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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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小佐原城 (飯山市小佐原)  

◆在地土豪の居館跡か◆

先日、さして広くもない庭木の手入れを本気(と書いてマジと読む・・・笑)で一日中取り組んでいたら、全身筋肉痛である・・(汗)

だからといって、ブログを更新しない言い訳には該当しないであろう。

今回ご案内するのは、飯山地区の屈指の名城山口城の入口に築かれた小さな館城の小佐原城である。

小佐原城(飯山市) (3)
入口の農事法人やなぎはらライスセンターから見た城跡

【立地】

毛無山(1022m)の中腹あたりを水源として流れる皿川の左岸で小佐原集落の西側の丘陵に位置する。皿川の段丘を利用した要害の地ではあるが北側はなだらかな丘陵で、初期の館城にみられる立地と考えられる。

小佐原城見取図①


【城主・城歴】

「長野県町村誌」に「当町子の方字小佐原にあり。東西五十八間(104m)、南北一町十二間(130m)、方形にして遺濠いささか古形を存するのみ。天文中(1532-1554)岩井直信の次男、小佐原源蔵信次の築くところなり。後慶長三年上杉景勝に随従し会津に移り其の後、城郭廃壊す。後ろ平坦の分は開墾畑地となる」とある。

小佐原城(飯山市) (5)
主郭東側の堀形と土塁跡。

小佐原城(飯山市) (9)
35×16の主郭内部。

【城跡】

皿川の南端に突き出す35×16の楕円形の場所が恐らく本郭であろう。が、長野県町村誌に記載された104m×130mの方形居館ではない。耕作地化により畑地に変わったとしてもかなり無理がある。この場所だけ手つかずに雑木林と共に今日まで残されたのは、それなりの理由があるのであろう。
郭の北側には傾斜地を遮断する回字形の堀があったと推定されるが、どうであろうか。

小佐原城(飯山市) (14)
主郭の南側の土塁。

小佐原城(飯山市) (18)
主来るwの西側の堀形。往時は皿川と連結していたと推定される。


≪小佐原城≫ (こさはらじょう)

標高:351m 比高:15m(皿川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:飯山市小佐原
攻城日:2016年6月5日
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:-
駐車場:ライスセンター借用
見どころ:土塁、堀形
注意事項:周囲の耕作地には入らない事
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編 宮坂武男著」
付近の城址:山口城、中条城・累城など

小佐原城(飯山市) (4)
ここからは山口城、中条城、小境城などが良く見える。



小佐原城(飯山市) (21)
西側から見た小佐原城遠景。

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Posted on 2020/06/14 Sun. 19:47 [edit]

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鼻見城 (上水内郡飯綱町三水)  

◆眺望に優れる芋川氏の山城◆

「緊急事態宣言」という曲を「関白宣言」でお馴染みのさだまさし氏に依頼するという話があったが、本当だったのだろうか?

それよりも、ACジャパンの「にゃんぱく宣言」がデモテープをそのまま採用して正式なレコーディングをしていないというエピソードを、さださん本人がラジオで話をしていたのを聴いてビックリした・・・(笑)

今回ご案内するのは、のちに上杉家の代々の江戸家老にまで昇りつめた北信濃の国人芋川氏の山城「鼻見城」である。

IMG_1653.jpg
東側の麓から遊歩道があるようだが、北側の道路から城跡の手前まで林道で入れるようだ。途中案内看板がある。

【立地】

上水内郡の旧三水村(現在は飯綱町)芋川地区の後背の鼻見城山(723m)のピークにある。野尻湖の南南東約3kmで、斑尾川に沿った平地が開けて古くから肥沃の地であったようだ。芋川は野尻と飯山を結ぶ最短コースの交通の要衝にあり、甲越紛争の際には武田も上杉もこの場所を重要視している。
山麓には芋川氏の居館があり、北北東2kmには芋川氏の本城である若宮城がある。

