らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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顔戸館 (飯山市寿顔戸)  

◆尾崎氏分家の顔戸氏の居館跡◆

ここ2年ぐらいの間、飯山地方はとっても好きな街の第一位に君臨している。

そのうち老後には移住しているかもしれない・・(笑) 豊かな自然と何とも言えない素朴な土地柄。イイっすネ!

今回ご案内するのは、飯山の城館シリーズ第四弾の「顔戸館」(ごうどやかた)である。

柏尾館 (27)
柏尾館から見た対岸の顔戸館とその周辺。えいき様には「ジムニー愛」とか言われそうな写真である・・(笑)

【立地】

旧JR飯山線の信濃平駅から越後の平丸峠に向かう県道411号線の寿地区の顔戸集落の東端にあり、東西を小川に挟まれた台地にある。ここからは対岸の野沢温泉方面も良く見渡すことが出来る。北1kmには小境城、平丸峠に向かう北西1.5mの黒岩山には黒岩城があり、飯山と越後を結ぶ交通の要衝を押さえていたものと思われる。

顔戸館 (3)
居館跡の北側道路より撮影した「たてのうち」

顔戸館見取図①
城館の北側は耕地整理により堀の跡に道路が開通してしまい、居館の北側の土塁も破壊されてしまったのかもしれない・・。

【館主・館歴】

室町期に当地方を治めた尾崎氏の分家の顔戸氏(ごうどし)の館跡とされる。「長野県町村誌」の「顔戸氏城墟」の項に、「村の寅の方に在り。東西四十間(72m)、南北二十七間(49m)、東北に空堀(今は田となる)を回し、回字形を為す。永正年間(1504-20)、顔戸勘解由重胤、築きて麓に居る。重胤(しげたね)は尾崎氏の後裔にして奈良沢重直の二男なり。顔戸に別れきたりて顔戸氏と称す。永禄年間より、上杉輝虎に属し、外様十人衆に列る。老衰して病に死す。其子帯刀重敏、継ぎて景勝に勤仕し、慶長三年三月、陸奥国會津に移り、寛永年間(1624-43)朽ちて畑とし、今田となり其塁を存す」とある。

顔戸館 (4)
西側の一段下も郭跡だったようで、嘗ては水田だが現在は休耕地として藪化している。

顔戸館 (6)
館の中心部分は、現在は三枚の水田である。

顔戸館 (7)
館の東端の水田。

【館跡】

「たてのうち」と呼ばれる三枚の水田が館跡で、西、南、東は切岸になる。東側は堀といわれるが、西側にも堀形がある。大手は南で10m余の坂を登ったものと思われる。居館跡の背後には土塁があったと思われるが、今は道路になり分からない。
(「信濃の山城と館⑧」より宮坂武男氏の記述を引用)

顔戸館 (9)
居館の東側の堀跡。

顔戸館 (11)
堀跡(現在は水田)の東側は小川の流れる谷でなので、空堀ではなく水堀だったと思われる。

【小沼・湯滝バイパス関係遺跡発掘調査報告書の記載】

外様地区顔戸(こおど)集落北方の字「館ノ内」(たてのうち)にある館跡である。
図示したのは現在の耕地整理後の略測図であるが、文献5あるいは地元の人によれば、東北および西北に
堀があったと言われる。南西は谷状地であり南東は比高約7mの崖をなしている。堀の推定地内の面積は
現況から判断すると50m四方で2500㎡となる。

小沼湯滝バイパス関係遺跡調査資料① 001 - コピー
調査報告書に記載されている顔戸館の見取図。

顔戸館 (14)
城館跡の南側の「壁(切岸)」

顔戸館 (17)
館跡の南側も堀が巡っていたと推定される。

≪顔戸館≫ (ごうどやかた 館の内)

標高:342m 比高:18m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:飯山市寿顔戸
攻城日:2015年6月5日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:
駐車場:無し、路駐
見どころ:切岸、掘跡など
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)、「小沼・湯滝バイパス関係遺跡発掘調査報告書」(1988年 飯山市教育委員会)
注意事項:耕作地につき無断侵入禁止
付近の城跡:小境城、黒岩城、北条城、五束城など

顔戸館 (19)
居館跡の西側の堀跡。

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Posted on 2016/06/11 Sat. 22:51 [edit]

