らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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木曽福島関所跡 (木曽郡木曽町福島)  

◆中山道の中間に設置された日本四大関所の一つ◆

お楽しみいただいた(?)木曽編は、有名な木曽福島関所を掲載して一度閉じさせていただく事にする。

まだまだ未訪の山城も多いので、取材を再開したあかつきにはまた順次掲載したいと思っておりますw

今回ご案内するのは、説明不要の「木曽福島関所跡」。江戸幕府が整備した五街道における主要な四大関所跡のうち、資料館が存在しないのは群馬県の碓氷関だけらしい・・・(汗)

木曽福島関所 053
福島関所跡の西隣に隣接された資料館は福島関所を忠実に再現している。

木曽福島関所 001
関所の西側(木曽川沿い)は道路の拡幅工事により削り取られてしまって往時の面影は無い。

【立地】

木曽谷のほぼ中央、駒ヶ岳の北支脈が木曽川に迫る福島宿(ふくしまじゅく)の北端、木曽川を見下ろす崖の上に位置する。中山道が木曽川と火燃山(ひともしやま)と呼ばれる戦国時代に狼煙台のあった根ノ井山から張り出した尾根の山裾を通る中間地点にあり、飛騨からの街道も合流する交通の要衝でもある。

木曽福島関所 002
福島関の入口を右へ進むと島崎藤村の小説「家」のモデルとなった高瀬家も見学できる。(別料金)

木曽福島関所 006
復元された東門(関所址では西門の位置になる)

【関所の歴史と概要】

創設年次は明らかでないが、江戸幕府の五街道の整備とともに、江戸防衛の関門として東海道の箱根や新居(あらい)、中山道の碓氷(うすい)と並ぶ重要な関所だった。1668年(寛文8)ごろの古絵図などを手がかりに、2次にわたる発掘調査の結果、番所前の石列、番所から東西に延びた塀の礎石、西門周辺部の石列などが発見され、施設の配置が確認された。現在、国道から西門跡へ上る急坂な小道は福島関を通過する旧中山道の面影を残している。江戸幕府交通政策史上の遺構としてきわめて重要なものであり、旧中山道に接する屋敷部分を含めて関所跡とし、1979年(昭和54)、国の史跡に指定された。

東西45m、南北30mの関所は1869年(明治2)の関所廃止後に取り壊されたが、1975年(昭和50)の発掘調査を基に東西の門も復元され、史跡公園として整備されている。JR中央本線木曽福島駅から徒歩約15分。
※コトバンク「福島関跡」より引用転載。

木曽福島関所 008
資料館の東側がかつての福島関跡。

木曽福島関所 009
意外と簡素な造りだった事に驚く。

【関所跡】

知識の無い小生が「うんちく」を語るより、写真を見ていただいた方が説得力があると思うので、ツラツラ並べてみる・・(笑)

木曽福島関所 011
資料館が復元された場所はかつての家中屋敷の跡地。

木曽福島関所 016
全景はこんな感じです。

木曽福島関所 012
移設された関所の井戸。関守たちの日常生活に使われ、時には旅人の喉を潤したと伝わる。

木曽福島関所 015
上番所跡。一般の旅人は下番所で手形を出して許可を待つので、上番所の役人が調べる事はまずない。

【関所のこぼれ話】

●「入鉄砲(いりてっぽう)に出女(でおんな)」

関所の重要な役割としてよく「入鉄砲に出女」と言われる。「入鉄砲」は鉄砲に限らず、武器の密輸による戦の準備を監視する役目であり、「出女」(女改め)は、江戸屋敷の人質である大名の奥方の逃亡の監視である。
特に「女改め」(女人旅の一行)は厳しく上番所の役人が直接手形について調べ、下番所に命じて手形発行者の符号改め(いわゆる印鑑照合)まで行ったという。許可が下りるまで約2時間程度かかったといい、それまでは下番所の縁側に腰かけて待っていたという。

木曽福島関所 055
往時の関所の西側は木曽川への断崖となっており、福島宿へ入るにしても筏橋を渡って対岸の門前に行くにも関所を必ず通る。

木曽福島関所 033
資料館に展示してある火縄銃。さすがに鉄砲の持込みは重罪だが、関所に罪人の裁決権は無く尾張藩へ届け出しなければならない。

●関所の営業時間

・開く時刻:明け六つ (現在の時刻では午前6時頃)
・閉まる時刻:暮れ六つ (現在の時刻では午後六時頃)
当時は日の出と日の入りを六つ(むっつ)と呼んだので季節により開門と閉門時間がずれたと伝わる。

木曽福島関所 021
下番所の内部は発掘された遺物等の資料展示室になっている。

木曽福島関所 046
上番所。

●関所の一番偉い人

尾張藩より木曽谷一円の代官を任命された山村甚兵衛で、家老職がこれを補佐したという。山村代官は行政権は託されたが、裁決権は無かったので、関所破り等の罪人が出た場合は牢屋に留め置き、尾張藩の担当者に報告し関所に来てもらい罪人を裁いた。担当者が到着する前に罪人が死亡した場合は桶に入れて塩漬け保存したという。(って漬物じゃあるまいし・・・汗)

