らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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日向城 (下高井郡木島平村往郷)  

◆信玄に命じられ市河氏が築いた新城か?◆

懸案事項であった年賀状の作成と投函も終わった。

昨年の今頃は降雪も何回かあったのに、今年はこのまま雪も降らずに終わるのだろうか?

毎年恒例の「今年の攻城戦記振り返り」は次回として、今回ご案内するのは日向城(別名:毛見城)

毛見城 (2)
千石地籍から「林道カヤの平線」に入り、約1.5km進んだ脇に標柱がある。ここに路駐して適当に登ろう(笑)

【立地】

城蔵山(1565m)から延びる南西の尾根先で、馬曲川の東側にあり、北東2kmにある平沢城とは同じ峰になる。ここから木島平は一望でき、麓の西小路には市川氏(市河氏)の居館跡と伝わる場所がある。

毛見城 (10)
比高120mなので、こんな山の尾根を適当にゆっくり登れば15分程度で着きます。

日向城縄張図① 001
単郭なんで、縄張も描きやすい。

【城主・城歴】

元々この地の豪族であった毛見氏(けみし)が、勢力を伸ばしてきた高梨氏の被官となりこの場所に砦を持っていたようであるが、武田の侵略により高梨氏が飯山へ退去すると毛見氏もそれに従ったという。
永禄十年(1567 または永禄十一年とも)、信玄は飯山城に対して総攻撃を行い、その年の十一月十七日、市川(市河)信房に対して「縄取(綱切)より下」つまり安田以北の地を宛行い、この地に故障があれば替地として亀倉(上倉か?)近辺と登がり郷(戸狩)を与えるとした。

毛見城 (5)
北西尾根の先端の削平地は物見だったようだ。

越後との国境の志久見郷を本拠地としていた市川氏だが、武田方となるに及び拠点を野沢温泉に後退させていたが、永禄十年以降は木島平の毛見に居館を構え対上杉の最前線を維持していた。

毛見城 (14)
主郭手前の削平地。入口碑から最初に到達する郭である。

毛見城 (13)
郭の脇には天水溜の穴も確認出来る。

信玄は市川氏に安田以北を与えた際に、「然して御地利(とりで)を築かれるか」と暗に市河氏居城の築城を命じており、具体的には年未詳ながらも八月七日、市川城の制礼をだし、「城内昼夜用心を心掛け、普請など油断なくするように。また、地元の人をみだりに城内にいれず、通行人は取り調べること、越後国内のようすを知らせること」などを命じている。この城では計見城(別称日向城・木島平村)とされている。(飯山市誌 歴史編上 P274引用)

毛見城 (21)
堀切㋐。かなり埋没しているが、上巾約10mで土塁でかさ上げしている。

毛見城 (25)
堀切㋐を南側から見る。純然たる横堀で、竪堀にはしていない。

これはあくまで想像だが、この時に信玄が命じた河東への新城築城に関しては、平沢城の改修も含まれていたものと思われる。日向城に対して武田軍の禁制を強いるには規模が小さすぎるし境目の城の緊張感には遠い。平沢城であれば対岸の飯山城の動きが掌握できる立地である。

毛見城 (20)
西南の尾根に延びる舌状の削平地。

【城跡】

尾根の先端を利用して作られた単郭の砦で、背後の尾根の平坦地に対して上巾20mに及ぶV字形の巨大な横堀を穿っている。二重三重の堀切を置かないのは、急ごしらえの築城で、改修の必要も無く、利用期間が短かった事を物語っている。
市川氏も武田氏も、上杉軍が志久見郷から馬曲を経由する間道を越えて木島平に進軍することを恐れ、平沢城の改修に全力を傾けたものと思われる。

毛見城 (29)
主郭は笹薮で覆われているが、二段の段差があり27×23とかなり広い。

毛見城 (37)
説明版があるなら、林道からの遊歩道を整備してほしい・・・(汗)

毛見城 (38)
「ていぴす殿」の立っている土塁は南尾根に伸び、堀切㋒とも微妙な距離感がある。

毛見城 (40)
堀切㋒。堀切㋑を竪堀にしなかったので増設したようだが・・・。

●造成途中で中止されたような痕跡

WEBだけでなく、教育委員会ですら単郭の物見城として片づける記述が多い砦だが、果たしてそうであろうか?
郭の南北に敷設された帯郭は、横堀が造成途中で中断されたものとして見ることができないだろうか?
前後は堀切でガードし、左右は帯郭でガードなんてありえないだろう。

