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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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船山城 (上伊那郡中川村片桐)  

◆時代の変遷により大きく2区画に分かれ拡張された河岸段丘の城◆

未だ掲載出来ずにいる過去の大量の取材写真をどうするのか?というのは結構悩ましい問題である。(⇐もちろん、管理人の怠慢によるものであるのは言うまでもないが・・・汗)

さすがに10年以上前の現地調査における写真は、現在の遺構の状態とかけ離れているケースが想定されるのでブログ記事として掲載するのは難しいが、5年前ぐらいなら一言注釈を入れればお赦し戴けると思うし、山城にも詫びが入れられるかと・・(笑)

そんな言い訳を語りつつ、今回ご案内するのは、上伊那地方の河岸段丘の城を代表する「船山城」(ふなやまじょう)。

船山城① (1)
長野県史跡に指定されている船山城跡。指定史跡なのに駐車場が無いのは長野県独自の文化かもしれない・・(汗)

【立地】

天竜川の右岸、上伊那郡と下伊那郡の境界上に位置している。(具体的には中川村と松川町の境界線)この場所は天龍川の氾濫原に面した段丘の先端部にあたり、南側には南沢の浸食谷があり天然の要害である。その形があたかも船を山の上に置いたような地形から、古くから船山城と呼ばれている。

船山城見取図①
中央の堀切㋒を境として城の成立時期が2区分に分かれる。

船山城① (58)
御射山神社の鳥居脇の貯水池は堀切㋐の一部で三日月堀の名称が伝わる。この辺りに城の大手門があったという。

【城主・城歴】

船山城についての詳細は不明だが、片切郷の中心部にあり、城の造りや付近の地名などから、平安時代の末期よりこの地方に勢力を持ち、多くの支族を分派させた片切氏の居城と考えられている。
片桐氏からは、名子氏、大島氏、飯島氏、赤須氏、上穂氏、岩間氏、葛島氏、前沢氏、座光寺氏などの諸氏が近郷に分知してそれぞれに居城を構えている。

船山城① (31)
二の丸は現在果樹園や畑などの耕作地となっている。本丸と二の丸は「城畑」と呼ばれている。

伊那谷に勢力を伸ばした片切氏であったが、戦国時代に入り武田氏が伊那に侵攻してくると、伊那衆は鈴岡城の小笠原信定の元に抵抗するものの、各個撃破されやがて武田氏の支配下に組み込まれていった。片切氏とその一族も伊那春近衆として秋山信友の配下となり、三河、遠江、美濃方面へ遠征したり大島城の修築工事にも従事した物と思われる。
天正十年(1582)に武田氏が滅亡するとともに船山城も廃城になったものと考えられている。

船山城① (25)
本丸との間の堀切㋑は南側のみが残るが、堀切に墓所が置かれ残念な事になっている。

船山城① (29)
北側の堀切㋑は埋められてしまい痕跡も残らず。

【城跡】

城跡は大きく二つの部分に分けられる。その一は㋒の堀よりも東の1・2・3の郭の位置するいわゆる「出丸」とと呼ばれる砦部bンと、その二は西側の「城畑」と呼ばれる本丸・二の丸の広大な居館部分である。
堀で台地上を分割して、五つの郭が並んでいるが、先端の三つの砦部分の郭は船山の名が生まれた所で、両側が急崖に護られていて堅固な要害である。

船山城① (22)
本丸(西側より)

船山城① (23)
本丸の先の堀切㋒から先のエリアは「出丸」と呼ばれる砦群で、船山城の初期と考えられている。

船山城は、最初は東半分の部分が造られ、居館は山下の田島平になり、㋒の堀中を登ったものと考えられている。その後、上段の台地の開発が行われ、本丸、二の丸の部分が造成され居館もそちらに移動して、城下も西側の台地上に移り、城の大手も西側に変遷したものと思われる。

船山城① (35)
堀切㋒。通路以外は藪が酷く堀の形状の把握は難しい。朽ちそうな「出丸」の標柱がお出迎え。

船山城① (8)
堀切㋒の本丸側には土留めの石積が確認出来る。

●郭3
全長100m、最大幅28mの細長い三角形の郭で、堀切㋒側は盛土して土塁が築かれて防御を厳重にしている。

船山城① (3)
背後の土塁上には稲荷社が祀られている。

船山城① (5)
郭3の内部。藪が酷くて・・・これでも県指定史跡なのでしょうか・・・(汗)

