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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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上田城 (塩尻市北小野上田)  

◆勝弦峠を監視した在地土豪の山城◆

ステイホームが習慣化されてしまい、すっかり出不精になってしまった・・・(汗)

そんな時こそブログの更新を精力的に行い長期在庫を減らせばよいのだが、惰性で日々を過ごす悪循環・・・(笑)

なんせ見取図描いて、数年前の写真を見ながら「ここは何処?私は誰・・・」を繰り返すのは、認知症予防に効果がありそうだが、そんな作業は結構辛いので逃げていると余計更新が遠のく。

今回ご案内するのは塩尻市北小野にある上田城。残念ながら上田市の上田城とは何のかかわりもないのでご容赦ください。

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上田城の主郭及び主郭に建つ標柱

【立地】

北小野の小野神社の東400mの小山上に上田城がある。この山の南直下には勝弦峠(かっつるとうげ)を越えて諏訪から小野へ出る街道が通り、上伊那と塩尻・筑摩を結ぶ伊那街道に合流する所である。また小野から西へ辿れば木曽谷のに至る交通の要衝に位置している。この山の南南西300mに上田館がある。
小野地区には上田城の他に前回紹介した小西城、川鳥城(かっとりじょう)があり、それぞれ関連して機能していたものと思われる。
※天文17年(1548)に行われた小笠原VS武田の「塩尻峠の戦い」は勝弦峠が主戦場だったという説がある

上田城(「塩尻市 (5)
上田公民館からの登り口には城安寺があったが、廃仏毀釈により廃寺となる。その後集会所となるも失火でで焼失したという。

上田城(「塩尻市 (6)
集落の信仰の地でもあった城跡へは二つの参道と公民館からの遊歩道と3本ある。比高40mなのでお手軽に見学できる。

上田城見取図①
後世の耕作地化と墓地の造成により、どこまでが遺構なのか判別が難しくなっている。

【城主・城歴】

「信府統記」には塩尻与の「北小野古城地」として記載があり、小野・矢彦両者との関係が深く、麓の居館も含めてその社家の勢力によるものではないかとしている。
また、「東筑摩郡誌」には「小野城址」として「筑摩地村字上田、本丸の平東西十間、南北十五間 近年村の公園となす。小笠原家の塁砦なれども来歴不詳なり」とある。
この山の麓にある上田館の要害城がこの上田城とする伝承があり、その館主は小野神社・矢彦神社の社家今井氏が居たともいわれている。

上田城(「塩尻市 (7)
大手道をぼちぼち(墓地墓地)登りましょう!(ってオヤジギャグかい・・笑)

上田城(「塩尻市 (12)
尾根伝いは段郭が重ねられてます。

チョッとした小山なので、段郭の途中を東にスライドして秋葉神社へ。ここも郭だったようです。

上田城(「塩尻市 (19)
火の神様なんで、城址に秋葉社を勧進している所は多い。(天保12年の建築で遠州秋葉社の分社)

上田城(「塩尻市 (21)
主郭の南側の段郭から見た主郭の入口。ここは後世の加工によるもので、本来の虎口はここではなく西側にかすかに遺構がある。

【城跡】

頂部の主郭は低い土塁がほぼ全周している。広さは15×21.北東の尾根続きの鞍部に堀切二条を穿ち切断している。北西尾根にも一条堀切を入れている。
大手道は城安寺からの尾根筋と推定され、現在墓地となっている階段状の部分も郭があった可能性は否定できない。西尾根は参道の設置と墓地の造成による改変、植林による造成等で往時の遺構ははっきりしない。

上田城(「塩尻市 (28)
主郭南側の段郭(5×21)

上田城(「塩尻市 (30)
主郭(15×21)南正面は虎口に見えるが本来は左側(西側)から入ったものと推定される。

上田城(「塩尻市 (31)
主郭の端より北東尾根の二重堀切を見下ろす。

上田城(「塩尻市 (33)
北東尾根の最初の堀切。切岸も取り込んでいるが、かなり浅くなっている。

上田城(「塩尻市 (40)
北東尾根二重堀切の二本目。上巾5m(わかりづらいので補助線入れてます)

上田城(「塩尻市 (46)
北西尾根の段郭と切岸の状況

上田城(「塩尻市 (47)
北東尾根に残る堀切

単郭に段郭を重ねた単純な構造で、堀切も短く在地土豪の詰め城という域を出ていない。地域支配の為に怒号が傷たものが、やがて戦国時代になって小笠原氏の伊那街道の中継あるいは勝弦峠の監視用として使われたものと推測される。

