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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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道林の砦・鐘撞 (上伊那郡辰野町小野)  

◆小西城の物見か◆

あまりにもマイナーな山城ばかり掲載するので、読者離れが加速する時がある。

残念ながら小生のブログは「関東甲信越の名城を歩く・長野編」の補足でもないし、「長野の山城ベスト50」の写真付き解説書でもない。そこにこだわるのであれば、文章も写真も上手な他のサイトをご参照願いたい・・(笑)

信濃の山城を隅々まで堪能したいのだけれども、お住まいが遠方であることや、その他の様々な要因で時間も体力も使う事が制約される、または困難だという方々に向けて地元民の利を生かして気の向くままにテキトーに掲載しているブログであることを再度ご了解いただければ幸いです・・・・(汗)

そんな前置きはどうでも、今回ご案内するのは、前回ご案内した小西城の前衛砦と伝わる「道林の砦・鐘撞(どうばやしのとりで・かねつき)」(宮坂武男氏による仮称)である。

道林の砦・鐘撞 (13)
主郭内の桂昌院外伝教居士の供養塔。詳細不明。

道林の砦・鐘撞 (1)
墓地脇の緩い尾根を登る。

【立地】

小野宿の西方、小西城との間に道林(どうばやし)と呼ばれる小山があり、その南側山麓に鐘撞(かねつき)の地字名が残っている。山の東麓が有富山祭林寺の墓地になっているので、この山の名は堂林であったかもしれない。登路は墓地の所から南東の尾根に沿って登るが途中に地蔵や馬頭観音があるので、この山の近くを古道が通っていたように思われる。

道林の砦・鐘撞 (5)
登り口の南東尾根にあるお地蔵様。

道林の砦見取図①

【城主・城歴】

地元には、この山に小西城の支城となる砦があり、狼煙台があったという伝承があるという。字名より「道林の砦」と仮称する。山頂の曲輪内には、慶長3年(1598)の桂昌院外伝教居士の供養塔や石造物がある。小野氏にかかわるものと思われるが、詳細については不明。あるいは「どうばやし」の地名から、山頂部にお堂があった時期があり、この地名が生まれたものと想像されるがはっきりしない
(宮坂武男氏の記述より)

道林の砦・鐘撞 (8)
主郭手前の段郭(5×12)

道林の砦・鐘撞 (11)
主郭内部の様子。背後を低い土塁が周回する。

道林の砦・鐘撞 (12)
主郭の土塁その2。

【城跡】

小山の頂きには26×17で低い土塁の全周する平場がある。(南側が一部欠損している) 周囲も切岸が施されている。
ここから三方に尾根が派生しているが、堀切は見当たらない。北西の尾根と北東の尾根は削平されているが耕作地によるものなのかはっきりしないので遺構と判断するのは難しい。
「鐘撞」(かねつき)という字名は烽火台に残る地名が多い事から、この場所についたことは充分考えらえるようだ。

道林の砦・鐘撞 (26)
主郭の切岸。(北東より撮影)

道林の砦・鐘撞 (20)
北西の郭2。(10×30)

道林の砦・鐘撞 (23)
北東尾根の平場。

小さいながらも、砦または狼煙台としての遺構が残っているように思う。ここに繋げる狼煙台は果たしてどこにあったのか?という疑問が残る。宮坂武男氏は、この南に位置する御岳山(1202m)にあったのではないか、と推察している。
残念ながら小生は未だ登っていないので、謎を解くには自分の目で確かめないと・・・さて、いつになるやら・・(笑)

道林の砦・鐘撞 (2)
郭からの見晴らしは良くないが、きっとこのような風景が見えたのであろう。(小野集落方面、山を越えて諏訪湖方面へ)

道林の砦・鐘撞 (27)
東側よりみた砦の全景。

≪堂林の砦・鐘撞≫ (どうばやしのとりで・かねつき)

標高:863mm 比高:25m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡辰野町小野
攻城日:2016年4月24日
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:東麓の墓地より 駐車場:墓地の駐車場借用
見どころ:主郭の土塁、切岸など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:小西城、竜ヶ崎城、王城など


Ⓢは駐車場。

道林の砦・鐘撞 (4)
西側の小西城。連携して木曽との往来を監視したのであろう。

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Posted on 2020/04/05 Sun. 17:17 [edit]

