らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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西牧氏終焉の地という幻の「殿様小屋」の遺構を求めて  

◆前人未到の伝説の地に果たして遺構は存在するのか?◆

朝廷に良質な信濃の馬を献上する牧場経営の手腕に優れた東信濃の海野を拠点とする滋野一族(嫡流は海野氏・祢津氏・望月氏)は、上野国や筑摩・安曇野にも一族が「牧」を作って進出し隆盛を極めたという。

深志・安曇野方面に進出した滋野氏の傍流としては、光城の光氏、塔ノ原城の塔ノ原氏 会田虚空蔵山城の会田氏・岩下氏、北条城の西牧氏あたりが土着した豪族として名を残している。

今回、我ら信濃先方衆が目指したのは、梓川流域を支配しながら、時の権力者であった小笠原氏によって排除された滋野氏系の西牧氏最期の拠点となった「殿様小屋」である。

【さて、行きましょうか】

稲核集落に車を止めて、我らは梓川の対岸を目指します。ここで、思いがけない事実に茫然自失となります。

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殿様小屋に向かうには、稲核集落から梓川に架かる吊り橋を渡る必要があるのだが、床板の木が腐っていて通行禁止。

ダム湖を横断する吊橋は、かなり頑強にみえるのだが、肝心の床板は所々欠けてボルトも腐食し「自己責任」。

欄干につかまりながら何とか半分まで渡りかけたものの、「死して屍拾うものなし」という格言に恐れ慄き撤退する。

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一見何の変哲もなさそうな吊り橋だが、昭和四十年代の開通以降、何のメンテナンスもしていないので、ヤバ過ぎ。

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この高さから落下して生きて帰れるとも思えないし・・・(汗)・・・撮影してる自分も可笑しいでしょ・・・(汗)

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「この橋渡るべからず」なので、橋の端を慎重に戻る「ていぴす」殿。鉄骨の無い橋の中央は腐った枕木を踏み外せば「サヨナラ」。

「安全は全てに優先する!!」 我ら信濃先方衆のスローガンでもある。

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この場所で撤収を決意したのはいいが、対岸に渡る方法はあるのだろうか?

【水殿ダム経由でトライしてみた】

吊り橋の下流にもう一本対岸に渡る橋があるようだが、対岸の道路が破線表示されているので、まともな道では無いのであろう。
なので、上流側に設置された水殿ダム(みどのだむ)の管理道路が通れることを信じてトライしてみた。

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水殿ダムはアーチ式コンクリートダムで、安曇3ダム(奈川度・水殿・稲核)の中間を担うダムである。

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ダムの下流には、先ほど顔面真っ青になりながら半分まで渡った吊り橋がよく見えますw

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水殿ダムのダム湖。

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中世城郭ファンの中には隠れダムファンも多く、小生もその一人だと思われる・・(笑)

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高さ95.5m。ダムの直下に発電所4基を設置したため、洪水吐き(放水口)は右岸にスキージャンプ式を設置した珍しい形式だ。

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スキージャンプ式の洪水吐き。放水される場面を見てみたいものですw

おっと、いかんいかん、ダムを熱く語る記事になっておるではないか・・・(汗)

梓川の安曇3ダムについては、また取材もかねて別の機会にご披露を・・・えっ、いらないの?・・(笑)


【栃沢入口を見張る砦に遭遇】

水殿ダムの上部は遊歩道として開放されていて対岸にも渡れたのである。かつては、我々が断念した吊り橋も含めて周遊出来る遊歩道だったらしいが、訪れる人は釣り人ぐらいで廃れてしまい。東京電力は周辺の歩道整備を放置したようである。

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左岸の遊歩道は時々ダムの堆積土や流木の廃棄場所への作業道として使われる程度で、廃道に近いものだ。

我々は水殿ダムから左岸の廃道を15分ほど歩き、栃沢への入口の尾根に着いた。かつてはこの辺りの集落の生業は「杣」(そま)であり、林業を中心とした生活で山と共に暮らしが成り立っていたので、かなり深い沢や険しい山の斜面にも道が入っていたと推定される。

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栃沢に存在すると言われる「隠れ小屋」「殿様小屋」への登り口。看板が怪しい光を放つ異様な光景である・・・(汗)

