見取図。こんな感じであろうか。

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城の北側の一段下を中山道(旧道)が通る。

【ここでいいのか?】

記事に書いてあるような楕円形とは言い難いし、竪堀8条も見つけることは出来なかった・・・・。多少墓地として改変されているが、叩き土で背後を固めた郭が2ヶ所あり、その西側は箱掘のような巨大な二重堀切が沢筋まで下りている。

おまけにお「城の虎口は桝形?」

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城域西側の巨大な箱掘。天正壬午の乱の時の北条氏の補給基地の可能性は否定できないのであろうか?

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郭4背後のL字土塁。

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郭1と郭4の間は堀切に近い形で遮断されているが、その先は曖昧な平郭となっている。

ここでいいのか?という疑問もさることながら、安易に「豊臣方の陣城」と決めつけてしまっても良いものであろうか。

あらゆる可能性を想定しながらの作業は慌てる必要などなかろうかと・・。

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宮坂武男氏も言うように、まだまだ未発見の山城は多いようですネ(笑)

いずれまた再調査に訪れてみたいと思いますw

Posted on 2017/05/14 Sun. 23:29 [edit]

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地蔵峠長城塁壁への問題提起  

◆中世の遺構であるという判断には慎重でありたい◆

上田市真田町と長野市松代町を結ぶ県道35号線は、古来より「松代街道」と呼ばれており、戦国時代は北信濃の川中島と東信濃の真田郷を結ぶ戦略上とても重要な軍用道であり、江戸時代から明治維新にかけては地場の生活道路として住人が多く利用したという。(幕末に活躍した松代藩士の佐久間象山は、上田の大日堂の活文禅師の教えを乞うためにこの街道を馬で通ったという)

この街道の境目の峠は「地蔵峠」(じぞうとうげ)と呼ばれ、現在県道35号線の走る峠は「新地蔵峠」、それ以前の旧道の峠は「地蔵峠」と呼ばれ、ルートがいささか異なっている。

地蔵峠付近の地図
今回調査した「地蔵峠の長城塁壁」とその周辺の地図(国土地理院1/25000に加筆)

【地蔵峠長城塁壁とは】

以前より、「地蔵峠には峠を守る戦国時代の出城のような遺構がある」との情報がありマニアの間では噂になっていた。場所は不明であったが、6年前に小生も旧地蔵峠周辺を探索したがそれらしき遺構を発見することは出来なかった・・・。

「ガセネタだったのだろうか?」・・・・この話はそれきり忘れていたのである。

ところが昨年、真田丸ブームに便乗するように(?)新規に大量発刊された真田氏関連本を立ち読みしている最中に、偶然「地蔵峠の長城塁壁」の記事を見つけ購入した次第である。

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2015年11月、宝島社より発刊された

この本のP73に「真田郷を守る西の防衛線 地蔵峠の長城塁壁」の記事と藤井尚夫氏の縄張図が掲載されている。

著者の二宮博志氏は「お城ジオラマ復元堂城郭復元マイスター」として全国区であり、城郭復元モデルの作製や、各地での講演会活動等に多忙を極める城郭研究のスペシャリストである。小生もその活動には心より尊敬の念を抱いている。

なので、地蔵峠の長城塁壁に関しては、小生も何の疑問も持たずに現地へ向かうことにした・・・・。

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第一次調査として向かった2016年11月29日は予想外の雪で断念。林道から見上げる塁壁は遺構を確証するに充分だった。

地蔵峠の長城塁壁
藤井尚夫氏の認定の遺構という前提。「真田三代 名城と合戦の秘密」(二宮博志著 2015年) P75の縄張図を引用転載。

【2016年11月29日 第一次確認作業】

場所の特定作業も含めて新地蔵峠から脇の林道に突入したが、数日前の降雪が予想外に積もっていたために遺構への立ち入りは諦め、周辺の間道の調査のみで終了した。
林道から見上げる塁壁は確かに迫力があったので、雪解けの調査が待ち遠しかった。

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垂直に近い壁(切岸)には、違和感よりもワクワク感が勝っていた・・・

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なるほど林道からは、藤井尚夫氏が作成した縄張図と同じ景色を仰ぎ見る事が出来る。

