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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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上田城の石垣の石切丁場 その②  

◆予定されている発掘調査が終了したら説明板を表示願う◆

昨日はお盆の最中だというのに、グンマー帝国の五覧田城➾金山城➾反町城➾上江田城➾安養寺明王院館➾館林城➾大胡城を見学してきた。さすがに高速代をケチって日帰り往復400kmは体力的にキツかったが、しっかり勉強させていただいたと思う(笑)

さて、今回はお約束の上田城石切丁場シリーズ第二弾。

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しかしながら、猛暑日の炎天下で石垣を見て歩くのは危険です!!(汗)

【太郎山表参道とは】

太郎山(1164.5m)は、上田市民の山としてトレッキングに訪れる方がシーズンを通して耐えることが無い。登山ルートも何コースかある。最近はスカイランニングのコースとして大会も開かれるが、虚空蔵山の村上連珠砦群もコースに含まれているので史跡破壊にならないか心配である。(長野市の葛山城も同様で、コースの為に一部遺構が改変されているのが判明している)

その話は後日に語るとして、石切丁場があるのは、通称「太郎山表参道」と呼ばれる登山道の途中である。山頂手前に太郎神社が鎮座するので、参道なのである。

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登り口からは距離の目安として「一丁石」から始まり、途中登山道脇に石祠で昇順が示され最後は神社の「二十三丁石」。

今回はせっかくなので石切丁場の調査ついでに太郎山の山頂まで登ったが、夏場に比高600mなど止めておけばよかった(笑)

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ご褒美の山頂からの景色。途中15人ぐらいとすれ違っただろうか。あたしの趣味は山登りじゃないので・・・(汗)

【中世の山城 花古屋城へのお誘い】

表参道の石切丁場への訪問の際は、村上連珠砦群の一つである花古屋城の見学も是非お勧めしたい。
丁石で言うと、「七丁石」から左へ入るとすぐ城跡で、北は鉄塔付近、南は東の尾根先まで。尾根先まで全て見ると戻るのが大変なので、中枢部と堀切ぐらいでも充分かと。

花古屋城はこちらの記事を参考にしてください➾花古屋城

七丁石
目印の七丁石。

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朽ち果てた登山道の標柱には「野城」とあるので、昔から城跡としては認識されていたようである。


【表参道十二丁石の石切場】 ※仮称

小生も何度か太郎山には登っていて表参道の石切場については知らなかったが、地元では上田城の石切場として古くから認識されていたようである。
規模は前回紹介した牛伏の石切場よりも大きく、かなり手が入っているのが素人目にもはっきり分かる。

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目印となる十二丁石の祠。

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登山道から東側に回り込むと遠目にも矢穴列が見える。

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近くによって撮影。作業は中断されたようだ。

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小高い丘全体から切り出したようだ。

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こちらは縦の矢穴列。

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こちらも中央の岩盤に矢穴列が残る。

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クレーター状の石切場。

やはり、疑問となるのは、ここからどういうルートで石材を搬出したのか?という事になる。材木運搬用の通路を下したのだろうか。それにしてもこの比高差は難航を極めた事は間違いないだろう。
今後実施されるであろう発掘作業で、そのあたりまで踏み込んでいただけるとありがたいのだが・・・(って結局は人任せかい・・)

まあね、そんな事も考えながら上田城の石垣を見学すると、他の石垣の城の石の産出場所と運搬方法なんてのも物凄く気になってきます・・・(笑)
小生にはそんな根気も根性も気力も無いので、専門の方にお任せしましょう! (でたでた、しょせんは他人事・・・汗)

≪太郎山表参道十二丁石 石切丁場跡≫ (たろうやまおもてさんどうじゅうにちょうせき いしきりちょうばあと) ※仮称

標高:810m 比高257m(表参道登り口より) 
採石年代:不明
場所:上田市山口
探訪日:2019年7月27日
お勧め度:★★★☆☆ 
遺構までの所要時間:表参道登山口より20分
駐車場:表参道入口の道路脇に数台分の駐車スペースあり
参考文献:「信濃上田城」(和根崎 剛編 戎光祥出版)
見どころ:矢穴など
注意事項:特になし



