らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0814

吉田城 (愛知県豊橋市今橋町)  

◆石垣見たくて寄り道しただけの城◆

そう書いてしまうと身も蓋も無いし、吉田城愛好家の方から叱られそうだが、事実である・・(汗)

2012年の秋に念願叶って二泊三日で遠江・三河ツアーを敢行。近代城郭など見る気も無かったが、掛川城・浜松城・吉田城は嫌いな徳川さんの城とは言えせっかくなので寄らせていただいた。(笑)
いずれも戦国の城から近世城郭に変貌を遂げた過程があるので仕方あるまい。

吉田城(三河) (3)
今橋城時代の本郭跡と伝わる金柑丸に建つ説明板。この郭の写真は取り損ねた。そんな程度の興味である(笑)

【立地】

三河湾に注ぐ豊川河口から約5kmの川沿いに立地し渥美半島の付け根部分にあたる。伊那街道と東海道が交わる三河の西端にあり古来より要衝の地であったという。

吉田城(三河) (1)
金柑丸の東側の水堀跡。

【城主・城歴】

永正二年(1505)、豊川の一色城主の牧野古自により今橋城が築かれたという。(一説には1496年とも)この時の対抗勢力は田原の戸田氏で、今橋城より東にある二連木城の城主であった。
大永二年(1522)今橋は吉田と改名され、吉田城は戦国時代の争乱の中で、今川、武田、松平(徳川)ら戦国武将により激しい争奪戦が繰り広げられた。現在の金柑丸が今橋城の本丸であったという言い伝えがあり、豊川を望む台地の縁辺部に沿って郭が連なる形であったと考えられている。

吉田城(三河) (6)
本丸東側の堀。

土塁の堀側は土のままで切岸にして、内側(本丸内部)へは石垣という珍しい方式だが、攻める側からすれば土の壁のが登りづらいという特性を生かしている。

吉田城配置図①
吉田城模式図(豊橋市発行のパンフレットより引用)

近代城郭として整備された現在の吉田城は輪郭方式の縄張りだが、以前は解説にある通り連郭式だったようである。
近年実施された部分的な発掘調査では戦国時代のV字の薬研掘(やげんぼり)と江戸時代の箱掘が並行して散見されるので、酒井忠次時代には既に輪郭式の縄張に改修されていたようである。

吉田城(三河) (7)
土橋から見た本丸裏御門と石垣。

吉田城(三河) (10)
裏御門から見た本丸正面の虎口。南御多門があった。

【酒井忠次と池田輝政の時代】

吉田城は牧野古自の今橋城築城以来、幾度となく争奪戦が繰り広げられたが、永禄七年(1564)に松平家康(徳川家康)が今川方の吉田城代の小原鎮実を攻めて吉田城を奪取すると、酒井忠次を城主としてこれを守らせた。
酒井忠次は吉田城を改修し新たに堀を増設した事が発掘調査より判明している。また、当時の大手は飽海口(あくみぐち)であったとされており、東側が正面んある構造であった。

吉田城(三河) (12)
昭和29年に復興された鉄櫓。吉田城の櫓の中では一番大きく古絵図にはこの櫓を天守と書いているのが何枚かあるらしい。

吉田城(三河) (13)
北側の腰郭との間にある枡形。この城の弱点である豊川側の防御は念入りに作られている。

天正十八年(1590)、徳川家康が関東八州へ転封になり酒井忠次もそれに従い移転。代わって羽柴秀吉の配下である池田照政が岐阜城十三万石から十五万二千石に加増され吉田城へ入った。照政は吉田城を石高に見合う大城郭への改造に着手する。照政時代の遺構には鉄櫓下の石垣があり、当時としては最新の技術で積まれた石垣は豊職系城郭の象徴的な存在である。
照政は家康の娘である督姫を娶り、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後に五十二万石へ加増されて姫路へ転封となる。それを機に輝政と改名し現在世界遺産となっている姫路城を築いた。

吉田城(三河) (14)
昔はこういう櫓(建物)にトキメキを感じたが、最近はどーでも良くなった・・(笑)

吉田城(三河) (15)
鉄櫓の北側と西側の石垣が池田輝政時代の野面積の遺構。(写真は北側・・・草で良くわかんない?・・汗)

吉田城(三河) (19)
しからば新旧対比の写真を掲載してつかわそう・・(笑)

吉田城(三河) (20)
鉄櫓西側の石垣。二度の大地震にも耐えた野面積(のづらづみ)の安定性はさすがでございます。

吉田城の見どころは何といっても石垣で、新旧の見比べと石垣の刻文が見れるとこかしら。
しかも、その石垣も本丸の内側と二の丸の堀の一部にしかない。なんでかって?

