らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0724

木曾義仲史跡巡り④ 上田市周辺~長野市  

◆義仲祭りは宴たけなわでございますが、そのうち再開しますって事で「中締めの巻」でお開き◆

「ええい、訳のわからぬ平安末期の源平合戦など掲載しおって、さっさと戦国時代に戻さんかい!!」

「火を怖がる牛の角に松明(たいまつ)など付けたら全速力でバックするだろう。高速道路を逆走する老人どもと同じじゃ、火牛の計などありえん!!」

まあ、そう怒る皆様のご意見はご尤もでございますが、時として「浪漫」を求めて時空の旅人ってことで・・・(笑)

木曾義仲 017
木曾町日義の「義仲館」。人形を使って義仲の生涯を分かり易く説明しているので必見だ。


木曾義仲 022
アンニュイで倦怠期のような義仲と巴も必見だ・・(笑)


【八木沢天満宮の古碑】 上田市八木沢

義仲公の五百五十回忌にあたる江戸時代の享保十七年(1732)に手塚氏の末裔が建立したと伝わる。

IMG_2317.jpg
道真公のご利益に授かろうと合格祈願の天馬の絶えない神社である。

IMG_2318.jpg
天満宮の参道脇にある古碑。注意してみないと素通りしてしまいそうだ。

まあ、小生の拙い解説より説明板をお読みいただくのが早いかと・・・

小生の会社の後輩に聞いたら、「天満宮は合格祈願で受験生には有名ですが、木曾義仲?誰ですかその人?」

コイツを洗脳することから始めないとダメらしい・・・・(汗)

IMG_2319.jpg
八木沢自治会の英断に拍手ですw




【安良居神社】

ここは、以前に紹介した丸子良存館と共に丸子城の居館跡の一つで神社の義仲伝説はオマケのようである。

社殿によると、永寿二年(1183)の創建と伝えられ木曾義仲が依田城館に逗留中に源氏の氏神である八幡大菩薩を祀り創建したと伝えられ、出陣に先立ち愛宕神社(上田市御岳堂)の笠懸の矢を八幡神社に奉納したという。現在は安良居神社(あらいじんじゃ)の名称となっているが、かつては八幡神社として人々に親しまれた。

2014山城収め (20)
安良居神社の参道

2014山城収め (21)
八幡社の建つ場所はかつての丸子城の居館跡で、現在はここから丸子城に登る遊歩道が整備されている。



【白鳥河原の勢揃】 東御市本海野

治承五年(1181)六月、以仁王の令旨により木曽で旗揚げした木曾義仲は、依田城を経て白鳥神社前に広がる千曲河原「白鳥河原」に挙兵した。「平家物語」「源平盛衰記」に語り継がれる「白鳥河原の勢揃」である。義仲の元に馳せ参じたのは、樋口・今井・根井・楯といった木曽四天王の家臣をはじめ、地元の海野、祢津、望月、小室ら滋野一族を中心とした東信濃の豪族と、西上州の武士団が集結。その数、二千騎とも三千騎とも伝わる。
当時の海野郷は海野一族の宗家、海野氏の本領であり、経済、交通、軍事の要衝であった。

白鳥河原(東御市) (17)
日本武尊の東征を縁起とし、海野氏の祖と伝わる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭神としている海野神社。

木曽義仲挙兵において、その中核を担った海野氏。中原兼遠から義仲を託された当主・海野幸親のもと、嫡男海野幸広は侍大将を担い(上洛後の平家追討において備中水島の海戦で討死)、次男通広(みちひろ)は義仲の祐筆として活躍した大夫房覚明(たゆうぼうかくみょう)であると云われています。また、幸広の嫡男海野幸氏は義仲の滅亡後に頼朝に仕え、鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せた。

