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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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髻山城 小城 (長野市若槻西条・飯綱町))  

◆髻山城の東南を守る出城◆

毎年恒例の山城トップシーズンの店閉まいとなるはずはずだったGWは、「Stay Home」で終了のゴングが鳴る。

「臥薪嘗胆」そして「捲土重来」を誓って後詰めを待ち続ける高天神城の籠城戦である・・・勝頼さん、見殺しにするなよ!(笑)

今回紹介するのは、存在自体知る人が少なく訪れる人無き髻山城の小城である。

小城位置
髻山城の南東に位置するのだが、案外訪れる人はほとんどいない・・(汗)

髻山城の記事自体も10年前の昔の記事なので、リテイクせにゃあかんと思っているのだが、その為にはもう一度現状を取材しないといけない・・・。不要不急の外出制限発令中につきいましばらくお待ち願いたい・・・(汗)

motodori01 (31)
髻山城の主郭から見た小城。信玄は長沼城との連携も視野に入れて対上杉の要害としてこの山城を重要視していたという。

【立地】

髻山城(もとどりやまじょう)の本城は、長野市と飯綱町の境にある三登山(みとやま 標高923m)の東端の髻山(標高744m)に位置し、小城は髻山城の山頂から南東300mのj標高674mの小山にある。今回は別途に掲載しているが、本城と小城で髻山城と総称されている。この山は元々火山なので、小城のある山も派生して出来た山だと推定されている。

髻山城小城見取図①
本城の技巧的な改修工事に比較すると手はあまり入れられていないようである。

髻山城小城 (32)
鞍部から比高50m程度なので迷う事はないが、久々に感じた不気味な感じはなんだったのか?(汗)

【j城主・城歴】

詳細はリテイク記事の際に記載したいと思うが、元々は北信濃の在地土豪の城で甲越紛争が勃発すると上杉方に与して戦い、紛争が長引くと上杉に譲渡され善光寺平の背後を守る城として葛山城、大峰城などと連携しながら甲軍に備えたとされる。
しかし、永禄四年以降は善光寺平は武田の支配下となり、髻山城も武田方に帰属したものと思われる。

髻山城小城 (34)
北斜面の竪堀。掻き上げ土塁のようだが、現状では確認出来なかった・・。

IMG_5440.jpg
頂部からは数段犬走のような細い腰郭が周回する。

【城跡】

頂部の22×19の主郭には土塁の囲みは確認出来なかった。宮坂図では北斜面に塹壕のような竪堀が示されていたが、髻山城の本城ほどはっきりしたものでは無い。改修中に放棄されたのであろうか。
一段下に犬走のような郭が周回するが、植林作業時の作業道のようでもあり判断が難しい。

髻山城小城 (16)
主郭。

髻山城小城 (17)
主郭の周囲は土留めの石積で囲っていたようだが、遺構との判別が難しい。

髻山城小城 (11)
南斜面の段郭。削平が曖昧。

髻山城小城 (24)
宮坂図にある西斜面の竪土塁を懸命に探したが見当たらなかった・・・俺の目は節穴らしい・・・(笑)

髻山城の本体に比べると加工度も低く、甲越紛争の初期に上杉方が出城として簡単に手を入れた程度であろう。それに、比高差は約80mあるので、連携も結構大変だと思われる。直接の連絡通路は採石場により破壊されてしまい、現在は東の大手道にまわるか、西の山裾を回り観音清水のある場所からしか本体に登れない。

髻山城小城 (33)
頂部からの展望は無理なので、登り口からの風景。


≪髻山城 小城≫ (もとどりやまじょう こじょう)

標高:674m 比高:175m(北国街道より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市若槻西条・飯綱町
攻城日:2016年5月5日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:鞍部から10分 駐車場:無し (狭い農道なので路駐厳禁)
見どころ:主郭の土塁、堀切など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」
付近の城址:髻山城、若槻山城、三日城、矢筒城など



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髻山城遠景。(小城の遠景を探しましたが見当たらかったので悪しからず・・・汗)

Posted on 2020/05/04 Mon. 09:49 [edit]

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0430

下の城 (上伊那郡宮田村中越)  

◆天竜川を眼下に望む館城◆

国難に臨む姿勢としては基本「Stay Home」である。ワクチン開発という後詰めを待ちつつ「臥薪嘗胆」(小生の好きな言葉・・なんで?)

