らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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さるが城(岩原古城 安曇野市堀金)  

◆ゴム長での信濃先方衆未到の比高700mは、心が二度折れながらの成果だった・・◆

先月の岩櫃城フォーラムでは、我ら信濃先方衆が全国区の山城マニアの間では「信濃の稀有でマイナーな山城探訪マニア」として名を馳せている現実を知った・・・(汗)

「信州の山城を検索すると、必ず貴殿のブログがヒットしますよね。しかも誰も知らないような山城の紹介がメインでしたよネ・・・」

全くもってその通りなので苦笑するしかなかったが、我らに対する最大の賛辞として解釈するようにはしているのだが・・・(笑)

先日の20日(日)、我々は安曇野市のラスボス(どんだけラスボスがいるのやら・・・)として1年越しで「さるが城(岩原古城)」に挑んだのである。

岩原古城(さるが城) (49)
1,000m付近の林道からは二週連続で雲海に遭遇。この雲の下に安曇野市がある。

前日は雨だったので、足元の装備はゴム長(スパイクピン付き)。比高700mをゴム長で行くのも初体験である(笑)

登路は、烏川第三発電所の導水管の途中まで林道が入るが、工事車両以外は通行禁止。ここを歩いて終点につき、ここから導水管脇の作業道を伝って標高1301mの三角点から城跡の1,510mへ辿り着く予定だった。

岩原古城(さるが城) (6)
舗装された林道を徒歩で登るのも辛いものがある。

ようやく林道の終点(登り口から比高250m)について、我々は愕然とした。導水管の脇の作業道はモノレールの軌道になっており、しかも有刺鉄線の張られた頑丈なフェンスが延々と1,301mの三角点まで続いていて全く入れないのである。反対側にも回り込めないし、フェンス沿いに登るにしても酷い藪が続きとても行かれそうにない。

「ここまで登ったのに、諦めるしかないのか・・・」  心が折れた。(第一回目)

さるが城地図①
さるが城攻略ルート(国土地理院1/25000の地図に加筆しています)

【ルート変更の決断】

我々は諦めが悪い(潔くないともいう)ので、林道を戻りながら違う尾根から1,301m地点に行かれないか思案した。

「鉄塔まで登れば保安道で行けるかもしれない・・・」 このことであった。

地形図を読みながら沢から適当に尾根にへばり付いてひたすら登る。しっかりした道形があるので、林道開通以前はこの尾根が使われていた可能性がある。

岩原古城(さるが城) (11)
ようやく辿り着いた高瀬川No.66の鉄塔。

東京電力の鉄塔保安道はかなり荒れていたが、なんとか導水管の終点まで続いているので、これを辿り何とか1,301の三角点まで行けた。この時点で登山開始からすでに2時間30分が経過していた・・・(汗)

「さあ、城跡までラストの比高200m!!」

岩原古城(さるが城) (13)
1301.5mの三角点のある平場。草も刈られていた。

しかし喜びもつかの間だった。

「この先、身の丈ほどもある熊笹が藪となっていて、道が消えているゾ・・・」 心が折れた (第二回目)

150cm~170cmもある熊笹が尾根全体を覆っていて万事休すだった。

岩原古城(さるが城) (14)
正面に見えるのが「さるが城(岩原古城)」ここを進む覚悟はあるか?


【不退転の覚悟で熊笹を突き進む】

ダメ元で熊笹の大藪を10mほど進んでみた。足下に僅かだが道形があった。

「行っちゃいますか・・・、どうしてもダメなら引き返しましょうか・・・」 お気楽極楽な思考回路とは、このことであった(笑)

岩原古城(さるが城) (45)
ご覧のような「熊笹の海原」をひたすら進む。帰り道に遭難しないように黄色テープを木に巻き付けながら進む。

何も障害物が無ければ20分程度の工程を「熊笹薮漕ぎ」+「テープ貼」の作業が加わるので60分かかって無事到着。


【城跡に最初に来た宮坂氏は神であろう】

登山開始から3時間40分後の11時40分、我々はとうとう「さるが城(岩原古城)」に到達した。標高は1510mである。

信濃の山城研究における第一人者である宮坂武男氏は、この笹薮の中をたった一人で藪漕ぎしながら来たのである。

背丈ほどある笹薮なので、時々木に登るか、斜面からでしか周囲が見えず、何か得体のしれない生物と遭遇する危険度は高い。

「地元の史料を確認し、ここを城跡として特定し、調査し、縄張図を描く・・・・まさしく神の所業である」

岩原古城(さるが城) (3)
到達時にスマホの国土地理院マップに表示された1,510m地点。このアプリが無いと我々の到達も難しかった。

残念ながら、さるが城と呼ばれ熊笹の絨毯が覆うこの場所は猿も来ないと思われる・・・(笑)

