FC2ブログ

らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0201

源太入城 (須坂市栃倉)  

◆在地土豪の要害城◆

「山城巡りって、お財布にやさしい趣味だよね」って時々言われます。

まあね、デジタル計測器(約7万円)とか産業用ドローンとか、林道走破用のジムニー購入とか、絶版となった「信濃の山城と館」や「日本城郭体系」なんかに手を出さなければそうかもしれません・・・(笑)

けれども、天下統一(?)を目指す全国版の山城ツアラーの皆様は「交通費・宿泊費・高速代」なんかが重くのしかかる訳で、もしかしたらクルーズ船で巡る世界一周の旅ぐらいの累計の出費になるのでしょうか・・・(汗)

我らボンビー山城探検家は、コスパを求めて「行こう、みんなのワークマン!」 登山靴以外はバッチリ揃いますよ・・(笑)

今回ご案内するのは、前回の仙仁城に関連する仙仁衆の要害城と推定される源太入城(げんたいりじょう)。

源太入城 (53)
源太入城の登り口にある観音寺。お寺の裏に林道の廃道があるのでそこを道伝いに歩いて登る(四駆も無理です)

【立地】

板倉集落の南方、観音寺後背の山尾根上の標高770mに立地する。この尾根を登り詰めると妙徳山(1293.5m)に至る。急な尾根で、高所にあるために仁礼地区一帯や明覚山の雨引城などが見通せる。登り口は東尾根からも登れそうだが、北の観音寺からが大手かと思われる。

源太入城 (52)
ここの尾根を登ると堀切㋐へ。あたしゃ「ていぴす殿」の情報を読み誤り正面奥の急尾根を突破して郭3に取りつき死ぬかと・・(笑)

源太入城見取図①
最近は雑な見取図ばかりでお叱りをうけそうなので、今回は少し真面目に描いてみた・・・(笑)

【城主・城歴】

伝承や口伝等なく不明。位置からして、前回掲載した仙仁城の仙仁衆の要害城と考えられる。
宮坂武男氏の考察によれば、武田氏滅亡後に上杉氏の重臣直江兼続が、織田方の森長可に従わない須坂周辺の地侍集団(信州十七騎)に持城を構える事を許していて、その中の一人の大峡氏がこの地の人なので、城山城と共に大峡氏が改修を加えたものではないか、としている。


源太入城 (9)
9×3の郭3

源太入城 (6)
郭3から見下ろした東尾根の急こう配。大手筋はこの尾根だったようだ。(アタクシもこの尾根を登るはずだった・・・汗)

源太入城 (11)
郭3と郭2の間には二つの段郭が置かれている。

源太入城 (14)
城内で最も広い郭2には北側に土塁のあとが確認出来る。

【城跡】

東に張り出した尾根を削平して築いた連郭式の山城である。最高位置にある主郭の前後を堀切で穿ち小さいながらも防御はしっかりしている。郭2の北側には削りの残しのような低い土塁痕が確認出来る。急峻な北尾根に接続する郭3は前後左右に段郭を設けて副郭への侵入を阻止している。城の主要部から先の東尾根は傾斜が厳しいのだが、やはり数段の段郭を刻み、堀切㋐までを城域としている。

源太入城 (18)
郭2と郭1の間の堀切㋑(上巾10m)

源太入城 (21)
別角度から堀切㋑

源太入城 (23)

源太入城 (31)
主郭背後を遮断する堀切㋒(上巾5m)。かなり埋まっている。

源太入城 (35)
別角度から堀切㋒。左右の斜面に対しても結構長く刻んでますよ。

源太入城 (40)
背後の西尾根方面から見た堀切㋓と郭4.(最近何故かあまり補助線は引きたくないと思うのだが、引かなきゃナニコレ珍百景)

源太入城 (37)
城域最終の堀切だけあって、上巾7m。往時は更に2m近く深かったと思われるが・・。

いかん、またツラツラと写真を並べてしまった(笑)

最近思うのですが、ここぞとばかり一杯写真を撮ってもブログで使うのは10枚も無い。

デジカメが出たばかりの頃は手ブレ写真が多いので、用心の為にたくさん撮影したものだが、デジカメの進歩で画素数が大きくなったし手振れ補正も自動で行うしピントも自動調整。そのうちにスマホのカメラがデジカメを凌駕してしまい、デジカメの出番も少なくなった。