「神は乗り越えられない試練を与えない」このことである。春の選抜野球やインターハイを涙ながらに見送った高校生諸君の痛みに比べれば、山城探訪を我慢する事など取るに足らない。

さて、今回ご案内するのは上伊那シリーズ宮田村の「北の城・下の城」の下の城(しものじょう)である。

北の城・下の城(宮田村) (33)
北の城橋から天竜川南方面を撮影。

【立地】

下の城は、前回ご案内した北の城の南約200mに隣接しやはり天竜川の絶壁の上にあり、南には小田切川に続く台地に接している。北は大沢川が天竜川いそそぐ谷に面した天然の要害の位置に立地している城館跡である。
行き方は、北の城の駐車場から南曲輪沿いに遊歩道が設置されているが城跡は藪が酷いので細部の観察には難がある。

北の城・下の城(宮田村) (39)
耕作地脇の畦道を南に歩いて行きます。

北の城・下の城(宮田村) (77)
大沢川に架かる吊り橋を渡るとそこから城域になります。

下の城見取図①
天竜川の断崖を利用した館城である。

北の城・下の城(宮田村) (43)
リバーランド天竜公園の遊歩道が城の南端を通るが、近年は歩く人も絶えたようで歩道の両サイドは藪で荒れ放題。

【城主・城歴】

北の城の中越氏を参照願います

北の城・下の城(宮田村) (46)
郭3の南を遮断する堀切㋒。天竜川に落としている。

北の城・下の城(宮田村) (43)
郭3方面への突入を諦める・・・(汗)

【城跡】

今回は藪が酷くて郭3の周辺や細部の観察がままならなかったが、主郭の周囲は土塁がめぐらされてその外側には閉口して堀が設けられている。室町時代中期の形式の名残りを留めているこの構造は、堀底から見上げた土塁の比高が通常の倍にある。西側の土塁中央部には、大手(虎口)の位置ではないかと思われる切込が見られる。その西側には堀が南北に設けられている。
また、主郭の南側には幅の広い堀を隔てて郭2が造成され、さらにその南を堀切で遮断している。主郭の西側にも郭4があったと想定されるが土地改良工事により変形してしまったようである。城上の井という湧水が湧き出る沢を天然㋔堀として城域の西を防御したものと思われる。

北の城・下の城(宮田村) (52)
主郭(52×48)。さすがにここへは突撃したが、藪で細部が捕らえられない・・写真も無理だ・・(汗)

北の城・下の城(宮田村) (54)
主郭南側の堀切㋑。

北の城・下の城(宮田村) (58)
郭2(41×15)

北の城・下の城(宮田村) (56)
郭2の南を遮断する堀切㋐。(上巾5m)

北の城・下の城(宮田村) (62)
城域西側の郭4との接続部分

北の城・下の城(宮田村) (64)
主郭の虎口付近から堀切㋓に沿って北側。堀切㋓は「城上の井」の沢と連結するようである。

北の城・下の城(宮田村) (75)
主郭土塁の切込み。ここが大手(虎口)だと想定される。主郭内を探索するには藪漕ぎする度胸と装備も必要。

まあね、これほど酷い藪城とは思わないで訪問したものですから・・・(笑)
伊那方面は冬に行っても藪漕ぎが当たり前なので・・・だからといって夏の終わりに行く事ないでしょうに・・・(汗)

北の城・下の城(宮田村) (66)
城の水の手と伝わる「城上の井」。井戸ではなく湧水だったようで、流れ落ちる沢が天然の堀切を刻んでいたようである。

5年前の記憶を辿りながら記載する記事は、まず写真を見ながら「ここはどこ? 私は誰?」状態からスタートする・・・(笑)

おぼろげな記憶のある場所はなんとかなるのだが、記憶喪失の場所もあるのでこの先不安は尽きない・・・(汗)


≪下の城≫ (しものじょう)

標高:610mm 比高:20m(天竜川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡宮田村中越
攻城日:2015年9月22日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:主郭の土塁、堀切など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:下の城、中越館、塩田城など

北の城・下の城(宮田村) (32)
北の城端から見た下の城方面。




Posted on 2020/04/30 Thu. 20:27 [edit]

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0429

北の城 (上伊那郡宮田村中越)  