配置図①
国土地理院地図を使ったアプリでの位置情報に加筆修正。

【おまけ 上田城石垣の矢穴跡】

周りの観光客から見たら、このクソ暑いのに石垣を端から端まで見てる変人に映ったと思います。

矢穴の跡を探してただけです・・・・やっぱそれも変人か・・・(汗)

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石垣でこんだけ使っているのだから、洪水で流されたらショックだろうな・・・「えっ、また山から切り出すの?」絶望感・・(笑)


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Posted on 2019/08/16 Fri. 19:38 [edit]

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上田城の石垣の石切丁場 その①  

◆石切り場は産業遺構として将来に向けて保護されるべき貴重な資料の宝庫である◆

信濃国上田藩に在住の小生が、どんなに豊臣時代~江戸時代にかけての大坂城の研究を重ねて対外発信しても、一部の方から労いの言葉を受けても、共感や感動を与える事はほぼほぼ不可能であろう。

なので、「地元のヤツが熱く語る地元の城!!」というのが小生の基本的なマニュフェストポリシーである。

と、偉そうに小生が声高に叫んでも何の説得力も無い・・・(汗)

そもそも、城郭ヲタクマニアへの道の入口が近世城郭であったとしても、土の城ばかり見てきた身で、今さら石垣フェチ専門になれるか甚だ疑問ではある・・・(笑) 算木積み?何ですかそれ?積み木崩しは穂積ぺぺ?(爆笑)

日頃、「地元の城は、地元のヤツらが暑い熱い思いを込めて語るのが説得力があるのだ!!」なんて嘯いているが、仙石・松平氏の手になる上田城については、表面的な知識しか持ちえない愚かさに反省しきり。なので最近地元最強の輩(和根崎さん、偉そうにスミマセン・・・汗)が書いたこの本を読んで勉強してみた・・・(笑)

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この手の専門書は戎光祥出版さんの独壇場であろう。編者の上田市教育委員会の和根崎氏は影の上田城主と噂されている(笑)

和根崎さんには申し訳ないが、この本で一番興味を引いたのは「第二部 発掘調査の進展・成果」の「Ⅲ 石切丁場の分布調査」という森岡秀人氏の寄稿であった。
あたしゃ不勉強で申し訳ないが、知る人ぞ知る考古学のスペシャリストで、石垣のスペシャリストでもあるようです。

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上田城二の丸の北虎口の石垣。

私たちが近世城郭を訪れてます感動するのは、その威容を余すことなく誇る石垣であろう。

ところが、あまりにも「近世の城跡=石垣のある風景」が当たり前に浸透して見慣れてしまった結果、

「この巨石は元々何処にあったものなのだろう?」

「重機もクレーンもダンプも無い時代にどうやってここまで運んだのだろう?」

「石を切り出して加工する工程はどうやったのだろうか?」

という素朴な質問すら思い浮かばない哀しい無関心なその他大勢の人になりつつあるような気がするし、小生もその一人である。

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尼ケ淵と呼ばれる上田城の南側の崖渕の石積は、千曲川と太郎山の地下水による浸食を防ぐ護岸用の石垣だという。


【上田城の石垣の石切場】 

地元で昔から認知されているのは、市民の山として親しまれている太郎山の表参道の途中脇にある石切り場で、その他には同じ太郎山の西側の虚空蔵沢の登山道「牛伏・白蛇コース」の登り口の虚空蔵堂裏手及びルート途中にある村上連珠砦の山城と伝わる牛伏城手前の石切場で、他に伝承としては虚空蔵沢の西側の眉見林の「指さしゴーロ」や和合沢(御廟の沢)、山口北方の岩(ほこの首)があるようだが、現地調査をしていないので、はっきりとしたことは分からないと森岡氏秀人氏は記している。

