らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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備前屋敷館 (北佐久郡軽井沢町追分)  

◆とうとう別荘が建ってしまった軽井沢町の館城◆

純粋に中世の城郭が好きな方は某国営放送局の大河ドラマ「真田丸」には、あまり興味がないらしい。

小生のように大河ドラマ「国盗り物語」を見て熱にうなされ、近世城郭を得て何十年か後に土の城のグルーピー(古いなあ)と化した者は、どうも雑念が多いようで、毎回日曜日ともならば、BSプレミアムで18:00、NHK総合で20:00、そして翌日録画版を見て感動するのだ・・・(笑)

笹洞城2015 (84)
室賀正武の詰めの城「笹洞城」(ささぼらじょう)の主郭は石積みが周回している。

さて、家康の密命を受けた室賀正武の運命はいかに・・・・

さあ、真田丸のうんちくは次のお楽しみとして、今回ご案内するのは避暑地として有名な軽井沢町にある備前屋敷館。

備前屋敷⑤
広大なレタス畑を通り過ぎて沢沿い台地の薄暗い林の中を進むと別荘地が現れる。「ここでいいのか?」

初日に訪問した時は生憎の雨降りで、入り組んだ地形で場所も適当に目星をつけた為に行き方も分からずに途中で車を捨てて歩いた。平日休みは無敵のジムニー号が使えず乗用車なので無理は出来ないのが辛い・・・(汗)

「なんだ、別荘地で舗装道路なら乗用車でもこれたじゃん・・・・(怒)」 いつもの事である・・・(笑)

次の瞬間、「って事は、居館跡地は別荘が建ってるとか・・・・まさか・・・・」 残念ながら嫌な予感は当たったのだ。

備前屋敷館⑥
舗装路を通り過ぎて振り返ると、堀形が確認出来るではないか・・・。

【立地】

国道18号線の追分宿の信号から南へ約1km入り「滝沢」という渓谷の段丘に面した台地に位置する。軽井沢町と御代田町の境界に位置し、ここから北は軽井沢なので、土地が空いていれば別荘地となってしまうようだ。居館跡が御代田町の地籍だったら救済されていたのかも?と思うが史跡にも指定されていないので、別荘が建っても文句は言えないのが辛い。

備前屋敷館2 (8)
改変された虎口と土橋。石積み仕様になったのはここが中世居館の跡だと知っていたのでしょうか。

【城主・城歴】 ※以下の文章は「信濃の山城と館①佐久編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)P311より引用

伝承で、土屋備前守が考えられている。記録が無くはっきりしないが、追分の土屋氏は」戦国期より存在していたようである。天文五年には土屋左近助秀吉の名があり、慶弔十五年には小諸城主戦国秀久より、追分の土屋市左衛門に対して発地村百三十貫文が宛行われている。また同人は大坂の役の時の佐久郡士の誓約書に署名があり、近世始めまで追分にいたことは確かなようである。

備前屋敷見取図 001
別荘が建てられ改変されてしまったが、居館を囲む堀と一部の土塁は残されている。

【城跡】

台地の縁を利用した方形居館で、周囲を幅7m~9mの堀が囲んでいる。西側は滝沢の天然の沢が自然の堀を形成している。
別荘の建築に伴い、虎口は破壊され車両通行用に土橋が拡幅されてしまい、往時の様子は分からない。ただ、西側と北側の堀に沿って土塁が残っているのが確認出来る。
宮坂武男氏が現地調査した平成十一年には、方形居館の南側の堀から道を挟んだ東側に土塁を伴う横堀の記載があり、今回確認するも別荘の庭の造成時で破壊されたらしく何も発見できなかった。居館とその周辺の堀形はいい形で残っているので、これ以上の改変が進まないことを願うばかりである。