こんな場所を調査するのは至難の業であるが、我々も必死に徘徊した。

岩原古城(さるが城) (17)
さるが城の主郭。

そして、この城が「逃げ込み城」として存在する理由の一つが「舟窪の池」(ふなくぼのいけ)で、確かに我々も確認した。

岩原古城(さるが城) (32)
熊笹の藪の中に忽然と現れた「舟窪の池」。水が確保出来れば、10日間くらいは籠れるだろうか。

「自然地形じゃないの?」

賢明な読者の方や山城ツアラーの方はそう指摘するかもしれない。

しかし、ここには岩原●●(おそらく古城か)という標柱が存在していた事を宮坂武男氏は記述している。

我々は熊笹藪の中に標柱の残骸を必死に探した・・・腐って消滅したかもしれない・・・・

「あった!!」

岩原古城(さるが城) (43)
根本に白ペンキの痕跡が残っている。周辺に標柱の破片を探したが見つからず、消滅したのであろう。

岩原古城(さるが城) (20)
山道が通っていた往時は笹薮など無く、キチンと手入れされていたと思われるが、今じゃ一面熊笹の海。

さるが城は、小笠原氏配下の堀金氏の岩原城の詰め城と言われている。岩原城とは直接尾根は繋がっていないが、ここを詰め城としたのは、水が十分に確保できているためであろう。
宮坂武男氏の調査によれば、舟窪の意ねの周囲には土塁らしきものが囲っているようだが、笹薮が酷くて詳細は確認出来なかった。防御構造というものはほとんどなく、俗にいう「足弱の逃げ込み城」と推定される。

比高700mをゴム長で登るというのはグリップが低い為に大変な負担だったが、藪漕ぎにおける蛇対策には最強の防具であった。

岩原古城(さるが城) (23)
こんな場所で標柱を探すのも正気の沙汰ではない・・・(笑)

岩原古城(さるが城) (33)
満面の水を湛えた「舟窪の池」


≪さるが城≫ (さるがじょう 岩原古城 奥の城)

標高:1,510m 比高:700m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:安曇野市堀金烏川
攻城日:2016年11月20日 
お勧め度:☆☆☆☆☆ (お勧めしません)
館跡までの所要時間:120分 駐車場:道路脇に路駐
見どころ:舟窪の池
注意事項:遭難の危険あり。単独訪問不可。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇の編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P66参照) 
付近の城址:岩原城、小倉城など
SpecialThanks:ていぴす殿 (感謝感謝でございますw)

岩原古城(さるが城) (46)
下山途中から見た岩原城。対面の尾根にあるので直接訪問することは出来ない。



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Posted on 2016/11/23 Wed. 15:40 [edit]

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千束城南東尾根砦 (南安曇郡小谷村中小谷)  

◆千束城の烽火台か?◆

北信濃の山城=雪に覆われ見学期間が短い・・・というのは確かにそうだが、プラス「藪との戦い」でもある。

小谷・白馬地方は特に藪椿(ヤブツバキ)の自生地が多く、誰かが意図的に我ら城探訪者に意地悪をするために植えたのか?と疑いたくなるほどである・・・(笑)

今回ご紹介するのは、その名の通り前回ご紹介した千束城の南東の尾根にある「千束城南東尾根砦」(中ドヤ)である。

IMG_1978.jpg
信濃先方衆の我らに「敵前逃亡」とか「戦わずして退却」はあり得ない。前進あるのみ。

【立地】

千束城(北ドヤ)から南東に張り出した尾根の中断に位置し、この砦から千束城まで比高約140mある。登り口は池原集落より林道を登り脇の休耕地から斜面に取り付くのが無難。千束城から縦走して下るのも良いが藪漕ぎ必死なので覚悟が必要だ。

千束城南東尾根砦 (4)比高144mを藪漕ぎで下るのは大変。ようやく辿り着いた砦の遺構。

南東尾根砦見取図 001加工度はそれなりだが、なんともヘンテコリンな形の砦である。宮坂氏は西半分が崩落した可能性も推定されている。

千束城南東尾根砦 (6)西から東へ弧を描くように巡る堀切㋓。

千束城南東尾根砦 (9)西崖側の堀切㋓。

【城主・城歴】

千束城同様に不明。小谷村誌では「北ドヤ」を千束城と推定していて、「南ドヤ」については「池原の須合地籍南側にあたり、姫川に張り出した尾根上に構えられた城である。」として「昔城があったとされる中ドヤの確認も急がれる」としている。
宮坂武男氏は北ドヤを千束城、南ドヤを鳥居城と特定できたとするなら、この南東尾根砦は北ドヤと南ドヤの中間に位置するのだから、ここを「中ドヤ」ととみてもようさそうだ、としている。