木曽福島関所 061
木曽谷で権勢を極めた山村代官屋敷は木曽川を挟んだ対岸の大手に一部が残る。

●福島関の一日の通行量

記録が無いのではっきりしないが、冬期間は通行が全くない日もあったと思われる。逆に大名行列が通過する場合は、多い日で一日二、三千人を超える日もあったようだ。ちなみに過去最高の行列は、皇女和宮が京都から江戸に輿入れした時で人足二万人、馬三千頭で、十日間ぐらい途切れることなく隊列が続き、行列の長さは30kmにも及んだという。関所の役人や番兵も上を下への大騒ぎだったと思われる・・・・(汗)

木曽福島関所 038
上番所の隣の座敷。ここに展示してある福島関のジオラマは秀逸の作品で、お立ち寄りの際には必見。

さて、如何でしたでしょうか。

関所の資料館は初めて入りましたがとても勉強になりました。
お近くに関所の資料館がある方は、是非一度お訪ねください。旅人の気分で入るのがお勧めですw

≪福島関跡≫ (ふくしませきあと)

標高:775m 比高:5m(下の道路より)
構築年代:慶長年間
構築者:江戸幕府
場所:木曽郡木曽町福島(関町)
調査日:2013年3月28日 
お勧め度:★★★★☆
見学所要時間:15分~ 駐車場:有り
見どころ:関所跡、資料館。(山村代官屋敷、高瀬家資料館などとのセットの共通割引券あり)
注意事項:特になし
付近の城址:福島城、木曽氏居館跡(山村代官屋敷)、上之段城、小丸山城、火燃山狼煙台など



木曽福島関所 056
関所跡から見た福島城とその周辺。

島崎藤村をご存知の方は隣にある「高瀬家資料館」もお勧めです。

木曽福島関所 060
当時は興味が無くて見学しませんでした・・・次回は入ってみたい・・・。
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Posted on 2016/10/02 Sun. 15:09 [edit]

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藪原砦 (鳥居峠砦 木曽郡木祖村鳥居峠)  

◆木曽領の入口として幾多の侵略を阻止した重要な境目の砦◆

木曽路の山城を取り上げているブログは極めて稀で、オーソドックな所では福島城や妻籠城ぐらいが大半と思われる。

ましてや鳥居峠の砦跡を記事にしているのは「武蔵の五遁、あっちへこっちへ」様ぐらいであろうか。

最近「信濃の辺鄙(または稀有)な山城」の検索キーワードランキングで常に上位にランクインしているらしい小生のブログが取り上げない訳にもいかないので、記事にしてみました・・・(笑)

藪原砦(鳥居峠) (1)
国道19号線の藪原(木祖村)の鳥居トンネル手前を左折し、しばらく進むと中山道自然歩道がある。石畳を5分ほど登ると峠入口。

ここに到着したのは夕方5時頃。 「さて、日没までには戻れるようにペースアップして攻めますか。」

3月下旬とはいえ、残雪が残る鳥居峠をこの時間から登るというのは正気の沙汰ではない・・(汗)

藪原砦(鳥居峠) (91)
アングルを引いて下方より撮影。結構雪が残ってましたが「何とかなりそうかしら・・」

【立地】

木曽郡の北東鉢盛山(2,447m)と木曽山脈の主峰駒ヶ岳(2,956m)との間を連亘する山脈が中山道によって横断されるよころが鳥居峠で木曽路の北端楢川村(現在は塩尻市)と木祖村の境にある。峠は海抜1,197mの峻嶺で、木曽川と信濃川の上流の奈良井川の分水嶺をなしている。
藪原砦はその鳥居峠の頂上手前の西麓の尾根を利用して築かれているが、峠との比高差はほとんどない。

藪原砦(鳥居峠) (5)
10分ほど中山道を登ると丸山公園の入口の分岐に着く。

藪原砦(鳥居峠) (9)
丸山公園の登り口からは藪原宿周辺は良く見える。

【峠の歴史と砦の履歴】

峠路の開通は歴史が古く、和同年間に開かれたという「吉蘇路」(きそじ)をこれに当てている。はじめ「県坂」(あがたさか)といい、中世紀においては「ならい坂」、あるいは「藪原峠」と呼ばれ、明応年間になって木曽領主木曽義元が松本の小笠原氏と戦った時、この頂上から西方はるかに御嶽権現を遥拝して戦勝を祈願、霊夢によって勝つことが出来たのでここに鳥居を建立、それよりは「鳥居峠」と呼ばれるようになったといわれている。