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柏尾館 (飯山市瑞穂柏尾)  

◆柏尾ノ備中守殿が住んだとされる居館跡◆

そろそろ「らんまる城館ぶらり旅」と改名したほうが良さそうである・・・(笑)

だって山城の縄張図と居館の縄張図でどっちが簡単?って聞かれたら、そりゃあそうでしょう。

今回ご案内するのは先日掲載した大倉崎館から北東約1kmの場所にある「柏尾館」(かしおやかた)。

柏尾館 (1)
南東隅より撮影した居館跡。

【立地】

千曲川の右岸の柏尾集落に位置し東の丘陵を越えると野沢温泉村である。南約3kmには犬飼館があり、修験者の霊場として賑わった小菅山の入口を抑える場所でもある。ここからは対岸の様子が一望できる。

柏尾館見取図①
ほぼ全周する形で土塁が残っているのは貴重だという。

【館主・館歴】

明徳三年(1392)、高梨朝高の史料に「柏尾郷」が高梨領とみえ、「柏尾南館」の館主は「柏尾備中守殿」という記述のあるところから、高梨一族の備中守と呼ばれる人物が居住していたことが考えられる。
越後の上杉氏と甲斐の武田氏との対立が激しくなる十六世紀の半ばになると、武田氏の勢力が当地を脅かすようになる。上杉方に協力してきた小菅一山の院坊(柏尾館の東南)などは武田方によって焼き払われた。上杉氏と親しかった高梨氏は、追い詰められて敗走した。
その後は、乱世を巧みに生き抜いた市河氏が高梨氏に替わって当地を領有し、慶長三年(1596)上杉景勝の会津移封により柏尾館は廃館になったと推定される。

柏尾館 (2)
残念ながら南側の土塁は消滅。大手口は南だったと推定されている。

柏尾館 (5)
居館東側の土塁(南東隅の土塁の上から撮影)

柏尾館 (7)
居館の内部は現在畑になっている。

【館跡】

柏尾館は南北約55m×東西約70mの方形単郭である。郭を囲む基底幅5~8m、高さ約2mの土塁が残る。かつては館の四方に築かれていたと思われるが、現状は北側と西・東側の一部に残るのみとなった。だが、これほどに土塁が残存している例は、飯山地方では他に見当たらない。郭の周囲、特に南側には約5m幅の堀跡が確認でき、立地形状等から察して水堀であったと推定される。
土塁、掘りなどの遺構を観察すると、規模こそ及ばないものの、中野の高梨居館跡を彷彿とさせる。

柏尾館 (18)
北東隅の土塁。高さは約2mある。

柏尾館 (32)
居館南側。水田に水が張られると、往時の姿が目に浮かぶようである。

柏尾館 (34)
大手口の南側より見た郭内部。

居館跡からは硯と須恵器片が出土していて、周辺には、馬繋(うまつなぎ)、的場(まとば)、馬放(うまはなし)、たてなどの地名があり、往時の歴史が伺える。

柏尾館 (24)
居館の西側の土塁と外堀跡。


≪柏尾館≫ (かしおやかた 柏尾南館)

標高:388m 比高:-
築城年代:不明
築城・居住者:高梨氏、市河氏
場所:飯山市瑞穂柏尾
攻城日:2015年6月5日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:
駐車場:無し、路駐
見どころ:土塁、掘跡など
参考文献:「定本 北信濃の城」(1996年 郷土出版社)、「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
注意事項:耕作地につき無断侵入禁止
付近の城跡:大倉崎館、今井館、神戸砦、犬飼館など ※東側に柏尾城という山城があるというが未確認

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南側より撮影した柏尾館全景。

Posted on 2016/06/08 Wed. 11:33 [edit]

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大倉崎館 (飯山市常盤上野)  

◆千曲川にのぞむ謎多き中世の居館跡◆

わざわざ中世の遺跡のど真ん中にバイパスを開通させる必要があったのだろうか?
南北どちらかに100mずらせば救えたはずなのに・・・・お役所仕事とはそういうものであると再認識せざるをえない。
最初に工事計画ありきで理由は「早期着工は住民の強い要望」。お役所のいつもの言いがかりで消えた埋蔵文化財は星の数。

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大倉崎館を真っ二つに分断して開通した国道117号線と常盤大橋。このバイパス工事で六ケ所の古代・中世の遺跡が消滅した。