IMG_1646.jpg
郭3(現地説明板では郭2)には復元された井戸がある。主郭は公園化による改変で切岸の一部が変形してしまったようである。

鼻見城見取図①
東西に細長い山頂を堀切で分割し両脇を削平しただけの簡素な縄張である。

【城主・城歴】

芋川氏の初期の要害城として築かれたものであろうと推定されている。北信濃の豪族(国人)である芋川氏の経歴については、その後掲載を予定している「芋川氏館」で詳細を述べたいと思うが、芋川氏が一躍有名となった事件は、武田征伐後に信長の命により川中島四郡の領主となった森長可に上杉景勝の後ろ盾を得て反乱を企てた「芋川の乱」であろう。
※詳しくは過去記事を参照願います。

IMG_1616.jpg
主郭の説明板と秋葉社

IMG_1620.jpg
公園化による整備で東屋が建てられている。

【城跡】

城址に立つ説明板には、主郭とその北側の復元井戸が建つ郭の二つで構成されているように描かれているが、見取図で示す通り、頂部の尾根を堀切で分割し、頂部を主郭とし、西側を郭2(副郭)とみているが削平が不完全なために地山とされている。

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主郭と郭2の間の堀切。堀切というよりは単純に郭を区画するためのもので、竪堀にもなっていない。

IMG_1623.jpg
堀切南側の郭4。

IMG_1626.jpg
郭2。人工的な削平があまりみられないので、地山と言われても仕方ないか・・・。

驚いた事に、郭3には井戸が復元されている。宮坂武男氏が指摘するように、このような標高の高い場所の山城に掘抜き井戸は考えにくく、雨水を溜めるいわゆる「天水溜」の穴だったと思われる。
また、北側斜面は比較的傾斜も緩いので、馬による荷駄の運搬も行われていただろうと推測されている。

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お気持ちは分かりますが、この程度の山城にこのような立派な井戸は不要かと・・・(汗)

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郭3から見た郭1との切岸。古いタイプながらもしっかり削ってます(笑)

地元の教育委員会では、鼻見城は芋川氏の本城である若宮城を補完する副城であろうとの見解が述べられていました。
なるほど、城址からのロケーションは素晴らしい。善光寺平から野尻口方面を監視するにはうってつけの場所だということがこの場所に立つと分かります。

IMG_1650.jpg
最終的に芋川氏は表面的には武田信玄に降るが、その立地条件ゆえに上杉謙信にも通じていたのであろう。

≪鼻見城≫ (はなみじょう)

標高:722.7m 比高:185m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上水内郡飯綱町三水芋川
攻城日:2017年5月28日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:C(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:北側の林道駐車場所より10分
駐車場:林道のどん詰まりに2台ぐらい可
見どころ:堀切、切岸、井戸跡、眺望
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」、芋川氏館発掘調査報告書(三水村教育委員きあ)
付近の城址:芋川氏館、若宮城、矢筒城など


Ⓢは城跡に通じる林道への分岐点。軽自動車なら何とか通行できる。Ⓖは駐車場。オフロードならその先まで行ける。


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飯綱町庁舎付近から見た鼻見城。

Posted on 2020/05/20 Wed. 20:13 [edit]

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顔戸館 (飯山市寿顔戸)  

◆尾崎氏分家の顔戸氏の居館跡◆

ここ2年ぐらいの間、飯山地方はとっても好きな街の第一位に君臨している。

そのうち老後には移住しているかもしれない・・(笑) 豊かな自然と何とも言えない素朴な土地柄。イイっすネ!

