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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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駒場城 (下伊那郡阿智村駒場)  

◆伊那谷の南口を抑える交通・軍事上の要衝◆

全く関係の無い話なのだが、先日職場の不健康健康診断があり、体重計に乗ってビックリ・・・前年比▲5kg・・

ジョギングをしようが、山城探訪で月2回1万歩を歩こうが、「今日も元気だ、ビールが美味い!!」なんて生活習慣を繰り返していたら、全くもって痩せる訳ない事実・・・・毎日体重計に乗ってもそりゃ無理だわ・・・・・・(笑)

今回の痩せた要因は何だろう?と考えてみたら、加齢による食欲減退って説が最も有力かもしれない・・・・(爆笑)

ま、そんな個人的な話はともかくとして、今回ご案内するのは地元から城山と呼ばれる「駒場城(こまんばじょう)」

駒場城(阿智村) (1)
城跡から飯田市方面。烽火台としてのロケーションも申し分無い事がわかる。

【立地・背景】

恵那山に源を発する本谷川が、黒川、大沢川等の水を集めて阿智川となって東へ流れる川沿いに、かつての伊那街道の駒場宿がある。
一本道の街道の両側に町屋が並ぶだけの宿場町であるが、この宿場町から阿智川を隔ててそそり立つ急峻な山が駒田城山である。

此の山は、昔から城山と呼ばれ、延宝四年(1676)の「駒場村絵図」に「城山、御公儀林、松立」と書かれていて、当時の駒場村の領主は宮崎太郎左衛門であったが、この山は領主や村人の利用できない「御林」(おばやし)として存在していたことを物語っている。

駒場城(阿智村) (5)
駐車場は郭2と郭3の間にある20×11の郭。公園による改変があり往時の遺構か不明だ。

駒場城見取図①
主郭背後の五連の堀切処理は、その指向性だけ見れば武田氏の侵入に備えた小笠原系の改修とも思えるが・・・。

駒場城(阿智村) (10)
東尾根の段郭に付随する堀切は武田時代の改修のようだが、どうであろう。

駒場城(阿智村) (12)
郭2。全山耕作地となり、その後の公園化による改変により往時の遺構を見るのは難しい。


【城主・城歴】 ※「定本 伊那谷の城」(1998年 郷土出版社)より引用

築城主は、確実な史料がなくわからないが、「信陽伊那記」に次ぎの記事がある。「この駒場次郎は林丹波弟にて、林理右衛門が叔父なる丹波には大伯父なる。応永の頃、川南に山城を築き在城し、駒場を押領す。本名は林恵次郎、息子は惣馬、父子共に討死す。
此の子惣市幼稚の頃、林丹波城を攻めてとり押領し、惣市には僅か八軒屋敷を宛て行ふと云ふ」

駒場城(阿智村) (13)
「ブランコ、お砂場、滑り台」のある楕円形の本郭。高度成長期に公園化された城跡にの残る昭和の遺跡である。

また、「旧事勘考記」という当地の旧家の家伝記に、「城山・阿智川を隔て駒場と相対す。武田氏領地中、狼煙台址にして、北は山本の茶臼山狼煙台、南は浪合方面の狼煙台に信号発いん受継の要に供せしものならんか。
また曰く、駒場次郎は山本保田下林理右衛門の弟なり。駒場を押領し山城を築き居住す。死後其の子惣市若年故理右衛門の子、丹波居城し八百石を押領、後に下条の家臣に討ち滅ぼされたりといふ。駒場次郎は力量強勢者ゆえ在名を呼べり云々」と。

駒場城(阿智村) (14)
主郭その2。主郭には土塁痕が見られるので、外周または一部は土塁が盛られていたと思われる。

この二つの史料にはそれぞれ欠陥があって全面的には信用できない。前者の「応永(1394~1428)の頃」は室町時代の初頭で、武田信玄が伊那谷を領有した天文二十三年(1554)からはおよそ150年前になり、古きに過ぎて人間関係が結びつかない。
後者では烽火台として浪合方面と連絡したというが、この城山からは東方の山本久米城山、飯田城方向は展望されるが、西方の浪合蛇峠方向へは松澤山系に遮られて全く望めないし、貫文時代に「八百石」は適当でない。
しかし、右の二史料によって、中世の山城として林氏が構築した事はほぼ間違いないと思われる。