上田城(「塩尻市 (59)
西尾根の参道登り口。集落の信仰の山として大切にされたようだ。

上田城(「塩尻市 (10)
主郭からの眺望は難しいので大手道の途中から見た小野方面。監視砦としては良好な位置にある。

≪上田城≫ (うえだじょう 城山・小野城)

標高:869.4m 比高:39m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:塩尻市北小野
攻城日:2018年6月3日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:上田公民館より約10分 駐車場:上田公民館借用
見どころ:堀切、土塁など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編
付近の城址:小西城、川鳥城、上田館など



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南側の上田館付近から見た上田城。
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Posted on 2020/06/28 Sun. 14:40 [edit]

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小佐原城 (飯山市小佐原)  

◆在地土豪の居館跡か◆

先日、さして広くもない庭木の手入れを本気(と書いてマジと読む・・・笑)で一日中取り組んでいたら、全身筋肉痛である・・(汗)

だからといって、ブログを更新しない言い訳には該当しないであろう。

今回ご案内するのは、飯山地区の屈指の名城山口城の入口に築かれた小さな館城の小佐原城である。

小佐原城(飯山市) (3)
入口の農事法人やなぎはらライスセンターから見た城跡

【立地】

毛無山(1022m)の中腹あたりを水源として流れる皿川の左岸で小佐原集落の西側の丘陵に位置する。皿川の段丘を利用した要害の地ではあるが北側はなだらかな丘陵で、初期の館城にみられる立地と考えられる。

小佐原城見取図①


【城主・城歴】

「長野県町村誌」に「当町子の方字小佐原にあり。東西五十八間(104m)、南北一町十二間(130m)、方形にして遺濠いささか古形を存するのみ。天文中(1532-1554)岩井直信の次男、小佐原源蔵信次の築くところなり。後慶長三年上杉景勝に随従し会津に移り其の後、城郭廃壊す。後ろ平坦の分は開墾畑地となる」とある。

小佐原城(飯山市) (5)
主郭東側の堀形と土塁跡。

小佐原城(飯山市) (9)
35×16の主郭内部。

【城跡】

皿川の南端に突き出す35×16の楕円形の場所が恐らく本郭であろう。が、長野県町村誌に記載された104m×130mの方形居館ではない。耕作地化により畑地に変わったとしてもかなり無理がある。この場所だけ手つかずに雑木林と共に今日まで残されたのは、それなりの理由があるのであろう。
郭の北側には傾斜地を遮断する回字形の堀があったと推定されるが、どうであろうか。

小佐原城(飯山市) (14)
主郭の南側の土塁。

小佐原城(飯山市) (18)
主来るwの西側の堀形。往時は皿川と連結していたと推定される。


≪小佐原城≫ (こさはらじょう)

標高:351m 比高:15m(皿川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:飯山市小佐原
攻城日:2016年6月5日
お勧め度:★☆☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:-
駐車場:ライスセンター借用
見どころ:土塁、堀形
注意事項:周囲の耕作地には入らない事
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編 宮坂武男著」
付近の城址:山口城、中条城・累城など

小佐原城(飯山市) (4)
ここからは山口城、中条城、小境城などが良く見える。



小佐原城(飯山市) (21)
西側から見た小佐原城遠景。

Posted on 2020/06/14 Sun. 19:47 [edit]

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菅の山城 (下高井郡山ノ内町)  

◆鴨ヶ岳城砦群の南端を守り更科峠を監視した砦◆

5月31日で移動制限の自主規制が撤廃され、関所の往来は手形不要となる。

果たしてその事が吉と出るか凶と出るかはしばらく見守るしかない。二次感染に備えるのは国民の義務かと・・・(汗)

今回ご案内するのは、鴨ヶ岳城の南端に位置する菅の山城(すげのやまじょう)である。
なんせ4年前の探訪を今頃記事にしているので、今現在を保障するものではありません・・・悪しからず・・・(笑)

菅の山城 (1)
更科峠。軽自動車なら通行できるが結構荒れている。山ノ内町側からはかなり狭くてヤバイ。遠いが中野市側からのアプローチが無難。

菅の山城 (96)
更科峠の頂上あたりから適当に北の斜面を登ると手作り誘導看板がお出迎えしてくれる。

【立地】

中野市と山ノ内町の境で、山ノ内町の佐野集落の西側の更科峠の北側の山に位置する。尾根を北西に800m辿れば鎌ヶ岳城⇒鴨ヶ岳城に通じる。尾根を南に進み山脈を越えれば高山村の山田方面に出られる。
鴨ヶ岳城の北尾根の先端にある箱山城が箱山峠を押さえて北の守りとなったように、南端の更科峠を押さえる為に築城されたと思われる。