今回ご案内するのは、飯山の城館シリーズ第四弾の「顔戸館」(ごうどやかた)である。

柏尾館 (27)
柏尾館から見た対岸の顔戸館とその周辺。えいき様には「ジムニー愛」とか言われそうな写真である・・(笑)

【立地】

旧JR飯山線の信濃平駅から越後の平丸峠に向かう県道411号線の寿地区の顔戸集落の東端にあり、東西を小川に挟まれた台地にある。ここからは対岸の野沢温泉方面も良く見渡すことが出来る。北1kmには小境城、平丸峠に向かう北西1.5mの黒岩山には黒岩城があり、飯山と越後を結ぶ交通の要衝を押さえていたものと思われる。

顔戸館 (3)
居館跡の北側道路より撮影した「たてのうち」

顔戸館見取図①
城館の北側は耕地整理により堀の跡に道路が開通してしまい、居館の北側の土塁も破壊されてしまったのかもしれない・・。

【館主・館歴】

室町期に当地方を治めた尾崎氏の分家の顔戸氏(ごうどし)の館跡とされる。「長野県町村誌」の「顔戸氏城墟」の項に、「村の寅の方に在り。東西四十間(72m)、南北二十七間(49m)、東北に空堀(今は田となる)を回し、回字形を為す。永正年間(1504-20)、顔戸勘解由重胤、築きて麓に居る。重胤(しげたね)は尾崎氏の後裔にして奈良沢重直の二男なり。顔戸に別れきたりて顔戸氏と称す。永禄年間より、上杉輝虎に属し、外様十人衆に列る。老衰して病に死す。其子帯刀重敏、継ぎて景勝に勤仕し、慶長三年三月、陸奥国會津に移り、寛永年間(1624-43)朽ちて畑とし、今田となり其塁を存す」とある。

顔戸館 (4)
西側の一段下も郭跡だったようで、嘗ては水田だが現在は休耕地として藪化している。

顔戸館 (6)
館の中心部分は、現在は三枚の水田である。

顔戸館 (7)
館の東端の水田。

【館跡】

「たてのうち」と呼ばれる三枚の水田が館跡で、西、南、東は切岸になる。東側は堀といわれるが、西側にも堀形がある。大手は南で10m余の坂を登ったものと思われる。居館跡の背後には土塁があったと思われるが、今は道路になり分からない。
(「信濃の山城と館⑧」より宮坂武男氏の記述を引用)

顔戸館 (9)
居館の東側の堀跡。

顔戸館 (11)
堀跡(現在は水田)の東側は小川の流れる谷でなので、空堀ではなく水堀だったと思われる。

【小沼・湯滝バイパス関係遺跡発掘調査報告書の記載】

外様地区顔戸(こおど)集落北方の字「館ノ内」(たてのうち)にある館跡である。
図示したのは現在の耕地整理後の略測図であるが、文献5あるいは地元の人によれば、東北および西北に
堀があったと言われる。南西は谷状地であり南東は比高約7mの崖をなしている。堀の推定地内の面積は
現況から判断すると50m四方で2500㎡となる。

小沼湯滝バイパス関係遺跡調査資料① 001 - コピー
調査報告書に記載されている顔戸館の見取図。

顔戸館 (14)
城館跡の南側の「壁(切岸)」

顔戸館 (17)
館跡の南側も堀が巡っていたと推定される。

≪顔戸館≫ (ごうどやかた 館の内)

標高:342m 比高:18m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:飯山市寿顔戸
攻城日:2015年6月5日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:
駐車場:無し、路駐
見どころ:切岸、掘跡など
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)、「小沼・湯滝バイパス関係遺跡発掘調査報告書」(1988年 飯山市教育委員会)
注意事項:耕作地につき無断侵入禁止
付近の城跡:小境城、黒岩城、北条城、五束城など

顔戸館 (19)
居館跡の西側の堀跡。

Posted on 2016/06/11 Sat. 22:51 [edit]

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柏尾館 (飯山市瑞穂柏尾)  

◆柏尾ノ備中守殿が住んだとされる居館跡◆

そろそろ「らんまる城館ぶらり旅」と改名したほうが良さそうである・・・(笑)

