らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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鈴岡城 (飯田市駄科)  

◆小笠原氏の内訌から生まれた城◆

昨日、信濃先方衆は北信濃のレアな城巡りと称して飯山市と中野市をブラブラしていたのだが、11月に入ったというのに紅葉は進まず相変わらず藪だらけだし、スズメ蜂には追い回されるし、「なんかオカシイゾ、信州の晩秋」と思った次第・・・(汗)

このまま霜が下りたら広葉樹は紅葉せずに「立枯れ」するんだろうな・・・・で、今回ご紹介するのは松尾城のお隣にある鈴岡城。

鈴岡城(飯田市) (1)
松尾城と鈴岡城は毛賀沢川という深い渓谷を挟んで隣接している。現在は公園化された際に橋が架けられ遊歩道が整備されている。

【立地】

鈴岡城は飯田市駄科の西北部のp段丘上の標高約490mにある。北側は毛賀沢川で比高役50mの渓谷を挟んで松尾城と相対している。
南は伊賀良井(大井)の流れを挟んで松ヶ崎台地や念通寺山などに相対している。東方は段丘崖下に空堀があり、眼下に駄科・長野原集落、天竜川を越えて下久堅・龍江・上久堅などの龍原の村々を経て伊那山脈の連なりが見える。西方は遠見原台地で伊賀良の集落や笠松山などが遠望できる。松尾城に比し眺望はよい。段丘崖を利用して、人手を加えた幾多の堀や郭が設けられ、現存する形で南より二の郭・本郭・出郭などに分けられている。

鈴岡城(飯田市) (2)
毛賀沢川の水道橋を渡り遊歩道を喘ぎながら登ると出丸に到達する。もちろん、往時にこのような道などありません。

鈴岡城縄張図① 001
小生の縄張図には美的センスなどありませんおで、今回もnaomochi-u様の芸術的な縄張図をお借りしました。

鈴岡城(飯田市) (5)
出丸。ほぼ正三角形で主郭から堀切によって切り離されている。隣接する松尾城の監視小屋だったのだろうか?

鈴岡城(飯田市) (3)
出丸からは松尾城と城下町の松尾方面、遠く喬木村まで見通せる。

鈴岡城(飯田市) (65)
もちろん、出丸から松尾城の主要部も良く見える。仲良き時は気にならなくとも、仲違いすれば憎さ百倍か・・・。

【城主・城歴】

ここの城主は鈴岡小笠原氏である。小笠原氏の総領職を巡っての内訌(ないこう)により、深志小笠原氏、松尾小笠原氏、鈴岡小笠原氏の三家に分立した。
鈴岡小笠原氏と松尾小笠原氏の対立については松尾城の項で若干触れているので、ここでは領家の対立の遺構二ついて述べる。

鈴岡城(飯田市) (8)
出丸から見た主郭と間の巨大な堀切。

松尾小笠原定基は鈴岡小笠原政秀と抗争を続け、政秀を滅ぼした。これに対し深志小笠原長棟と下条家氏の連合軍は定基と争い、定基は小笠原家の家督承継の資料を持って武田氏の元に走った。このため松尾城は一旦断絶するに至った。
そこで深志の長棟は二男の信定を鈴岡に送り再興を図ったので、廃絶されていた鈴岡は信定により勢力を盛り返し伊賀良庄を管掌したという。

鈴岡城(飯田市) (11)
主郭と出丸の間の巨大な薬研堀の堀切。この地域の河岸段丘の城の特徴でもある。

天文十七年(1548)に深志小笠原長時が武田勢の攻撃にあい、信定はその支援のため出陣した。しかし長時は信玄に追われ越後の長尾氏に身を寄せたが、その後信定の元へ在居した。
天文二十三年(1553)、武田信玄は長時・信定兄弟の鈴岡城を松尾小笠原信貴を先鋒として攻め落居させたので鈴岡城は廃城となり松尾城が再興された。信定は下条に走り、さらに阿波の小笠原の三好長慶の元に身を寄せたが、のちに戦死した。