●郭2
最大幅12mの細長い郭で、北側は土塁を削り残して一騎駆けの痩せ尾根として堀切㋓で断ち切る。

船山城① (42)
堀切㋒。(上巾15m)

船山城① (48)
堀切㋓は城域最大の上巾21mを誇る。

船山城① (10)
郭2の中心部。

●郭1
船山城の初期の主郭。最も早く造られたもので、次第に郭2、郭3と拡張され、根小屋式の山城が形成されたものと考えられている。背後を上巾11mの堀切㋔で遮断している。両辺に土塁痕が残り、そこに船山稲荷神社が勧進されている。47×16mの楕円形で、北側の尾根筋に麓へ通じる道がありここに虎口が開いている。麓の先端は二条の堀切で絶ち切っている。

船山城① (15)
堀切㋔(上巾11m)

船山城① (17)
郭1。(47×16)

船山城① (20)
背後の土塁には船山稲荷が勧進され、県指定史跡の標柱、説明板が建てられている。

船山城① (50)
郭1の北側に開く虎口。当初の麓の居館との通路だったのであろうか。

船山城① (21)
東斜面を守る堀切㋕。


≪船山城≫ (ふなやまじょう 県史跡)

標高:357m 比高:80m (国道より)
築城年代:不明
築城・居住者:片切氏
場所:上伊那郡中川村片桐南田島
最新攻城日:2015年9月22日
お勧め度:★★★☆☆
本城までの所要時間:-
見どころ:堀切、土塁など
駐車場:無し。御射山神社脇に路駐。
付近の城館:前沢城,葛島城、大草城など
参考資料:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)


Ⓢは御射山神社。この脇に路駐。

しかし、5年も前の写真を見ても「ここは何処?あたしは誰?」状態・・・(笑) 記憶を辿るだけで1時間もかかる有り様。
「おお、Googleストリートビューがあるじゃん!」と思いついたが、農道までは入ってくれない・・・(汗)

「鉄は熱いうちに討て打て!」 その通りです(笑)

船山城① (2)
入口の説明板に見取図を書いておかないと、誰も先端の城跡まで辿りつけないと思うのだが・・・(長野県教育委員会殿へ)

Posted on 2020/02/23 Sun. 13:13 [edit]

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戸石城 リテイク⑤(砥石城とその周辺)  

◆山城攻めの武田軍の精鋭部隊を苦しめた「砥石-米山防衛ライン」◆

こんばんは。

年末年始にamazonプライムビデオの「スラムダンク」にハマってしまい、先日101回目の最終回を迎えて放心状態となりました(笑)

日本の男子バレーがミュンヘンオリンピックで金メダルとなった事に痛く感動して、中学時代はバレーボール部に入り朝から晩まで練習漬けの日々。三年生になるとキャプテンを志願して地区優勝。何と県大会まで進んだのですが初戦であえなく敗退・・。青春の涙は塩辛よりもしょっぱいものだと知りました。

部活の日々といえば、部室が隣だったバスケ部と野球部に対して壁越しの仁義なき戦いを繰り広げる日々・・・・(笑)
「てめーら、汗くさいから、何とかしろ!」 8×4などというデオドラントなど高くて買えないドアホな少年時代・・・(汗)

今思えば、桜木花道以下の幼稚なヤツラのおバカな抗争でした・・・(爆笑) バスケ部は特に毛嫌いしていた記憶が・・(笑)

戸石城2013 (95)
本城の馬出(郭8)から南に進むと砥石城へ。※全体城域を示す戸石城と区別するために「砥石城」として使い分けしています

【山城攻めの巧者武田も攻めあぐねた地の利に護られた堅城】

残念ながら全国区ではないので、小生の探訪した山城は信濃とその周辺の一部であるが、抵抗する峻険な信濃の山城を各個撃破していった武田軍は、群雄割拠の戦国時代においてトップクラスの戦果を挙げていると推定される。

武田軍には間違いなく山岳ゲリラ戦の専門部隊(エキスパート)があり、城攻めでは先鋒隊として敵陣深く潜入し味方の手引きを行ったのであろう。

砥石城見取図①
この砦への通路は南西の尾根筋と陽泰寺からの東尾根のみ。

戸石城2013 (97)
本城の馬出からの尾根との接続部分の堀切。本来はW底の二重堀切で遮断されていたが、後世の耕地化による改変とみる。

山城攻めでは百戦錬磨の武田軍が、何故戸石城の攻略に失敗したのか?