かすかに残る杣人(そまびと)の残した栃沢への道を少し登ると、明らかに人工的に手を加えた削平地と土塁が出現した。

「なるほど、これが西牧氏が急造した栃沢の見張小屋(仮称)かもしれない・・」 宮坂武男氏もここの遺構には触れていない。

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中央を石積みの登り土塁で区分けされた平場。小屋掛けが十分可能なスペースが二つ存在している。

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往時のものかは判断が難しい石積み。

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石積みは土塁状となって削平地を遮断しているのが分かる。

周囲の雑木林を伐り払えば、南向きなので小屋掛けに適しているし、栃沢への侵入を見張るにも最適の場所である。
断定することは避けたいが、ここに西牧氏が砦を作って小笠原氏の残党狩りに備えたとしても不思議はない。

しかし、この先は藪が酷くGPSの受信もままならない状態で2時間近い藪漕ぎ登山は遭難の危険大と判断し、11月に再挑戦ということで撤収を決定した。

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稲核集落から見た殿様小屋方面。

果たして次回我々は、西牧氏が捲土重来を期し、最後に籠ったという「殿様小屋」の場所を特定することが出来るのだろうか?

それよりも、果たして我々は生還することが可能なのであろうか・・・・(汗)

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我々が探し求める殿様小屋はこのあたりと推定されるが、誰も行った事が無いので不明のままである。


【おまけショット】

最初に渡れずに途中で引き返した吊り橋の左岸の風景を撮影してみました。

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渡れそうなんですが・・・やめてください。

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一休さんのとんち問答ではありませんので、「真ん中」はもっと危険です

水殿ダムの左岸には釣り人用の「水殿隧道」(トンネル)があり、その先に中山橋という吊り橋があります。この吊り橋は辛うじて補修されているので渡れますが、それでも十分に注意していただくと、絶景とスリルが味わえます。

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ここからトンネルに入ります。(水殿隧道)

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トンネルを抜けると中山橋(吊り橋)が見えます。

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この吊り橋は補修されてある「はし」(端)を歩かないと危険です・・(笑)

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所々に穴が開いているので気を付けましょう!

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橋の上から水殿ダム方面を撮影。

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橋の上から水殿川を撮影。この川の上流に徳本峠があり、そこを越えると上高地に通じます。

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10月下旬から11月上旬あたりが紅葉に染まるのでお勧めですw

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水殿ダムから見た中山橋。

●訪問日:2017年10月9日








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Posted on 2017/10/22 Sun. 11:56 [edit]

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松田館(千曲市八幡 長野県宝指定)焼失の衝撃・・・  

◆未来に語り継ぐべき貴重な遺構が人災により焼失◆

朝起きて、何となくtwitterをチェックしていたら、平山優先生の「衝撃的なニュースが!長野県千曲市八幡にある歴史的な神主屋敷「松田館」(長野県宝)が焼失。・・・・・・・後略」

「???」 まさか、冗談でしょ・・・。

ネットの動画ニュースで、紅蓮の炎に包まれ焼け落ちる「松田館」を見て、茫然自失。 なんてこった・・・(涙)

全国版のテレビでも取り上げられていた。信じたくないが、事実であった。

松田館 (44)
今年3月の見学会で公開されたときの母屋。今回の火事で跡形もなく焼け落ちてしまった。

来年には修復工事が終わり、一般公開予定だったという。

小生は、今年の三月に一部公開の時に見学させていただいたが、結局、その時が最後の見納めになってしまった・・・。

詳細は⇒「松田館2」を参照ください。

9月6日午後7時頃に出火し、約3時間半後に消し止められたが、県宝の主屋と斎館など四棟を焼失。出火原因は警察と消防で調査中だが、出火当時、ハチの巣の駆除を千曲市より委託された男性が敷地内で火を使って除去作業をしていたという。

松田館 (11)
永遠に見ることが出来なくなった儀式のための湯殿。(主屋)

自然災害による倒壊ならば、仕方がないと諦めもつくだろうが、完全な人災である。未然に防げた事故である。

ご覧の通り、主屋はほぼ全面が茅葺(かやぶき)の屋根。火を付けたらどうなるかなんて、子供でも分かりそうなものである。

千曲市の管理監督もお粗末で、税金を5億円近く投入した史跡整備事業だということが全く周知徹底されていない。

所詮は他人事。この御屋敷の価値を認識していた方が果たして何人いたのか?消火栓、スプリンクラー、放水銃など、最悪の事態を想定した防災設備があれば、延焼は喰い止められたかもしれない。今となっては後の祭りである。