※以上の城主・城歴については「定本 伊那谷の城」(1991年 郷土出版社)の鈴岡城の石川正臣氏の記事を引用しました。

鈴岡城(飯田市) (10)
堀跡の植込み。天正壬午の乱では飯田城がメインで使われているが、松尾城、鈴岡城も徳川軍による改修が行われたのであろうか。

【城跡】

主郭は城跡の中央東端にあってほぼ梯形をした地形である。北・西・南に堀をめぐらし東は急崖である。この主郭の平場の広さは、広い部分が約44mあり、幅は約64mである。西縁部に土居が設けられてあり、長さ27m、高さ約14m、底部の幅は約1.8m前後である。

鈴岡城(飯田市) (13)
主郭。

鈴岡城(飯田市) (15)
何故か「鈴岡城址」ではなく「鈴岡公園」の石碑。背後に土塁が巡る。

鈴岡城(飯田市) (28)
結構立派な土塁が本郭に残っているのには驚いた。

二の郭は堀を隔てて主郭の西南に続く鉤状に屈折する平場で、西南は堀で遠見原に対し、南面にも堀があって外方は伊賀良井の谷に傾斜し寺山に対峙する。現在は大部分が畑地として耕作されており、かつてあった井戸は埋められている。北・西・南の三方に土塁があったが、現在は一部残っているのみである。土塁の延長は約45m、高さ1.2m、底部は約2.7mである。

鈴岡城(飯田市) (32)
主郭と二の郭の間の堀切。ここは箱掘。

鈴岡城(飯田市) (33)
北の毛賀沢に向けて薬研堀は竪堀となり落ちていく。

鈴岡城(飯田市) (20)
主郭からは知久氏の神之峰城も視野に入る。

出郭は主郭の北にあって、ほぼ三角形の平場である。主郭との間にほぼ東西に堀切があり、東西の両斜面は急傾斜の断崖で、北側は毛賀沢川の渓谷に臨み松尾城と相対している。

鈴岡城(飯田市) (37)
二の郭を囲む南側の堀切。道路による改修があるものの、かなり幅広く長大である。

鈴岡城(飯田市) (38)
L字形の郭2。以前は畑だったようだが公園整備化に伴い、現在は駐車場と遊園地に変化している。

鈴岡城(飯田市) (43)
昔も今も遊園地さえ作れば住民の同意を得やすいという凝り固まった考えは捨てて頂きたいと思うのだが・・(汗)

鈴岡城(飯田市) (44)
二の郭に残る土塁跡。


外郭のうち、南外郭は二の郭の西方にあって一段低くなっており、「的場」の地名で呼ばれる。南北に長い平場で、長さ90m、幅5~22m、二の郭との間は堀で区切られている。
北外郭は南外郭の北に位置し、遠見原段丘麓を北東に延びて毛賀沢川に突き出したところにある平場で荒小屋と呼ばれる。遠見原との間には堀切があり、ほかの三面は急崖で、東方は谷を隔てて本郭・出郭と相対する。規模は西面の長さ90m、北面約80m、南方は広いところで約51mであるが、現在ではすべて畑地となっている。

鈴岡城(飯田市) (46)
二の郭と南郭の間の堀切。芸術的な美しさである。

鈴岡城(飯田市) (47)
鉄炮の使用を意識していたような幅を持つ堀切。武骨な松尾城とは対照的な機能美に溢れていると思うのだが・・・。

鈴岡城(飯田市) (49)
荒小屋と呼ばれる毛賀沢に突き出した平場。

鈴岡城(飯田市) (54)
的場に隣接する堀切。この仕様は松尾城に共通するものがある。

鈴岡城(飯田市) (56)
巨大であるが美しい堀切。

同行したnaomochi-uさんによれば、この城の訪問は二度目だそうだが、徳川軍による改修が施されたのではないか?と推測されている。
天正壬午の乱では、迫りくる北条軍に対して飯田城で籠城して耐えたという記述はあるが、松尾城や鈴岡城の記載は見られない。ここは、徳川方に付いた小笠原信貴の要請を受けて徳川軍が急遽改修工事を行ったとみたいがどうであろうか・・・。