答えはその恵まれた立地条件と、「籠城戦に後詰めは必須」という当たり前の鉄則に敗れ去ったとみるが果たしてどうであろう。

screenshot_20200118_210457.png
国土地理院の地図に加筆修正しています。


●城の東西が天然の河川による堀で守られ敵を寄せつけない

戸石城の東側は神川の深い渓谷に護られ、西側は矢出沢川と城代屋敷の置かれた金剛寺集落があり、集落の西の尾根に柏城(上の城・下の城)を築いている。松代街道に通じる北側は、根古屋城が背後を守り、地蔵峠を監視下に置いている。

なので、城攻めは南正面を突破する正攻法しか無くて、水の手を断ち切る武田軍の得意の手法にしても、水の手に辿り着く事すら困難という局面に打開する方法が無かったというのが真実のようである。

金剛寺集落 (11)
城域西側の矢出沢川。村上家臣団の屋敷のある金剛寺集落側から武田軍が攻め入る事は考えづらい・・。

戸石城2013 (98)
砥石城の素敵な空間。

戸石城2013 (102)
ほぼ垂直に近い切岸。この砦への出入りは縄梯子だったということが伺える。

その名の如く、復元された櫓門からの南登城ルートは滑りやすい上に脆い小石の尾根、そして心臓破りの急崖が続く。
籠城兵側は蟻のように這い上がる攻城兵の頭上に石を落とせば面白いように潰れる。

戸石城には、佐久の志賀城で敗れた兵士も籠城軍として入り「武田憎し」の怨嗟は留まる事を知らなかったという。
小競り合いを仕掛けてもいたずらに兵を失うだけで、七千の武田軍は僅か五百の籠る城を遠巻きに囲むしかなかったのであろう。
(まあ、実際の兵士数は双方ともその1/10ぐらいだったと推定されるが・・・)

戸石城2013 (113)
砥石城の主郭(25×20)

戸石城2013 (107)
主郭からは連携する出城の米山城、そして遠方に上田市街地が一望できる。

戸石城2013 (117)
武田軍は現在の富士見台団地あたりに布陣したのだろうか。


戸石城2013 (114)
真田方面のロケーション。真田の里はこの時は未だ村上の勢力下であり、幸隆の一族の矢沢氏も村上氏の配下であったという。

戸石城2013 (119)
砥石城の東尾根を遮断する堀切(上巾10m)

現在主流となっている整備された南側の登山道(櫓門コース)は、砥石と米山を繋ぐ尾根筋からの登りが大変である。
今は階段があるが、その昔はロープ伝いで急峻な尾根を息絶え絶えに登るしかなかった・・・。
攻城兵の苦労が分かったような気がしたものである・・・(汗)

戸石城2013 (122)
砥石城の南登り口。階段が付いていなかった昔は「転落注意!」のスリル。

戸石城2013 (120)
堀切不要の岩尾根。南口から砥石城を攻めるのは困難であることを体験する瞬間である。

【米山城】

複合城郭である戸石城における米山城の役割はかなり重要だったと思われる。小さな郭3つの出城だが、砥石城と連携することで最大の防御ラインとなっている。
公園化され村上義清公の大きな石碑があり、かなり変形しているが、この場所に砦があると無いでは防御に差が出る。

戸石城2013 (126)
本城ではなく、何故米山城に村上義清の碑がたっているのであろうか?

戸石城2013 (129)
村上時代の城代家老屋敷があったとされる金剛寺集落。城下町がその時から形成されていたのであろうか。

戸石城2013 (134)
米山城の副郭。堀形も郭の東西に認められるが、ハッキリしたものではない。

戸石城2013 (136)
主郭と副郭の切岸。結構あいまいである。

さて、5回シリーズの「戸石城」如何でしたでしょうか。

地元の城を真面目に観察して真面目に記事にしてみる・・・・案外難しいものだと知りました・・・(笑)