さて、今回ご案内するのは南北に分断されてしまった大倉崎館。
「また中世の城館かい!」(笑)・・・と叱られそうだが、真面目に発掘調査報告書を読むと結構凄い居館だったのだ。

「定本 北信濃の城」(1996年 郷土出版社)を初めて読んだ時に、1枚の居館跡の発掘現場の写真が脳裏に焼き付いたのである。
それが大倉崎館であったのだが、例の如く「平地の居館ならいつでも行けるからいいや・・」で見過ごしていたのである・・(笑)

定本 北信濃の城 (14)
※「定本 北信濃の城 大倉崎館 」P35の掲載写真を引用しています。

一瞬だけこの写真を見ればどこかの工事現場のように見えるのだが、大倉崎館の発掘作業で現れた往時の巨大な外堀である。 上巾は10mで箱堀の堀底は2.5m。北側の土塁の上部までの高さは5m、おばちゃんの歩いている西側の縁までは2.5m。平地の居館でこれほどの鋭い空堀はあまり例がない。

大倉崎館発掘調査報告書写真①
外堀の堀底から、おっちゃんが居館のある内郭に登ろうとしても絶望を感じる土塁側の壁。防御レベルはかなり高い。


【立地】

千曲川左岸の上野の城崖(じょがけ)と呼ばれる所で、国道117号線の常盤大橋のたもとにある。居館跡は上野集落に位置するのに、史跡名に南隣の大倉崎の集落名がついた事は上野集落の人々は許せなかったらしい。

もっとも地名の古さでは「大倉崎」が先で、上野の地名は江戸時代に開墾された「上野新田」がルーツと云われてきたが、室町年間の市河文書に「上野」の地名があった事が確認されているので地元では「上野城館」として宣伝しているがイマイチ効果は無い。
相変わらず通説の名前の「大倉崎館」がしっくり定着しているらしい・・・・(笑)

大倉崎館見取図①
バイパス工事は遺跡のど真ん中を通す方法しか無かったというが、それが嘘八百であることは周知の事実である。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では「村の寅の方字北村と称する所に在り。東西十間余、南北四十五間、東辺は千曲川に面し南西北三方に空堀を回し、南高く、北低くして長し。濠の西辺に橋詰の塁を存す。其城主年代不詳。世俗の説に外様十人衆の頃、武田方に属して
追払われしと云い伝う。然れば甲陽軍鑑に尾崎館名所切るとあり。是等の人々の居住せし地なるか、是非をしらず」とある。

「村史 ときわ」などには、戦国時代末期の竹内源内の居城との伝承があるとされるが、発掘調査の結果では戦国時代初頭には既に戦禍による火災で廃館になっていたらしい。

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バイパス北側に現存する外堀跡。発掘調査報告書によれば、廃館の際に堀も2m近く土砂で埋められた痕跡があるという。

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L字に屈折する外堀。現在残る遺構の地表観察では薬研堀だが、発掘調査では埋土を取り除くと箱堀だったという。


【館跡】

発掘調査報告書によれば、館跡は14世紀から15世紀にかけて使われた回字形の中世城館跡だという。東側は千曲川の浸食により削られているので、往時の大きさは千曲川の浸食速度がどの程度のものだったのか考慮しないとハッキリした事は言えないらしい。
バイパス工事に伴い緊急に発掘調査された内郭には中央に内堀が一条あり、その北側に建物址を示す柱状の穴が確認されている。また内郭からは中国製の陶磁器、国産の香炉、花瓶、備前焼、珠洲焼の大甕、茶臼、中国銭、硯などが発見され、更には短刀、鎧の小札なども見つかっていることから、高度な文化要素を持ったかなり勢力を持った武人の館であった事が想定されるという。

大倉館測量図①
飯山市教育委員会「小沼・湯滝バイパス調査報告書Ⅰ」のP170の測量図より引用し加筆。

これだけの遺構を持つ中世城館の中心部分が、県と国のごり押しで呆気なく消え去ったのは返す返す残念でならない。

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公園化された内郭の北側の東屋。朽ち果てて危険な状態なので早急に補修が望まれる。

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千曲川の浸食によって内郭がどのくらい消失したのか気になるところではある。

