らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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小笠山砦 (静岡県掛川市入山瀬)  

◆若き家康の執念を感じる前線基地◆

田舎ネズミの「おのぼりさん旅行記」はもう少し続くので我慢して頂こうか・・(汗)

高天神城の攻略の為に徳川家康が六ヶ所の付け城を築いていたのは知っていたが、この時の攻城リストには全く無くて、いずれまたの機会があれば・・と思っていた。

小笠山砦 (1)それは決して見てはいけない看板だった。

当日の最終目的だった相良城を見学して、その日は掛川市での宿泊だったので、県道37号線経由で菊川に出るはずが、カーナビ距離優先お任せコースでどういう訳か県道251号線へ入る。

道路のカーブにあった看板には「小笠山砦」

「??????????????」

思わずUターンして確かめる始末であった(笑)

既に夕方も近かったので、「また あ~と~で!」 思い付き人生のノーテンキとはこの事であった・・・(爆)

小笠山砦 (2)小笠山神社社務所。郭跡だったと思われる。

翌日、掛川城の見学時間を大幅にカットして小笠山砦へ突撃する。

予備学習無しに突入するのは気が引けたが、行けば何とかなる?・・・結果、後の後悔先立たず・・・(汗)

徳川家康が高天神城の付け城として築いた六砦(小笠山砦、三井山砦、中村城山砦、能ヶ坂砦、獅子ヶ鼻砦、火ヶ峰砦)の中では規模も技巧も優れたメインの砦が小笠山砦らしい。

小笠山砦 (3)笹ヶ嶺御殿手前の横堀。

何といっても、砦跡のある小笠神社まで車で行けるのが嬉しい。

山城探訪で大切な事は「いかに最短で体力を使わずにその場所に辿り着けるか?」である(笑)

残念ながら小生のような横着者の住む信州では、それを許してくれる城跡は少ないのが現実であろうか(汗)

小笠山砦略図

実はこの砦、帰ってきて後から調べてみると、小笠山の頂上まで遺構があり小生が見てきたのは「笹嶺御殿(ささ
みねごてん)」と呼ばれる入り口の遺構だけだったようである・・・・(悔)

偉そうに云ってるものの、所詮は田舎のネズミ。このことであった(笑)

小笠山砦 (4)遊歩道の設置で改変された笹嶺御殿への登山道。

小笠山砦 (5)櫓台(?)跡。

この砦は、徳川家康が今川氏真の籠る掛川城を攻める際の付け城として築かれたようで、その後の高天神城奪還の戦でも、武田軍の補給路封鎖作戦で重要な役割を果たしたという。

徳川家康が築いた山城という構図はピンと来ないが、徳川さんも山城(陣城)は作れたようである・・(爆)

小笠山砦 (9)いい味出してる堀底の標柱。

陣城(付け城)如きでこれほどで凝るのか?という改修であるが、家康さんは縄張りには関わっていないと見るべき。

何故かって?

縄張りがキチンと出来る武将が、城攻め(攻城戦)を不得手とするのはあり得ない事ですもの・・・(笑)

小笠山砦 (10)城域西側の薬研堀と切岸。

小笠山砦 (16)御殿跡の説明板。

いつもなら尾根先まで駆け上がるのに、この日はどうしたことか説明板を見て安心してしまった。

見るべき遺構はもっと先にあったのに・・・・・

小笠山砦 (18)笹嶺御殿の先の土橋と天然(?)の堀割。

小笠山砦 (29)御殿下の帯郭。

小笠山砦 (27)南西斜面の竪掘。

高天神城の攻略に対して他の五つの砦の中心となり、南を抑える横須賀城とともに重要視されたのであろう。

「二度、三度訪れてみないと、その城の姿は見えてこない」 まさにその通りである。

しかし、信州からは遠い(笑)

≪小笠山砦≫ (おがさやまとりで 笹嶺御殿)

標高:264.8m 比高:206m
築城年代:永禄年間?
築城・居住者:徳川氏
場所:静岡県掛川市入山瀬
攻城日:2012年10月9日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:数分 駐車場:有り
見どころ:土塁、堀切など
注意事項:山頂付近へ向かう途中の一騎駈けの尾根は転落注意だとか・・(自己責任でね)
参考文献:
付近の城址:高天神六砦、掛川城、高天神城、横須賀城など