藪原砦見取図① 001
後世だいぶ改変されたものの、尾根を利用した砦で街道を封鎖する役目を担っていたようである。

戦国時代には、木曽氏の木曽防衛の第一線として重視され、天文、天正の二度にわたり甲州勢をここで迎撃し、いずれも勝利している。
天文十八年(1549)四月に始まった武田軍の侵攻に際して木曽軍は、贄川・平沢で戦ったが敗れ、鳥居峠で福島の本隊からの援軍を得て再度迎撃に及びこれを撃退することに成功している。
続いて天文二十四年(1555)の春、武田軍は鳥居峠を越えて藪原へ布陣するが、川中島へ上杉軍が動いたために武田軍は守備兵を残して転戦。同年八月に武田軍の主力が再度木曽領に侵攻し、木曽氏和議となり武田に降った。

天正十年二月、木曽義昌の織田方への内通が発覚すると、武田勝頼は木曽領へ2月6日と16日の2回にわたり討伐軍を派遣する。木曽軍は鳥居峠で武田軍を迎え撃ち、これを撃退する。この緒戦における敗北は織田方の甲州征伐に続く事となり、やがて武田氏滅亡への序章となった。

藪原砦(鳥居峠) (19)
東側から見下ろした丸山公園。

藪原砦(鳥居峠) (10)
後世に整地されたであろう丸山砦の中心付近には「鳥居峠古戦場の碑」と「俳句の句碑」が並ぶ。

※鳥居峠古戦場の碑は明治三十二年八月、木祖村の有志によって建立されたもの。戦国時代の終わりごろ、天文十八年(1549)と天正十年(1582)に、木曽氏の軍勢が甲斐の武田軍をこの峠で迎え討ったことや、峠の様子などが書かれている。藪原の「青木原」、奈良井の「葬り沢」など、時代を偲ぶ地名が記されている。

藪原砦(鳥居峠) (16)
丸山の中央部。往時は土塁が全周していたのであろう。

【砦跡】

鳥居峠に近い順に、「遥拝所」、「丸山公園」、「測候所跡地」、「峠登り口の尾根」の四ヵ所が砦の遺構の跡らしい。
迎撃するというよりは、峠の守備隊の駐屯地の役割が強いように見受ける。

実際に現地を歩くと、敵が鳥居峠を越えた場合には、出来るだけ砦に引きつけて伏兵を出撃させたようにも思えるがどうであろうか・・・・。

藪原砦(鳥居峠) (21)
遥拝所と丸山の間には「義仲硯水」がある。

ここには、木曽宮の越で平家討伐の旗挙をした木曽義仲が北国へ攻め上がる時、鳥居峠の頂上で戦勝祈願の願書をしたためさせて御嶽山へ奉納させたときの硯の水として使われたという湧水が残っている。

藪原砦(鳥居峠) (22)
丸山公園から遥拝所への急坂を登る「ていぴす」さん。結構な落差があり登るのも一苦労であった。

●遥拝所

先述した通り、木曽義元が小笠原との戦いにおいて御嶽山に戦勝祈願を行い、見事勝利したので、鳥居を建立し神社を勧進した場所。御嶽山を臨む遥拝所の北側には土塁を伴う郭跡があり、隣接する郭にも土塁があり、内側に大きな窪みがある。
社殿を取り込んだ郭だったようだが、確証は無い。

藪原砦(鳥居峠) (25)
尾根の先端に突き出す形の遥拝所。夥しい数の石仏や石像が並ぶ。

藪原砦(鳥居峠) (44)
現在、鳥居は崩落の危険があり付近は立入禁止。全国に多数の信者のいる御嶽教でも鳥居は救えないのか?

藪原砦(鳥居峠) (33)
遥拝所の北側の一段目の郭。土塁が囲んでいる。

藪原砦(鳥居峠) (37)
遥拝所の北側二段目の郭の大きな四つの穴。番兵の居住施設(竪穴住居)のように思えるが・・。

藪原砦(鳥居峠) (51)
遥拝所から鳥居峠に向かう分岐点。鳥居峠まで行きたかったのだが、膝まで埋まる残雪の行軍は危険なのでやむを得ず中止。

藪原砦(鳥居峠) (47)
遥拝所(神社)が迎撃用の陣地であることが分かる東側から見た写真。

●測候所跡

丸山公園の西側を尾根伝いに進んだ先が測候所跡で、ここにもかすかに遺構が残る。旧中山道は尾根の脇を通っているが、戦国時代の街道は峠入口から尾根をS字に登り測候所のあった尾根先に出たものと考えられている。

藪原砦(鳥居峠) (54)
丸山の西側の尾根より測候所のあった尾根先へ。

藪原砦(鳥居峠) (57)
現在、休息所の立つ郭跡は削平地としては結構な広さがある。

藪原砦(鳥居峠) (60)
森林測候所の跡地に立つ休息所。整地により失われた堀形の跡が一部確認出来る。

藪原砦(鳥居峠) (59)
堀形。郭手前は土橋なのか貫通していたのかは不明。

●峠登り口(測候所跡地の南尾根)に仕組まれた防御土塁

戦国時代の鳥居峠への道は藪原側より尾根伝いに登ったものと推定され、東側の中山道は江戸時代の五街道の整備によるものであろう。
S字にクランクしている尾根道の所々に人工的な土塁を確認する事が出来る。恐らく峠で迎撃できずに退却する場合を想定した防御施設であろうか。折れを作り土塁の上から通路の敵を殲滅しようとする意図が感じられる。