白鳥河原(東御市) (14)
海野氏発祥の郷として最近になって記念碑が建てられた。真田氏も滋野一族であるとするが、果たしてどうであろうか。

白鳥河原(東御市) (23)
運よく社殿の内部を撮影させていただきました。

白鳥河原(東御市) (27)
白鳥神社は北国街道の宿場町だった海野宿の東端にある。

東信濃と上野の武士団はここ白鳥河原に集結し、川中島の横田河原に展開する平家方の城助職軍との決戦に向けて出陣。
破竹の快進撃はここから始まったのである。

ちなみに海野宗家の居館は白鳥神社の南西にあったとされるが、現在は千曲川の河床となり往時の面影は全く知る由も無い。

白鳥河原(東御市) (29)
現在の千曲川の河原の様子。



【千曲市周辺の義仲関連の史跡】 

●大雲寺  千曲市八幡

義仲が帰依したと伝わる寺院で、近世城郭を思わせる高い石垣作りの外観は素晴らしい。広大な敷地に咲く紫陽花や巨大な池に群生するように咲く蓮の花は実に見事で、愛好家の隠れた名所であるようだ。

大雲寺(千曲市) (2)
●●城です・・といわれても「なるほど」と思わせる石垣。

大雲寺②
寺にしておくにはもったいない縄張りである。



●武水別神社 献納滝壺の石 千曲市八幡

養和元年、木曽義仲が平家との合戦に臨み武水別神社に戦勝祈願をした折、祈願文を奉持した使者がこの石に湛えられていた雨水で愚息の汚れを洗い清めてから神前に額突いたと云われている。

武水別神社他 (1)
その後、信玄も謙信も景勝も戦勝祈願で参拝したという由緒正しき武水別神社(たけみずわけjんじゃ)

武水別神社他 (2)
まあ、確かに滝壺のような変わった形の石でございます。

武水別神社他 (4)
最近は水が溜まっていないらしい・・・

この神社の代々の神官は松田氏で、戦国時代末期に小笠原貞慶の日岐城攻めで城を追われた日岐盛直が、亡命先の上杉景勝の命により空位となっていた武水別神社の神官となった由来がある。もちろん、神社としてではなく、稲荷山城の惣構えの外郭の砦としてである。

詳しく知りたい方は八幡松田館を参照願います。



●舟繋ぎ石・義仲鞍掛け石 千曲市稲荷山

養和元年(1181)、横田河原の合戦に向かう義仲はここから舟で出て千曲川を下ったという伝説がある。

武水別神社他 (10)
元々は違う場所にあったようだが農地改修でこの場所に移転したらしい。

武水別神社他 (8)
こんなデカイ石に繋ぐ必要があったのか?

ここから道沿いに40m北の荒町公民館の脇には「義仲鞍掛け石」がある。城氏との戦いの際に、鞍を置いた石だという。
合戦場はここから4km東の雨宮付近なので、休息を取ったのかもしれない・・。

武水別神社他 (11)
「どこにでもありそうな石」というのは禁句だ・・・(笑)



●雨宮の渡 千曲市雨宮

義仲というよりも、第四次川中島合戦で妻女山に陣を張っていた上杉軍が突如として霧に紛れて千曲川を渡河した場所として名高い。往古より川中島への入口にあたり、海路・陸路の要衝の地であった。
養和元年の横田河原の戦いの主戦場はこの辺りとされ、横田城に布陣した城助職(じょうすけもち)率いる一万余騎の平氏の軍勢に僅か三千騎の義仲軍が決戦を挑んだ。

数の上で勝ち目の無い義仲軍は、井上光盛の率いる仁科の別働隊が平家を偽装して近づき背後から渡河し城氏の本隊を奇襲。混乱した城氏率いる平家軍に義仲軍が正面から攻め挟み撃ちになるとイッキに崩れて敗走。この合戦の勝利により義仲の北陸攻略が始まるのである。

雨宮の渡し (3)
上信越道の更埴ジャンクションの南東200mに小さな公園と碑がある

雨宮の渡し (6)
説明板も川中島合戦に関するもので、義仲の横田河原合戦に関する記述は無い。

雨宮の渡し (9)
かつては雨宮付近に千曲川の本流の流れが通っていたという。

長閑な田園風景の広がる河川敷だが、嘗てはここで、源氏と平家の雌雄を決する合戦があり、その後再び上杉謙信と武田信玄の戦国大名の凌ぎを削る戦いがあったのだ。




【長野市周辺の義仲関連の史跡】

●今井神社  長野市川中島町今井

義仲の四天王である今井兼平が勧進したと伝わり、兼平の菩提を弔う五輪塔がある。
由緒を書き写すのも面倒になってきたので、説明板を掲載させていただくという暴挙をお赦しいただきたい・・・(汗)