毛見城 (42)
上巾20mの堀切㋑。

毛見城 (45)
北側から見た堀切㋑と主郭。

毛見城 (48)
南側の腰郭。北側に比較すると、削平はキチンとしている。

毛見城 (41)
北側の腰郭。工事途中で放棄された印象が強い。

確かに市川氏の居館の詰め城として改修されたと思われるが、単郭で持ちこたえられるほどの戦国時代ではないので、信玄が要請して改修したのは主に平沢城だったと思われる。

孤高の戦士として信濃の激動を生き抜いた市河氏(市川氏)が、こんな城で終わるはずがない・・・(笑)

毛見城 (58)
北側より撮影した堀切㋐。


≪日向城≫ (ひなたじょう 毛見城・計見城)

標高:610m 比高:210m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下高井郡木島平村往郷
攻城日:2015年12月13日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:15分 駐車場:林道脇に路駐
見どころ:横堀、段郭など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版) 「飯山市誌」
付近の城址:平沢城、市河氏居館跡、部谷沢城、犬飼山城
Special Thanks:ていぴす様

毛見城 (61)
麓から見た日向城。






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Posted on 2015/12/27 Sun. 23:19 [edit]

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夜交氏山城② 小城・遠見 (下高井郡山ノ内町)  

◆四の五の言わず、その目で確かめた事が真実◆

山城探訪も人生も似たようなものかもしれない・・・・

あと500m歩く事が、貴方にとって苦痛なら止めればよい。

でもあと500m歩かなかった為に後悔するなら、歩いて大いに後悔して欲しい。少なくとも歩かなかった奴らよりは納得するだろう。

今回訪問した「夜交氏山城の遠見」とはそういう場所であった・・・。

IMG_3702.jpg
城への熱意が籠った標柱が朽ち果てても、その意思は我らがデジタル画像とSNSで未来に語り継ぐのだ。(大城㋒の堀切)

【小城(女城)の縄張】

大城からの比高は葯90mだが、距離にして約450mほど尾根を歩く。
突如現れる急斜面は、ある程度山城を歩いた方なら分かる通り人手の入った造作物(切岸)である。

夜交氏山城(山ノ内町) (114)
急な斜面だが尾根先に空が見えるので、ため息は不要です・・・(笑)

後詰めというよりは、大城の陥落に備えた退路確保の防御施設としての役割のように思える。
狭い単郭なので兵員の収容や籠城は無理で、一時しのぎの砦とみるべきであろうか。

夜交氏山城 小城見取図① 001
単郭なんですが、防御はしっかりしています。

【城跡】

主郭は大城同様に周囲が囲まれているが、石塁ではなく、土塁である。単に岩ガレが取れなかっただけであろう。
大城側の尾根に二連の堀切を穿ち、主郭背後は落差のある変則二重堀切を穿ち、その先に二条の堀切を置く厳重さである。
段郭を全く置かずに堀切だけの防御としているのは興味深い。
大城よりも時代が後では?と思わせるが断定は出来ない。

夜交氏山城(山ノ内町) (116)
堀切㋖。

夜交氏山城(山ノ内町) (119)
堀切㋖を見下ろす。土橋を付けたら防御力がおちるだろうと思われる堀切㋖。足弱のためだろうか?

夜交氏山城(山ノ内町) (124)
大城側の二番目の堀切㋗。(主郭側より撮影)やはり土橋が付けられている。

小城の主郭は18×17の円形の郭。現在、城跡からの見晴らしは全くダメ。残念・・・(汗)

夜交氏山城(山ノ内町) (134)
主郭の北側。

夜交氏山城(山ノ内町) (132)
主郭の南側には土塁の痕跡がしっかりと確認できる。

夜交氏山城(山ノ内町) (130)
主郭の南西には段郭と竪堀㋘(主郭より見下ろす)

遠見は向かう主郭の背後の処理は、堀切㋙と㋚を急こう配を付けた二重堀切で遮断し、尾根を㋛と㋜の堀切で断ち切る念入りな防御構造である。
この縄張は一見すると遠見の尾根筋への警戒のように見えるが、実はその逆で、大城が破られて小城に退いたときにここで死守する悲壮な決意と考えたほうが良いのかもしれない。遠見のある場所は最終の避難場所だったと思われるのだ。

夜交氏山城(山ノ内町) (137)
主郭背後の二重堀切の処理(露出不足はご勘弁・・・汗)

夜交氏山城(山ノ内町) (142)
堀切㋛(上巾4m)。他の堀切に比べるとやや狭い。

夜交氏山城(山ノ内町) (145)
遠見への最終となる堀切㋜(上巾9m)。堀の淵に立つのは「えいき殿」。大きさの比較としてご登場願った次第・・・(笑)

