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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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武居城 (諏訪市中州神宮寺)  

◆堀切が全く見当たらない山城◆

さて、話を諏訪編に戻そう。(←えっ、そんなにあっさりと戻れるんかい・・・汗)

未掲載で賞味期限切れの取材済みの山城を約300近く抱えて、これから記事にして何年かかるのかと思うと気が遠くなる・・・(笑)

千里の道も一歩から・・・(大江千里は好きでしたが、この千里はちょいと訳が違うよネ・・・)

今回ご案内するのは、全く堀切の「ほの字」さえ作られなかったらしい武居城(たけいじょう)。

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ここも御多分に漏れず城址の整備事業は地元の有志に頼る部分が多く、将来への継続性は不透明のようである。

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城跡までの道はダート(未舗装)だが、乗用車でも入る。路駐になるので大型車は厳しいかと思われる。


【立地】 ※諏訪市史より引用転載

中州神宮寺にあり、諏訪大社上社より東方茅野側へ四~五00メートル、西側(上社側)を女沢川、東側は西沢川の両河川の浸食によって形成された尾根の中腹の小峰(城ヶ峯)と、先端部の段丘上(武居平)からなる。
段丘北側は比高六~七十メーテル(鉄郎はいない)メートルの垂直的断崖が三~四00メートル続き、段丘上は長方形の平となっていて、城主の居館や家臣の屋敷地(保科畑の呼名が残る)があったと考えられている。

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「ショイビキ道」と呼ばれる竪堀状の材木の運搬道をしばらく登ると城域へ。

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長野県による支援事業として補助金を活用し整備された城跡には立派な説明板が立つ。

【築城と変遷】 ※諏訪市史より引用転載

築城については、「信濃国昔姿」に「神宮寺村武井城、後醍醐帝御代元徳二年(1330)諏方五郎時重(系譜は不明)鎌倉の執権北条相模守高土岐の聟と成り、信濃国を一円に得て當所武居に居城を構え在城す、(中略)時重は正慶二年(1333)北条一家滅亡之節鎌倉にて高時入道を介錯し其身も自害す、其後城主知れず」とって、鎌倉幕府の終末時に執権北条高時の厚遇を得て築城されたとしているが、築城の要因は他にもあったものと思われる。

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説明板の立つ主郭側面の段郭。

即ち幕府政治の動揺衰退の契機となった蒙古の襲来は、全国的に武士団の活動を活発化し、博多湾における蒙古軍との戦闘は従来の武装j強化の他に防御施設の築造の必要性を痛感させたものと思われる。
瀑布はその後も1300年頃まで鎮西探題を設置したり、異国警護番役を勤めさせたりして蒙古の来襲に備えていた。

武居城見取図①
北斜面に張り出す尾根を整然と段郭として整地している縄張である。

諏訪武士と幕府との関係は頼朝以来深いものがあるが、諏訪蓮仏入道盛重と執権泰時依頼殊に密となり、蒙古襲来時の諏訪神への期待は「諏方大明神画詞」の記載で判るし、北九州地方の諏訪神社分布の多いことにも関連して考えられている。
このような状況の中で諏訪氏は出陣より帰って、1300年前後に神社に近い好地形を利用して築城したものと思われる。諏訪地域の山城で築城年代の知られるものでは最古であり、上社に隣接し、片山の急崖・城ヶ峯・西沢・女沢など地形的要害に築かれた城であるが、時重の系譜は不明で、正慶二年鎌倉東勝寺で北条氏一門と共に滅亡すると一旦廃城となったと思われる。その理由も不明である。

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後方から見た主郭。

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「武居城跡森林公園」として整備された主郭。

その後、史料中にこの城が出てくるのは一世紀後半後の文明十六年(1484)、神長「守矢満実書留」で、前年正月神殿で惣領家を倒し支配権を握ろうとした上社大祝諏訪頼満は高遠に追われたが、この年五月三日伊那の軍勢三百騎ほどで杖突峠を下り、磯並・前山に魚鱗の陣を張った。同六日に片山古城を開いて立て籠もった。つまり中先代の乱後廃城となっていた武居城を修築して本陣としたものと思われる。

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耕作地化⇒公園整備により周囲が土塁で覆われていたかも不明な主郭。

これに対して惣領家勢は、安曇・筑摩の小笠原の援軍を得て干沢城・大熊城を両側として鶴翼の陣で相対した。戦闘の状況や結果について神長守矢満実、「非例下位殿為追伐御発向候間、当社定有御感應」と記しながら、結末については何も書き残していない。
そして「諏方御符札之古書」の文明十八年御射山明年御頭足の左頭条に「下位殿當郡大熊荒城取立候」とあり継満が荒城を築いており、翌十九年御射山明年御頭足の上増の条に「藤沢庄諏方信濃守継宗御勤仕」とあって高遠の継宗が御射山御頭を勤仕することになっている。(中略)

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主郭の切岸。

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北側から見た主郭の切岸と郭2。

廃城については天文十一年(1542)七月の武田信玄の諏訪攻略と、九月の高遠信濃守諏訪頼継の叛乱と相次ぐ二度の戦乱が考えられる。(後略) ※以上 引用終わり

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土橋というよりは、「一騎駆け」のような背後の尾根。

【城跡】

広大な主郭を頂部として北東の尾根伝いに五段の帯郭を重ねた連郭式の山城である。城内に通じる登山道は長大な竪堀のように思えるが、いわゆる「背負引道(しょいびきみち・・・薪などを背負いながら引き下ろす道のこと)」と呼ばれる後世の作業道であり、往時の遺構ではない。雨水の浸食による部分もあるようだ。

そして、この城には不思議な事に「堀切」と呼べる遺構が一つもない。
見取図には堀切っぽい図を示してあるが、一騎掛けの土橋状の痩せ尾根で、左右の沢は天然のものである。

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一見すれば薬研堀に見える。

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これだけの天然の沢があればわざわざ加工せずとも済んだのであろう。

諏訪地方の山城の多くは、フロント側を段郭を重ねて重厚にしている割には搦め手の防御は極めて脆弱である。(武田に改修された城は堀切を増設しているが)
武居城は背後の尾根伝いの山容の厳しさから堀切を必要としなかったようである。