小笠山砦 (31)山麓の国道409号線から見た小笠山砦。










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Posted on 2013/09/27 Fri. 07:27 [edit]

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0918

掛川城 (静岡県掛川市掛川)  

◆信玄も捨て置いた遠江に刺さる徳川領境目の堅城◆

見出し(サブタイトル)には結構こだわっているので、それが決まらないと(ってか気に入ったタイトルでないと)記事も書く気になれない・・(笑)

日本100名城巡りの様相を呈してきたようで恐縮だが、田舎ネズミの「オノボリサン」の道中日記として読んでいただければ幸いである(汗)

掛川城 (2)大手門番所。安政六年(1859)の建築。何故か掃除中(?)


大手門が現存する城郭は多いが、大手門番所が残っているのは非常に珍しいという。小生も初めてお目にかかった。

廃藩の際に建物を藩士が譲り受け移築したものを、大手門の再建に伴い寄贈を受けたという。ありがたい。

掛川城 (1)復元された大手門の奥に見えるのが番所。

「いきなり番所かい!」

だって、現存する建物の中では一番お気に入りですもの。二番目は太鼓櫓。まして山内一豊は嫌いだし(爆)


【城主・城歴】

掛川古城は現在の場所から東へ500mの逆川の北側にあり、駿河の守護大名今川氏が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕(やすひろ)に築城を命じたのが始めと伝わる。(1497~1501)

その後、今川氏の勢力拡大に伴い、永正九年(1512)に現在の地点場所に新たに縄張りをしたという。

桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られると、武田と徳川は今川領に侵攻し今川氏真は駿府を逃れ掛川城へ籠城。

徳川家康はこれを攻めるが、容易に落ちない為、力攻めを諦め和睦にて開城させる。

家康は掛川城の城将を石川家成(石川数正の従兄)に命じ、武田軍の侵攻に備えた防御拠点とした。

掛川城 (12)相変わらずアングルがヘタクソ極まりない(笑)

不思議な事に、信玄は遠江侵略において高天神城を囲み、諏訪原に砦を築いても掛川城は無視し続けた。

蹴鞠しか能の無い氏真でも守れる城を徳川が守れば手強い・・・そう感じたのであろうか?

その後、家康の関東入国に伴い、掛川城には秀吉子飼いの武将山内豊一が天正十八年(1590)五万石で入城する。

慶長六年までの10年間で彼は戦乱に明け暮れた領国の治世と城下の整備に努め、掛川城も石垣と天守閣を持つ近世城郭に変貌を遂げた。

掛川城 (13)打込みハギが美しい太鼓櫓の石垣。

掛川城 (14)四足門から見た太鼓櫓。

江戸時代の掛川城は徳川譜代大名の城として石高では2.5万石~7万石程度の11の大名家の居城となった。

天守閣は嘉永七年(1854)の東海大地震で倒壊し再建されることは無かったが、幸いに二の丸御殿、太鼓櫓、蕗の門は無事で、明治二年の廃城まで残ったという。(御殿は現在も残り公開されている)

天守閣の再建は平成六年で木造による。

掛川城 (15)俗に言う「日の丸撮影」(笑)中心に撮影の被写体を取り込む手法だが、城の撮影ではアングルをうまく使えば充分に「有り」だという。

「青空の背景」「白亜の天守」「石段」「切岸」「打込みハギの石垣」

これだけ揃ったら、近世城郭に夢中になった過去を充分思い出せる。

「しかし、過去は振り返らない。振り返るな、君は美しい・・・・」(何か歌の歌詞にあったなあー・・爆)

掛川城 (18)天守閣入り口から「振り返る」

地震は起きてしまったが、幸いにして徳川の支配以降は、戦乱に巻き込まれる事が無かったのは幸いであろう。

籠城戦で派手に活躍した城ばかりが有名になる傾向があるので、掛川城を擁する市民としては姫路城バリの有名税が欲しいというのは文句が言えない。

しかし、小生、この日に掛川城へ入城する際にとても嫌な思いをした。

今流行の「お・も・て・な・し」の心など、窓口で対応した職員には微塵もなかった。

開門時間は9:00、小生が辿り着いたのは8:55.