鈴岡城(飯田市) (59)
北斜面の防御施設。今回詳細は調査出来なかったが、毛賀沢川に対する斜面に入念な防御施設が構築されているという。

鈴岡城(飯田市) (52)
的場と呼ばれる細長い郭跡。

以前は仲の良かった兄妹縁者が、本家の家督争いで仁義なき戦いを続けた。結果として、信濃国守護職の深志・松尾の両小笠原氏は武田氏のような戦国大名にはなれなかったものの、武田家滅亡後の信濃国における戦国時代の荒波を潜り抜けて家名を存続させることに成功した。卑怯者と罵られようが、その働きは値千金の価値であったと思われる。


≪鈴岡城≫ (すずおかじょう)

標高:485m 比高:93m (天竜川より)
築城年代:不明
築城・居住者:鈴岡小笠原氏
場所:飯田市駄科
攻城日:2015年11月23日 
お勧め度:★★★☆☆
城址までの所要時間:-分 駐車場:有り
見どころ:郭、土塁、堀切など
注意事項:特になし
参考書籍:「探訪信州の古城」(2007年 郷土出版社) 「定本 伊那谷の城」
付近の城跡:松尾城、座光寺北城・南城、神之峰城など
Special Thanks:ていぴす殿、naomochi-u殿

鈴岡城(飯田市) (70)












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Posted on 2017/11/05 Sun. 21:52 [edit]

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松尾城 (飯田市毛賀)  

◆仁義なき戦いを繰り広げた松尾小笠原氏本拠の城◆

最近の記事は「山城探訪記」というよりも、「特攻野郎Aチーム」に近いアドベンチャーアクションシューティング(チョッと何言っているんのか全然わかんない・・・)に変化してしてお叱りを受ける有り様・・・(笑)

真面目に山城を巡っている方から見ると、異端児であろうか・・・(汗)

基本掲載方針は「老若男女を問わず、山城ライフを楽しみましょう!!」 現地探索では「安全は全てに優先する!」がモットーです、ハイ。

今回ご案内するのは、2年前に訪問した南信濃ではメジャーな連郭式の平山城である「松尾城」。城域が広いので楽しむというよりは一回りするだけで疲れた・・・・挙句の果てに撮影した写真は少ないし的外れな写真ばかりで茫然自失・・・・(笑)

松尾城 (1)
初心者なので、説明板は必ず撮影して内容は帰ってから読むようにしています・・・えっ?それじゃダメなの?

【立地】

飯田市松尾西南の伊賀良段丘の先端部毛賀(けが)にある連郭式の平山城である。東方は下段の毛賀の集落から天竜川を隔てて川東を望み、西は名古熊の台地に連なり、北は北の沢を天然の堀とし、南は毛賀沢の谷を挟んで同族小笠原氏の鈴岡城と対している。

松尾城 (29)
松尾城主郭。発掘調査により、建物跡・炭・土器片など出土したという。

松尾城 (30)
本郭北側の帯郭。

【城主・城歴】

松尾城は、鈴岡城とともに小笠原氏の居城であった。小笠原氏は甲斐源氏の後裔で、鎌倉時代の長清の代に伊那郡とのかかわりができ、建武三年(1336)に貞宗が守護職となってから信濃を地盤とし、府中(松本)にあって同族を統括してきた。
康永三年(1344)、貞宗は守護職と伊賀良庄ほかを子政長に譲っており、この頃、子らによって松尾・鈴岡城が造られたとされ、子孫は府中(松本)・松尾・鈴岡の三家に分立した。

松尾城縄張図① 001
城郭探訪のお仲間のnaomochi-u氏より縄張図をお借りして掲載しています。

家督は政長から子の長基、その子長秀、次いで長秀の弟長将ではなく、鈴岡城の弟政康へと渡ったため、三家が抗争する元となり、政康が死ぬと争いは中央の権力争いと連動して激化する。

