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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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日輪寺畑(洞田)居館 (上伊那郡箕輪町東箕輪)  

◆伊那源氏の祖「源為公」(みなもとためとも)居館の地◆

この時期にそんな話は不謹慎かと言われそうだが、新型コロナウィルスの脅威はプレステゲームの不朽の名作「バイオハザード」シリーズの序章そのものが、現実社会に警鐘を鳴らしている思った方も多かったかと・・・(汗)

「全方位型の換気は極めて良好な山城ツアー」の安全性をアピールするのは結構だが、パーティ編成での山城探訪はある程度人数を絞り込む必要があるだろう。せっかくの楽しい趣味やサークル活動で、加害者や被害者になるのは避けたいものである・・。

今回ご案内するのは、伊那源氏のルーツと伝わる源為公(みなもとためとも)の居館跡と伝わる日輪寺畑居館である。

「えーっ、また超マイナーな居館なの・・・・(汗)」 お嘆きの読者の方も多いかと・・(笑)

小生のブログは、地元民ならではの地域密着型をモットーとしておりますw 「そこに愛はあるかい?」 「もちろん!!」(笑)

日輪寺畑砦 (2)
伊那源氏の末裔知久氏の祈願寺として開山されたと伝わる真言宗の日輪寺。現在は無住寺であるが手入れは行き届いている。

【立地】

中央道の伊北ICから南東約1kmの場所にある。梨久保川と知久沢川に挟まれた南北に細長い台地で、東側知久沢川との比高は数mから10m以内という場所で、要害性は高いとはいえない。

日輪寺畑砦 (4)
天然の堀を為す居館跡の南側の知久沢川と日輪寺。日輪寺の場所にも居館や屋敷があったと想定される。


日輪寺畑居館見取図①

【城主・城歴】

南方250mの至近に「上の平城」があり、すぐ近くにに日輪寺がある事から、上の平城との関連のものと考えられている。上の平城は平安時代末頃、伊那源氏の祖源為公(ためとも)が居館を置いたとする伊那源氏発祥の地であり、知久氏に関わる屋敷地、あるいは一族や家士に関係するものと思われる。近くに日輪寺があることから、城主隠棲の所かと想像されている(箕輪町誌)。

長野県町村誌によると「知久沢山日輪寺」は「東西二十間、南北十間半、面積二百七十坪、本村の内南小河内の東にあり。開山願行上人、文治年中(1185-1189)間之。知久行性亜て開基。其の後足利尊氏再建と伝ふ。今由緒を以て阿島家へ贈答あり。寺領一石五斗。慶長年中(1596-1614)朝日受永の證を乞て、慶安年中(1648-1651)徳川氏より朱印を賜ふ。諏訪郡桑原耕地仏法寺末寺なり」とあり、知久氏関連の寺という。

日輪寺畑砦 (5)
舟状の台地の郭1には説明板があり、太陽光パネルが置かれている。日当たり良好の物件のようである。

日輪寺畑砦 (9)
太陽光パネルの一段上にもう一つ郭の後が見られる。耕作地化されているので、北側の台地との間には東西に堀形があるので、堀で仕切られていたと思われる。

【館跡】

台地の幅は広いところで50m。家の建っている所の上が最も広く50×50ほどで居館があったとするのはこのあたりであろうか。家の建っている2の所には土塁状地形が残る。
居館跡の台地状の土地は全域耕作され、堀や土塁は失われたと思われる。日輪寺のある場所も居館を建てるには良い場所である。