藪原砦(鳥居峠) (84)
藪原側の峠の登り口から尾根に取り付く部分には、両サイドに土塁が構築されている。

藪原砦(鳥居峠) (83)
通路を抑えるように土塁が構築されている。

藪原砦(鳥居峠) (72)
通路の脇の土塁。意図して造作されたことが分かる。

さて、如何でしたでしょうか。

残念ながら今回の調査では鳥居峠の分岐点には辿り着けなかったものの、木曽氏の領土の北限の境目の砦として築かれ、木曽氏が武田氏の配下となると、木曽氏が破られた場合の武田領の最終防衛拠点として重要視されていた事が分かります。
しかし、皮肉な事に木曽義昌の裏切りによりこの砦での勝敗が武田を没落させる要因の一つとなってしまいました・・・。

明確な遺構がある砦ではありませんが、木曽義仲、武田勝頼、木曽義昌に関わりの深い鳥居峠。その目で確かめることをお勧めしますw

藪原砦(鳥居峠) (26)
遥拝所の夥しい石仏群。ここから御嶽山の噴火で亡くなられた方の冥福をお祈りしました。

藪原砦(鳥居峠) (24)
残念ながら夕暮れ時で御嶽山は見えませんでした。晴天時にはよく見えるそうです。

≪藪原砦≫ (やぶはらとりで 鳥居峠砦)

標高:1200m 比高:250m
構築年代:不明
構築者:不明
場所:木曽郡南木曽町木祖村鳥居峠
調査日:2015年3月22日 
お勧め度:★★☆☆☆
ピークまでの所要時間:20分 駐車場:無し。遊歩道の登り口に路駐。
見どころ:土塁、堀形など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P510~511参照)
付近の城址:垰山狼煙台、山吹山狼煙台、奈良井城など
Special Thanks:ていぴす殿

藪原砦(鳥居峠) (88)
鳥居峠の登り口から見た垰山狼煙台(とうげやまのろしだい)。ここも制覇しないと木曽谷は語れない。いつになるやら・・。

Posted on 2016/09/28 Wed. 20:22 [edit]

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妻の神土塁 (木曽郡南木曽町吾妻)  

◆軍事構築物として推定するには無理があるような気がするが・・◆

タイトルを見て読み仮名がすらりと言えた方は、この遺構が妻籠城の附属陣地だと教え込まれた方々であろうか・・。
※ちなみに「妻の神土塁」は「さいのかみどるい」と読む。

妻籠城 (4)
「妻の神土塁」を城の遺構として断定している書き方である。果たしてその根拠は何か?


【立地】

中山道を挟んだ妻籠城の東側に位置する。尾根自体は中山道に迫り出しているが、妻籠城の遺構と言われる直線状の土塁は尾根の北側の斜面を約400mの長さで遮断するように築かれている。竪堀でもなく、陣城の防御壁としても中途半端な構築物には違いない。

妻の土塁③ 001
パッと見ると陣城っぽいが、斜面を遮断する直線の土塁は境界線?コの字の土塁は動物用の柵があったか?

【現地の状況について】

●尾根上のコの字の囲み土塁

L字型で周囲を低い土塁が囲むが、過去に見てきた居館跡とか陣地跡と違って真面目に削平した人工的な郭ではない事が分かる。戦国時代の遺構であれば、斜面に高低差を付けて更に切岸等で防御を工夫しているものだが、ここでは全く何も無く単純に動物除けのようである。

妻の神土塁 (2)
尾根の上に展開する土塁の囲み地。現在も獣除けの電気柵があるので、この遺構もそれに類するもののような気がする。

妻の神土塁 (4)
尾根上をL字で折れて南へ延びる土塁⑤.内側に堀形があるので獣の囲いのようでもある。

妻の神土塁 (7)
土塁4と土塁5の間の枡形状の空間を抜けると道形があり東へ続いていた。


●中山道から尾根まで伸びる直線土塁

尾根の斜面を仕切るように約300mの直線土塁(高さ1m~2m)が伸びている。
宮坂武男氏も指摘しているが、これを戦国時代の遺構と見るのは無理があるように思える。
「何の為に、そして何を守るために構築されたのか?」が不明なのである。

妻の神土塁 (6)
土塁⑥。峠の境界線のようにも思えるが・・・・。

妻の神土塁 (17)
土塁⑥に対して北側垂直方向に伸びる横土塁。

妻の神土塁 (20)
土塁⑬から見た土塁⑥と土塁⑦。土塁が分断されている場所は通用口なのか?

妻の神土塁 (32)
中腹の土塁は高さ2mぐらいになる立派な造り。南斜面に堀形も伴う。

●陣地跡か?耕作地跡か?