備前屋敷館2 (6)
居館北側の堀。土塁の残存が確認出来る。

備前屋敷館2 (11)
居館東側の堀と縁の土塁跡。

備前屋敷館①
補助線をつけるとこんな感じ。堀は良好に残存している。

備前屋敷館②
南から虎口方面。

備前屋敷館③

しかし、別荘地で写真を撮るのはかなり危険な行為で、無人であればなおさらである。
「ここは中世の居館跡です」という看板でも立っていない限り、かなりヤバい。通報されるのは必至である・・・(汗)
平地の居館跡は体力は使わないが、余計な神経を使うのでドキドキものである。

備前屋敷館④
居館南側の堀は自然の断崖をうまく利用している。

備前屋敷館2 (2)
西の沢に深く落ちる南の堀。


≪備前屋敷館≫ (びぜんやしきやかた 備前林城)

標高:933m 比高:30m(滝沢より)
築城年代:不明
築城者・城主:土屋氏
場所:北佐久郡軽井沢町追分
訪問日:2016年3月9日、2016年3月18日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:-
見どころ:方形居館と周囲を囲む堀
周辺の城跡:油井中屋敷、たて茂沢城、十二平茂沢城など
注意事項:民家なのでプライバシー注意、別荘地でもあり不審者として通報される恐れあり。
参考文献:「信濃をめぐる境目の山城と館①佐久編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
※今回は史跡の場所は掲載しませんので悪しからず。

備前屋敷館2 (14)
軽井沢町と名が付くだけで別荘の価値が何十倍にもなるとは、この地区だけはまだまだバブルが続いているようだ。






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Posted on 2016/03/19 Sat. 08:00 [edit]

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袴腰狼煙台 (小諸市山浦)  

◆未だに研究の進まない狼煙台の謎◆

戦国時代における有力大名の領国統治において、「情報伝達」というのは重要なファクターであったはずだ。

領土拡大を推し進める戦国大名において、自国内における情報の収集と分析、敵対する境目の領土付近から送られる情報の集積と瞬時の判断は何よりも優先していたものと思われる。

「飛脚」「早馬」「狼煙」etc・・当時の限られた情報伝達ツールの中でも、狼煙(のろし)はそのスピードの速さと正確さゆえに長年使われてきたが、その詳細は依然として謎のままである。

「いつか狼煙台の謎に迫りたい・・」 そんな想いに悶々としながらご紹介する「袴腰狼煙台」(はかまごしのろしだい)

袴腰狼煙台 (1)
有り難い事に小型乗用車でも登れる舗装林道の途中にある。2台ぐらいは駐車スペースもある。

【立地】

小諸城の搦め手にある「水の手不明御門跡」(みずのてあかずごもんあと)から千曲川を挟んだ南西方向に位置する独立峯で、袴の腰板のような形からその名がつけられている。ここは御牧ヶ原台地の東端に位置し周囲の眺望は素晴らしい。穴城である小諸城の見張り台として機能していたとされ、武田統治時代には狼煙台が置かれたというのも頷ける立地である。

小諸城 (137)
小諸城の水の手不明御門跡から見た袴腰狼煙台とその周辺。

【城主・城歴】

所傳なく全く不明である。小諸城の防衛砦のひとつであったと考えられ、麓には西浦古城という根小屋があったと想定されるが詳細は分からない。

袴腰狼煙台①
南尾根の途中に堀切があったとされるが、確認出来なかった。

袴腰狼煙台 (5)
尾根伝いに道があるだけ。

袴腰狼煙台 (7)
途中で分岐するが、往時は左を巻いて郭に入ったものであろう。

【城跡】

「小諸市の眺望百選」として展望台の公園整備がされたようだが、現在では訪れる人も無くなったようだ。周囲を切岸で丁寧に削り、頂部は単郭としているが、南端が一段削り残しがあるので狼煙はここで挙げたものと思われる。