でもね、この先どんなにカメラが進歩しても、人間の目にはかなわないと思う。遺構そのものはもちろん、そのからの景色、全体の構図・・・やっぱね、現場をこの目で見るからいいんですよ、絶対に・・・(←なんか仙人にでもなって悟りでも開いたか?笑)

源太入城 (47)
東尾根の斜面から郭3のある尾根を見上げる。この尾根も、ところどころに段郭がある。

源太入城 (48)
東尾根の堀切㋐を背後から見下ろしてみた。

それにしても人名のような名前の山城だが、名前の由来はどうなんでしょうね。


≪源太入城≫ (げんたいりじょう 栃倉城) 

標高:770m 比高:235m (栃倉より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:須坂市栃倉
攻城日:2020年12月2日 単独訪問
お勧め度:★★★☆☆
難易度:S(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け) 
城跡までの所要時間:40分
駐車場:無し
見どころ:堀切、土塁、段郭
注意事項:経験の浅い方は単独では不可。林道入口やお寺の入口は害獣除けの電流柵があるので注意。(通電してます)
参考資料:「信濃の山城と館⑧」(宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城址:城山城、仙仁城など
Special Thanks:ていぴす様(登り場所の情報提供)

源太入城案内図①
集落に入る手前の道路脇に邪魔にならないように路駐するしかない。

源太入城 (56)
この写真の場所なのか自信がイマイチ持てない・・・(笑)
スポンサーサイト



Posted on 2021/02/01 Mon. 22:59 [edit]

CM: 4
TB: 0

0120

仙仁城 (須坂市仁礼仙仁)  

◆大笹街道を監視した在地土豪の砦か◆

「一年の計は元旦にあり」などというが、正月故の自分ルールを策定してしまう傾向があるのも確かである・・・(汗)

が、昨年12月から始めた週二日の断酒と夕食の断食は継続中である。自分でもその確固たる信念には感心しきり・・・(笑)

今回ご案内するのは、須坂地区では未踏査・未公表だった仙仁城(せんにじょう)である。

仙仁城 (3)
登り口は国道406号線沿いにある仙仁温泉岩の湯の南側のバスの回転場の脇にある延命地蔵から遊歩道に入る。

仙仁城 (4)
遊歩道を10分ほど歩くと「鉄塔No.60」への分岐の標柱があるので、そこから保安道を20分ほどひたすら登る。

【立地】

菅平高原を裾野に持つ根子岳(2207m)を源流とする仙仁川と宇原川が合流する場所の南の山頂(907m)に位置する。北側の仁礼の方から見ると丁度谷中に聳えていて、亀倉の地区まで見通すことが出来る。北方1.4kmには城山城があり、少し離れて米子城、更には明覚山の雨引城も視野に入る。生き方は、仙仁温泉南にある遊歩道経由で途中からNo.60の鉄塔の保安道を辿る。途中倒木等で道が荒れて迷いそうになるので注意。

仙仁城 (6)
心細さと戦いながらようやくNo.60の鉄塔に到着。ここまで25分ぐらい。麓から見ると近そうなんだけどバイパスは長い・・・。

仙仁城 (11)
鉄塔から遺構のある頂上までは「心臓破りの切岸」を這い上る。もー、息絶え絶え・・・この尾根の斜面に堀切は要らない・・(汗)

仙仁城 (12)
ちゃんと石段と鳥居がある。とにかく祠が見えて嬉しかった・・・(笑)

【城主・城歴】

はっきりした事は分からないが、南北朝争乱後にこの辺りを所領としていた仙仁衆に関りのある砦ではないかと推測されている。
仙仁温泉岩の湯の駐車場から旅館入口の間の橋の下にある遊歩道脇に立つ須坂市の説明板によると、