日輪寺畑砦 (8)
主郭背後の台地との段差は高いところで約6mほどある。㋜阿新は東の知久沢川の堀形㋑

日輪寺畑砦 (13)
北側から見下ろした郭1(主郭)全景。

日輪寺畑砦 (19)
梨久保川方面の主郭北側の堀形㋑。

日輪寺畑砦 (7)
民家の建つ場所が郭2。

日輪寺畑砦 (21)
芝桜が咲き誇る部分には郭1との区分として堀切があったと推定される。

日輪寺畑砦 (23)
郭2に唯一残る土塁状の遺構。こちらも芝桜が咲き誇る。

武田氏の伊那谷侵入に対して最後まで抵抗した知久氏の居城として有名な「神之峰城」は飯田市にある。知久氏のルーツは上伊那である事を知る人は少ない(そもそも知久氏を知る人も少ない・・・汗)
だからこそ、スポットをあててみたいと思う。

≪日輪寺畑(洞田)居館≫ (にちりんじばたきょかん)

標高:760m 比高:5m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡箕輪町小河内
攻城日:2016年4月24日
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分けl)
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し (路駐)
見どころ:特になし
注意事項:プライバシーには注意
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:上の平城、城ヶ峰城、小式部城など

日輪寺畑砦 (24)
知久沢川沿いから見た郭2付近。



Posted on 2020/03/19 Thu. 22:46 [edit]

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0314

宮田城 (上伊那郡宮田村北割)  

◆長大な連続竪堀を施した在地土豪の要害城◆

上伊那地方の山城というと、どうしても高遠城とその周辺砦、そして天龍川の河岸段丘を利用した無駄に(?)デカイ城を思い浮かべてしまうのだが、案外魅力的で個性的な山城も多く存在する。
なかなか認知いただけないのは我ら地元民の紹介活動が弱いのであろうとひたすら反省・・・(汗)

で、今回ご案内するのは、上伊那郡の山城でも特筆すべき美しく長大な連続竪堀を備える「宮田城」(城山)である。

宮田城① (2)
なんせ5年前の写真の記憶を辿る作業からはじまるので、ここが登り口で看板あったなあーぐらいしか・・・(笑)

【立地】

宮田村のJR飯田線宮田駅から西方2.5kmほどのところ、北割城山にあり、その標高は950mの尾根上の南端に位置している。登城路は、林道小三沢線が中央道の下をくぐるガードから65m登ったところから右手の斜面にm地がある(案内看板有り)。これが嘗ての大手道であったと推定されている。
※林道を車で陣場まで上がり、そこから尾根筋を400m戻って本郭を見るコースもあるが、遺構を隅々まで見学するなら麓から登る大手コースが無難であろう。

宮田城① (21)
主郭南側の斜面には「アラシ」と呼ばれる竪堀がある。元々の沢にある程度手を加えたものであろうか。

宮田城① (24)
東側の斜面は段々畑のように段郭が続く。

宮田城見取図①
在地土豪の要害にしては、背後の尾根の竪堀の処理は厳重で芸術的な美しさである。

【城主・城歴】

地元では城山と呼ばれるこの城は、宮田氏の居城ではないかと言い伝えられて来た城跡である。
宮田氏については元徳元年(1329)三月の諏訪上社五月会御射山統の頭役の結審を定めた、鎌倉幕府の下知状にみえる宮田郷地頭の宮田氏の初見である。

宮田城① (29)
登り口から比高100m程登ると主郭の虎口に辿り着く。桝形ではないが折れを伴う坂虎口で、簡易な門があっただけのようだ。

宮田城① (35)
主郭の内側より見た虎口。

武田氏の伊那侵入に際しての動向は、下伊那の小笠原信定に従って、福与城や塩尻峠の戦いに参加していることが「小平物語」に記されている。
しかし、「甲陽軍艦」に記されている伊那侍成敗の事は、「小平物語」には見えない。伊那侍成敗の事を信じると、宮田氏は信玄にあくまでも抗して斬られたわけである。

宮田城① (33)
主郭に建つ説明板と城址碑。宮田村教育員会としては「城山」(じょうやま)を名称として採用している。

宮田城① (6)
北辺の土塁の上から撮影した主郭(39×25)