※以上引用終わり

駒場城(阿智村) (19)
主郭背後の堀切㋕。上巾16mほどあり、後部の郭との落差も結構ある。

駒場城(阿智村) (22)
堀切㋕。五連の堀切の規模と深さを見ると、上野南本城を除けば、境目の城として重要視されていたことが分かる。

駒場城(阿智村) (38)
堀切㋕と堀切㋗の間の20×7の郭。

駒場城(阿智村) (32)
城域で最大幅の堀切㋖(上巾17m)。箱掘なので武者溜りの機能も兼用していたかもしれない。

駒場城(阿智村) (42)
堀切㋖。甲州征伐の際に美濃口から陣城を築きながら信濃の伊那谷に入った織田軍の改修を受けた可能性も否定出来ない・・。

駒場城(阿智村) (51)
上巾9mの堀切㋗。薬研堀で北側で堀切㋘に接続する。

駒場城(阿智村) (56)
上巾10mの堀切㋘。


【城跡】

城山の三角点(693.2)から葯0m低い一段下の東の平場を主郭として東に延びる尾根先を加工した連郭式の山城である。
阿智川に落ち込む東の尾根先が大手筋と考えられ、段郭を重ねた縄張はオーソドックスな手法である。

主郭背後の大掛かりな五連の大堀切と、東尾根に刻まれた竪堀は、この砦が重要視され、改修を重ねた事が容易に想像できるが、それが武田氏によるものなのか、甲州征伐における織田方の突貫工事なのかは分からない。

また、公園化による改変も酷く往時の原型を留めているのは主郭背後の堀切のみのようにも思える。

駒場城(阿智村) (60)
五連の堀切の際級の堀切㋙。ここから急坂となり城山の三角地点に向かうが遺構は何もない。

駒場城(阿智村) (67)
城山の三角点のある場所は自然地形。我ら信濃先方衆は、節穴と言われてもその目で確かめないと気が済まない・・(笑)

駒場城(阿智村) (66)
城山のピーク693.2mの三角点。人工的な加工の跡を見つける事は出来なかった。

駒場城(阿智村) (89)
東尾根の先端の郭3。神社が勧進されているので、現在の地形を往時のままと見るのは無理がありそうだ。

駒場城(阿智村) (83)
西側より撮影した郭3。周囲の遺構は遊歩道の開通と神社参道の取り付けで酷い事になっている。

駒場城(阿智村) (92)
東尾根先端の竪堀㋑。末期の改修であろう。

駒場城(阿智村) (95)
竪堀㋑。堀底に下りて楽しいの?オフコース!「愛を止めないで♪そこから逃げないで♪」(笑)

武田氏の侵略以前は、吉岡氏と小笠原氏の境目の城。武田占領下においては、美濃侵略の軍事中継地点。甲州征伐においては、織田軍の陣城伊那谷攻略の陣城として機能したのであろうか。

駒場は、信玄終焉の地の候補とされ、近くの長岳寺で火葬されたとの伝承が残る。武田軍の重要な外征の中継地点であった。

➾詳しくは武田信玄終焉地考のポンコツ記事を参照ください。

≪駒場城≫(こまんばじょう 城山)

標高:646m 比高110m(阿智川より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡阿智村駒場
攻城日:2013年10月27日
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:城跡まで車が入るので0分
駐車場:有り。※城跡までの道路はすれ違い困難なのでファイト一発の心得が必要かと・・・(笑)
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)、「定本 伊那谷の城」(郷土出版社)
見どころ:5連の大堀切、段郭、竪堀など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿

駒場城(阿智村) (100)
北東の阿智川沿いから見上げた駒場城遠景。

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Posted on 2019/08/01 Thu. 21:11 [edit]

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茶臼山城 (下伊那郡豊丘村河野)  