今井神社(長野市) (3)
今井神社の鳥居。良く見ると地面に接続する部分がコンクリート製になっている。木造の鳥居の悩みの解決策であろう。

IMG_2796.jpg
今井神社の本殿。

今井神社(長野市) (8)
神社本殿の小路を挟んだ西側に今井兼平の墓と由緒書き、駒止石(こまどめいし)がある。

今井神社(長野市) (9)
詳細はこちらをご確認ください・・・(汗)

今井神社(長野市) (10)
兼平の五輪塔。百日咳の特効薬として参拝者が塔石を削り落した跡が残る。御利益はあったのだろうか・・・

●駒止石(こまどめいし)  今井神社内

解説板にもあったが、「この地に駐屯せよ」との馬のお告げによって兼平軍が駐留したという。その時の馬の蹄の跡だという。

今井神社(長野市) (12)

横田河原合戦の時に、城軍の背後に廻り奇襲を仕掛けたのは、北信濃の名族である井上光盛という説や四天王の今井兼平の率いる軍勢と云う諸説があり定かではない。



●駒洗いの池(馬洗いの池)  JR信越本線今井駅より南西150mの今井池田遊園地

横田河原出陣に際して、今井兼平が義仲の愛馬を洗った場所として伝わる。かつては池であったようだが、近年に埋め立てられて児童公園となっている。現在は標柱が残るのみである。

今井神社(長野市) (24)
ブランコ一基で公園と呼べるだろうか・・

今井神社(長野市) (27)
池の跡なので、水はけは良くないらしい。



「われも東山、北陸の二道を従え、平家を攻め落とし、日の本(ひのもと)に二人の将軍ありと云わせてみようぞ」

怒涛の如く、というよりは、だらだらと仕方なく掲載しちゃいました・・・(笑)

戦国時代の信州からは、その無数の険しき山と盆地の土地柄ゆえに全国統一の覇を唱える気構えや気骨のある豪族は生まれなかったのだ・・・という文面を見るたびにいちいち納得してきたが、実は違ったのだ。

そう、木曽義仲は少なくともそういう言い訳を打破して信濃から天下を狙ったのである。残念ながら戦国時代にはそういう気構えとカリスマ性を持った武将が信濃には存在しなかった(生まれて来なかった)のである。

山城踏査がひと段落したら、彼の足跡を訪ねて北陸~京都を旅してまた新たな義仲像に出逢いたいと思っています。

木曾義仲 020
義仲館(木曾町日義)の入口にある義仲&巴御前の像。チョッと渋すぎるかなあー(笑)














スポンサーサイト

Posted on 2015/07/24 Fri. 22:42 [edit]

CM: 4
TB: 0

0720

木曾義仲伝説の地巡り③ 上田市とその周辺  

◆そろそろ飽きてきたので一挙公開◆

ぼちぼち稼業に戻らないと読者離れに拍車がかかるので今回を一つの節目としたい・・・(笑)

ペースアップしてダラダラと掲載するので、義仲の伝承に感心のあるアナタはお見逃しなく!

【塩野神社】 上田市前山

最初、この神社が義仲ゆかりと聞いて「えー、何で?」と思い、神社の説明板も読んだがそれらしき事など何も無し。それでもと思い、近くに何かないかと探したらありました。それも手塚別当金刺光盛の兄とされる金刺盛澄の流鏑馬伝説・・・(汗)
まあ、兄ちゃんも流鏑馬伝説で有名だもんネ(笑)

IMG_2307.jpg
塩野神社の二の鳥居。一の鳥居と二町(約280m)離れた直線上にあり、流鏑馬が行われたという。

塩野①
塩野神社の一の鳥居。

IMG_2308.jpg
疾走する馬の上から50m間隔の的を射落とす競技だという。

IMG_2310.jpg
一の鳥居から二の鳥居方向には、確かに流鏑馬の舞台となった直線の参道が今も残る。

せっかくなので、下諏訪町の諏訪大社下社にある金刺盛澄像をご覧いただこう。

霞ヶ城2 (1)