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一騎掛けの痩せ尾根。逆に堀切を穿つよりは敵の殲滅には都合がいいかもしれない。

主郭から五段の段郭は往時の遺構らしいが、その先の北尾根と北東尾根の登山道沿いの段郭は後世の造成地だろうと推定されているが定かではない。

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背後を尾根伝いに登れば、高遠に通じる杖突峠に繋がるらしい。

城域の麓に広がる高台は武居平と呼ばれ、平時の居館があり近年の発掘調査では生活空間が想定される出土品が出たという。
城館一体型の遺構に対する否定的な意見が最近は多くなっているように思うが、平時は麓の居館、戦時は背後の詰め城に立て籠るという理に適った図式のどこがおかしいのか?甚だ疑問である。

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郭2と郭3。

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郭4。耕作地化による削平も考えられるので、全てが往時の遺構と見るのは無理がある。

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郭5から見た武居平の高台。

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結構広大な土地であり、板垣平に匹敵する。

鎌倉時代から続く築城年代の分かる山城は珍しいし、戦国時代に再利用されるケースもレアである。
通常堀切の存在が確認出来ない山城は否認されるケースが多いらしいが、この山城は別格のようだ。
公園化されて残念な部分もあるが、諏訪地方を代表する山城なので、近くにお越しの際は探訪をお勧めする。

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ジムニーで更に上の林道まで走ったのが赤い点線(笑)

≪武居城≫ (たけいじょう 片山古城 武井城)

標高:942m 比高:165m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:諏訪市中州神宮寺
攻城日:2017年4月29日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:15分
見どころ:段郭、一騎掛けの土橋など
駐車場:無し。


Ⓢは登り口。駐車場は無いので邪魔にならない場所に路駐。
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Posted on 2019/12/10 Tue. 21:11 [edit]

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南真志野城 (諏訪市湖南南真志野)  

◆諏訪惣領家の家臣矢島氏による普請か?◆

まるまるこの二週間、山城サミットに関わり過ぎてこのところ「腑抜け」のような日々を過ごしている・・・。

もともと「腑」すら無いのだからどんな日々なんだろう・・(笑) で、今週末のアテンドツアーに備えてタイヤを冬仕様にチェンジ!

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おいおい、タイヤじゃなくて虚空蔵山城が写ってる・・・(感動)。ちなみに我が愛馬のジムニーの初年度登録は西暦2000年。

今回ご案内するのは、諏訪湖の南岸に突き出す南真志野城(みなみまじのじょう)。

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県道16号線から南へ向かい、中央自動車道を跨いで林道諏訪箕輪線のダートに入る。尾根先の鉄塔が目印。

【立地】

西山山系の断層によってできた急な山尾根を越えて、諏訪から伊那へ幾つかの峠が通じている。その中の一つに古くからある真志野南峠は野明沢をつめて諏訪市湖南から後山まを経て、箕輪町に通じている。
真志野城はこの道に沿って、標高1025mの急な山尾根の末端部にあり、麓の南真志野集落から一気に200mの比高で聳えていて、諏訪地方では、高い城の一つである。(「信濃の山城と城館⑤諏訪・下伊那編」 P104より宮坂武男氏の記述を引用転載)

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鋭い切岸が続く尾根で取り付く場所は限られている。獣道ぐらいの狭さでも経験では登れると判断してスパイダーのように登る。

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郭5の一段下の段郭から愛車の位置を確認。結構な高さに自分でも驚くのだ・・(笑)

【城主・城歴】 ※以下、諏訪市史を引用

史料として直接出て来るのは、「諏訪頼重公一族重臣」として「真志野城主矢嶋織部極」がある。これと関連するものに、「守矢頼真書留」の天文十一年(1542)七月の条に、「神長はよいに衆なみに候間、桑□(?)の城の城へ矢嶋殿同心にて下宮をまわりうつり候間、頼重桑原の城御座候」とあって、□(?)の部分については、桑原より真志野の城へ、と理解され、この時点では真志野城の城主は矢嶋氏であることが明白である。そこでここ真志野城が北真志野城ではなく、何故南真志野城と考えられるのか、城主が何故矢嶋氏なのかが問題となる。

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郭5の切岸を見上げる。

真志野氏の勢力は減退したが、真志野集落の軍事的役割は文明の内訌によって増大した。即ち真志野峠・南峠を越えて後山集落から高遠の谷や箕輪へ通じており、高遠側による荒城の築城もある。惣領家側としては有力武将を配置し、堅固な城が必要であった。

そこで一族衆であり鎌倉時代から武力的に発展していた矢嶋氏を配置すると共に、南真志野城を築城したものと思われる。築城後の動きについては今のところ知る史料がないが、廃城については、天文十七年七月の西方衆の反乱について、「神使御頭之日記」に「此年七月十日ニ西之一族衆 矢嶋・花岡甲州江逆心故、諏訪二乱入候。神長・千野殿計従河西上原江移候、同十九日二西方破悉放火候」とあって、神長と大熊の千野氏は武田氏に与したが、矢嶋氏を始め諏訪の西方衆は小笠原氏と通じながら、協力して武田氏を追い出しに立ち上がったが敗れ、ことごとく放火されたのである。
さらにその日武田氏は勝弦峠で小笠原氏と戦い1,000人余人を討ち取って勝利した。

真志野城見取図①
正面を段郭で防御し背後を幅広い一条の大堀切で防御するというこの地域の山城共通の防御システム。

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郭5の内部。

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風雪に耐えて残る切岸。

【縄張と現況】

南真志野城は標高1032m、麓との比高も220mあり、諏訪の山城では標高1,300mの御天城に次ぐ高所険害である。此の場所が選定された理由について築城の項で述べた。構造としては、主郭・二の郭・それを取り巻く三の帯郭・主郭の背後(西側)の尾根を断ち切り防御を固めた広く深い空堀・主郭の南縁から西縁にかけての土塁などがしっかり残り、特に西縁の土塁は一段と高く幅も広く、物見櫓などが設けられたのであろう。

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郭4と郭3への切岸。

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郭3と郭2。

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変則的な段差を持つ際頂部の郭1は土塁で周辺を覆われている。郭2との区割りも曖昧なままである。

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主郭は二段。頂部は櫓台か?