土塁⑨の北側に削平地がある。ここは尾根上の囲み地と違ってしっかり削平されているのだが、どうみても耕作地のようだ。
北側の輪郭を囲むように土塁が構築されているが、その上に柵を立てて獣除けにしたと思われる。

妻の神土塁 (33)
広大な二段の削平地。

妻の神土塁 (34)
部隊が駐屯出来そうな広さではある。

●まとめ

現場を隅から隅まで歩いてみたが、正直なところ、この構築物が何なのかよくわからない。峠の境界線のようでもあり、土塁の上に柵を立てれば害獣除けとして充分な機能があるように思える。
説明板が断定するように妻籠城の対岸の軍事構築物であるとすれば、妻籠城の大手口付近と連携を想定出来るような土塁の接続があっても良さそうだが、特に何もない。関ヶ原合戦の時の守備隊の駐屯地と言われればそうかもしれないが根拠はない。

妻の神土塁 (38)
中山道と接続する最初の土塁⑪。妻籠城と連携させるならもう少し南へ折れても良いと思うが・・・。

ちなみに「妻の神」(つまのかみ)とは「道祖神」と同じ意味を持つ名前で、この場合は「村の境界線」を示す名前として使われた可能性が高い。なので、「妻の神土塁」とは「村(峠)の境界線の土塁」であり、軍事構築物とは違うように思うが、どうであろうか。考究を待ちたい。

≪妻の神土塁≫ (さいのかみどるい)

標高:507m 比高:40m 全長510m
構築年代:不明
構築者:不明
場所:木曽郡南木曽町妻籠吾妻(妻籠城の対岸の尾根)
調査日:2015年3月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆
ピークまでの所要時間:10分 駐車場:道路脇路駐
見どころ:土塁、堀形など
注意事項:笹薮もあるので蛇対策は忘れずに(足首カバー、長靴など)
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P510~511参照)
付近の城址:妻籠城、妻籠古城、神明砦など

妻の神土塁 (39)
ここは妻籠城をしっかり楽しむ事をお勧めしますw

Posted on 2016/09/22 Thu. 08:31 [edit]

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妻籠城 (木曽郡南木曽町吾妻)  

◆約束不履行の家康タヌキに一矢報いた木曽義昌の意地の籠城戦◆

先週の真田丸における「超高速関ヶ原」凄まじい反響を巻き起こした。天下分け目の決戦が僅か一日で決着してしまうとは、パパ幸も信繁もまさに「青天の霹靂」であったろう。

今回ご案内するのは、上田城の攻略に失敗し地団太踏んで悔しがった秀忠が、関ヶ原合戦における徳川方大勝利の知らせを受けた時の陣所だったという「妻籠城」(つまごじょう)。実はこの城も、徳川軍にとっては忘れられない屈辱を味わった城なのである。

妻籠城 (7)
19号線から妻籠宿方面の国道256号線に入り、途中の分岐から旧中山道へ向けて東に入ると二差路。ここが城跡への登り口。

【立地】

中山道妻籠宿の北、木曽川に面して独立峰のように聳立する小山が城山で、背後の山尾根との間の鞍部を中山道が通り、妻籠と三留野(みどの)を結ぶ要衝の地である。
この山は、北側は木曽川、西側は蘭川(あららぎがわ)の流れによって削られ、山体は急で要害の地である。谷中へ孤立したような山のために、西や北、あるいは南の蘭川流域への眺望がきき、美濃方面と伊那方面からの交通路が集まり、木曽南部での戦略上の重要拠点になる。

妻籠城 (3)
中山道の「しろやま茶屋」跡。かつては街道を行き交う旅人で繁盛したのであろう。

妻籠城 (5)
城址への登り口に立つ石碑。県指定史跡だとは知らなかった・・・(汗)

妻籠城 (8)
現在は遊歩道が堀切の中を通っているが、堀の東側の斜面にかつての旧道を確認出来る。

【城主・城歴】

妻籠地区は、室町の中期頃までは美濃の遠山氏の勢力圏内にあったらしいが、天文二年(1533)には京都醍醐寺理性院の巌助僧正の「信州下向記」(飯田の文永寺に行った時の記録)に「妻子(妻籠)は木曽一家也云々、即ち木曽路の内也」とあることから、木曽氏の支配下にあったことがはっきりしている。

妻籠城① 002
中山道を押さえる城として築城された事がハッキリ分かる縄張りである。

妻籠城 (16)
郭4を中心とした東西の防御ラインと本城との連絡路は両サイドを深く堀が抉る土橋。

妻籠城 (17)
本城側から見たS字状の土橋(堀切㋓)。こんな小城が徳川相手に持ちこたえたのは地形を生かした防御の工夫であろう。

「木曽考」によると、木曽家豊の頃に、弟の三留野右京亮家範三留野に、野路里右馬介家益を野尻に封じたことになり、「下条由来記」では「木曽妻籠殿は木曽の三男なり。」とあり、妻籠の辺まで木曽氏一族が配備されたことが伺える。更に清内路に家中の原伝衛門を置いたことが知られる。(「下条由来記」)

