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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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湯川城 (桝形城 茅野市北山湯川)  

◆圃場整備で滅失した土塁と丸馬出が悔やまれる武田初期の陣城◆

ようやくキリ番の800城目の掲載となった。

特に意識はしてなかったが、よく飽きもせずにこの数に辿り着いた事だけは、飽き性の自分を褒めてあげたい・・・(笑)

前々回の原の城で再訪をお約束していたので、その続きを掲載してみたいと思う。

朝倉山①
水没した左ひざのリハビリ兼ねて朝倉山城に8年ぶりに訪城。この時期は下草が伸び放題で桝形城や砦の沢は見えない。

【危惧していた原の城の遺構損壊に茫然自失】

諏訪方面への出撃は仕事も城の取材も大門峠を越える。(未だ新和田トンネルが有料のため)
湯川城はショートカットする道路沿い(旧大門街道)にあるので、現況を車の窓越しに確認するぐらいだった。
最近は通る機会も減り、今回久々の訪問は現状確認も兼ねていた。

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原の城の東の竪堀出口付近の家が改装されて(?)いる・・・堀切が通路になって竪土塁は大丈夫なのか?!

原の城見取図②

確か8年前にも家はあったが堀切と竪土塁は完存していた。

どうやら改装した際に家の西側にあった竪土塁を削平し堀を通用路として普請して家の北側に駐車場を造ったようだ。

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かつての堀切は道路となり、東側の竪土塁は一部を除いて消滅。段郭もなくなってしまった。(西側から撮影)

まあ、土地の所有者がご自分の土地をどうしようと勝手なのだが、城の遺構と伝わる場所だけに残念でならない。


◆桝形城◆

宮坂武男先生の「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」では「99、湯川城」として原の城と桝形城を一緒に掲載しているが、宮坂氏も両方の城のある台地を一つの城として見るのは無理があり、400m近い距離もあるのでそれぞれ独立した城とみるのが妥当であろうと見解を述べている。
小生はそれに従い別個の城として掲載するが、本来こちらは「桝形城」(ますがたじょう)と呼ばれ、現地説明板もそう表示している。世の中には「桝形城」の名を持つ中世の城郭はたくさんあるので、あえてこちらを湯川城としたが、ご了承願いたい。

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農道に立つ説明板。このあたりに丸馬出があったという。

【立地】

茅野市から小県郡長和町に向かう大門峠の茅野市側の入口の北山集落にあり、滝の湯川と砦の沢に挟まれた段丘上に立地する。南東400mには原の城がある。

湯川城復元図①
復元推定図。現在土塁や丸馬出の遺構は無い。

【城主城歴】

宮坂武男氏の「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編」の湯川が城の解説より抜粋すると、「湯川の地名は南北朝時代から見え、戦国期には郷名としても見える~中略~また「諏訪古城考」には、「湯川村城跡」として「世俗伝説に信玄の一夜城ろ云ふ こは武田信玄 小県佐久筑摩更級等の郡へ出陣の時大門峠より越して軍勢を押さるると記此処にて人馬を休めし所也 此所にて軍勢の手分けをなして出陣蟻 又開陣ニハ一夜を明かし給ふ本陣也 拠って一夜城と云 甲州の城より逸見通り原中ニ真直の道を造り通行せられしものにや 是を世俗信玄の棒道と云へり。」とあってその言っている事は「長野県町村誌」等も大同小異である。

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桝形城の西端。この先はV字となり滝の湯川の断崖となる。

原の城でも述べたが、ここは大門峠を越えて東信濃や北信濃への遠征軍の兵站補給基地であり、初期の丸馬出を備えて厳重に防御している事から、信玄や大将クラスの宿営地と推定される。

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南側から見た桝形城の先端部分。

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滝の湯川に護られた北側の崖。

【城跡】

北・南・西の三方を深い河岸段丘の渓谷に護られた陣城である。ほ場(圃場)整備前の昭和三十年代の写真には、直線の土塁と、中央の虎口を堀付きの丸馬出が覆う写真が残っている。
桝形城の名前は、その虎口の形状から由来するのであろうが、はっきりした事は分からない。茅野市としては、ほ場整備の前に発掘調査を行い、遺構の調査を行うべきであったと思うが、当時の行政に中世城郭の価値や認識を求める事はほぼ不可能だったと思われる。
が、今回の原の城の遺構破壊の件もあるので、茅野市には早急に遺構の発掘調査をお願いしたいものである。

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桝形城の西端から城内全を見る。

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城内を貫通する農道の南側の土塁推定地。見事に底まで削られ原形を留めない。