太郎山石切場
千曲川の常田大橋付近から見た太郎山の石切場の分布。


【虚空蔵堂及び牛伏城手前の石切丁場】

今回ご案内するのは、上田城の石垣の太郎山に現存する石切丁場二ヶ所のうちの一つ、西側に位置する「牛伏城石切漁場」(仮称)である。
場所は国道18号線上田バイパスの緑ヶ丘の交差点信号を北に入った虚空蔵堂裏手と、そこから太郎山登山道の「牛伏・白蛇」ルートの中世山城の牛伏城の手前100m付近にある。

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虚空蔵堂の参道。

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社殿の裏側の何気ない剥き出しの岩肌に、見事な矢穴列が・・・。

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前の写真を拡大。まさかここに石切場があったとは・・・灯台元暗しを実感した次第・・・(笑)

ここでの虚空蔵堂付近での採石は早い段階で産出量に限界をきたしたのであろうか。

真田信之の松代藩への配置換えに伴い、小諸藩より転封となり異例とも言える幕府の許可と莫大な資金援助を受けて上田城の近代城郭への再興に着手した仙石忠政(センゴクでお馴染みの仙石秀久の嫡男)であったが、その築城工程はかなり難航し、早い段階で資金も底をつき、彼の死と共に工事は中断された。

その後改修工事は再開される事も無く、忠政の跡を継いだ仙石政明と入れ替わる形で、出石藩主だった藤井松平の忠周が5万8000石で上田藩に入封となるが、明治維新まで度重なる水害による尼ヶ淵護岸用石垣の申請のみだったという。
しかし、その石垣補修は資金不足に加え、原材料や石工の確保が難しく相当な苦労の連続だったという。

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牛伏石切場(仮称)へは、虚空蔵堂から最近整備された「牛伏・白蛇」登山ルートを約20分ほど登る。迷うことは無い。

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牛伏城手前の石切場。クレーター状の凹地に剥き出しの岩盤が出現するので、それと分かる。

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岩肌には矢穴の跡がいくつか散見出来る。

この場所から100mほど登った場所に村上連珠砦の一つと伝わる牛伏城があるが、土塁の周回する単郭の周囲に数段の段郭、主郭の背後を太い一条の堀切で断ち切った戦国時代初期の砦と推定され、石切場の石を使用している形跡は見当たらない。

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昨年「太郎山山系を楽しくつくる会」の皆様により登山道と城跡の整備が実施された牛伏城。宮坂氏の縄張図も設置され有難い。

牛伏の石切丁場は、虚空蔵堂からさらに比高100m以上あり、少なくとも二ヶ所の採石場と数段の加工用の平場があり、砕石が散乱している。
問題は、このような高い場所から切り出された石材の搬出方法と経路であろうか。

周辺を探索してみると、南東の斜面に塹壕状の搬送路のような形状が麓に向けて続いている。従来の伐木材の運搬経路を利用すした事も考えられるが、垂直に近い斜面を落下させた荒っぽい運搬方法案外もありかと・・・。

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採石の跡を物語るクレーター状の凹み地。この写真が「土塁と直虎口」に見える方は治療が必要かと・・・(笑)

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石切場の南の斜面側に展開する段郭。

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散乱する石はここが加工を兼ねた作業所だった可能性を否定していない。


≪牛伏石切丁場跡≫ (うしふせいしきりちょうばあと) ※仮称

標高:650m 比高150m(R18上田バイパス交差点より) 
採石年代:不明
場所:上田市常盤城
探訪日:2019年7月21日
お勧め度:★★★☆☆ 
遺構までの所要時間:虚空蔵堂より20分
駐車場:無し(虚空蔵堂の登り口の道路脇に1台駐車スペースあり)
参考文献:「信濃上田城」(和根崎 剛編 戎光祥出版)
見どころ:矢穴など
注意事項:特になし