袴腰狼煙台 (18)
南側からみた郭全体。

袴腰狼煙台 (17)
南東方面の与良城。

袴腰狼煙台 (20)
浅間山も良く見えるが周辺の城は雑木林が邪魔で小諸城も良く見えない・・。

袴腰狼煙台 (13)
北側から見た狼煙台部分。

「定本佐久の城」(1997年 郷土出版社)によれば、「山浦 袴腰」は信玄の飛脚かがりの「川中島線千曲ルート」の小諸地区における狼煙台として「諏訪山 堀之内城」「東山 虚空蔵山」との中間地点になっている。堀之内城(布引城)は目と鼻の先なので問題無いが、前山城の隣になる虚空蔵山砦までは狼煙一発で伝えるにはかなり厳しい。

間に糠塚山狼煙台(ぬかづかやまのろしだい)を挟むと無理が無いように思える。

袴腰狼煙台 (27)
堀之内城のその先は外山城へ繋いでいる。

残念ながら袴腰狼煙台から小諸周辺の諸城は与良城と堀之内城しか見えなかったが、周辺道路から何とか無理に撮影して見た・・・(笑)

袴腰狼煙台 (29)
七五三掛城(しめかけじょう)。

袴腰狼煙台 (34)
小諸城は対岸。躑躅ヶ崎からの指令が城将の信豊にも届けられた事だろう。

恐らく「狼煙守」(のろしもり)なる人々がいて、通信を担っていたのであろう。

雨の日は?雪が降ったら?積雪期はどうしてた?・・・・等々の疑問は尽きない。

若神子城(北杜市) (19)
写真は若神子城(山梨県北杜市)に復元されている狼煙台。鐘も有効な伝達手段であった。

信濃では、山城や砦そのものが狼煙台として活用されたものもあるし、新たに山頂を削平して狼煙台とされた場所もあるという。

「信玄の飛脚かがり」 何本ものルートがあったというその場所全てをいつか巡ってみたいものだ。

大室城201409 (48)
対岸の富士見城(大室城)から見た遠景。穴城だった小諸城の監視砦として支城の役割も担っていたと思われる。


≪袴腰狼煙台≫ (はかまごしのろしだい)

標高:758m 比高:170m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市山浦
攻城日:2015年4月10日
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:千曲小学校脇の林道を登り、展望台入口看板より徒歩5分
駐車場:有り
見どころ:景色
参考文献:「信濃の山城と館① 佐久編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版) 「定本佐久の城」(1997年 郷土出版社)
付近の城跡:小諸城、七五三掛城、布引城、楽厳寺城など色々




Posted on 2015/04/11 Sat. 08:09 [edit]

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宇賀山砦 (小諸市滋野甲芝生田)  

◆芝生館の物見か?◆

この週末は近くの山城に登れるか?と淡い期待をしていたが、終日みぞれ交じりの雪が降り続けて「THE・END」となる。

もう笑うしかあるまい・・・(笑)

今回ご紹介するのは、前回ご紹介した芝生館(しぼうだやかた)の北北東350mに位置する宇賀山砦。(うがさんとりで)

宇賀山砦(小諸市)


こんなゴミのような砦を掲載するのは小生のブログぐらいなものであろう。

宇賀山砦 (38)
東漸寺にある宇賀観世音の東隣にある。(案内図の右端の石段の続く小山)

【立地】

東漸寺の山号でもある「宇賀山」地籍にある。ちょっとした小山であるが、要害性は芝生田館よりはマトモである。

宇賀山砦 (3)
石段を登ると途中に削平地が二段あるが、段郭の名残りか?