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農道から北側の土塁及び堀切跡(推定)。

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復元すると、こんな感じだろうか・・・。

小笠原長時を塩尻峠の戦いで破り、その後長時が頼った北信濃の宿敵村上義清を追い詰めて越後に遁走させた武田信玄は、対上杉謙信の攻略に関しては府中の深志城(松本市)に郡代を置き、兵隊は犀川沿いの参道を新たな軍用道路として整備しこれを活用した。

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宮坂武男氏が聞き取り調査と破壊前の写真を元に作図した丸馬出と土塁。初期の武田の丸馬出を紐解く貴重な遺構だったようだ。(「信濃の山城と城館⑥諏訪・下伊那編 P206より引用転載)

従来の大門峠を越える軍用道路はその使命を終え、それと共に原の城、桝形城も使われなくなったのであろう。
貴重な武田初期型の丸馬出と三日月堀が、昭和三十年代まで奇跡的に残っていたのに、あっけなく破壊されたのは嘆かわしいことである。(同じ初期の丸馬出を備えた上田市の岡城も、同じく昭和三十年代の市営住宅の建設で遺構が壊滅したのも残念な限りです・・)


【砦の沢】

桝形城の南側の深い渓谷は「砦の沢」と呼ばれ、往時は現在の北山小学校の先まで水堀として台地を分け隔てていたという。現在は圃場整備により途中から埋め建てられてしまい、排水用の土管が地中を巡っているという。

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この時期に見ても藪が多くて実感沸きません・・・(汗)

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それでも沢を少し下りるとそれなりの全体像は見れますよ。

≪湯原城≫ (ゆがわじょう 野原城)

標高:969m 比高:20m
築城年代:不明
築城・居住者:武田氏(推定)
場所:茅野市北山湯川
攻城日:2020年9月22日(再訪)
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:
駐車場:無し(邪魔にならない場所に路駐)
見どころ:砦の沢、標柱
注意事項:耕作地のため私有地には入らない事
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編 宮坂武男著」
付近の城址:朝倉山城、原の城など


Ⓖは砦の沢の標柱の位置。Ⓢは原の城の入口の標柱。㋹は桝形城の丸馬出の跡に立つ標柱の位置。

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原の城から見た朝倉山城。

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Posted on 2020/09/28 Mon. 21:28 [edit]

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原の城 (茅野市北山湯川)  

◆武田軍の大門街道における陣城跡として伝承の残る場所◆

北西に位置する桝形城と併せて「湯川城」(ゆがわじょう)と総称されるのだが、小生はそれぞれ独立した縄張と見て取れるので、それぞれ別の独立した城として表記したい。

今さら8年前の写真を使用して記事を新たに掲載することにはかなり抵抗があるのだが、現在の城址が改変されつつある現状をふまえてあえて記事にしてみた。それにしても、枡形城(砦の沢)や原の城は何度も調査に通ったのに、いざ記事にしようと当時撮影した写真を探すものの、どこにも無い・・・(汗)
 
「鉄は熱いうちに打て!!」 このことであった・・・(笑)

yuzawa (2)
国道151号線の大門峠を下り、茅野市北山の功徳寺でY字路を右に進むと旧大門街道。道路脇の看板が入口。

【立地】

茅野市から小県郡長和町に向かう大門峠の茅野市側の入口の北山集落にあり、滝の湯川と渋川に挟まれた段丘上に立地する。ここは信玄の棒道筋の大門峠の峠口として交通の要衝であり、また中世の軍用道路の中継所として良好な立地であったという。

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農道沿いに歩き直角に曲がった先が主郭らしが、農地整理により改変され面影を偲ぶことは出来ない。

【城主・城歴】

はっきりした事は不明だが、築城時期は武田信玄が諏訪氏を滅ぼし、やがて諏訪の上原城を足場にして、小県や佐久、川中島方面へ侵攻するにあたって棒道(軍用路)の補給基地として新たに築城し、その都度修築し拡張していったものと推定されている。

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この標柱まで辿り着けた方は、嗅覚が鋭いといっても過言では無かろう・・・(笑)

yuzawa (5)
このような大雑把な略図で、果たして何人の方が理解できるレベルにあるのでしょうか・・・(汗)


原の城見取図①
こんな感じに地図上に書き写してみました。

【城跡】

河岸段丘を利用した縄張で、主郭の北側は枡形城の「砦の沢」から延ばした横堀で遮断され、城の東側は竪堀と横堀を連結させた二重堀で区画されたいたようである。
防御も兼ねていたようだが、本来は階級別の居住区(宿営地)の区分のために造作されたと小生は考えている。
※武田軍の陣城や宿城は、このような区分目的の堀が多いと個人的には推測している。