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小西城 (上伊那郡辰野町押野)  

◆たのめの里を一望する山城◆

我々信州人でも「たのめの里」(憑の里)が何処にあるかを知る人は少ない。そういう小生も城巡りで訪れて初めて知った次第である。

【たのめの里】

小野は、たのめの里という。平安時代、藤原氏全盛のころの「清少納言記」にも、「しなのなる 伊那のこほりと思ふには 誰かための里と いふらん」 (夫木集)
たのめとは、どういう意味か知らないが、とにかく、古く知られた、いわくのある所だったらしい。(「伊那の古城」篠田徳登著)

たのめの里と呼ばれる小野盆地は、古くから松本・塩尻に繋がる東筑摩郡と木曽郡・上伊那郡の境となる交通の要衝であった。

今回ご案内するのは、そんな「たのめの里」を眼下に収める「小西城」である。

小西城(辰野町) (72)
主郭に鎮座する御嶽教の石碑。


【立地】

小野盆地の北西に聳える霧訪山(きりとうやま 1305m)から南へ延びた尾根の末端にこぶのような二つの高まりがある。その北側の高まりのピークに小西城がある。麓の押野集落を東西に走る道は、西へ向かえば牛首峠を越えて木曽街道につながり、この砦が木曽郡との往来を監視した事が考えられるという。

小西城(辰野町) (65)
登城路は二つある。東麓の押野コミュニティセンターから15分かけて登る方法と、車で西側の林道に入り鞍部に横付けする方法ある。その場合軽自動車でないと厳しい。当然ながら、小生は後者を選択・・(笑)。(写真中央は鞍部)

小西城(辰野町) (4)
鞍部からの比高は約50mほど。結構な急斜面なので驚く。

小西城見取図②

【城主・城歴】

小野は古くから、小野神社や矢彦神社に関わる勢力が支配した地域で、北方の塩尻市側にある上田城も川鳥城も神社との関係があったものと考えられている。
小西城は、小野地区の木曽口に当たる場所にあり、木曽氏の砦であるとの伝承もあり、一方草間備前(肥前とも)の砦ともいわれる。

小西城(辰野町) (6)
鞍部を登ると最初に現れる上巾7mの落差のある堀切。

草間肥前は、小笠原長時の旗下で、武田氏が伊那へ侵入した天文の頃には、辰野におり、荒神山や羽場古城に居て武田と戦ったとされる人物である。その草間氏がある時期にこの小西城も支配下においていたことも考えられるが、はっきりしたことはわからない。

小西城(辰野町) (11)
主郭への尾根は三重の堀切で遮断している周到さである。

小西城(辰野町) (16)
土塁の全周する主郭(25×12)。鳥居の建つ東側が虎口だったと思われる。

【城跡】

尾根上の半独立峰のような小山に立地していて、主郭は南北25m、東西は南辺で役12m、北辺8mという小さなもので、低い土塁が全周していて、東側が土塁が切れていて虎口と思われる。曲輪内には西側に石積みの段があり、御嶽神社が祀られている。南北に細長い主郭の前後を一~二条の堀切で守っている。

小西城(辰野町) (18)
鳥居の建つ場所が虎口と想定される。

小西城(辰野町) (17)
コンパクトな主郭。

小西城(辰野町) (23)
北側から撮影。戦国時代が終わると山岳信仰のメッカとして領民の心の拠所であったという。

小西城(辰野町) (34)
主郭の北側の堀切。

小西城(辰野町) (40)
北側の尾根筋には段郭が二ヶ所確認出来る。

南へ続く尾根筋は、150mほどのところに鞍部があり、ここへ東の沢から登る道がある。これが大手の道ではないかと思われる。鞍部の南に南北に長い山があり、尾根上に平地が認められる。物見などがあったかもしれないが、砦としての遺構は見当たらない。
以上のように小西城は小規模で在地土豪の要害城の範囲に属するもので、その点からすると草間氏の要害として築かれ、武田氏の統治下で街道を抑える城として使われたものと推定される。