大手道は東北に降る尾根道であったと思われ、帯郭の二段目の舌状広場に枡形(入口)が設置されたのであろう。西側山地に続く尾根は荷物や馬の置き場として利用したであろうが、山地との境の堀切はなかったと思われる。

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南側の尾根にも数段の帯郭を置き防御を強化している。

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南に突き出す帯郭群。

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主要部で最も面積の広い郭3。

全体の構造は複雑ではないが、自然の急崖に護られて中々堅固であり、それより西200m程に竜雲寺が在る。根小屋はこれより下部に広がる南真志野集落で、北真志野と共に古くから発達していた。
※以上「諏訪市史」よりの引用終わり。

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主郭背後の巨大な堀切。

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側面を土塁でかさ上げして堀底の高さを確保しているのがわかる。

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一条だけなんだけど、幅広な箱掘り状の大堀切は美しい。小生の好きなアングルです。

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西側の尾根から大堀切と主要部を振り返る。

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搦手方面の西尾根。水の手もあるので通常は堀切を数条穿つと思うのだが、全く警戒していない。

【らんまるの所感】

中央道の開通により北尾根の先端が改変されてしまい、お屋敷からの登城路や防御の構造が考察できないのは残念である。
とはいえ、北尾根の段郭は険しく、段郭も防御には充分な施工である。

城の中枢部を郭1・2・3と分けるのはかなり曖昧なので躊躇する所ではある。巨大な一条の堀切だけですませているのは、オーソドックスな戦国初期の仕様だというのが感じ取れる山城で、それはそれで諏訪の山城共通のルーツとしてみれば面白い。

水の手の辺りの段郭ももう少し調査が進めば面白い。ここは間違いなく守るべき最重点であると思うのだがどうであろう。

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西尾根に全く防御の遺構が無いのは不思議である。

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今も沢に湧き出る水の手。

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水の手を守るように築かれた段郭。往時の遺構であろうか?

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籠城時の生命線。築城の際に水の手の確保は最優先であろう。


≪南真志野城≫ (みなみまじのじょう 真志野城)

標高:1025.0m 比高200m 
築城時期:不明
築城・居住者:真篠氏、矢嶋氏
場所:諏訪市湖南南真志野
攻城日:2017年4月29日
お勧め度:★★★☆☆
難易度:中級クラス。直登の経験要。
城跡までの所要時間:林道より10分  駐車場:無し。道路脇に路駐。
見どころ:堀切、土塁、段郭群など
付近の城跡:武居城、大熊城、大熊荒城、権現沢城(北真志野城)など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版) 「諏訪市史 上巻」


Ⓢは路駐場所。Ⓖは水の手。小型乗用車までなら何とか麓の林道まで入れる。

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真冬の2月にトライしたが、北向きの為諦めた・・・アホか!(笑)










Posted on 2019/11/18 Mon. 22:16 [edit]

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大和城 (諏訪市大和・下諏訪町高木)  

◆塩尻峠からの小笠原攻めの軍事拠点として武田が改修したのか?◆

今週2日(土)に開催された「全国山城サミット上田・坂城のプレ大会」にご参加いただいた皆さん、ありがとうございました!

「今回は行けなかったけど、頑張ってくださいね」と心温まるエールをくださった皆さんにも感謝申し上げます。

分科会では正直5~6人聞いてもらえればいいや、との予想でしたが、かなりの方が集まってくれてビックリ!!

心折れそうになりながら続けてきたブログ掲載に関する悲話(ブログを綴る悲しみが・・雪のように降り積もる夜には・・・ってハマショーかい!笑)が少しお話出来たかと・・・(笑)

小生の退屈な話の発表時間を大幅にカットして、皆さんのご質問に答える時間を精一杯とらせていただきました。誰一人途中退席される方もなく、最後まで聞いてくださり、ありがとうございました。来年の本チャンでも是非お会いしましょう!

遠景
来年の本大会では、初日にこの山城群に強者の皆様方をアテンドするお役目かと・・・。

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ご参加いただきました皆さん、ありがとうございました。お疲れ様でした!

分科会では、小生のブログの熱心な読者の方からは、「twitterもいいけど、肝心のブログを早く更新して欲しい!!」との要望がございました・・(汗) 全くその通りで言い訳も出来ませんね(笑)

で、今回ご案内するのは、twitterで9月に事前予告をしていた諏訪の「大和城」。(おわじょう) ※戦艦大和とは関係ありません

なんせ2016年3月の訪問なので、記憶が曖昧・・当時の写真を見ても「ここは何処?」「私は誰?」状態。
(いやいや、既に若年性アルツハイマーかもしれない・・・・・汗)

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登り口から見た諏訪湖。対岸には真志野城、武居城、小坂城、大熊城、大熊荒城、有賀城・・在地土豪の拠点城が並ぶ。

【立地】

上諏訪大和と下諏訪高木との境界線上にある。ここは霧ヶ峰より西に延びた尾根上の大見山からの枝尾根の先端を利用している。標高940m、麓からの比高差150mありかなりの急斜面で、北側高木集落からの斜面がいくらか緩やかで、馬による荷揚げはこちらからであったと思われる。

大和城(諏訪市) (8)
登り始めると左右に段々の削平地が広がる。全山耕作されているので、どこまでが往時の遺構と判断するには難しい。

【築城と変遷】 以下、「諏訪市史」の第六章「中世の城郭群」から引用転載

築城についての史料は今のところ見当たらないが、大和・高木の集落は当初より下社側の支配下にあり。大和・高木氏は下社金刺氏の一族でそれぞれの集落で一分地頭として活躍していた。殊に大和城は上社側の高嶋城と相対峙して軍事的にも重要であった。