池田氏15万石の後に入封したのは徳川家の譜代の大名なんだけど、いずれも3万石~4万石。
とても池田さんの築城工事を継続出来る訳などないし、維持するだけでも大変。名古屋城の余った石垣貰っても「要りません」とはいえずにせっせと積んだのでしょうねえ・・・(悲)

吉田城(三河) (17)
北の豊川に面した帯郭は周囲を総石垣で囲まれている。石垣の刻文は18箇所あるらしい。

吉田城(三河) (18)
敵が川を渡航しても容易に攻め込まれないように落差と折れを付け、登った先は枡形になっている。

吉田城(三河) (22)
天下普請じゃないので、適当に曲がってても藩が取り潰しになることはありません・・・・

【城跡】

豊川と朝倉川を背にして本郭、二の郭、三の郭を重ねていく輪郭式の縄張りでいわゆる「後ろ堅固(うしろけんご)」と呼ばれるものである。弱点としては主郭が川に面して晒されているので、渡航して直接攻撃されるとイッキに崩れる点であろうか。その為、吉田城は腰郭を増設して川手櫓を置き、鉄櫓、入道櫓とを多門櫓で組み合わせて防御をかなり強化している。
排水の陣のような縄張りを嫌って家康は居城にすることは無かったというが、どうであろうか。

吉田城(三河) (24)
本丸西側土塁。土の構造物を見ると安心する(笑)

吉田城(三河) (25)
南西の千貫櫓。.の石垣(東より撮影)

【石垣の刻文(刻印)】

吉田城の石垣にも名古屋城の石垣にあるような、丸に三角や扇子、軍配などユーモラスなしるしがみられます。
これを『刻文』(または刻印)といい、築城工事を分担した大名と家臣のしるしです。苦労して運んだ石を他の大名家のものと間違え、無用なトラブルが起きることのないようにつけたものです。
天下普請の名古屋城で余った石垣が運び込まれたものなので、あって当然でしょうか・・(笑)

吉田城にも約50箇所の刻文があるそうですが、一ヶ所しか見てきませんでした・・・(汗)
興味のある方は全て探し当てて下され!!

吉田城(三河) (26)
この石垣の刻印は土佐藩とか。そんな落書きあるように見えますか?

吉田城(三河) (261)
いかん、トサ(逆文字)の「ト」の位置がずれている・・・・

吉田城(三河) (29)
興味のある方は是非とも宝さがしに来て下さいませ。

【オマケのお話】

元亀二年(1571)4月28日、武田信玄が遠江・三河侵攻作戦を行い、徳川方の吉田城を攻めたという史実が通説となっているが、最近どうやらこの史実に疑義が生じているらしい。

そんな疑問を丁寧に解説しているサイトがあったので、ご紹介しておきます。

静岡県のお城

管理人はTaizoさんという方で、文献史料が専門のスペシャリストのようです。お若いのに凄いなあー(溜め息)

吉田城(三河) (31)
南東の堀び面する切岸は石垣。正面ですものカッコつけなきゃいけません!(笑)

吉田城(三河) (34)
本丸虎口。喰い違い虎口になっている。

≪吉田城≫ (よしだじょう)

標高:10.5m 比高:- 
築城年代:不明
築城・居住者:牧野氏、今川氏、松平(徳川)氏、池田氏
場所:愛知県豊橋市今橋町
攻城日:2012年10月10日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:0分 駐車場:有り
見どころ:石垣、高土塁、堀、復元櫓
注意事項:特に無し
参考文献:豊橋市発行の観光パンフレット、その他
付近の城址:長篠城、田峯城、亀山城、岡崎城、浜松城、二連木城など。(あっ、二連木城見るの忘れてた・・)

吉田城(三河) (33)
何の変哲もない二の丸の風景を見ながら吉田城とはお別れです・・・(武蔵の五遁さんをパクったゾ)



吉田城(三河) (21)
同じ築城者なのにねえー、同情しますよ・・(爆)




スポンサーサイト

Posted on 2014/08/14 Thu. 16:11 [edit]

CM: 6
TB: 0

0711

馬場美濃守信房の墓 (愛知県新城市長篠)  

◆「不死身の鬼美濃」終焉の地にて落涙◆

武田四天王の一人である馬場信房は、信虎・信玄・勝頼の三代に仕え、戦場に赴く事およそ七十を超えるも、かすり傷負わなかった彼は「不死身の鬼美濃」と評された。

ちなみに武田四天王の他のメンバーは、山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌豐(ないとうまさとよ)、春日虎綱(かすがとらつな、または高坂昌信)というのが定説らしいが、個人的には板垣信方さんを入れてあげて!と思ってます。