宮田城① (34)
主郭背後の高土塁。かなり堅固な造りである。

地元における宮田氏に関わる遺跡や伝承は詳らかではないが、北割がその本拠地で、釈迦堂跡の台地付近に館を構え、その背後の城山を本城としたのではないかと推定されている。
主郭付近から配・炭。釘・天目茶碗の片、皇栄通宝等が発見されたという。
※「定本 伊那谷の城」より引用

宮田城① (52)
主郭背後の土塁を思いっきり高くするのは、敵に対する目隠し効果と、背後の堀切の落差を稼ぐ手法としてのセオリーであろう。

【城跡】

●主郭

周囲を土塁が全周し、北側の尾根の堀切に面する土塁は一段と高い。西側の土塁の上は叩き土塁で犬走的な用途も兼ねていたようである。首位には数段の段郭を配置し、大手道のある東斜面は細長い数段の郭を置き防衛を堅固としている。

宮田城① (45)
土塁の上部は「馬ふみ」と呼ばれる幅3m程度の通路として加工されている。


●尾根を遮断する長大で美しい竪堀群

宮田城の特徴は、なんといっても主郭背後の遮断された連続堀切と、長大な竪堀群である。

伊那谷の城の代名詞といえば、天龍川の河岸段丘を利用したどうしようもなく無駄に(?)デカイ城ばかりが紹介されがちであるが、山沿いに行けば、尾根を利用した技巧的な山城も人知れずたくさん眠っているので、是非それらを訪れて欲しい。

宮田城① (7)
主郭背後刻む堀切群。当初は堀切㋐と㋒のご単純な二重堀切だったものを手を入れて複雑な仕様に改変している。

宮田城① (8)
堀切㋐の断面。

宮田城① (63)
堀切㋐と㋑の間の東斜面にもう一条堀切を入れている。

宮田城① (10)
堀切㋑。

宮田城① (12)
主郭背後の堀切では最も上巾の広い堀切㋒。

宮田城① (17)
堀切㋒は東斜面を、♪線路は続くよ どこまでも♪ 状態で長大な竪堀となり下る。段ボールで滑ってみたい(笑)

いかん、またツラツラと説明が面倒になると写真を連続させる「ものぐさ太郎」でございます・・えっ、ものぐさ太郎知らないって?

単郭に複合五条の大堀切で普通土木工事は終わりそうなものだが、用心には用心を重ねて更に一段高くなる尾根とその背後の「陣場」と呼ばれる場所の手前に巨大な堀切を二条入れている。

宮田城① (18)
単品としては文句ない美しさと上巾を誇る堀切㋓。

宮田城① (137)
東斜面を長大な竪堀となり比高100mにわたり遮断する。宮田城独自のドクトリンである。

宮田城① (138)
「陣場」手前の最終堀切㋔。

宮田城① (114)
堀切㋔の凄まじい竪堀変化(笑)

長大な竪堀を持つ山城に出会うと、どこまでも竪堀を下ってしまいその都度後悔する・・・(笑)

そう、竪堀を下ったら、あとは登るしかない・・・確か、さだまさしの歌には「上り詰めたら、あとは下るしかないと」・・・(汗)

宮田城① (116)
ため息の連続とはこの光景であろう・・・。

長大な竪堀を持つ信濃の山城の代表格といえば、祢津下ノ城、八間長者城、塔ノ原城、青柳城、会田虚空蔵山城、桐原城、林小城、旭山城、竹把城、飯山の山口城(大城・小城)などが筆頭で、伊那谷はこの宮田城ぐらいであろうか。

陣場と呼ばれる場所の背後の尾根にも複雑な堀形の地形が確認出来るが、それが往時のものなのか「ショイビキ道」と呼ばれる林業の道なのか判別は厳しい。

宮田城① (121)
伊那谷方面はよく見える抜群のロケーション。

≪宮田城≫ (みやたじょう 城山)

標高:845m 比高:120m
築城年代:不明
築城・居住者:宮田氏
場所:上伊那郡宮田村北割城山
攻城日:2015年9月22日
お勧め度:★★★★☆
難易度:B(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分けではnormal)
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し (路駐)
見どころ:長大な竪堀こそ命!!
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:物見や城、小田切城、唐沢城など