入場券売り場には職員らしきオバさんがいたので、入場券を買い求めようとしたら拒否された。

「9:00までお待ちください!」

小生の他にもう一人観光客がいたが、小生の問答を聞いたらしく引き下がった。

掛川城 (24)天守閣の展望台から見た二の丸御殿。

小生が立腹したのは、小山城の方は10分前でも「嫌な顔一つせずに入れてくれた」事実と比較してしまったからである。

お役所の役人根性か・・・時間正確に始まり、どんなに仕事が残っていても時間通りに止めてサッサと帰るのだろう。残念だった。

山内一豊が嫌いだったので、掛川市も余計に悪い印象となった。

掛川城 (25)

遠くから足を運んでくれた観光客にこのような対応をいつもしてるのか心配になった。

上田市も他人事じゃないよなーって思った。

掛川城 (10)十露盤堀(そろばんほり)のアップ。由来はもちろん「巴の算盤」(笑)

掛川城 (11)武田流の三日月堀なのだが、山内一豊が監修?

掛川城 (37)十露盤堀と太鼓櫓。

まあ、あまり良い思い出が遺せなかった掛川城だったが、「戦国の城」の一部分が残っている。

それは、二の丸御殿の東側の「黒塀」と呼ばれる土塁であった。

掛川城 (42)

害した気分が救われました。(ホッ!)

掛川城 (40)近世城郭ファンには垂涎の一枚だろう。

≪掛川城≫ (かけがわじょう)

標高:50.0m 比高:27m
築城年代:不明
築城・居住者:朝比奈氏、徳川氏、山内氏、他
場所:静岡県椿原郡吉田町片岡
攻城日:2012年10月9日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:有り
見どころ:大手門番所
注意事項:開館は絶対に9:00です(笑)
参考文献:
付近の城址:高天神城、諏訪原城、小山城など






Posted on 2013/09/18 Wed. 22:53 [edit]

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0914

浜松城 (静岡県浜松市中区元城町)  

◆浜松市制100周年記念事業で甦る出世城◆

そろそろ信濃のどーでもいい城に戻れそうなものだが在庫の賞味期限切れも困るので、もうしばらくお付き合い願いたい。

このクラスの城郭になると、田舎モンが扱える範疇を超すと思うので、旬な話題を織り交ぜてテキトーにお茶を濁して退散するのが最善策のようである・・(汗)

田舎のネズミが初めて見た浜松城とその解説は、従来のセオリーを打破出来るかもしれない・・・・(??)

浜松城資料集 (9)

まあ、さすがに家康さんもこのゆるキャラ「家康くん」には閉口とご立腹かもしれない・・・。

まあ、タヌキジジイに「胸キュン」などと往時は口が裂けても言えなかったと思えば、進歩ではある(笑)

浜松城 (3)もはやこの銅像も不要であろう・・(爆)

【城主・城歴】

浜松城は三方ヶ原の台地の東縁にあたる段丘上を利用した山城で、中世には引馬城(ひくまじょう)と呼ばれていた。中世の引馬城の位置は「古城」と伝えられ、現在は浜松城の北東にある東照宮にその名残を留めている。

元亀元年(1570)、徳川家康は弱体化した今川領内に侵攻し、木原吉次に命じ引馬城を取り囲むようにして浜松城を築城して東遠江侵攻の基地として居城を岡崎よりこの地に移した。

浜松城資料集 (7)
推定浜松城縄張図(浜松市のHPより)

天正十四年(1586)、家康は居城を駿府へ移す。天正十八年(1590)、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げるとと家康は関東に移封され、浜松城は豊臣系の武将堀尾吉晴が入城する。関西の最新の築城技術を持つ堀尾氏は、浜松城に石垣を築き、瓦葺きの天守閣を建てたという。

慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利すると浜松城は徳川譜代の城として豊臣色が一掃された。天守閣は17世紀に焼失し再建されなかったが、三の丸が整備され東海道の街道整備と共に城下町も発展していった。

現在の天守閣は昭和三十三年(1958)に市民の寄付により再建されたが、模擬天守であり往時を再現したものではない。

浜松城 (4)野性味溢れる野面積みの石垣。家康時代は土の城だったらしいが。堀尾時代の石垣も「戦国の城」にふさわしい貫禄がある。

【復元を計画している建造物】

●天守門

平成21年と平成22年の二回にわたる発掘調査により、天守曲輪の虎口にあった天守門は脚部が通路でその上に櫓が載る櫓門であることが確認された。天守門に連接して土塀が巡っていたことも確認出来たという。