大和城(諏訪市) (10)
城域の入口にある新調された社。廃城後も山岳信仰の名残りとして続いて地元民の信仰心は厚いようである。

上下社の対立抗争が明確になってくるのは、宝治山園(1249)三月の「大祝信重解状」からで、その後蒙古の来襲(文永十一年 1274・弘治四年1281年)で、挙国一致となり、対立も緩和されたと思われるが、外敵侵入の心配がなくなるとまた競争が始まる。
即ち永仁元年(1293)上社に知久敦幸の寄進で普賢堂が建立されると、下社大祝金刺満貞は鎌倉の建長寺住持一山一寧に参禅して正安二年(1300)慈雲寺を開創する。

大和城(諏訪市) (11)
城域の東は雨明沢で、城の水の手はこの沢であろうか。

やがて鎌倉幕府が滅亡し、中先代の乱を経て南北朝の対立となると、上社は南朝方に下社は北朝方にと対立してゆく。こうした歴史の流れの中で諏訪の山城が築城されてきたが、大和城も大和郷の地頭大和氏によって下社方の城としていち早く築城され、永正十五年(1518)下社方が滅亡するまでずっと大和氏によって維持されてきたものと思われる。

大和城(諏訪市) (12)
諏訪湖に突き出るような尾根に築かれているが、斜面は結構急斜面であり切岸としてある程度加工されたものであろう。

大和城見取図①
見取図も最近テキトーに描いているので心が痛い・・・(笑)

文献資料に大和城の事が最初に出て来るのは天文十一年(1542)七月の武田信玄の諏訪侵入の時である。
「守矢頼真書留」に「夜もあけ候へは、大輪(おわ)・たかしまへおち候衆はかつ 大将の御座候くわ原の城へうつられ候」と書かれている。
この時大和城は上社の諏訪惣領家の支配下にあった訳だが、諏訪頼重が桑原城で落城すると、武田方の郡代板垣信方の支配下に入った。

大和城(諏訪市) (20)
登城路には石積が見られる。

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主郭直下の段郭。主郭から4~5段目あたりまでは往時の遺構とみても差し支えない様な気がするが。

大和城(諏訪市) (24)
虎口をしっかり支える土留めの石積み。視覚効果も意識しているように思うのだが。

「信濃国昔姿」には「此年より武田領と成、郡代には板垣駿河守信形、天文十四年七月より大和の城に在城す、騎馬百二拾騎にて籠る、信形伊奈勢の爲に戦死す、嫡子弥次郎信里を差置る々所、野心を起し密に上杉家へ内通有るを、本郷八郎左衛門甲府へ告る、依て信里被誅」とあるがこの記事には誤りが多い。

信方は上原城下板垣屋敷に居たが、嫡子信里を大和城に駐在させたのかもしれない。信玄は諏訪を征服したのち、天文十三年から十四年にかけてしばしば箕輪から塩尻へ出陣しており、その節に上原城と共にこの大和城も軍事拠点として使用したのであろう。

大和城(諏訪市) (28)
主郭は楕円形で北東を土塁が囲み、南側にも一部土塁の址が確認出来る。

天文十七年二月になると、信玄は小県郡に出陣して村上義清と上田原で対戦、板垣信方・甘利虎奏ら多くの将を失って敗退し、三月五日上原城まで退陣している。
ここで、諏訪の郡代は信方からその舎弟室住玄蕃允に引き継がれたが、七月に入って諏方西方衆の反乱が発生する。

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主郭背後の土塁の拡大写真。

この叛乱は武田軍の敗退と郡代信方の戦死を知った諏訪武士が、松本の小笠原長時と通じて武田の支配権を排除し独立を回復しようとしたものであろうが、更に高遠頼継の支配権回復への願いや(➾大熊荒城参照)、板垣信里の信玄への反逆も加わっていたのではないか。
信里の反逆については父信方の後継が出来なかったことや、信方の死に謀殺説があることによるかもしれない。

大和城(諏訪市) (39)
主郭より背後の大堀切㋐を見下ろした写真。堀底からは約10m程の高さになる。

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堀切㋐の切岸と堀底。(西側)。この切岸の角度では絶対に登れないと思うが。

反乱が生ずると信玄は早速出陣してこの乱を平定し、翌八月には諏訪郡代に長坂虎房を任じ上原在城を命じる。
諏訪に着任した虎房は翌天文十八年正月八日、代官所を上原から高嶋(岡村)へ移し、高島城の修築にかかる。

大和城はどうなったかとぴうと、板垣信里は小笠原と通じてこの西方衆の反乱に乗じて挙兵し、武田勢に討伐されて大和城は破却したものと思われる。

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堀切㋐を堀底から撮影。

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堀切㋐に隣接する堀切㋖。

大和城(諏訪市) (58)
三条目の堀切㋗。㋖も㋗も武田による改修で増設されたものであろう。


【城跡】

元々の大和氏時代の基本設計は、尾根の頂上に物見を置き、登り口を数段の郭で防御する簡単な縄張だったと推測される。
それが諏訪地域の覇権をめぐり、上社、下社、惣領家の三つ巴の戦いに発展すると、それぞれの拠点を強化し軍事紛争に備えたものと思われる。

大和城(諏訪市) (59)
堀切㋑。恐らく堀切㋐の加工と同時に普請されたものであろうか。その後、深く鋭く長くというコンセプトで武田による改修かと。

大和城(諏訪市) (60)
東の沢に緩やかに下りる堀切㋑

城跡を歩いてみると主郭を断ち切る背後の大堀切㋐と大堀切㋑の間は元々副郭が置かれていたと思われ、大規模な改修が施された時にここから西へ向けて二条の堀切を入れて副郭を廃し後方の防御を高めたものであろう。
さらに北側の尾根からの侵入に備えて堀切㋒と堀切㋓を追加普請したようにも見えるがどうであろうか。

大和城(諏訪市) (63)
北側から見下ろした堀切㋑

大和城(諏訪市) (65)
堀切㋑に接続する北尾根。

大和城(諏訪市) (67)
かなり埋まっているが土塁でかさ上げされた上巾3mの堀切㋒。

城の搦め手方面の北尾根には二条の堀切を入れて厳重に警戒している。北の尾根をさらに比高200m程登った場所は「大城」と呼ばれ、逃げ込み城のような空間があるというが、今回は積雪もあり断念した。