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北側のコの字の外堀と千曲川との連結部分。

個人的な意見で恐縮なのだが、現地を踏査し上記の写真を見ても分かる通り外堀はここから千曲川を意識している。
つまり、千曲川が大きく蛇行する場所ではないので浸食による居館敷地面積の流失はそれほどでもなかったと考えるべきだと思われる。

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北側より撮影した外堀。

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公園化された居館跡の北側を西側から見上げる。周囲の雑木林を伐木して再整備が進む。


●居館南側

居館中央部分の発掘調査では内堀(上巾6m)が確認され、内堀から北側部分で数多くの遺物が発掘されているが、南側からはほとんど何も出ていないので居住空間は北側が中心だったようである。

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北側から見た南側の郭跡

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南側の郭内部

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土塁で囲まれているのが分かる

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千曲川に向かう外堀。廃館に伴い埋めようとしたらしいが簡単に埋められる規模ではない。

●所感

この記事を作成するにあたぅっては、平成元年3月に発行された「小沼・湯滝バイパス関係遺跡発掘調査書」(飯山市教育委員会)を読ませていただき参考にした。

この居館が何故千曲川に面しているのか、という疑問は未だ解決されていない。この場所は古くから千曲川の渡し場であり、その後も鉄道が開通するまでは、越後からの物資を船で輸送する拠点であったという。高梨氏が水内郡や高井郡に勢力を拡大した時に渡し場の監視砦として築かれたという説もあるが、この規模は単なる砦の類いではなく中央政権とパイプを持っていたであろう巨大な豪族の城館だった事が発掘調査から証明された。

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現地の説明板には居館は「上野の城崖」と呼ばれ、通船に関する記載もみられた。

残念ながら、この館の主は不明だ。付近にある他の居館跡に比べるとその面積はやや小さいが、外堀の防御性はピカイチで、万が一の脱出には船が使われたであろうことは想像に難くない。

この居館が廃絶される直前、この地方は市河氏、高梨氏、村上氏、小笠原氏が熾烈な所領拡大争いを展開していた時期である。その抗争に巻き込まれて戦火に遭い自落したのか、敵方により廃館処分されたのかは判らない。
すくなくともその後の甲越紛争の頃には使われずに朽ち果てて今日に至ったようである。

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水運を利用した都との交流があったのであろうか。

「飯山地方は興味が尽きない・・・」このことである。こんな記事を書いていると、飯山方面に出掛けたくなって仕方がない・・(笑)


≪大倉崎館≫ (おおくらざきやかた 上野城館 上野城崖)

標高:324.5m 比高:20m(千曲川より)
築城年代:14世紀頃
築城・居住者:不明
場所:飯山市常盤上野
攻城日:2015年4月2日
お勧め度:★★★☆☆ 
所要時間:-
駐車場:入口にあり
見どころ:土塁、掘跡など
参考文献:「小沼・湯滝バイパス関係遺跡発掘調査書」(1988年 飯山市教育委員会)、「定本 北信濃の城」(1996年 郷土出版社)など
注意事項:特になし
付近の城跡:柏尾城館、今井館、神戸砦、犬飼館など

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対岸からみた大倉崎館。謎多き居館跡である。


Posted on 2016/06/04 Sat. 08:05 [edit]

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静間館 (飯山市静間)  

◆小豪族が交代で移り住んだであろう居館跡◆

山城のオフシーズンとなれば運動不足と不摂生により体が鈍ってしまい、ここ数日ヘルニアの症状に悩まされている・・(汗)

ワンダーコア2でも購入して腹筋・背筋を鍛えるとしようか・・・(笑)

今回ご案内するのは、飯山市の静間館(しずまやかた 静間神社館とも)。居館の縄張りは簡単でいいやという横着者の発想。

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静間神社のある場所が居館跡として伝わる。

【立地】

飯山市街地の南口で、斑尾山(まだらおさん)を源流とする清川が渓谷を刻み、扇状地の出口に当たる開けた場所に位置する。清川渓谷は越後の頚城地方に通じる古道が通じていて、居館のある場所は交通の要衝にあたる。

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居館跡に鎮座する静間神社。安土桃山時代に勧進されたと伝わる。