櫓門に葺かれた瓦の特徴から、天守門は安土桃山時代(16世紀待つ)に建てられ、その後も江戸時代を通じて改修が繰り返されたようで、天守閣が無くなった後は浜松城の象徴的な存在として維持されたらしい。

天守門復元図

天守門があると無いとでは、随分違います。小生の地元の上田城も城門再建の効果は凄まじいものがあった。

そんでもって、テキトーに再現した模擬天守は壊すんでよねえ、浜松市の役人さん!!(爆)

浜松城 (5)天守門が載せられていた石垣。野面済みは切込みハギや打込みハギよりも丈夫だったという。(イカン、石垣フェチは卒業したのだ・)

●富士見櫓

天守曲輪の東隅にあったというのが富士見櫓で、発掘調査の結果は天正年間に建てられた「邸宅風」の建物であった可能性が高いという。出土物には天目茶碗もあるので、会合や茶の湯を催した特別な場所であったらしい。

富士見櫓復元図

浜松城資料集 (3)
発掘状況を知らせる「浜松城通信」(浜松市発行)

市制100周年はどうでもいいのですが、正直なところ「羨ましいなあー」って思いました。

浜松市は史跡や文化財の保護・調査には積極的な自治体で、通常であれば「教育委員会」が担当すべき部署とは別に「文化財課」というのがあるんです。

その使命感は他の自治体に見習って欲しいとも思う立派な志です。

興味のある方は浜松市役所 文化財課を参照願います。

浜松城 (6)天守門建設予定地。(赤い旗が発掘現場)

ここを訪れたのは昨年の10月。

到着時間がだいぶ遅れてしまい、ロクな見学も出来ずに模擬天守から眺めたいい加減な景色に溜め息・・(汗)

浜名湖の弁天島のホテルに辿り着くルートがイマイチ分からずチェックインの時間も迫って焦りまくり・・(笑)

天守門と富士見櫓が再建されたら、またゆっくり訪れてみたいお城です。

浜松城 (11)模擬天守の展望台から見た古城。

浜松城 (13)模擬天守からみた西端城曲輪、作左曲輪。

まあね、その後の歴代の城主様の出世物語などは信州の田舎ネズミが話すべきではないでしょう(笑)

それでも浜松藩政五万石の歴史の中で、25代の城主、老中五名、大阪城代二人、京都所司代二名、寺社奉行四名。

有名どころは「水野忠邦」(天保の改革)


≪浜松城≫ (はままつじょう 引馬城)

標高:41.9m 比高:37.1m
築城年代:不明
築城・居住者:今川氏、徳川氏、堀氏など
場所:静岡県浜松市中区元城町
攻城日:2012年10月9日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:5分 駐車場:市営駐車場
見どころ:野面積みの見事な石垣、郭など
注意事項:特に無し
参考文献:
付近の城址:


浜松城 (18)浜名湖弁天島の風景でお別れでしょうか。







Posted on 2013/09/14 Sat. 23:04 [edit]

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0912

相良城 (静岡県牧之原市相良)  

◆ジャパニーズドリームの頂点に立った田沼意次の幻の城◆

「最近、更新のペースが上がってるけど何かあったの??」

御心配無用である。健康診断の結果が悪かったので、この世に未練の無き様に生き急いでいるだけである(笑)

今回ご紹介するのは相良城(さがらじょう)。

前身は先日掲載した高天神城の補給用の中間地点として武田勝頼が築いた城なのだが、江戸時代の九代将軍徳川家重の小姓を経て十代将軍徳川家治に重用された悪名高き老中「田沼意次(たぬまおきつぐ)」の居城である事を知る人は少ない。

相良城 (1)相良城の本郭跡に建つ牧之原市相良資料館。

城跡は現在、資料館脇に記念碑が建ち、学校脇に土塁の一部を残すのみでカケラも残らず壊滅している。

実はこの城、廃藩置県で廃城⇒民間への払下げ⇒遺跡壊滅・・という通常の流れでは無く、江戸幕府の老中として権威を揮った田沼氏が築城(修築拡大)の許可を得て新たに総石垣の近世城郭に作り変えて、三層の天守を持つ城にしたのだが、権力抗争に敗れて失脚してしまい、その後徹底的に破壊された珍しい城なのである。

相良城 (4)武田勝頼の築城した相良古城も同じ位置だったらしく碑が残る(後方は相良中学校)

「江戸時代の三大改革といえば何?」

学校で勉強しましたよね、えっ、覚えていないの? 