宇賀山砦 (5)
郭の中央には関東大震災の慰霊碑が立つ。

【城主・城歴】

詳細は全く不明である。

宇賀山砦 (7)
郭の周囲は土塁で囲まれていたらしく北側と西の一部に遺構が確認出来る。

宇賀山砦 (8)
主郭北西付近。

【城跡】

周囲を急峻な傾斜地で囲まれ、南側を除く主郭の背後を横堀が巡る。方形居館を小山の上に作ったような造りだが、縄張だけでは築城年代は分からない。さらに北側に土塁で仕切った防塁のような遺構があるが、耕作地の改変なのかは判断できない。

宇賀山砦 (10)
西側の横堀。

宇賀山砦 (17)
北側を巡る横堀。搦め手側なので土塁を置いた可能性はあるか?

宇賀山砦 (26)
北側の直線上の土塁。防塁のようにも見えるが、どうであろう。

この付近は、北佐久及び小諸を領有する大井氏との境目にあたるので、滋野(海野平)を中心とした海野氏が見張り砦を築いた可能性も考えられる。村上・諏訪・武田連合軍と戦った海野平の合戦でも重要な任務を負っていたのだろうか。

宇賀山砦 (20)
東の沢に連結する横堀。往時のものかは疑問が残るが、増設したとすれば納得がいく場所にある。

≪宇賀山砦≫ (うがさんとりで)

標高:680m 比高22m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市滋野甲
攻城日:2013年7月23日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:3分(東漸寺より徒歩)
駐車場:東漸寺の駐車場借用。
見どころ:横堀、土塁、防塁
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著) 
注意事項:特に無し

宇賀山砦 (34)
お越しの際には、宇賀観世音にも参拝願います。



Posted on 2015/01/15 Thu. 22:52 [edit]

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芝生田館 (小諸市滋野甲)  

◆在りし日のビニールハウスが居館跡だった◆

正月気分も早々に辞してマイナーな城館跡のご紹介に移ろうかと・・・(笑)。

今回ご紹介するのは、地元でも知っている人などいないであろう芝生田館(しぼうだやかた)。読み方も難しい(汗)。

【立地】

国道18号線を東京方面に向かうと、東御市と小諸市の境の辺りに「芝生田」(「しぼうだ)と呼ばれる集落があり、ここに在地土豪の館があったという。東漸寺の南の田んぼの中にある。

芝生田館 (2)
2013年7.月。真夏の田んぼの農道。モノトーンの冬になると当然のように夏が恋しくなります。

「はてさて、このような平地に居館を建てるとは、緊張感の無い田舎侍だったのか?」

【館主・館歴】

「長野県町村誌」には「柴生田氏城跡」として「芝生田組北の田間三町になり。本郭東西二十間(36m)、南北三十間(54m)、三方に堀あり・・・・城の中に一碑石あり、三面に文字あれども磨滅して読み難し・・・。」とあり、江戸中期、芝生田村民の志により建立された碑について述べている。「小笠原外記長武之碑」と言われるもので、その内容については不明な点が多い。

芝生田館 (6)
北側から見た居館跡。要害の地では無い。

芝生田館①
縄張り図よりはyahooの航空地図で見てみましょう。

芝生田館 (7)
周囲には確かに堀跡のような水路が巡っているが・・・。

【館跡】

長野県町村誌に記載されているように居館跡の三方は確かに水路が巡り堀跡と言われれば、そのような気にもなるが、中世の初めに防御性の低いこのような場所に居館を作るのだろうか?外からは丸見えだし、水掘だとしても焼き討ちされれば即全焼であろう。

芝生田館 (10)
ビニールハウスの横の樹木脇に残る石碑。確かに文字は消えていて読めない。

芝生田館 (13)
館の北東350mに宇賀山砦(うがさんとりで)があるが、物見か逃げ込み城程度の作りである。

文献によれば、芝生田城は室町幕府の反体制派であった芦田下野守に同調した祢津氏の支城として別府城とともにその名が見え、将軍足利義教の命により守護の小笠原政康の攻略を受け落城したという。

芝生田館 (14)
まあ、確かに水路が堀と云われればそうかもしれませんが・・(汗)

芝生田館 (17)
とりあえず後世の石積みが城館跡を引き立たせてくれてます(笑)

