らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0616

齢松山城 (茅野市本町)  

◆鬼場城の後詰めの駐屯地か◆

こんなに難しい読み名の山城は珍しい。齢松山城と書いて、「れいしょうざんじょう」と読む。

名前の由来は、江戸時代の安永年間(1772-80)に本町にある「齢松山福寿院」(れいしょうざんふくじゅいん)という曹洞宗のお寺にこの主郭部を寄贈したので、この名がついたという。

このお寺、諏訪高島藩の二の丸家老諏訪頼雄が開基とされるが、八代目頼保の時に諏訪藩の跡目争いで三の丸の千野家との政争に敗れ、家名断絶となり、その妻子を祀る墓所があるという。その話はいずれまたの機会に。

IMG_1218.jpg
麓のコンビニから見た城跡。畑の脇道を登り、その先の鳥居のある場所から適当に斜面を5分も登れば城域である。

【立地】

西側の支脈の中腹に上原城のある永明寺山(1119.6m)の南へ延びた支尾根上にある。標高871m、比高51mで集落に面した小山に築かれている。城の主郭部は、かつて矢ヶ崎、塚原の財産区であったものを、江戸時代の安永年間に齢松山福寿院に寄贈されたことから、この名がついているという。

齢松山城見取図①
郭2つを堀切で囲んだ古典的な縄張である。

DSCF4698.jpg
地山との境界を示す堀切㋐。

DSCF4728.jpg
南東方面よりみた堀切㋐と郭2。残土で盛った土塁で深さを稼いでいる。

【城主・城歴】

諏訪市の支族矢ヶ崎氏の居城と伝えられるところから、往古は「矢ヶ崎城」と呼ばれた可能性はある。また鬼場城が別名「矢ヶ崎城」と言われたらしいので、鬼場城と区別して、別の呼び名があったことも考えられる。

DSCF4717.jpg
主郭より北東の郭2方面を見下ろす。

齢松山の山号を持つ福寿院の創立年代は不明であるが、創立当時の所在地は、小字古屋敷の一角と考えられており、現在地に移ったのは万治二年(1659)あるいは寛文初年(1661~)頃のようである(茅野市史 中巻)

DSCF4702.jpg
郭2から見た堀切㋑と主郭方面。堀切㋑は二重堀切だった可能性がある。

矢ヶ崎氏の館の位置ははっきりしないが、この殿屋敷であった事も考えられ、裏山へ砦を築き、本町、塚原の一帯を領知していたと考えられる。一説には殿屋敷に住んだのは小池氏であるとも言われる。
※「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)P177の説明文引用。

DSCF4703.jpg
北東斜面の処理。堀切がここで二股に分かれている。

【城跡】

主郭(22×16)と副郭、それらを囲む3本の堀切で構成された古い縄張の城館である。北東の尾根続き以外の三方を急斜面で囲まれた要害の地で、尾根を遮断する二つの堀切が守りを堅固としている。
特に堀切㋑はその幅広さから二重堀が穿ってあった可能性は高い。

DSCF4706.jpg
東側より見た堀切㋑。主郭との落差もかなりある。

IMG_1211.jpg
三方を土塁に囲まれた本郭(22×16)。

IMG_1209.jpg
主郭に最近建てられたらしい説明板。宮坂氏に依頼して縄張図も掲載すれば完璧なのに、惜しい・・。

IMG_1212.jpg
主郭北側の段郭。横堀が埋められた跡のようだが、真相は・・。

DSCF4715.jpg
南西に落ちる竪堀㋒。

全体的に規模は小さく、比高も50m程の小山にあるので築城年代は鬼場城よりも古い年代のだと想定される。
武田軍が大門街道の監視砦としての鬼場城を強化していく過程の中で、上原城との連携を考慮され使われたものと想定される。

IMG_1216.jpg
西側の段郭。

IMG_1214.jpg
主郭の切岸。

≪齢松山城≫ (れいしょうざんじょう しろやま)

標高:871m 比高:51m
築城年代:不明
城主;不明
場所:茅野市本町
攻城日:2017年4月29日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:10分
見どころ:堀切、土塁、郭など
注意事項:特になし
駐車場:ファミマで買い物しましょう。
参考書籍:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
付近の城址:鬼場城、上原城、御天城、埴原田城など。



DSCF4733.jpg
コンビニから見た齢松山城全景。
スポンサーサイト

Posted on 2017/06/16 Fri. 22:24 [edit]

CM: 4
TB: 0

1229

高木城 (諏訪郡下諏訪町高木)  

