らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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長久保宿 (中山道)  

◆真田信繁の息女「すへ」が嫁いだ石合家が本陣を務めた宿場町◆

【長久保宿の賑わい】

中山道の長久保宿は江戸末期には旅籠屋が四十三件もあって、信濃二十六宿の中では塩尻宿に次ぐ規模で賑わったという。
その要因としては、宿場の前後に笠取峠や和田峠の難所を控えていたこと。また、甲州や伊那への近道となる大門道、武石峠越えに松本から佐久へ通じる大内道、北国街道に通じる善光寺道・上田道に接する交通の要衝であったこと。そして、温泉場でもある下諏訪宿に宿泊した場合、日程的に便利であったことなどがあげられるという。

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往時の建物は僅かしか残らないが、宿場町の風情を感じさせてくれる。(町の東側より撮影)

中山道は、同じく江戸と京・大坂を結ぶ東海道より十里(約40km)ほど長く、しかも山道や峠が多く、人々や物の往来には困難が伴ったものの、東海道のように大きな河川がなく大水の際の川留(かわどめ)による逗留がほとんどなく予定通りの旅が出来たので、利用者は多かったと伝わる。

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かつては大勢の旅人や物流で賑わったであろう長久保宿(西側より撮影)

参勤交代の折に中山道を通って長久保宿を通過した大名は、尾張藩、紀伊藩の徳川家など三十四家で、これは東海道の四分の一ほどにあたる。また、大坂城番・日光例幣使(日光東照宮の大祭に朝廷から派遣される使者)などの公用者も片道は中山道を通った。

また、「川留の際に逗留して『滞る(とどこおる)』のを嫌った」、「『今切の渡し』(静岡県浜名湖)、『薩埵(さった)峠』(静岡県)などの地名が敬遠された」など諸説あるが、縁起を担いだためか姫宮のお輿入れはほとんど中山道を通って行われた。(なかでも皇女和宮の御下向行列は有名)
このことから中山道は別名「姫街道」とも呼ばれた。

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長久保宿歴史資料館の「一福処濱屋」(いっぷくどころはまや)。「出梁造り」と言われる二階部分が一階よりも突出した旅籠建物。

【長久保宿の問屋・石合氏について】

長久保の石合氏については、小生の下手な講釈よりも、真田氏研究の第一人者である平山優氏が彼の著書「真田信之 父の知略に勝った決断力」(2016年 PHP研究所)で触れているので、その一部を引用させていただく。(P227~P228)

有徳人(有力百姓)の登用 (第五章 苦難の連続だった信之の内政)

真田信之は、その支配領域を円滑に支配するために、中世以来、地域社会を担い、まとめてきていた有徳人を重用せざるをえなかった。彼らの個々に紹介することは、紙幅の関係もあってできないが、その代表的な事例として、上田・真田領の石合氏と小林氏をとりあげてみよう

小県郡長窪村には中山道が通っており、そこに長窪宿があった。その中心を担っていたのが石合氏である。その当主石合十蔵道定(いしあいじゅうぞうみちさだ)のもとには、真田信繁の息女すへが嫁いだことで知られる。ただし、石合氏の系譜関係については、未検討の課題が多い。

石合氏は、問屋役を請け負っていた。問屋は、商人、宗教者、旅人などの宿泊施設であるとともに、伝馬宿の中心として万事を差配する要職であり、また問屋に滞在する自他国の商人に、自らが管轄する市や宿(ナワバリ)などを、彼らに商いの場として提供することや、自らのナワバリで発生する商売上のトラブルや、事件・事故(荷物紛争、強盗被害、行き倒れ、病気など)の処理や解決にあたる、平和・秩序維持を担う中心的存在であった。これを実現できる実力を有していたからこそ、問屋として領主から任命されたのであり、その逆ではない。戦国期から織豊期にかけて、問屋を務めた者のほとんどが例外なく土豪、地侍としての相貌をも持ち、領主の下級家臣になっていたのは、同時に彼らが地域社会における武力の担い手であったからである。