宮田城① (135)
宮田城遠景(東側より)


路駐はⒼ付近。Ⓢは林道経由の場合の陣場の位置。

Posted on 2020/03/14 Sat. 22:42 [edit]

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大草城 (上伊那郡中川村大草沖町)  

◆南朝に誠心誠意を尽くした香坂高宗の居城◆

amazonプライムビデオで、「どろろ」の2019年アニメのリメイク版の全話を見終えた。結構画像がグロいのでR18指定である。

原作はあの神様仏様の手塚治虫である。1967年から約1年少年サンデーに連載され、1969年にモノクロでテレビアニメ化された事は子供ながらに覚えていたが、物語の内容はすっかり忘れてしまい、記憶にあるのは、あのエキセントリックな歌詞の主題歌だけである・・・(笑)

物語の舞台は戦国時代の初期なので、山城マニアには時代背景に共感しながら鬼神との戦いを実感出来るかと・・・。

今回ご案内するのは、南北朝時代における南朝方の信濃の英雄「香坂高宗」の居城と伝わる大草城。

大草城(中川村) (2)

【立地】

大草城は、天龍川の左岸にあり、深沢川を利用した丘陵に位置している。本丸を中心に、北方と西方に出丸があり、堀が本丸の北、東、西にあった。
また、本丸の南は、深沢川によって深さ40m~50mに切られており、天然の要害と言える。しかし、現在は一部本丸部分にその面影を残しているが、大草城址公園として整備され、村民の憩いの場になっている。

大草城見取図①

【城主・城歴】

ここ大草城址は、南北朝時代の後醍醐天皇第八皇子宗良親王にゆかりのある所である。宗良親王は、南朝方の勢力拡大のために各地を転戦していた。興国四年(1343)、信濃の宮方を頼って、大河原(大鹿村)の香坂高宗のもとに身を寄せた。
香坂高宗は、当時大河原・鹿塩・四徳・大草に勢力を張っていた。そして大草城に住みひたすらに親王に仕えた。

親王が大河原城を拠点に活動出来たのは、天龍川東地域に香坂氏をはじめ藤沢氏・頃河内氏・中沢氏・知久氏の宮方を支える豪族がおり、更に諏訪氏へと繋がりがあったからである。

大草城(中川村) (3)
本城には東隅に石組みの上に東屋が造成されているが、公園化による造作物で往時の遺構では無い。

大草城(中川村) (5)
東屋から見下ろした本城。往時は周囲が土塁で覆われていたと思うが、取り払われてしまっている。

以後三十年余、この地を中心に各地を転戦したので、「信濃宮」「大草あの宮」「信州大王」と呼ばれた。また親王は歌人としても名高く、「李歌集」に「わが世をありやと問はば信濃なるいなとこたえよ峰の松風」「君のため世のためなにか惜しからんすててかひある命なりせは」などという歌を残している。

大草城(中川村) (6)
西に突き出す形の郭2(西城)。防御性も高く、展望もよいので城主の居館が可能性が高い。

大草城(中川村) (8)
本城と西城の間には堀切(西ノ堀)があり、埋められてしまったという。

戦国期には、伊那の諸族と同様に武田氏に属していたらしい。
天正十年(1582)、織田信長が本能寺で不慮の死を遂げた時、伊那谷は徳川氏と北条氏との勢力の争いの場となった。
いち早く行動に移したのが徳川方の下条頼安(兵庫介)で、伊那の諸氏に家康に対して忠誠を尽くすという起請文を出させている。
その中に大草休斉(香坂氏)の名もある。