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南側の河岸段丘に落ちる堀切。堀の東の土手はかさ上げして竪土塁としている。

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竪堀に東へ走る横堀を連結させてT字の堀切を構成している。明らかに武田軍による土木工事と分かる。

yuzawa (10)
診療所跡地や農協のライスセンターのある場所も南北を堀に囲まれた郭であったと推定される。

yuzawa (12)
道路は堀を埋めて作られたという。かつては連結していたらしい。

原の城も、200m先の枡形城も飽きるくらいに通い詰めたのに、記事にもしてないし挙句の果てに写真も紛失した。

まあね、山城に興味を失いかけている自分に対して、宿題の再提出を求めているんだろうね、きっと・・・(笑)

8年前の純粋な(?)自分を追いかけて、再度、朝倉山城・桝形城・原の城の探索に出掛けたいと思います。


≪原の城≫ (はらのじょう 湯川城)

標高:980m 比高:15m
築城年代:不明
築城・居住者:武田(推定)
場所:茅野市北山湯川
攻城日:2012年3月4日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:
駐車場:無し(邪魔にならない場所に路駐)
見どころ:堀切、竪土塁
注意事項:耕作地、私有地には入らない事
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編 宮坂武男著」
付近の城址:朝倉山城、枡形城など


Ⓢは駐車位置(標柱) Ⓖは桝形城(砦の沢)

朝倉山城 (55)
朝倉山城から見た原の城と枡形城。それぞれ独立した陣城と思うのだが、どうでしょうか?

朝倉山城 (57)
武田軍の狼煙台が置かれたとの伝承を持つ朝倉山城。大門峠を越えて遠征する軍への指令はここを中継したのであろうか。

Posted on 2020/09/14 Mon. 22:49 [edit]

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武居城 (諏訪市中州神宮寺)  

◆堀切が全く見当たらない山城◆

さて、話を諏訪編に戻そう。(←えっ、そんなにあっさりと戻れるんかい・・・汗)

未掲載で賞味期限切れの取材済みの山城を約300近く抱えて、これから記事にして何年かかるのかと思うと気が遠くなる・・・(笑)

千里の道も一歩から・・・(大江千里は好きでしたが、この千里はちょいと訳が違うよネ・・・)

今回ご案内するのは、全く堀切の「ほの字」さえ作られなかったらしい武居城(たけいじょう)。

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ここも御多分に漏れず城址の整備事業は地元の有志に頼る部分が多く、将来への継続性は不透明のようである。

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城跡までの道はダート(未舗装)だが、乗用車でも入る。路駐になるので大型車は厳しいかと思われる。


【立地】 ※諏訪市史より引用転載

中州神宮寺にあり、諏訪大社上社より東方茅野側へ四~五00メートル、西側(上社側)を女沢川、東側は西沢川の両河川の浸食によって形成された尾根の中腹の小峰(城ヶ峯)と、先端部の段丘上(武居平)からなる。
段丘北側は比高六~七十メーテル(鉄郎はいない)メートルの垂直的断崖が三~四00メートル続き、段丘上は長方形の平となっていて、城主の居館や家臣の屋敷地(保科畑の呼名が残る)があったと考えられている。

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「ショイビキ道」と呼ばれる竪堀状の材木の運搬道をしばらく登ると城域へ。

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長野県による支援事業として補助金を活用し整備された城跡には立派な説明板が立つ。

【築城と変遷】 ※諏訪市史より引用転載

築城については、「信濃国昔姿」に「神宮寺村武井城、後醍醐帝御代元徳二年(1330)諏方五郎時重(系譜は不明)鎌倉の執権北条相模守高土岐の聟と成り、信濃国を一円に得て當所武居に居城を構え在城す、(中略)時重は正慶二年(1333)北条一家滅亡之節鎌倉にて高時入道を介錯し其身も自害す、其後城主知れず」とって、鎌倉幕府の終末時に執権北条高時の厚遇を得て築城されたとしているが、築城の要因は他にもあったものと思われる。

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説明板の立つ主郭側面の段郭。

即ち幕府政治の動揺衰退の契機となった蒙古の襲来は、全国的に武士団の活動を活発化し、博多湾における蒙古軍との戦闘は従来の武装j強化の他に防御施設の築造の必要性を痛感させたものと思われる。
瀑布はその後も1300年頃まで鎮西探題を設置したり、異国警護番役を勤めさせたりして蒙古の来襲に備えていた。