【2017年4月16日 第二次遺構調査】

満を持して雪解けの4月に再調査に入った。せっかくなので、ていぴす殿にも同行頂き全容解明をお手伝い頂く事となった。
縄張図を参照しながら、長城塁壁の西側からアタックを開始した我らは、腰の高さまで生い茂る熊笹を掻き分けて長城の後方になる小山の乗り越しまで登る。道形が残っているが、近世の耕作地に付随したもので、古道とは考えにくい。

地蔵峠長城塁壁探索①
地図上の直線破線はGPS測定用。小さな赤い点が点在するのは我々が歩いた道のりの記録。

林道から見えた立派な塁壁を探して斜面一面に生い茂る熊笹の藪の中をウロウロ。
ヘビが出回る季節に入っているので、もちろんスパイクピン付き長靴を履き膝下をガードしている。

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ここが虎口らしい。(ていぴす殿の立っている場所)

我々は昨年末に岩原古城の探訪時に熊笹との戦いを延々と1時間以上続けた経験があるので、この程度の笹薮には驚かない。あっちゃこっちゃ地図と睨めっこしながらようやく辿り着いた。

「んで、ここか??」

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林道側に対してせり上がるように盛られた土塁状の土手。(単なる笹薮に見えたらゴメンナサイ・・笑)

確かに縄張図の土塁と横堀(?)のラインはここらしい。

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引いて全体を撮影し補助線を加えると、こんな感じになる。

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虎口の拡大写真はこんな感じ。

土塁と横堀を辿ってみる。人工の工作物には違いないが、中世の遺構としては何かがおかしい。

「堀の中に轍(わだち)がありますねえ・・・」ていぴす殿が地面の笹薮を掻き分けて指摘する。

我々の目は「節穴」ということを自覚していても、土塁はこの作業道を開けた時に出来たものと推定された・・・。
そしてこの土塁と横堀を辿って東に下ると、林道に接続していたのである。

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地面には林業の作業道として使われていたと思われる轍(わだち)の跡が確認された。

では、百歩譲って、遺構の横堀に作業道を開けたという解釈があるかもしれない。だとしても、あの叩き土塁は整然としていてとても不自然なのである。

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桝形虎口の内部。窪地になっていて池の跡のようにも見える。

さて、肝心の枡形の内部と高台については自然地形に近いものであり、人の手が加えられたとは思えなかった。

繰り返すようだが、我々の目はアマチュアであり、節穴である・・(笑)

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窪地の横の高台。そう言われてみれば、そんな形に見えなくもないが・・・。

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高台の奥は地山となって奥の丘陵(小山)に続いている。

ここに砦を作る必要性について検証してみた。

●武田氏時代のノロシ山(844m)からの避難経路の途中の防衛ライン
●同じく武田時代の烽火台と推定される高遠山(1221m)の詰め所
●旧地蔵峠から保科地区(霜台城)への脇道の監視所

二宮氏は真田氏との関連を指摘するが、もしこの場所が長城塁壁なる砦であれば武田氏時代のもので、真田時代のそれは「猿ヶ城」と「弥六城」という見方が妥当であるような気がする。

今回調査した「地蔵峠の長城塁壁」について我々は肯定も否定も出来る立場には無い。
ここを戦国時代の遺構として世間に公表するには、証拠が足りないし現地調査もまだまだ不十分である。

長野県の中世城館館のリストにも載っていないし、宮坂武男氏もこの場所に関しては記事にしていない。

問題提起としてアマチュアの小生が批判覚悟でこの検証記事を載せておきます。

もしよかったら訪問して感想をお願いします。(夏場は訪問不可だと思われます)

そしてわれわれの目が節穴であったことを証明して欲しい・・・・(笑)

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長城塁壁の真実は何処に・・・。

Posted on 2017/04/28 Fri. 13:03 [edit]

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忌中  

先日、父が亡くなり喪に服しております。

忌中につき、2月22日までブログの更新は控えさせていただきます。

何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

by らんまる攻城戦記管理人

閻魔大王1

Posted on 2017/01/13 Fri. 09:09 [edit]

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0102

2017年の新春によせて  

◆山城探訪を始めてもうすぐ10年~小生の原点の城◆

新年あけましておめでとうございます。

毎年の事ながら、なかなか記事がアップ出来ずに「じれったい」思いをしておりますが、平にご容赦ください・・(笑)