家系図①
三家の抗争の序列がチョッと分かりづらいので家系図を載せてみました。ピンとくるのは一番下の長時さんぐらいですね(笑)

政康のあとは子で鈴岡の宗康が継いだので、長将の子府中の持長はこれに不満で戦闘となり、宗康は戦死し、宗康の弟で松尾城の光康が継いだが、光康のあとは府中の持長が家督を握った。応仁元年(1467)、宗康の子で鈴岡の政秀は、府中を攻め家伝文書を奪取した。

松尾城 (26)
主郭の周りには石積みの遺構が残る。

のち、松尾・鈴岡両小笠原家は対立し、明応二年(1493)、毛賀沢川を挟んで戦い、鈴岡の政秀・長貞父子は戦死し、鈴岡小笠原氏は断絶した。しかし、勝った松尾城の定基は、鈴岡の残党・下條氏・府中小笠原氏に攻められ、家伝文書を持って甲斐の武田氏を頼った。

松尾城 (31)
主郭と二の郭の間の堀。現在は堀の一部は道路となっている。(二の郭より撮影)

天文二十三年(1554)、武田軍が伊那郡に侵攻すると、定基の孫の信貴は武田方の先鋒となり、府中長時の弟信定のいた鈴岡城を攻めて旧領を安堵され、松尾小笠原家を再興した。

天正十年(1582)、織田軍の侵入時、信貴の子信嶺は織田氏に下ったのち徳川家康に属したが、同十八年、家康の関東移封に従って本庄(埼玉県)に移り、松尾城は廃城となった。

※「城主・城歴」については、「探訪信州の古城」(2007年 郷土出版社)のP96松尾城の山内尚巳氏の記事を引用しています。

松尾城 (32)
二の郭から見た本郭。堀というよりは谷という広さの堀である。土橋で連結している。

【城跡】

城址は河岸段丘の三段を利用しており、中段が中枢部で、主郭は先端部にあり、南に三段、北に二段の腰郭がある。周囲は堀で、西方で二の郭と土橋でつながる。

松尾城 (27)
長ごろうやまに繋がる本郭北側の腰郭(段郭)。

二の郭は、南が高く北が低い傾斜地のため三段構成となり、勝手・トヤバ・クラヤシキ・城畑などの地名があり、陶器片が多く出土し二の郭の性格を示している。

松尾城 (34)
クラヤシキ・トヤバと呼ばれる二の郭の北側部分。

松尾城 (33)
北側の遊園地と駐車場の部分へ向けて低くなっていく様子がわかるでしょうか。

松尾城 (37)
二の郭の北側は「城畑」と呼ばれている。その先の沢には数条の竪堀が斜面を走る。

松尾城 (39)
追手口から見たクラヤシキ(二の郭)と三の丸(龍門寺屋敷の地名)との間の堀切。(西の堀)

松尾城 (40)
追手口より撮影した城畑と三の郭の間の堀切。(西の堀)

近世初期に出来た「松尾城絵図」には、西の堀の中央部分に大手口がある。三の郭は二の郭の堀の西側にあり、南から北への傾斜地の為に四段構成である。先の絵図には最高所の一角に「御霊屋」(みたまや)・「龍門寺屋敷跡」(りょうもんじやしきあと)があり、寺畑の地名が残る。三の郭の北方は「片羽」(かたは)といい、南古城・北古城・元本城の地名があり一帯に馬場があったいう。