長篠城 (2)
長篠古戦場を見なければ死ねない・・と思いつつ2012年10月、ようやく訪問。これで寿命が尽きても大丈夫?(笑)

小生は武田フリークでは無いが、築城名人である馬場さんの終焉の地はどうしても見ておきたかった・・・。

設楽原古戦場 (49)
設楽原古戦場(したらはらこせんじょう)にある日本史上で最も有名な(?)馬防柵。

設楽原古戦場 (52)
背の低いポニーのような馬でこんな柵に突進するほど武田軍はアホだったとは思えません・・(汗)

武田の騎馬軍団といえば、西部劇で地元住人のインディアンを駆逐するような背の高い馬をイメージする人が多いと思いますが、背の低い日本人があんな馬に乗れる訳無いでしょう。

それに馬は移動手段として貴重だったので、戦場に投入したとは考えづらいというのが持論です。無論、大将はもちろん、幹部クラスや将校などが退却には使ったと思われます。

設楽原古戦場 (57)

既成概念を打ち破るというよりは、リセットして考えてみる。「この戦争はここで本当にあったのだろうか??」

天正三年(1575)5月21日。「その時 歴史は動いた」 が、武田壊滅の真相は後世の創作が邪魔しているような気がしてならない。


【長篠城攻防戦と設楽原の戦いの真相は謎である】

双方が合戦に及んだ最中に、合戦時に死ぬ奴は少ない。大量の死傷者が出るのは、敗者が退却する時である。勢いに乗った敵方が、戦意を喪失し逃げ支度をしているわが軍に攻めかかれば大量の戦果を挙げられるであろう。

長篠の戦いも、織田・徳川の軍勢が優勢な展開に終始した事も有り、、武田軍の死傷者の数は、退却も含めて相当な数となった。

設楽原古戦場 (45)
設楽原古戦場の遠景。双方合わせて数万の軍勢が雌雄を決した古戦場などとは思えない狭さである。

設楽原の戦い(長篠合戦)における武田方の敗因は諸説あるが、御一門衆である穴山信君(あなやまのぶただ)の命令違反による戦線離脱というのが真相に近いと云う。

山県や馬場が勝頼に、織田・徳川との決戦を避け本国への撤収を諫言したが聞き入れられず、やむを得ず戦端を開いたという説が主流であるが、果たしてそうであろうか?

長篠城の包囲戦を指揮し、設楽原における決戦を主張したのは穴山梅雪(信君)であり、勝頼は意見する事も出来ず戦況が悪化するのを見届けるしかなかったというのが真実に思えてならない。

設楽原古戦場 (60)
敗れた武田軍は信濃に退却するために北へ逃れたと云う。

●馬場美濃守の最期 ※ウィキぺディアより引用

元亀4年(1573年)4月、信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐するが、山県と同じく、勝頼からは疎まれたという。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは山県と共に撤退を進言するが容れられず、代わりの策も勝頼の側近に退けられるといった有様であった。ただし、これは確たる資料に出てくる話ではなく、後世の作り話である可能性が高い。

5月21日の設楽原での織田・徳川連合軍との決戦では武田軍右翼の中核に配されるが、味方は敵の防御陣を突破できずにいた。元々、数で劣る味方の攻勢が長続きする訳がなく、次第に崩れだした武田軍は、有能な人材を次々と失い、戦線は崩壊。大敗を喫した勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた自身は反転して追撃の織田軍と戦い、戦死した。『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。これは同書にて「余多の者に手を負はせ、其の後、腹十文字に切り、比類なき御働き」と評された三好義継の最期と同等である。享年61。豊川(寒狭川)沿いの出沢(すざわ、新城市出沢)が戦死の地とされており、石碑もある。

なお墓所は、出沢ではなく長篠城址に近い新城市長篠字西野々の住宅地にある。

長篠城 (58)
長篠城近くにある馬場美濃守の墓所。ちょっと分かりづらい場所にある。

小生は武田フリークでは無いが、甲州流の美しく堅固な城を数多く手掛けた馬場美濃守信房の隠れ信者である。

彼の最期の地を訪れるのは巡礼にも似た心境である・・・

長篠城 (59)
馬場美濃守信房の墓所。

武田家の重臣として敗戦の責めを背負い、殿軍(しんがり)として勝頼を守り、武田家の再起を願う彼の想いが聞こえたような気がして、不覚にもその場で落涙した次第である・・・。