「仙仁氏は、南北朝争乱の後、信濃国高井郡仙仁山に発祥した清和源氏の流れをくむ半農半武士の一族です。戦国時代の川中島合戦の際には、北信濃の群小武士団の一つとして武田方につきました。仙仁氏の率いる仙仁衆は「新衆」として、軍役上の職制の表面には浮上することなく、架橋、陣地道路、砦の建設、敵手には、城累、河川、堤の破壊挑発行為、謀略、隠密、伝令など陰の存在として活躍しました。常に真田氏と密着して行動し、縦横に活躍した真田氏の奇略の影に、仙仁の谷で養われた先祖伝来の生活を活かした仙仁氏の存在があったといえます。
天正十年、武田氏滅亡後、井上氏の勧告を受けて、長年の敵であった上杉景勝に仕官を許され、以後上杉家に臣従しました。」

仙仁氏説明板①
仙仁温泉岩の湯の駐車場から旅館入口の間の橋の下にある遊歩道脇に立つ説明板。(ていぴす氏の発見で、写真もお借りしました。あたしゃ見学するのも忘れました・・・汗)

仙仁城見取図①
単郭の物見あるいは烽火台だが、独立峰にあるのでしっかり堀切を備えているのには驚く。

仙仁城 (14)
主郭に建つ祠の祭神は中央が風大神、左が三宝大荒神、右が福大神の三社。地元の方に大事にされているようだ。

仙仁城 (19)
15×21の三角形の削平された主郭。

【城跡】

山頂は15×12mほどの三角形の平地で鉄塔の保安道から北西尾根を登り詰めた所に鳥居があり小祠が鎮座している。北西尾根は急斜面で堀切は無い。山頂の主郭の狭さの割には、北東尾根に二条、南尾根に一条のしっかりした堀切があるには驚く。主郭の西側には簡単な段郭が置かれ簡単な縄張であるが、物見や狼煙台とすれば充分すぎる防御構造である。
西の保科の霜台城との連携、南の真田領との連携手段として中継の狼煙台が置かれたはずで、今後の発見が待たれる。

仙仁城 (21)
南尾根の搦め手方面は鞍部までの傾斜も結構キツイので上巾7mの堀切一条で遮断している。(堀切㋐)

仙仁城 (23)
堀切㋐の断面。

仙仁城 (25)
堀切㋐の南側は削平された平地が確認出来る。

仙仁城 (28)
南尾根の鞍部から見上げた堀切㋐と主郭方面。

北東尾根は比較的傾斜が緩いせいか、念入りに堀切二条(㋑と㋒)を穿ち警戒している。
「こんな山の斜面に登る奴なんていないでしょ!」と思うかもしれないが、生活道路は全て山道だったと往時の方々にとっては直登など造作もない事だったと思われる。

仙仁城 (29)
北東尾根の堀切㋑の断面(上巾5m)

仙仁城 (44)
北杜尾尾根の堀切㋑(上巾5m)

仙仁城 (45)
本郭の切岸斜面から撮影した堀切㋑。

仙仁城 (35)
北東尾根の二条目の堀切㋒(上巾6m)

仙仁城 (38)
堀切㋒の断面図。

残念ながら城跡からの眺望は周囲の雑木林に邪魔されて芳しくない。60番鉄塔の脇から見える風景をお勧めしたい。

仙仁城 (10)
鉄塔脇からの風景。北方面には亀倉町、その背後に米子城、そしてさらに奥に明覚山(雨引城)が良く見える。

この砦が仙仁口において、上州方面への交通の要衝として、また小県郡の真田領との往来に関しての監視を担った重要な砦であった事は想像に難くない。真田の配下として忍びの役割を果たしたと伝わる仙仁衆、その実態の解明が待たれる。
(平山先生、出番ですよ!!・・・笑)

仙仁城 (43)
北東尾根から見た頂上方面。


≪仙仁城≫ (せにじょう 城山) 

標高:907m 比高:217m (仙仁温泉より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:須坂市仁礼仙仁山
攻城日:2020年12月2日 単独訪問
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:A(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け) 
城跡までの所要時間:30分
駐車場:無し
見どころ:堀切など
注意事項:経験の浅い方は単独では不可。
参考文献:須坂市の現地説明板及び「信濃の山城と館⑧」P292参照。
付近の城址:城山城、源太入城など
Special Thanks:ていぴす様(登り場所のご教示と説明板の写真及び設置場所の情報提供)

仙仁城地図3
城の場所と城跡までのルート。

仙仁城遠景①
麓の仙仁集落から見た仙仁城

仙仁城遠景②
集落入り口の西側から見た仙仁城の遠景。かなり険しい独立峰に築かれた砦だという事がお分かりいただけるでしょうか。

Posted on 2021/01/20 Wed. 18:03 [edit]