だいたいねえ、年号で暗記するような歴史の授業なんて滅亡した方がマシだと思う訳ですよ・・(爆)

「享保の改革」 八代将軍吉宗が主導。財政安定が目的で、イモ栽培や幕府への上納金制度なんかもやりました。

「寛政の改革」 老中松平定信でした。貧乏に耐えよってのは許せても、棄捐令で借金棒引きは最悪でしたね。

「天保の改革」 水野忠邦さん、農業政策の拡充と株仲間の解散なんかでがんばりましたが、綱紀粛正はやり過ぎと批判。そのまま幕末の動乱へ行っちゃいましたが(汗)

田沼意次公①

田沼さんは、享保の改革と寛政の改革の間で「商業主義」を強力に推進した人です。

歴史の教科書では必ず登場し、商業推進に重きを置いたために経済は発展したが、役人への賄賂が日常化し農村が荒廃するという失政・・・どんだけネガティブに書いてるんでしょうか?

その昔、某国営放送で「天下御免」(昭和46年から約1年間)というドラマが大好きで、小生は青鼻を垂らしながら毎週欠かさず見ていました。

確か時代は田沼意次が老中で、主人公は奇人変人の「平賀源内(俳優:山口 崇)」、解体新書で有名な杉田玄白も出ていて当時の江戸の風情を面白おかしく描いていました。もちろん、田沼意次(俳優:仲谷 昇)も平賀の長屋に出入りしては、庶民の感覚や要望を治世に反映させて人気があったという設定でした。

※この時代の国営放送局の番組は余湖くんのお城のページの管理人である余御さんに語らせると、その話題だけで27時間テレビが出来ると思うが・・・(爆)

相良城 明和年間絵図田沼時代の縄張図。甲州流の縄張り軍学者によるものだという。

僕はそのドラマの影響もあったせいか、田沼意次は大好きで、詳細を調べれば調べるほど後世の批判はデタラメだった事に気が付いた。

まあ、その辺はいずれまた書くとして、彼の立身出世物語は、戦無き平和の世だった江戸時代では異例であろう。

元々父親は、紀州徳川家の足軽大将だったが、吉宗が将軍となるや側近として登用され旗本に昇進し600石を賜ったという。

その後、父の跡を継いだ意次は吉宗の跡を継いだ徳川家重の小姓として登用され所領を加増され、宝暦八年(1575)には相良藩主として、1万石の大名となった。(39歳)

以下、彼の出世と石高の経緯を記載してみる。

●宝暦十二年(1762) 加増 15,000石 (43歳)※十代目将軍の徳川家治に重用されたのはこの頃から

●明和四年(1767) 側用人に昇格 (48歳) 20,000石

●明和五年(1768) 相良城築城始まる (49歳)

●明和六年(1769) 老中格となる (50歳) 25,000石

●安永元年(1772) 老中となる (53歳) 30,000石

●安永六年(1777) 加増 (58歳) 37,000石

●安永九年(1780) 相良城落成。意次が城を見聞(築城開始より12年間)

●天明元年(1781) 加増(62歳) 47,000石

●天明五年(1785) 加増(66歳) 57,000石

●天明六年(1786) 老中罷免(67歳) 20,000石の減封 37,000石 雁之間詰 ※将軍家治死去

●天明七年(1787) 37,000石召し上げ及び相良城没収、蟄居を命じられる

●天明八年(1788) 相良城破却、財産没収

相良領視察絵図①

戦乱の世ならばともかく、石高100倍+老中への出世とは破格待遇であろう。

月給6万円のサラリーマンが、あれよあれよという間に600万円の高給取りになったという訳である。

その後、政争に敗れて引退を余儀なくされたようだが、彼の足跡はもっと評価されて然るべきであろう。

相良藩の藩政も殖産興業を中心として地道に取り組みかなりの成果を挙げた。

相良城 (3)

田沼意次の評価は現在かなり見直され、変わってきている。喜ばしい事である。

地元相良で、こうして資料館まで建てて再評価している熱意には頭が下がります。

城跡は破壊されてありませんが、皆さんも近くを通ったら是非訪ねて下さいネ。

写真四枚と資料館のパンフレットでここまで記事を書くのも大変です・・・(笑)