武居城見取図①
北斜面に張り出す尾根を整然と段郭として整地している縄張である。

諏訪武士と幕府との関係は頼朝以来深いものがあるが、諏訪蓮仏入道盛重と執権泰時依頼殊に密となり、蒙古襲来時の諏訪神への期待は「諏方大明神画詞」の記載で判るし、北九州地方の諏訪神社分布の多いことにも関連して考えられている。
このような状況の中で諏訪氏は出陣より帰って、1300年前後に神社に近い好地形を利用して築城したものと思われる。諏訪地域の山城で築城年代の知られるものでは最古であり、上社に隣接し、片山の急崖・城ヶ峯・西沢・女沢など地形的要害に築かれた城であるが、時重の系譜は不明で、正慶二年鎌倉東勝寺で北条氏一門と共に滅亡すると一旦廃城となったと思われる。その理由も不明である。

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後方から見た主郭。

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「武居城跡森林公園」として整備された主郭。

その後、史料中にこの城が出てくるのは一世紀後半後の文明十六年(1484)、神長「守矢満実書留」で、前年正月神殿で惣領家を倒し支配権を握ろうとした上社大祝諏訪頼満は高遠に追われたが、この年五月三日伊那の軍勢三百騎ほどで杖突峠を下り、磯並・前山に魚鱗の陣を張った。同六日に片山古城を開いて立て籠もった。つまり中先代の乱後廃城となっていた武居城を修築して本陣としたものと思われる。

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耕作地化⇒公園整備により周囲が土塁で覆われていたかも不明な主郭。

これに対して惣領家勢は、安曇・筑摩の小笠原の援軍を得て干沢城・大熊城を両側として鶴翼の陣で相対した。戦闘の状況や結果について神長守矢満実、「非例下位殿為追伐御発向候間、当社定有御感應」と記しながら、結末については何も書き残していない。
そして「諏方御符札之古書」の文明十八年御射山明年御頭足の左頭条に「下位殿當郡大熊荒城取立候」とあり継満が荒城を築いており、翌十九年御射山明年御頭足の上増の条に「藤沢庄諏方信濃守継宗御勤仕」とあって高遠の継宗が御射山御頭を勤仕することになっている。(中略)

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主郭の切岸。

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北側から見た主郭の切岸と郭2。

廃城については天文十一年(1542)七月の武田信玄の諏訪攻略と、九月の高遠信濃守諏訪頼継の叛乱と相次ぐ二度の戦乱が考えられる。(後略) ※以上 引用終わり

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土橋というよりは、「一騎駆け」のような背後の尾根。

【城跡】

広大な主郭を頂部として北東の尾根伝いに五段の帯郭を重ねた連郭式の山城である。城内に通じる登山道は長大な竪堀のように思えるが、いわゆる「背負引道(しょいびきみち・・・薪などを背負いながら引き下ろす道のこと)」と呼ばれる後世の作業道であり、往時の遺構ではない。雨水の浸食による部分もあるようだ。

そして、この城には不思議な事に「堀切」と呼べる遺構が一つもない。
見取図には堀切っぽい図を示してあるが、一騎掛けの土橋状の痩せ尾根で、左右の沢は天然のものである。

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一見すれば薬研堀に見える。

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これだけの天然の沢があればわざわざ加工せずとも済んだのであろう。

諏訪地方の山城の多くは、フロント側を段郭を重ねて重厚にしている割には搦め手の防御は極めて脆弱である。(武田に改修された城は堀切を増設しているが)
武居城は背後の尾根伝いの山容の厳しさから堀切を必要としなかったようである。

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一騎掛けの痩せ尾根。逆に堀切を穿つよりは敵の殲滅には都合がいいかもしれない。

主郭から五段の段郭は往時の遺構らしいが、その先の北尾根と北東尾根の登山道沿いの段郭は後世の造成地だろうと推定されているが定かではない。

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背後を尾根伝いに登れば、高遠に通じる杖突峠に繋がるらしい。

城域の麓に広がる高台は武居平と呼ばれ、平時の居館があり近年の発掘調査では生活空間が想定される出土品が出たという。
城館一体型の遺構に対する否定的な意見が最近は多くなっているように思うが、平時は麓の居館、戦時は背後の詰め城に立て籠るという理に適った図式のどこがおかしいのか?甚だ疑問である。

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郭2と郭3。

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郭4。耕作地化による削平も考えられるので、全てが往時の遺構と見るのは無理がある。

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郭5から見た武居平の高台。

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結構広大な土地であり、板垣平に匹敵する。

鎌倉時代から続く築城年代の分かる山城は珍しいし、戦国時代に再利用されるケースもレアである。
通常堀切の存在が確認出来ない山城は否認されるケースが多いらしいが、この山城は別格のようだ。
公園化されて残念な部分もあるが、諏訪地方を代表する山城なので、近くにお越しの際は探訪をお勧めする。