妻籠城 (18)
遊歩道による堀切㋐の改変に注意。往時は防御上、このような道などあるはずもない。

妻籠城 (19)
堀切㋐の堀中。高低差のある尾根を遮断しているのでかなりの効果があったはず。遊歩道の設置は残念だ。

妻籠城 (31)
堀切㋐に接続する平場(10×21)から堀底を見下ろす。堀切に入った敵を対岸の味方と共に挟撃するには極めて有効である。

妻籠城が世の中に知られるようになったのは、天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いの時に家康を見限り、豊臣秀吉に内通した木曽義昌が家臣の山村良勝に妻籠城を守らせた籠城戦である。

がしかし、信濃の戦国武将研究の第一人者である平山優氏ですら、妻籠城攻防戦についての史料は乏しく、「木曽考」等の後世の編纂物に頼る以外にないと仰せなので、ここでは平山優氏の著作である「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(2011年 戎光祥出版)の第二章「織田政権の崩壊を信濃の情勢」の記述を引用し、この籠城戦の様子を写真とともにお届けしようと思う。

妻籠城 (23)
主郭の次に大きな東端の郭3。

天正十二年(1584)五月、秀吉方に内通した木曽義昌の討伐を家康に命じられた小笠原貞慶は、鳥居峠に押し寄せるも木曽軍の奮戦により撤退。続いて八月、家康は伊那郡代の菅沼定利を通じて、伊那の徳川軍および徳川方の信濃衆である諏訪頼忠や保科正直らに木曽攻めを命じた。

菅沼定利率いる徳川方は、妻籠城は寡兵だろうから、すぐに落とせると侮り攻め寄せたが、約三百の守備兵の士気は旺盛で、徳川方は返り討ちに遭い甚大な被害を受けた。その後、徳川方は城を包囲するだけで、攻めあぐんでいた。

妻籠城 (41)
西側から見下ろした郭2。堀切㋐に隣接する長方形の郭である。

妻籠城の様子を心配した木曽義昌は、家臣の西尾丹波守を派遣して様子を探らせたが籠城兵の士気旺盛なるを聞き及び安堵したという。

力攻めを断念した徳川軍は、近隣の土豪と領民を調略し妻籠城への武器弾薬と兵糧の補給路を遮断する策に出た。これが功を奏し、また水の手を断ち切る事にも成功した為に妻籠城は一転して窮地に追い込まれた。

妻籠城 (45)
堀切㋑の土橋。守備兵からすると、土橋を残すことで攻城兵のルートを限定させる効果がある。

これを知った豊臣方の森忠政は直ちに後詰めで出陣しようとするが、妻籠城の山村良勝はこれを固辞し糧道を確保するために城から討って出ようとした。配下の中関大隅守は山村を説得し思い止まらせ、籠城戦を継続させたという。

妻籠城 (46)
南の斜面遮断する堀切㋑。

妻籠城 (59)
北側の斜面に竪堀となって落ちる堀切㋑。

しかし、ついに城中の弾薬が尽き籠城衆の進退がきわまった時、城兵の竹中小左衛門が進み出て、夜中に城を脱出し三留野の味方に応援を頼む事を願い出て、山村はこれを許可した。
竹中小左衛門は夜半に敵の包囲網を潜り抜け、急流の木曽川を渡り三留野の木曽衆に城の状況を知らせ支援を求めた。
木曽衆は水泳に長けた者を三十人ほど選び髻に玉薬(火薬)を結び付け木曽川を渡らせて城に届けさせた。

妻籠城 (69)
主郭北側の帯郭。

妻籠城 (74)
西尾根を遮断する堀切㋒。(上から見下ろして撮影)

妻籠城 (86)
主郭の西下の段郭。周回しているので武者走りであったのかもしれない。

竹中が味方と共に帰還した事を知った山村は大いに喜び、早速玉薬を城兵に分配して、攻め寄せてくる敵に向かって鉄砲を撃たせた。たちまち敵兵二、三〇人が斃れた。
すでにまともな抵抗など出来ないと考えていた徳川方は大いに驚き、周到な籠城作戦だったと思うようになった。更に森忠政の救援の情報に接し、ついに徳川方は退却を決めたという。

妻籠城 (87)
主郭は低い土塁が囲み何ヵ所か出入り口がある。

妻籠城 (88)
主郭には東屋が建ち、石碑がある。

徳川方の退却を知った木曽衆は近隣の郷民に連日山中のあちらこちらで篝火を焚かせ、旗指物を掲げさせた。
これを見た徳川方は狼狽し、木曽義昌本隊の後詰めの到着と思い込み撤収を急いだ。さらに森忠政の援軍が来れば挟撃されて全滅の恐れがある。

妻籠城の山村良勝は徳川軍の退路となる木曽峠の山道に先回りして伏兵を置いた。そして徳川方が撤退を開始すると、城から討って出て追撃を開始した。城からの追撃兵を防戦する徳川軍は、突然背後の伏兵に接し挟撃される形となり多数の犠牲者を出し大いに敗走したという。