実は小生、山城巡りをスタートしたのが2007年8月15日なので、今年で10年目となります。正確には数えた事がありませんが、今までに訪れた城は居館跡も含めて1,000を超えているものと思われます・・・。

全国を駆け巡る中世城郭の諸先輩方の足元には到底及ばないのですが、「千里の道も一歩より」と始めた山城探訪。

松尾城201612 (1)

20116年12月31日の大晦日ではあったが、ふと思い立って第一歩を記した松尾城を訪ねてみた。

松尾城201612 (4)
松尾城の登り口の日向畑遺跡周辺の石積み。10年前は崩れかけていたが、きれいに積みなおされている。

松尾城201612 (5)
登り口の日向畑遺跡は真田幸隆以前の真田氏の火葬骨を埋葬した墳墓跡らしい事が判明しているという。

では、ぼちぼち登城してみますか。

松尾城201612 (6)
最初に現れる秋葉社。まだまだ序の口ですw

松尾城201612 (8)
さらに高度を上げていくと強烈な岩場の連鎖。(岩尾根の左側にチャンと登山道があるのでご安心ください)

松尾城201612 (9)
尾根の両サイドはかなり傾斜がキツく、攻め上がるとしてもこの狭い尾根筋だけである。

さて、急斜面を息を切らして登っていくと、第一の城門(郭5)、その先に第二の城門(郭3)の石積みが威嚇してくる。圧巻の場面だ。

松尾城201612 (10)
郭5の石積み。中央に虎口が開いている。

松尾城201612 (13)
郭3の城門。侵入者を許さない威厳を持っているようだ。

松尾城201612 (14)
「馬場」と呼ばれる郭2。ここまでゆっくり登って約20分。

では、主郭と大堀切のご案内を。

松尾城201612 (15)
東側の段郭から見た主郭の石積み。社の設置で多少改変されているが往時の迫力そのままである。

松尾城201612 (16)
フォロワーさんが「屋代の鷲尾城に似ている」とおっしゃっていたが、同じころの同じドクトリンの技法には違いない。

松尾城201612 (18)
主郭の北側背後の石積み。平積みの石垣は100cm~150cmぐらいの高さで限界になる。

松尾城201612 (20)
周囲を総石積みで囲った主郭は圧巻である。

松尾城201612 (21)
主郭の内側から見た北側の石積み。背後の山に遠見番所がある。ここから片道60分程度で辿り着ける。

松尾城201612 (26)
主郭背後の上巾15mを誇る大堀切。長さ、深さ、角度とも申し分ない一級品である。

松尾城201612 (23)
東斜面を刻む大堀切。この先に水の手と搦め手道があり、麓の日向の居館に続いている。

松尾城201612 (27)
大堀切の対岸の北側からみた主郭背後。土留めの石積みが斜面を覆っていたようだ。

松尾城201612 (31)
北尾根は遠見番所へと続いている。最近、遠見番所巡りが流行っているようだが、充分な装備と体力で臨んで欲しい。

小生の山城のルーツは紛れもなくこの松尾城(松尾古城)である。

この時の大河ドラマ「風林火山」が好きな上司の命令で、なんとなく調査に出掛けたのが運命の出逢いとなったのである。

時々、慢心したり興味が持てなくなった時にここを訪れて当時の「想い」を振り返り、再びまだ見ぬ山城探訪への情熱と活力を戴くのである。

松尾城201612 (40)

≪松尾城≫ (まつおじょう 松尾古城)

標高:1033.7m 比高:211m
築城年代:不明
築城・居住者:真田氏
場所:上田市真田町横沢字日向
攻城日:207年8月15日、2012年4月8日、2016年12月31日 
お勧め度:★★★★★(満点)
城跡までの所要時間:20分
見どころ:郭、大堀切、石積の堡塁など
その他:いざゆかん、遠見番所へ・・(笑) 往復2時間孤独との戦いを楽しみましょう!!
参考文献:「図解山城探訪 第三集 上田小県資料編 宮坂武男著」「信州の古城」

松尾城201612 (1)

今年1年の皆さんのご多幸を草葉の陰からお祈りしております・・・(って、おい!縁起でもねえだろ!・・・笑)

Posted on 2017/01/02 Mon. 10:18 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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