小西城(辰野町) (58)
南側の小山に登ってみた。

小西城(辰野町) (63)
尾根を削平し最高地点には神社が勧進されたらしいが、今は朽ちそうな鳥居と石祠のみ。砦としての遺構は見当たらない。

宮坂武男氏の推察する通り、在地土豪が古道を監視する砦としてはこの程度で充分であったろう。東斜面の尾の集落側の尾根には屋敷があったのかもしれない。

≪小西城≫ (こにしじょう 草間城・古城)

標高:937.2mm 比高:77m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡辰野町小野
攻城日:2016年4月24日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:鞍部の西側より約5分 東沢の麓の押野コミュニティセンターより徒歩15分 駐車場:無し(路駐)
見どころ:三連続堀切、土塁など
注意事項:特に無いが、秋は松茸山で止め山らしいので注意
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:道林の砦、竜ヶ崎城、王城など


Ⓢは鞍部まで車で入る場合の路駐位置。㋹は主郭。

小西城(辰野町) (66)
西側の鞍部付近から見た小西城。



Posted on 2020/03/31 Tue. 22:46 [edit]

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王城 (上伊那郡辰野町大城山)  

◆竜ヶ崎城と共に伊那谷の北を固めた山城◆

最近真面目に記事を更新している自分に驚く・・・ブロ友の美濃の久太郎さんにもお褒めいただいた・・・・(笑)

といっても、今週末は上伊那に進軍予定だったが、天候が芳しくないし賞味期限の切れそうな未掲載の案件処理に時間を回す事になった次第。

今回ご案内するのは、麓の竜ヶ崎城と共に伊那谷の北を抑える「王城(大城)」。

大城(辰野町) (6)
標高1,029mに位置する城跡からのロケーションは、この砦の役割を納得するに充分であろう。

【立地】

王城は上伊那郡辰野町の北、町を見下ろす大城山の頂上にある。伊那谷の北端の天龍川と横川が合流するところで、伊那谷の真正面に当たるために、ここから天龍川の谷筋が一望に出来るばかりか、横川の谷や諏訪方面など視野は広い。竜ヶ崎城は目の下の指呼の先にありその詰城とも考えられ関係は深い。

大城(辰野町) (45)
主郭(60×12)。公園化に伴い改変を受けているがそのおかげで絶景が広がる。

大城見取図①
主郭に段郭を巡らせた砦で、西尾根に明確な堀切が確認出来る。

【城主・城歴】

伝承なく詳細は不明だが、小笠原氏は元々下伊那の竜西を本拠地とした一族なので、府中に進出した際に、伊那谷との連絡拠点として辰野は重要視され、砦や狼煙台が置かれたものと推定されている。
天文十四年、藤沢頼親の守る福与城を包囲した武田信玄に対して小笠原長時は竜ヶ崎城に後詰めに入るも、板垣信方に急襲され、城を捨てて府中に逃げ帰ってしまい、抵抗を続けた福与城も孤立無援となり人質を差し出し和議を請い開城、城は焼き討ちされた。竜ヶ崎城の自落と共に王城も落ち、武田の支配下になったものと思われる。

大城(辰野町) (44)
残念ながら城に関する標柱とか説明板は無い。

大城(辰野町) (43)
南側の段郭から本郭を見上げる。切岸になっているのが分かる。

大城(辰野町) (11)
主郭から南に一段下がった段郭。最近まで反射板が建っていたようだが、撤去された。

大城(辰野町) (16)
南斜面には竪堀状の遺構が残る。

大城(辰野町) (34)
主郭の北側の帯郭は西側へ向けて横堀状となっている。

大城(辰野町) (2)
上の写真を西側より撮影。


【城跡】

公園化や電波塔、パラグライダーの発射台等が作られ大きく改変を受けてしまっているが、60×12の頂部の平場を主郭として周囲に段郭(腰郭)を置き、西の尾根に二条の堀切を穿った砦である。北側の平場や駐車場付近には充分小屋掛けが出来そうな広さがある。
北の尾根伝いの道は塩尻峠合戦が行われた勝弦峠に通じるので、小笠原方の戦略的拠点として麓の竜ヶ崎城と共に重要視されたことが伺える。