小谷村誌では、千束城の築城主体を北西の石坂集落としているので、この場合わざわざ物見として南東尾根砦を築く意味が見当たらない。考え方とすれば、北側勢力がが守りから攻撃支配へと転じ出城を築く必要性に迫られたものと解釈できるであろうか。

千束城南東尾根砦 (11)堀切㋓と段差付きの二重堀切(横堀)を構成する堀切㋒の西側の出口付近。

【城跡】

千束城と同じく藪椿が城跡一面を覆い尽くしてしまい、自分が縄張図のどの位置に立っているのかすら判断に悩む。
本城の尾根に対しては段付きの二重堀切を穿ちかなり厳重に警戒している。土塁で囲んだ主要部は窪地も含めて自然地形を利用した跡が認められるが、宮坂氏の指摘のように西側が崩落した可能性は捨てきれない。

千束城南東尾根砦 (13)堀切㋒。

千束城南東尾根砦 (12)残雪が無ければ堀切の撮影は無意味なのもであったかもしれない。

千束城南東尾根砦 (17)砦の主要部。藪に覆われて何が何だか写真ではさっぱり分からないと思われる・・・(汗)

千束城南東尾根砦 (20)比高144mの千束城を見上げる。「もう、行きたくない・・・」(笑)

何処をどうあがいても見渡す限りの「椿祭り」である。
写真を撮るだけ無駄と思いながら、補助線引いて何とかしたいとも思うのである。

千束城南東尾根砦 (21)城域の東側を遮断する堀切㋑。

千束城南東尾根砦 (25)南東斜面の最終の堀切㋐。

IMG_1975.jpg
ここが城の中心部です。そういわれても「♪椿咲く~春なのに~ あなたは帰らない~♪」のヘビーローテーション(笑)

さあ、如何だったでしょうか?

「えっ、これだけなの?」  そうなんです。この先、どんな写真を出そうと椿の春になってしまいますw

何故ここに砦が必要だったのか?

考えすぎても夜はぐっすり眠れる自分に乾杯!!・・(笑)


≪千束城南東尾根砦≫ (せんぞくじょうなんとうおねとりで 中ドヤ)

標高:726m 比高:165m(池原の辻より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:北安曇郡小谷村中小谷
攻城日:2015年5月2日 
お勧め度:★★☆☆☆  
城跡までの所要時間:100分(千束城経由) 駐車場:特にない。路駐。
見どころ:段付き二重横堀、土塁など
注意事項:特に無いが、藪漕ぎ必死。単独訪問は避けよう。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)、 小谷村誌
付近の城址:千束城、舘山、平倉城、鳥居城など
Special Thanks:ていぴす様

千束城(小谷村) (60)
池原集落から見た砦。この場所の立地と高さで充分単独物件としての山城の要件を満たしていると思われる。














Posted on 2015/12/06 Sun. 20:22 [edit]

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千束城 (北安曇郡小谷村中小谷)  

◆千国街道沿いを流れる姫川の左岸に迫り出した峰の上に位置する監視砦◆

さて、話を元の北安曇郡小谷村の城砦群に戻そうと思う。

毎度の事ながら予定数の攻城戦を消化出来ないジレンマに慣れてきたものの、今回は一日かけて三か所で終了と相成った次第。こんなに効率の悪い城攻めは今後ないだろうと思ったが、先日の飯山攻めで再現する羽目に・・・。恐るべし信濃の山城・・(笑)

小谷周辺図
国土地理院の地図に書き込みを加えて往時の城砦群を記載しています。

実際の信越国境は糸魚川と接する北小谷であるが、事実上の信越国境は平倉城を北限とする中土(中小谷)の池原集落周辺だったと推定される。
姫川沿いの左岸を北上する千国街道は、ここで姫川の渓谷が深く厳しくなるために左岸の台地を大きく西に迂回している。ここの通行を監視するための砦が「千束城」(せんぞくじょう)だったと伝わる。