大草城(中川村) (7)
郭2(西城)から見た本城と切岸。

【城跡】

公園化による改変でかなり壊されてしまい堀なども埋められてしまったが、雰囲気はそれなりに何とか感じられるのが救いであろうか。見取図にも描いているが、本城、西城、外城の大きく3つの郭から成る堅固な城で、西城と外城の間は堀で遮断されていたと思われる。
発掘調査報告書によれば、西城からは、天目茶碗、中国青磁、茶臼等が発見された。また外城地区からは掘立柱建物址9棟、鍛冶場が検出され、鉄鏃、刀の飾り金具、槍先破片、ろくろ、鎌などが出土したという。武具の修理の場と推定されるものの、中国青磁や陶磁器も発見されているという。

大草城(中川村) (13)
本城の南下の斜面には郭4で古城と呼ばれる郭がある。

大草城(中川村) (15)
本城の南東の公園と駐車場は後世の造成なので、城の遺構では無い。

大草城(中川村) (21)
現在は駐車場となっている郭3(外城)。武具や武器の製造・修理の職人たちの小屋が林立してたのであろうか。

光明天皇を擁護する足利尊氏の北朝(京都)と、吉野に遷宮し皇位に執着する後醍醐天皇が南朝として抗争を繰り広げた56年間を南北朝時代と呼ぶ。

後醍醐天皇の第八皇子として南朝方の東国平定の任務を負った宗良親王(むねながしんのう・むねよししんのう)が、南信濃の国衆である大草城と大河原城の城主であった香坂高宗に招かれ、大河原城に征東府を置き、三十有余年を過ごしたという大鹿村の城址の数々は、我ら信濃先方衆が心血注いで訪問しブログに掲載したので、是非ご覧いただきたい・・・。

大草城(中川村) (20)
郭3(外城)より見た郭2(西城)の険しい切岸と深い谷。

≪大草城≫ (おおくさじょう)

標高:604m 比高:65m(深沢川より)
築城年代:不明
築城・居住者:香坂氏
場所:上伊那郡中川村大草
攻城日:2015年9月22日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分けではeasy)
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:郭、堀形、切岸など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:あら城、大草休斉館、葛島城、前沢城など



大草城(中川村) (11)
宗良親王の為に鬼神になることすら厭わない香坂高宗の忠誠心にはひたすら敬服。

Posted on 2020/03/10 Tue. 22:20 [edit]

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船山城 (上伊那郡中川村片桐)  

◆時代の変遷により大きく2区画に分かれ拡張された河岸段丘の城◆

未だ掲載出来ずにいる過去の大量の取材写真をどうするのか?というのは結構悩ましい問題である。(⇐もちろん、管理人の怠慢によるものであるのは言うまでもないが・・・汗)

さすがに10年以上前の現地調査における写真は、現在の遺構の状態とかけ離れているケースが想定されるのでブログ記事として掲載するのは難しいが、5年前ぐらいなら一言注釈を入れればお赦し戴けると思うし、山城にも詫びが入れられるかと・・(笑)

そんな言い訳を語りつつ、今回ご案内するのは、上伊那地方の河岸段丘の城を代表する「船山城」(ふなやまじょう)。

船山城① (1)
長野県史跡に指定されている船山城跡。指定史跡なのに駐車場が無いのは長野県独自の文化かもしれない・・(汗)

【立地】

天竜川の右岸、上伊那郡と下伊那郡の境界上に位置している。(具体的には中川村と松川町の境界線)この場所は天龍川の氾濫原に面した段丘の先端部にあたり、南側には南沢の浸食谷があり天然の要害である。その形があたかも船を山の上に置いたような地形から、古くから船山城と呼ばれている。

船山城見取図①
中央の堀切㋒を境として城の成立時期が2区分に分かれる。

船山城① (58)
御射山神社の鳥居脇の貯水池は堀切㋐の一部で三日月堀の名称が伝わる。この辺りに城の大手門があったという。

【城主・城歴】

船山城についての詳細は不明だが、片切郷の中心部にあり、城の造りや付近の地名などから、平安時代の末期よりこの地方に勢力を持ち、多くの支族を分派させた片切氏の居城と考えられている。
片桐氏からは、名子氏、大島氏、飯島氏、赤須氏、上穂氏、岩間氏、葛島氏、前沢氏、座光寺氏などの諸氏が近郷に分知してそれぞれに居城を構えている。