これが世にいう「妻籠合戦」で、豊臣秀吉は戦後、徳川軍の猛攻に耐えた妻籠城の山村良勝の戦功を賞し感状を与えたという。

妻籠城 (89)
城址に立つ妻籠城の説明板。

妻籠城 (92)
主郭から見下ろす妻籠宿。眺望の良さは抜群だ。

妻籠城 (95)
主郭の北側の小口は後世に開けられたものであろう。

●その後の妻籠城

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの時、関ヶ原へ向かう徳川秀忠軍は、上田城で手間取り、家康の督促もあり9月12日に西へ向かい、本山宿に着いた9月15日が関ヶ原の合戦、17日妻籠城で東軍勝利の知らせを聞くことになる。
この時に妻籠城は改修を受け、大坂の陣の時には、馬場半左衛門以下11名が守り、元和二年(1616)に廃城になる。

妻籠城 (98)
東軍勝利の知らせを受け、秀忠と本多佐渡はここで何を思ったのであろう・・


【城跡】

妻籠城は典型的な輪郭式の山城で、それぞれのパーツの構成を見ても非常に守り易い城である事が分かる。高い切岸、武者走り、深い堀切。また沢を介して出城ともいうべき郭4との接続は一騎駆けにも近い土橋である。
城攻めが不得手な徳川軍には強固すぎる縄張である。

妻籠城① 002
再度ヘッポコ縄張に登場願おう・・(笑)

妻籠城 (104)
堀切㋑と土橋、その奥は郭2。

妻籠城 (111)
遊歩道により改変があるが、迫力のある堀切㋐。

●郭4とその周辺

中山道と本城との間には屏風のような尾根がある。妻籠城の出城ともいうべき郭4を中心としたこの尾根の防御構造について追記しておきたい。

妻籠城 (149)
尾根の西端の郭6。細長い見張用の堡塁のようだ。

妻籠城 (147)
痩せ尾根が続く。

妻籠城 (137)
郭5。

郭4から西へ延びる尾根上は細長い武者走りとなっていて、数カ所簡単な堀切が穿ってある程度。
さすがに郭4は前後に土塁を置き、三方に大きめの堀切を装備している厳重仕様。

妻籠城 (130)
東尾根を遮断する堀切㋕。

妻籠城 (127)
中山道側の南に設置された堀切㋖を見下ろす。笹薮が酷くて何が何だか・・(汗)

妻籠城 (121)
別角度から撮影した堀切㋖。土塁を付けて高さを稼いでいる。

妻籠城 (124)
堀切㋖の堀底から西尾根方面を見る。

妻籠城 (116)
郭4。妻籠城の防衛に際してはかなり重要な郭であったと思われる。

妻籠城 (117)
郭4は二段の土塁で守られている。(北側より撮影)

さあ、如何でしたでしょうか。

美濃国との境目の城だった妻籠城。空手形ばかり発行し約束を反故し続ける徳川家康に対して木曽義昌が見せた反撃の狼煙。そして家臣の山村良勝と木曽衆が見せた徳川軍への会心の一撃。

後世の評価の芳しくない義昌ですが、信濃の戦国武将としての心意気をそこに感じるのは私だけでしょうか・・・。


≪妻籠城≫ (つまごじょう しろやま)

標高:521m 比高:140m(国道より)
築城年代:室町中期か
築城・居住者:木曽氏、馬場氏
場所:木曽郡南木曽町妻籠吾妻
攻城日:2015年3月22日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
館跡までの所要時間:10分 駐車場:道路脇路駐
見どころ:郭、切岸、堀切、土塁など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P442参照)「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(2011年 平山優著 戎光祥出版)
付近の城址:妻の神土塁、妻籠古城、神明砦など

妻籠城 (91)
本郭に建つ説明板の拡大。

Posted on 2016/09/18 Sun. 11:07 [edit]

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0913

須原城 (木曽郡大桑村須原)  

◆木曽谷に覇を唱えた豪族「木曽氏」の最初の本拠地◆

マイナーではあるが、木曽地方について引き続きお付き合いをお願いしたい。

今回ご案内するのは、木曽氏が福島に移る前に、最初に木曽谷支配の拠点としていた「須原城」。

須原城 (1)
現在は中山道の須原宿として売り出し中。木曽福島町からは葯20km南に位置し、寝覚めの床からは約10kmである。

戦国時代の豪族の豪族である木曽氏は、自らを木曽義仲(源義仲)の末裔と称していたらしいが、全く関係が無いらしい。

元々は「藤原某」を名乗る須原(現在の大桑村)の土豪が、勢力拡大に伴い義仲にあやかって木曽氏を名乗ったという。素性の知れない在地土豪連中が、坊主に大金を払って系図を自分たちの都合の良いように書き換えてしまうのは、当時とすれば地域支配の正当性を住民に説明する常套手段であり、別に不思議な事では無かったんでしょうネ。

須原城 (3)
居館跡とされる麓の定勝寺からの大手道が見つからず「ていぴす」殿と右往左往・・(汗) 仕方なく西の尾根伝いで登る事にした。

【立地】

北に木曽川、南に伊奈川の間に挟まれた東西に細長い独立峰が愛宕山である。東の糸瀬山へ続く所は、越坂集落の鞍部になっていて、伊奈かわ流域を須原地区との連絡路になっている。
北東山麓には名刹定勝寺があり、愛宕社を祀ったことにより愛宕山、あるいは城山と呼ばれる。谷中へ張り出した形になるため、眺望は広く、対岸の和村域は眼下にある。山体は、北面及び南面は急で、特に北側の木曽川に面しての斜面は急崖で、登るのは困難である。