Ⓢは虚空蔵堂の位置。

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国土地理院地図を使ったアプリでの位置情報に加筆修正。

次回は、「太郎山表参道 十二丁石 石切丁場」(※仮称)についてのレポートになる予定です。

Posted on 2019/08/13 Tue. 20:34 [edit]

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駒場城 (下伊那郡阿智村駒場)  

◆伊那谷の南口を抑える交通・軍事上の要衝◆

全く関係の無い話なのだが、先日職場の不健康健康診断があり、体重計に乗ってビックリ・・・前年比▲5kg・・

ジョギングをしようが、山城探訪で月2回1万歩を歩こうが、「今日も元気だ、ビールが美味い!!」なんて生活習慣を繰り返していたら、全くもって痩せる訳ない事実・・・・毎日体重計に乗ってもそりゃ無理だわ・・・・・・(笑)

今回の痩せた要因は何だろう?と考えてみたら、加齢による食欲減退って説が最も有力かもしれない・・・・(爆笑)

ま、そんな個人的な話はともかくとして、今回ご案内するのは地元から城山と呼ばれる「駒場城(こまんばじょう)」

駒場城(阿智村) (1)
城跡から飯田市方面。烽火台としてのロケーションも申し分無い事がわかる。

【立地・背景】

恵那山に源を発する本谷川が、黒川、大沢川等の水を集めて阿智川となって東へ流れる川沿いに、かつての伊那街道の駒場宿がある。
一本道の街道の両側に町屋が並ぶだけの宿場町であるが、この宿場町から阿智川を隔ててそそり立つ急峻な山が駒田城山である。

此の山は、昔から城山と呼ばれ、延宝四年(1676)の「駒場村絵図」に「城山、御公儀林、松立」と書かれていて、当時の駒場村の領主は宮崎太郎左衛門であったが、この山は領主や村人の利用できない「御林」(おばやし)として存在していたことを物語っている。

駒場城(阿智村) (5)
駐車場は郭2と郭3の間にある20×11の郭。公園による改変があり往時の遺構か不明だ。

駒場城見取図①
主郭背後の五連の堀切処理は、その指向性だけ見れば武田氏の侵入に備えた小笠原系の改修とも思えるが・・・。

駒場城(阿智村) (10)
東尾根の段郭に付随する堀切は武田時代の改修のようだが、どうであろう。

駒場城(阿智村) (12)
郭2。全山耕作地となり、その後の公園化による改変により往時の遺構を見るのは難しい。


【城主・城歴】 ※「定本 伊那谷の城」(1998年 郷土出版社)より引用

築城主は、確実な史料がなくわからないが、「信陽伊那記」に次ぎの記事がある。「この駒場次郎は林丹波弟にて、林理右衛門が叔父なる丹波には大伯父なる。応永の頃、川南に山城を築き在城し、駒場を押領す。本名は林恵次郎、息子は惣馬、父子共に討死す。
此の子惣市幼稚の頃、林丹波城を攻めてとり押領し、惣市には僅か八軒屋敷を宛て行ふと云ふ」

駒場城(阿智村) (13)
「ブランコ、お砂場、滑り台」のある楕円形の本郭。高度成長期に公園化された城跡にの残る昭和の遺跡である。

また、「旧事勘考記」という当地の旧家の家伝記に、「城山・阿智川を隔て駒場と相対す。武田氏領地中、狼煙台址にして、北は山本の茶臼山狼煙台、南は浪合方面の狼煙台に信号発いん受継の要に供せしものならんか。
また曰く、駒場次郎は山本保田下林理右衛門の弟なり。駒場を押領し山城を築き居住す。死後其の子惣市若年故理右衛門の子、丹波居城し八百石を押領、後に下条の家臣に討ち滅ぼされたりといふ。駒場次郎は力量強勢者ゆえ在名を呼べり云々」と。