≪戸石城 砥石城と米山城≫ 

標高:800m 比高:160m(陽泰寺より)
築城年代:不明
築城・居住者:村上氏、真田氏
場所:上田市上野
最新攻城日:2019年12月22日 (雪の残る写真は2013年2月の撮影)
お勧め度:★★★★★(満点) ここを知らずして信濃の山城は語れない
本城までの所要時間:20分
見どころ:堀切、切岸、石積みなど
駐車場:有り(陽泰寺の駐車場借用)
参考資料:「甲信越の名城を歩く」(吉川弘文館)など


㋹点は砥石城 Ⓢは米山城 Ⓖは復元櫓門。

戸石城2013 (112)
真田昌幸が上田城に居城を写した後は、後詰めの城して信幸や幸村が入城した戸石城。彼らも見たであろう城跡からの風景。

Posted on 2020/01/22 Wed. 11:09 [edit]

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戸石城 リテイク④(本城と福沢出丸)  

◆ブームになろうがなるまいが、城址を整備し続ける地元の皆さんに心より感謝の気持ちを!◆

そんな事を書けばお叱りを受けそうだが、長野県の山城で一番有名な山城は間違いなく戸石城であろう。

信玄の落とせなかった城、そして彼の生涯二度目の「軍配違い」(敗戦)というニュースを往時の日本全国に配信したのである。

今回ご案内するのは、シリーズ第四話「戸石城の中枢」。郭と郭を区画する切岸の美しさはこの城の特徴でもある。

戸石城2013 (40)
北側から見た主郭背後の大堀切。(上巾14m)。箱掘は戦国末期の改修による増設のように思える。

桝形城から尾根筋を下ると上巾14mの巨大な箱掘で遮断される。本城の主郭背後の堀切なのだが、両サイドを竪堀で掘り下げるという加工はせず、尾根の遮断のみである。
現在、本城と呼ばれるこの区域の本格的な改修は真田昌幸時代ではないか?と勝手に推測している。

戸石城2013 (50)
西側斜面への加工も短い。

【おさらい 戸石崩れ】

天文19年9月の世に言う「戸石崩れ」は、七千で取り囲む武田軍に対して僅か五百の村上軍籠城兵が応戦。
難攻不落の戸石城を武田軍が攻めあぐねているうちに、北信濃で高梨氏と争っていた村上義清が信玄の戸石城攻めを知り、急遽高梨氏と和睦。

戸石城攻めから撤収する武田軍を村上義清率いる本隊二千が急襲し、武田軍は敗走。約一千の兵が討取られ横田備中守高松は殿軍を務めて討死。信玄自身も身代わりを立てて窮地を脱出するという負け戦であったという。

話は逸れるが、小生が武田信玄に興味を惹かれる元となった小説は、新田次郎の「武田信玄」だった・・・。

戸石城2013 (59)
主郭とその背後の土塁。

新田次郎の小説「武田信玄」における「戸石崩れ」の章で、戸石城への総攻撃を命じられた横田備中は晴信(信玄)に対して、「叛く佐久を殺せば、佐久は限りなく叛くでしょう。佐久の人ことごとく叛いて死に絶えても、草木が武田に叛くでしょう」と諫言し、壮絶な戦死を遂げている。今でも脳裏に強烈に焼き付いているフレーズで、生涯忘れる事はないと思う。

戸石城2013 (60)
2郭から主郭への入口。ここは後世の造作であって、郭2から直にに主郭へ入るとは考えられない。堀切側からというのがセオリーかと。

戸石城本城
整然とした本城の区割りは武田時代~真田時代に造作されたのであろうか。

戸石城2013 (56)
郭2と郭1(本郭)の開口部。ここを本来の虎口と捉えるのは無理がある。郭2の西側を迂回し堀切から本郭に入ったのであろう。


【福沢出丸】

2013年の暮れに「砥石城の福沢出丸・金剛寺峠」という記事で、戸石城の福沢出丸について書いた。

金剛寺集落の説明板には所在が断定できない旨が書いてあったが、「甲信越の名城を歩く 長野編」(2018年 吉川弘文館発刊)
の尾見智志氏(現信濃国分寺資料館館長)の縄張図と記事には、上記見取図の本郭背後の堀切の西側の尾根先が福沢出丸だとしている。

福沢出丸 (3)
金剛寺集落側の説明看板。この尾根は、見取図の福沢出丸より更に北側の尾根筋である。

村上統治時代の戸石城の城下は伊勢山ではなく、戸石城の西麓の金剛寺集落と伝えられている。家臣団の屋敷も金剛寺集落に建てられたという。有事の際には、金剛寺集落から福沢丸のある尾根を登る道が城への最短ルートであると、尾見氏は解説している。小生も現地を見た限りでは異論はない。