大城(辰野町) (30)
西尾根のV字の堀切の位置。

大城(辰野町) (25)
V字堀切の主郭側の断面。

大城(辰野町) (29)
西側尾根の電波塔の奥にある二条目の堀切。

大城(辰野町) (39)
主郭北東の尾根先にも小さな郭があり、三笠山・三宝荒神・刀利天宮の石碑がある。砦の遺構だろうか。

大城(辰野町) (8)

大城(辰野町) (10)

この砦、その立地条件と抜群の眺望ゆえ、反射板や電波塔、はたまたパラグライダーの基地などが作られてしまい、往時の遺構はどこまでなのかを判断するには難しいが、守護小笠原氏が防衛拠点として重要視した想いは、この場所に立つと分かる。


≪王城≫ (おうじょう 大城)

標高:1028.6m 比高:280m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡辰野町大城山
攻城日:2016年4月24日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:自動車で約20分 ※すれ違い困難なので要注意 駐車場:有るが、RV車でないと城跡まで入れない。手前の道路脇に路駐して歩きましょう。
見どころ:眺望、横堀など
注意事項:大城スカイラインという名前の道路だがダートな林道。乗用車は厳しいので軽自動車で。4WDでなくとも登る。
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:竜ヶ崎城、丸山秋葉砦、荒神山陣場、羽場城など


Ⓢは林道入口。結構狭いので注意。RV車以外は最終の登りが轍で通行困難。Ⓖあたりで路駐しましょう。
大城山の南東から登山道もあるようです。健脚の方はチャレンジしてみましょう。小生は遠慮しときます(笑)

20140328222422723[1]
竜ヶ崎城の主郭から見た王城。結構ヤバイ高さだよね・・(汗)

Posted on 2020/03/28 Sat. 14:42 [edit]

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上の平城 (上伊那郡箕輪町東箕輪 県指定史跡)  

◆伊那源氏ゆかりの地の河岸段丘に築かれた広大な館城◆

伊那谷のおける中世城郭を掲載したHPやブログは今でも極端に少ない。

戦国時代の早い時期から武田の被征服地となってしまった事や、天正壬午の乱においても吉岡城の下条氏が伊那谷の土豪をとりまとめて徳川軍に協力させたことで、戦禍を逃れたというのも遠因であろうか。

天龍川の浸食によって形成された河岸段丘を利用したどうしようもなく平和ボケしたデカイ居館城ばかりが取り上げられてしまい、緊張感や緊迫感の無い城ばかり・・・という誤解や先入観もあるようだ・・・(汗)

まあ、そんな解説はともかく、今回ご案内するのは、鎌倉時代の館城の遺構がそのまま残るという「上の平城」である。

上の平城 (15)
主郭の南側に立つ標柱と説明板。ここが長野県指定史跡なら、なぜ伊那大島城は指定史跡にならないのか不思議である。

【立地】

上の平城は、上伊那郡箕輪町北部天龍川東の、南小河内に位置している。東の山麓が舌状に張り出して丘陵となり、その突端に築城した平山城である。周辺の地形を見ると、南は一の沢川、北は知久沢川、東は寺沢川による断崖となり、西は平地に続き天龍川となっている。

上の平城見取図①
これだけの広大な城跡が耕作地化されたとはいえ、よく残ったものである。

城跡は西南に面した傾斜地で日当たりよく、先始・原始時代の遺跡地でもある一帯は、古来より居住性に富んだ地形であった。また、この地からは、伊那谷南北への眺望きわめてよく、築城の地形としては適地であった。

上の平城 (5)

上の平城 (8)
見取図「3‘郭」の南の帯郭に建てられた東屋から見た伊那谷の眺望。(上2枚)

【城主・城歴】

これまで城跡の歴史については、平安時代末に源為公(みなもとのためとも)によって築城されたと伝えられ、鎌倉時代中期には諏訪氏と同族の知久氏の拠るところとなり、知久氏が下伊那に移ってからは使われる事がなかったとされてきた。
しかし、平成十年~平成十二年に実施した主郭等の発掘調査では、戦国時代(十五世紀中頃~十六世紀中頃)の遺構や遺物が確認され、城は戦国時代にも機能していた事が明らかになった。

上の平城 (50)
恐らく戦国時代の普請と思われる堀切㋐(一の堀)。まさかこんなに鋭く深い堀切を拝めるとは思わなかった(笑)