◆古道の乗り越しを監視した砦◆

とりあえず下伊那郡豊丘村の城館シリーズは今回の記事で一段落としたい。

南信濃の未掲載の山城と城館の在庫はようやく残り7ヵ所まで解消された・・。今回ご案内するのは全国的にもメジャーな名前の茶臼山城。

私の知る長野県の茶臼山城は、甲越合戦の際に信玄が本陣を置いたという長野市篠ノ井の茶臼山陣場と飯田市にある茶臼山城ぐらいであろうか・・・。

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城への登城口は、芦部川の渓谷沿いから無住となったお寺を経由する古い山道である。

DSCF3990.jpg
寺(といっても古民家にしか見えないが・・)の上段には道標の石碑があるので、近年まで生活道路として機能していたようだ。

【立地】

芦部川の左岸、巻ヶ城と相対する山手山の山頂に立地する。山体は芦部川に面する南面は急峻で登りにくいが、東と西の尾根通しは比較的傾斜も緩く登りやすい。山頂部は茶臼山の名の通り、茶臼形で、山頂より放射状に小尾根が派生していて、それらに跨って城跡がある。
登路は東側山下の家の所から、米山家墓地の横の道を竹林の中を登り、尾根に出た所で西行して、小山を一つ越えると茶臼山である。南の谷筋を辿ると上垣外(かみのかいど)になり、芦部川に奥地には河野氏ゆかりの殿御家(とのごや)があり、大鹿村の大河原への道筋になる。

茶臼山城見取図①
輪郭式の段郭を多用する縄張は珍しいが、戦闘には向かない古めかしさ。

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堀切㋑。(上巾3m) 「本気」と書いて「マジ」と読むような迫力には欠けていると思うが・・・(汗)

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堀切㋑の一段上の削平地には遮蔽土塁のようなものも確認出来るが、往時のものとは断定できない。

DSCF3964.jpg
主郭への通路は北側を迂回して堀切㋐から入るので、東側の切岸の加工度はかなり高い。

【城主・城歴】

立地から見て、南朝方の香坂氏やその配下であった河野氏の関連だと思われるが、史料や伝承等がなく不明。先日ご紹介した「巻ヶ支城」の造りににているので、同時期の築城と思われるがはっきりしない。

DSCF3970.jpg
主郭手前の段郭。削平も曖昧でハッキリしない。

DSCF3971.jpg
主郭の中心部に倒れる標柱。あるだけマシと思いつつ・・・。

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「茶臼山城」と表記しない潔さは認めるが、「城」と付け足すメリットのが重要な気もするが・・・。

【城跡】

山頂部の主郭は12×10の円形で、周囲を取り巻くように腰郭が存在する。ただし、削平は曖昧である。
東西の尾根に堀切を備えるものの、基本的な防御構造は信濃の古い形式の山城を踏襲する段郭方式である。対岸の巻ヶ城は同時期の築城でありながら、戦国時代にはある程度改修を加えられたと考えられるが、この茶臼山城は捨て置かれたような状態に思える。とはいえ、集落の乗り越しの道を監視する砦として使われたのかもしれない。

DSCF3975.jpg
主郭の南方面。

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西尾根の堀切㋐を見下ろした写真。堀切㋑と違って、こちらの加工度は高い。

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西尾根の削平部分。

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まあ、もう一度戻っての堀切㋐。

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主郭の南尾根の段郭。

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主郭とそれを周回する帯郭。


≪茶臼山城≫ (ちゃうすやまじょう)

標高:674m 比高140m(芦部川より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡豊丘村河野堀越
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:無住の寺より片道15分ぐらい
駐車場:無し (麓の道路沿いに路駐)
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
見どころ:堀切・切岸など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿

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訪城当時のスマホのスクリーンショット

Posted on 2019/07/20 Sat. 23:14 [edit]

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巻ヶ支城 (下伊那郡豊丘村神稲)  