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城域最終の堀切㋓。上巾6m。

大和城(諏訪市) (76)
東側の斜面に鋭い竪堀となって落ちる堀切㋓。圧巻の景色である。

大和城(諏訪市) (80)
稜線の部分が大城で城域の前後を堀切で遮断しているというが、お楽しみは残しておきましょうか(笑)

板垣信方の倅の信里がこの城に籠り、西方衆の叛乱の際に小笠原に内通して信玄に反旗を翻したというのは、なかなか面白い伝承である。信玄の統治を快く思わない地元民、あるいは郡代であった板垣信方が討死したことに不安をもった旧諏訪家の家臣が流言したとも考えられる。

上田原合戦で打撃を受けた武田軍が、塩尻峠からの小笠原軍の来襲に備えて一時的に上諏訪の防衛拠点としての大和城を改修強化したものと思われる。

大和城(諏訪市) (94)
登り口から見た下諏訪方面。俗に云う小笠原軍との「塩尻峠合戦」は勝弦峠が戦場であったという。


≪大和城≫ (おわじょう)

標高:939.5m 比高165m 
築城時期:不明
築城・居住者:大和氏、武田氏
場所:諏訪市大和・下諏訪町高木の境
攻城日:2016年2月7日
お勧め度:★★★★☆
難易度:中級クラス。登山道あり。
城跡までの所要時間:20分  駐車場:無し。道路脇に路駐。
見どころ:堀切、段郭群など
付近の城跡:桜城、高木城、高嶋古城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版) 「諏訪市史 上巻」


Ⓢは登り口(表示あり)。路駐は近隣の住民の邪魔にならない様に留意。

大和城(諏訪市) (97)
登り口から見た大和城。






Posted on 2019/11/04 Mon. 07:49 [edit]

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大熊荒城 (諏訪市湖南大熊)  

◆諏訪を追放された上社大祝継満が復帰を画策して新たに築城した山城◆

ブログの記事を更新し続けるというのは、現地踏査の時間だけでなく、下調べに関する時間、そして「さて、やりますか!」という気力と睡魔に耐える体力、そして家人との時間を犠牲にしないという制約(これ大事!)を乗り越えなければ出来ないのである・・(いや、小生だけか? 笑)

我が信濃先方衆の盟友「ていぴす殿」がブログを中断して2年ほど経過しているが、その呪縛を解き放ち、そろそろ本気出してもらいたいものである・・小生よりも若いし、知識も豊富なのだから・・・・(笑) 請願書を集めてくださいまし。届けますから・・(爆)

さて、今回ご案内するのは、諏訪の山城ではここだけ築城年月がキチンと判明している「大熊荒城」(大熊新城)である。

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看板立ててもらったのは有難いのだが、この看板の位置だと何処が城跡なのか初心者には全く分からない。主郭跡にも欲しい。

この山城の説明についても前回の有賀城と同じく「諏訪市史 上巻」(平成七年刊行)の記事を引用させていただく。

【所在地】

諏訪市湖南大熊。大熊地区の東南で、東側を権現沢川、西側を唐沢川の浸食によって形成された急斜面の痩せ尾根を利用している。権現沢の東尾根には片山、フネ古墳があり、上社と繋がって行く。

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登り口は唐沢川沿いのS字カーブの途中から尾根を入るのが分かり易いし道形もハッキリ残る。権現沢川側は藪で分かりづらい。

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塹壕のような道形をひたすら登るので、迷う事はないが、いったい何処まで登ればよいかという不安に襲われる・・・

【築城と変遷】

築城の初めは「諏訪御符札之古書」に次のように書かれていて、文明十八年(1486)六月頃に、下位殿(おりいどの~大祝を退位した人の名称)=諏訪継満によって築城された。

「文明十八年 丙牛 御射山明年御頭足
一 上増、赤沼、島津常陸守朝国、(中略)
一 左頭 高梨本郷、御符礼五貫六百六十文、高梨刑部大輔政盛代官河村惣左衛門尉秀高、下位殿当軍大熊荒城 取立候、六月十日 甲申 除如此御座候間、(以下略)」

(諏訪大社上社の神事である御射山の儀式のこの年の当番は北信濃の豪族「島津氏」と「高梨氏」及び、かつて大祝だった下位殿の諏訪継満が務め、継満は大熊荒城を築城した、の意)

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一の木戸跡と呼ばれる分岐。(諸説あり)

築城への経過は、上社大祝であった継満が、かねてより準備して、文明十五年正月八日夜前宮神殿の酒宴の席で、惣領家の諏訪政満、同嫡子宮若丸・同舎弟小太郎・同御内人十余人を殺害して惣領家を滅亡させ、諏訪領内の政治祭祀権を一手に握ろうとしたが、惣領家に味方する矢崎肥前守政継・千野入道子孫・有賀・小坂・福島・神長守矢満実子供等に反撃され、二月十九日夜干沢城から伊那(高遠)に落ちて行った。

大熊荒城見取図①
急造の山城ゆえ、単純な縄張である。

それから一月後の三月十九日、下社遠江守金刺興春が継満に味方して、寄力勢百騎ばかりで高嶋城を討ち上原城・武津を焼き高鳥屋小屋に入った。

上社惣領家側では矢崎肥後守・神平・神二郎・千野兄弟・有賀兄弟・小坂兄弟・福島父子等で下社勢と合戦し、下宮殿兄妹三騎・大和兄弟四騎・武居六騎など計三十二騎を討ち取り、興春の首は大熊城に二夜懸け置かれ、同二十一には「下宮悉く焼き捨て広野となる」と「守矢満実書留」に記されている。

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一の木戸と二の木戸の間の竪堀。

翌文明十六年になると伊那の軍勢(小笠原左京大夫政貞・知久・笠原・諏方信濃守継宗等)三百騎ばかりを整えた継満が、五月三日杖突峠より攻め入り磯波・前山に陣を張り、同六日にはその西方に在る片山古城を整備して立て籠もった。

これに対し郡内惣領家側は干沢城に馳せ籠った。敵の軍勢は時々増加するのに、味方に加わるものはなかったが、小笠原民部大輔長朝・同舎弟中務大輔光政が安曇・筑摩二郡の軍勢を以て味方し来り、片山の向城(大熊か)に陣取り干沢城と連携して鶴翼の陣(かくよくのじん)を張って強勢となった。
「当社定めて御感応有らん」と満実書留は記しているが、この時の勝敗は詳らかではなく、恐らく継満は陣を解いて稲へ引き上げたものと思われる。