CM: 4
TB: 0

1120

沼ノ入城 (中野市・高山村境 間山峠の西)  

◆尾根筋に堀切を多用して境目の峠を抑えた砦◆

時々読者の皆様から、「あそこの山城へ行きたいのだが、過去記事はどうやって検索するのか?」という質問を頂戴します。

最初からデータベースをキチンと蓄積して個別に表示出来る仕様のホームページを作れば良かったのですが、十年前は安直に当時流行りだったブログでスタートしました。それにいつまで続くか半信半疑でしたし・・・(汗)

ブログのタイトルだって、単純に森蘭丸の名を借りただけで、「この作者、ナルシストかジャニーズ系か?」と思われる始末・・・(笑)
おかげさまで、長野県の山城ブログとして読者の皆様に認知して頂いているので、今さら変更も出来ないし・・・(爆笑)

スクリーンショット 2020-11-17 213650
小生も過去記事を参照するときは、この方法でやってますが、「ええい、面倒だ!一発で出てこないのか!!」(汗)

さて、今回ご案内するのは、前回に引き続き北信濃の豪族高梨氏の南領の境目の城シリーズの「沼ノ入城」(ぬまのいりじょう)。

沼ノ入城(中野市) (56)
麓の間山地区から見た沼入城と隣接する小曾崖城(おそがいじょう)。

実はこの山城の踏査も5年前なので最新とは言い難いが、5/500年前なら許容範囲の誤差という事でご了承ください・・・(笑)

【立地】

高山村から中野市へ抜ける間山峠と大熊峠の間の山が沼ノ入城である。本来の登り口は、高山村の山田地区から県道須坂中野線を行き、大熊峠の手前から旧道を登るらしい。
我ら信濃先方衆、大熊峠まで車で登りそこで車を乗り捨てて尾根伝いに沼ノ入城を目指す。
※林道なので軽の四駆でないと厳しいかもしれない

沼ノ入城(中野市) (5)
大熊峠から沼ノ入城までは結構尾根を歩く。我ら信濃先方衆のお誘いに同行してくださった「えいき」さん。大変だったみたい(笑)

高梨領南側の城砦
この地図を見ると、間山館~真山城~坪井城~沼ノ入城~小曽崖城と一筆書きで行けそうだが、現実は想定するほど甘くない。

沼ノ入城(中野市) (8)
間山古峠。甲越紛争時の謙信道はこちらの峠が使われたと伝わる。

沼ノ入城見取図①
これだけ短い尾根に、これだけの堀切を刻む山城も珍しい。

沼ノ入城(中野市) (9)
「そこに山城があるならば、行かねばなるまい」 沼から浮上できない信濃先方衆のモットーである・・・(笑)

【城主・城歴】

文献・史料等なくはっきりしない。北の尾根筋に築かれた小曽崖城に関連する砦と思われ、山脈を境とした北側の勢力が南の勢力に対抗して築いた境目の砦と推定される。小曽崖城は最初新野氏の築城と伝えられ、寛正四年(1463)に高梨氏と戦って敗れ、以後高梨氏の支配となったという。
高梨氏の統治時代において、沼ノ入城は南領の境目の城として強化され、甲越紛争における初期の上杉軍の軍道(謙信道)を守る砦としての任務を任されていたものと思われる。

沼ノ入城(中野市) (10)
間山古峠から登って最初に現れる堀切㋚。

沼ノ入城(中野市) (11)
チョッと曖昧な感じの堀切㋙。

沼ノ入城(中野市) (13)
主郭手前の堀切㋘。間山古峠の西側の尾根に都合三重の堀切の設定は、古峠が機能していた時の備えであろう。

沼ノ入城(中野市) (15)
11×5の主郭。2~3人の歩哨も詰められない狭さ。現在は浅間社が祀られている。写真には向学心旺盛な「えいき」さん。


【城跡】

現在の間山峠と旧道の間山峠の間の痩せ尾根が城域で、尾根上は小規模ながら連続した堀切で断ち切られ、堀切の間には小規模な郭が展開する。ところどころ、石積みで土留めや補強の跡が見られる。
主郭の浅間社の石祠は北向きなので、この砦がきたの人びとによって勧進されたことが推定される。
特筆すべきは、こんな小さな砦にもかかわらず、主郭から古峠までの尾根には三条の堀切、主郭から東の間山峠まっでには実に八条の堀切が確認出来る。境目の城としての緊迫感を今に伝えている。