だって山城の縄張図と居館の縄張図でどっちが簡単?って聞かれたら、そりゃあそうでしょう。

今回ご案内するのは先日掲載した大倉崎館から北東約1kmの場所にある「柏尾館」(かしおやかた)。

柏尾館 (1)
南東隅より撮影した居館跡。

【立地】

千曲川の右岸の柏尾集落に位置し東の丘陵を越えると野沢温泉村である。南約3kmには犬飼館があり、修験者の霊場として賑わった小菅山の入口を抑える場所でもある。ここからは対岸の様子が一望できる。

柏尾館見取図①
ほぼ全周する形で土塁が残っているのは貴重だという。

【館主・館歴】

明徳三年(1392)、高梨朝高の史料に「柏尾郷」が高梨領とみえ、「柏尾南館」の館主は「柏尾備中守殿」という記述のあるところから、高梨一族の備中守と呼ばれる人物が居住していたことが考えられる。
越後の上杉氏と甲斐の武田氏との対立が激しくなる十六世紀の半ばになると、武田氏の勢力が当地を脅かすようになる。上杉方に協力してきた小菅一山の院坊(柏尾館の東南)などは武田方によって焼き払われた。上杉氏と親しかった高梨氏は、追い詰められて敗走した。
その後は、乱世を巧みに生き抜いた市河氏が高梨氏に替わって当地を領有し、慶長三年(1596)上杉景勝の会津移封により柏尾館は廃館になったと推定される。

柏尾館 (2)
残念ながら南側の土塁は消滅。大手口は南だったと推定されている。

柏尾館 (5)
居館東側の土塁(南東隅の土塁の上から撮影)

柏尾館 (7)
居館の内部は現在畑になっている。

【館跡】

柏尾館は南北約55m×東西約70mの方形単郭である。郭を囲む基底幅5~8m、高さ約2mの土塁が残る。かつては館の四方に築かれていたと思われるが、現状は北側と西・東側の一部に残るのみとなった。だが、これほどに土塁が残存している例は、飯山地方では他に見当たらない。郭の周囲、特に南側には約5m幅の堀跡が確認でき、立地形状等から察して水堀であったと推定される。
土塁、掘りなどの遺構を観察すると、規模こそ及ばないものの、中野の高梨居館跡を彷彿とさせる。

柏尾館 (18)
北東隅の土塁。高さは約2mある。

柏尾館 (32)
居館南側。水田に水が張られると、往時の姿が目に浮かぶようである。

柏尾館 (34)
大手口の南側より見た郭内部。

居館跡からは硯と須恵器片が出土していて、周辺には、馬繋(うまつなぎ)、的場(まとば)、馬放(うまはなし)、たてなどの地名があり、往時の歴史が伺える。

柏尾館 (24)
居館の西側の土塁と外堀跡。


≪柏尾館≫ (かしおやかた 柏尾南館)

標高:388m 比高:-
築城年代:不明
築城・居住者:高梨氏、市河氏
場所:飯山市瑞穂柏尾
攻城日:2015年6月5日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:
駐車場:無し、路駐
見どころ:土塁、掘跡など
参考文献:「定本 北信濃の城」(1996年 郷土出版社)、「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
注意事項:耕作地につき無断侵入禁止
付近の城跡:大倉崎館、今井館、神戸砦、犬飼館など ※東側に柏尾城という山城があるというが未確認

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南側より撮影した柏尾館全景。

Posted on 2016/06/08 Wed. 11:33 [edit]

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大倉崎館 (飯山市常盤上野)  

◆千曲川にのぞむ謎多き中世の居館跡◆

わざわざ中世の遺跡のど真ん中にバイパスを開通させる必要があったのだろうか?
南北どちらかに100mずらせば救えたはずなのに・・・・お役所仕事とはそういうものであると再認識せざるをえない。
最初に工事計画ありきで理由は「早期着工は住民の強い要望」。お役所のいつもの言いがかりで消えた埋蔵文化財は星の数。