◆巻ヶ城の南を守り古道を監視した砦◆

今頃気が付いたのだが、ブログを解説開設して十年が過ぎた・・・。

当たり前だが、開設当初の1年ぐらいは読者も近寄らず、ブロ友を申請しても返事など無く、似たようなブログの皆様にコメントしてもそっけない返事。

やる気だけが空回りして味気ない日々を過ごしてきたが、「読者を増やしたいと思うなら、記事の更新を止めてはいけない」と小生の尊敬する「城と古戦場」の管理人のマサハレ様に励まされ、気が付いたらここまで何とか続いていたという有り様・・・(笑)

IMG_0534.jpg
巻ヶ城の説明板は、何故か登り口ではなく、北側の芦部川の茶臼山城の登り口手前に設置されていた・・絶対にこちらからは登れない(汗)

今回ご案内するのは、前回掲載した巻ヶ城の古道を挟んだ南側に築かれた「巻ヶ支城」である。

巻ヶ城見取図①
今回は下側の支城の見取図をご参照ください。

【立地】

巻ヶ城との間に形成された洞を挟んだ南の小高い丘に築かれている。
古くは山田から笹久保を経て坂鳥峠を越えて北山集落を経由し唐松峠を越えて大河原に至る山道の入口を抑える場所である。

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巻ヶ城の説明板(拡大版)

【城主・城歴】

前回掲載した巻ヶ城をご参照ください。

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休耕地となった水田跡から適当に5分ほど斜面を登ると主郭の西尾根の削平された尾根に辿り着く。

DSCF3944.jpg
支城の唯一の西側の堀切。上巾は5m程度。

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主郭から見下ろした堀切。

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主郭と周囲を囲む帯郭との切岸。結構真面目に角度をキチンと付けている。

【城跡】

頂部に土塁を削り残した不正五角形を置き、その一段下の周囲に帯郭を配置した単純な縄張である。堀切で遮断した西尾根は造成途中で放棄されたのか、その必要が無かったのかは悩むところである。
山道の監視や取り込みというのは側面的な解釈で、巻ヶ城の弱点である南側の斜面の防御と水の手の防御の為に築かれたのであろう。

DSCF3943.jpg
堀切から見た主郭の土塁。

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主郭内部。

DSCF3950.jpg
主郭の東側の縁にある土塁。

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主郭と帯郭の接続部分(主郭から東の帯郭を見下ろす)

頂部に三方に囲むような土塁を設けた主郭を持ち、一段下に周回する帯郭を設けただけの山城である。
この縄張は、のちに紹介する巻ヶ城の北側に位置する「茶臼山城」と規模は違えど中々類似している事に気が付く。

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主郭の外側を巡る帯郭。削平がやや曖昧。

≪巻ヶ支城≫ (まきがしじょう)

標高:653.6m 比高85m(池の平より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡豊丘村神稲山田
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:車から降りて15分ぐらい
駐車場:無し (麓の山田集落に路駐)
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
見どころ:堀切・切岸など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿



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取るに足らない城なんて無い・・・誰かが語らねば、その砦の存在すら忘却の彼方に消えてしまうという危惧を持ち続けたい。

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芦部川沿いから見た巻ヶ城。

Posted on 2019/07/12 Fri. 22:01 [edit]

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巻ヶ城 (下伊那郡豊丘村河野)  

◆南朝方の本拠地である大河原城への街道を眼下に監視した城砦◆

伊那谷の城館を語る際に避けて通れないのが「南北朝の動乱」とよばれる56年間で、伊那谷の有力豪族であった香坂高宗は居城である大河原城に後醍醐天皇の第八皇子である宗良親王をお迎えして、ここに征東府を置き南朝方の東国平定の拠点とし山城ネットワークを構築し北朝と対峙した。
※詳しくは→大河原城 を起点とした小生の大鹿村の城巡り記事をご参照ください。

今回ご案内するのは、伊那谷から南朝方の拠点である大鹿村への山道を抑えるために構築された巻ヶ城と巻ヶ城支城である。

巻ヶ城見取図①
街道を挟むように築城された二つの砦。

【立地】

豊丘村と大鹿村の境に位置する鬼面山(1889.8m)と大西山(1741.6m)を源流とする芦部川と虻川に挟まれた天竜川に臨む支脈の先端に位置する。芦部川側の北の深い渓谷を挟んで指呼の先に茶臼山城があり、南側の緩い斜面の対岸には巻ヶ支城がある。