ちなみに義仲の家来として斉藤実光を討つなど活躍した手塚太郎光盛の兄の盛澄は、義仲の北陸経由の上洛に従軍するが、地元の流鏑馬の奉納行事の為に帰省し、その間に義仲と弟は討たれてしまったという。(そんな理由での離脱は軍法会議ものだと思うのだが・・・)

その後、武家の棟梁となった頼朝が盛澄の流鏑馬の腕前を噂を聞き及び、鎌倉での行事に召集するが、またしても他の流鏑馬の行事に参加したため遅刻し、激怒した頼朝に死罪を申しつけられる。
金刺盛澄と親交のあった梶原景時の懸命な助命嘆願により、鎌倉で流鏑馬の再披露の場を得た盛澄は寸分違わぬ神技を頼朝の前で披露し褒美と所領安堵を賜ったという。
(ってか、頼朝の差し向けた軍勢に弟を殺された兄は敵に忠誠を誓う、それでいいのか?・・・)

塩野②
塩野神社の本殿。一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の本殿は江戸中期の作とされ独特の美しさがある。



【小鍋立の湯・黒地蔵】 上田市御岳堂

砂原峠の「木曽義仲挙兵の地」という大看板の近くに井戸のような湯元(鉱泉)がある。
現在は朽ち果て無いが、最近までは以下の説明板があったあという。

「小鍋立の湯」
昔、こゝに湯宿があり特に皮膚病、やけどの湯として賑わいました。
なんでもこの話を伝え聞いて、この源泉を汲んでいかれ、自宅の風呂で利用されている方もおられます。
注 飲用はできません
小鍋立の会

小鍋①

義仲の時代と関連があるのか?だが、道路を挟んだ反対側には正海清水という伏流水の湧き水跡があるので無縁では無いのかもしれない。

黒地蔵については色々調べてみたが良く分からない。

小鍋②
標柱は旧丸子町時代のもの。合併後に手入れされた様子も無く残念。



【正海清水】 上田市御岳堂

湧水の跡で現在は湿地が広がっている。絶えることなく湧き出ていた水は人々の生活を潤してきたという。木曽義仲をこの地に迎えた依田次郎は自分の居館を義仲に提供し自らは高築地に居館を築きこの湧水を利用したという。
戦国時代になり、大門峠を越え信濃に侵攻してきた甲斐の武田軍もこの峠で休息し湧水を利用したと云う。

正海清水①

また、正海清水の名称は人質として鎌倉に送られた義仲の長子「清水冠者義高」の名を取り正海清水の名が付いたとも伝わる。

正海清水②
立派は石碑が残る。ここには有志の方の説明板があり判り易かった。

IMG_2197.jpg
武田信玄も村上義清との決戦(上田原の戦い)の前にここで喉を潤したのだろうか・・・



【依田神社】 上田市御岳堂

宗龍寺の北に約500mの位置にある。義仲が戦勝を祈願し八幡社を勧進したと伝わる。
地元の方に大事にされてきた神社のようだ。

依田神社①
道路からは奥まったところにある。

依田神社②



【岩谷堂観音 宝蔵寺】 上田市御岳堂

1200年前に比叡山第三代座主慈覚大師円仁を開基とし建てられた観音堂で、内村川が依田川を合流する手前の険しい断崖上にある。ここは源平合戦にまつわる伝承が多く残る。

IMG_2203.jpg


●馬大門と義仲桜

依田居館に逗留していた義仲が出陣に際し戦勝祈願に訪れ、馬で脇参道を駆けあがった事から馬大門と名づけられた。また、その時、山門脇の桜の幼木に馬を繋いだという。幼木は風雪を耐え巨木となるも衰えることなく毎年見事な桜を咲かせて人々を和ませている。

IMG_2206.jpg
馬大門と呼ばれる急坂の参道と義仲桜(しだれ桜)

●戦勝祈願の岩谷堂

義仲が戦勝祈願の為に参拝した岩谷堂。愛妾巴御前は義仲討死後この地に落ち延び、近在の池の平に庵を構え義仲をはじめ一族の菩提を弔うため一年にわたり堂に日参の後、法要行脚のためこの地を去ったという。