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二の木戸。簡単な造作である。

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二の木戸三の木戸の間にある石門。ここにも簡易的な防御施設が置かれていたのであろう。

その後、伊那の旧大祝側と諏訪の惣領側で交渉が進められ、和解が成立して荒城の築城や御射山御頭への参加となったのであろうが、これは伊那へ追放された大祝継満が諏訪へ復帰する為の足掛かりとしたものであろう。~(引用終わり)~

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城の中枢部手前の三の木戸。往時の地上の構造物は分からないが礎石に岩や石積を用いている。

「諏訪御符札之古書」によれば、せっかく諏訪に復帰できた継満であったが、北信濃の高梨摂津守から神長に収められる御符銭の取立のことで、晨朝守矢満実を怒らせ、満実に二ヶ月にわたって調伏され、文明十八年9月16日に祈り殺されたとされている。
不運の人生を絵にかいたような気の毒な大祝であったようです。

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城域中枢部の東側の塹壕は山道が風雨により削られたもので、横堀では無いと思う。往時は諏訪と伊那高遠を結ぶ尾根の間道として使われていたのだろう。

【城跡】

唐沢と権現沢に挟まれた細尾根の中段に築かれた山城ではあるが、麓からも限られた範囲でしか見る事が出来ない場所にある。
一の木戸、二の木戸、三の木戸と呼ばれ伝わる遺構ぶぶんには石積みも散見されるが、柵程度の簡単な構造物があったに過ぎないと思われる。

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城域先端の切岸。

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主郭の北側の尾根は段郭を重ねるオーソドックスな防御手法である。

主郭は8×16mの長方形で背後にはL字形の土塁が確認出来る。2郭との間には堀切があるが、幅も深さも物足りない。
郭3、郭4へと連続するのだが、本気でこの城で防御しようとは思えない適当な普請に終始している。
「張りぼて」の城としての役割だったようだ。

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主郭と背後の土塁。

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主郭と2郭の間の堀切。

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郭2(9×5)

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削平のはっきりしない郭3。

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曖昧な郭3と郭4の処理。

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郭4の背後の土塁を南側から撮影。

宮坂武男氏は、大熊荒城について、以下のように記述している。

「以上のように、この城はいかにも急ごしらえのもので、加工度も少なく、まことに簡単な造りであるが如期したようないきさつの中で生まれたものと思われ、継満以降使われた形跡がなく、その後の改修を受けていないので、文明年中の築城を知る上で貴重な遺構といえよう。付近にシンジョウ、キツネツカ、マワリメ、カラサワ、シンデンクネ、ゴンゲンサワ、ユノウエなどの字名が残る。」

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郭4~背後の鉄塔まで調べてみたが、堀切なども見当たらず、この城の築城の動員数は極めて少なかったと思われる。

その後、高遠(諏訪)継満の跡を継いだ頼継は、天文十一年(1542)六月、積年の望みである諏訪惣領家を乗っ取るために甲斐の武田信玄と手を結び杖突峠を越えて諏訪へ侵攻。甲州勢は長峰筒口原に押しかけた。
惣領家の諏訪頼重は、上原の居館に火を放ち桑原城に後退するも甲州勢に囲まれて開城・降伏。その後甲州に送られて自刃。

諏訪郡は宮川を境に東を武田、西を高遠(諏訪)頼継が治める戦後処理となったが、諏訪一円の支配を臨む頼継はこれに反発。九月に上原城を落とし諏訪下社を奪取するが、知らせを受けた信玄は軍勢を派遣し宮川橋辺で頼継を打ち破り、杖突峠を越えて逃げる高遠勢を追撃し高遠の居館に迫る。伊那口からも板垣信方の率いる別動隊が援軍の藤沢頼親を破り高遠を包囲。持ちこたえられなくなった頼継は和議を申し入れ、諏訪一円は完全に武田氏の配下となり彼の望みは完全に断たれた。

この時に荒城も廃城となったのであろう。


≪大熊荒城≫ (おおくまあらじょう 新城)

標高:1,000m 比高230m 
築城時期:文明十八年(1486)
築城・居住者:諏訪継満
場所:諏訪市湖南大熊
攻城日:2017年4月29日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:30分  駐車場:無し。唐沢川の道路脇に路駐。
見どころ:堀切、石積みの門跡など
付近の城跡:真志野城、武居城、大熊城、大熊荒城、小坂城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版) 「諏訪市史 上巻」(平成7年)


Ⓢは駐車位置。(砂防ダムの道路脇)

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麓から見た大熊荒城。


Posted on 2019/09/28 Sat. 23:41 [edit]

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有賀城 (諏訪市豊田)  

◆戦国末期まで改修が続けられた諏訪を代表する隠れた名城◆

諏訪の城と言うと、真っ先に思い浮かぶのが「浮城」で名高い日野根高吉が築いた近世城郭の高島城でしょうか。

次に諏訪惣領家の本城、そして武田統治時代に郡代の置かれた上原城、そして信玄に攻められた諏訪頼重が上原城を捨てて籠城し降参した桑原城まで言えれば立派な城マニアの仲間入りですね。

今回ご案内するのは、諏訪のマニアックな山城として一度はその目で見て欲しい管理人お薦めの「有賀城」(あるがじょう)。

有賀城(諏訪市) (4)
城跡は江音寺の裏山にある。江音寺の東側の沢の登り口には表札付きの冠木門があるので迷う事はない。

諏訪地域の城は、築城の主体者によって、
①諏訪惣領家VS上社大祝家VS下社大祝家という諏訪家の争乱時代に各拠点に築かれた城
②上記の三大拠点の間に点在するように諏訪氏一族の小坂氏、花岡氏、大和氏に有賀氏らによって築かれた城
③武田信玄の侵略により攻略・改修された城、または統治拠点とされた城
の三者に大きく分けられると城郭研究家の河西克造氏は述べている。なるほど的を得て分かり易いと小生も納得する。