設楽原古戦場 (2)
馬場美濃守着用の鎧 (長篠城址史跡保存館)

≪馬場美濃守信房の墓≫ (ばばみののかみのぶふさのはか)

標高:50.0m 比高:-
場所:愛知県新城市長篠西野々51-1
攻城日:2012年10月10日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
付近のスポット:「長篠の戦い史跡めぐりコース」でがっつり見て廻りましょう。 







Posted on 2014/07/11 Fri. 23:36 [edit]

CM: 6
TB: 0

0923

設楽城 (愛知県北設楽郡東栄町)  

◆別所街道を見張る要塞◆

先日は甲斐国へ遠征し五ヶ所攻め落とす予定が移動時間を読み違えて三ヶ所で終了するおバカな遠征軍(笑)

然らば返す刀で山布施、七二会にある四つの城へ攻め入るが、得体の知れないケモノの威嚇に恐れおののく(汗)

「真面目にブログ更新しろよ!!」     仰せの通りでござる・・・・(爆)

今回ご紹介するのは、奥三河の隠れた名城の誉れ高き「設楽城(したらじょう」

設楽城(三河) (28)素敵な地名です。

この城、元々今回の攻城戦ツアーのリストには無くて、湯谷温泉で一泊して別所街道経由で信州へ帰る途中で偶然看板見つけて攻め込んだ次第。

お城の匂いがすれば、何処でも攻め込むってワケさ・・(笑)

設楽城(三河) (4)道広げ過ぎでしょ!

説明板によれば、建久元年(1190)設楽資時が設楽八名の領主となり、正和元年(1312)に設楽重清が岩瀬郷へ配置換えとなるまで約120年間を設楽氏が治めたという。築城時期もその頃らしい。

そんでもって気になったのが駐車場の説明板に書いてあった最初の文。

「この城跡は、三河山間部に多い山城のうちの最古のものの一つで、鎌倉時代初期の形式を良く残している。設楽氏の居城であったと云われ、戦国時代にはすでに城がなくなったと推測されている」

設楽城(三河) (1)

「へえー、鎌倉時代の山城なんだあー(汗)」

鎌倉時代初期の形式ってどんな定義なんだろう?教えて欲しいなあ・・・

戦国時代には無かった?小生のようなシロウトが見ても、戦国時代末期までバリバリ現役だったと思えるんですが、どうでしょうか?

設楽城(三河) (5)郭2背後の大堀切。

【立地と概要】

大千瀬川が北へ大きく蛇行する場所に突き出た半島状の小山でまさに要害の地である。現在は国道151号線が城域の南側を通っているが、往時の別所街道は川の北側であり三河と信州を結ぶ間道としても重要だったと思われる。
城域は南北約300mで四つの曲輪からなり大手は鞍部付近であろうか。
城の東側にある加賀野集落と先林を繋ぐ橋の名は「戦橋」と呼ばれ、籠城時には破壊され敵の侵入を防いだものと思われる。

設楽城縄張図①まさに「背水の陣」の縄張りである。

三河の城は川を背後にした造りが多いと思うのは気のせいであろうか?

長篠城も吉田城も二俣城もそんな感じ(笑)

設楽城(三河) (16)南側の高土塁が丸馬出しを彷彿とさせる郭2全景。

設楽城(三河) (6)堀埋めちゃったみたいです。

設楽城(三河) (12)東側の沢に残る堀切。


この城の最大の見どころは「郭2」であろう。

武田流を思わせる丸馬出しっぽい半円形の土塁。三日月堀だったら最高なんですが残念!!・・(爆)

設楽城(三河) (7)イイねえー。

えっ?他も一応見たいって?

本郭は慰霊碑建立で改変されたようで、唯一残っているのは背後の土塁が一部分。全周していただろう土塁は削られたんでしょうか。

設楽城(三河) (14)こんなんイランわ!

設楽城(三河) (9)土留めの石積みの残る土塁跡。

設楽城(三河) (23)細長いだけの郭3。

設楽城(三河) (26)鞍部の最終の堀切。大手はこの方面だったか?

城域はそんなに大きくないが、三方を川と断崖絶壁に守られた要塞である。

その気になればある程度の期間は敵を引きつけておけるだけの機能は充分にある。

武田統治時代に大幅な改修を受けて戦国末期まで使われたと思われるが、如何でしょうか?