◆上諏訪と下諏訪を繋ぐ街道の要衝に位置する監視砦◆

「いきなり諏訪へ飛ぶんかい!、毛見城の続きの平沢城はいつ掲載するつもりなの?!」

お叱りの声はご尤もである・・・(笑)

縄張図が既にスタンバイ出来ている・・・それだけの理由である。なので、今回ご案内するのは下諏訪町の高木城。

高木城(下諏訪町) (63)
マンションの裏山なのだが、鉄塔が刺さっているおかげで保安道があり迷うことは無い。

【立地】

霧ヶ峰から延びる稜線が諏訪湖の湖岸に迫る尾根上の末端に位置している。麓には高木集落があり、諏訪湖との間にはJR中央線や国道20号線(甲州街道)が走り下諏訪と上諏訪を結ぶ交通の要衝である。往時は諏訪湖との間隔も狭く集落の生計は諏訪湖の漁業がメインであったと考えられている。

高木城(下諏訪町) (1)
国道20号線の「高木交差点」を右折し介護施設の「グレイスフル下諏訪」を目指し、その西側の高台の行き止まりが登り口。ここからは高島古城、高島城が一望出来る。

高木城(下諏訪町) (5)
鉄塔No27への表示と保安道があるのでそれを進めば良い。

高木城(下諏訪町) (9)
城跡に鉄塔が突き刺さるのは悲しいが、保守点検用の通路が確保されるので共存共栄の精神と理解している(笑)

高木城(下諏訪町) (55)
最初に到達する鉄塔No27の付近にも帯郭の痕跡が残る。区画として石積みも見られるが近世の耕作地の名残りであろう。

高木城(下諏訪町) (56)
全山耕作された名残りの石積み。反応する自分が悲しい・・(笑)


【城主・城歴】

長野県町村誌には「高木城墟は、村の東の方、十五町程小高き山にあり。土人高木の城と言伝ふ。因に伝、天文年間武田信玄、諏訪処有の頃、応援の為め、砦を所々に築きし墟なりと云、然れども何某氏に居る等の年歴今不詳」とある。
高木氏は金刺氏の分流で高木の地頭を務めていたという。高木氏が諏訪下社の東の出入り口にあたる高木に砦を築き守った事が想定され、武田統治下では烽火台が置かれたことも充分に考えられる。

高木城 001
簡素な砦としての機能である。

【城跡】

尾根のピークは910m地点であるが、城跡は40mほど下がった西側の尾根先にある。楕円形の主郭の一段下に副郭を接続し、主郭の周囲の斜面に四条の堀切を穿った縄張で、数段の腰郭も認められる。

高木城(下諏訪町) (52)
郭2。

高木城(下諏訪町) (53)
郭2の北側は一段低くなる場所で「駒隠し」と呼ばれ、籠城の際に馬を隠した場所と伝わる。

高木城(下諏訪町) (13)
郭2から見た主郭方面。

郭1と郭2の間には堀切があったと思われ、南斜面の腰郭経由で郭1に入ったと考えられる。

高木城(下諏訪町) (19)
南斜面に落ちる竪堀㋓。

高木城(下諏訪町) (45)
郭1の東側の土塁。郭2との段差を付けるために盛り土されたのであろう。

高木城(下諏訪町) (21)
鉄塔No26の刺さる郭1。楕円形で東側のみ土塁が残る。

高木城(下諏訪町) (22)
竪堀㋒。かなり埋まってしまっているが、往時はそれなりの深さで斜面を遮断していたのだろう。

さて、この砦の利用価値はその立地条件である。残念ながら現在は西側の下諏訪町と岡谷市の一部の景色しか見れないが、それでも往時を偲ぶことが出来る。

高木城(下諏訪町) (40)
主郭から望む下諏訪町・岡谷市方面。

高木城(下諏訪町) (41)
拡大するとこんな感じでしょうか。諏訪下社はギリギリ見える位置にあります。(霞城)

高木城(下諏訪町) (28)
南斜面の腰郭。郭2からここを経由して郭1(本郭)に入ったのであろう。

高木城(下諏訪町) (30)
短い竪堀㋑。

諏訪を制した武田晴信が塩尻峠(または勝弦峠)を越えて小笠原長時の本拠地である深志へ進軍するに当たって、高木城も烽火台として整備されたと考えられる。

小規模ながら、交通の要衝を抑えた砦には違いない。

高木城(下諏訪町) (33)
土塁付きの竪堀㋐の位置。藪が酷く突入してみたが遺構は確認出来なかった・・(汗)