夜交氏山城(山ノ内町) (146)
チョッと角度を変えて見下ろした堀切㋜。堀底に土橋のような痕跡が残る。


【遠見】

ここからかなり急な尾根筋を登り詰めると、幅が広い平らな場所が出現する。人工的に加工したような場所であり、いわゆる「逃げ込み場所」と呼ばれるような場所である。

さらに登っていくと、国土地理院の地図の表示で1020mの小ピークがある。恐らくここが「遠見」と呼ばれた場所なのだろうが、自然地形で人工的な構築物の存在は確認出来なかった・・・

夜交氏山城(山ノ内町) (149)
遠見に向けて急斜面を登る「えいき様」と「ていぴす様」。「本当に行くんですか?」という声は拙者には聞こえなかった・・(笑)

夜交氏山城(山ノ内町) (151)
逃げ込み場所と思しき削平地その①。

夜交氏山城(山ノ内町) (152)
ここまで来たのだから、もはや前に進むしかない我らであった・・・

夜交氏山城(山ノ内町) (153)
さらに登った先に展開する削平地②。高梨氏に反乱した時の逃げ込み場所として作られたのだろか?広い。

夜交氏山城(山ノ内町) (154)
息も絶え絶えでやっとこさ辿り着いた1020m地点。自然地形である・・・・

実は、「大遠見小屋」(おおとみこや)と呼ばれる遠見については宮坂武男氏も所在を確認できていない。

神と崇められる宮坂氏が見れないものを我々が見れるはずもない・・・(汗)

まあ、それでも何とか無事に縦走出来て感無量でした。

夜交氏山城(山ノ内町) (157)
案外と1190mのピークにあったりして・・・(笑) 求む勇者!!ってか冒険野郎!!(爆)



≪夜交氏山城 小城・遠見≫ (よませしやまじょう こじょう 別名:女城 とおみ) 

標高:893m 比高:370m (遠見は標高:1020m 比高:497m)
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:山ノ内町夜間瀬
攻城日:2015年10月12日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:140分
駐車場:果樹園脇の空き地に路駐
見どころ:堀切、段郭など
参考文献・書籍:「信濃の山城と館⑧ 水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
注意事項:大城からの続きで道もあり迷うことはないが尾根が長いので体力には余裕を持つこと。遠見へ行くには覚悟が必要。
付近の城跡:近くに鴨ヶ岳城、鎌ヶ岳城、箱山城など。

夜交氏山城遠景


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危篤状態の小生の願いを聞き入れて同行いただいた重病のお二人には感謝でございますw リンゴ泥棒ですか??(笑)
































Posted on 2015/10/29 Thu. 21:40 [edit]

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夜交氏山城① 大城 (下高井郡山ノ内町)  

◆林道が崩落し訪れる人が絶えて久しい長大な複合要塞に挑む◆

タイトルが「よませしやましろ」とすんなりと読める方は重病かもしれない・・・医者に診てもらおう・・・(笑)

夜交氏発祥の地は夜間瀬と記載され、米沢藩上杉氏の家臣として明治維新を迎えた夜交氏は夜間瀬氏に改姓している。

IMG_3335 (2)
横倉集落の登城口にある標柱。近隣の住民の方も行き方を丁寧に教えてくださいました。林道が途中で崩れている事までは教えてくれなかった・・・残念・・

山城踏査の全国区のパイオニアであるウモ殿が、数年前に崩落した林道の危険さ故に登城を断念したという夜交氏山城。

毎度お馴染み相方ていぴす殿に加え、春日山より特別参戦のえいき殿を加えた重病人トリオが下見の名の元に無謀な挑戦!(汗)

果たして結果はいかに・・・・・。

IMG_3340.jpg
下見の下見を兼ねた9月3日の夜交氏山城全景。久々に戦慄を覚える険しさだった。


【下見登山という名目ではハード過ぎる攻城戦】

2015年10月12日、予定通り決行。天気も装備もバッチリ(笑)

IMG_3693.jpg
登城口から見た高社山(標高1,351m、別名:高井富士)は美しかった。

林道なんでジムニーなら入れるのだろうが、途中で何が起こるか不安だったので入口で車を捨てて徒歩で電気柵を越える。

夜交氏山城(山ノ内町) (1)
ここの電気柵を開けて右に曲がる林道を歩く。(開けたら必ず元に戻してネ)

順調に林道を歩いていくと、突然土砂崩れの跡に遭遇し道が寸断され万事休す。

「♪そして僕は途方に暮れる・・♪」・・(古いなあ・・・・笑)