DSCF3895.jpg
大手筋から斜面を登ると最初に現れる堀切㋑。ほぼ箱掘である。

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堀切㋑の西側の郭(20×7)。削平も曖昧なまま。

【城主・城歴】

ハッキリした事は不明だが、南朝方となった大河原城の香坂氏の勢力下であるので、香坂氏やその配下の河野氏に関わる城と推測されている。南北朝の動乱が終わり役目を終えたかに思われたが、戦国時代に入り再び改修され、本城と共に秋葉街道に通じる山道を監視したものと思われる。

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郭3(47×17)

巻2
郭3から見下ろした堀切㋑。倒木も多く荒れ放題・・・

DSCF3906.jpg
何故か郭3にある三角点。

【城跡】

尾根の最頂部に長方形の主郭を置き、西側に郭2、郭3を置き、主郭の南北に段郭を配置した縄張、西端と北東の尾根を堀切で区切っている。
面白い事に郭2は方形の窪地で、南に土塁を伴う平虎口で防御されている。見方を変えると、郭2は桝形虎口そのものであり、郭1と郭3からの狭間空間となり、侵入する攻城兵の殲滅が可能である。南北朝時代のものではなく、戦国時代の改修とみるが、どうであろうか。

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郭2(15×12)の南側の土塁と虎口。

DSCF3910.jpg
虎口の正面。(郭2側から撮影)

DSCF3913.jpg
尾根の南側には細長い帯郭の郭4と郭5。

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郭2から見上げた郭1(主郭)と接続部分の切岸。

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郭4から郭1に接続する虎口。神社勧進の際に開けられ城の遺構では無いと思う。本来は郭4の東端から迂回したと思う。

史料や口伝なども残らない砦なので、築城年代や改修歴を推定するにもかなり困難である。
ただ、街道を挟んだ対岸に位置する巻ヶ城支城や北側の渓谷を挟んだ茶臼山城と比較すると、最終的に改修された年代はそれよりも新しいと推定できることは間違いないと思う。

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矢竹の生い茂る主郭の西側。

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巻ヶ城の主郭に鎮座する社殿。コの字型の土塁で囲まれている。当初は櫓台跡か?と思ったが・・

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社殿の土塁背後の東側の削平地。

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北東の尾根を遮断する堀切㋐。

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主郭北側の郭6.削平が不完全で犬走のようだ。

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郭6の西端。しいたけ栽培の原木があるが、今は作る人も途絶えたようです。

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郭6の北側には竪堀の跡も確認出来る。

神社の勧進や耕作化に伴い部分的に改変を受けていると思われるが、全体的に遺構は良く残ったほうだと思われる。

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主郭の社殿のある巨大な土檀と「ていぴす」殿。やはり櫓台が置かれていたと妄想するが・・・(笑)


≪巻ヶ城≫ (まきがじょう 牧ヶ城 槙ヶ城)

標高:663m 比高95m(池の平より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡豊丘村神稲山田
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:車から降りて15分ぐらい
駐車場:無し (麓の山田集落に路駐)
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
見どころ:堀切・虎口・切岸など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿



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当日のスクリーンショットと三つの山城の位置関係。

Posted on 2019/07/11 Thu. 08:44 [edit]

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本城 (下伊那郡豊丘村河野)  

◆天竜川の左岸の崖淵城には珍しい「横堀と虎口」を装備した砦城◆

「艦船プラモの製作は止めたの?」とご質問がありそうですが、そんな事は無くて「1/700ウォーターラインシリーズ」の最新完成作品は「秋津州」(あきつしま)。

その後、「蒼き鋼のアルペジオ」なるコミックにハマってしまい、そこに登場する潜水艦「I-401」とか重巡「TAKAO」のフルハルモデルを丹精込めて作っていました・・・(笑)

そう言えば昨日、重巡「摩耶」が発見されたというニュースを拝見しました。摩耶は、愛宕、鳥海と共に高雄型の姉妹艦でしたよね。祖国と家族、そして大切な人を守るために散った英霊に改めて祈りを捧げたいと思います。