この居館跡は、国道18号線からも良く見える二棟のビニールハウスがシンボルだったのですが、残念ながら昨年2月の大雪で倒壊してしまったようで、現在は新しいビニールハウス一棟のみに建て替えられたようです。

待望の正月第一弾の城館がこれ?とがっかりする方もいらっしゃるでしょうか?(笑)

地味な脇役を固めてあげるのが地元の使命なんだと心得ておりますので、ご容赦のほど・・・。



≪芝生田館≫ (しぼうだやかた 柴生田城)

標高:637m 比高-m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:小諸市滋野甲
攻城日:2013年7月23日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:5分(東漸寺より徒歩)
駐車場:東漸寺の駐車場借用。
見どころ:石碑、水路など
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著) 
注意事項:耕作地なので注意。無断侵入禁止。

芝生田館 (18)
城域南側。今は無きビニールハウス。





Posted on 2015/01/07 Wed. 22:07 [edit]

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楽巌寺城2 (小諸市大久保 リテイク)  

◆釈尊寺への不法侵入を拒む長大な仁王門◆

先日の連休は「妙高サンシャインランド」なる遊園地へ遠征し不慣れな家族サービスに終始する。

あの辺りにも山城跡がいくつかあるのだが、こういう時は雑念を捨て、目一杯楽しむ事にしましょう・・。

しかし、この歳でメリーゴーランドやゴーカートに乗るとは夢にも思わなんだが、せっかくなので童心に返り楽しむ・・(笑)

今回ご紹介するのは、とってもテキトーな解説だった5年前の楽巌寺城の記事のリテイクでございます。相変わらずのテキトーさに更に磨きをかけたいと思います。

楽巌城・布引城201409 (2)
ネーミングが良くない「血の池」。喰い違い土塁があるので、枡形虎口があったと思われるが破壊され謎のままだ。

【立地】

御牧ヶ原台地(みまきがはらだいち)の東端に位置し、千曲川を眼下に望む場所にある。ここは釈尊寺(布引観音)の僧坊の一つである楽巌寺(がくがんじ)があったと思われる場所で、釈尊寺の参道の入り口でもある。
西には、不通沢(とおらずのさわ)を隔てて堀之内城があり、布引城砦群の一つである。
西、北、東の三面は急崖で、南だけが御牧ヶ原の台地に接している。従ってここを押えれば釈尊寺は完全に守られることになる。

楽巌寺城縄張図①

この縄張図を見てピンと来た方は素晴らしい。
そう、前回ご紹介した堀之内城の二重三日月堀を持つ郭部分と基本設計は同じなのである。

【東側の抑え】

「お歯黒池」と呼ばれる堀切㋐と三日月堀形の堀切㋑の間に長方形の郭1を置いている。堀切㋑から尾根を下がるように郭2が置かれているが、平削も適当。おまけで作られたような感じがする。

楽巌城・布引城201409 (1)
血の池側から見た堀切㋐

楽巌城・布引城201409 (4)
郭1を西側から撮影。さほど広くない。

楽巌城・布引城201409 (7)
三日月型の堀切㋑は接続の方法が変則的になっているので後付けっぽい感じがする。

楽巌城・布引城201409 (12)
郭2.ここから尾根が急激に下がっていくので重要性は感じられない。

【西側の構え】

見取図における郭3と郭4の三角形部分は、元々は釈尊寺の六坊として楽巌寺があり、釈尊寺の入口を抑える場所として戦国時代には武装化して砦としての機能があったと思われる。
天文十七年に武田軍に攻め込まれ、楽巌寺を含む六坊はことごとく兵火により落城、焼失。本坊である釈尊寺も焼き討ちされ、灰燼に帰したという。(その10年後に武田方に降った望月城主の望月信雅により再建される)

