らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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朝日山城 (藤枝市仮宿)  

◆古風な中世城郭にミスマッチな巨大空掘の融合◆

田中城の次が何で朝日山城になったのかは不明である。

恐らく近場の城を検索してヒットしたという単純な事だったと思う(笑)

「巨大な竪掘り」のキャッチコピーは「ゴジラ対モスラの逆襲」に通じるものがあるのだろう・・・(汗)

朝日山城(遠州) (2)


バイパス道路工事の影響で迂回に迂回を重ねてようやく城跡の駐車場に辿り着く。

「こんな古風な城跡見る人いるんかいな?」と思ったが、先客二組が下りて来た。

一組目は神社参りの老夫婦で、二組目は小生と同じような城跡探訪組みたいだった。

朝日山城(遠州) (5)
石段、嫌いじゃありませんが、どうせなら藪が好きです(笑)


朝日山城は、源氏の出自である岡部氏が南北朝の頃に築いたという。

その後岡部氏は今川氏の重臣となり、今川氏滅亡後は武田氏に仕え本家である岡部信元は高天神城の最後の城将として後詰め無き籠城戦を耐え、城から打って出て壮絶な討死を遂げ途絶えたと云う。

しかし岡部氏の庶流は徳川氏に仕え、幕末まで家名を存続したらしい。

朝日山城見取図①
神社の設置によりかなり改変されたらしいので、往時を偲んで縄張図を起こしてみた。


連梯式の郭で単純な縄張りだが、最大上巾20mある巨大な竪掘が尾根から裾野に落ちているのは見応えがある。

恐らく竪掘りは防御兼物資の運搬用として併用されたものであろう。現在の参道をそのまま大手道と見るのは無理があると思われる。

朝日山城(遠州) (8)

岡部氏は岡部郷を本拠としていたが、今川家の家臣時代には居館を空ける事が多かったらしく朝日山城も捨て置かれたようである。

朝日山城(遠州) (14)
尾根から見上げる南郭。見張り台としての機能だったと思われる。

朝日山城(遠州) (17)
秀逸の作である鳥瞰図。城館一体型で、出城として「潮城」が描かれている。

後で気がついたのだが、この辺の城の縄張りは尾根先の崖を利用して舟の形にするのが流行りだったのだろうか?

主郭を台地の先に設けて広く削平し、梯子状に郭を連結させて堀切を穿つ・・・。戦闘用というより居住空間を優先しているような作りで興味を引きますね。

朝日山城(遠州) (20)
石段の取り付けにより2,3,4の郭の区画は破壊されたと思われる。


朝日山城(遠州) (22)
神社の本殿辺りが二の郭らしい。

朝日山城(遠州) (23)
主郭跡。(郭1)広さ57×31という標柱の説明書きだが、周囲の回廊(犬走り)を含めているので注意すべし。


薄気味悪い主郭は周囲を低い土塁で囲まれ、切岸を介して一段下に回廊というべき犬走りを配置している。

朝日山城(遠州) (24)


朝日山城(遠州) (34)
石積みらしき跡があるが、後世の神社に関連した建物の石垣が崩れたものであろう。

朝日山城(遠州) (35)
朽ち果てた標柱と社。どこまでを遺構とみるのか疑問である。


山猿的思考で考えると潮山(標高204m)に砦を置かないと戦略的には意味の無い立地である。

早々に捨て置かれたのはその視野の狭い立地条件であることは明らかだと思う。

武田軍が平城である田中城を改修して拡張したのは、地形から見れば自然な成り行きであろう。


朝日山城(遠州) (42)
駐車場付近が大手と考えられ、郭や門があったと想定されている。


この地域における室町時代の城館一体型の遺構を良く遺す場所であり、後世に伝えて欲しい城址である。


≪朝日山城≫ (あさひやまじょう)

標高100.0m 比高:70m
築城年代:戦国時代
築城・居城者:岡部氏
場所:静岡県藤枝市仮宿
攻城日:2012年10月7日
お勧め度:★★☆☆☆
見どころ:大堀切、土塁など
その他:
参考文献:

朝日山城(遠州) (44)



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Posted on 2012/10/25 Thu. 22:14 [edit]

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田中城 (藤枝市田中)  

◆徳川の猛攻に耐えた駿河屈指の要塞◆

先週末は同盟軍のお力をお借りして、千見城と白馬の諸城を日没ギリギリまで攻めてきました。

戦国末期まで争奪と拡張を繰り返した千見城はそのうちアップするでしょうが、毎度の事ながら、日程は未定でございます。ご了承下さいませ。(笑)

さて、今回紹介するのはWEB上ではゲップが出るくらい掲載されている田中城。

目新しいものなどございませんが、らんまる流で書くとどうなるかと。えっ、期待していない?ご無体な‥(汗)

田中城縄張図
現状の標柱との位置確認で文言を追加してあります。


自称「依田信蕃」の隠れファンである小生、どうしても田中城が見たかった。

信玄・勝頼と二代に渡り武田家に仕えてきた信蕃さん、岩村城攻めの織田軍を野戦で蹴散らし、二俣城攻防戦では徳川を悩ませ続け、最後の田中城では甲州征伐の35,000の徳川軍に包囲されても抵抗を続け主家滅亡の事実を確認するまで開城しなかった。まさに「義の人」である。