石合氏も例外ではなく、石合一族は真田氏の下級家臣となった者も多く、石合道房は大坂城に籠城した真田信繁に合流すべく長窪を出奔し、後に戦死している(「石合系図」)。問屋として資料に登場するのは、石合新左衛門である。慶長十二年(1607)十一月、石合新左衛門は「郷中町といや共」の肩書を持っていたことが知られる。石合氏は長窪宿に数人いた問屋役の統括をしていたのであろう。(以下略)

真田信之の本
※この続きは是非、書店で「真田信之 父の知略に勝った決断力」(平山優著 PHP研究所 940円)をお買い求めください!(笑)

石合家

上の写真は、歴史資料館に展示してあった石合家の家系図である。細かい解説が無いのだが、上記の平山優氏の記述と照合すると、石合泉守道重の息子の道房は下級家臣として真田に仕え、大坂の陣で戦死。もう一人の息子の新左衛門道相は問屋となり、その息子がすえが嫁いだ十蔵道定である。道定の兄弟は道房の跡目を継いで真田家の家臣となったようだ。
つまり、石合家は真田の家臣と長久保の問屋に分かれたと見るべきであろう。

【石合家に残る真田信繁書状】

すえの嫁いだ長久保宿の問屋(本陣)の石合家には、信繁が娘婿の十蔵道定に宛てた一通の書状が残っている。

信繁書状
こんなときは古文書読めたらいいなあーなんて一瞬だけ思います・・・(笑)

凡人には何がなんだかわからないので、以下歴史館の資料で解読してもらいます。

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この書状が描かれた時の状況について、やはり歴史資料館の資料で解説してもらいましょう。

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先週の真田丸第47話あたりで、この手紙が書かれたのでしょうね。
信繁は当然の事ながら、敗軍の将の家族は皆殺しにされても文句など言えない戦国の習いをその目で見てきたはずです。
そして、この戦が終わった時に娘が離縁され石合家から追放されることは分かっていたと思います。
それでも敢えて娘の行く末を案じるこの手紙には、同じ子を持つ親として心が動かされます。


【大阪の陣後の真田領内の大坂方に味方した者への処断】

幕府は大坂の陣が終わると直ちに大阪方の落人の詮索を開始する。当然の事ながら真田領に対しても役人を派遣した。大坂の陣では、真田信之が弟の信繁と内通し領内の家来や牢人たちが大坂に向かうのを黙認していたとの嫌疑をかけられていたので、戦後信之は大坂に出奔し残された家族が牢人を匿っていないか厳しく詮議を行いこれを処断した。
特に堀田作兵衛は信之の家臣の身分のまま信繁の元へ出奔し信繁の家臣となり討死したためにその処分は特に厳しく、残された妻子と老母、舅は上田から京都に送られ処刑されたという。
堀田作兵衛を養父とする信繁の息女すへについては、婚儀が大坂の陣より前であり特に問題にならなかった。

おすへさん①
お願いですから、ゆるキャラにはならないでください・・・(笑)

【石合十蔵とすへ夫妻のその後】

ところが、大坂の陣が終わって24年後の寛永十六年(1639)、幕府の目付がすへが信繁の娘であることを知り、夫の石合十蔵とともに幕府の詮議に賭けられる事となった。この時石合十蔵は江戸に出向き、すへとの婚儀は大坂の陣の前であると自ら堂々と申し開きを行い事なきを得たという。また、堀田作兵衛の遺児(又兵衛)を養育している件についても問われたが、出産が大坂の陣の後でこちらも問題にはならなかった。

石合十蔵道定は、信繁からの書状に書いてあった願いを忠実に叶えてすへを守り通したのである。そしてすへの養父である堀田作兵衛のたった一人生き残った遺児をも守ったのである。まさにこれを漢気(おとこぎ)というのであろう。

その三年後の寛永十九年(1642)、すへは57歳(または56歳とも)の天寿を全うしあの世に旅立った。墓所は長和町の古町にある西連寺にある。

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西連寺。

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右から二番目の墓標がすへの墓と伝わる。法名は松屋寿貞大姉。(※墓標については武蔵の五遁様より情報をいただきました)