松尾城 (36)
西の堀を隔てて隣接する北側の三の郭。

松尾城 (41)
今回は時間切れであまり詳しく調査出来なかった三の郭。

【長ごろうやま・サカヤシキ】

本郭の東側には、「長ごろうやま」という本郭とは別の独立した小山があり、更にその東側には「サカヤシキ」と呼ばれる広大な削平地があり、ここまで城域に含まれている。

松尾城 (24)
本郭から下り、長ごろうやまに向かう途中にある堀切。

松尾城 (56)
長ごろうやまの東屋。城郭が拡張される前の物見砦あった可能性が高い。

松尾城 (46)
長ごろうやまからの景色

松尾城 (47)
主郭とサカヤシキとの間には、南の沢に向けて段郭が構築されている。

松尾城 (48)
サカヤシキ西端の段郭群。

松尾城 (52)
現在は耕作地として利用されているサカヤシキ。広大な屋敷跡地だ。

後世における松尾小笠原氏の評判はあまり芳しいものではないが、天正壬午の乱で生き残った数少ない信濃の名族には違いなくて、最終的には越前勝山藩として明治維新まで家名を存続させている。

それにしても、隣同士に城を作るという発想はどうであろうか。仲たがいして戦争に至った最悪のリスクを想定していなかったのだろうか。それとも未来永劫仲良し宣言でもしたのでしょうか・・・。案の定戦争が起きてしまいましたが・・(汗)

≪松尾城≫ (まつおじょう)

標高:488m 比高:96m (天竜川より)
築城年代:不明
築城・居住者:松尾小笠原氏
場所:飯田市毛賀
攻城日:2015年11月23日 
お勧め度:★★★☆☆
城址までの所要時間:-分 駐車場:有り
見どころ:郭、土塁、石積み、堀など
注意事項:特になし
参考書籍:「探訪信州の古城」(2007年 郷土出版社) 「定本 伊那谷の城」
付近の城跡:鈴岡城、座光寺北城・南城、神之峰城など
Special Thanks:ていぴす殿、naomochi-u殿



松尾城 (43)
ここを下っていくと毛賀沢川を渡り鈴岡城へ着きます。

Posted on 2017/10/31 Tue. 17:24 [edit]

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天狗森城 (下伊那郡大鹿村鹿塩塩原)  

◆駿木城の南を守る砦か?◆

大鹿村の古城探訪シリーズも今回が最終となる。時間切れで駿木城(するぎじょう)、梨原の物見(なしはらのものみ)の2ヶ所が回れず心残りとなるが、宗良親王の宝篋印塔も見ていないので、いつかまた来るぞ!と誓ったが、いつになるやら・・・(笑)

で、今回ご案内するのは天狗森城。

「天狗(てんぐ)」とか「狐(きつね)」とか「鼠(寝不見 ねずみ)」とかはスパイの隠語なので、この城も物見だったようだ。

IMG_0643.jpg
大島城も天狗森城もヘアピンカーブの先が城跡になる。

【立地】

鹿塩川の左岸、塩原集落の後背の山の中段に立地する。ここを更に中峰に登ると駿木城に通じる。鹿塩川の谷に面して張り出した形のため、谷筋の見通しは良く、街道の監視には絶好の場所である。

天狗森城見取図

【城主・城歴】

記録、伝承等もなく不明。背後に駿木城があることから、大河原城の防衛を担った物見と考えられている。

IMG_0627.jpg
土橋から見た北側の堀跡。

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主郭には最近まで秋葉社と春日社が勧進されていたようだが、我々の訪問時には撤去されて何もなかった。

IMG_0628.jpg
20×15の主郭。小屋掛けには充分な広さ。

【城跡】

ヘアピンカーブの先に土橋があるので、南北に堀切があったようだが工事で改変され詳細は不明。
主郭には塩原地区の氏神様が祀られた社があると宮坂氏は書いているが、我々が訪問した時には、老朽化して撤去された後だった。
郭2、郭3と綺麗に削平された段郭があるが、耕作地として利用された事も充分に考えられるので、どこまでが当時の遺構なのかは判断に迷うところである。

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郭2。(8×11)

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恐らく耕作地だったと思われる郭3。

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南側に展開する郭3(7×31)

郭3段の小規模な物見で、番兵が掘立小屋で交代で見張りをしていたものであろうか。
残念ながらここからの景色は見ることが出来なかったが、谷筋の物見として有効だったと思われる。