IMG_1964.jpg
池原集落の南側から見た平倉城と立山。

IMG_1963.jpg
2013年9月末にスズメバチの攻撃により撤収した苦々しい思い出のある平倉城は目と鼻の先にある。

この日の午前中に、黒川城を攻略した我ら信濃先方衆は意気揚々と次の目的地である千束城に向けて進軍を開始して予定通り麓に着いた。
しかし、慢心ゆえに二つの不幸が我々を襲ったのである。

①山を間違えて途中まで登りかけた・・・・   これはダメですね。おかげで時間と体力をロスしました・・(汗)

②道路工事の為に登り口まで車で行けず約1kmを徒歩で進軍・・・ 行政を恨んで体力と時間を消耗。もう最悪パターン(汗)

IMG_1967.jpg
二人で車道を歩きながら見上げた城跡。

ここまで来たら止める訳にもいかないので、砦と本城(千束城)のどちらを先に行くかの協議となる。
本城から砦に至る傾斜はかなりキツく見えるので、本城の鞍部の西尾根にへばりついて、千束城⇒南東尾根砦に向かう決断を下す。これが正しい判断だったと山を下りて実感しました・・(笑)

IMG_1968.jpg
山の際まで開墾された水田。桃源郷のような世界とはこのような世界であろうか・・・。

【立地】

姫川の左岸になり、対岸の立山と対峙する位置にある。池原より登り口があったようだが、現在は消滅している。城跡の頂部西側の鞍部とその下の斜面が伐木され、木材運搬用のロープウェイが設置されていたので我々はそこを目指して辿ったのだが、疲労困憊は想像以上であった・・・。

IMG_1969.jpg
登り口の泥田に足を取られ、途中の斜面の切株に難儀しながら比高150mの鞍部へ登るのに40分とは想定外だった。

千束城(小谷村) (9)
鞍部手前の斜面は切株だらけ・・・歩くのも大変・・・(汗)

【城主・城歴】

小谷村誌歴史編の「第3章 中世の小谷村 題5節小谷の城館跡」編では、「四 その他の城跡」の「1池原周辺の城跡」として以下の記載がある。

「長野県町村誌」や「北安曇郡志」などに「千束(速)城」(せんぞくじょう)あるいは「北ドヤ」などの表現が見られる城跡は、池原西側の標高八七〇メートルmの単郭の山城である。現在、「千束」という地名はこの山の西南の平坦地を指しており、「北ドヤ」は池原から石垣へ通じる旧道の上方部の地名としてのみ残っているに過ぎない。「長野県町村誌」の中の絵図には、石坂から登る道が描かれているが、現在は池原からの道しかない。

千束城(小谷村) (11)
宮坂武男氏も思わず記載した「椿の密生した藪で歩行は困難を極める」・・今も歩行は困難である。

主郭は現在林になっており、見通しが利かないが、姫川を隔てた平倉城、舘山(立山)、あるいは黒川の山城が望まれるため、監視哨としての性格が強かったものと思われる。主郭を取り囲むように帯曲輪も確認されている。この山城はおそらく石坂方面の勢力が持っていたものと思われる。

※以上、小谷村村史の第5節「小谷村の城館跡」より引用。

千束城(小谷村) (12)
道無き椿の藪を掻き分けて進むていぴす殿。信濃先方衆としても異例の「椿漕ぎ」である。

千束城見取図② 001
防御指向が北及び西方向というだけで池原の詰め城と考えてしまうが、背水の陣とす考えれば北の石坂集落というのも納得である。

【城跡】

どことなく三日市場城を彷彿とさせる縄張であるが、城域の広さは1/2以下であろうか。
黒川城で見飽きた「椿(つばき)祭り」の再現であるが、辛うじて西斜面の杉林と堀切の残雪に助けられて何とか城跡の主要部の構造は理解できる遺構が確認できた。この藪の中を宮坂氏はどうやって調べたのか・・・やはり神の領域である・・。

千束城(小谷村) (16)
城域西側の入口にある25×8の削平地。(残雪部分)小屋番の兵士の寝泊まり用の掘立小屋があったのだろうか。

千束城(小谷村) (18)
千束城西側の帯郭と土塁。椿が途切れて杉林になるが、木の根の弯曲は豪雪地ならではの自然の摂理である。

千束城(小谷村) (24)
放射状の竪堀を伴う西側の帯郭。恐らく横堀にする予定で土塁を巡らせたのであろう。

千束城(小谷村) (25)
白馬周辺の主要な山城の最終形は放射状の竪堀が特徴なのか?