沼ノ入城(中野市) (16)
主郭から見た東尾根。三重の連続堀切の守りは固い。

沼ノ入城(中野市) (28)
写真はていぴすさん。皆さん、勉強熱心だなあー、少しは見習わないと・・・(汗)

沼ノ入城(中野市) (31)
堀切㋕。土留めの石積を伴う。

沼ノ入城(中野市) (35)
鞍部を執拗に遮断する堀切群。

間山古峠側は三条の小さな堀切しかないのに、間山峠側は実に八条の連続堀切で絶ち切っている。
隣接する須田氏の須坂地域が武田の侵略によって脅かされるようになると、高梨氏は境目の砦を改修し峠を監視下に置いたとも考えらる。

沼ノ入城(中野市) (39)
硬い岩盤を叩き割って作られたと思われる堀切㋒。

沼ノ入城(中野市) (42)
上巾5mの堀切㋑。

「怖いものは怖い・・・」

甲斐から電光石火の如く信濃に侵略してくる武田とは、何者なのか。逆らうものは撫で斬りにされ、捕虜は金山銀山の炭鉱の鉱夫で使われ、女子供は甲府に連れていかれ人身売買・・・。その恐怖は計り知れず、人々を恐怖のどん底に叩き込むに充分である。

信濃に限った事ではないが、異様なまでに刻まれた山城の堀切や段郭を見るたびに「見えない恐怖と戦ったのだ・・」そう思う。

沼ノ入城(中野市) (43)
間山峠手前の堀切㋐。

沼ノ入城(中野市) (45)
堀切㋐と間山峠の間の尾根。

沼ノ入城(中野市) (52)
間山峠。昭和の頃まで生活道路として使われていたという。道もしっかり普請されている。

沼ノ入城(中野市) (51)
峠のお地蔵様は、もともと間山古峠にあったもので、こちらに移設したのだという。

境目の城は、我ら山城ツアラーが「心を燃やす」憧れの場所であるが、なかなかそこには辿りつけない場所でもある。
堀切で切り刻まれた尾根が何を語るのか、この目で確かめ、堀切の声に耳を傾けよう(チョッと何言ってんだかわかんない・・・笑)


≪沼ノ入城≫ (ぬまのいりじょう)

標高:800.5m 比高:200m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:中野市・高山村との境
攻城日:2015年10月12日
お勧め度:★★★☆☆
難易度:S(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:大熊峠から山道20分
駐車場:無し(峠道に路駐)
見どころ:堀切、切岸など
注意事項:単独訪問は避けた方が良い。大熊峠からはGPSでの地形図が読める方がいないと厳しい。熊除けの鈴は必携。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城址:小曾崖城、坪井城、真山城、間山館など
SpecialThanks:ていぴすさん、えいきさん

沼ノ入城(中野市) (3)
登り口の大熊峠から見た高梨領(中野市)の遠景。


Ⓢは林道入口。Ⓖは大熊峠の登り口。㋹が主郭。

沼ノ入城(中野市) (59)
間山地区からの拡大。大熊峠は間山古峠の奥側なので、こちらからは見えない。

Posted on 2020/11/20 Fri. 21:24 [edit]

CM: 0
TB: 0

1114

真山城 (中野市間山馬曲)  

◆高梨領の南側の古道を守る重要な支城◆

さて、皆様の絶大なるご支援とご声援をいただき、なんとか無事に終えた山城アテンドツアーでしたが、小生のブログの読者という方から「ブログの更新、とっても楽しみにしてます!!」とお声がけいただいた・・・・この事である・・・(汗)

あれだけ滞っていたブログの更新が、ダイジェスト版ともなると、いとも簡単に掲載できるのである。たいして中身がないし、テキトーに写真ばらまきゃ何とかなる(笑)

「ブログ更新頑張らなきゃ・・・」(でもめんどくさいなあ―、過去の取材写真の賞味期限もあるしなあー・・)