IMG_3695.jpg
こんな光景見たら登るの止めたくなるのも道理ですよね。

「道が無ければ斜面に取り付くだけサ!!(汗)」

※足場の脆いガレの岩場を縫うように登るので、メンバー各自の落石による二次被害を防ぐために並列で登らないと危険だ。


【立地】

高梨氏の詰め城である鴨ヶ岳城や峰続きの箱山城の北側を流れる夜間瀬川の平野部を挟んだ東側にそそり立つ険しい山塊に位置する山城である。嘗ての大手のあった横倉集落から登った先の標高800m付近に大城、峰続きの東の900mに小城、更に尾根を東へ詰めた1020mあたりが遠見と呼ばれる場所がある。

夜交氏山城(山ノ内町) (4)
登り始めて25分で「第一空堀」㋐の標柱にたどり着く。傾斜の急な岩盤を削って作られた堀切は結構な落差があり驚く。


夜交氏山城(山ノ内町) (14)
堀の上部から見下ろして撮影。補助線邪魔かしら・・(笑)

夜交氏山城 大城① 001


【城主・城歴】

夜間瀬地区は朝廷の御牧とされていたという。平安末期に朝廷より高井地方の下司職として任命された藤原助弘が中野氏を名乗りその後子孫が鎌倉時代、室町初期に勢力を広げ、その一族が南北朝の頃に夜間瀬に入り夜交氏(よませし)を名乗り横倉に居館を構えたのが始まりとされる。

宗家の中野氏が市河氏や高梨氏の台頭により衰退していく中、夜交氏も在地土豪として着実に勢力を拡大していく。しかし、室町幕府設立後に尊氏と義直が不和となり観応の擾乱が勃発し義直が敗死すると、義直党だった夜交氏の所領は尊氏側だった高梨氏に与えられてしまい、夜交氏は高梨氏の被官に成り下がってしまった。

夜交氏山城(山ノ内町) (20)
堀切㋐の上に削平されたV字の段郭。

戦国時代に入り高梨氏の配下となっていた在地土豪衆は度々反乱を企て、夜交氏も例外ではなかった。永正十年(1513)七月、夜交景国は菅の山城の小島高盛らと大規模な反乱を起こすも高梨頼澄によって追討鎮圧され、両氏とも処刑され館や城下町を焼かれ一族は大打撃を受けてしまうが、その恨みが消えることはなかったらしい。

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堀切㋑。藪が酷くて写真も厳しい。

夜交氏山城(山ノ内町) (29)
尾根筋に続く段郭はざっと10段以上はあるだろうか。急斜面に段郭を築くのは防御施設としては堀切より各段に有効だ。

その後、武田信玄による信濃侵略が始まり抗戦していた村上義清が越後へ逃れると、北信濃の諸豪族は上杉謙信に助けを求め甲越紛争が勃発する。
武田軍の北信濃侵攻が本格化し甲越が全面戦争に突入した弘治年間、高梨政頼は謙信より飯山口の方面司令官として飯山城において泉氏とともに守備を固めるよう命じられる。この間、武田信玄の調略の手は高梨軍団の切り崩しに成功し小島修理亮、木島出雲守が離脱。この時に夜交甲斐守も武田に降ったとされる。
永禄四年(1561)、第四次甲越合戦で夜交千代松(満国)はその戦功を信玄より称され、父景国の旧領を安堵され失地回復に成功する。

夜交氏山城(山ノ内町) (40)
結構デカい帯郭を重ねているので土木作業の規模としては大掛かりだったと思われる。

夜交氏山城(山ノ内町) (50)
長さ31mある郭2。

武田氏統治時代に夜交氏は市河氏、木島氏、小島氏らと共に飯山口の抑えとして引き続き城の整備を担っていたものと考えられ、甲越紛争が終息し国境が確定すると共にその役割を終えたと思われる。

その後、武田氏が滅亡すると上杉景勝に本領を安堵された。「文禄三年定納員数目録」では夜交九郎三郎が六十七石の知行高だった。
景勝の会津移封に伴い、江戸時代米沢藩では二百二十石の知行高を給されている。

夜交氏山城(山ノ内町) (51)
郭2と郭1の接続部分は石塁で盛り土された堀切㋒がある。

【城跡】

主郭と副郭を堀切で区切る手法はこの地域共通の縄張手法だったようだ。

特筆すべきは石塁で守られた主郭(郭1)で、内部に人工的に意図して作られた櫓台のような段違いの郭が置かれている。
もともとの地盤がガレの岩場なので土塁で周囲を囲むよりは石塁で囲んだほうが手っ取り早かったのであろう。きわめて合理的な手法であり、信濃の山城にはよく見られる土木工事である。

夜交氏山城(山ノ内町) (56)
堀切㋒(上巾8m)