≪高木城≫ (たかぎじょう)

標高:874m 比高:112m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:諏訪郡下諏訪町高木
攻城日:2015年10月11日 
お勧め度:★★☆☆☆  
城跡までの所要時間:10分 駐車場:保安道の登り口に路駐。
見どころ:竪堀、郭など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版) 
付近の城址:桜城、大和城、高島古城、霞城など

高木城(下諏訪町) (65)
南西の諏訪湖畔の高浜公園から見た高木城。















Posted on 2015/12/29 Tue. 22:38 [edit]

CM: 4
TB: 0

0220

峰畑城 (岡谷市川岸駒沢)  

◆天竜川の河岸段丘を利用した駒沢氏の城館跡◆

今月はブログの更新ペースがかなり落ちている・・・(汗)

信州の方言で言うところの「ズクが出ない」のである(笑) ※「ずく」とは「やる気・元気」を意味する言葉。

何とかズク出して今回ご案内するのは岡谷市川岸にある峰畑城。

峰畑城 (1)諏訪社の東側が居館跡。

県道14号線(岡谷街道)の川岸駒沢の信号を東に折れた台地上が城館の跡で、前回ご紹介した高尾山城からは南へ直線で約3km。天竜川の右岸の段丘である。

峰畑城 (2)入口には標柱がある。写真の奥が「御頭(おかしら)」と呼ばれる居館跡。

説明板によれば、城主は諏訪五十騎の一人で地頭の駒沢新右衛門尉だったという。(それだけかい・・)

峰畑城見取図①
ズクが無いので酷い見取図になった(笑)

諏訪が上社・下社と争っていた時代は天竜川を挟んで勢力が分かれていたというから、高尾山城の三沢氏は下社側、駒沢氏は上社側に付いていたらしい。

峰畑城 (4)周囲を囲む野面積みの石積みは当時の居館の遺構だという。

その後、武田氏の侵入には三沢氏同様武田の軍門に降り、信濃先方衆として各地を転戦し家名を存続させたという。

峰畑城 (8)城館の入口は「馬出し」のような郭の跡が確認出来る。

城跡の遺構としては、天竜川へ向けた西側の段丘にその後が僅かに確認出来る。

峰畑城 (10)南側の霊山から見た峰畑城

峰畑城 (13)南にある雇用促進住宅が城域の終わりで、道路はかつての堀切の跡だという。

狭い地域で分裂抗争を繰り返し、ようやく本家による統一が出来た途端に武田氏の侵略を受けた悲劇の諏訪地方。

点在する小豪族は一族が敵味方に分かれるという悲哀も繰り返されたのであろうか。

城跡に立つとその苦悩が伝わってくるような気がした・・・。


≪峰畑城≫ (みねはたじょう 駒沢城)

標高:773m 比高16m 
築城年代:不明
築城・居住者:駒沢氏
場所:岡谷市川岸駒沢
攻城日:2012年10月13日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間-分 駐車場:無し(路駐)
見どころ:堀切、石積みなど
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」


峰畑城 (11)かつては天竜川を挟み対立していたという。






Posted on 2013/02/20 Wed. 09:20 [edit]

CM: 2
TB: 0

0217

高尾山城 (岡谷市川岸三沢)  

◆諏訪を一望できる絶景の烽火台跡◆

こんな日は久々に佐久地方へ攻め込むか・・・と意気揚々で進軍したが、先日降った雪が深くて一城も落とせず下見に終わり退却した(汗)

昨年からの在庫も掲載していかないと、賞味期限が切れてしまう(笑)

今回ご紹介するのは岡谷市にある「高尾山城」(たかおさんじょう)

八王子市にある高尾山(599m)と同名の山なのだがイマイチ知名度は低いようだ・・・・(汗)

高尾山城 (1)
登山口。岡谷市民のお手軽なトレッキングコースらしいが、城跡という認識は無いらしい。

場所は天竜川の右岸で塩嶺山地から派生した独立峰の高尾山(1,016m)の山頂にある。

登山道は整備されているが結構な急坂で、一合目から順番に標柱が途中に設置され十合目の頂上まで続く。

普段テキトーに直登している小生には邪魔な表示で、「まだ五合目かよ!(怒)」という有り様だった・・(笑)