◆天竜川の崖渕に築かれた要害城◆

4月の上旬に突然母親が他界してしまい、悲しみに暮れる暇もなく慌ただしい日々を送っている。

人の命なんていつ尽きるかわからない。もっとも「あなたの人生は○○歳です終わりです」と知っていたらもっと頑張れるのだろうか。

「親孝行、したいときには親は無し」 このことであった・・・。

明日の命の保証などないなら毎日こうして生きている事に感謝して、一日一日を精一杯生きなければと思う今日この頃である。

何とか頑張って更新したい思いから、今回ご案内するのは上伊那シリーズで宮田村にある「北の城・下の城」。先に北の城から。

北の城・下の城(宮田村) (1)
駐車場脇の巨大な土塁にびっくり!宮田村は伊那市と駒ヶ根市の間に挟まれた村で、人口約9,000人の村。北の城は桜の名所。

【立地】

天竜川の右岸、宮田村の中越集落の天竜川に面した段丘上に北の城・下の城と呼ばれる城跡が並んでいる。天竜川に面しては絶壁で、対岸は猿岩の岩壁が川に迫っていて、天竜川は峡谷となって流れている。いわゆる「後ろ堅固」の立地である。

北の城見取図①
大沢川と宮沢川に挟まれ、後ろは天竜川。舟形の主郭と外郭として西曲輪と南曲輪があったが耕作地化により原形は不明。

北の城・下の城(宮田村) (23)
主郭の西側の土塁に二ヶ所開口部があり、どちらかが虎口だったという。

【城主・城歴】

北の城と下の城の経歴ははっきりしたことはわからないが、位置からみて中越に本拠をおいた中越氏に関わるしろではないかと推測されている。
中越氏の文献上の初見は、元徳元年(1329)三月諏訪上社五月会御射山等の頭役を定めた鎌倉幕府の下知状、中越地頭と出ているがその地頭の名前はわからない。鎌倉時代に中越郷と宮田郷の地頭が諏訪上社に勤仕していたことを伺うことができる。
また、時代は降りるが応永七年(1400)の大塔合戦に、春近人びと一員として中越備中守が出陣していることが、「大塔軍記」等の戦記物にみられるところである。

北の城・下の城(宮田村) (17)
本郭の北隅でV字に折れる土塁。ここの土塁が最も高い。

以来、諸文献に名の見えなかった中越氏が再び出現するのは、永禄四年(1561)に書かれたとされる武田信玄関連の文書の中である。文中には中伊那の地侍たちの名が十三名挙げられており、ながらくなりをひそめていた中越氏は近郷の小身衆とともに信玄に服従したらしいことが読み取れる。

北の城・下の城(宮田村) (7)
主郭西側の堀跡。

北の城・下の城(宮田村) (15)
主郭内部。

【城跡】

北の城の主郭(122×60)は現在リバーランド天竜公園となっている。主郭の西側は堀に囲まれていて、その中ほどに土塁の切れ目がある。これが城の大手門(虎口)の位置と考えられるところである。ここを境として堀が北と南に分かれて設けられている。またた城上げ井(井戸)がこの辺りにあったが土地改良工事の為に失われたようである。

この北の城の堀の元凶を見ると、西側と南側の土塁の外側に現存するのみで、外堀は認められない。これらの堀と土塁の形は中世の中葉によくみられる形式である。また、この北の城では、北側が一段と高い土塁が設けられているのが特に注目されるところである。

北の城・下の城(宮田村) (24)
本郭の東側の土塁。天竜川に面しているので、途中から土塁が切れている。

北の城・下の城(宮田村) (27)
現在対岸とは北の城橋で連結されている。車は1台しか通れないので譲り合いの精神が大切ですw

北の城・下の城(宮田村) (10)
南曲輪。大沢川を挟んだ更に南側に下の城(しものじょう)がある。

北の城・下の城(宮田村) (12)
土地改良工事によって範囲が不明となった西曲輪。

西曲輪と東曲輪が外郭として存在したらしいが現在明確な遺構は見当たらない。堀で区画されていた可能性もありそうだが・・。

この後記事にする「下の城」とセットで使われたようであるが、両方合わせるとかなり巨大な城である。下の城は居住区としての居館城とすれば、北の城は堅固な要害城としての目的で築城されたのかもしれない。

北の城・下の城(宮田村) (34)
城の東側は鉄壁の水堀「天竜川」(橋から北方面を撮影)

≪北の城≫ (きたのじょう)

標高:610mm 比高:20m(天竜川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡宮田村中越
攻城日:2015年9月22日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:主郭の土塁、堀切など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:下の城、中越館、塩田城など

北の城・下の城(宮田村) (29)
対岸から見た北の城。桜の季節に再訪したいものである。


Posted on 2020/04/29 Wed. 16:46 [edit]

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道林の砦・鐘撞 (上伊那郡辰野町小野)  

◆小西城の物見か◆

あまりにもマイナーな山城ばかり掲載するので、読者離れが加速する時がある。

残念ながら小生のブログは「関東甲信越の名城を歩く・長野編」の補足でもないし、「長野の山城ベスト50」の写真付き解説書でもない。そこにこだわるのであれば、文章も写真も上手な他のサイトをご参照願いたい・・(笑)