有賀城はどうかというと、築城時は②でその後③で大きく改修を受け戦国末期まで使われたと推定されている。

有賀城(諏訪市) (8)
厳冬期の2月、比高95mとはいえ雪で覆われた山城巡りはスパイクピン付き長靴が基本。が、防寒性は劣るのでしもやけ注意(汗)

有賀城については「諏訪市史 上巻 原始 古代 中世」(平成7年 諏訪市発行)に詳しいので引用し写真と共に解説したい。
※読むのが面倒な方は、縄張図と写真とコメントだけ見て省略してもいいですが、小生も一生懸命入力したので気が向いたら後で読んでください・・・(笑)

【立地】

所在は諏訪市豊田有賀字天狗山。豊田有賀の集落から辰野町に通ずる有賀峠の登り口、西側を中沢川の浸食で急崖とされた尾根の先端の高峰を利用している。通称では城山・寺山(山麓直下に江音寺がある)と呼ばれ、古くから諏訪と上伊那を結ぶ重要通路を扼する位置にある。

有賀城見取図①
「あっ、武田さんちの改修ですよね」と思わず声に出しそうなセオリー通りの最終形かと。

【築城と変遷】

築城については「豊田村誌」に「承久(1219~1222)の頃に、有賀四郎居之、応永年中(1394~1428)有賀美濃入道性存居之」とある。
有賀氏は諏訪氏の一族で、「神氏系図」では大祝信濃権守敦忠の弟有光が、有賀次郎として鎌倉時代の初めに有賀郷に土着したことがわかるので、承久の頃有賀四郎が有賀にいたことは確かな事と思われる。しかし土着早々に築城することは困難であったろうし、諏訪における築城の最初は鎌倉時代末から南北朝の争乱期と考えられるので、承久の頃にはまだ城が無かったものと思われる。

有賀城(諏訪市) (13)
「タショクボ」と呼ばれる沢を登ると主郭背後の大堀切㋓の堀底に辿り着く。上巾22mは圧巻である。

有賀城(諏訪市) (19)
主郭背後の三連の堀切の真ん中の㋑。堀切㋐と堀切㋑の間の頂部の削平地には不動の石碑が祀られている。

次の応永年中有賀美濃守入道性存の時であるが、「大塔物語」に応永七年十月乳七日の大塔合戦に諏訪勢300騎の総大将として性存の活躍が記されており、直接的築城の史料は無いが、この時に既に城は存在しており、諏訪の主要山城の一つとして十四世紀初期に形成されたと考えられ、以後代々有賀氏の拠所となった。江音寺の南麓山裾の字丹波屋敷は、応仁の頃(1467~1469)の有賀丹波好照の居館と伝えられる。(慶長の頃、千野丹波房清がいたともいうが、房清は天正十八年小田原合戦で死亡している)

有賀城(諏訪市) (139)
有賀城の登り口にある江音寺隣の「丹波屋敷」は「千野丹波守屋敷」と説明板にあるが、有賀丹波の誤りのようである・・・(汗)

天文十一年(1542)の武田信玄侵入の際は戦場とならなかったし、九月の諏訪頼継・祢宜満清等の反乱の際は、有賀氏は武田方に有賀紀伊守、諏訪方に有賀遠江守と二分して戦い有賀城は存続した。しかし有賀氏はそれより六年後の十七年七月の西方衆の反乱で武田方に破れ諏訪から追放された。

有賀城(諏訪市) (20)
堀切㋑と㋓の間の東側斜面に片掘㋒を入れて四連続の堀切としている。

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堀切㋑

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堀切㋐。主郭背後の大堀切㋓を除いた㋐㋑㋒㋓は武田時代の追加普請のようである。

有賀峠は諏訪、伊那間の重要路なので、有賀城には武田方の武将原美濃守虎胤が入城する。その後、長坂虎房を代官として諏訪に派遣し乱後の処理が終わったところで、天文十八年三月、この叛乱で唯一武田方に参加した千野靭負尉に、尾口郷の代替地として有賀郷が与えられる。有賀城も当然原美濃守から千野氏の支配下に移ったものと思われる
そこで千野氏は本拠地を大熊から有賀に移し、大熊から有賀の一帯に勢力を張ったのであろう。

有賀城(諏訪市) (40)
主郭背後の大堀切㋓から主郭に通じる虎口。

有賀城(諏訪市) (42)
主郭背後に巨大な土塁を備えた本郭。南半分を土塁で囲んでいる。諏訪地方では見られないので今のところ有賀城だけである。

廃城については天正十年(1582)の織田軍の諏訪侵入時が考えられる。高遠城の激戦は有名であるし、伊那から諏訪への重要拠点であるから見過ごすことなく破却されたであろう。
そのことは僅か三ヶ月後の六月二日の本能寺の変で信長が死亡すると、数日の中に諏訪へも伝わり、諏訪氏の一族衆による政権回復の動きが生じる。

有賀城(諏訪市) (46)
大土塁には石積みが二段見られるが、秋葉大権現の石碑の勧進に伴う後世の作業であり改変であろう。

有賀城(諏訪市) (47)
正面には上原城から郡代を移転した高島城(茶臼山)と岡村政庁が見える。湖畔周辺のロケーションはもとより、遠く蓼科山や八ヶ岳まで見渡せる。

すなわち、大祝職にあった諏訪頼忠を擁して、高島城(茶臼山)もいた弓削重蔵を追い出し旧領回復の旗揚げをしたのが六月十日、その諏訪勢の中心となったのが千野左兵衛伊豆守昌房で、金子城より挙兵したという。

千野氏の本拠は有賀城で、織田軍に破却されていなければ挙兵は当然金子ではなく有賀であったはずである。諏訪頼忠・千野昌房塔は高島城で諏訪の支配権を回復すると、その後天正十二年に金子城へ移り、更に同十八年には徳川家康の関東転封によって、頼忠も諏訪の地を離れ武蔵国奈良梨へ移るのである。

有賀城(諏訪市) (63)
主郭から見下ろした西側斜面の堀切の交差関係。ため息ものです・・・(笑)