夜交氏山城(山ノ内町) (79)
大城の主郭と昭和レトロな説明版。訪れる人も絶え読む人もいないというのが現状なのであろう。

夜交氏山城(山ノ内町) (85)
主郭を全周する石塁。掘ればガレ石が出てくるので土を盛るより容易だったのかもしれない。

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昭和最後の遺品。

郭1(主郭)の南側には横堀状の郭が土塁で囲まれるように設置されてる。武者溜りのような場所なので、南斜面を遮断する堀切㋒を経由しての迎撃施設かもしれない。

夜交氏山城(山ノ内町) (75)
郭1より見下ろしたL字型の横堀状の郭。堀切㋒に接続している。

主郭背後は急峻な岩が露出して天然の堀切を形成している。その先に二重堀切を穿って、堡塁の役割の郭3へ接続している。ここから約450mほどで小城(女城)に至る。

夜交氏山城(山ノ内町) (91)
岩崖を利用した堀切㋓。

同行したえいき殿曰く、南斜面の竪堀㋒から斜面の下側に通路らしき跡があるので、主郭への出入りは堀切㋓に一度入って南側から登ったのだろうと推定している。

夜交氏山城(山ノ内町) (96)堀切㋓と二重堀切㋔の間にある堡塁。虎口への侵入を警戒している。

夜交氏山城(山ノ内町) (98)
堀切㋔(二重堀切)

夜交氏山城(山ノ内町) (105)
堡塁(郭3)

小城(女城)との比高差は90mだが、長い尾根をひたすら歩く。いわゆる「上の城」と「下の城」という信濃に多い城郭の特色がここでも見られる。

夜交氏山城(山ノ内町) (113)
大城(男城)の西端の堀切㋕。

縄張図を見て感じるように、尾根の南側に対してかなり防御を意識した作りであることが分かる。これは武田に対する備えではなく、中野の高梨氏に対する備えだったと思うのは飛躍しすぎだろうか?

では次回、小城と遠見編へ・・。

≪夜交氏山城 大城≫ (よませしやまじょう おおしろ 男城) 

標高:808m 比高:280m 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:山ノ内町夜間瀬
攻城日:2015年10月12日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:50分
駐車場:果樹園脇の空き地に路駐
見どころ:堀切、石塁、段郭など
参考文献・書籍:「信濃の山城と館⑧ 水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
注意事項:林道が途中で崩落しているので歩行注意。ガレ岩の直登につき同行者への落石による二次災害の恐れあり要注意
付近の城跡:尾根続きの小城は必見。 遠見は任意。近くに鴨ヶ岳城、鎌ヶ岳城、箱山城など。

夜交氏山城(山ノ内町) (100)
尾根筋から僅かに見える湯田中温泉街。現在の城跡からの見晴らしは良くない。 



夜交氏山城遠景






















Posted on 2015/10/26 Mon. 10:01 [edit]

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岩井城 (中野市岩井・飯山市吉)  

◆甲越戦争における飯山方面の最前線◆

このところ信州ではクーさんの出撃目撃情報が例年になく多く、刃傷沙汰に及ぶ事件も発生している。

「クーさん、殿中でござる!!」などと叫んでも言葉は通じません・・・(汗)

さりとて山中を徘徊せねばならぬ身の上ゆえ、「早いとこ冬眠しておくれやす・・・」と願うこの頃ではある・・(笑)

岩井城(中野市) (7)
登り口の木島神社から見た綱切橋。謙信が退却の際にここで渡河し、追手が渡れぬよう綱を切ったという言伝えが残る。

【立地】

千曲川の右岸で、高社山(1351m、別名:高井富士)の北側の外輪山の一角に位置する。山の上の尾根は古道として中野地方と木島地方を結ぶ道で戦国時代においては戦略上重要な場所でもあった。
ここから千曲川流域の諸城は余すことなく見渡せるロケーションでもある。

岩井城(中野市) (2)
ここから飯山城は目と鼻の先にある。

【城主・城歴】

岩井城は、謙信・景勝の信任の厚かった岩井氏が築城したと伝わる。岩井氏の経歴については以下を参照願いたい。

岩井氏は高井郡岩井(中野市)を本貫とした武士で高梨氏と同族だった(「天文日記」)。その後昌能・信能父子は武田の侵略により越後へ逃れ上杉謙信のもとで活動した。永禄十一年(1568)には飯山城が武田信玄の急襲で乗っ取られたとき、上杉謙信が城将の泉一族を叱責する使者として昌能がみえる。岩井家は御館の乱では、景勝方と景虎方に分裂した。景勝側についた信能は景勝重臣として頭角をあらわした。