≪設楽城≫ (したらじょう 城山)

標高:294.0m 比高:47m
築城年代:不明
築城・居住者:設楽氏、大勢力?
場所:愛知県北設楽郡東栄町
攻城日:2012年10月11日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:土塁、堀切
注意事項:特に無し
参考文献:
付近の城址:

設楽城(三河) (29)城市(しるいち)からみた設楽城全景。













Posted on 2013/09/23 Mon. 12:02 [edit]

CM: 2
TB: 0

0916

長篠城 (愛知県新城市長篠市場)  

◆山家三方衆の明暗を分けた難攻不落の城◆

【長篠城主 菅沼正貞の誤算】

元亀二年(1571)、それまで徳川家康の配下であった三河の山家三方衆の奥平氏(作手)、菅沼氏(田峯)は信玄の調略により武田方へと切り崩された。

田峯菅沼氏の分家であった長篠菅沼氏の6代目当主正貞は、武田家への寝返りを良しとせず抗戦するも、秋山信友の家臣や同族への懐柔策が功を奏し正貞も仕方なく武田方に転じたという。

長篠城 (35)

翌元亀三年(1572)十月、西上作戦を敢行した信玄に菅沼正貞も山家三方衆として山県昌景の与力として従い転戦する。

翌年四月に甲府への帰還途中で信玄が亡くなった事を確信した奥平氏は、六月に家康より出された破格の誓紙を信用して九月に領地の作手(つくで)を脱出し徳川軍へ合流。

同年七月、動きのとれない武田軍を挑発するように家康は長篠城を囲む。

おそらくこのタイミングで、奥平氏への調略同様に菅沼正貞にも誘いがあったと見るべきであろう。

「ここらへんで城を明け渡して、徳川さんに恩を売っておきましょうか・・」

長篠城 (3)帯郭跡(二の曲輪)。奥の土塁の高さに注目。

ここで、正貞にまさかの事態が発生してしまう。

来ないと確信していた後詰め部隊(武田信豊)がすでに三河へ進駐していたのである。

が、冷静沈着にアリバイを完璧にして徳川方に寝返った際の保障も取り付け、とりあえず武田軍に合流する。

奥平氏の出奔に衝撃を受けた武田軍は、山家三方衆の他の二家の動向に疑惑を抱いていたのである。

長篠城推定見取図①看板の縄張図もいいけど、自分で描いてみる縄張図も捨てたもんじゃない?

あっさりと長篠城が陥落した事実に納得のいかない武田軍は、正貞を信州の小諸城に幽閉し徹底的に調べ上げる。

武田氏が疑い深いのではなく、いつの時代でもそうだが一度裏切ったヤツは信用されないのだ。

証拠は出なかったものの、武田氏滅亡まで収監され続けて天正十年(1582)に獄死。

その後、密約の事実を知る正貞夫人が家康に直訴し、嫡子は徳川頼宣付けとして登用されたという。

長篠城 (4)主郭と帯郭の間の堀(東側)。往時は水堀という描写が多いが、水量を調節した泥堀に近いものだったと思うが。


【一度きりのチャンスに全力で立ち向かった奥平貞昌の奮戦】

天正元年(1573)九月、奥平貞昌は武田氏に叛いて亀山城を逃げ出し徳川軍に合流したものの、しばらく捨て置かれ、寝返りの約束を記載した誓紙に書かれた長女亀姫との結婚も反故にされつつあった。

「我慢比べか・・・」

天正三年(1576)、山家三方衆としてともに戦場を戦った長篠城の菅沼正貞が城を明け渡し、徳川が接収して城番制を敷いていたのは聞いていた。

長篠城 (6)堀の角度と高土塁の角度が一致していない西側の空堀跡。意図的だとすると、かなり技巧的で面白い。

同年の二月二十八日、家康に呼び出された奥平貞昌は以下の厳命を賜る。

「三月より長篠城の城代を命じる。武田勝頼の侵攻に備え死守せよ!」

(お前は絶対に武田に叛ることはできない身である。だから徳川のために命懸けで働いて、この城を守り抜く以外に生きる道はないのだぞ)

そして間もなく一万五千の武田軍に包囲された。

後詰めの保証無き籠城戦の90%の絶望の中で彼が信じたのは織田・徳川の援軍ではなく、10%の己が生への執念だったのであろう。

長篠城 (13)意外に狭い主郭。

「命からがら作手から脱出し生きながらえたのだから、今度だってうまくいく。必ず生き残ってやる」

城主の意気込みも約五百の籠城兵たちの士気も高く、武田の猛攻に耐えた。

だが時が経過しさすがの要害長篠城も力攻めに押されて二の曲輪と本郭を残すのみとなり、兵糧も尽きてきた。

「鳥居強右衛門は、無事に辿り着いて使命を果たしたのだろうか・・・」 (長篠~岡崎は約50km)