かなり加工度の高い縄張を持つので、単なる物見や狼煙台ではなかったようだ。
放射状の竪堀とか書くと「すわ、武田の縄張りだ」などと言われそうだが、しっかり考察する必要はあると思われる。

千束城(小谷村) (28)
西側から見た堀切㋑。残雪で幅がお分かりいただけるかと・・・。

千束城(小谷村) (34)
北端に位置する堀切㋒。かなり埋まりつつある。

さて、踏査を進める我ら信濃先方衆だが、椿の群生は容赦なく城跡を覆い主郭部分から南半分は全く様子が分からないのである。おまけにクーさんらしき物体が主郭の東側を徘徊しているらしく、ハンパない緊張感に包まれる始末である・・・(汗)

千束城(小谷村) (45)
堀切㋑を越えた北側よりみた郭2と主郭との間の堀切㋐。窪地は天水溜だろうか?

千束城(小谷村) (54)
堀切㋐の西斜面への処理。

千束城(小谷村) (55)
北側から見た西斜面の処理。かなり手を加えているのが分かる。

千束城(小谷村) (53)
主郭(郭1)は藪の中に埋没してしまい調査不能であった。

まあね、直接遭遇した訳ではないが、クーさんの接近が感じられたために次の探索地である南東尾根砦に向かうことにした。
椿の花が咲き乱れ、急斜面の先には何も見えない状態で尾根を下る恐怖は想像を絶するものがあった・・・。

「生きて帰れれば、そんな人生、生きてるだけで、まる儲けか・・・(笑)」

千束城(小谷村) (59)
郭4も椿パラダイス・・(汗)

体や顔を容赦なく打ち付ける椿の藪漕ぎに閉口しつつ、「俺の人生って何なのさ・・・」 ふと考えるが、無駄な思考であった。


≪千束城≫ (せんぞくじょう 北ドヤ・北殿・千速城)

標高:870.3m 比高:400m(中土駅より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:北安曇郡小谷村中小谷
攻城日:2015年5月2日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:80分 駐車場:特にない。路駐。
見どころ:畝状竪堀、横堀、土塁、天水溜など
注意事項:特に無いが、藪漕ぎ必死。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)、 小谷村誌
付近の城址:千束城南東尾根砦、舘山、平倉城、鳥居城など
Special Thanks:ていぴす様

IMG_1966.jpg
山頂が見える山城はとても遠いのである。














Posted on 2015/12/03 Thu. 21:41 [edit]

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黒川城 (北安曇郡小谷村黒川)  

◆熾烈を極める「景勝VS貞慶」の攻防「小谷編」の舞台となった山城◆

安曇地方の山城の記事は1年ぶりとなる。

三日市場城の破壊について白馬村を追及し、事案が解決に向かう矢先の11月22日に神城断層地震が起き城域周辺は壊滅的な打撃を受けてしまったのだ。
原状回復にはまだまだ遠い状況だというが、一日も早い復興を願っております。

今回ご紹介するのは、平倉城の廃城後に信越国境に位置する小谷地方の拠点となった黒川城。

黒川館(小谷村) (1)
千国駅から見た黒川館と背後の黒川城(2013年9月撮影)

【立地】

姫川の右岸、黒川集落の北東1kmの姫川と横根沢との間の山上に黒川城がある。東西の斜面は急で要害の地である。登路は東の山蔭にある猿倉沢の真木の集落に向かう山道があり、尾根を登り切った切り通しの所が四ツ辻と言われる場所である。その少し手前に水場がある。四ツ辻より真木への道から分かれて、尾根通しに400mの山が黒川城跡になる。

IMG_1944.jpg
半自給自足で有名となった真木集落に向かう道の標識に従い山道を登る。

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登り始めてしばらくすると見える黒川城。気が遠くなる・・・(笑)

この山は千国街道の姫川左岸でなく街道から離れた比高360mもある高山に占地したのは、ここから姫川の谷筋の眺望にある。この山からは近在の城砦の多くは視界に入るが、何よりも大事に思われるのは、北方4.5km先の平倉城を直視出来る位置にあることである。またその手前に聳え立つ舘山も望見でき、西南の千国地区や千国街道を遠くまで視野に入れられることであり、この谷中の重要な展望台を担っている点にある。

IMG_1949.jpg
こんな書き方すると極悪非道の「ウォンテッド(おたずねもの)」だよネ・・(汗)

黒川城(小谷村) (1)
真木集落へ向かうこの道の脇に佇む地蔵さま。

黒川城(小谷村) (3)
登り始めて約40分で四ツ辻の交差。いわゆる「乗り越し」である。ここから左の尾根に入り黒川城へ向かう。

【城主・城歴】

「小谷村誌」では黒川館と黒川城はいわゆる城館一体型の史跡として認識しているので、築城時期も使われた年代もほぼ同じと推定している。
なので、本篇も依然の記事を抜粋し引用させていただくがご了承いただきたい。