駒場城(阿智村) (14)
主郭その2。主郭には土塁痕が見られるので、外周または一部は土塁が盛られていたと思われる。

この二つの史料にはそれぞれ欠陥があって全面的には信用できない。前者の「応永(1394~1428)の頃」は室町時代の初頭で、武田信玄が伊那谷を領有した天文二十三年(1554)からはおよそ150年前になり、古きに過ぎて人間関係が結びつかない。
後者では烽火台として浪合方面と連絡したというが、この城山からは東方の山本久米城山、飯田城方向は展望されるが、西方の浪合蛇峠方向へは松澤山系に遮られて全く望めないし、貫文時代に「八百石」は適当でない。
しかし、右の二史料によって、中世の山城として林氏が構築した事はほぼ間違いないと思われる。

※以上引用終わり

駒場城(阿智村) (19)
主郭背後の堀切㋕。上巾16mほどあり、後部の郭との落差も結構ある。

駒場城(阿智村) (22)
堀切㋕。五連の堀切の規模と深さを見ると、上野南本城を除けば、境目の城として重要視されていたことが分かる。

駒場城(阿智村) (38)
堀切㋕と堀切㋗の間の20×7の郭。

駒場城(阿智村) (32)
城域で最大幅の堀切㋖(上巾17m)。箱掘なので武者溜りの機能も兼用していたかもしれない。

駒場城(阿智村) (42)
堀切㋖。甲州征伐の際に美濃口から陣城を築きながら信濃の伊那谷に入った織田軍の改修を受けた可能性も否定出来ない・・。

駒場城(阿智村) (51)
上巾9mの堀切㋗。薬研堀で北側で堀切㋘に接続する。

駒場城(阿智村) (56)
上巾10mの堀切㋘。


【城跡】

城山の三角点(693.2)から葯0m低い一段下の東の平場を主郭として東に延びる尾根先を加工した連郭式の山城である。
阿智川に落ち込む東の尾根先が大手筋と考えられ、段郭を重ねた縄張はオーソドックスな手法である。

主郭背後の大掛かりな五連の大堀切と、東尾根に刻まれた竪堀は、この砦が重要視され、改修を重ねた事が容易に想像できるが、それが武田氏によるものなのか、甲州征伐における織田方の突貫工事なのかは分からない。

また、公園化による改変も酷く往時の原型を留めているのは主郭背後の堀切のみのようにも思える。

駒場城(阿智村) (60)
五連の堀切の際級の堀切㋙。ここから急坂となり城山の三角地点に向かうが遺構は何もない。

駒場城(阿智村) (67)
城山の三角点のある場所は自然地形。我ら信濃先方衆は、節穴と言われてもその目で確かめないと気が済まない・・(笑)

駒場城(阿智村) (66)
城山のピーク693.2mの三角点。人工的な加工の跡を見つける事は出来なかった。

駒場城(阿智村) (89)
東尾根の先端の郭3。神社が勧進されているので、現在の地形を往時のままと見るのは無理がありそうだ。

駒場城(阿智村) (83)
西側より撮影した郭3。周囲の遺構は遊歩道の開通と神社参道の取り付けで酷い事になっている。

駒場城(阿智村) (92)
東尾根先端の竪堀㋑。末期の改修であろう。

駒場城(阿智村) (95)
竪堀㋑。堀底に下りて楽しいの?オフコース!「愛を止めないで♪そこから逃げないで♪」(笑)

武田氏の侵略以前は、吉岡氏と小笠原氏の境目の城。武田占領下においては、美濃侵略の軍事中継地点。甲州征伐においては、織田軍の陣城伊那谷攻略の陣城として機能したのであろうか。