岩井城(中野市) (9)
飯山城の鎮護として勧進された飯綱宮。天文二年(1533)に飯山城主だった泉重信の造成として伝わる。

特に武田氏滅亡後、信能(のぶよし)は海津以北の諸侍に上杉家に帰属させる工作を行ったり、昌能や尾崎氏ら外様地域の諸士が旧地飯山領に攻め込んだ時、自らも協力したいと景勝に申し出るなど積極的に活動した。
こうして天正十年六月には替佐・静間・蓮・岩井を与えられ、翌十一年には飯山城将となった。さらに海津城副将の屋代秀政が徳川方に内応したため、急遽海津城に入城、さらに牧之島城将芋川氏の援軍に出陣した。

飯山城は慶長三年まで信能が城将で、町作りや城普請にも尽力した。慶長三年の会津移封で信能は宮代城将として6000石を得た。慶長六年、米沢への移封では国替奉行として上杉家臣団の安全な移動をはかった。信能は大坂の陣に出陣、元和六年(1620)没。
(長野県立歴史館 平成十九年度秋季企画展「武田・上杉・信濃武士」の展示図録のP84の解説文引用)

岩井城見取図①
笹郭と八の字堀、長い竪堀と横堀の組合せは武田主体の改修だが、織田の来襲に備えた景勝も手を入れたであろう。

岩井城(中野市) (18)
木島神社(飯綱宮)からのコースは結構な距離を歩く。城域の東側の林道から登るコースもあるが藪が酷いらしい。

武田統治時代には永禄十一年(1568)にこの地域は市河信房に与えられ、武田が滅亡後の天正十年(1582)には上杉景勝も引き続き市河氏に本領を安堵している。
岩井氏が越後へ去った後は、武田氏が改修しその管理を市河氏に委ね、御館の乱後に武田が滅び織田軍の進攻の脅威に晒されると、上杉による改修が行われたとみるべきであろうか。

岩井城(中野市) (24)
城域への入口には旗塚の址が数基確認出来る。この尾根に立てればさぞかし目立ったであろう。

【城跡】

頂部を中心にした三つの郭に横堀と竪掘り組み合わせた連郭式の山城である。北から東、南の尾根にかけて腰郭(段郭)を設置し備えはなかなか厳重である。
少し前までは手入れされていたようだが、現在は藪が酷く手入れもされていない状態で荒れ放題。郭2とその周辺は熊笹に覆われ横堀等の遺構を確認するのはかなり厳しい。

岩井城(中野市) (27)
堀切㋙。帯郭のように見えるが、横堀にする途中で放棄されたようだ。

岩井城(中野市) (32)
堀切㋘。土手付き堀とは言うものの、単に掘り出された土を堀の縁に盛り上げただけのことだ。

岩井城(中野市) (33)
堀切㋘の北斜面は竪掘となり攻め手の横移動を阻止している。

岩井城(中野市) (34)
隣接するように東隣に増設された竪掘。往時はもっと深かったと思われる。

●堀切で守られた西尾根

この城の指向特性(防御方向)を特定するのは困難であり、飯山城の支城としては南に向けた防御を備え、武田の飯山攻めの拠点としては西尾根を増設していたと思われる。

岩井城(中野市) (42)
膝上まで生い茂る藪だらけの急斜面を登る。何が潜んでいるか分からない恐怖だ・・・(汗)

岩井城(中野市) (43)
堀切㋗は中央に土橋が入っている。すぐ上に堀切㋕を置いて二重堀切としている。

岩井城(中野市) (47)
横堀⇒竪掘となる北斜面の堀切㋗。藪が少なく辛うじて撮影出来た。

岩井城(中野市) (51)
変則的な二重堀仕様の堀切㋕。

●城の中心部

台形の主郭を中心に三つの郭で構成される。周囲を囲むように帯郭+横堀が巡らされ東側斜面に対しては竪掘を二条入れ間に段郭を構える強固な構えである。
地元では烽火台として伝わっているようだが、その姿は激戦区として戦国末まで使用された戦国の城であろう。

岩井城(中野市) (52)
堀切㋕から郭3を見上げる。

岩井城(中野市) (63)
郭3(18×18)

岩井城(中野市) (66)
郭3と郭1の間の堀切㋔の処理(北斜面)

岩井城(中野市) (69)
藪に覆われた主郭に建てられた説明板。地元の方に大切にされていたという昭和の良き時代の名残りである。

岩井城(中野市) (68)
郭1(24×20)。前後の堀切手前に土塁があるだけで全周していた形跡は認められない。

●技巧的な郭2周辺

残念ながらこの城の一番美しいはずの郭2と周回する横堀+竪掘の組合せは、熊笹と藪で覆われ写真撮影はおろか見る事も叶わない状態である。ここの部分の縄張りは大峰城枡形城に似ており、原形はここだったのか、と思わせるに充分である。

岩井城(中野市) (73)
主郭背後の堀切㋓と郭2の間の堀切㋓。この先でT字路になる技法が素晴らしいが、藪で何が何だか・・(汗)