黒川城(小谷村) (95)
四ツ辻から見た真木集落。山の向こうは鬼無里である。

黒川城縄張図 001
独立峰に築かれた円郭+放射状竪堀の縄張り。戦国末期まで改修が続けられたと思われる。

●小谷の千国氏の出自

千国氏は仁科一族の堀金氏(ほりがねし 現在の安曇野市堀金)の出自だという。

室町時代の安曇地方は、南を小笠原氏・北は仁科氏という二大勢力が領有し西牧氏と細萱氏はその間にあった。
当初は穂高川が境界線だったようだが、仁科氏の南進は続き古厩(小岩嶽・穂高有明)を制し、更に烏川を越え堀金の地に及ぶ。

仁科宗家は一族に古厩氏を名乗らせ、堀金氏も古厩氏の同族というのが定説である。

堀金氏の初見は天文二十年(1551)で「高白斉記」の十月二十日の条に「(晴信)深志へ御着城、二十二日ホリカ子出仕」とある。

この三日後に反武田勢力の拠点だった平瀬城は武田軍の猛攻により落城、二十七日には小岩嶽城は放火されている。(小岩嶽城は翌年八月には晴信が自ら出陣し落城させられた)

既に仁科宗家は前年の天文十九年(1550)七月に武田晴信に出仕していたが、堀金氏は最後まで武田に降るか迷っていたようである。

黒川城(小谷村) (93)
城域に入る手前の尾根の東の沢に巨大な天水溜がある。城の水の手であろう。

小岩嶽城の陥落により安曇郡は武田氏の支配下となったが、小谷の仁科氏の支族飯森十郎春盛は越後の長尾氏に通じて武田晴信への徹底抗戦を続けていた。

弘治三年(1557)七月、武田晴信は平倉城(小谷城)に籠る飯森十郎春盛を攻め滅ぼし、堀金氏もこの戦に出陣したようで、慶長十六年(1611)書留の千国文書によれば、
「此丹波(堀金氏三代目の兄)武田信玄(晴信)随申(身)、千国之平平倉責之節軍功ニ依て千国六ヵ村を被出置、則千国名字ニ信玄より被仰付、堀金職を捨、千国名字ニ成ル」とされている。

※小谷は来馬・石坂・千国・中谷・土谷・大網・深原の七ヵ村で、飯森氏の支配下にあったわけであるが、これに代わって堀金氏がこの支配を命じられたようである。しかし千国文書にみえる「千国五ヵ村の地頭」の五ヵ村がどこを指しているか明白でない。山口裕氏所蔵文書の「堀金氏之事」によると、千国丹波は千国黒川で病死していることからして千国枝郷の黒川城主であったようである。

以上「堀金村誌 上巻(自然歴史編)平成三年三月刊行」より引用。

黒川城(小谷村) (91)
分岐点の四ツ辻から10分ほど尾根を歩くと黒川城の城域となる。

武田統治時代の安曇野地方は、当初仁科一族の間接支配という形をとってきたが、北信濃を巡る上杉との緊張が高まると信玄は後顧の憂いを断つ結論を出した。

信越国境の安曇野を固める為に仁科宗家を滅ぼし、自分の子の五郎に仁科宗家を継がせて仁科五郎盛信と名乗らせたのである。

黒川城(小谷村) (89)
最初に現れる堀切㋐。ここから城域が始まる。

黒川城(小谷村) (85)
かなり埋没している堀切㋑。

黒川城(小谷村) (83)
堀切㋒までの尾根筋には六段程度の段郭を設けて侵入を困難にしている。

盛信はそれまでの安曇野地方における仁科支配体制を継続し優れた手腕を発揮し、信玄亡き後は兄の勝頼を補佐して信越国境を抑えた。

仁科盛信が仁科領国を統治していたのは10年間だが、千国氏も盛信の配下として小谷十人衆と共に小谷の地を治めたものと思われる。

黒川城(小谷村) (80)
城域の中枢部への侵入を遮断する堀切㋒(北側より見下ろす)。土橋は後世の造作だろう。土橋なんか渡したら堀切の意味が無い。

黒川城(小谷村) (15)
北側に対して横堀となる堀切㋒。傾斜の緩い東斜面に対する備えであろう。

黒川城(小谷村) (23)
南西の斜面に対しては竪堀となる堀切㋒。

黒川城(小谷村) (22)
堀切㋒を調査する「ていぴす殿」。この方、堀が続く限り終点まで調査するのである・・・(汗)