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ジムニーで更に上の林道まで走ったのが赤い点線(笑)

≪武居城≫ (たけいじょう 片山古城 武井城)

標高:942m 比高:165m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:諏訪市中州神宮寺
攻城日:2017年4月29日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:15分
見どころ:段郭、一騎掛けの土橋など
駐車場:無し。


Ⓢは登り口。駐車場は無いので邪魔にならない場所に路駐。

Posted on 2019/12/10 Tue. 21:11 [edit]

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南真志野城 (諏訪市湖南南真志野)  

◆諏訪惣領家の家臣矢島氏による普請か?◆

まるまるこの二週間、山城サミットに関わり過ぎてこのところ「腑抜け」のような日々を過ごしている・・・。

もともと「腑」すら無いのだからどんな日々なんだろう・・(笑) で、今週末のアテンドツアーに備えてタイヤを冬仕様にチェンジ!

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おいおい、タイヤじゃなくて虚空蔵山城が写ってる・・・(感動)。ちなみに我が愛馬のジムニーの初年度登録は西暦2000年。

今回ご案内するのは、諏訪湖の南岸に突き出す南真志野城(みなみまじのじょう)。

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県道16号線から南へ向かい、中央自動車道を跨いで林道諏訪箕輪線のダートに入る。尾根先の鉄塔が目印。

【立地】

西山山系の断層によってできた急な山尾根を越えて、諏訪から伊那へ幾つかの峠が通じている。その中の一つに古くからある真志野南峠は野明沢をつめて諏訪市湖南から後山まを経て、箕輪町に通じている。
真志野城はこの道に沿って、標高1025mの急な山尾根の末端部にあり、麓の南真志野集落から一気に200mの比高で聳えていて、諏訪地方では、高い城の一つである。(「信濃の山城と城館⑤諏訪・下伊那編」 P104より宮坂武男氏の記述を引用転載)

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鋭い切岸が続く尾根で取り付く場所は限られている。獣道ぐらいの狭さでも経験では登れると判断してスパイダーのように登る。

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郭5の一段下の段郭から愛車の位置を確認。結構な高さに自分でも驚くのだ・・(笑)

【城主・城歴】 ※以下、諏訪市史を引用

史料として直接出て来るのは、「諏訪頼重公一族重臣」として「真志野城主矢嶋織部極」がある。これと関連するものに、「守矢頼真書留」の天文十一年(1542)七月の条に、「神長はよいに衆なみに候間、桑□(?)の城の城へ矢嶋殿同心にて下宮をまわりうつり候間、頼重桑原の城御座候」とあって、□(?)の部分については、桑原より真志野の城へ、と理解され、この時点では真志野城の城主は矢嶋氏であることが明白である。そこでここ真志野城が北真志野城ではなく、何故南真志野城と考えられるのか、城主が何故矢嶋氏なのかが問題となる。

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郭5の切岸を見上げる。

真志野氏の勢力は減退したが、真志野集落の軍事的役割は文明の内訌によって増大した。即ち真志野峠・南峠を越えて後山集落から高遠の谷や箕輪へ通じており、高遠側による荒城の築城もある。惣領家側としては有力武将を配置し、堅固な城が必要であった。

そこで一族衆であり鎌倉時代から武力的に発展していた矢嶋氏を配置すると共に、南真志野城を築城したものと思われる。築城後の動きについては今のところ知る史料がないが、廃城については、天文十七年七月の西方衆の反乱について、「神使御頭之日記」に「此年七月十日ニ西之一族衆 矢嶋・花岡甲州江逆心故、諏訪二乱入候。神長・千野殿計従河西上原江移候、同十九日二西方破悉放火候」とあって、神長と大熊の千野氏は武田氏に与したが、矢嶋氏を始め諏訪の西方衆は小笠原氏と通じながら、協力して武田氏を追い出しに立ち上がったが敗れ、ことごとく放火されたのである。
さらにその日武田氏は勝弦峠で小笠原氏と戦い1,000人余人を討ち取って勝利した。

真志野城見取図①
正面を段郭で防御し背後を幅広い一条の大堀切で防御するというこの地域の山城共通の防御システム。

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郭5の内部。

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風雪に耐えて残る切岸。

【縄張と現況】

南真志野城は標高1032m、麓との比高も220mあり、諏訪の山城では標高1,300mの御天城に次ぐ高所険害である。此の場所が選定された理由について築城の項で述べた。構造としては、主郭・二の郭・それを取り巻く三の帯郭・主郭の背後(西側)の尾根を断ち切り防御を固めた広く深い空堀・主郭の南縁から西縁にかけての土塁などがしっかり残り、特に西縁の土塁は一段と高く幅も広く、物見櫓などが設けられたのであろう。

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郭4と郭3への切岸。

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郭3と郭2。

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変則的な段差を持つ際頂部の郭1は土塁で周辺を覆われている。郭2との区割りも曖昧なままである。

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主郭は二段。頂部は櫓台か?