【城主・城歴】

静間神社の境内は静間小太郎館跡と伝承されているが、静間小太郎の資料は現存していない。ただし、関連の静妻(志津摩・志妻・志津間・閑妻)氏については「保元物語」や「平家物語」などの軍記物語に散見し、平安末期の静妻氏の存在は明らかであろう。保元の乱を記す「保元物語」では平清盛と同様、後白河天皇方としての源義朝の配下に志津摩太郎、同小次郎(各写本により字は異なる)などが見える。
また、「平家物語」には越後の平家党の城氏の配下に閑妻六郎が見えるが、善光寺平の横田川原合戦で城氏が源氏の木曽義仲に敗退し、静妻氏も衰退したと推察される。

静間館見取図①
居館跡は神社の勧進や耕作による改変があるものの、中世の居館を彷彿とさせる。

清川の対岸のやや下るところには北畑館があり、伝承では小倉四郎大夫の館とあるが、静妻氏との関連については明らかでない。これらの館跡は支配下の集落や水田地帯を一望する高台にあり、静妻氏以降も若槻新庄静妻郷の地頭やその代官が居住することがあったであろうし、甲越合戦時代には飯山城の防衛線としてこれらの館跡が利用された可能性もある。

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南側も土塁が周回していたようだが破壊され一部が残っているのみである。

したがって、厳密には現在の静間神社境内が平安末期の館の遺構を残しているとは断定できないが、神社敷地には土塁が残存し、以前は館跡の西・南・東に廻っており、その外側に空堀の跡も散見した。館東側の郷倉の西では箱堀状の空堀が発掘調査されている。
(※以上現地説明版より引用)

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南に残存する土塁の拡大。

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居館跡の南側と東側の外枠は耕作地になる前は空堀跡とも帯郭跡ともいわれるがハッキリしない。

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この場所は甲越紛争時には最前線であったので、利用されたかもしれない。

【館跡】

飯山市誌には静間館について以下の記載があるので引用しておく。

館跡は堀敷を除いて50m×45mの方形で、かつては西側から南側にかけて郭内部からの高さ1.5m~2.3mの土塁があった。しかし残念にも一部を残して破壊されてしまった。土塁の西側も空堀の痕跡を残していたこともあり、館の北東隅の道路の崖にも空堀の断面が確認されているので、土塁の外側をコの字形に取り巻いていたものと推定さる。
なお、館の外側にある幅10mの平坦部は空堀跡が耕地化したものと考えられるが、これを腰郭(帯郭)とする意見もある。
館は小規模だが、方形台状に地形を整えた本格的な造りであり、有力な豪族の館に間違いない。(以下は略す)

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社殿の奥には土塁跡が残る。

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土塁の拡大。

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神社の西側に居館としての痕跡が残る。

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北西隅の土塁痕

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居館の北側。用水路があるので、元々水堀だったかもしれない。

付近には、宝田、門田、中町、裏町、きょうの町、雲井、土常分(道場分)、法花(華)寺、観音寺などの城下町の地名が残っている。

≪静間館≫ (しずまやかた 静間神社館)

標高:350m 比高:7m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:飯山市静間
攻城日:2015年4月2日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:-
駐車場:無し(路駐)
見どころ:土塁、掘跡、帯郭など
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版)、飯山市誌など
注意事項:特になし
付近の城跡:北畑館、田草城、小田草城、蓮城、とんば城など

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静間居館うより越後への間道のあった清川渓谷を臨む。

Posted on 2016/05/31 Tue. 21:53 [edit]

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小境城 (飯山市豊田)  

◆その規模に不釣り合いな長大な竪堀と、五連続の鋭い堀切で守られた城館一体型の要塞◆

そういう見出しを付けると、「今さら葬り去られた城館一体型の山城の定義を持ち出すか??」と笑う方もおられるであろう。
「平時は麓の居館で政務を執り、戦時は背後の山城に詰めて籠城」・・一時期スタンダードとなった説だが、近年否定される事が多い。

確かに全国的には例が少ないとしても、信濃ではセットで考えないとつじつまが合わない。あのような険しい山の上に居住空間や生活空間を持つのは無理な話で、「お山の大将」は猿だけで充分であろう・・(笑)

今回ご案内するのは、合理的な城館一体型の山城を体現した小境城。実態は恐ろしき要塞であった・・・。

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「長野県町村誌」に掲載されている小境城の略図。特徴を集約していてなかなかの秀作である。