【火災後の松田館】

いても立ってもいられず、昼休みに現地へ飛んでみた。

松田館 (87)
在りし日の松田館(今年3月撮影)

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焼け跡の遠望。新調された土塀の向こうにあるはずの主屋も斎館も見えなかった。

木材の焼け爛れた臭いが、道路を隔てた武水分神社まで拡散して、炎の激しさを物語っている。

警察・消防の現場検証が続き、冠木門・長屋門は固く閉ざされキープアウトテープでシャットアウト。報道陣も何社か門の前で待機している。

僅かに開いた冠木門(松田邸正門)から、ワンチャンスで撮影を試みた。

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正門の正面の斎館。ああ、なんという姿に・・。

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商売柄、お巡りさんとか消防士さんとかは平気なのですが、さすがに緊張してパチリ。

残念ながら、主屋は敷地内に張れないので撮影出来ず。なんかねえ、無性に悲しかった。

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神主の松田さん宅は斎館の隣でしたが、辛うじて延焼の難を逃れたようです。ホッとしました。

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長屋門の奥に主屋の焼け爛れた残骸が見える。あの雄姿をもう見る事は出来ないのだ。

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主屋の茅葺屋根の燃え残りの拡大。二百年以上風雪や雷、戦災にも耐えてきたのに、一瞬で消え去るとは。

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辛うじて骨格と屋根が燃え残った斎館(南側道路より撮影)

●今回焼失した主な建物

 名称:長野県宝「松田家住宅主屋」(まつだけじゅうたくおもや)

 指定:平成16年11月22日
 概要:主屋の建築年代は不明だが、建築部材の仕上げや建物の特徴から18世紀代の建築と推定される。
     19世紀前期に現在のように改造されたものと考えられる

 建物の特徴として、間口十二間語釈、奥行四間の細長い木造平屋建、茅葺(かやぶき)の建物で、間口中央から斎館に向かって 凸字形に突き出した平面形となっている。
 主屋の平面は、前後に五室が並ぶ形式で、土間が表から裏まで通る一般の民家とは異なった間取りとなっている。天井が低く、  差鴨居(さしがもい)や長押(なげし)を用いない武家住宅のような趣がある。

 名称:松長野県宝「田家斎館」(まつだけさいかん)

 指定:平成26年2月28日
 概要:文久元年(1861)に再建された間口7間、奥行3間半の寄棟造の建物で、神殿が設けられた儀礼を主に行った。
    現在も9月14日の仲秋祭や大頭祭の頭殿さんの出達儀式の場として使われている。

松田館 (6)
もう見る事の出来ない主屋の屋根。

私たちは、先代の人々が命懸けで守り続け、未来の子供たちに引き継ぐべく貴重な遺構を、あり得ない凡ミスで灰にしてしまった。

悔やんでも悔やみきれない痛恨のエラーである。

同じ不幸を繰り返さない為にも、今一度皆が全力で文化財を守り抜く誓いを立てたいと思う。



Posted on 2017/09/07 Thu. 22:15 [edit]

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美濃国の境目の城 弾丸ツアー  

◆石垣の城の美しさを再認識した田舎先方衆の無謀な旅◆

「高石垣の上に建てられた白壁の塔層建築物に魅せられて・・」

中世城郭ファンのほとんどの方は、近世城郭の趣味からある日突然に「土の城スイッチ」が無造作に入り転じたものだと推定されます。残念ながら、きわめて明確で明朗な基礎を含めた建築工作物の趣味が、不完全で曖昧な土木工事の趣味へと移行するのかそのメカニズムは明らかになっておりません・・・・(汗)

そんな過程で土の城に魅せられた我ら信濃先方衆ですが、「石垣の城を愛でる」という原点回帰の弾丸ツアーを実施しました・・(笑)

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美濃を代表する美しい石垣の要塞「苗木城」。

【何故弾丸ツアーになったのか?】

5年もコンビ組んでる信濃先方衆ではあるが、納涼会を一度もやったことが無いので、この夏は泊りがけで開催しましょうという話になり、塩尻市の「信州健康ランド」で予約。温泉に浸って飲み会だけってのもアホらしいので、当日何処か城攻めしますか、という話になった。高速道移動で行けて18:00までには帰還出来る遠征場所ということで、奥三河か美濃が候補となり、最終的には美濃となった。