高尾山城 (2)
広畑遺跡の先にある大鳥居からが登山道。かつての大手道だという。

黙々と20分ひたすら登る。

独立峰の城跡なら道筋に堀切などの遺構があるのだが、ここには何も無く頂上の郭へ一本道が続くのみである。

高尾山城 (3)
疲れが吹き飛ぶ諏訪湖方面の遠景。

頂上に立てば、ここが見張り台や烽火台としては文句の無い場所であることが充分理解出来る立地である。

築城年代や城主はハッキリしないが、下社大祝金刺氏の分流でこの地の地頭だった三沢氏の要害だったと考えられている。

三沢氏は武田軍の諏訪侵攻の際に武田氏に属したとされ、山麓の大島地籍に居館を構え、現在の川岸小学校の西当りに根小屋があったとされている。

高尾山城 見取図


縄張りは主郭と背後の副郭から構成される古い形式であり、戦闘用に改修された跡も無く烽火台としてはこの程度で充分だったと思われる。

高尾山城 (7)削平された西隅には頂上の標柱がある。

高尾山城 (13)主郭の東は段差のある傾斜地で、東屋付近で烽火を上げたと思われる。

高尾山城 (15)
現在石祠のある主郭北側は土塁で盛られ、背後はL字の堀切になっている。

城域の西側は岩場を伴う急な崖であり、大手を含めた残り三方も傾斜がキツく攻めるには困難な場所である。

高尾山城 (20)
主郭と副郭の間の堀切。

高尾山城 (21)
入角(いりすみ)と云われ北東が鬼門のために取り除かれた土塁。

ここ数年訪れる人も少なくなったせいか、主郭ですら藪がひどく荒れ果てた印象を受けた。

背後の郭2は雑木林と雑草で全体像すら掴めず、写真を撮っても何が何だかの有り様だった・・(汗)

高尾山城 (23)
郭2。

高尾山城 (28)
郭2の北側にある防御構造。

高尾山城 (36)
主郭手前には犬走りのような腰郭が設置されている。

上原城から、高嶋古城、諏訪下社秋宮、桜城、花岡城を経由し辰野・伊那谷方面に繋ぐ「信玄の烽火かがり」とすれば、これほど地形的に充足した場所は他に見当たらない。

高尾山城 (4)


天文十三年(1544)の龍ヶ崎城攻めにも高尾山城は機能したのだろうか?

下山してから気がついたのだが、この場所の山麓は「広畑遺跡」と呼ばれ縄文時代の集落の住居跡や土偶が発掘された有名な場所なのだという。

高尾山城 (41)


そういえば、日頃からご指導頂いている「あおれんじゃあ」さんも縄文時代に詳しいらしい。

お産の形をした土偶は珍しいらしいので、そのうち聞いてみたいと思います(笑)


高尾山城 (38)
伊那谷へ続く川岸方面。太古の昔から天竜川の恩恵はあったんでしょうね。


≪高尾山城≫ (たかおさんじょう)

標高:1016m 比高140m 
築城年代:不明
築城・居住者:三沢氏
場所:岡谷市川岸三沢
攻城日:2012年10月13日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間20分
見どころ:堀切、土塁、郭
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」

高尾山城 (44)








Posted on 2013/02/17 Sun. 21:31 [edit]

CM: 2
TB: 0

0425

干沢城(茅野市)  

◆諏訪地方の騒乱に巻き込まれた上社大祝家の壮大な山城◆

諏訪地方の諸城を掲載するとページビューが落ちる(笑)

シャキッとした山城を期待する方々の妄想の為せる技であろうか・・・(汗)

まあ、確かにボテッとした中世の山城ばかりで緊張感が無いと云われればそうかもしれないのだが・・(爆)

で、今回ご紹介するのは諏訪地方でも規模がピカイチの干沢城である。

干沢城 (2)
例によって登山道無き北尾根の阿弥陀堂から強引に直登する。あれま、右側に後光が差してる??・・(汗)


干沢城 (7)
数段の段郭を乗り越えていく。夏場の攻城戦は厳しいと思われる。


干沢城は、茅野市宮川安国寺に位置し、付近には諏訪大社上社前宮があり、周囲には大町という町が広がっていたという。
この大町にある遺跡が、干沢城下町・荒玉周辺遺跡である。干沢城は、高遠へ至る杖突峠が付近にあり、高遠への要衝に位置し、また、甲府方面を望む事が出来るいちにある。そして諏訪上社大祝が居住する前宮神殿の付近にあり、上社大祝家の山城であったと考えられる。