渾身の力を振り絞って(←いや、いらんわ必要なのは精神力だけや・・・笑)今回ご案内するのは6年前の「真山城」(まやまじょう)

間山館(中野市) (22)
高梨氏の最初の本拠地であったという間山館付近(石動社のあるところ)から見た真山城と背後の山脈

北信濃の有力豪族であった高梨氏の城館といえば、真っ先に思い浮かぶのは方形居館で有名な中野小館とその背後の詰城と伝わる鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城だが、最初に拠点を置いたと伝わる間山周辺の山城に関してはあまり知られていない。
(太字をクリックすると過去記事にタイムスリップします・・・←おいおい、タイムマシンかい!)

間山館周辺の城砦群
間山館周辺の山城で調査済みなのは真山城と沼ノ入城で、あとは手つかず・・いったいいつになるのだろう・・・(汗)


【立地】

中野市の間山地区の南部で、高山村との境に連なる雲井岳から派生した尾根上の馬曲山に位置する。高山村との往来に使われた古道が何本か通り間山峠や小池峠など、謙信道と呼ばれているものもあり、これらを抑えるには格好の位置に造られている。
登り口は日帰り温泉施設「ぽんぽこの湯」のある北東斜面から沢伝いに登ると南尾根の鞍部に出る。ここから北側が城域。道はないのでテキトーに直登するしかない。

真山城㋙
鞍部に辿り着くと最初の堀切㋙。

真山城 (1)
南尾根の細長い郭。前後を堀切㋙と㋘で区切られている。

真山城 (2)
頂部の主郭への尾根を断ち切る堀切㋘

真山城見取図①
独立峰に築かれているので、十字の尾根にそれぞれ曲輪を連続させている。大手は恐らく長い鞍部を持つ北尾根と思われる。

【雄山(おすやま)と雌山(めすやま)の築城の違い】

その昔、とある番組で中世の山城は独立峰に築かれた「雄山」と尾根の鞍部を利用し築かれた「雌山」に分別され、雄山は上杉系に多く、武田系は雌山に多いような話であったように記憶している・・・。

「へえ、そうなんだ・・・・」 当時は真に受けたものである。

鬼門と言われる1,000を超えたあたりで、訪問した城数のカウントを止めたので、今時点での訪城数はゆうに1,600を超えていると思う。小生は全国区の山城ツアラーではないので、確かな事は言えないが、後詰めが対処できるのならともかく、逃げ場のない独立峰に築かれた山城は少なくて、圧倒的に尾根の鞍部に展開する雌山の山城がメインだと思うがどうであろうか・・・。

真山城 (9)
南尾根と城の中枢部を断ち切る堀切㋓。堀切の右側が郭2。

真山城 (19)
25×7の主郭を調査する同行者の馬念さんとえいきさん。お互い若かったなあー(笑)

【城主・城歴】

詳細は不明であるが、真山城は南北朝期に諏訪の神氏一党の真山氏が居城したと伝わり、真山氏が去った後は間山に居館を構えた足利尊氏に与した高梨経頼が城兵を置いたという。
弘治三年(1557)三月、北信濃に侵攻し高梨氏を追い払った武田信玄は、この地を伊藤右京亮に与え、真山城は伊藤氏と須田氏の管轄となったようである。武田氏滅亡後、上杉景勝が川中島四郡を領有するに当たり、伊藤氏は帰農したという。

真山城 (61)
東尾根は二連の堀切で断ち切る。写真は堀切㋔。

城跡の探訪で一番厄介なのは、独立峰に築かれた城跡。頂部から分かれる支脈に全て防御構造を残しているので、一つ一つ丹念に尾根を下って登ってを繰り返すのである。
真山城の場合、北尾根が大手なので、ここを最終下山ルートとして西尾根、東尾根を先に探索したのだが、その落差は結構大変だった。

真山城 (22)
西尾根側の郭3。

真山城 (23)
郭③に接続する堀切㋖。

真山城 (35)
西尾根の堀切㋗。堀切というよりは切岸として削り出したというのが正解だと思う。

真山城 (37)
こんな急斜面下ったら、戻るの大変だよねー、って皆思ったのだが、誰も口に出せずに我慢してたとか・・・(笑)

真山城 (46)
遺構が続く限り、進むしかなかった・・・若気の至りであろうか・・・(汗)