【もう一通残る信繁の手紙】

長久保の歴史資料館の2Fにはもう一通の九度山蟄居時代の信繁の手紙が展示されている。
せっかくなので、こちらもご披露したいと思います。

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例の如く文面を解読してもらいましょう。

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何を言っているのかよくわかりません・・(汗)  では、解説していただきましょうか・・(笑)

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パパ幸が亡くなり、貧しいながらも楽しい我が家時代(ホントはかなり窮乏している)のお手紙でした。

【その他の長久保宿の建物】

それほど往時の建物は残っていませんが、塩尻宿に次ぐ賑わいのあった長久保宿を散策してみると案外楽しいものです。
石合家の門からすへさんが出てきそうですネ。

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町指定の文化財の釜鳴屋(かまなりや)

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説明板も丁寧で分かり易い。

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字が読めない町民やお百姓さんには読んであげたのでしょうかねえ。

≪長久保宿≫ (ながくぼしゅく)

標高:682m
街道:中山道
場所:小県郡長和町長久保
訪問日:2016年11月9日
お勧め度:★★☆☆☆
見どころ:一福処濱屋(歴史資料館 入場無料)、本陣(石合家)、釜鳴屋(竹内家)、西連寺(古町)など
付近の名所:笠取峠の松並木、和田宿など
その他:真田丸大好きの方は必見
参考文献:「真田信之 父の知略に勝った決断力」(平山優著 2016年 PHP研究所)、長久保宿歴史資料館の解説文
SpecialThanks:武蔵の五遁様

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Posted on 2016/12/02 Fri. 17:39 [edit]

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贄川関所跡 (塩尻市贄川)  

◆関所における女改めの悲話◆

山城探訪に関連する「木曽編」は前号をもって一旦終了したが、もう少し木曽谷について述べてみようと思う。

今回紹介するのは、中山道六十九次の贄川宿(にえかわしゅく)の通行を見張った「贄川関所」。ここは尾張藩が口留番所として設置し、中山道の人と物の往来を監視した。前回掲載した福島関の補佐的な立場を担ったという。

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洗馬宿(せばしゅく)⇒本山宿(もとやましゅく)の次が「贄川宿」(「にえかわしゅく)である。

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ここは木曽考古館という名の資料館らしいが、当日は外観のみの観察で終了・・・(汗)。

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幔幕の家紋はどなたの家紋でしょうか・・・木曽編をご覧頂いた諸氏にはお分かりかと・・・(笑)

【贄川関所の歴史】

宿場の入り口に往時のままにある贄川関所は、江戸時代には南の妻籠宿の番屋とともに北の番所として木曽谷の重要な守りの拠点でもあった。原型は残っていなかったが、村誌の古関図や関所番所配置図などをもとに、現在地に復元されたと案内に書かれている。
江戸時代のお伊勢参りをはじめとする社寺参拝は、関東から往路東海道、復路は中仙道を使うのが一般的であったと言われている。江戸から下る街道が木曽路に入ると、第一宿が贄川宿になる。木曽路の北の押さえとして役目を担っていたのがこの関所なのである。

贄川宿 (3)
ある意味「福島関」より大きい建物である。

【女改め故の関所にまつわる悲劇】

母親が病気で、娘を母親に会わせるため男装させて国元へ連れ帰ろうとした男が、関所で見破られ断首された記録も掲示してあるという。業務に忠実であったが故の関守の悲劇で、娘の父親も浮かばれない惨劇となった・・・。

贄川関所の重要な役目は女改めの他に、貴重な木曽ひのきを使って作った曲げ物や漆器、それに木材の密移入など、当時の統制品目の監視・取り締まりもあった。聞きなれない言葉であるが、これを「白木改め」と云った。

贄川宿 (5)
木曽節をご存知の方も多かろうと・・・。

贄川宿 (6)
偶然通りがかり、贄川宿を通過した「特急しなの」を撮影。

現代では何気なく通過する道であっても、江戸時代には生死を賭けて関所破りを敢行し、命を危険にさらしても大事なまな娘を親に見せたかった親心が交差した場所である。
その娘であるが、無念の想いで獄死した親の分まで長生きして幸せになったと思いたい・・。