【天正壬午の乱における小谷の争奪戦】

武田氏滅亡後の天正十年(1582)三月、織田信長は武田に反して織田軍に味方した木曾義昌に安曇・筑摩の両郡を与える。義昌は直ちに仁科一族や在地土豪の家臣化に着手した。

一方、上杉景勝は信越国境の根知城に西片次郎右衛門房家を入城させ、小谷から仁科方面への通路を閉鎖し兵士を送り込んだ。

六月二日の本能寺の変で信長が横死し信濃から織田方の武将が撤収すると、上杉軍は直ちに小谷から安曇野方面へ侵入し在地土豪より人質を取り制圧。
さらに小笠原貞慶の叔父である貞種を擁して木曾義昌の深志城を攻めてこれを駆逐し、七月五日には入城に成功する。

黒川城(小谷村) (25)
主郭の一段下の帯郭。しっかり削平されている。

黒川城(小谷村) (30)
輪郭の帯郭に放射状の竪堀。ここら辺の仕様は三日市場城に類似している。

これに対して小笠原貞慶は徳川家康の支援を得て旧領の旧家臣団を募り、七月十六日には貞種を追い出し深志城の奪取に成功した。

上杉氏は小谷・白馬方面を抑えていたが、貞慶が安曇野における仁科一族の大半を味方に引き入れ、八月には上杉方となった日岐城を攻め落とし犀川を北上。麻績・会田を席捲すると同時に大町以北も支配下として小谷で上杉軍と対峙する。

黒川城(小谷村) (36)
主郭下の「帯郭+放射状」が北斜面に入ると「横堀+畝状竪堀」に変化するのは戦国末期まで改修された証だ。

黒川城(小谷村) (38)
横堀㋓、竪堀、土塁の交差する北側斜面。かなり厳重に防御を敷いている。

黒川城(小谷村) (47)
堀切㋔

黒川城(小谷村) (58)
郭2は中途半端な削平で終わっている。

天正十年十一月二日付けの「上杉景勝感状」(中土小谷温泉 山田寛氏蔵)によれば、上杉方では西片房家の配下にあった大所豊後守をはじめとする小谷衆が、この頃小笠原方の支配下にあった千国城を攻略し、付近一帯を焼き払っている。
※この千国城は「千国の城」とのみ書き記されているので黒川城を指すのか不明である。

黒川城(小谷村) (52)
堀切㋔の北側の不完全な郭。恐らく拡張して郭3とするつもりだったようだ。

これに対して小笠原貞慶も千国の地の確保に努め、翌天正十一年(1583)三月三日付けの「小笠原貞慶黒印状」(三郷村 千国靖夫氏蔵)によれば、貞慶はそれまで千国丹波守が握っていたと見られる千国の跡職(支配権)を善左衛門以下十人の「千国奉公衆」に宛行い、槍と鉄砲を十丁ずつ確保して小谷筋の警戒をするように命じている。

黒川城(小谷村) (59)
藪に覆われた北側斜面。もはや何が何だか・・・の世界である。

小谷地方における小笠原VS上杉の仁義なき戦いは麻績城、千見城を巡る攻防戦同様に一進一退が続き、最終的に小笠原の支配権が確定するのは秀吉の裁定が下りる天正十四年(1586)である。

黒川城(小谷村) (64)
主郭。藪の酷さは閉口もので、朽ち果て倒れていた表札を復旧してみる。

【城跡】

円郭方式に横堀と放射状の竪堀を組み合わせた城で、甲越紛争時~武田統治時代~戦国末期まで改修が続けられた城跡であることは城のパーツを見れば一目瞭然である。

残念ながら細部は藪に阻まれて充分な観察が出来ないが、小谷村の城砦群の中では平倉城と並び堅固な山城で、この地方を代表している。

現在の最終形は千国氏が単独で出来る土木工事量ではなく、大勢力による普請であろう。

黒川城(小谷村) (74)
常緑樹系の藪に覆われた主郭。

黒川城(小谷村) (72)
北国の城には何故椿が多いのだろうか?