長篠城 (33)城内から鳥居強右衛門の磔場所を臨む。充分に声が届く位置である。


そして鳥居右衛門(とりいすねえもん)の磔(はりつけ)事件が起きた。

「援軍は来る! この眼で確かに見て来た! あと二、三日、堅固に守れ!」

城内に戻る所を武田軍に捕まり、対岸から城内の兵に向けて援軍は来ないから降参するように言え、と強制されるが、彼もまた死を覚悟で自分の運命に賭けたのである。

足軽の身分で一生を終るか、それとも援軍が到着し味方が勝ち長篠城を救った英雄として名を残すか。

後者を選び処刑されたが、彼の子孫は最終的に千五百石取りの上級武士となり人々の尊敬を受け続けた。

長篠城 (30)本郭から野牛郭を見下ろす。


城主の奥平貞昌は長篠の戦いの功績により名声を得て、織田信長からは褒美として一字を下賜され信昌と改名した。家康は約束通り亀姫を彼に与えた。

それからの信昌は出世街道を走り続け、天正十八年(1590)の家康の関東移封では上州小幡三万石の大名となり、関ヶ原の跡には美濃加納十万石を貰った。

信昌の四男忠明は松平の姓を貰い播州姫路の城主となり十八万石を領した。一族はことごとく栄えた。

長篠城 (60)弾正郭(民家のため撮影不可)脇の標柱と堀跡。

長篠城 (65)道路開発と宅地化により改変され面影すら残らない二の曲輪付近。ここも含めて標柱だけってのが結構多い。

さて、長篠城に関わる漢(おとこ)たちの物語、如何でしたか。

えっ、今回は真面目一辺倒??まあ、たまにはそんな気分の時もありますね。

退屈な方⇒漢(おとこ)のサムライ度チェックで自己分析をお勧めします。

※ちなみに小生はハラキリ度100%でしたあ・・めでたしめでたし・・(笑)

長篠城 (2)このコースを実際に歩いてきましたよ。


≪長篠城≫ (ながしのじょう 末広城 扇城)

標高:50.0m 比高:-
築城年代:永正五年(1508)
築城・居住者:菅沼氏、徳川氏、武田氏
場所:愛知県新城市長篠市場
攻城日:2012年10月10日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:土塁、堀切
注意事項:特に無し
参考文献:「武田信玄 アルバム&エッセイ」(新田次郎著)
付近の城址:設楽原古戦場も必見









Posted on 2013/09/16 Mon. 10:24 [edit]

CM: 2
TB: 0

0829

野田城 (愛知県新城市豊島)  

◆巨星墜つ~信玄公の最後の城攻め◆

のほほんと佐久地方のゴミのような砦でも記事にしていれば、下調べにも困らないだろう。

三河あたりの城跡は天下の行く末に関わっているので、田舎者が掲載するには恐れ多い・・(汗)

間違った事を書こうものなら炎上必死である・・(笑)

今回ご紹介するのは「信玄、スナイパーに斃れる!」伝説の残る野田城。

野田城(三河) (27)信玄公が最後に城攻めの極意を勝頼に悟らせたという野田城。

「今宵はここまでに致しとうござりまする」信玄の母である大井夫人を演じた若尾文子の名セリフである。

昭和63年(1988)1月に始まったNHK大河ドラマ「武田信玄」(中井貴一主演 全50回)は毎週欠かさず見て、新田次郎の原作本はもちろん、武田信玄に関する関連本は片っ端から読破した。

残念ながら、この時には中世城郭探訪のスイッチは押されなかったようである・・・・(笑)

ただ、信玄の最後の野田城攻めの描写は深く記憶に刻まれ、いつか訪れたいという思いは消えなかった。

野田城(三河) (3)城跡の説明板。

25年の想いは、ようやく探し当てた現地で潰えた(汗)

信玄の病状回復の為に行軍を停止したとはいえ、三方ヶ原で徳川家康を蹴散らした西上の軍三万ともいわれた武田軍が、1ヶ月かけていたぶる城の規模であろうか?