須原城 (15)
木曽川を挟んだ対岸の和村を見る。木曽川に近い場所は「殿中」「殿下」と呼ばれているので、屋敷地だった可能性もある。

須原城 (16)
それほど比高のある山城ではないが、我々は仕方がなく西尾根先端の鉄塔の保安道から尾根を辿って城跡に向かう事にした。

【城主・城歴】

定勝寺に残る記録によると寺域は木曽義在の館跡とされ、木曽氏が福島に移るまでの本拠地である。築城の時期ははっきりしない。応仁の乱には東軍に味方した木曽家豊は須原に居館を置き、文明五年(1473)に伊那郡の小笠原定基と共に東美濃の土岐氏を討つために出兵していることが「小笠原文書」にある。
定基が福島の興禅寺へ与えた書状(年月不詳 興禅寺蔵)に「御留守中須原の能々」とあって須原の名の初見とされる。

須原城 (17)
鞍部に出てから一山越さないと城跡には辿り着けない。

「長野県町村誌」では、「古宅址」として「木曽殿館の址、今の定勝寺なりと云い伝ふ。館の時は今の地より三町西の方にあり。木曽川近く、往古木曽川洪水して、近傍崩岸の憂ありて今の地へ移る。年暦不詳」とある。
木曽氏は一旦本拠を福島に移した後、再び須原へ帰っているらしい。家豊の子義元・孫の義在は須原と福島を交互に住んだようであるが、義在の子義康に至って福島を本拠地と定め、義昌に至っている。

以上のように須原は木曽氏の本拠地であり、木曽谷の中心をなる城であったことがあり、その点重要な城と言えよう。

須原城 (22)
尾根を東に進み、鉄塔のある山を越えるとようやく城域となる。一騎駆けの痩せ尾根(土橋?)は人工的な加工であろう。


須原城② 001
鋭さは無いが、まとまりのある縄張である。

【城跡】

連郭式の山城であるが、木曽の城の中で、堀切や土塁がしっかり残っているのは特筆すべきと思われる。
特に観音平と呼ばれる郭1と横平と称する郭2の間にある二重堀切は、中間に土塁を伴う特徴ある土木工法で一見の価値はあるとと思われる。

須原城 (23)
郭5に立つ「ていぴす」さん。堡塁の役割か?

須原城 (28)
郭4。ここから分岐する北尾根にも郭があるようだが今回はパスした。

須原城 (29)
郭4の先端には愛宕神社址の石積みが残る。往時の遺構ではないので注意。

須原城 (34)
郭3。郭4との接続部分に土塁状の盛り土を施した跡がある。

郭1の南には左右に土塁を伴う虎口がある。堀切㋐の南側に土塁を盛って虎口を屈折させてストレートに侵入させないように「折れ」(横矢掛け)を造成している。
更にその南側にもう一重の堀切を穿つ事で進入ルートを限定し殲滅する工夫の跡がみられる。

須原城 (43)
観音平と呼ばれる郭1。

須原城 (44)
強制的に屈折する虎口。左右の土塁址から推察すると門があったのかもしれない。

須原城 (48)
南側から見た堀切㋐

須原城 (53)
郭2を突破した攻城兵は強制的に堀に入り横矢掛けの的になるのであろう。

須原城 (58)
かなり埋まった堀切㋑。往時はもっと深かったと思われる。

横平と呼ばれる郭2は、削平が不完全だが、主郭への侵入を警戒して段差を残した可能性も考えられる。鉄塔が刺さっている場所については後世の改変がありと思われるが数段の段郭程度がったのであろうか。

須原城 (63)
郭2の東側の鉄塔の場所も段郭があったのだろか?

須原城 (62)
郭2と郭6の通路は塹壕のようにも思えるが後世の加工であろう。

須原城 (65)
東側の最終の郭6。越坂の集落からは比高50m程度である。

その後の木曽氏の本拠地となった福島城ですら、二重堀切などはなく、尾根を遮断する堀切が数カ所残存するシンプルな縄張である。須原城は隣接する美濃の山城の築城技術の一部を取り入れたと考えたいが、裏付ける資料は無い・・・(汗)

≪須原城≫ (すはらじょう 愛宕山・城山)

標高:683m 比高:140m
築城年代:不明
築城・居住者:木曽氏
場所:木曽郡大桑村
攻城日:2015年3月22日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:20分 駐車場:路駐
見どころ:二重堀切、土塁など
注意事項:越坂集落から登る道のが近いようだが未確認。
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P476参照)
付近の城址:和村城、定勝寺館、大屋城、野尻城など

須原城 (69)
北側の国道19号線から見た須原城。

Posted on 2016/09/13 Tue. 23:06 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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