前項でも述べたが、恐らく村上時代の戸石城は、米山・砥石・桝形で構成された山城で、現在「本城」と呼ばれる場所は加工されず、尾根先の福沢出丸と呼ばれる場所に物見が置かれていたと推定される。

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堀切から福沢出丸へは道形が確認出来るので、それを辿るとよい。

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出丸というよりは、尾根先の小さな物見だが、本城が存在しないとすればこれでも立派な出丸としての機能であろうか。

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福沢出丸の全容。小さな砦だが、村上氏の家臣の名を冠しているので往時はそれなりに重要視されたのであろう。

【真田統治時代の美しき本城】

根拠もなく断定してはいけないが、現在「本城」と呼ばれるゾーンの全面改修は真田統治時代ではないかと推定される。

天文十九年、戸石城攻略を諦めた撤退中に、まさかの村上軍の逆襲で手痛い敗北を被った武田信玄であったが、翌年、真田幸隆がかねてよりの周到な調略により戸石城の奪取に成功する。

その後、信玄は佐久の内山城の郡代を戸石城に移動させて兵を置き村上軍の奪還に備え、飯富兵部虎昌に塩田城攻めを命じ、自身は葛尾城攻略に向かうも、村上義清が謙信を頼って一旦本拠地を捨てて越後に落ち延びると、戸石城はその戦略的価値を失ったようである。

戸石城2013 (57)
本郭から見た郭2、郭3。

戸石城2013 (64)
耕作地化の影響があるにしても、キチンと整備された城跡は、地元の方の熱意の賜物です。

戸石城2013 (67)
切岸で区画される山城が美しいと思うのは、小生の価値観の違いだろうか?

戸石城2013 (68)
郭3。

戸石城2013 (70)
山の尾根の上に、切岸で整地された大きめの区画された郭があるとは思えないほどの広さには驚く。

謙信に泣きつき、その後ろ盾で一度は塩田城に返り咲いた村上義清であったが、電光石火の武田軍の侵攻で再び越後へ逃走。
信玄は、塩田城に飯富虎昌を入城させて北信濃攻めの兵站拠点とするが、その後東山道と室賀峠を抑える街道の要衝の地に岡城を新たに築城し、拠点を移した。

戸石城2013 (74)
横堀を入れる事無く切岸のみの区画で構成される郭群は、ある意味分譲団地の売り出し中みたいだが美しい(笑)

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郭5。

戸石城2013 (75)
郭2と郭3の間の切岸。

戸石城2013 (78)
郭3と郭4の間の切岸。息をのむ造形美とはこのことであろう・・(笑)

戸石城2013 (79)
馬場から主要部への侵入は結構しんどい作りを意識している。

その後、武田氏統治時代の戸石城の動向は知る事は出来なくなるが、天正十年(1582)真田昌幸が家臣の湯本三郎右衛門所属の地侍に宛てた安堵状から、戸石城は「伊勢山」と呼ばれており、天正十一年に真田昌幸が上田城を築くまでの間、拠点としていたことが知られているという。

また、第一次上田合戦では真田昌幸の長男の信幸が遊軍として上田城攻めの徳川軍を翻弄し、第二次上田合戦ではその信幸が徳川軍として戸石城に入城し父と弟の籠城する上田城をけん制していた事が「浅野家文書」などで確認されている。

戸石城2013 (85)
郭4から見た郭8(馬出し)方面。

戸石城2013 (89)
郭8(馬出)と郭7の間の切岸。石積みでは表現できない土の城の美意識を感じる瞬間でもある・・(笑)

大規模な郭の配置と馬出を伴う縄張は武田による縄張を踏襲したようにも思える。真田幸隆の本領を塞いでいた戸石城は、村上義清の脅威が過ぎ去り、北信濃制圧における戦略的価値が無くなると同時に、信玄から払い下げられたのであろうか・・・。

幸隆も昌幸も、武田における家臣時代は上野国攻略の先鋒として働き、地元には戻る時間など無かったことを考えれば、戸石城の本格的な整備は武田家滅亡後に発生した「天正壬午の乱」以降であり、間髪入れずに突貫工事されたのだと思う。