現地の見取図で「はあ、そうですか・・」とは思えないので、現在の地図に往時の推定の図面を上書きして妄想で描いてみた。

野田城見取図①

搦め手方面の南側には川幅の広い豊川が流れ、約10km上流には長篠城がある。

半島状に突き出た河岸段丘を利用して築かれた野田城は、東に「桑淵」西に「龍淵」という深い断崖で守られ更に河川をせき止めて深い水堀にしていたらしく、攻め口は北側の大手口のみである。

なるほど、後詰めが期待できるのであれば籠城戦向きの縄張りである。

野田城(三河) (6)現在の郭3.こんなに狭いはず無いでしょ。


【城主・城歴】

山家三方衆の「田峰菅沼氏」の定忠の三男定則が、永正二年(1505)に設楽郡を支配していた富永氏の後嗣として富永館に入ったのが始まりとされる。

居館は防御も脆弱で豊川の氾濫による水害にも見舞われたため、新たに野田城を築城したという。

当初は今川に属して各地を転戦し功績を上げ、一時期は松平清康(家康の祖父)に鞍替えするも清康が死ぬと再び今川へ乗り換える。

天文十三年(1544)に嫡子の定村が跡を継ぐ。
弘治二年(1556)に作手の奥平貞勝(亀山城を参照)が田峰菅沼氏と共に織田方に乗り換えた為、今川氏より他の三河の諸将とともに鎮圧を命じられ合戦となる(雨山合戦)。定村は戦の最中に敵の矢に射抜かれ即死。

戦死した父の跡を継ぎ定盈(さだみつ)が当主となる。今川義元が桶狭間で討たれると、徳川家康に従属。
翌年、今川軍に野田城を落とされるという失態があったものの、すぐさま夜襲にて奪還している。
小部隊ながら遠江を巡る武田VS徳川の戦いには戦功をたてたという。

野田城(三河) (5)坂茂木で周囲を囲われた郭2と根古屋村の立て看板(往時の地名だという)

【野田城の戦い】

元亀三年(1573)12月、三方ヶ原の戦いで徳川軍を散々に打ち破った三万の武田軍は浜名湖湖畔の刑部村で越年し翌年三河へ侵入し、徳川方の属城であった野田城を包囲する。

この時の城将は菅沼定盈で守備兵は約500名程度だったという。(現在の城跡での収納はとても不可能だ・・笑)

通常、城攻めには5倍の兵力といわれるが、30倍の兵力というのも凄まじい・・・(汗)

まあ、実際に攻城戦に回された人数は三千程度だと云われているが。

野田城(三河) (7)郭1と郭2の間の堀跡。

このとき既に病床にあった武田信玄は野田城攻撃の総大将である勝頼を枕元に呼びつけて野田城の攻め方を聞いたという。

以下、新田次郎の「武田信玄 山の巻」より引用してみた。

「せいぜい五百人の軍勢がこもっておる小城故に、人数が揃ったところでひと押しにもみ落とします」
と強い調子で答えた。

「野田城の図面を見よ。ひと押しに落とせる城かどうかが分かるだろう。城は大、小には関わりなく、第一に城を守っている者の士気、第二にはその城自体の構造にある。野田城は二股城に良く似た構造の城であり、これを守る菅沼定盈以下五百の三河勢も強者揃いと聞いておる。簡単に考えてはならぬ。小城を攻めるのに大軍を以てするは愚かなることである。五百を討ちとるのに、五百以上の損害を出したら勝ったとは云えぬ。落城を急がねばならぬ戦局の時は、千、二千を失っても、五百人の籠っている城を取らねばならぬこともあるが、朝倉義景が軍を退いてしまった現在においては、西上を急ぐ事はかえって不利である。落ち着いて油断なく攻めるのが良い。このような時には兵を一人たりとも無駄死にさせてはならぬ。五百の城兵に対しては五百以上の兵を向けるべきではない。五百の兵を用いて落とす事を考えよ」(原文ママ)

野田城(三河) (9)郭2から続く土橋の先の郭1.

※話は逸れるが、新城市の町おこしのイベントとして昨年から城跡で「新城笛の盆 野田城伝」が行われている。写真に写っている竹製の柵や小屋組はその時の名残のようだ。
まあ、それにしても午後の演奏会は有料でやってるらしいので、片づけていただかないと雰囲気台無しである。

野田城(三河) (11)