IMG_2211.jpg


●楓の前

平家の猛将悪七兵衛平景清は、平家が壇ノ浦で滅亡後旅の僧に身を変えて鎌倉に向かう途中でこの堂に立ち寄った。これを追って景清の寵妃「楓の前」もこの堂に来ましたが、景清が鎌倉で捕えられたのを知り、当所に隠棲して景清と平家の菩提に生涯を捧げたという。景清公の遺品が寺宝として伝わる。※景清は平氏で呼ばれるケースが多いが、源氏や平氏と並ぶ武家の棟梁としての名門藤原秀郷の子孫である。

IMG_2214.jpg
ここで菩提を弔っていたのだという。



●巴御前お歯黒の池 上田市御岳堂

木曾義仲討死後、この地に落ちのびて来た巴御前は義仲と一族の菩提を弔うために剃髪しここに庵を構えた。この池でお歯黒を洗い落とし一回忌法要まで岩谷堂に日参したという。その後再び法要行脚のため旅立ち、福光の地(富山県福光町)で没したと伝えられている。

IMG_2217.jpg

IMG_2219.jpg
池というよりは水溜まりのようだ。

※付近は民家が密集しているので、訪問の際はプライバシーに充分注意。駐車場は無い。



●葵の湯 上田市別所温泉

義仲の愛妾「葵」のために湯治場として作らせたと伝わるが定かではない。吉川英治の「新平家物語」には登場するのでここを訪れるファンは多いらしい。

IMG_2315.jpg

IMG_2313.jpg
入口には「新平家物語」の描写の一部が石碑として書かれている。



●平維茂将軍塚 上田市別所温泉

このブログでは二度目の登場である。戸隠の鬼女紅葉を退治した平維茂と義仲は接点が無いが、横田河原の合戦で戦った平氏側の総大将「城 助職」はなんと平維茂の末裔なのである。さすがに義仲相手に霊力は通じなかったようだ・・(笑)

紅葉伝説201406 (251)

紅葉伝説201406 (246)



●巴・山吹の五輪塔 上田市富士山

富士山村誌によれば、義仲討死後、落ち武者となった家来が名を隠してこの地に住みこの五輪塔を建てたが三代目に子が無く絶家となったという。
標柱も説明板も無いが旧上田市のブログに地図があったのでここで間違いない。当日この場所を探していたら、市民から問い合わせがあったとして市の職員も探していたので教えてあげた(笑)

巴・山吹①
何の変哲も無く説明板も無い普通の墓地。

巴・山吹②
どっちが巴でどっちが山吹なのか判らない。



今回で終わる予定でしたが、掲載するのも飽きた・・・・(汗)

怒涛の次号を待て!(笑)

 












Posted on 2015/07/20 Mon. 09:39 [edit]

CM: 8
TB: 0

0716

木曾義仲伝承の地巡り② 依田窪周辺(上田市御岳堂)  

◆たとえ上田市が見捨てても、今井兼平の如く小生は最期まで義仲と沿い遂げようぞ!◆

自分の住む町の首長の悪口など書きたくもないが、「おらが町の歴史」に対する不勉強さと他人事感には閉口する。

せっかく決まった大河ドラマなのに、ありきたりの方策とやる気の無さ。草葉の陰で丹波哲郎(真田太平記の真田昌幸役)もさぞご立腹であろうかと・・・(汗)

まあ、愚痴っても仕方ないので、義仲史跡巡りの続きでもご案内しましょう・・・(笑)


【八幡大神縣社】 (上田市五加)

源義仲が挙兵した途次、八懸社殿に戦勝祈願をした翌年の養和元年(1181)、「八幡大神」を、塩田八郎高光が勧請し、八懸社殿に相殿として祀り、八幡大神懸社と称した。八幡大神とは誉田別尊他二神のことである。

八幡①

この神社、義仲史跡というよりは、県下有数の大きさを誇る常夜灯として有名で、碑文は勝海舟の筆耕だという。

「幕府の犬」とまで言われて尊王攘夷派に命まで狙われた海舟さんですが、竜馬の依頼で岡田以蔵をガードマンとして雇い命拾いした話や、江戸城の無血開城の最大の功労者として有名でうよね。