岩井城(中野市) (76)
腰まで埋まる熊笹が密生している郭2(45×25)。得体のしれない生物が登場する恐怖に恐れおののく始末・・(汗)

岩井城(中野市) (77)
郭2を周回する堀切㋒。補助線を引いても無理がある。

岩井城(中野市) (82)
「勇者」の称号を貰っても歩きたくなかった横堀㋒。小生は「愚か者」で「冒険者」では無いのだ・・(笑)

キチンと整備されれば、物凄い遺構を持つ「戦国の城」である。残念ながらその価値は我々のようなヲタクでしか理解出来ず、地元の皆さんの協力を得て再度公園化するには無理があると思われる。

それでも、昭和の高度成長期には歴史に興味を持つ方々が郷土の歴史を伝えようとした場所である。
我々が伝えねば、誰が伝える?・・・そう思いつつ、いつかまた陽の目を見る事を信じて止まないのであります。

岩井城(中野市) (91)
城跡から辛うじて見える壁田城(へきだじょう)。

≪岩井城≫ (いわいじょう 吉の城山)

標高:544.5m 比高:230m
築城年代:不明
築城・居住者:岩井氏、市河氏
場所:飯山市吉/中野市岩井
攻城日:2014年5月11日 
お勧め度:★★★★☆ (藪が無ければ満点)
城跡までの所要時間:60分(木島神社より) 駐車場:特に無し。路駐。
見どころ:横堀、竪掘、笹郭、土塁など
注意事項:長袖長ズボン、長靴または登山用のトレッキングシューズ。藪や笹が多いので蛇対策は必須。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」「平成19年度 長野県立歴史館 秋季企画展図録」

岩井城(中野市) (101)
蓮城方面から見た岩井城遠景。





Posted on 2014/10/30 Thu. 21:36 [edit]

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月生城 (上高井郡高山村高井水中)  

◆川中島の戦いにちなんだ伝承が残る城◆

掲載した城と城館の数が500を超えたのは目出度いが、未掲載の在庫の城館は増えつつあり100を越えている。

別に生鮮品では無いので腐る事は無いにしても、写真撮影した場所の記憶が消えて「ここは何処?私は誰?」(汗)

今回ご紹介するのは美しき名を冠する「月生城」(つきおいじょう)。城主・城歴が不明という謎の城である。

月生城(上水内郡高井村) (3)
雨引城からの道が途中で消えて崖を決死の覚悟でトラバースしながら辿り着いた南尾根。(写真は城域手前の堡塁の位置)

【立地】

月生城は明覚山(標高957.8m)から派生する尾根上の月生山(標高718m)一帯、水中集落の背後に築かれている。ここは大岩城のある尾根の東側になる。城域の東側は「謙信道」と呼ばれる灰野峠への道が通っていて、この道との関連を抜きには考えられない。北西0.8kmには大岩城、北北東1.9kmには城山城があり、背後の尾根を登り切ると雨引城になる。

月生城(上水内郡高井村) (12)
郭3手前の堀切㋗。岩石の露出した堀切は往時の難工事を物語る。

月生城(上水内郡高井村) (10)
西斜面に下る堀切㋗。伐木を堀に捨てるのは止めていただきたい・・・

【月生城と謙信道】

月生城のすぐ東側には「謙信道」と呼ばれる道が通っている。謙信道とは、川中島の戦いの際に越後(新潟県)の上杉謙信が通ったという道である。謙信道は、謙信の本拠地春日山城(新潟県上越市)から富倉峠(飯山市)を越えて信濃に入り、飯山市・木島平村・山ノ内町・中野市の山間部をへて高山村に至る。高山村内は、小池峠(中野市境)から牧・黒部・久保・月生城の東側を通過して、灰野峠(はいのとうげ 須坂市境)から須坂市の仙仁、長野市の保科・大室へ続いている。

月生城(上水内郡高井村) (13)
郭3(30×10)

月生城見取図②
縄張り図。東側を通る灰野峠(はいのとうげ)に対しての防御を意識している事がわかる。

【城主・城歴】

月生城に関する史料は全く無く、築城年代や築城者等は不明である。西側の尾根にある大岩城を本城とする大岩系須田氏(上杉氏を頼って越後へ落ち延びた)との関わりも充分考えられるが、武田方の侵略に伴い上杉方の防衛拠点⇒武田方の飯山口への前進拠点へと改修された事もかんがえられようか。