駒場は、信玄終焉の地の候補とされ、近くの長岳寺で火葬されたとの伝承が残る。武田軍の重要な外征の中継地点であった。

➾詳しくは武田信玄終焉地考のポンコツ記事を参照ください。

≪駒場城≫(こまんばじょう 城山)

標高:646m 比高110m(阿智川より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡阿智村駒場
攻城日:2013年10月27日
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:城跡まで車が入るので0分
駐車場:有り。※城跡までの道路はすれ違い困難なのでファイト一発の心得が必要かと・・・(笑)
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)、「定本 伊那谷の城」(郷土出版社)
見どころ:5連の大堀切、段郭、竪堀など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿

駒場城(阿智村) (100)
北東の阿智川沿いから見上げた駒場城遠景。

Posted on 2019/08/01 Thu. 21:11 [edit]

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茶臼山城 (下伊那郡豊丘村河野)  

◆古道の乗り越しを監視した砦◆

とりあえず下伊那郡豊丘村の城館シリーズは今回の記事で一段落としたい。

南信濃の未掲載の山城と城館の在庫はようやく残り7ヵ所まで解消された・・。今回ご案内するのは全国的にもメジャーな名前の茶臼山城。

私の知る長野県の茶臼山城は、甲越合戦の際に信玄が本陣を置いたという長野市篠ノ井の茶臼山陣場と飯田市にある茶臼山城ぐらいであろうか・・・。

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城への登城口は、芦部川の渓谷沿いから無住となったお寺を経由する古い山道である。

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寺(といっても古民家にしか見えないが・・)の上段には道標の石碑があるので、近年まで生活道路として機能していたようだ。

【立地】

芦部川の左岸、巻ヶ城と相対する山手山の山頂に立地する。山体は芦部川に面する南面は急峻で登りにくいが、東と西の尾根通しは比較的傾斜も緩く登りやすい。山頂部は茶臼山の名の通り、茶臼形で、山頂より放射状に小尾根が派生していて、それらに跨って城跡がある。
登路は東側山下の家の所から、米山家墓地の横の道を竹林の中を登り、尾根に出た所で西行して、小山を一つ越えると茶臼山である。南の谷筋を辿ると上垣外(かみのかいど)になり、芦部川に奥地には河野氏ゆかりの殿御家(とのごや)があり、大鹿村の大河原への道筋になる。

茶臼山城見取図①
輪郭式の段郭を多用する縄張は珍しいが、戦闘には向かない古めかしさ。

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堀切㋑。(上巾3m) 「本気」と書いて「マジ」と読むような迫力には欠けていると思うが・・・(汗)

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堀切㋑の一段上の削平地には遮蔽土塁のようなものも確認出来るが、往時のものとは断定できない。

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主郭への通路は北側を迂回して堀切㋐から入るので、東側の切岸の加工度はかなり高い。

【城主・城歴】

立地から見て、南朝方の香坂氏やその配下であった河野氏の関連だと思われるが、史料や伝承等がなく不明。先日ご紹介した「巻ヶ支城」の造りににているので、同時期の築城と思われるがはっきりしない。

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主郭手前の段郭。削平も曖昧でハッキリしない。

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主郭の中心部に倒れる標柱。あるだけマシと思いつつ・・・。

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「茶臼山城」と表記しない潔さは認めるが、「城」と付け足すメリットのが重要な気もするが・・・。

【城跡】

山頂部の主郭は12×10の円形で、周囲を取り巻くように腰郭が存在する。ただし、削平は曖昧である。
東西の尾根に堀切を備えるものの、基本的な防御構造は信濃の古い形式の山城を踏襲する段郭方式である。対岸の巻ヶ城は同時期の築城でありながら、戦国時代にはある程度改修を加えられたと考えられるが、この茶臼山城は捨て置かれたような状態に思える。とはいえ、集落の乗り越しの道を監視する砦として使われたのかもしれない。