確かに連梯式の小さな城だが、大手からの無理押しは相当な犠牲を強いられる。

勝頼は、崖淵となっている東西の城壁が脆い事に気が付いた。

「そうだ、金堀人夫を使って城を掘り崩してしまおう」

勝頼の案なのかは物語の創作であるが、黒川金山の坑道人夫が穴掘りに投入されたのは事実だという。

城の東西から500人の抗夫が穴を掘り始めた。城の守備兵も気が付き鉄砲等で妨害するが、逆に武田軍の攻撃に晒される結果となりなすがままであったという。

野田城(三河) (12)本郭跡の石碑。

地下から響く不気味な音と、城内を分断される危険を感じた城兵は、郭3と郭2を放棄し本郭へ移動する。

労せずして城の半分を占拠した武田軍は相変わらず静観している。

本郭の作業坑道では、水の手を探し当てて断ち切った。井戸はたちまち枯れ、城兵は水不足に陥ったという。

徳川家康は、野田城が陥落すれば三河の防衛網が破たんし岡崎城・吉田城も危機に陥る事を承知していたが、三方ヶ原の敗戦で後詰めするだけの兵力もなく見殺しにするしかなかった。

野田城(三河) (16)井戸跡。枯れたままだ(汗)

(実は、この攻城戦はカモフラージュであり、武田軍の真の目的は三河における重要戦略拠点の長篠城の拡大補強であったという。事実、武田軍の主力部隊は昼夜兼行の土木工事で長篠城を難攻不落の要塞に仕上げている)

狭い本郭に城兵五百がひしめき合い、水も無くなればいくら屈強の三河兵といえども死を待つほか無いだろう。

城将の菅沼定盈は、武田勝頼に城兵の命の保証を交換条件に城の明け渡しを申し出た。

勝頼もこれを了承し、菅沼定盈と援軍の将の松平忠正は武田軍の捕虜となった。

一月十五日の攻撃開始からちょうど一ヶ月後の二月十五日に野田城の戦いは終わった。

野田城(三河) (14)南側より見た主郭。

この頃より信玄の病状は悪化し、長篠城または近くの鳳来寺で療養していたという。

その後、三月十五日には徳川方と捕虜の交換が行われ、山家三方衆の人質と菅沼定盈・松平忠正が長篠城付近でそれぞれの軍に返された。・菅沼定盈は強運の持ち主だったのである。

野田城(三河) (23)城内の掘立建物もこんな感じの粗末なものだったのであろうか。


【狙撃伝説】

信玄の死因は病死であり、労咳(肺結核)というのが定説だが、異説として野田城包囲中に狙撃された傷が原因で死亡したという説がある。

「松平記」によれば、野田城の守備兵の中に村松芳休という笛の名手がいて、毎夜溢れんばかりの美しい音色の笛を吹き、守備兵や攻城兵の心に染み透っていったという。

武田信玄もその美しい音色に誘われ、毎夜城内が見える場所に腰かけ音色に聞き入っていたという。

二月九日の夜、その音色をかき消す一発の銃声が轟いたかと思うと、攻城軍の陣営は急に物々しい騒ぎとなった。

「お館様が撃たれた・・・・」

定盈の家臣で鉄砲の名手である鳥居三左衛門はニヤリともせずにその場を立ち去ったという。

野田城(三河) (13)狙撃推定値。ここから約100m先の信玄を狙ったと云う。


「そんなの作り話でしょ!」という輩もいらっしゃるかと思うが、西上作戦の夢を断たれたのが、たった一発の弾丸だった・・というのもありかなーと思ってます。

この時に使用されたとされる火縄銃の銃身(武田砲)が設楽原歴史資料館に展示してある。

もちろん見てきましたよ。日本に残る最古の火縄銃らしいです。しかも銃身だけ・・(汗)

設楽原古戦場 (13)ひょっとして撮影禁止だったかしら(汗)

当時の火縄銃の射程距離が約70m程度と云われているので、もし当たったとすればかなりマグレっぽい(笑)

そういえば、信長さんもスナイパーにやられてたような史実もあるみたいなんで一概に嘘とも言えない。

まあ、長々とお伝えしてきましたが、こんな有名な城なのに記載されている方の少ない事には閉口。

信玄公もおっしゃってましたね「城の大小ではない」って・・(笑)

野田城(三河) (24)ピンボケご容赦。本郭東の高土塁。


≪野田城≫ (のだじょう 根古屋城)

標高:50.0m 比高:- 
築城年代:不明
築城・居住者:菅沼氏
場所:愛知県新城市豊島
攻城日:2012年10月10日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:0分 駐車場:城跡看板前に路駐
見どころ:郭、堀切、高土塁など
注意事項:特に無し
参考文献:-
付近の城址:長篠城、田峯城、亀山城、岡崎城、吉田城などきりがない。
その他:対岸に信玄公が狙撃された場所の碑があるらしい。



笛の演奏に興味のある方は来週行われる「野田城伝」へどうぞ!

野田城伝①






Posted on 2013/08/29 Thu. 18:17 [edit]

CM: 2
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top