≪相良城≫ (さがらじょう)

標高:2.5m 比高:-
築城年代:不明
築城・居住者:相良氏、今川氏、武田氏、徳川氏、田沼氏
場所:静岡県牧之原市相良
攻城日:2012年10月8日 
お勧め度:★☆☆☆☆ (資料館はお勧め) 
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:-
注意事項:周囲は学校なので、不用意な撮影は不可
参考文献:
付近の城址:









Posted on 2013/09/12 Thu. 07:42 [edit]

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0909

高天神城② (静岡県掛川市上土方嶺向)  

◆後詰めも出来ずに見殺しにした城に払った高価な代償◆

戦国争乱の時代にあって、争奪戦の繰り広げられた城は意外な事にそれほど多くない。

大勢力による争奪戦といえば、長篠城、二俣城、そして高天神城に絞られ、いずれも境目の城であろうか。

話は変わるが、世間に出まわっている高天神城の縄張図と郭の呼称の多さ、勝手さには閉口する(笑)

確定しろとは言わないが、掛川市の教育委員会あるいは国指定なので文化庁関連の部署がある程度の指針とか表示を示すべきであろう。

高天神城(遠江) (39)標柱では御前曲輪、ここが本郭という縄張図もある。かつてエセ天守閣の建てられた跡の基礎だけが残るが、国指定の遺跡には不要だと思うが。

【長篠城奪還作戦で版図拡大を狙うも逆に織田徳川連合軍に大敗】

開城し降伏した徳川方の城将小笠原氏助は武田氏に臣従し代替え領地を宛がわれ、新しく城将として横田甚五郎尹松(よこたじんごろうただとし)を任命している。

岡部元信は籠城戦で傷んだ城の補修を進めて、更に城域の拡大を行ったという。

高天神城(遠江) (43)元天神社のある郭は武田時代の増設と云われるが信用できない。

高天神城の奪取に気を良くした武田の若旦那は、翌天正三年(1575)五月に一万五千の兵を率いて長篠城を包囲するが、城将奥平貞昌は五百の寡兵で持ちこたえ、後詰めに入った織田徳川連合軍三万八千と設楽ヶ原で決戦に及び大敗してしまう(長篠の戦い)

信長もさすがに長篠城は救援しないと同盟者である徳川家康にソッポを向かれる可能性があったので何とか間に合ったという訳であろう。

高天神城(遠江) (49)東峯の三の曲輪(与左衛門平)

老舗「武田や商店」の経験豊かな番頭はんは悉く討死してしまい、屋台骨が軋みはじめていた。

若旦那は高天神城に今川の旧臣だった岡部丹波守を城番として入城させ、横田は軍監として居残りを命じている。

高天神城(遠江) (50)三の郭周囲を囲む土塁。

天正六年(1578)十月、家康は家臣の大須賀康高に命じて高天神城の西約5kmに横須賀城を付け城として築かせ、高天神城の奪還作戦を開始する。

武田が弱体化したとはいえ、難攻不落の名城である高天神城は嘗て今川義元の家臣で豪勇の誉れ高き岡部元信が守っている。

二万の軍勢で囲んだ信玄でさえ落とせなかった城を、城攻めがヘタクソな家康が四万で攻めても落ちるはずがない(笑)

高天神城(遠江) (52)三の郭の切岸の下には塹壕状に刻まれた防御遺構が確認出来る。

そう、賢明な彼は嘗て織田信長が小谷城を攻めた時と同じ戦法を高天神城攻めに採用している。

付け城による通信遮断と兵站の遮断である。「エコなプチ兵糧攻め」というべきか・・(汗)

この時に徳川軍によって築かれた六ヶ所の砦を全て巡礼することが城ヲタク究極の証であるという。

※六砦に興味のある方は武蔵の五遁、あっちへこっちへをご参照下さい。

いわゆる「高天神六砦」である。(天正六年~天正八年の構築で小笠山砦は元々あった砦の改修だという)