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主郭の南方面。

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西尾根の堀切㋐を見下ろした写真。堀切㋑と違って、こちらの加工度は高い。

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西尾根の削平部分。

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まあ、もう一度戻っての堀切㋐。

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主郭の南尾根の段郭。

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主郭とそれを周回する帯郭。


≪茶臼山城≫ (ちゃうすやまじょう)

標高:674m 比高140m(芦部川より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡豊丘村河野堀越
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:無住の寺より片道15分ぐらい
駐車場:無し (麓の道路沿いに路駐)
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
見どころ:堀切・切岸など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿

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訪城当時のスマホのスクリーンショット

Posted on 2019/07/20 Sat. 23:14 [edit]

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巻ヶ支城 (下伊那郡豊丘村神稲)  

◆巻ヶ城の南を守り古道を監視した砦◆

今頃気が付いたのだが、ブログを解説開設して十年が過ぎた・・・。

当たり前だが、開設当初の1年ぐらいは読者も近寄らず、ブロ友を申請しても返事など無く、似たようなブログの皆様にコメントしてもそっけない返事。

やる気だけが空回りして味気ない日々を過ごしてきたが、「読者を増やしたいと思うなら、記事の更新を止めてはいけない」と小生の尊敬する「城と古戦場」の管理人のマサハレ様に励まされ、気が付いたらここまで何とか続いていたという有り様・・・(笑)

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巻ヶ城の説明板は、何故か登り口ではなく、北側の芦部川の茶臼山城の登り口手前に設置されていた・・絶対にこちらからは登れない(汗)

今回ご案内するのは、前回掲載した巻ヶ城の古道を挟んだ南側に築かれた「巻ヶ支城」である。

巻ヶ城見取図①
今回は下側の支城の見取図をご参照ください。

【立地】

巻ヶ城との間に形成された洞を挟んだ南の小高い丘に築かれている。
古くは山田から笹久保を経て坂鳥峠を越えて北山集落を経由し唐松峠を越えて大河原に至る山道の入口を抑える場所である。

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巻ヶ城の説明板(拡大版)

【城主・城歴】

前回掲載した巻ヶ城をご参照ください。

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休耕地となった水田跡から適当に5分ほど斜面を登ると主郭の西尾根の削平された尾根に辿り着く。

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支城の唯一の西側の堀切。上巾は5m程度。

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主郭から見下ろした堀切。

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主郭と周囲を囲む帯郭との切岸。結構真面目に角度をキチンと付けている。

【城跡】

頂部に土塁を削り残した不正五角形を置き、その一段下の周囲に帯郭を配置した単純な縄張である。堀切で遮断した西尾根は造成途中で放棄されたのか、その必要が無かったのかは悩むところである。
山道の監視や取り込みというのは側面的な解釈で、巻ヶ城の弱点である南側の斜面の防御と水の手の防御の為に築かれたのであろう。

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堀切から見た主郭の土塁。

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主郭内部。

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主郭の東側の縁にある土塁。

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主郭と帯郭の接続部分(主郭から東の帯郭を見下ろす)

頂部に三方に囲むような土塁を設けた主郭を持ち、一段下に周回する帯郭を設けただけの山城である。
この縄張は、のちに紹介する巻ヶ城の北側に位置する「茶臼山城」と規模は違えど中々類似している事に気が付く。

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主郭の外側を巡る帯郭。削平がやや曖昧。

≪巻ヶ支城≫ (まきがしじょう)

標高:653.6m 比高85m(池の平より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡豊丘村神稲山田
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:車から降りて15分ぐらい
駐車場:無し (麓の山田集落に路駐)
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
見どころ:堀切・切岸など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿



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取るに足らない城なんて無い・・・誰かが語らねば、その砦の存在すら忘却の彼方に消えてしまうという危惧を持ち続けたい。

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芦部川沿いから見た巻ヶ城。

Posted on 2019/07/12 Fri. 22:01 [edit]

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