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郭3から見上げた郭2。

≪天狗森城≫ (てんぐもりじょう 寺平城)

標高:881m 比高:150m(国道より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:下伊那郡大鹿村鹿塩塩原
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:段郭
注意事項:特になし
駐車場:無し、道路脇に寄せて路駐。
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編 宮坂武男著」 
付近の城址:大河原城、青木城、松平城、駿木城など
Special Thanks to ていぴす殿

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さて、如何でしたでしょうか、大鹿村の古城探訪。南北朝時代の山城はなかなかピンとこないのですが、こんな桃源郷のような山奥の村にも南北朝の動乱の緊張感があったんだ・・・なんて事を思いながら古城めぐりをするのも楽しいものです。

皆さんも是非、大鹿村にお越しください・・・・ってか大鹿村の広報担当かい!(笑)

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帰りは秋葉街道を進み分杭峠経由で家路に・・・・・。この峠も初めて通りましたよ!


Posted on 2017/04/23 Sun. 09:34 [edit]

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大島城 (下伊那郡大鹿村鹿塩)  

◆大河原城の北方守備の拠点◆

同じ長野県とはいえ、大鹿村までは高速道路使っても2時間以上かかる場所なので簡単に来られるところでは無い。

本当はじっくり観察したいのだが、時間も距離も制約されるのでスタンプラリー方式を取らざるを得ない・・・(汗)

そんな苦しい言い訳をしつつ(笑)、今回ご案内するのは大島城。

IMG_0600.jpg
ヘアピンカーブの先端から城域に入る。

【立地】

鹿塩川へ、支流の塩川が流入する所の南(塩川左岸)に聳える小山で、山体は小さいが、北、西、南の三面は急で中々人を寄せつめない要害の地である。ただ、東南の鞍部を塩河から河合を経て中尾、大河原へ通じる道が通過していて、ここから㋐の土橋を渡って登る事が出来る。

大島城見取図①

【城主・城歴】

史料、文献もなく不明。古くから高遠や伊那からの秋葉街道が通っていたので、大河原防衛のための北方の関門として機能していたと思われる。

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郭3から堀切㋐を見下ろす。竪堀と竪土塁で連結されている珍しい構造だ。

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郭3。傾斜をともなう削平地。

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峰のピークの主郭の東側は土砂が崩落している。崩落前には郭があったように思えるがどうであろうか。

【城跡】

ヘアピンカーブの先が土橋になっているので、この両サイドは堀切だったと思われる。その先は急坂の登りとなるが、道なのか堀切なのか土手付きの通路が郭3まで伸びている。
頂部が主郭で、西の尾根に向かい堀切を隔てて郭2となる。更に尾根を下った先に堀切㋒を介して小さな平場がある。

IMG_0610.jpg
17×6の主郭。

IMG_0619.jpg
段差をつけた堀切㋑。

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10×4の郭2。

IMG_0614.jpg
郭2から堀切㋒までは結構な落差がある。

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城域西端の堀切㋒と小さな郭。

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大島城からは塩河以北の街道筋がよく見える。

大島城は大河原へ向かう秋葉街道を監視する物見または狼煙台が置かれていたと考えられる。
調査中は、なんでこの場所も必要なのか?と疑問に思っていたが、北側の塩河地区に下りてみるとその存在感に驚いた。

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北側の塩河地区から見た大島城。シルエットが美しい。

≪大島城≫ (おおしまじょう 城山)

標高:834m 比高:137m(塩河より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:下伊那郡大鹿村鹿塩大島
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:堀切など
注意事項:特になし
駐車場:無し、道路脇に寄せて路駐。
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編 宮坂武男著」 
付近の城址:大河原城、青木城、松平城、天狗森城など
Special Thanks to ていぴす殿

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Posted on 2017/04/22 Sat. 07:34 [edit]

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堀田城 (下伊那郡大鹿村大河原中尾)  

◆大河原城の大手(追手)を守った砦◆

ようやく上田城跡公園の桜も種類によっては五分咲き~満開となり、「待ってました!」とばかり観光バスが押し寄せている。
例年より一週間は遅れているが、このところの暖かさでイッキに開花。見ごろは今週末までと思われる。