DSCF7887.jpg
大倉崎館を真っ二つに分断して開通した国道117号線と常盤大橋。このバイパス工事で六ケ所の古代・中世の遺跡が消滅した。

さて、今回ご案内するのは南北に分断されてしまった大倉崎館。
「また中世の城館かい!」(笑)・・・と叱られそうだが、真面目に発掘調査報告書を読むと結構凄い居館だったのだ。

「定本 北信濃の城」(1996年 郷土出版社)を初めて読んだ時に、1枚の居館跡の発掘現場の写真が脳裏に焼き付いたのである。
それが大倉崎館であったのだが、例の如く「平地の居館ならいつでも行けるからいいや・・」で見過ごしていたのである・・(笑)

定本 北信濃の城 (14)
※「定本 北信濃の城 大倉崎館 」P35の掲載写真を引用しています。

一瞬だけこの写真を見ればどこかの工事現場のように見えるのだが、大倉崎館の発掘作業で現れた往時の巨大な外堀である。 上巾は10mで箱堀の堀底は2.5m。北側の土塁の上部までの高さは5m、おばちゃんの歩いている西側の縁までは2.5m。平地の居館でこれほどの鋭い空堀はあまり例がない。

大倉崎館発掘調査報告書写真①
外堀の堀底から、おっちゃんが居館のある内郭に登ろうとしても絶望を感じる土塁側の壁。防御レベルはかなり高い。


【立地】

千曲川左岸の上野の城崖(じょがけ)と呼ばれる所で、国道117号線の常盤大橋のたもとにある。居館跡は上野集落に位置するのに、史跡名に南隣の大倉崎の集落名がついた事は上野集落の人々は許せなかったらしい。

もっとも地名の古さでは「大倉崎」が先で、上野の地名は江戸時代に開墾された「上野新田」がルーツと云われてきたが、室町年間の市河文書に「上野」の地名があった事が確認されているので地元では「上野城館」として宣伝しているがイマイチ効果は無い。
相変わらず通説の名前の「大倉崎館」がしっくり定着しているらしい・・・・(笑)

大倉崎館見取図①
バイパス工事は遺跡のど真ん中を通す方法しか無かったというが、それが嘘八百であることは周知の事実である。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では「村の寅の方字北村と称する所に在り。東西十間余、南北四十五間、東辺は千曲川に面し南西北三方に空堀を回し、南高く、北低くして長し。濠の西辺に橋詰の塁を存す。其城主年代不詳。世俗の説に外様十人衆の頃、武田方に属して
追払われしと云い伝う。然れば甲陽軍鑑に尾崎館名所切るとあり。是等の人々の居住せし地なるか、是非をしらず」とある。

「村史 ときわ」などには、戦国時代末期の竹内源内の居城との伝承があるとされるが、発掘調査の結果では戦国時代初頭には既に戦禍による火災で廃館になっていたらしい。

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バイパス北側に現存する外堀跡。発掘調査報告書によれば、廃館の際に堀も2m近く土砂で埋められた痕跡があるという。

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L字に屈折する外堀。現在残る遺構の地表観察では薬研堀だが、発掘調査では埋土を取り除くと箱堀だったという。


【館跡】

発掘調査報告書によれば、館跡は14世紀から15世紀にかけて使われた回字形の中世城館跡だという。東側は千曲川の浸食により削られているので、往時の大きさは千曲川の浸食速度がどの程度のものだったのか考慮しないとハッキリした事は言えないらしい。
バイパス工事に伴い緊急に発掘調査された内郭には中央に内堀が一条あり、その北側に建物址を示す柱状の穴が確認されている。また内郭からは中国製の陶磁器、国産の香炉、花瓶、備前焼、珠洲焼の大甕、茶臼、中国銭、硯などが発見され、更には短刀、鎧の小札なども見つかっていることから、高度な文化要素を持ったかなり勢力を持った武人の館であった事が想定されるという。