田中城(駿河) (32)
徳川時代に総構えの外堀として改修された六間川。


15世紀に今川家の家臣一色左衛門尉信茂が居館を拡張し徳一色城(または戸九一色城)としたのが始まりとされ、その後元亀元年(1570)武田信玄が駿河侵攻で攻略し、馬場信房が修築。初代の城将として山県昌景が入城したという。

田中城(駿河) (36)
現在残る僅かな遺構は徳川時代のものであるが、武田の縄張りを踏襲したものと思われる。

田中城(駿河) (38)
もはや何の痕跡すら残らない藤枝口の三日月堀跡。

武田流の城の縄張りの特徴として丸馬出と三日月堀が挙げられるのはご存知の通りである。

田中城も六つの丸馬出&三日月堀を伴っていたという。
武田時代の丸馬出と三日月堀の遺構は徳川時代に改修され、挙句の果てに市街地化によりそれすらも消滅してしまい、現状では新宿二ノ門に僅かな遺構を残すのみである。

田中城(駿河) (64)
小学校脇に残る1/2の三日月堀跡。

武田流の特徴を残す城跡と云われる諏訪原城や小山城に残る三日月堀&丸馬出も近年の発掘調査では、占領後の徳川による改修だというのが定説となり、信州新町の牧ノ島城に残る三日月堀でさえ、松代藩による改修説が浮上しているという。

とすれば、武田流の築城方式を遺すのは長野県下伊那郡松川町の大島城だけ・・ということになるのか(汗)


田中城(駿河) (39)
旧大手平島口に残る堀跡と土塁。


その後、天正十年(1562)三月まで田中城は駿河における武田方の重要拠点として、歴戦の猛者を城代とし徳川・北条に備えた。徳川はその間のべ12回に渡り田中城を攻めるが落とせなかった。

最後の城将である依田信蕃が勝頼の命により入城したのは天正七年(1559)で、三枝虎吉と共に守備を固める。

田中城(駿河) (45)
現在は小学校となっている本郭跡地。

二俣城の経験を生かし、一年の籠城に耐えうる兵糧を運びこみ天正九年から四回に及ぶ徳川の攻撃を退けた。

恐らく籠城戦とゲリラ戦で彼に並ぶ武将はいないだろうと思われる・・・(笑)

田中城(駿河) (46)
小学校入口の手前には二ノ堀の入口がある。不用意な写真撮影は通報されるのでご用心(汗)


天正十年二月二十日、甲州征伐と同時進行で田中城を囲んだ徳川軍は大手門付近で戦闘を仕掛け、討ち取った守備兵の首級を80を城外に晒し恫喝するが、依田信蕃は動じない。

三月十日に天目山で勝頼父子が自刃して主家(武田家)が滅んだ事を使番を通して伝え開城勧告を行うも、信憑性に疑問があるとしてこれを拒否。

困った家康は既に降伏した穴山梅雪の書を信蕃に送りようやく開城させたという。
しかも依田信蕃は城の受け取りを大久保忠世のみ指名している。(二俣城開城の際も交渉役は大久保忠世だった)
※この開城における秘話は大久保忠教(忠世の弟)の「三河物語」に仔細が記されている。

田中城(駿河) (47)
一部現存する二ノ堀。

たかだか芦田五十騎であった依田信蕃は、武田信玄、織田信長、徳川家康という戦国時代の巨匠たちにその才を充分に評価されていたのである。

この時点における評価は真田昌幸を凌ぐものであったと認めざるを得ない。

その後、徳川家康の信濃の佐久平定における先鋒を果たすのだが、岩尾城の攻略途中で落命する。

武田時代はあれほど冷静沈着な武将であったのに、徳川時代は猪突猛進のおのぼりさんになってしまった(汗)
でもね、そこが魅了して止まないのよ(笑)小生と重なる気がする訳で・・・。

田中城(駿河) (59)
小学校正門にある田中城のミニチュア。

開城後の田中城はどうでもいい(笑)

家康がこの城で鯉の天婦羅食べて、それがもとで死んだって? どうでもいいや(爆)

この町を愛して、そしてこの城を愛する人々がいる限り、信蕃さんも「いい仕事したなあー」って事で!!

田中城(駿河) (12)
武田氏時代の田中城の鳥瞰図。(田中下屋敷にある資料引用)


≪田中城≫ (たなかじょう 徳一色城 戸九一色城)

標高14.0m 比高-
築城年代:戦国時代
築城・居城者:今川氏、武田氏、徳川氏
場所:静岡県藤枝市田中二丁目
攻城日:2012年10月7日
お勧め度:★★★☆☆
見どころ:堀、土塁、三日月堀など
その他:下屋敷のボランティアの皆さんの案内は是非聞いてみる事。
参考文献:「もうひとりの真田 依田信蕃」市川武治著 郷土出版社 「田中藩・長尾藩研究会資料 引用」

田中城(駿河) (4)
田中城下屋敷に現存する本丸櫓。




Posted on 2012/10/22 Mon. 20:57 [edit]

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