有賀城(諏訪市) (45)
主郭から北斜面の防御軸であるL字堀切㋕を見下ろす。この堀も武田軍による追加普請と考えられる。

【城跡】

あくまで推定の域を越えないが、有賀氏時代の有賀城は、物見程度の広さの主郭の前後を堀切で絶ち、尾根に数段の腰郭を造作した程度であろうか。

現地を踏査した現在の状況については、大勢力による大規模な工事量の土木改修が施され、この拠点がこの地域を統治するにあたり、敵対勢力に対抗するための軍事要塞として確立された事が感じられるのである・・(・・チョッと何言ってんだかわかんない・・・笑)

有賀城(諏訪市) (56)
主郭から見下ろした西側の巨大堀切㋔。攻城兵からは絶望的な高さであり、守備兵からは投石でも仕留められる切岸の角度。

有賀城(諏訪市) (69)
主郭から堀切㋔越しに見下ろした郭2。主郭が機能不全を起こしても郭2が指揮の中心となるような設計である。

有賀城が大きく改修を受けたのは、西方衆の反乱後に原美濃守虎胤が入城した時あるいは天正十年の織田軍による信濃侵攻に備えたものと考えられるが、大規模な改修は有賀峠経由での諏訪への侵入阻止を目的とした後者と思われる。

伊那と諏訪を結ぶ有賀峠の出口を抑える要衝として、峠側に面する西尾根を厳しくチェックできるように四段の方形の郭を置き、万が一の敵の攻撃に備え、横堀に竪堀を連結させ塹壕として使用できるような工夫が随所にみられる。

有賀城(諏訪市) (70)
堀切㋔と横堀㋘は直結されていない。大堀切からの敵の侵入を遮断する意図が感じられる。

有賀城(諏訪市) (74)
主郭南側の横堀㋗は大堀切㋔と直結している。つまり堀切㋔に誘導することで郭2を主体とする籠城兵による狙撃が可能になるのだ。

有賀城(諏訪市) (77)
なかなか苦労する横堀の写真も雪を利用するといい感じに映りますよね。

グンマーの山城巡りをすると、城郭研究家の山崎一氏の唱える「一城別郭」という定義を必然的に思い出すのだが、有賀城も主郭と郭2~郭5は、そんな定義があてはまるのかもしれない・・とついつい思ってしまう。

万が一主郭が敵に占拠されても、副郭(郭2)による戦闘継続が可能であろうと・・・(汗)

有賀城(諏訪市) (78)
郭2の土塁の上から撮影した主郭の切岸。

有賀城(諏訪市) (80)
土塁から見下ろした郭2(15×188)

郭2と郭3の南半分を囲むように築かれた土塁は、防御目的だけでなく、移動用の通路として使用されたのではないか?と想定されている。ちなみに郭4と郭5には無いので小生としてはどうなんでしょう?というしかない。

有賀城(諏訪市) (84)
郭2から見上げた郭1。

有賀城(諏訪市) (88)
郭2と郭3の間の切岸。攻城兵がまともに登れる角度ではない。

有賀城(諏訪市) (91)
郭2から北側斜面に深い竪堀となる堀切㋔を見下ろす。

宮坂武男氏は、この郭2~郭5にかけての構築について、「もちろん主郭を守る目的はあるが、それと同時に峠から見て、城の備えを重厚に見せ、尾根の稜線を守るためにつくられているようにみえる」と考察されている。
宮坂氏が中世の山城をビジュアル面から考察されるのは、氏の描いた鳥瞰図をみればなるほどと頷ける。

有賀城(諏訪市) (92)
郭3。

有賀城(諏訪市) (93)
郭3から見下ろした郭4。(写真下の数字は郭4の誤り・・・失礼しました!)

有賀城(諏訪市) (99)
雪のコントラストが無いと、中々こんな写真は撮れないかもしれませんネ。

有賀城(諏訪市) (106)
最終の郭5。足跡を付けずに写真撮影するのは結構大変だったりします・・・(笑)

有賀城(諏訪市) (102)
郭5から下の尾根は数段の段郭を設営して搦め手側からの攻撃に対する防御としている。

さて、説明の下手さ加減を写真を並べて誤魔化す悪い癖は治らない・・・ご容赦ください・・・(汗)

ここからは尾根に並べられた郭の西側の横堀の防御構造を見て見ましょう。

西側の斜面は横堀+竪堀の組合せで、横堀は二重だった可能性がある(または造作途中で終わったか)
部分的に下の帯郭にも堀の形状が認められるので、風雨で埋まったように思えるがどうであろうか。それにしても狭いぞ!と言われると何とも言えないが(笑)

有賀城(諏訪市) (108)
郭4と5の西側の横堀と竪堀㋛。(上の段)

有賀城(諏訪市) (109)
この写真は上の写真の下の段の二重横堀構造の部分(分かりづらいので補助線を描いた)

有賀城(諏訪市) (111)
郭4の西下の横堀。

有賀城(諏訪市) (116)
郭3と郭4との西下横堀と竪堀㋚。

つらつらとまた写真展になりそうなので、まとめとして下の写真。あとは現地をご確認ください・・・(汗)

有賀城(諏訪市) (123)
一番奥に主郭が見える。

巷でよく囁かれる「武田の城」と言うには無理があるが、武田統治時代に武田軍による監修と大規模な土木改修工事が実施され、有賀峠からの敵の来襲に備えた城であることは間違いのないところであろう。下諏訪町の桜城とともに、在地土豪の城を武田が改修した城として、是非訪れて欲しい山城である。


≪有賀城≫ (あるがじょう 天狗山城)

標高:925m 比高195m 
築城時期:不明
築城・居住者:有賀氏、原氏、千野氏
場所:諏訪市豊田有賀
攻城日:2016年2月7日
お勧め度:★★★★★(満点) 
城跡までの所要時間:15分  駐車場:江音寺の墓地駐車場借用
見どころ:竪堀、横堀、連続郭など
付近の城跡:真志野城、武居城、大熊城、大熊荒城、小坂城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版) 「諏訪市史 上巻」(平成7年)


Ⓢは登り口。

有賀城(諏訪市) (144)
北側の県道16号線から見た有賀城遠景。



Posted on 2019/09/23 Mon. 10:21 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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