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美しいレリーフは中央西線の高架橋の名物である。

ちなみにここからは、日本最高峰の位置にある「楡沢山城」(にれさわやまじょう 別名:木曽殿隠れ城)(1754m)に通じる登山道があるという。
小生のお仲間で登山家の方は既に制覇したらしいが、信濃のラスボスの攻略は最後に残しておきたい。

ここに辿り着いてしまったら、小生の山城巡りの興味は尽きてしまう・・・。まだまだレベルアップしないとネ・・(笑)

≪贄川関所跡≫ (にえかわせきしょあと 贄川口留番所)

標高:874m
構築年代:江戸時代
構築者:尾張藩
場所:塩尻市贄川
訪問日:2015年5月24日 
お勧め度:★☆☆☆☆
見学所要時間:10分~ 駐車場:有り
見どころ:番所跡、木曽考古館。
注意事項:特になし。宿場町であったが、昭和5年の大火でほとんどの家が焼失してしまい僅かな面影だけが残る。
付近の名勝・史蹟:奈良井宿、鳥居峠など



Posted on 2016/10/03 Mon. 22:29 [edit]

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北国街道 上田~屋代編②  

◆芭蕉も更科紀行で訪れたという坂木宿◆

鼠宿を過ぎ、しばらく国道18号線を歩く。

13日の入盆という事もあり国道はかなりの渋滞である。(ってか墓に祖先迎えに行かなくていいのか?)

北国街道① (19)
国道から見た和合城。冬ならこの位置からも大堀切が見えるが、夏場は何が何だか・・・(笑)

途中から旧道に入り静寂を取り戻す。

滝のように流れる汗に、水分補給が追いつかない有り様である。

北国街道 鼠宿~中ノ条

道中で「玄古たばこ」の碑を発見する。

明治時代までは坂木宿特産のタバコのブランドだったという。

坊主がタバコの考案者?? 聖職者が罪作りを重ねたということか。

北国街道① (22)
煙草のお供え物も無いとは寂しい(笑)


しばらく旧道を歩くと西念寺というお寺がある。

「身にしみて 大根からし 秋の風」

貞享五年(1688)八月十五日に姨捨の名月を堪能した松尾芭蕉は十六、十七日と坂木宿の宮原邸に招待され、この地方の名産品である辛みの強い「なかんじょ大根」をおしぼりうどんで食してこの句が詠まれたという。

北国街道① (27)
西念寺前にある芭蕉の句碑。


翌日、芭蕉は善光寺に詣でて江戸への帰路についたというが、カルチャーショックだったであろう・・(笑)


西念寺を出ると近くに中之条陣屋稲荷社がある。


明治維新で陣屋が取り壊され稲荷社も解体される運命にあったが、地元の方々の懇願で残されたのだという。

廃仏毀釈、文明開化などと浮かれていた世の中にあって、地方の庶民は神仏のご加護を忘れなかったのである。

北国街道① (34)

街道を進むと「堂叡山道」(どうえいざんどう)なる分岐点の道標がある。

御嶽講信者の崇拝していた堂叡山(大道山 標高1298m)への登山道がここから始まるようだ。

古道の芝峠から縦走出来るらしいが、今回はパスした・・(汗)

北国街道① (37)

御所沢と呼ばれる地籍には、南北朝時代に南朝に味方した薩摩氏の館跡と北条城(推定)がある。薩摩氏の逃亡後に村上氏が居館を置き、後に満泉寺に屋敷を移したと云うが、確証は無い。

北国街道 坂木~横吹


北国街道① (42)
田町十王堂には村上義清公の墓所がある。


北信濃の豪族の盟主として最盛期には北は小布施町付近、東は佐久市野沢まで版図を広げた村上氏であったが、武田晴信の出現により、信濃統一の気構えも失せてしまったのかもしれない。