戸石城2013 (91)
馬場と呼ばれる郭8。主郭背後以外は堀切を全く使わない縄張は貴重である。

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地元の方の長年に渡る整備が無ければ、見る事の出来ない極めて貴重な以降である。

さて、如何でしたでしょうか今回の「本城編」。

本邦初公開の「福沢出丸」も含め、さすがは美しき戸石城の本城。

昨今の山城ブームなどとは無縁の時代から黙々と継続された地元の方々による城跡の整備。

「いたみ入ります」 感謝の思いを胸にしっかり勉強することが恩返しに他ならない。

戸石城2013 (90)
丁寧に加工された切岸は、石垣をも上回る強靭な防御という事を改めて知る。

次回は「再発見 戸石城シリーズ」最終回の砥石城とその周辺を予定。気長にお待ちいただければ幸いかと・・・(笑)


≪戸石城 本城と福沢出丸≫ 

標高:800m 比高:160m(陽泰寺より)
築城年代:不明
築城・居住者:村上氏、真田氏
場所:上田市上野
最新攻城日:2019年12月22日 (雪の残る写真は2013年2月の撮影)
お勧め度:★★★★★(満点) ここを知らずして信濃の山城は語れない
本城までの所要時間:20分
見どころ:堀切、切岸、石積みなど
駐車場:有り(陽泰寺の駐車場借用)
参考資料:「甲信越の名城を歩く」(吉川弘文館)など


Ⓢは陽泰寺の駐車場。Ⓖは大手口の登山道入り口。㋹は本城の主郭。

Posted on 2020/01/16 Thu. 23:01 [edit]

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戸石城 リテイク③(水の手とその周辺)  

◆戸石城の水の手(井戸跡)を初めて見た◆

みなさま、年末年始は如何お過ごしでしたでしょうか?

12月にまとまった雪が降らなかった事もあり、twitterのTLを見ると年末から正月三が日は「城納め」と「城初め」に遠征されるかたも多くお見受けして、羨ましい限りでした。

小生はひたすら食っちゃ寝の堕落した正月・・・・んーん、体重計に乗るのが怖い、お餅怖い、日本酒怖い・・・・(笑)

で、今回ご案内するのは戸石城シリーズ第三弾でございますw

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水の手への登城口から見た本城と戸石城の尾根。こうして見れば結構高さあるなあー。

戸石城水の手
ざっくりと描いた水の手周辺。

水の手登城口へは、前回記事の内小屋編で記載した最後の稲荷社経由で登ると分かり易い。
大手登城口をスルーしてそのまま松代街道を歩くのもありだが、物見台を経由したほうが面白いと思う。

物見台の尾根筋を登ると大手口からの松代街道に合流する。その道脇には祠があり、小さいながらも堀切を持つ砦のようだ。

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断崖で削られているが、往時は東側にもう少し広かったのだろうか?

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祠の背後の堀切。小さいが薬研堀のようだ。

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薬研堀に続く堀形。松代街道により改変される前は物見台の続きの搦め手筋の防御遺構と見て取れるがどうか?

前回の記事でも触れたが、内小屋の遺構が必ずしも戸石城の最終形と繋がりがあるとは断定できない。
内小屋が城館の中心だった初期の時代には、内小屋を取り囲むように簡易的な物見や砦が置かれ、その後桝形城などが増築されたとみるべきであろうか。

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内小屋からの街道との分岐点。わざわざ城内を街道が通過するのはあり得ないので、松代街道は江戸時代以降の開通だよね。

●戸石城の水の手について

恥ずかしながら、戸石城の水の手訪問は今回は初である。井戸のある場所はともかく、沢水の流れる谷筋の両サイドに平場が数段にわたって段郭的に展開しているさまは、耕作地化された事を差し引いても桝形城の全面の防御遺構の名残りのように思えてならない。

あくまでも推定の域を出ないが村上時代の戸石城は、内小屋・水の手郭群・桝形城に米山城を加えた構成で、本城には加工された郭など無かったように思うが、どうであろうか。

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分岐点の看板絵図。地元伊勢山集落の古老は代々「枡形城」を「本城」と呼んでいる。村上時代の名残りらしいが。

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水の手登城ルートで最初に現れる広大な削平地。(55×24)既に休耕地のようである。