大倉館測量図①
飯山市教育委員会「小沼・湯滝バイパス調査報告書Ⅰ」のP170の測量図より引用し加筆。

これだけの遺構を持つ中世城館の中心部分が、県と国のごり押しで呆気なく消え去ったのは返す返す残念でならない。

DSCF7893.jpg
公園化された内郭の北側の東屋。朽ち果てて危険な状態なので早急に補修が望まれる。

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千曲川の浸食によって内郭がどのくらい消失したのか気になるところではある。

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北側のコの字の外堀と千曲川との連結部分。

個人的な意見で恐縮なのだが、現地を踏査し上記の写真を見ても分かる通り外堀はここから千曲川を意識している。
つまり、千曲川が大きく蛇行する場所ではないので浸食による居館敷地面積の流失はそれほどでもなかったと考えるべきだと思われる。

DSCF7902.jpg
北側より撮影した外堀。

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公園化された居館跡の北側を西側から見上げる。周囲の雑木林を伐木して再整備が進む。


●居館南側

居館中央部分の発掘調査では内堀(上巾6m)が確認され、内堀から北側部分で数多くの遺物が発掘されているが、南側からはほとんど何も出ていないので居住空間は北側が中心だったようである。

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北側から見た南側の郭跡

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南側の郭内部

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土塁で囲まれているのが分かる

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千曲川に向かう外堀。廃館に伴い埋めようとしたらしいが簡単に埋められる規模ではない。

●所感

この記事を作成するにあたぅっては、平成元年3月に発行された「小沼・湯滝バイパス関係遺跡発掘調査書」(飯山市教育委員会)を読ませていただき参考にした。

この居館が何故千曲川に面しているのか、という疑問は未だ解決されていない。この場所は古くから千曲川の渡し場であり、その後も鉄道が開通するまでは、越後からの物資を船で輸送する拠点であったという。高梨氏が水内郡や高井郡に勢力を拡大した時に渡し場の監視砦として築かれたという説もあるが、この規模は単なる砦の類いではなく中央政権とパイプを持っていたであろう巨大な豪族の城館だった事が発掘調査から証明された。

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現地の説明板には居館は「上野の城崖」と呼ばれ、通船に関する記載もみられた。

残念ながら、この館の主は不明だ。付近にある他の居館跡に比べるとその面積はやや小さいが、外堀の防御性はピカイチで、万が一の脱出には船が使われたであろうことは想像に難くない。

この居館が廃絶される直前、この地方は市河氏、高梨氏、村上氏、小笠原氏が熾烈な所領拡大争いを展開していた時期である。その抗争に巻き込まれて戦火に遭い自落したのか、敵方により廃館処分されたのかは判らない。
すくなくともその後の甲越紛争の頃には使われずに朽ち果てて今日に至ったようである。

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水運を利用した都との交流があったのであろうか。

「飯山地方は興味が尽きない・・・」このことである。こんな記事を書いていると、飯山方面に出掛けたくなって仕方がない・・(笑)


≪大倉崎館≫ (おおくらざきやかた 上野城館 上野城崖)

標高:324.5m 比高:20m(千曲川より)
築城年代:14世紀頃
築城・居住者:不明
場所:飯山市常盤上野
攻城日:2015年4月2日
お勧め度:★★★☆☆ 
所要時間:-
駐車場:入口にあり
見どころ:土塁、掘跡など
参考文献:「小沼・湯滝バイパス関係遺跡発掘調査書」(1988年 飯山市教育委員会)、「定本 北信濃の城」(1996年 郷土出版社)など
注意事項:特になし
付近の城跡:柏尾城館、今井館、神戸砦、犬飼館など

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対岸からみた大倉崎館。謎多き居館跡である。


Posted on 2016/06/04 Sat. 08:05 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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