天文十七年(1548)二月に上田原合戦で武田軍を打ち破り、二年後にも砥石崩れで信玄を二度までも敗退に追い込むが、執拗な信玄の包囲網に根負けしてしまい天文二十二年に越後の上杉謙信を頼りこの地を去る。

北国街道① (42)
坂木宿のメインストリート。

北国街道① (48)
坂木宿ふるさと歴史館。旧本陣の建物を利用している。入館料100円は絶対お得だぜぇ~(笑)

北国街道① (49)
坂城神社へ通じる街道。古い宿場町の街並みを残している。

北国街道① (51)

汗だくになりながら街道を歩き、葛尾城を見て改めて思った事がある。武田と村上の違いは何か・・。

「組織力の差」

大塔合戦の頃から信濃の国人や豪族達は、共通の敵に対する利害関係で一致を見出すと「お国の為」という大義名分で力を合わせる。

普段はお互いの悪口ばかりで罵りあう烏合の衆の寄せ集めでも強いのである(笑)

対して武田軍は国内統一に際して直属軍を含めて部下には絶対的な服従を誓わせて臣下に組み込んでいる。

古文書にも武田軍の敗北には文献でも「国の嘆き・・・」とある。
武田軍=甲斐国なのだが、信濃では誰も国を背負っていない・・(爆)ナショナリズムの差は歴然としてる(笑)

小笠原長時に至っては肩書きだけで人を動かそうという暴挙に至っている・・・(汗)

そんな事を考えながら北国街道の最大の難所である横吹道まで歩いてみた。

北国街道① (53)
善光寺常夜燈。

まあ、言葉は悪いが信濃の国を背負うだけの気構えと野望を持った武将は現れなかったと云う事であろうか。

なんやかんやで、次回は横吹道~戸倉をご紹介しましょう。

≪北国街道 坂木宿~横吹道≫ 

標高:-
街道:北国街道
場所:埴科郡坂城町南条鼠~坂城町坂城
攻城日:2012年8月13日
所要時間:約40分
周辺の城跡:北条城、御所沢、葛尾城、姫城
見どころ:-

Posted on 2012/08/24 Fri. 23:28 [edit]

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北国街道 上田~屋代編①  

◆北国街道最大の難所だった下塩尻・鼠宿を歩いてみた◆

思うに田舎の人間ほど「歩く」という基本から遠ざかっていると思う。

たった500m先のコンビニに行くのでさえ車に乗って行くのである・・・(笑)

「これではイカン」

思いつきで北国街道を歩いて見る事にした。が、しかしこの猛暑である。行き倒れ覚悟である(っか おバカ!)

今回は周辺の城跡紹介も含めて「おバカ珍道中」を連載しよう。

北国街道 下塩尻~鼠宿周辺図

西上田駅から屋代までは約18kmの道のり。

国道18号線を渡り、旧北国街道の下塩尻の街並みを歩く。

北国街道① (2)
下塩尻には土蔵が一部残り、往時の名残を見る事が出来る。

険しい虚空蔵山の西側の支脈が千曲川へ断崖となって続く東側の山麓の集落が塩尻集落である。

江戸時代に北国街道が整備されるまで、現在の上田市と坂城町は完全に遮断されており、それ以前は千曲川対岸の室賀峠を越える古道だけがこの地域を繋ぐ通路であったという。

北国街道① (5)
元禄年間(1688)に創業し現在も続く蔵元の「沓掛酒造」


戦国時代に坂木(現在の坂城町)を本拠地として信濃に覇を唱えた村上氏は、隣接する上田盆地の支配の為に虚空蔵山から峰続きの太郎山、東太郎山の山系に夥しい砦群を巡らせている。

村上連珠砦群である。(和合城~砥石城まで15の砦群)

「攻城戦記」でもご紹介しているが、下塩尻地区だけでもそのうちの5箇所の砦がある。(ルート図参照)

物見城・和合城燕城(つばくろじょう)、ケムリノ城、高津屋城。


村上氏の本拠地に隣接する城郭群の中でも、特に和合城、物見城、ケムリの城は戦国末期まで改修され続けた見応え充分の砦であり、必見の価値がある。

おっと、街道案内でそう熱く語っても仕方ないか・・・(汗)