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十年ぶりの岩村城。相方の「ていぴすさん」が未訪との事でリストに加わった。

美濃といっても広く、候補としては信長公入城450年祭りと山麓居館跡の発掘調査を行っている「岐阜城」、先日の大雨で天主の鯱が落下して破損した状態が今しか見れない「犬山城」、小生のハンドルネームのルーツである森一族の「兼山城」、城館一体型で遠山の金さんヨロシク「明智城」、美濃に来たらここは外せないと評判の「苗木城」、織田軍の岩村城攻めの前線基地「小里城」。

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恒ちゃん(池田恒興)が設計・普請したという未完の不等辺五角形の小里城山城天守台。未完のままで放置され現在に至る。

最近ブロ友として友好条約を締結した美濃国在住のお城ブロガー「久太郎の戦国城めぐり」の管理人である久太郎様にアドバイスを求めたところ、苗木城を起点とした場合、移動距離と時間に難があり、特に岐阜城、犬山城、兼山城は再考を要し、明智城はこの時期は藪に覆われているので外すのが賢明との回答でした。

そこで、我ら信濃先方衆、弾丸ツアーの行く先として検討に検討を重ねた結果、「苗木城」⇒「岩村城」⇒「小里新城」⇒「小里城」⇒「小里城山城」⇒「鶴ヶ城」⇒「信州健康ランド」と相成りました・・・(笑)

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小里城の麓の居館跡の重厚な虎口。

準備万端で意気揚々と出掛けた当日、朝8:30には苗木城に到着。そこまでは良かったのだが、あまりの素晴らしさに感動してしまい、城域を端から端まで十分に堪能した挙句に歴史資料館まで見学するという暴挙に出て11:00まで滞在。次の岩村城も中世の山城の遺構を探索し資料館まで見てしまい昼飯食べたら14:30という有り様。小里城山城は比高約180mをイッキに登り16:00に離脱して宴会場の信州健康ランドへリターンし18:00には現地着。

「何やってんだ、俺たち・・・・」(笑)

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まあ、時にはスケジュール通り行かない事もあるさ、と乾杯!(爆)

次の日は予定してなかったのですが、せっかくなので近世城郭続きの縁で松本城へ。外堀の発掘調査現場も見学しました。で、何年かぶりで天主閣まで登りましたよ。

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改めて真面目に見ると、松本城の連立天主閣の美しさには脱帽ですw

最初に飲み会ありきという設定だったので、美濃国への遠征はかなり無理がありましたが、久々の石垣の城には感嘆しきり。
石垣に魅せられなければ、土の城への切替スイッチONも無かったんだろうな・・なんて改めて思います。

分かっていてもスタンプラリーが出来ない体質の信濃先方衆・・・・それはそれで妙に納得しておりますw

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苗木城の天主台から見下ろした大矢倉。城フリークにしか理解できない言葉にならない造形美がそこにありました。

今回の訪問先が記事になるのはいつでしょうか?お約束など出来るものではございません・・・(笑)

Posted on 2017/08/12 Sat. 23:03 [edit]

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只今、勉強中につき・・  

◆聖徳太子じゃあるまいし、同時に色々とキャパの無い頭に詰め込むのは無理かと・・◆

「知ったかぶり」が良くないのは当然なのだが、同じように勢いに任せて何の予習も無しに城址巡りをするのはどうかと思う・・(汗)

さりとて、中世城郭や在地国衆・武家に関する専門書はなかなか高くて、小遣い削る程度の覚悟では到底追いつけない散財であるのも事実であろう・・・。

だが、それでも「武士は食わねど高楊枝」の志を持ち、この趣味に邁進するのが平民の心意気であろうか・・・(笑)

信濃小笠原氏①

信濃の室町時代~戦国時代を語るには、信濃の守護であった小笠原氏を知っておかねばなるまい。しかし、この一族、意外と知られていないケースが多いのも事実であろう。

井川城①
府中小笠原家の本城は清宗の時に井川城⇒林城へ移したと伝わる。(写真は井川城跡に唯一残る土塁)

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府中・鈴岡・松尾の三家に分裂した小笠原家は天文三年頃に府中の長棟によってようやく統一された。(写真は林大城)