少し進むと「立入禁止」の看板から少し上に登ると「⇐登山路」と描かれた誘導看板がある。そこから尾根伝いに登るルートは「真田の隠し道」と呼ばれ、有事の際に真田昌幸がこの道を登り枡形城へ入城したと伝わる。

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今回はパスしてしまったが、昌幸になった気分で登るのも面白いかと・・(笑)

等高線を並行に移動する感じで登城路を進むと竪堀のような沢があり、この両サイドに段郭が展開している事に気が付く。
地元の説明冊子では、ここも沢水に困らない立地条件なので、この辺りに真田統治時代の家臣団の屋敷があったのでは?と推定している。

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水の染み出る沢は天然の竪堀としての効果も持ち合わせたと思われる。

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内小屋方面へ落ちる沢。途中で井戸のある沢と合流している。ここが戸石城の水の手であり、この城の生命線である。

沢を渡った東側の斜面にも数段の段郭が展開し、その中で一番広い郭の東隅に井戸がある。
ここが戸石城の水の手と呼ばれる場所でl、恥ずかしながら小生も今回初めて訪問した次第である・・・(汗)

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耕作による改変は否めないが、二条の水源を伴う沢に挟まれたこの場所がいわゆる「水の手曲輪」と呼ばれる所以であろう。

井戸跡を示す誘導看板が無かったので、仕方なく適当に探すと、案外あっけなく発見出来た・・(笑)
この時期だから発見できたが、夏場は難しいと思われる位置にある。登城路脇に誘導看板が欲しいと思う。

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内山城のような石組みの井戸を期待していたが、見事に裏切られた・・・。

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なんと、井戸ではなく、湧水と書いてある(笑)

最近ハッと思ったのだが、山城の楽しみ方の主流が「縄張」の技巧ばかりに目が向けられていないか?と。
「馬出」「折れ」「虎口」「導線」「狭間」・・・

籠城戦になった場合の基本的な懸案事項にももっと着眼すべきではないのか・・・「水の確保」、「落城した場合の逃げ道の確保」
そして後詰めの城(砦)の配置は何処?「女、子供、老人の避難場所の確保」・・・

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戸石城が難航不落を誇れたのは、天然の地形も縄張もさることながら、水の手の確保と防御構造の賜物であろうと思う。

次回の掲載予定は、「戸石城の本城」。

≪戸石城 水の手とその周辺≫ 

標高:700m 比高:60m(陽泰寺より)
築城年代:不明
築城・居住者:村上氏、真田氏
場所:上田市上野
攻城日:2019年12月22日 
お勧め度:★★★★☆ ここを知らずして信濃の山城は語れない
内小屋までの所要時間:15分
見どころ:井戸跡、郭、砦跡など
駐車場:有り(陽泰寺の駐車場借用)
参考資料:伊勢山自治会・砥石伊の会「いせやま で未来につなげたいこと」(2019年3月 砥石伊の会ガイド部


㋹点は井戸跡。Ⓢは竪堀状の沢。Ⓖは砦跡。

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水の手と本城の連絡路。

Posted on 2020/01/07 Tue. 22:17 [edit]

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戸石城 リテイク②(内小屋とその周辺)  

◆米山城の南に模擬櫓門と登城路を作る事で起きた大手口の悲劇◆

平成31年と令和1年を折半したような2019年がもうすぐ暮れようとしている。

個人的には色々と悲喜こもごもが濃縮されたような記憶に残る一年間であった・・・。

なかでも特筆すべきは、地道な地元の山城への想いが皆様の後押しを得て、日の当たる場所に辿り着いた事であり、感謝感謝でございます!

今回ご案内するのは、戸石城のあまり知られていない「内小屋」とその周辺にスポットをあててみました。

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砥石・米山城への登城ルートとして今ではメインとなってしまった「砥石米山街道」の案内板の誘導による南側の支脈ルート。(通称:櫓門ルート)

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疑似櫓門まで建ててしまったが為に、このルートが米山城・戸石城への登城ルートとして認知されてしまった。

確かに、このルートは駐車場も完備され、櫓門から城の南に伸びる支脈から戸石城と米山城の間の馬の背状の尾根に出るので、急こう配な坂を多少我慢すれば時間短縮で戸石城の主要部と米山城を見られるのでお得感が満載である。

だが、この見学コースの往復では、戸石城が何故に山岳ゲリラ戦隊を擁する武田軍の猛攻に耐えて難攻不落を誇り、上田城への移転前の真田昌幸の本拠地でありえたのかの答えを探した事にはならないであろう。