八幡②
「善をおさめ、洪福を生む」という「勝海舟の書が刻まれた石灯籠。高さ8.6m。

八幡③
八幡大縣社の説明板のみが義仲との関わりを記録しています。




【御岳堂館周辺の義仲伝承地】 

合併以前の旧上田市と旧丸子町の境に位置する砂原峠は、塩田平と依田川流域の依田窪を結ぶ中間地点にあり東山道(鎌倉道)の大事な要衝であった。

治承四年(1180)九月、木曾宮ノ越(宮之腰とも)で挙兵した義仲は府中経由で依田次郎実信の館に入城したという。この館跡の場所については二つの説があり、一つは先日ご案内した御岳堂館(みたけどうやかた)であり、もう一つは現在の宗龍寺が建っている宗龍寺舘跡である。

●宗龍寺舘

御岳堂館の400m東側で、府中(松本)へ向かう三才山峠を源流とする内村川と依田川の合流地点の東になり依田城の登り口に位置する。

IMG_2269.jpg
二段目の削平地には現在は鐘楼が立つ。

御岳堂館のロケーションは素晴らしいが防御性についてはかなり疑問がある縄張りだ。それに比べて宗龍寺は周囲を険しい岩崖に囲まれた要害の地にある。
最も近隣の豪族や武士団が全て義仲に服従しているという条件であれば、要害性は必要ないのかもしれない・・。

IMG_2266.jpg
郭の最上段の本堂。ここから背後の依田城への登城道もあったと思われる。



●高築地館

依田氏が義仲に自分の居館を譲って新たに築いた居館が高築地館(たかついじやかた)と伝わり、御岳堂居館の北側が居館跡として推定されている。
家臣団の屋敷も含めた広大な屋敷跡と伝わるが、御岳堂館同様に伝承の域を出るものではなく、砂原峠を監視する位置だとしても要害性は微塵も無い。

高築地館①
地元の有志の方の看板が建つ。

高築地館②
平安時代末期の物騒な世の中で、このような長閑な場所に館を構えるであろうか?

義仲は、平家討伐の一時的な逗留場所として依田城に滞在し、迎え入れた依田氏もそのつもりであったが、養和の飢饉という予想外の事象に遭遇し、横田河原の合戦の勝利後も二年間この地に足止めせざるを得なかった。
その時の駐屯地であるとすれば、問題は無かろうか。



●砂原峠

越後の城氏の率いる数十倍の平家を横田河原にて迎え撃つべく、武蔵の多胡、佐久、甲斐そして地元の豪族が砂原峠を越えて北を目指した。

IMG_2199.jpg
砂原峠に立つ有名な看板。

IMG_2200.jpg
巨大看板の下にh義仲ゆかりの史跡案内地図もあります。

IMG_2198.jpg
丸子方面より見た塩田に向かう砂原峠の街道。



まあ、まだまだ義仲さんの史跡伝承は続きますw

次回をお楽しみに・・・・(笑)







Posted on 2015/07/16 Thu. 23:00 [edit]

CM: 4
TB: 0

0708

桜城2 (木曾義仲史跡関連 下諏訪町)  

◆桜城に残る諏訪一族と義仲に関する伝説◆

相変わらずドツボにハマってしまい、木曾義仲の幻影と呪縛から逃れられなくなっている・・・(汗)

究極は「平家物語」に到達して出口の無い迷路を彷徨う事になるというが、そこらへんはその専門家にお任せしたい。
例えば、小生が日頃大変お世話になっている管理人つねまる様の「戦国時代を追いかけて日本の歴史つまみ食い紀行」がとても判り易い解説なのでお勧めである。

なので、小生は「気まぐれ」で立ち寄っている程度という云う事でご容赦願いたい・・・(笑)

実は前回掲載した手塚館の主である諏訪神氏出身の手塚太郎光盛(金刺光盛)の居館跡は、諏訪では「霞ヶ城(かすみがじょう)」として伝わっている。

霞城 (6)
諏訪大社下社とホテル山王閣の地籍派は、義仲の家臣である手塚別当金刺光盛の居城跡(霞ヶ城)と伝わる。

実は2012年3月の桜城調査の際にこの地を訪問しているのだが、800年以上も前の平安末期の城館など興味が無かったので適当に写真を撮ってスルーしている。なので、もう一度調べないと・・・(汗)