真山城 (49)
西尾根の先端になる郭5。こんな場所、もう頼まれても絶対来るもんか!!(笑)

【城跡】

698mの頂部にある本郭を中心として十文字の尾根があり、それぞれに防御構造を施している。鞍部が比較的長い北尾根が大手と考えられ二本の堀切を入れている。
東西の尾根は主郭との落差が結構あるが、手を抜く事なくしっかり段郭を造成して守りは固い。搦め手筋の南尾根は案外あっさりとしていて、尾根伝いの坪井城に逃げ込むルートであったようだ。

真山城 (71)
堀切㋔と郭2。

真山城 (77)
東尾根も結構な急斜面に段郭を備える。下ったら、また登るんですよ・・・(完全に忘れてます・・・笑)

真山城 (79)
堀切というよりは切岸として削られた㋕。宮坂武男氏の縄張図では良くみられる表現である。

真山城見取図①
写真が多すぎるので戻るのも面倒という方の為に見取図を再掲載。結構気を遣ってます・・(笑)

雄山の山城の調査は結構しんどい。尾根の数が多いと、尾根の数だけ下って上っての繰り返しなので「ヤバイよ、ヤバいよ!」
遺構があるのか無いのかすら分からない当時の山城を最初に踏査した宮坂先生は、まさに超人である。

では、最後は北尾根の遺構。我々は大手とみられるこの尾根から下界を目指したのだが、とんでもない藪漕ぎを体験する羽目になる。まあ、最終的に何とか出発地点に戻れたのでホッとしたが・・・(汗)

真山城 (84)
北尾根の最初の鞍部で「相談しよう、そうしましょう!」の図。

真山城 (85)
大手道にふさわしい鞍部。

真山城 (92)
堀切㋑。郭6の背後を断ち切る。

真山城 (98)
郭6に立つ「えいき」さん。我ら信濃先方衆との出逢いは、彼の山城への取り組みの運命をも変えてしまったとか・・・(笑)

真山城 (101)
北尾根の最終の堀切㋐。

北信濃のこんな奥まった山の中に、これほどの防御構造を持つ山城があるとはなかなか信じ難いのだが、当時の緊迫した状況が伝わるようである。
遺構の残存状況も良好で、ここは人の手を入れる事無く、そのままにして欲しいと心から願っております。
どうしても見たいという物好きだけが見学できる聖地かと・・・・(爆笑)


≪真山城≫ (まやまじょう 城ノ山)

標高:699.2m 比高:250m
築城年代:不明
築城・居住者:真山氏、高梨氏、伊藤氏
場所:中野市間山馬曲
攻城日:2014年11月09日
お勧め度:★★★☆☆
難易度:S(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:30分
駐車場:無し(ぽんぽこの湯借用。帰りには温泉利用しましょう!)
見どころ:堀切、段郭、土塁など
注意事項:単独訪問は避けた方が良い。北尾根からの下りは害獣除けネットなどで出口の特定が困難になるので自信がなければ引き返すこと。熊除けの鈴は必携。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城址:小曾崖城、坪井城、沼ノ入城、間山館など
SpecialThanks:ていぴすさん、馬念さん、えいきさん

沼ノ入城(中野市) (57)
北側から見た真山城全景。


Ⓢは登り口。Ⓖは駐車場借用のぽんぽこの湯。

この日は午後から雨模様になり、我ら4名、温泉に浸かりながら城談義に花が咲き、盛り上がりました。

持つべきものは、価値を分かち合えるお仲間ですよね。

Posted on 2020/11/14 Sat. 21:18 [edit]

CM: 2
TB: 0

0531

菅の山城 (下高井郡山ノ内町)  

◆鴨ヶ岳城砦群の南端を守り更科峠を監視した砦◆

5月31日で移動制限の自主規制が撤廃され、関所の往来は手形不要となる。

果たしてその事が吉と出るか凶と出るかはしばらく見守るしかない。二次感染に備えるのは国民の義務かと・・・(汗)

今回ご案内するのは、鴨ヶ岳城の南端に位置する菅の山城(すげのやまじょう)である。
なんせ4年前の探訪を今頃記事にしているので、今現在を保障するものではありません・・・悪しからず・・・(笑)