大手道は東北に降る尾根道であったと思われ、帯郭の二段目の舌状広場に枡形(入口)が設置されたのであろう。西側山地に続く尾根は荷物や馬の置き場として利用したであろうが、山地との境の堀切はなかったと思われる。

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南側の尾根にも数段の帯郭を置き防御を強化している。

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南に突き出す帯郭群。

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主要部で最も面積の広い郭3。

全体の構造は複雑ではないが、自然の急崖に護られて中々堅固であり、それより西200m程に竜雲寺が在る。根小屋はこれより下部に広がる南真志野集落で、北真志野と共に古くから発達していた。
※以上「諏訪市史」よりの引用終わり。

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主郭背後の巨大な堀切。

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側面を土塁でかさ上げして堀底の高さを確保しているのがわかる。

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一条だけなんだけど、幅広な箱掘り状の大堀切は美しい。小生の好きなアングルです。

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西側の尾根から大堀切と主要部を振り返る。

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搦手方面の西尾根。水の手もあるので通常は堀切を数条穿つと思うのだが、全く警戒していない。

【らんまるの所感】

中央道の開通により北尾根の先端が改変されてしまい、お屋敷からの登城路や防御の構造が考察できないのは残念である。
とはいえ、北尾根の段郭は険しく、段郭も防御には充分な施工である。

城の中枢部を郭1・2・3と分けるのはかなり曖昧なので躊躇する所ではある。巨大な一条の堀切だけですませているのは、オーソドックスな戦国初期の仕様だというのが感じ取れる山城で、それはそれで諏訪の山城共通のルーツとしてみれば面白い。

水の手の辺りの段郭ももう少し調査が進めば面白い。ここは間違いなく守るべき最重点であると思うのだがどうであろう。

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西尾根に全く防御の遺構が無いのは不思議である。

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今も沢に湧き出る水の手。

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水の手を守るように築かれた段郭。往時の遺構であろうか?

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籠城時の生命線。築城の際に水の手の確保は最優先であろう。


≪南真志野城≫ (みなみまじのじょう 真志野城)

標高:1025.0m 比高200m 
築城時期:不明
築城・居住者:真篠氏、矢嶋氏
場所:諏訪市湖南南真志野
攻城日:2017年4月29日
お勧め度:★★★☆☆
難易度:中級クラス。直登の経験要。
城跡までの所要時間:林道より10分  駐車場:無し。道路脇に路駐。
見どころ:堀切、土塁、段郭群など
付近の城跡:武居城、大熊城、大熊荒城、権現沢城(北真志野城)など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版) 「諏訪市史 上巻」


Ⓢは路駐場所。Ⓖは水の手。小型乗用車までなら何とか麓の林道まで入れる。

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真冬の2月にトライしたが、北向きの為諦めた・・・アホか!(笑)










Posted on 2019/11/18 Mon. 22:16 [edit]

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大和城 (諏訪市大和・下諏訪町高木)  

◆塩尻峠からの小笠原攻めの軍事拠点として武田が改修したのか?◆

今週2日(土)に開催された「全国山城サミット上田・坂城のプレ大会」にご参加いただいた皆さん、ありがとうございました!

「今回は行けなかったけど、頑張ってくださいね」と心温まるエールをくださった皆さんにも感謝申し上げます。

分科会では正直5~6人聞いてもらえればいいや、との予想でしたが、かなりの方が集まってくれてビックリ!!

心折れそうになりながら続けてきたブログ掲載に関する悲話(ブログを綴る悲しみが・・雪のように降り積もる夜には・・・ってハマショーかい!笑)が少しお話出来たかと・・・(笑)

小生の退屈な話の発表時間を大幅にカットして、皆さんのご質問に答える時間を精一杯とらせていただきました。誰一人途中退席される方もなく、最後まで聞いてくださり、ありがとうございました。来年の本チャンでも是非お会いしましょう!

遠景
来年の本大会では、初日にこの山城群に強者の皆様方をアテンドするお役目かと・・・。

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ご参加いただきました皆さん、ありがとうございました。お疲れ様でした!