船山城① (31)
二の丸は現在果樹園や畑などの耕作地となっている。本丸と二の丸は「城畑」と呼ばれている。

伊那谷に勢力を伸ばした片切氏であったが、戦国時代に入り武田氏が伊那に侵攻してくると、伊那衆は鈴岡城の小笠原信定の元に抵抗するものの、各個撃破されやがて武田氏の支配下に組み込まれていった。片切氏とその一族も伊那春近衆として秋山信友の配下となり、三河、遠江、美濃方面へ遠征したり大島城の修築工事にも従事した物と思われる。
天正十年(1582)に武田氏が滅亡するとともに船山城も廃城になったものと考えられている。

船山城① (25)
本丸との間の堀切㋑は南側のみが残るが、堀切に墓所が置かれ残念な事になっている。

船山城① (29)
北側の堀切㋑は埋められてしまい痕跡も残らず。

【城跡】

城跡は大きく二つの部分に分けられる。その一は㋒の堀よりも東の1・2・3の郭の位置するいわゆる「出丸」とと呼ばれる砦部bンと、その二は西側の「城畑」と呼ばれる本丸・二の丸の広大な居館部分である。
堀で台地上を分割して、五つの郭が並んでいるが、先端の三つの砦部分の郭は船山の名が生まれた所で、両側が急崖に護られていて堅固な要害である。

船山城① (22)
本丸(西側より)

船山城① (23)
本丸の先の堀切㋒から先のエリアは「出丸」と呼ばれる砦群で、船山城の初期と考えられている。

船山城は、最初は東半分の部分が造られ、居館は山下の田島平になり、㋒の堀中を登ったものと考えられている。その後、上段の台地の開発が行われ、本丸、二の丸の部分が造成され居館もそちらに移動して、城下も西側の台地上に移り、城の大手も西側に変遷したものと思われる。

船山城① (35)
堀切㋒。通路以外は藪が酷く堀の形状の把握は難しい。朽ちそうな「出丸」の標柱がお出迎え。

船山城① (8)
堀切㋒の本丸側には土留めの石積が確認出来る。

●郭3
全長100m、最大幅28mの細長い三角形の郭で、堀切㋒側は盛土して土塁が築かれて防御を厳重にしている。

船山城① (3)
背後の土塁上には稲荷社が祀られている。

船山城① (5)
郭3の内部。藪が酷くて・・・これでも県指定史跡なのでしょうか・・・(汗)

●郭2
最大幅12mの細長い郭で、北側は土塁を削り残して一騎駆けの痩せ尾根として堀切㋓で断ち切る。

船山城① (42)
堀切㋒。(上巾15m)

船山城① (48)
堀切㋓は城域最大の上巾21mを誇る。

船山城① (10)
郭2の中心部。

●郭1
船山城の初期の主郭。最も早く造られたもので、次第に郭2、郭3と拡張され、根小屋式の山城が形成されたものと考えられている。背後を上巾11mの堀切㋔で遮断している。両辺に土塁痕が残り、そこに船山稲荷神社が勧進されている。47×16mの楕円形で、北側の尾根筋に麓へ通じる道がありここに虎口が開いている。麓の先端は二条の堀切で絶ち切っている。

船山城① (15)
堀切㋔(上巾11m)

船山城① (17)
郭1。(47×16)

船山城① (20)
背後の土塁には船山稲荷が勧進され、県指定史跡の標柱、説明板が建てられている。

船山城① (50)
郭1の北側に開く虎口。当初の麓の居館との通路だったのであろうか。

船山城① (21)
東斜面を守る堀切㋕。


≪船山城≫ (ふなやまじょう 県史跡)