謙信道(推定)
中央を流れる松川を境として北が高梨領、南が大岩系須田領であった。

月生城(上水内郡高井村) (23)
南東から見た堀切㋖。

月生城(上水内郡高井村) (20)
南東尾根と東尾根の間は堀底に土塁をかさ上げして二重堀切を形成。沢からの敵兵の横移動を阻止している。

月生城(上水内郡高井村) (37)
堀切㋖は西斜面に対して畝状の堀㋕を増設している。

月生城(上水内郡高井村) (58)
西側の斜面に残る畝状の堀㋔。(郭2から西斜面を見下ろす)上杉方の築城技術と見る方もいる。

【川中島の戦いに関する伝承】

上杉軍が月生城の山麓に三千頭の軍馬を隠し、川中島に出撃したという伝承がある。灰野峠側には「牧ノ平」「間瀬口」など、馬の生産に関する地名があり、古代、高山村には高位牧(たかいまき)があり、馬の生産が盛んだったという。
また、月生城の東側の麓には「勝負田」と呼ばれる水田地帯がある。勝負田の向かい側には「上野」という地名もある。弘治三年(1557)、第三回川中島の戦いは、上野が舞台となった。上野の地は現在の長野市若槻上野が有力視されているが、謙信道や「勝負田」などの地名から、月生城周辺とする説もある。
※「探訪信州の古城」(2007年 郷土出版社)の月生城の酒井健次氏の解説記事より引用

月生城(上水内郡高井村) (47)
主郭を外周する郭と西尾根の接続部分は堀切㋒で断ち切っている。この尾根の先には堀切一条のみの防御である。

月生城(上水内郡高井村) (51)
大手道と思われる北尾根の付け根を遮断する堀切㋑。

月生城(上水内郡高井村) (50)
東側部分の美しい切岸。在地土豪の技術レベルと土木工事量では無い事がわかる。

【城跡】

特筆すべきは城域東側の厳しい防御であろう。東尾根と南東尾根には「笹曲輪」(ささくるわ 段郭のひとつ)が階段状に多数設けられている。また、北側の尾根を遮断する堀切㋑は竪掘と横堀を組み合わせた八の字状の堀がみられる。笹曲輪と八の字堀の組み合わせは武田氏の築城法とも云われている。
また、主郭の西側には畝状の堀が何本かみられ、この技法は上杉氏の築城法の特色だとも伝わる。

月生城(上水内郡高井村) (64)
郭1には標柱がある。上書きされた塗料剥がれてしまい、明治三十年の記載と平成三年の記載が共に消えかかっている

月生城(上水内郡高井村) (65)
郭1から見た郭2。左側(西側)に対して土塁が確認出来る。

月生城(上水内郡高井村) (66)
北尾根側の外郭から虎口が入る。

城歴は不明というものの、大勢力による交互の改修が施されたようである。甲越間の軍事的衝突が避けられなくなった時期に大岩須田氏の支城だった月生城を上杉軍が改修し、その後、北信濃が武田の支配下となった時に前線基地として武田軍が改修したものであろう。
松川を越えた高梨領にある枡形城(山田城)は非常によく似た縄張りで、こちらも謙信道を抑える要衝にあった事から、同じように上杉・武田の改修を受けたものと思われる。

月生城(上水内郡高井村) (67)
郭2の端には天水溜めのような窪地がある。

月生城(上水内郡高井村) (69)
東尾根には20段以上の笹曲輪が展開する。我々信濃先方衆には踏査する体力すら残っていなかった・・・(汗)

月生城(上水内郡高井村) (60)
土手付きの堀切㋘。東斜面の竪掘として増設されたものであろう。

月生城(上水内郡高井村) (69)
東尾根は笹曲輪と呼ばれる二十段以上の段郭の防御構造だ。

月生城(上水内郡高井村) (28)
東尾根のV字型の段郭。

月生城(上水内郡高井村) (33)
南東尾根から見た東尾根。数段の笹郭は数条の堀切よりも防御効果は高い。

月生城(上水内郡高井村) (76)
北尾根より見上げた主郭方面。

月生城(上水内郡高井村) (80)
かつての大手道であったという北尾根を下るが、途中で道が消えてしまう・・・(汗)



≪月生城≫ (つきおいじょう)

標高:718m 比高:210m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上高井郡高山村高井水中
攻城日:2014年4月20日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:?分 駐車場:迷惑のかからぬように路駐。
見どころ:段郭、堀切、土塁、など
注意事項:雨引城からのルートは途中で道が喪失し崖になるのでお勧めしません。淨教字からのルートが一般的。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」、「探訪信州の古城」(2007年 酒井健次記述の月生城)
付近の城跡:雨引城、大岩城、城山城、枡形城など

月生城(上水内郡高井村) (93)
北の大手道にあたる淨教寺付近から撮影した月生城遠景。










Posted on 2014/10/19 Sun. 22:06 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

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