黒川城(小谷村) (75)
斃れていた標柱に黒川城址の看板。村指定史跡ならもっとキチンと対処していただきたい。

黒川城(小谷村) (78)
南斜面の竪堀。

冬季間の12月~3月までは、小谷村や飯山地方を含む北信濃の山城は豪雪により閉ざされる。
兵士の束の間の休息期間だったのだろうか。
冬将軍の前には横堀も石積みも長大な竪堀も土塁も無力に等しい。

黒川城(小谷村) (77)
主郭南の帯郭。

≪黒川城≫ (くろかわじょう 黒川山城)

標高:953m 比高:360m(黒川集落より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:北安曇郡小谷村黒川
攻城日:2015年5月2日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:50分 駐車場:南小谷駅から南の月岡へ上り真木集落登り口の右側に空き地あり。
見どころ:畝状竪堀、横堀、土塁、天水溜など
注意事項:特に無いが、藪漕ぎ必死。
参考文献:堀金村誌、小谷村誌
付近の城址:黒川館、千国城、立屋の城峯砦など
Special Thanks:ていぴす様

黒川城遠景②
糸魚川街道(国道148号線)の中小谷付近から見た黒川城。



黒川城(小谷村) (100)
現在の城跡からの眺望は無いが、往時は立山、平倉城も監視できる位置にあったと推定される。(国道148号線より)













Posted on 2015/11/18 Wed. 22:41 [edit]

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西通山城 (北安曇郡白馬村西通)  

◆水運と街道の謎を知っていたはずの砦◆

山城の位置を地図上にプロットしていくと、往時の古道が見えてくる。時として、集落から離れた険しい山奥にひっそりと眠る砦もあるが、よくよく辿ると廃れた間道の脇だったりする。

山国ゆえに陸路ばかりが注目されるが、千曲川、天竜川、木曽川などの河川を利用した水路(水運)について、江戸時代以前はどうだったのであろうか?
信濃の戦国時代の謎.を解くヒントがそこにまだ眠っているような気がしないでもない・・・(笑)

青鬼の城峯・西通山城201409 (94)
西通山城の脇を流れる姫川。城域は河川によって浸食された可能性がある。

今回ご紹介するのは、青鬼の城峯から北北西700mの姫川沿いにある「西通山城」(にしかようやまじょう)

【立地】

姫川の左岸にあり西通集落(にしかよいしゅうらく)の北400m。国道148号線と姫川の間に位置する。西側から張り出した山塊を姫川が削り取り、中州のような形で取り残された岩盤に作られた物見である。国道の改修工事と除雪基地の設置で城域の西側は見る影も無いが、ここだけ破壊されずに残ったのは奇跡に近い。

西通山城見取図①
こんな山奥で河川沿いの砦とは珍しい。スケールは小さいが連郭式になっている。

青鬼の城峯・西通山城201409 (74)
城域の西側には横堀址が確認出来る。往時は水堀だったのだろうか?

【城主・城歴】

「長野県町村誌」にも記載が無く、史実・伝承等は全く不明の城なのだが、白馬村誌には「北方1kmの河岸にあった、小谷村川内下(壊滅)と連携するものであろう」とあるようだ。現地に立てば塩島城との連携は考えられるので、蒼鬼の城峯とともに街道と海運を見張る砦と考えるのが良さそうである。

青鬼の城峯・西通山城201409 (81)
郭2から見下ろした郭4。

青鬼の城峯・西通山城201409 (83)
郭2。

青鬼の城峯・西通山城201409 (84)
郭1に立つ石碑(水神碑)

青鬼の城峯・西通山城201409 (86)
郭1(21×13)。しっかり平削された郭には驚く。

【城跡】

ミニチュアながら四つの郭を持つ砦で、人工的な手が加えられているのがハッキリと分かる。
近世城郭であれば縄張りに川を取り入れて防御を強化するのだが、この砦にはそういう意図など無く、東側は自然の摂理で壊されてしまったと見るべきであろう。

青鬼の城峯・西通山城201409 (88)
切岸に施された土留めの石積み。

青鬼の城峯・西通山城201409 (92)
北側から見た郭3.藪の中にいるのは毎度お馴染みの「ていぴす」さん。

国道として改修される前の千国街道(ちくにかいどう)がどの辺りを通過していたのか興味深いところである。四ヵ庄平(しかじょうだいら 白馬の中心盆地)から小谷への出入りを監視したのであろう。
経歴は不明だが、大事に残して欲しい砦跡である。

≪西通山城≫ (にしかようやまじょう)

標高:626m 比高:20m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:北安曇郡白馬村西通
攻城日:2014年9月27日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:歩いて5分 駐車場:国道148号線除雪ステーション
見どころ:堀切、郭
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編 宮坂武男著」
付近の城址:塩島城、青鬼の城峯など

青鬼の城峯・西通山城201409 (89)
主郭から見た姫川。高さ約20mはあろうか。

Posted on 2014/11/16 Sun. 07:12 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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