現在残る遺構は、堀之内城と同様に大勢力により改修されたと見るべき大掛かりなものであり、楽巌寺氏や望月氏のような土着の豪族の手に負えるものではない。

楽巌城・布引城201409 (18)
林道と並行するように続く高土塁の壁。そう云われなければなんの違和感も無い林道の風景である(笑)

楽巌城・布引城201409 (20)
林道側から見た堀切㋓。ここも三日月堀だったら素敵だったのだが、直線の横堀だった・・・(汗)

楽巌城・布引城201409 (31)
ブーメラン形の郭4。

楽巌城・布引城201409 (30)
郭4側の土塁から見下ろす堀切㋓とその周辺(西側より撮影)

この山の中で、戦国時代の凄まじい土木工事の跡を見ることが出来る。ところどころお化け屋敷のような別荘の廃墟が林立しているが、開発が中途半端なせいで結構遺構が残っているのは不幸中の幸いであった。

楽巌城・布引城201409 (32)
何故か堀切の向こうに別荘の屋根が見える不思議な光景。ってか、普通に考えてもそんな場所に建てるか?

楽巌城・布引城201409 (35)
郭4の西端からみた堀切㋓と郭3方面。

郭3の南側は長大な横堀㋒だったが、南側の土塁が崩されてその上に別荘が並んでいる。それでも堀そのものは破壊を免れたので、不幸中の幸いだったと思われる。

楽巌城・布引城201409 (41)
数件の別荘は売り物件の看板が立っていたが、需要はあるのだろうか・・(汗)

楽巌城・布引城201409 (49)
クランクに折れる横堀と郭3の外枡形。

楽巌城・布引城201409 (52)
横堀㋒のクランクを東側の堀底から見る。写真中央の段差が「外枡形」である。


【征服地における武田流築城の貴重な遺構】

高度成長期における日本人一億総白痴化の原動力となった「ディスカバージャパン」の合言葉。そして残念ながらその犠牲となった布引城とその城砦群。破壊前の状態は今となっては記録も残っていないようだが、それでもある程度の遺構が残っているのは奇跡であり、これ以上の損壊は許されない。

長野県の史跡や遺跡の保存に対する取り組みは全国でも下位レベルで、小諸市においては更に酷い。この自治体において消滅した中世の城跡は数知れずという有り様で、情けないを通りこして泣きたくなる・・(汗)

楽巌城・布引城201409 (58)
横堀㋒の東端は痕跡のみ残り、血の池までの間は破壊により不明である。

大室城が指定史跡になるのであれば、堀之内城も楽巌寺城も市の指定席として認定し、これ以上の破壊が進まないように小諸市に望みたい。
この城跡は、戦国時代の武田軍(と確定した訳ではないが・・)によって大改修されたと思われる貴重な史跡で、他に類を見ない独創的な縄張りを持つ城である。

布引観音の景観・歴史と共に布引城の景観と歴史も後世に伝えなければならないと切に思う次第である。

楽巌城・布引城201409 (56)
三日月堀にはなれなかった「お歯黒池」。惜しいゾ!!(笑)

≪楽巌寺城≫ (がくがんじじょう)

標高:768m 比高230m(北山下より)
築城年代:不明
築城・居住者:楽巌寺氏、武田氏
場所:小諸市大久保
攻城日:2014年9月3日 (再訪)
見どころ:土塁、郭、血の池、お歯黒池、三日月堀跡など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し(邪魔にならないように路駐)、道路が狭いので注意。
その他:別荘の敷地内への無断侵入は厳禁。人里であっても確実に熊・猿の生息地なので単独行動は控える事。
参考文献:「信濃の山城と館①」(宮坂武男著 2013年)、「戦国武田の城」(中田正光 2010年)

楽巌城・布引城201409 (57)
血の池周辺。武田の被征服地の城跡は物騒な地名が多い。武田を嫌った住民のせめてもの抵抗であろうか・・・。








Posted on 2014/09/19 Fri. 07:22 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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