菅の山城 (1)
更科峠。軽自動車なら通行できるが結構荒れている。山ノ内町側からはかなり狭くてヤバイ。遠いが中野市側からのアプローチが無難。

菅の山城 (96)
更科峠の頂上あたりから適当に北の斜面を登ると手作り誘導看板がお出迎えしてくれる。

【立地】

中野市と山ノ内町の境で、山ノ内町の佐野集落の西側の更科峠の北側の山に位置する。尾根を北西に800m辿れば鎌ヶ岳城⇒鴨ヶ岳城に通じる。尾根を南に進み山脈を越えれば高山村の山田方面に出られる。
鴨ヶ岳城の北尾根の先端にある箱山城が箱山峠を押さえて北の守りとなったように、南端の更科峠を押さえる為に築城されたと思われる。

菅の山城見取図①
主郭の前後を堀切で絶ち切り、堀切は掻き上げた土で竪土塁にしたようだ。電波塔の立つ郭5は馬出で城内の一部であろう。

菅の山城 (10)
西側から見た堀切㋒。盛土で高さを稼いでいるのが分かる。

菅の山城 (11)
堀切㋒の断面。(南側より撮影)

【城主・城歴】

詳細は不明である。
山ノ内町誌によれば、高梨一族で須毛郷の地頭であった小島氏が拠ったとされる。また、「長野県町村誌」では「間崎城」として大坂山にあって、高梨某が築いて、その臣時田甲斐守が居り、後に同氏の臣、竹腰次郎が居城したとしている。
小島氏の経歴も色々伝わっているようだが、近隣の山城との位置関係を見れば、築城の主体は高梨氏で鴨ヶ岳城、鎌ヶ岳城の南の守りを担当とした説が案外的を得ているのかもしれない。

菅の山城 (30)
郭3~郭2の間は天水溜(雨水を集めた水の手)あるいは伏兵を置いた勢溜と推定されるが、写真で表現するのは困難。

菅の山城 (31)
郭2(7×10)

【城跡】

山頂に三条の堀切を入れたオーソドックスな縄張で、防御の指向性は東の尾根伝い。そこには馬出を入れている。
郭3と郭2の部分はかなり面倒な造りだが、雨水溜による水の確保が目的のようにも思える。
立地から考えても、高梨氏の詰城の鴨ヶ岳・鎌ヶ岳城を防衛するための南の出城であろう。

菅の山城 (33)
城域最大の幅を誇る堀切㋑(上巾11m)

菅の山城 (34)
南斜面に竪堀として落ちる堀切㋑。堀切左右の土手が竪土塁状に加工されているが、掻き上げの土砂を当てただけであろう。

菅の山城 (40)
主郭背後の堀切は極めて鋭利な刃物です・・・(笑)

菅の山城 (46)
29×12の長方形の主郭には祠が建つ。

菅の山城 (48)
上巾8mの堀切㋐。

高梨氏の詰城である鴨ヶ岳・鎌ヶ岳城とほぼ同時期の遺構であろう。
この地域の山城は、峠を取り込むまたは監視する部類の山城が数多く点在する。甲越紛争における北信濃の戦いは、ある意味上杉謙信の退却退路確保に心血を注いだようにも思える。

これは小生が現地の山城を歩いて感じた直感である。謙信の野望はやはり関東管領であり、甲越紛争は北信濃の国人を家来に組み入れ臣従させるための空手形だったと・・・。

菅の山城 (55)
郭4(12×13)

菅の山城 (72)
馬出と呼ぶのも気が引けるが、一応城内と推定される郭5.

菅の山城 (75)
現在は電波塔の立つ5郭。

菅の山城 (82)
郭5の周辺にも、段郭の跡が見られる。

≪菅の山城≫ (すげのやまじょう 菅城・間崎城)

標高:710m 比高:125m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下高井郡山ノ内町寒沢
攻城日:2016年1月11日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:C(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:更科峠より15分
駐車場:無し
見どころ:堀切、竪土塁、郭など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編 宮坂武男著」
付近の城址:鴨ヶ岳城、鎌ヶ岳城、箱山城など

sugeno yamajyou1
山ノ内町の麓から見た菅の山城。

Posted on 2020/05/31 Sun. 21:39 [edit]

CM: 0
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top