分科会では、小生のブログの熱心な読者の方からは、「twitterもいいけど、肝心のブログを早く更新して欲しい!!」との要望がございました・・(汗) 全くその通りで言い訳も出来ませんね(笑)

で、今回ご案内するのは、twitterで9月に事前予告をしていた諏訪の「大和城」。(おわじょう) ※戦艦大和とは関係ありません

なんせ2016年3月の訪問なので、記憶が曖昧・・当時の写真を見ても「ここは何処?」「私は誰?」状態。
(いやいや、既に若年性アルツハイマーかもしれない・・・・・汗)

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登り口から見た諏訪湖。対岸には真志野城、武居城、小坂城、大熊城、大熊荒城、有賀城・・在地土豪の拠点城が並ぶ。

【立地】

上諏訪大和と下諏訪高木との境界線上にある。ここは霧ヶ峰より西に延びた尾根上の大見山からの枝尾根の先端を利用している。標高940m、麓からの比高差150mありかなりの急斜面で、北側高木集落からの斜面がいくらか緩やかで、馬による荷揚げはこちらからであったと思われる。

大和城(諏訪市) (8)
登り始めると左右に段々の削平地が広がる。全山耕作されているので、どこまでが往時の遺構と判断するには難しい。

【築城と変遷】 以下、「諏訪市史」の第六章「中世の城郭群」から引用転載

築城についての史料は今のところ見当たらないが、大和・高木の集落は当初より下社側の支配下にあり。大和・高木氏は下社金刺氏の一族でそれぞれの集落で一分地頭として活躍していた。殊に大和城は上社側の高嶋城と相対峙して軍事的にも重要であった。

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城域の入口にある新調された社。廃城後も山岳信仰の名残りとして続いて地元民の信仰心は厚いようである。

上下社の対立抗争が明確になってくるのは、宝治山園(1249)三月の「大祝信重解状」からで、その後蒙古の来襲(文永十一年 1274・弘治四年1281年)で、挙国一致となり、対立も緩和されたと思われるが、外敵侵入の心配がなくなるとまた競争が始まる。
即ち永仁元年(1293)上社に知久敦幸の寄進で普賢堂が建立されると、下社大祝金刺満貞は鎌倉の建長寺住持一山一寧に参禅して正安二年(1300)慈雲寺を開創する。

大和城(諏訪市) (11)
城域の東は雨明沢で、城の水の手はこの沢であろうか。

やがて鎌倉幕府が滅亡し、中先代の乱を経て南北朝の対立となると、上社は南朝方に下社は北朝方にと対立してゆく。こうした歴史の流れの中で諏訪の山城が築城されてきたが、大和城も大和郷の地頭大和氏によって下社方の城としていち早く築城され、永正十五年(1518)下社方が滅亡するまでずっと大和氏によって維持されてきたものと思われる。

大和城(諏訪市) (12)
諏訪湖に突き出るような尾根に築かれているが、斜面は結構急斜面であり切岸としてある程度加工されたものであろう。

大和城見取図①
見取図も最近テキトーに描いているので心が痛い・・・(笑)

文献資料に大和城の事が最初に出て来るのは天文十一年(1542)七月の武田信玄の諏訪侵入の時である。
「守矢頼真書留」に「夜もあけ候へは、大輪(おわ)・たかしまへおち候衆はかつ 大将の御座候くわ原の城へうつられ候」と書かれている。
この時大和城は上社の諏訪惣領家の支配下にあった訳だが、諏訪頼重が桑原城で落城すると、武田方の郡代板垣信方の支配下に入った。

大和城(諏訪市) (20)
登城路には石積が見られる。

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主郭直下の段郭。主郭から4~5段目あたりまでは往時の遺構とみても差し支えない様な気がするが。

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虎口をしっかり支える土留めの石積み。視覚効果も意識しているように思うのだが。

「信濃国昔姿」には「此年より武田領と成、郡代には板垣駿河守信形、天文十四年七月より大和の城に在城す、騎馬百二拾騎にて籠る、信形伊奈勢の爲に戦死す、嫡子弥次郎信里を差置る々所、野心を起し密に上杉家へ内通有るを、本郷八郎左衛門甲府へ告る、依て信里被誅」とあるがこの記事には誤りが多い。

信方は上原城下板垣屋敷に居たが、嫡子信里を大和城に駐在させたのかもしれない。信玄は諏訪を征服したのち、天文十三年から十四年にかけてしばしば箕輪から塩尻へ出陣しており、その節に上原城と共にこの大和城も軍事拠点として使用したのであろう。

大和城(諏訪市) (28)
主郭は楕円形で北東を土塁が囲み、南側にも一部土塁の址が確認出来る。

天文十七年二月になると、信玄は小県郡に出陣して村上義清と上田原で対戦、板垣信方・甘利虎奏ら多くの将を失って敗退し、三月五日上原城まで退陣している。
ここで、諏訪の郡代は信方からその舎弟室住玄蕃允に引き継がれたが、七月に入って諏方西方衆の反乱が発生する。