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なんせ初代「宇宙戦艦ヤマト」の世代だし、「艦これ」の軍艦+擬人化モデルを融合したこのコミックは「どストライク」なのです(笑)

まあ、そんな個人のどうでもいい趣味はさておき、今回ご案内するのは、豊丘村シリーズの「本城」(ほんじょう)

DSCF3841.jpg
堀切㋒(上巾14m)は脇の道路から観察できる。

【立地】

豊丘村の河野地区の後背の山地が尽きる末端部の山で、南側には寺沢川を隔てて500mの位置に上の城がある。また城跡の北東の丘陵地は「勝負平」で、その名から付近一帯で合戦があったと伝わる。

本城(豊丘村)見取図①
「今まで紹介した他の河岸段丘の館城と何が違うのさ?」と指摘されれば、主郭北側の横堀と明確な虎口の存在であろうか。

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堀切㋒から突入してもよいが、道なりに西に進むと標柱があるので、そこから主郭へ入りましょう。

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北側から見上げた堀切㋑。上巾は14mほどだがかなり埋没している。

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チョッとピンボケしちゃいましたが、主郭下の横堀(帯郭?)の入口に明確な虎口の跡が確認出来る。

【城主・城歴】

城跡に立つ豊丘村教育委員会の説明板(昭和57年)によると、築城年、築城者とも不明であるが、室町時代末のものと推定されるという。

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とても昭和57年製とは思えない立派な看板。当時の村の熱意を感じる。(無論、今も継続中と信じたいが・・)

【城跡】

勝負平の西南の黒谷に突き出した丘陵の先端を三条の深い空堀で穿った堅固な縄張を持つ城である。山頂部の郭1が最も広く61×40の台形。東端の堀切㋑と接続する部分に土を土塁で囲んでいる。西端は11mほどの鋭利な切岸を伴い上巾15mの堀切㋐にに接続する。
堀切㋐と堀切㋑は本郭の北側の段下で約50mの横堀で接続され、この城の弱点である北斜面からの攻撃に備えたものであろう。
堀切㋐の北側に郭3が置かれ、宮坂氏はこれを馬出と見ている。
郭2は郭1と堀切㋑を隔てた長さ約40mの削平地。そこから東へ30mほどの細長い鞍部の先を堀切㋒で穿ち城域は終わる。

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堀切㋐と堀切㋑を連結するように構築された横堀㋑。堅固な土塁が築かれている。

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横堀と堀切㋐の接続部分。

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堀切㋐は南側斜面に竪堀として収斂するが、ご覧の荒れ模様・・・(汗)

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堀切㋐から主郭に入る位置に桝形虎口らしき構造もあるが、崩落もあり観察は厳しい。堀底を迂回させて主郭に入るというのは戦国時代の山城の特徴とも。

付近の河岸段丘の館城と比較すると、横堀の存在、虎口の存在が大きな違いとなっている。
明らかに実践を想定した縄張で、南北朝時代の古い山城の遺構とは違う気もする。宮坂氏が考察されるように、北方1.5kmに武田氏の大島城がある事から、対岸の支城として改修され末期まで現役として機能していたようにも思える。

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村指定史跡でありながら、郭1はご覧の状態・・・。

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例の如く、杉林が遺構を守り続けてくださいました…感謝感謝・・・。

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主郭の南側の段郭。こちら側には土塁は無くて、削平のみ。

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南側の堀底から撮影した堀切㋑。倒木と藪で酷い状態だがまあ、それなりの撮影場所を見つければ何とか見れるレベル。

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堀切②越しに撮影した郭2。藪が酷くて突入は諦めましたとさ・・・(笑)


≪本城≫ (ほんじょう)

標高:559m 比高80m(中部地区より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡豊丘村河野
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:入口標柱より5分
駐車場:無し、路駐
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
見どころ:堀切・横堀・切岸など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿

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主郭背後の土塁にある三角点も荒れ放題・・・・いいのか?国土地理院・・・笑



Posted on 2019/07/04 Thu. 20:21 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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