霞城 (4)
当時は説明板を読んでも「良く分からず・・・」

まあね、乗りかかった船なので諏訪大社下社の霞ヶ城周辺、長瀬氏の墓所のあるという塩尻周辺は再調査していずれまたの機会に報告したいと思います。(お約束は出来ませんが・・・・・・・・・・・・・・・・笑)

なので、今回ご紹介するのは、2012年の桜城調査訪問の際に残っていた写真を元に義仲伝説をご案内しますw

【桜城に残る木曾義仲伝承】

桜城の築城年代ははっきりしないが、諏訪大社下社大祝(おおほうり)の金刺氏の居館である神殿(ごうどの)に付属した砦として早い時期から造営されていたと推察されている。
現在残る桜城は、武田軍により改修された山城の最終形なので、その時代よりもさらに300年以上遡った往時の姿がどうであったかは全く不明である。

桜城
下諏訪の温泉街より見た桜城。

●木曾義仲のやぐら(矢倉)

桜城へ向かう登城口の中腹にある。

木曾義仲(幼名:駒王丸)は、父義賢が義朝の嫡男悪源太義平に討たれると、義朝の命により殺される運命にあったが、畠山重能は武蔵の国人斉藤実盛に預けた。実盛は東国に駒王丸を東国に置いては危ういと思い、乳母の夫で諏訪大社下社の神官であり木曾に屋敷を構える中原兼遠に預けた。
その後、中原兼遠は諏訪の地で母小枝と共に駒王丸を匿うが、この地も危険と判断し木曾の宮ノ越の屋敷に移したと云う。

桜城 (2)
説明板と「義仲のやぐら」。

矢倉とは武器倉庫の事であるが、幼少時代の義仲が武器庫を必要とするほどの装備を持っていたかは疑問である。

桜城 (4)
鎧櫃、槍などを収納するのであれば充分であろう。

幼少期の駒王丸(のちの義仲)が諏訪大社の神官だった中原兼遠の庇護を受け、秋宮から桜城への道筋を遊び場としたというが、どうなんでしょう?

●金刺盛澄(手塚太郎光盛の兄)と梶原景時

諏訪大社大祝の金刺盛澄は、鎌倉時代比類の無い弓馬の達人であった。源頼朝の出頭の命令に遅れた事で処刑されようとしたときに、梶原景時のとりなしで御前に流鏑馬(やぶさめ)を披露した。その技の余りの見事さに頼朝の怒りは解け赦されてこの地に戻った。
流鏑馬に臨む盛澄はここの桜城に来ては独り座禅を組み精神統一、澄んだ心気でその場に臨んだと云う。その一念が盛澄の神技となったといえよう。その昔話からここに座禅石を置き碑を建て、一念坂と名づけた。
(現地説明板より)

桜城 (10)
盛澄の神技に授かれるよう拝殿が置かれ、「合格祈願」「当選祈願」「縁結び」「子授け」など参拝者が今でも多く訪れると云う。

桜城 (9)
「一念発起」とは縁起物でございます。

弟の光盛の官軍としての華々しい活躍、そしていつの間にか逆賊としての敗死を目の当たりとした盛澄の心境はどのようなものであったのだろうか。

梶原景時も義経を陥れた大悪人と呼ばれ、後世の人々の評価は芳しくないが、その忠実さ故にブラック頼朝の一部を肩代わりした忠臣として評価を見直す向きもあるという。

桜城から見た諏訪湖の風景は、駒王丸時代の義仲もきっと見たに違いない。

そう考えるだけで、古(いにしえ)にタイムスリップ出来てしまうのである・・・・・・・・・(笑)

桜城 (19)
桜城から見た諏訪大社下社と諏訪湖の風景。
















桜城

Posted on 2015/07/08 Wed. 23:10 [edit]

CM: 4
TB: 0

0704

木曾義仲伝承の地巡り① 鳥居峠 (木曾郡木祖村)/腰越地区 (上田市腰越)  