信濃の山城を隅々まで堪能したいのだけれども、お住まいが遠方であることや、その他の様々な要因で時間も体力も使う事が制約される、または困難だという方々に向けて地元民の利を生かして気の向くままにテキトーに掲載しているブログであることを再度ご了解いただければ幸いです・・・・(汗)

そんな前置きはどうでも、今回ご案内するのは、前回ご案内した小西城の前衛砦と伝わる「道林の砦・鐘撞(どうばやしのとりで・かねつき)」(宮坂武男氏による仮称)である。

道林の砦・鐘撞 (13)
主郭内の桂昌院外伝教居士の供養塔。詳細不明。

道林の砦・鐘撞 (1)
墓地脇の緩い尾根を登る。

【立地】

小野宿の西方、小西城との間に道林(どうばやし)と呼ばれる小山があり、その南側山麓に鐘撞(かねつき)の地字名が残っている。山の東麓が有富山祭林寺の墓地になっているので、この山の名は堂林であったかもしれない。登路は墓地の所から南東の尾根に沿って登るが途中に地蔵や馬頭観音があるので、この山の近くを古道が通っていたように思われる。

道林の砦・鐘撞 (5)
登り口の南東尾根にあるお地蔵様。

道林の砦見取図①

【城主・城歴】

地元には、この山に小西城の支城となる砦があり、狼煙台があったという伝承があるという。字名より「道林の砦」と仮称する。山頂の曲輪内には、慶長3年(1598)の桂昌院外伝教居士の供養塔や石造物がある。小野氏にかかわるものと思われるが、詳細については不明。あるいは「どうばやし」の地名から、山頂部にお堂があった時期があり、この地名が生まれたものと想像されるがはっきりしない
(宮坂武男氏の記述より)

道林の砦・鐘撞 (8)
主郭手前の段郭(5×12)

道林の砦・鐘撞 (11)
主郭内部の様子。背後を低い土塁が周回する。

道林の砦・鐘撞 (12)
主郭の土塁その2。

【城跡】

小山の頂きには26×17で低い土塁の全周する平場がある。(南側が一部欠損している) 周囲も切岸が施されている。
ここから三方に尾根が派生しているが、堀切は見当たらない。北西の尾根と北東の尾根は削平されているが耕作地によるものなのかはっきりしないので遺構と判断するのは難しい。
「鐘撞」(かねつき)という字名は烽火台に残る地名が多い事から、この場所についたことは充分考えらえるようだ。

道林の砦・鐘撞 (26)
主郭の切岸。(北東より撮影)

道林の砦・鐘撞 (20)
北西の郭2。(10×30)

道林の砦・鐘撞 (23)
北東尾根の平場。

小さいながらも、砦または狼煙台としての遺構が残っているように思う。ここに繋げる狼煙台は果たしてどこにあったのか?という疑問が残る。宮坂武男氏は、この南に位置する御岳山(1202m)にあったのではないか、と推察している。
残念ながら小生は未だ登っていないので、謎を解くには自分の目で確かめないと・・・さて、いつになるやら・・(笑)

道林の砦・鐘撞 (2)
郭からの見晴らしは良くないが、きっとこのような風景が見えたのであろう。(小野集落方面、山を越えて諏訪湖方面へ)

道林の砦・鐘撞 (27)
東側よりみた砦の全景。

≪堂林の砦・鐘撞≫ (どうばやしのとりで・かねつき)

標高:863mm 比高:25m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡辰野町小野
攻城日:2016年4月24日
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:東麓の墓地より 駐車場:墓地の駐車場借用
見どころ:主郭の土塁、切岸など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:小西城、竜ヶ崎城、王城など


Ⓢは駐車場。

道林の砦・鐘撞 (4)
西側の小西城。連携して木曽との往来を監視したのであろう。

Posted on 2020/04/05 Sun. 17:17 [edit]

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小西城 (上伊那郡辰野町押野)  

◆たのめの里を一望する山城◆

我々信州人でも「たのめの里」(憑の里)が何処にあるかを知る人は少ない。そういう小生も城巡りで訪れて初めて知った次第である。

【たのめの里】

小野は、たのめの里という。平安時代、藤原氏全盛のころの「清少納言記」にも、「しなのなる 伊那のこほりと思ふには 誰かための里と いふらん」 (夫木集)
たのめとは、どういう意味か知らないが、とにかく、古く知られた、いわくのある所だったらしい。(「伊那の古城」篠田徳登著)