干沢城縄張図②
宮坂武男氏の図解山城探訪の縄張図を参照し作成しています。


干沢城 (9)
靴底に刺さりそうな切株を超えると④の郭に辿り着く。


「守矢満実書留」によれば、応仁元年(1467)に干沢介二郎が在りし城とあるが、築城年代は不明である。

干沢城 (10)
険しい攻城戦を覚悟していたが、あっさりと三の郭に到着。

その後の干沢城の記述は同じ「守矢満実書留」にあり、文明十五年(1483)一月八日に、諏訪上社大祝家諏訪継満が、惣領諏訪政満や嫡子である宮若丸・舎弟小次郎を、上社前宮神殿で謀殺するという事件が起きたが、一月十五日、大祝諏訪継満は惣領方に攻められて干沢城に上っている。二月五日には干沢中城で御左口神付を行っているが、二月十九日、惣領方に攻められて干沢城は落城している。

干沢城 (12)
巾が広いだけで緊張感の無い㋐の堀。西の沢に竪掘として落ちるのだが、中途半端な処理のままだ。

翌文明十六年五月六日、大祝諏訪頼継が片山古城(諏訪市中洲神宮寺)を取り立てた時、今度は惣領方が干沢城に馳せ籠っている。

干沢城は、南北550mの、諏訪地方では規模の大きな山城で、本郭から四の郭までが空堀によって区画されている。また無数の帯郭があった事が想定されている。

干沢城 (17)
例の如く鉄塔の突き刺さる最も広大な二の郭。二段の段差がつけられている。

二の郭は最近発掘調査が行われ、発掘された遺物は15世紀後半までのものでほぼ終わり、16世紀の遺物は一点に過ぎないという。
諏訪頼継による惣領家乗っ取りが失敗し高遠へ落ちると、惣領家は上原城周辺に施設を集約化したために干沢城は廃城になったとも考えられる。

干沢城 (22)
上巾11mの堀切㋑。やはりシャキッとしない(笑)


ただ、杖突峠を抑える拠点としての重要性はあったので、高遠を制圧するまでは武田軍による改修と利用もあったのではないかと思う。

干沢城 (24)
堀切㋑と本郭の間には投石を行う守備兵の為の出丸(?)がある。

干沢城 (26)
堆く積まれた戦闘用の石礫(いしつぶて)。原始的だと思われるが、戦国時代には当たり前且つ強力な戦闘方法。


少数での籠城には向かないが、ある程度の兵力があればそこそこ持ちこたえられるであろう。
唯一のウィークポイントである城の南側も、長林砦に伏兵を置けば挟撃が可能だ。


干沢城 (34)
主郭。41×20の長方形。

干沢城 (41)
主郭の南東の尾根に張り出す形の腰郭。

干沢城 (43)
帯廓から見上げる主郭。


この城の要害たる所以は、コバンザメのような長林砦の存在であろう。
現在配水池となっているタンクの南側に位置する。


干沢城 (51)
二段の段郭を超えるといったんピークの郭がある。


この尾根は堀切㋔で背後を絶ち長林砦に向かっている。

干沢城 (53)
上巾20mの堀切㋔。

干沢城 (61)
長林砦の主郭。二段の郭で構成されている。

干沢城 (59)
背後の堀切㋖。往時はかなりの深さがあったのであろう。


現在、杖突峠に向かうのは城の東側を通る国道152号線だが、古道は城の西側山麓を通っていたという。

15世紀頃までに干沢城の東側には安国寺・東大町・西大町・小町屋などの集落が形成されていたが文明12年(1480)に悪党と呼ばれる集団の狼藉や放火、そして大雨による増水で集落は壊滅的な打撃を受け、その後諏訪の騒乱に巻き込まれ消失したという。

いわゆる「都市伝説」である(汗)

干沢城 (68)
攻城兵が集中する堀切㋐の西側斜面には横堀㋒を設置し狭間とすることでクロスの攻撃をしたのであろう。


諏訪一族が築いた城としては秀作である。
だが、武田軍にしてみれば「使えない城」であった。

高遠城を制圧してしてしまえば、あとは上原城付近に集約することで合理化を進めた訳である。


干沢城 (66)
竪堀と段郭、横堀を組み合わせた城域の西側。


≪干沢城≫ (ひざわじょう 樋沢城・安国寺城・霞城)

標高:849m 比高78m 
築城年代:不明
築城・居住者:干沢氏、上社大祝氏、武田氏
場所:茅野市安川安国寺
攻城日:2012年4月7日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間15分
見どころ:堀切、土塁、郭、長林砦など
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」(縄張図)「信州の古城~城と古戦場を歩く~」

干沢城 (74)
諏訪上社前宮から見た干沢城。








Posted on 2012/04/25 Wed. 22:38 [edit]

CM: 0
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top