上の平城 (53)
舌状台地の西端に穿った堀切㋐。おお、戦国時代の緊迫感を充分に感じる・・。

上の平城 (61)
堀切㋐の西側の尾根には竪堀状の遺構が確認出来る。

上の平城 (47)
堀切㋐と接続する郭2の先端部。この森の中に堀切㋐が隠れているのだ。

発掘調査では、主郭の現地表面下から土塁・礎石建物址・出入口遺構等を伴う生活面が確認され、そこから大量の炭化物や焼土が出土したことから、何らかの理由により焼失したものと考えられている。
また、同時期の遺構として、主郭と二の郭の間からは埋没した空堀も確認された。

上の平城 (45)
郭2。

上の平城 (44)
ここから堀が検出されたという。

上の平城 (36)
北側には堀切㋑(二の堀)の先端のみが残る。調査報告書は見ていないが薬研堀の可能性はある。

【城跡】

城の構造は舌状に張り出した丘陵を五条の堀によって切った形であり、四つの郭が造られている。この形から郭が連なる「連郭式築城」という呼び方もある。
城の規模は東方の広いところで144mを示し、細長い三角形状を呈している。城域の中心は中の郭と呼ばれ、四郭に分かれた西から二つ目の郭であり、約40aの広さがある。このうちには井戸が二ヶ所あったと言われ、土中に礎石と思われる石が等間隔に位置するようBに存在していると伝えられる。
土地の人は、ここを本丸と呼び、追手口は北に面してあったと推定される。

上の平城 (110)
60×60の方形の主郭。ただただ広い・・・。

上の平城 (115)
伊那谷の河岸段丘城の特徴である無駄に広い主郭。防衛上の不利なんか考えていないのがいい(笑)

上の平城 (118)
現存する堀切㋒。(北側から撮影)防御と北側からの物資の搬送を兼用した通路と思われるがどうであろうか。

上の平城 (107)
堀切㋒には昭和48年当時の説明板が朽ち果てずに残っている事を知る人は少ない・・・。

上の平城 (11)
南側の道路から見た郭3‘と郭4‘

上の平城 (20)
主郭の東側は長大な堀切㋒が郭を分割している。

この城の周囲には砦や狼煙台の遺構が多く確認される。書物によっては、これらの砦群が上の平城の防衛網だと唱えるものもあるが、近くには武田軍の攻撃に屈する事の無かった福与城もあるので、何とも言えない。

上の平城 (77)
上の平城の東側の城域は堀切㋔(現在は埋めた建てられた農道)

上の平城 (79)
道路のRの場所から南に堀切㋔の堀形が確認出来る。「5の堀」ってあるだけで不親切だよね(笑)

上の平城 (87)
長大な横堀㋒は本郭と郭3の間を遮断し東の端まで約300mの長さを誇る。


≪上の平城≫ (うえのたいらじょう 神之平城・丸山城)

標高:746m 比高:35m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡箕輪町小河内
攻城日:2016年4月24日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分けl)
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し (東屋付近に軽自動車なら1台分)、道路脇の耕作地には止めないでください。
見どころ:広大な郭、西端の堀切など
注意事項:耕作地への無断侵入はご遠慮ください。農道は狭いので走行注意。
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」、現地解説板
付近の城址:日輪寺畑居館、城ヶ峰城、小式部城など


Ⓢは東屋の位置。

上の平城 (35)
説明板も何ヵ所かあり、微妙に説明が違うのが時代の推移を感じられますw

Posted on 2020/03/25 Wed. 07:28 [edit]

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日輪寺畑(洞田)居館 (上伊那郡箕輪町東箕輪)  

◆伊那源氏の祖「源為公」(みなもとためとも)居館の地◆

この時期にそんな話は不謹慎かと言われそうだが、新型コロナウィルスの脅威はプレステゲームの不朽の名作「バイオハザード」シリーズの序章そのものが、現実社会に警鐘を鳴らしている思った方も多かったかと・・・(汗)

「全方位型の換気は極めて良好な山城ツアー」の安全性をアピールするのは結構だが、パーティ編成での山城探訪はある程度人数を絞り込む必要があるだろう。せっかくの楽しい趣味やサークル活動で、加害者や被害者になるのは避けたいものである・・。