◆木曾宮ノ腰から府中を経て義仲が辿り着いた依田窪の地◆

最近はブログを書きかけて、気が付くと椅子で爆睡している。晩酌しながら記事を書くのは体に良くない・・(笑)

さて、熱病に冒されるが如く東信濃にまつわる義仲伝説の続きをご案内しよう。

中原兼遠居館 (51)
木曾町宮ノ腰の南宮神社。挙兵した義仲は居館近くに勧進したこの神社にも戦勝を祈願し東信濃へ向けて軍勢を進めたという。


【挙兵後の依田城入城までの経路】

治承四年(1180)四月、以仁王の平氏追討の令旨を発すると、八月に伊豆で頼朝が挙兵し、それに遅れる事半月の九月に木曾宮ノ腰(宮ノ越とも)義仲が挙兵する。軍勢は鳥居峠を越え、国府のあった深志に入り、武石峠経由で依田窪の腰越に入ったと伝わる。(その後依田氏の居館に逗留)

木曾義仲 032
義仲のもとに四天王が終結し挙兵。(作者:田屋幸男氏 木曾町義仲館に展示)

藪原砦(鳥居峠) (1)
藪原宿側の鳥居峠登り口。中山道最大の難所と云われ、途中までは石畳が残る。

現在は旧中山道の鳥居峠自然道として整備され、藪原宿から峠を越えて奈良井宿まで歩けるが、やはり中山道最大の難所と云われただけあって現代人でもかなりしんどい。入口から峠の頂上まで約20分ぐらいだ。

藪原砦(鳥居峠) (9)
鳥居峠より見た藪原宿方面。

藪原砦(鳥居峠) (47)
峠の頂上にある御嶽遙拝所。御嶽山の眺望の良い場所に御嶽神社を勧進したもの。義仲が戦勝祈願の願文を奉納したという。

藪原砦(鳥居峠) (26)
御嶽遙拝所(御嶽神社)の石仏群。

藪原砦(鳥居峠) (21)
「義仲硯水」。義仲が戦勝祈願の願文を奉納するために、右筆である大夫房覚明(たゆうぼうかくめい)にしたためさせた時に使用した硯の水と伝わる。

奈良井宿 (1)
奈良井宿(塩尻市)より見た鳥居峠方面。ちなみに峠山は戦国時代の烽火台跡と伝わる。


【腰越周辺の義仲にまつわる史跡】

東信濃と中信濃・南信濃を結ぶ通路としては、古くからは保福寺峠を経由する東山道がメインだが、和田峠や大門峠、武石峠に通じる依田川沿いの道(現在の国道152号線付周辺)も大事な道であった。

●腰越橋

依田川と国道152号線が交わる場所にあり、古来よりの要衝であったとされる。現在の橋は平成5年に架け替えが実施され、丸子地区が義仲ゆかりの地となっているため、景観を義仲テーマにしたという。

丸子良存館 (5)
現在も諏訪方面への主要道として交通量の多い腰越橋(こしごえばし)

丸子良存館 (3)
木曾義仲のレリーフが施されているのを知ったのは最近・・・(汗)

丸子良存館 (4)
腰越橋より見た依田川の深い渓谷。




●岡森諏訪神社

義仲の開基と伝わる蓮乗寺(丸子良存館)の依田川を挟んだ対岸にあり、義仲が戦勝を祈願したと伝わる。

岡森諏訪神社 (8)

岡森諏訪神社 (3)
嘗ては賑わったのであろうが、社殿はかなり傷み修復が必要かと。

岡森諏訪神社 (5)
対岸の蓮乗寺と丸子城。



●一本木諏訪神社

蓮乗寺から500m西の腰越一本木地籍にあることから一本木諏訪神社と云われ、義仲が戦勝を祈願したと伝わる。

一本木諏訪神社①

一本木諏訪神社②
地元の方に大切にされてきた神社である。



いずれも伝承の史跡なので真偽のほどは判らないが、判らないから良いのである。

800年前に思いを馳せる・・・そんな瞬間がまたイイのである・・・続く。

Posted on 2015/07/04 Sat. 10:40 [edit]

CM: 8
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top