北国街道① (4)
国道18号線にある沓掛酒造の店舗。杉玉が酒屋さんの定番で、この蔵元を代表する日本酒は「福無量」です。


北国街道① (7)
民家の庭先には道祖神の双体地蔵がある(最近制作されたものだと思うが、立派である)

下塩尻から、和合城へ登城するルートも存在するが道が途中で消滅しているので避けたほうが無難だと思う。(小生はここから物見城へ攻め上がったが途中で岩場続きとなり閉口したが‥‥)

北国街道① (8)

さて、北国街道最大の難所といえば「碓氷峠」を思い浮かべる方も多いと思うが、実は「岩鼻」(いわばな)と呼ばれる下塩尻と鼠宿(ねずみしゅく)の間と、その先の「横吹峠」(よこふきとうげ)と呼ばれる場所だったのである。

特に「岩鼻越え」は、加賀藩の参勤交代でも最大の難所と云われていて、この場所を無事通過した事をその都度本国に早馬で知らせていたと云うから、その難易度の高さはお分かり頂けるかと思います。

北国街道① (9)
歩道から見上げた岩鼻の岸壁。


最近まではロッククライミングの名所だったようですが、危険すぎるのでご法度になったようです。

加賀百万石の前田さんもビビったのは頷けるような気がする・・・(笑)

北国街道① (10)
千曲川の河川敷が迫る坂城との境界線付近の国道18号線。往時は河川が氾濫すれば足止めされてしまったという。


難所を越えて鼠宿へ入る。(ただ歩いて通過しただけだが・・・汗)


北国街道① (11)
現在は往時の街並みこそ無いが、風情は残っている。


鼠宿(ねずみじゅく)は、松代藩が設営した私宿であり、幕府公認の宿場町としては上田宿と坂木宿の中間に位置した間宿(あいのじゅく)だったという。

もちろん、「ねずみ」とは「寝ず見」であると思われ、寝ずに通行を見張ったという語源から来ているのであろう。

松代藩と上田藩の境界だったこの宿は関所並みの監視体制が敷かれ、物流は勿論、通行人にも厳しい場所であったらしい。それでもかなりの賑わいがあったというから、旅人には好かれたのかも知れない。

北国街道① (13)


宿場跡の南には会地早雄神社(おおちはやおじんじゃ)があり、万葉の句碑や芭蕉の句碑がある。

北国街道① (15)
この橋を乗り越えると苦難も乗り越えられると云う・・・(嘘です  ってか凄い造りですw)

北国街道① (16)
盆踊りの飾り付けで賑やかだった神社の境内。


歩いてみなければ見えない風景がある。

往時の旅人が何を思いそして何処へ行くのかは知る由も無いが、山と川に囲まれた信州に見た風景はどうであったのだろうか。

次回は坂木宿を経由して戸倉までをご案内出来ればと思う。

≪北国街道 下塩尻~鼠宿≫ 

標高:-
街道:北国街道
場所:上田市下塩尻~埴科郡坂城町南条鼠
攻城日:2012年8月13日
所要時間:約20分
周辺の城跡:記事参照
見どころ:-








Posted on 2012/08/22 Wed. 21:26 [edit]

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麻績宿(善光寺西街道 東筑摩郡 麻績村)  

◆猿ヶ馬場峠の南山麓にある宿場町◆

麻績宿は慶長十九年(1614)に松本藩主小笠原秀政の伝馬定書により藩内の他の宿場とともに制定されたとある。

麻績宿 (20)
麻績宿南口の石碑。

古くからこの地方は信州における交通の要衝の地であり、松本方面からは伊深から刈谷原峠を越え会田へ入り立峠を越え青柳を経て麻績に至る道があり、麻績からは大岡口を越え大岡から信更方面、または猿ヶ馬場峠越えで川中島へ向かう道、東へは修那羅峠越えで小県へ向かうルートがある。

まさに信州のスクランブル交差点であったのだ。

麻績宿 (25)
麻績宿南より青柳宿のある南方面。(青柳城の麓が青柳宿である)