高天神六砦配置図
「戦国の城」序章61頁の六高天神の砦を引用転載。

勝頼は高天神城への物資補給の拠点として東9kmに相良城を築城したり、六砦の間の山中に砦を築いたりしたが、困難を極め、とうとう補給はストップした。

小生も度々申し上げるが、後詰め無き籠城は犬死である。

高天神城の守備兵は武田勝頼の後詰めを「ヒタスラ待っていた」のである。

たとえ草の根を食べようと信玄の息子の「海道一の弓取り」は助けに来てくれるので我慢していたのである。

高天神城(遠江) (54)救世主は東から来るはずだった。

武田の若旦那には、もう気力も財力も兵隊も無かった。店子も逃げだす有り様では高天神城の救援どころでは無かった。

天正九年(1581)、城将岡部元信は徳川軍に降伏を申し入れるが拒否される。

「?????」

読者の皆さんは不思議に思うだろう。そりゃ当然で、降伏したら勘弁してあげるのが道理である。

これは信長の策略だという。なるほど、彼らしいやり方だ。

高天神城(遠江) (57)追手門(大手門)への尾根は数本の堀切で遮断している。

時代は戦国である。

殺すか殺されるか。明日の命の保証などない。敗北は死を意味している。

「一兵残らず最後まで戦って勝敗を決める」 負けが濃厚な籠城側に主導権など無い。それもまた道理である。

高天神城(遠江) (60)鹿ヶ谷と貯水池。現在この遊歩道は土砂崩落で通行禁止。自己責任で侵入して撮影(真似はしないでください)

高天神城(遠江) (63)生きる望みを断たれた絶望の境地でみた景色はどのように映ったのだろうか。

天正九年(1581)三月二十二日、城から打って出た武田軍は徳川軍により殲滅させられたという。

籠城兵の死者七百三十名の遺体は堀を埋め尽くしたと云い、ここに遺恨十年の高天神城の戦いは幕を閉じた。

高天神城を見殺しにしたという勝頼の悪評は信長によって全国に誇大宣伝され、武田の滅亡を早める結果に連鎖した。

高天神城(遠江) (68)西峯の井戸曲輪跡。

残念ながら、武田勝頼の評価は低い。

長篠の敗戦で叩かれた事ばかりが後世の歴史家の検証になってしまい、この高天神城を巡る攻防戦においてもオヤジという幻影と戦っているような印象を受け、勝手に自滅したぐらいの勢いである。

勝負は時の運という言葉を借りれば、「ついていなかった御曹司」という結果である。

高天神城(遠江) (75)西の峯の二の丸。

歴史に「たら・れば」ばあり得ないが、西上作戦で自分が死んでも軍事行動を止めないという事前協議をしておくべきだったと思う。

勝頼ほどの戦巧者であれば、信長の運命も先が読めない。

家康の息の根を止めておかなかったのは信玄の責任で、実行されれば日本史のターニングポイントだったはず。

高天神城(遠江) (80)堂の尾曲輪の堀切。

高天神城(遠江) (82)堂の尾曲輪の東の空堀跡。

ものの本では東峯が後期の改修とされているが、城跡を見る限りでは、西峯の通称「堂の尾曲輪」の尾根あたりが最終であろう。

高天神城(遠江) (97)西峯の先端まで続く横堀と土塁。

高天神城(遠江) (93)堂の尾峯の最終の先端の曲輪。こんなところまで来るやつはビョーキだ(笑)

さて、どうだったでしょうか?

僕はねえ、個人的に書かせてもらえば、勝頼は後詰めに来るつもりだったと思います。

オヤジを越える為の試金石だった城を簡単に捨てられる勇気など無かったと思います。

だが、出来なかった・・信長の思うつぼにハマった。

二代目の苦悩は底なし沼だったと思ってます。

高天神城2 (12)

「戦国の城」

まさしく高天神城は戦国の城であった。

その証拠に、落城後は一切見向きもされずに廃城となった。

時代が変わったというよりは、「忌まわしい城」だったのであろう。

高天神城2 (11)西の丸堀切跡。

≪高天神城≫ (たかてんじんじょう)

標高:132.0m 比高:104m
築城年代:不明
築城・居住者:今川氏、徳川氏、武田氏
場所:静岡県掛川市上土方嶺向
攻城日:2012年10月8日 
お勧め度:★★★★★ (難攻不落の山城を是非その目で見て欲しい) 
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:隅々まで全部見てね(笑)
注意事項:土砂崩落で通行止め区間がある。
参考文献:「戦国の城」(2007年学研新書 小和田哲男著)
付近の城址:沢山あります

高天神城2 (16)北側から撮影した高天神城でお別れです。












Posted on 2013/09/09 Mon. 22:49 [edit]

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