地元の皆さんの長年に渡る整備には心より感謝するものの、せっかく整備した他のルート(大手口、水の手口)も見てもらえるような工夫が必要だと切に思う(皆様の苦労も知らず生意気な物言いで申し訳ありません)

【大手口ルートと陽泰寺】

伊勢山自治会の集落に入り、北側の陽泰寺を目指す。道路は狭いが交通量はほとんどないので、陽泰寺の広大な駐車場を借用する。駐車場脇に立つ説明看板。

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城跡以外の名所旧跡も記載されている

●飯縄城跡(旧伊勢山集会所とその北側付近)

陽泰寺の駐車場から南へ100m程下ると、石垣を備えた立派な建物が東側に見える。建物は明治23年に建てられた伊勢山集会所で、石垣は神川の石を担ぎ上げて加工したものだという。
此の場所は飯縄城(飯綱城とも)と呼ばれ、上州街道の番所的な場所として地元に伝わり、集会所の裏手には郭跡があるという。

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集会所とその裏手の山が城跡と伝わる。

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立派な石垣。建物は木曽の大工さんによるものだそうです。大事に後世に伝えて欲しいものです。

戸石城内小屋

●内小屋とその周辺の砦跡

平時の居館跡はここにあったと推定されている。東側を神川の険しい崖に護られ、背後は戸石城に通じる深い沢で遮断されている。戦時は松代街道を封鎖したのであろう。

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陽泰寺の北尾根先には神社が祀られている。ここも砦跡だろう。

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一段上の神社の本殿。ここも段郭で、この尾根筋を登ると南へ張り出した戸石城の南東の堀切に通じる。

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神社のある段郭から飯縄城方面。伏兵を置き狙撃するにはいい位置である。

内小屋と指定される場所は数段の削平された郭があり中央を上巾12mの堀切で遮断している。
昭和29年の浄水池工事の際にあ「カマス」に入った麦などの穀物が半炭化状態で出土し、小銭や暖炉裏のようなものも出たという。また、平成16年のNTTドコモのアンテナ工事の際には、水平面のラインや土器の欠片や炭も出てきたという。

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道路の左側が内小屋の先端部分と指定される。

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上巾12mの堀切。東側は神川へ落ちている。

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堀切の南側の郭。耕作地化による改変はあるものの、広さは往時と変わらないだろう。

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NTTドコモのアンテナの立つ郭。堀切と接続する部分は竹林の雑木林でその北側に位置する。ここにメインの居館があったか?

内小屋の背後の高台には物見台と伝わる場所が張り出し、その尾根伝いの段郭には稲荷社が鎮座する。
この尾根も恐らく砦跡であり、戸石城が本格的に整備改修される前は内小屋の防衛を担っていたと推定される。

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物見台へはアンテナ塔の背後に道がついているので迷わないで行ける。

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物見台から見た内小屋先端とその周囲。(南側方面)

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物見台と呼ばれる痩せ尾根。

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稲荷社。地元の方にとても大事にされているのがよくわかります。

さて、今回ご案内しました戸石城の「内小屋とその周辺」は如何でしたでしょうか。

最後の稲荷社では地元の方2名にお話を少し伺いました。大手道から戸石城へ登る人を久々に見たと大変驚いていました。
やはり、櫓門コースから水の手や大手道へ下りる周回コースは認知度が低いのでしょう。せっかく整備されているのに、残念でなりません。

次回は「水の手」コースのご案内の予定。年明けかしら・・・(笑)

≪戸石城 内小屋とその周辺≫ 

標高:650m 比高:10m(陽泰寺より)
築城年代:不明
築城・居住者:村上氏、真田氏
場所:上田市上野
攻城日:2013年12月22日 
お勧め度:★★★★★(満点) ここを知らずして信濃の山城は語れない
内小屋までの所要時間:10分
見どころ:堀切、郭、物見台など
駐車場:有り(陽泰寺の駐車場借用)
参考資料:伊勢山自治会・砥石伊の会「いせやま で未来につなげたいこと」(2019年3月 砥石伊の会ガイド部会)


Ⓢは南側の砦跡(神社) Ⓖは物見台。レ点は内小屋の堀切跡。

Posted on 2019/12/28 Sat. 11:29 [edit]

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