【立地】

戸狩スキー場の中に位置する北条城の西側に位置していて、似たような山が続くので中々見つけにくい山城である。県道411号線の平丸峠の東側を押さえており、登り口は弥勒寺から左手の沢筋を登る。途中、権現清水(ごんげんしみず)と呼ばれる湧水の水場を通過すると右手に巨大な竪堀㋙が出現する。ここから東側が城域となる。

小境城 (8)
権現清水と呼ばれる城の水の手。祠の脇から豊富な湧水が流れ出ている。

小境城 (11)
権現清水。奥まった西の沢筋にも川が流れており、水の手の確保には問題なかったようである。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」には「小境城址」として以下の記述がある。

「村の中央より西方鷹落山の支峯、今は草山なり。上る高凡九十間、麓は東南西に耕地を囲みし、頂上に二段の平地あり、各東西廿間、南北は共に廿六間、北隅に一塚を遺す。後ろに五重の堀切あり、其一、其四、最深し。西下に二重の空堀を穿ち、無比の要害を構えしものならん。又御屋敷と称して、東下に一反歩餘の平地西隅に出水あり。城主西堀刑部少輔重次(尾崎重廣の二男なり)築城して之に居る。其年代不詳。其後、天正年間上杉氏に属し、外様衆十人に列り、慶長三年戌戊三月、上杉景勝に従ひ、陸奥国會津に移り、跡荒廃して草山となる。」


小境城見取図①
防御の指向性は西斜面が主体で、主郭背後に回り込まれるのを嫌い異様な五連の堀切になった仕様が見て取れる。

【城跡】

「屋敷」と言われる東尾根の郭3・郭4・郭5を割愛して考えた場合、郭1と郭2の曲輪の大きさに対して、五連の堀切と連結する竪堀が異様な大きさと長さである事が縄張図からも確認出来るであろう。

●西斜面の竪堀とその周辺

小境城 (15)
権現清水の上に現れる長大な竪堀㋙。

小境城 (16)
ていぴす殿の横の竪堀㋚。(ピンボケ写真ご容赦!)

小境城 (19)
堀切㋙は全長200mぐらいあるが、途中から藪が酷くなり全部を辿るのは不可能となる。


小境城 (22)
竪堀㋙⇒竪堀㋔への堀底探訪を諦めた我々は、耕作を放棄され藪化し荒れ果てた斜面をトラバースして郭2に突撃する。

●郭2・郭1

小境城 (28)
郭2の一段下の帯郭。

小境城 (29)
郭2からの展望。残念ながら、ここから上の主郭からは藪が酷くて景色がロクに見えない。

小境城 (34)
郭2.(20×37)

小境城 (35)
郭2から見上げた郭1と切岸。

郭の大きさに対する堀切の数や長さのアンバランスな加減は、どうやらこの地域のドクトリンのようで、その縄張の指向性は、山口小城に驚きの類似性を見出すことが出来る。

山口小城も、主郭と副郭の小さな郭ニ個に対して四連の恐ろしく深く長大な横堀を背後に穿っている。

築城時期の前後はあるとしても、山口小城と小境城は、全く同じ意図を持った設計者によって縄張がされたと見ても良いのではないだろうか。

小境城 (41)
主郭(16×16)

小境城 (43)
主郭の背後の「塚」。郭の背後を高くすることで直接覗かれる事を阻止している。

小境城 (40)
郭1の東側の土塁。全周せず片側のみだ。

●五連装の堀切群

小境城 (51)
一条目の堀切㋔

小境城 (56)
堀切㋔の堀底から郭1を見上げる。まさに「壁(へき)」だ。

小境城 (53)
西斜面に竪堀となる㋔。藪が酷く辿る事は不可能だ。西の長大な竪堀㋙に連結するようだが確認は無理だろう。

小境城 (59)
堀切㋕との連結部分。落差が大きくもはや「山」に近い(笑)

小境城 (62)
二条目の堀切㋕

小境城 (64)
堀切㋕と堀切㋖の連結部は堡塁になっている。

小境城 (65)
堀切㋖の壁を登り堀切㋗へ向かう「ていぴす殿」。巨大な堀切の連続に辟易するし乗り越えるだけで大変な体力を消耗する。

小境城 (67)
三条目の堀切㋖の堀底。

藪を掻き分けて三条の巨大堀切を乗り越えた我々は、その光景に目を疑った。堀切㋗は上巾22mの巨大な空間である。
箱堀とも違うようで、さながら兵隊の駐屯地のようだ。天水溜のような窪みもある。