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主郭背後の土塁の拡大写真。

この叛乱は武田軍の敗退と郡代信方の戦死を知った諏訪武士が、松本の小笠原長時と通じて武田の支配権を排除し独立を回復しようとしたものであろうが、更に高遠頼継の支配権回復への願いや(➾大熊荒城参照)、板垣信里の信玄への反逆も加わっていたのではないか。
信里の反逆については父信方の後継が出来なかったことや、信方の死に謀殺説があることによるかもしれない。

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主郭より背後の大堀切㋐を見下ろした写真。堀底からは約10m程の高さになる。

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堀切㋐の切岸と堀底。(西側)。この切岸の角度では絶対に登れないと思うが。

反乱が生ずると信玄は早速出陣してこの乱を平定し、翌八月には諏訪郡代に長坂虎房を任じ上原在城を命じる。
諏訪に着任した虎房は翌天文十八年正月八日、代官所を上原から高嶋(岡村)へ移し、高島城の修築にかかる。

大和城はどうなったかとぴうと、板垣信里は小笠原と通じてこの西方衆の反乱に乗じて挙兵し、武田勢に討伐されて大和城は破却したものと思われる。

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堀切㋐を堀底から撮影。

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堀切㋐に隣接する堀切㋖。

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三条目の堀切㋗。㋖も㋗も武田による改修で増設されたものであろう。


【城跡】

元々の大和氏時代の基本設計は、尾根の頂上に物見を置き、登り口を数段の郭で防御する簡単な縄張だったと推測される。
それが諏訪地域の覇権をめぐり、上社、下社、惣領家の三つ巴の戦いに発展すると、それぞれの拠点を強化し軍事紛争に備えたものと思われる。

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堀切㋑。恐らく堀切㋐の加工と同時に普請されたものであろうか。その後、深く鋭く長くというコンセプトで武田による改修かと。

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東の沢に緩やかに下りる堀切㋑

城跡を歩いてみると主郭を断ち切る背後の大堀切㋐と大堀切㋑の間は元々副郭が置かれていたと思われ、大規模な改修が施された時にここから西へ向けて二条の堀切を入れて副郭を廃し後方の防御を高めたものであろう。
さらに北側の尾根からの侵入に備えて堀切㋒と堀切㋓を追加普請したようにも見えるがどうであろうか。

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北側から見下ろした堀切㋑

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堀切㋑に接続する北尾根。

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かなり埋まっているが土塁でかさ上げされた上巾3mの堀切㋒。

城の搦め手方面の北尾根には二条の堀切を入れて厳重に警戒している。北の尾根をさらに比高200m程登った場所は「大城」と呼ばれ、逃げ込み城のような空間があるというが、今回は積雪もあり断念した。

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城域最終の堀切㋓。上巾6m。

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東側の斜面に鋭い竪堀となって落ちる堀切㋓。圧巻の景色である。

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稜線の部分が大城で城域の前後を堀切で遮断しているというが、お楽しみは残しておきましょうか(笑)

板垣信方の倅の信里がこの城に籠り、西方衆の叛乱の際に小笠原に内通して信玄に反旗を翻したというのは、なかなか面白い伝承である。信玄の統治を快く思わない地元民、あるいは郡代であった板垣信方が討死したことに不安をもった旧諏訪家の家臣が流言したとも考えられる。

上田原合戦で打撃を受けた武田軍が、塩尻峠からの小笠原軍の来襲に備えて一時的に上諏訪の防衛拠点としての大和城を改修強化したものと思われる。

大和城(諏訪市) (94)
登り口から見た下諏訪方面。俗に云う小笠原軍との「塩尻峠合戦」は勝弦峠が戦場であったという。


≪大和城≫ (おわじょう)

標高:939.5m 比高165m 
築城時期:不明
築城・居住者:大和氏、武田氏
場所:諏訪市大和・下諏訪町高木の境
攻城日:2016年2月7日
お勧め度:★★★★☆
難易度:中級クラス。登山道あり。
城跡までの所要時間:20分  駐車場:無し。道路脇に路駐。
見どころ:堀切、段郭群など
付近の城跡:桜城、高木城、高嶋古城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版) 「諏訪市史 上巻」


Ⓢは登り口(表示あり)。路駐は近隣の住民の邪魔にならない様に留意。

大和城(諏訪市) (97)
登り口から見た大和城。






Posted on 2019/11/04 Mon. 07:49 [edit]

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