標高:357m 比高:80m (国道より)
築城年代:不明
築城・居住者:片切氏
場所:上伊那郡中川村片桐南田島
最新攻城日:2015年9月22日
お勧め度:★★★☆☆
本城までの所要時間:-
見どころ:堀切、土塁など
駐車場:無し。御射山神社脇に路駐。
付近の城館:前沢城,葛島城、大草城など
参考資料:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)


Ⓢは御射山神社。この脇に路駐。

しかし、5年も前の写真を見ても「ここは何処?あたしは誰?」状態・・・(笑) 記憶を辿るだけで1時間もかかる有り様。
「おお、Googleストリートビューがあるじゃん!」と思いついたが、農道までは入ってくれない・・・(汗)

「鉄は熱いうちに討て打て!」 その通りです(笑)

船山城① (2)
入口の説明板に見取図を書いておかないと、誰も先端の城跡まで辿りつけないと思うのだが・・・(長野県教育委員会殿へ)

Posted on 2020/02/23 Sun. 13:13 [edit]

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戸石城 リテイク⑤(砥石城とその周辺)  

◆山城攻めの武田軍の精鋭部隊を苦しめた「砥石-米山防衛ライン」◆

こんばんは。

年末年始にamazonプライムビデオの「スラムダンク」にハマってしまい、先日101回目の最終回を迎えて放心状態となりました(笑)

日本の男子バレーがミュンヘンオリンピックで金メダルとなった事に痛く感動して、中学時代はバレーボール部に入り朝から晩まで練習漬けの日々。三年生になるとキャプテンを志願して地区優勝。何と県大会まで進んだのですが初戦であえなく敗退・・。青春の涙は塩辛よりもしょっぱいものだと知りました。

部活の日々といえば、部室が隣だったバスケ部と野球部に対して壁越しの仁義なき戦いを繰り広げる日々・・・・(笑)
「てめーら、汗くさいから、何とかしろ!」 8×4などというデオドラントなど高くて買えないドアホな少年時代・・・(汗)

今思えば、桜木花道以下の幼稚なヤツラのおバカな抗争でした・・・(爆笑) バスケ部は特に毛嫌いしていた記憶が・・(笑)

戸石城2013 (95)
本城の馬出(郭8)から南に進むと砥石城へ。※全体城域を示す戸石城と区別するために「砥石城」として使い分けしています

【山城攻めの巧者武田も攻めあぐねた地の利に護られた堅城】

残念ながら全国区ではないので、小生の探訪した山城は信濃とその周辺の一部であるが、抵抗する峻険な信濃の山城を各個撃破していった武田軍は、群雄割拠の戦国時代においてトップクラスの戦果を挙げていると推定される。

武田軍には間違いなく山岳ゲリラ戦の専門部隊(エキスパート)があり、城攻めでは先鋒隊として敵陣深く潜入し味方の手引きを行ったのであろう。

砥石城見取図①
この砦への通路は南西の尾根筋と陽泰寺からの東尾根のみ。

戸石城2013 (97)
本城の馬出からの尾根との接続部分の堀切。本来はW底の二重堀切で遮断されていたが、後世の耕地化による改変とみる。

山城攻めでは百戦錬磨の武田軍が、何故戸石城の攻略に失敗したのか?

答えはその恵まれた立地条件と、「籠城戦に後詰めは必須」という当たり前の鉄則に敗れ去ったとみるが果たしてどうであろう。

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国土地理院の地図に加筆修正しています。


●城の東西が天然の河川による堀で守られ敵を寄せつけない

戸石城の東側は神川の深い渓谷に護られ、西側は矢出沢川と城代屋敷の置かれた金剛寺集落があり、集落の西の尾根に柏城(上の城・下の城)を築いている。松代街道に通じる北側は、根古屋城が背後を守り、地蔵峠を監視下に置いている。

なので、城攻めは南正面を突破する正攻法しか無くて、水の手を断ち切る武田軍の得意の手法にしても、水の手に辿り着く事すら困難という局面に打開する方法が無かったというのが真実のようである。