小境城 (77)
堀切㋗の堀底。

小境城 (95)
かなり広い。堀というレベルではない。独立した一つの郭のようだ。

小境城 (76)
ここからも西斜面に対して長大な竪堀を形成しているが、藪に阻まれて確認することが出来ない。

小境城 (73)
これだけの土木作業量が可能だったのだろうか。謎である。

四条も見ればお腹一杯なのだが、最後の堀切㋘に向かった。藪漕ぎは体力を消耗する。

小境城 (86)
五条目の堀切㋘。最終防衛ラインで西斜面を下り竪堀㋔と合流するらしいが確認出来ず。

小境城 (90)
堀底をひたすら進めば堀切㋔と合流するらしい。我々には藪に突撃する体力はもはや無かったのである・・・(汗)

小境城見取図①
戻るのが大変になってきたので再度縄張図を掲載しておきましょう。

●御屋敷と呼ばれる郭3・郭4・郭5

さて、五連装の堀切群、その大きさと藪の凄さで戻るのも大変だった・・・(汗)

そして我々は最後の体力を振り絞って、南東の尾根先にある「御屋敷」(郭2との比高差約100m)に挑むのであった。

小境城 (80)
五連の堀切付近から見た「御屋敷」。結構下るの大変そう・・・(笑)

小境城 (98)
郭2に接続する堀切㋓の壁。

小境城 (103)
こんな角度を下る途中の南東尾根を見上げる。葉っぱの無い藪はビシビシと顔・体を打ち付けるので「百叩きの刑」より酷い・・・・。

御屋敷と呼ばれる郭3とその周辺の郭から郭1・郭2への通路は南東尾根だろうか。こんな急斜面を登るには縄が必要だと思う。

小境城 (109)
郭3と北東尾根の接続部分。堀切㋒は明確な堀形にはなっていないが埋まったのであろう。

小境城 (113)
郭3。小境城の郭の中では一番面積が大きく削平もキッチリされている。

小境城 (114)
郭3と郭4の接続部分は土塁付きの堀切により虎口が開けられている。(写真は南端の土塁)

小境城 (119)
土塁との間の虎口。

郭3は丁寧に削平されていて小屋掛けするにも充分な広さがあった。平時における居館があったか?というと、弥勒寺からは比高100mもあるので戦時における居館および倉庫建物というのが想定される。

小境城 (120)
郭5は一段高い位置にあるので矢倉か物見櫓が立てられていたのかもしれない。

小境城 (130)
尾根先の堀切㋐の断面図。藪が酷くて断面しか撮影出来なかった・・・。


北信濃の山城は、広い信州の中でもとりわけ「鋭い城」が多く我々を魅了してやまない。それはやはり信玄VS謙信の「仁義なき戦い」である甲越紛争により北信濃が戦乱に巻き込まれ、極度の緊張状態が続き双方が最高の土木技術を駆使して最新の軍事要塞を築いた為であることは今さら言うまでもないだろう。

しかし、よく考えてみれば冬季間は豪雪地帯なので全く機能しない山城である。それなのに雪解けになれば、せっせと改修を続けながら睨めっこをしているのである。意地の張り合いもそこまで徹底するとある意味凄いですよネ(笑)


≪小境城≫ (こざかいじょう 城山)

標高:595m 比高:205m(弥勒寺より)
築城年代:不明
築城者・城主:不明
場所:飯山市豊田
訪問日:2015年12月13日
お勧め度:★★★★★ (満点) 
所要時間:30分(弥勒寺~権現清水~主郭まで)
駐車場:弥勒寺の駐車場借用
見どころ:斜面を下る長大な竪堀、五連装の巨大な堀切と集合堀、御屋敷と呼ばれる郭群など
周辺の城跡:北条城、黒岩城、中小屋城、中条城・累城、山口城など
注意事項:晩秋から春先が最も良い。藪漕ぎで体力を消耗するので注意。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)、「定本 北信濃の城」(1998年 郷土出版社)、「長野県町村誌 北信編」
Special Thanks:ていぴす殿

小境城 (134)
県道409号線から見た小境城遠景。

Posted on 2016/05/08 Sun. 16:51 [edit]

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