たのめの里と呼ばれる小野盆地は、古くから松本・塩尻に繋がる東筑摩郡と木曽郡・上伊那郡の境となる交通の要衝であった。

今回ご案内するのは、そんな「たのめの里」を眼下に収める「小西城」である。

小西城(辰野町) (72)
主郭に鎮座する御嶽教の石碑。


【立地】

小野盆地の北西に聳える霧訪山(きりとうやま 1305m)から南へ延びた尾根の末端にこぶのような二つの高まりがある。その北側の高まりのピークに小西城がある。麓の押野集落を東西に走る道は、西へ向かえば牛首峠を越えて木曽街道につながり、この砦が木曽郡との往来を監視した事が考えられるという。

小西城(辰野町) (65)
登城路は二つある。東麓の押野コミュニティセンターから15分かけて登る方法と、車で西側の林道に入り鞍部に横付けする方法ある。その場合軽自動車でないと厳しい。当然ながら、小生は後者を選択・・(笑)。(写真中央は鞍部)

小西城(辰野町) (4)
鞍部からの比高は約50mほど。結構な急斜面なので驚く。

小西城見取図②

【城主・城歴】

小野は古くから、小野神社や矢彦神社に関わる勢力が支配した地域で、北方の塩尻市側にある上田城も川鳥城も神社との関係があったものと考えられている。
小西城は、小野地区の木曽口に当たる場所にあり、木曽氏の砦であるとの伝承もあり、一方草間備前(肥前とも)の砦ともいわれる。

小西城(辰野町) (6)
鞍部を登ると最初に現れる上巾7mの落差のある堀切。

草間肥前は、小笠原長時の旗下で、武田氏が伊那へ侵入した天文の頃には、辰野におり、荒神山や羽場古城に居て武田と戦ったとされる人物である。その草間氏がある時期にこの小西城も支配下においていたことも考えられるが、はっきりしたことはわからない。

小西城(辰野町) (11)
主郭への尾根は三重の堀切で遮断している周到さである。

小西城(辰野町) (16)
土塁の全周する主郭(25×12)。鳥居の建つ東側が虎口だったと思われる。

【城跡】

尾根上の半独立峰のような小山に立地していて、主郭は南北25m、東西は南辺で役12m、北辺8mという小さなもので、低い土塁が全周していて、東側が土塁が切れていて虎口と思われる。曲輪内には西側に石積みの段があり、御嶽神社が祀られている。南北に細長い主郭の前後を一~二条の堀切で守っている。

小西城(辰野町) (18)
鳥居の建つ場所が虎口と想定される。

小西城(辰野町) (17)
コンパクトな主郭。

小西城(辰野町) (23)
北側から撮影。戦国時代が終わると山岳信仰のメッカとして領民の心の拠所であったという。

小西城(辰野町) (34)
主郭の北側の堀切。

小西城(辰野町) (40)
北側の尾根筋には段郭が二ヶ所確認出来る。

南へ続く尾根筋は、150mほどのところに鞍部があり、ここへ東の沢から登る道がある。これが大手の道ではないかと思われる。鞍部の南に南北に長い山があり、尾根上に平地が認められる。物見などがあったかもしれないが、砦としての遺構は見当たらない。
以上のように小西城は小規模で在地土豪の要害城の範囲に属するもので、その点からすると草間氏の要害として築かれ、武田氏の統治下で街道を抑える城として使われたものと推定される。

小西城(辰野町) (58)
南側の小山に登ってみた。

小西城(辰野町) (63)
尾根を削平し最高地点には神社が勧進されたらしいが、今は朽ちそうな鳥居と石祠のみ。砦としての遺構は見当たらない。

宮坂武男氏の推察する通り、在地土豪が古道を監視する砦としてはこの程度で充分であったろう。東斜面の尾の集落側の尾根には屋敷があったのかもしれない。

≪小西城≫ (こにしじょう 草間城・古城)

標高:937.2mm 比高:77m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡辰野町小野
攻城日:2016年4月24日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:鞍部の西側より約5分 東沢の麓の押野コミュニティセンターより徒歩15分 駐車場:無し(路駐)
見どころ:三連続堀切、土塁など
注意事項:特に無いが、秋は松茸山で止め山らしいので注意
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:道林の砦、竜ヶ崎城、王城など


Ⓢは鞍部まで車で入る場合の路駐位置。㋹は主郭。

小西城(辰野町) (66)
西側の鞍部付近から見た小西城。



Posted on 2020/03/31 Tue. 22:46 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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