今回ご案内するのは、伊那源氏のルーツと伝わる源為公(みなもとためとも)の居館跡と伝わる日輪寺畑居館である。

「えーっ、また超マイナーな居館なの・・・・(汗)」 お嘆きの読者の方も多いかと・・(笑)

小生のブログは、地元民ならではの地域密着型をモットーとしておりますw 「そこに愛はあるかい?」 「もちろん!!」(笑)

日輪寺畑砦 (2)
伊那源氏の末裔知久氏の祈願寺として開山されたと伝わる真言宗の日輪寺。現在は無住寺であるが手入れは行き届いている。

【立地】

中央道の伊北ICから南東約1kmの場所にある。梨久保川と知久沢川に挟まれた南北に細長い台地で、東側知久沢川との比高は数mから10m以内という場所で、要害性は高いとはいえない。

日輪寺畑砦 (4)
天然の堀を為す居館跡の南側の知久沢川と日輪寺。日輪寺の場所にも居館や屋敷があったと想定される。


日輪寺畑居館見取図①

【城主・城歴】

南方250mの至近に「上の平城」があり、すぐ近くにに日輪寺がある事から、上の平城との関連のものと考えられている。上の平城は平安時代末頃、伊那源氏の祖源為公(ためとも)が居館を置いたとする伊那源氏発祥の地であり、知久氏に関わる屋敷地、あるいは一族や家士に関係するものと思われる。近くに日輪寺があることから、城主隠棲の所かと想像されている(箕輪町誌)。

長野県町村誌によると「知久沢山日輪寺」は「東西二十間、南北十間半、面積二百七十坪、本村の内南小河内の東にあり。開山願行上人、文治年中(1185-1189)間之。知久行性亜て開基。其の後足利尊氏再建と伝ふ。今由緒を以て阿島家へ贈答あり。寺領一石五斗。慶長年中(1596-1614)朝日受永の證を乞て、慶安年中(1648-1651)徳川氏より朱印を賜ふ。諏訪郡桑原耕地仏法寺末寺なり」とあり、知久氏関連の寺という。

日輪寺畑砦 (5)
舟状の台地の郭1には説明板があり、太陽光パネルが置かれている。日当たり良好の物件のようである。

日輪寺畑砦 (9)
太陽光パネルの一段上にもう一つ郭の後が見られる。耕作地化されているので、北側の台地との間には東西に堀形があるので、堀で仕切られていたと思われる。

【館跡】

台地の幅は広いところで50m。家の建っている所の上が最も広く50×50ほどで居館があったとするのはこのあたりであろうか。家の建っている2の所には土塁状地形が残る。
居館跡の台地状の土地は全域耕作され、堀や土塁は失われたと思われる。日輪寺のある場所も居館を建てるには良い場所である。

日輪寺畑砦 (8)
主郭背後の台地との段差は高いところで約6mほどある。㋜阿新は東の知久沢川の堀形㋑

日輪寺畑砦 (13)
北側から見下ろした郭1(主郭)全景。

日輪寺畑砦 (19)
梨久保川方面の主郭北側の堀形㋑。

日輪寺畑砦 (7)
民家の建つ場所が郭2。

日輪寺畑砦 (21)
芝桜が咲き誇る部分には郭1との区分として堀切があったと推定される。

日輪寺畑砦 (23)
郭2に唯一残る土塁状の遺構。こちらも芝桜が咲き誇る。

武田氏の伊那谷侵入に対して最後まで抵抗した知久氏の居城として有名な「神之峰城」は飯田市にある。知久氏のルーツは上伊那である事を知る人は少ない(そもそも知久氏を知る人も少ない・・・汗)
だからこそ、スポットをあててみたいと思う。

≪日輪寺畑(洞田)居館≫ (にちりんじばたきょかん)

標高:760m 比高:5m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡箕輪町小河内
攻城日:2016年4月24日
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分けl)
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し (路駐)
見どころ:特になし
注意事項:プライバシーには注意
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:上の平城、城ヶ峰城、小式部城など

日輪寺畑砦 (24)
知久沢川沿いから見た郭2付近。



Posted on 2020/03/19 Thu. 22:46 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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