どうしても「上田城千本桜祭り」が見たい方は急がれよ!・・・(笑)

枡形城(高山村) (157)
GW前半は北信濃の桜前線が見ごろでしょうね。(写真は高山村桝形八幡広場の桜) 後半は葉桜の予感・・・(汗)

今回ご案内するのは大鹿村城砦シリーズ第四弾「堀田城」。別名「追手城」(おうてじょう)と呼ばれ、その名の通り大河原城の大手口に位置する場所に築かれた砦である。

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堀田城の南側のヘアピンカーブの先にある「中尾茶屋堂」。堀田城主が敵襲に備え陣鐘堂を置き鐘を突き知らせたという。

堀田城については、以下の「定本伊那谷の城」(1996年 郷土出版社)の解説を引用します。

【立地】

古道の要地に設けた堀田城の跡は、大河原城の北西三キロメートルの中尾尾根上にある。鹿塩川沿いに南下する古道は、塩川を渡って坂道となり中腹の河合を経て中尾に登る。ここは古道の頂点であり標高八百メートル余ある。鳥倉山は険阻な峰々をつくりながら西へ延び、断崖上となって小渋川・鹿塩川に臨むが、古道の頂上付近から西は起伏の多い尾根状となっている。古道の西側に神明社があり、この一帯を「ほとの庄」と呼び、南面は急傾斜地である。堀田城はこの尾根上に設けられた山城である。

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堀田城の陣鐘が吊るされたと伝わる松の木。樹齢700年は無理があるので、二代目、三代目ぐらいであろうか。

【城主・城歴】

堀田城は南北を見通す位置にあり、防備・監視・情報連絡などを行う大河原城の追手を守る城砦であったという。城主は護良親王の縦臣堀田正重と伝えられている。親王没後は正重も去って廃城となる。

堀田城見取図①
主要な古道の中尾峠を抑えるために築城された砦であることが分かる。

【城跡】

第一郭(縄張図の2)は神社境内の西の小台地より一段低く造成した平地で南北約50メートル・東西約40メートルの広さである。第二郭は(縄張図の1)はそれより西に一段低く東西に長い三角形の約330㎡程の小平地であり、第三郭(縄張図の3)は同じ尾根状を更に西に300m余隔てた小峰の頂きに設けられていた。

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道路脇の参道を登ると郭2。

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大鹿村にも認識されている城跡として標柱が立つ。

城址は現在第一郭(縄張図の1と2)は農地となって農家が存在し、第二(おそらく縄張図の3)、三郭(縄張図の5)は山林となっている。

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郭2と郭1との間の土塁。長さ約20m。手前に堀切があったのか?

IMG_0590.jpg
郭1には民家と耕作地がある。無人のようだが、勝手に侵入出来ないので撮影のみ。

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土塁の上から撮影した郭1の南側。

残念ながら、郭1が私有地で無人で進入許可が得られない為、郭1の調査はもちろん地続きである郭3・4・5の調査も諦めた次第である。縄張図を見ながら、「ほどの庄」と伝わる峰の全てが城跡とは考えにくく、郭3までが実際の城域であったように思える。

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城域東端の一段高い場所は櫓台と伝わる。

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土塁の外側には堀切があったと思われるが、埋められたのであろうか・・・。

≪堀田城≫ (ほったじょう 追手城)

標高:903m 比高:220m(小渋川より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:下伊那郡大鹿村大河原中尾
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:土塁や茶屋堂からの景色など
注意事項:特になし(郭2は神社なので良いが、郭1と連続する郭への侵入には許可が必要)
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:大河原城、青木城、松平城、大島城など
Special Thanks to ていぴす殿

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中尾茶屋堂からの景色。松平城、青木城と連携し大河原城の大手口として機能していた事情がよく分かる風景である。

Posted on 2017/04/16 Sun. 20:49 [edit]

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