最終的に、豊前小倉藩、越前勝山藩として生き残った小笠原家の真実に迫る一冊。感想はいかに・・・。

中塔城①
信玄によって駆逐された信濃守護の小笠原長時の最後の籠城戦の舞台となった中塔城。


【障子掘の遺構が発掘によって明らかにされた芋川氏館の真実に迫る】

北信濃の国衆の芋川氏居館(上水内郡飯綱町)の発掘調査は、2002年~2014年まで4回実施されている。その結果、一辺60mの方形館で周囲を上巾8mの堀が周囲を囲んでいたことが判明した。

芋川氏①

そして城館を囲む堀の堀底には「障子堀」が確認されたのである。

芋川氏館①
2014年の発掘調査を受けて新設された現地説明板。

芋川氏②
2004年の第3次発掘報告書。

芋川氏③
東堀の堀底の障子堀の写真の掲載されている第4次発掘調査報告書。

素人の目視による城跡踏査は限界があるが、専門家による発掘調査結果には大抵新しい発見がある。

芋川氏館②
芋川氏居館跡の遺構として残る森家の北西の敷地の土塁に刺さる古い標柱。

芋川氏居館跡については、しっかりお勉強してから記事にしたいと思いますw

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Posted on 2017/06/11 Sun. 22:10 [edit]

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碓氷峠で発見されたという陣城を訪ねて  

◆時間をかけて検証する必要があると思うが・・◆

5月13日、碓氷峠で陣城の遺構が発見されたというニュースが全国を駆け巡った。twitterのTLはその話題で持ちきりだった。
「真田昌幸らの北条攻略拠点か、「陣城」跡を発見

豊臣方の小田原攻め(1590)における兵站補給基地として築城されたのではないか?と推定されており、昨年の真田丸効果から続く山城ブームも拍車がかかりそうな発見である。

そんな話を耳にしちゃうと、居ても立ってもいられない性分なので、本日は碓氷峠へ出陣したのでありますw

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この日は横川から碓氷峠を走る「安政の遠足」なる行事があるとは知らず、しかもそのゴールが熊野皇大神社だとは・・(汗)

仮装行列遠足(?)で賑わう峠の頂上から5分ほど下ると中山道との分岐点になる。
新聞記事によると、陣城は熊野皇大神社から東へ250m付近なので、この付近になる。

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何の気なしにこの分岐点を中山道方面に向かうのだが・・・

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「長坂」という看板に沿って中山道を進むのだが、城域はこの分岐から南の三角地帯だと後で知ったのである・・・(笑)

中山道を用心深く下るとすぐに「あそこに見えるは、土塁でしょうか、それとも堀切跡でしょうか・・・」

深く霧が巻く悪天候の中であったが、嗅覚という恐ろしいビョーキがその存在に気が付く。

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「ここなのか?」

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新聞記事の写真の箇所はここらしい。

場所の特定が極めて疑問なので、霧雨の中を隅から隅まで歩き回ってみた。

陣城の定義がイマイチ曖昧なので、自分としての判断は「山城の遺構に違いない」との結論である。

碓氷峠陣城跡か①
現地を歩いた感覚で思い出しながら描いた見取図。こんな感じであろうか。

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城の北側の一段下を中山道(旧道)が通る。

【ここでいいのか?】

記事に書いてあるような楕円形とは言い難いし、竪堀8条も見つけることは出来なかった・・・・。多少墓地として改変されているが、叩き土で背後を固めた郭が2ヶ所あり、その西側は箱掘のような巨大な二重堀切が沢筋まで下りている。

おまけにお「城の虎口は桝形?」

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城域西側の巨大な箱掘。天正壬午の乱の時の北条氏の補給基地の可能性は否定できないのであろうか?

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郭4背後のL字土塁。

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郭1と郭4の間は堀切に近い形で遮断されているが、その先は曖昧な平郭となっている。

ここでいいのか?という疑問もさることながら、安易に「豊臣方の陣城」と決めつけてしまっても良いものであろうか。

あらゆる可能性を想定しながらの作業は慌てる必要などなかろうかと・・。

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宮坂武男氏も言うように、まだまだ未発見の山城は多いようですネ(笑)

いずれまた再調査に訪れてみたいと思いますw

Posted on 2017/05/14 Sun. 23:29 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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