【木曾義仲伝承】

信州の何処でも義仲伝説は存在する。

治承四年(1180)以仁王から平家討伐の令旨が下り、その後木曾義仲は横田河原(篠ノ井)で越後の城四郎長茂との合戦に備えこの地に陣を構えたと伝えられている。
当時、麻績御厨は御院領だった。「信濃城主得替記」には「麻績左衛門佐正方は木曾義仲に攻められ落城」とあり、義仲初陣の地とも云われている。

法善寺から聖峠へ向かう途中に「木曾殿城跡(未調査)」があるという。

虚空蔵山城(麻績古城) (51)
法善寺。この寺の北の峰には麻績古城(虚空蔵山城)があり、北の聖峠に向かう途中には木曾殿城があるという。


麻績宿見取図
(国土地理院1:25000地図引用)


【宿場の規模と概要】

東西六町三十五間(約710m)で両脇を鍵の手に曲げ、用水は西沢川を分水して道の中央に通している。

問屋は当初一軒であったが、のちに上問屋と下問屋の二軒になる。

本陣は一軒のみで決まった場所ではなく交替で勤めたと云い、脇本陣の定めは無かった。

文政二年には旅籠屋は二十九軒あり、他に木賃宿もあったという。


麻績宿 (2)
交替で本陣となった臼井家。


麻績宿 (21)
現在の麻績宿の街並み。


麻績宿 (4)
「更科紀行」(松尾芭蕉)の記念碑も道路脇になるが、説明板は色褪せ錆びて読むのがやっとこだ(笑)


麻績宿 (18)
宿場東側の入口。


【入鉄砲と出女~番所の役割】

どこの宿場町にも番所があり物資の藩外流出と旅人の出入りを監視した。特に「入鉄砲と出女」と云われたように女の通行には厳しく、麻績村誌にも次のように記録がある。

「善光寺の参詣ノ女等ハ番人ノ入手形ヲ松本町奉行所ヘ指出シ麻績口ノ通リ手形ヲ取ル。帰リニハ右番人ノ入手形ニテ町奉行所裏判ヲ取リテ帰リ出ルナリ」

麻績宿 (14)
番所跡に残る碑。


【戦国乱世の舞台となった麻績周辺】

天文二十一年(1552)武田晴信(信玄)が信濃府中から侵攻し、隣接する青柳城の青柳氏を降す。この地方を支配していた麻績城の服部氏は上杉氏を頼り越後へ逃れた。

武田晴信は法善寺に高札を掲げ麻績の領有を宣言し、上杉vs武田の攻防戦が始まる。

麻績宿 (8)

天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると、上杉景勝の後ろ盾により服部氏は麻績領を回復する。
信濃府中では徳川氏の後ろ盾で旧領に入った小笠原貞慶が、上杉方の会田岩下氏を滅ぼし筑北地方を巡る小笠原vs上杉の戦いが始まる(天正壬午の乱)

怒涛の勢いで旧領を回復していく小笠原貞慶の前に、青柳氏と麻績服部氏はその軍門に降るのだが、それを知った上杉景勝は激怒し自ら軍勢を率いて猿ヶ馬場峠を越え、麻績城を攻め落とし服部清正を捉えて更埴の八幡で磔の刑とし服部氏は滅亡する。

麻績宿 (15)
服部清正が葬られたと云う供養塔のある海善寺。

力無き小豪族の無念の思いは、信濃各地で繰り返されたのでる。


麻績城跡 (17)
麻績城(麻績新城)より見た麻績集落。


≪麻績宿≫ (おみしゅく)

標高:622m
街道:北国西脇往還(善光寺街道)
場所:東筑摩郡麻績村
攻城日:2012年7月16日
お勧め度:★★★☆☆
周辺の城跡:麻績古城(虚空蔵山城)、麻績城(新城)、青柳城、高城
見どころ:本陣跡、番所跡、法善寺、海善寺など
その他:街並みは比較的良く残っています







Posted on 2012/08/04 Sat. 10:50 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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