金剛寺集落 (11)
城域西側の矢出沢川。村上家臣団の屋敷のある金剛寺集落側から武田軍が攻め入る事は考えづらい・・。

戸石城2013 (98)
砥石城の素敵な空間。

戸石城2013 (102)
ほぼ垂直に近い切岸。この砦への出入りは縄梯子だったということが伺える。

その名の如く、復元された櫓門からの南登城ルートは滑りやすい上に脆い小石の尾根、そして心臓破りの急崖が続く。
籠城兵側は蟻のように這い上がる攻城兵の頭上に石を落とせば面白いように潰れる。

戸石城には、佐久の志賀城で敗れた兵士も籠城軍として入り「武田憎し」の怨嗟は留まる事を知らなかったという。
小競り合いを仕掛けてもいたずらに兵を失うだけで、七千の武田軍は僅か五百の籠る城を遠巻きに囲むしかなかったのであろう。
(まあ、実際の兵士数は双方ともその1/10ぐらいだったと推定されるが・・・)

戸石城2013 (113)
砥石城の主郭(25×20)

戸石城2013 (107)
主郭からは連携する出城の米山城、そして遠方に上田市街地が一望できる。

戸石城2013 (117)
武田軍は現在の富士見台団地あたりに布陣したのだろうか。


戸石城2013 (114)
真田方面のロケーション。真田の里はこの時は未だ村上の勢力下であり、幸隆の一族の矢沢氏も村上氏の配下であったという。

戸石城2013 (119)
砥石城の東尾根を遮断する堀切(上巾10m)

現在主流となっている整備された南側の登山道(櫓門コース)は、砥石と米山を繋ぐ尾根筋からの登りが大変である。
今は階段があるが、その昔はロープ伝いで急峻な尾根を息絶え絶えに登るしかなかった・・・。
攻城兵の苦労が分かったような気がしたものである・・・(汗)

戸石城2013 (122)
砥石城の南登り口。階段が付いていなかった昔は「転落注意!」のスリル。

戸石城2013 (120)
堀切不要の岩尾根。南口から砥石城を攻めるのは困難であることを体験する瞬間である。

【米山城】

複合城郭である戸石城における米山城の役割はかなり重要だったと思われる。小さな郭3つの出城だが、砥石城と連携することで最大の防御ラインとなっている。
公園化され村上義清公の大きな石碑があり、かなり変形しているが、この場所に砦があると無いでは防御に差が出る。

戸石城2013 (126)
本城ではなく、何故米山城に村上義清の碑がたっているのであろうか?

戸石城2013 (129)
村上時代の城代家老屋敷があったとされる金剛寺集落。城下町がその時から形成されていたのであろうか。

戸石城2013 (134)
米山城の副郭。堀形も郭の東西に認められるが、ハッキリしたものではない。

戸石城2013 (136)
主郭と副郭の切岸。結構あいまいである。

さて、5回シリーズの「戸石城」如何でしたでしょうか。

地元の城を真面目に観察して真面目に記事にしてみる・・・・案外難しいものだと知りました・・・(笑)


≪戸石城 砥石城と米山城≫ 

標高:800m 比高:160m(陽泰寺より)
築城年代:不明
築城・居住者:村上氏、真田氏
場所:上田市上野
最新攻城日:2019年12月22日 (雪の残る写真は2013年2月の撮影)
お勧め度:★★★★★(満点) ここを知らずして信濃の山城は語れない
本城までの所要時間:20分
見どころ:堀切、切岸、石積みなど
駐車場:有り(陽泰寺の駐車場借用)
参考資料:「甲信越の名城を歩く」(吉川弘文館)など


㋹点は砥石城 Ⓢは米山城 Ⓖは復元櫓門。

戸石城2013 (112)
真田昌幸が上田城に居城を写した後は、後詰めの城して信幸や幸村が入城した戸石城。彼らも見たであろう城跡からの風景。

Posted on 2020/01/22 Wed. 11:09 [edit]

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