菅の山城見取図①
主郭の前後を堀切で絶ち切り、堀切は掻き上げた土で竪土塁にしたようだ。電波塔の立つ郭5は馬出で城内の一部であろう。

菅の山城 (10)
西側から見た堀切㋒。盛土で高さを稼いでいるのが分かる。

菅の山城 (11)
堀切㋒の断面。(南側より撮影)

【城主・城歴】

詳細は不明である。
山ノ内町誌によれば、高梨一族で須毛郷の地頭であった小島氏が拠ったとされる。また、「長野県町村誌」では「間崎城」として大坂山にあって、高梨某が築いて、その臣時田甲斐守が居り、後に同氏の臣、竹腰次郎が居城したとしている。
小島氏の経歴も色々伝わっているようだが、近隣の山城との位置関係を見れば、築城の主体は高梨氏で鴨ヶ岳城、鎌ヶ岳城の南の守りを担当とした説が案外的を得ているのかもしれない。

菅の山城 (30)
郭3~郭2の間は天水溜(雨水を集めた水の手)あるいは伏兵を置いた勢溜と推定されるが、写真で表現するのは困難。

菅の山城 (31)
郭2(7×10)

【城跡】

山頂に三条の堀切を入れたオーソドックスな縄張で、防御の指向性は東の尾根伝い。そこには馬出を入れている。
郭3と郭2の部分はかなり面倒な造りだが、雨水溜による水の確保が目的のようにも思える。
立地から考えても、高梨氏の詰城の鴨ヶ岳・鎌ヶ岳城を防衛するための南の出城であろう。

菅の山城 (33)
城域最大の幅を誇る堀切㋑(上巾11m)

菅の山城 (34)
南斜面に竪堀として落ちる堀切㋑。堀切左右の土手が竪土塁状に加工されているが、掻き上げの土砂を当てただけであろう。

菅の山城 (40)
主郭背後の堀切は極めて鋭利な刃物です・・・(笑)

菅の山城 (46)
29×12の長方形の主郭には祠が建つ。

菅の山城 (48)
上巾8mの堀切㋐。

高梨氏の詰城である鴨ヶ岳・鎌ヶ岳城とほぼ同時期の遺構であろう。
この地域の山城は、峠を取り込むまたは監視する部類の山城が数多く点在する。甲越紛争における北信濃の戦いは、ある意味上杉謙信の退却退路確保に心血を注いだようにも思える。

これは小生が現地の山城を歩いて感じた直感である。謙信の野望はやはり関東管領であり、甲越紛争は北信濃の国人を家来に組み入れ臣従させるための空手形だったと・・・。

菅の山城 (55)
郭4(12×13)

菅の山城 (72)
馬出と呼ぶのも気が引けるが、一応城内と推定される郭5.

菅の山城 (75)
現在は電波塔の立つ5郭。

菅の山城 (82)
郭5の周辺にも、段郭の跡が見られる。

≪菅の山城≫ (すげのやまじょう 菅城・間崎城)

標高:710m 比高:125m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下高井郡山ノ内町寒沢
攻城日:2016年1月11日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:C(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:更科峠より15分
駐車場:無し
見どころ:堀切、竪土塁、郭など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編 宮坂武男著」
付近の城址:鴨ヶ岳城、鎌ヶ岳城、箱山城など

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山ノ内町の麓から見た菅の山城。

Posted on 2020/05/31 Sun. 21:39 [edit]

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鼻見城 (上水内郡飯綱町三水)  

◆眺望に優れる芋川氏の山城◆

「緊急事態宣言」という曲を「関白宣言」でお馴染みのさだまさし氏に依頼するという話があったが、本当だったのだろうか?

それよりも、ACジャパンの「にゃんぱく宣言」がデモテープをそのまま採用して正式なレコーディングをしていないというエピソードを、さださん本人がラジオで話をしていたのを聴いてビックリした・・・(笑)

今回ご案内するのは、のちに上杉家の代々の江戸家老にまで昇りつめた北信濃の国人芋川氏の山城「鼻見城」である。

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東側の麓から遊歩道があるようだが、北側の道路から城跡の手前まで林道で入れるようだ。途中案内看板がある。

【立地】

上水内郡の旧三水村(現在は飯綱町)芋川地区の後背の鼻見城山(723m)のピークにある。野尻湖の南南東約3kmで、斑尾川に沿った平地が開けて古くから肥沃の地であったようだ。芋川は野尻と飯山を結ぶ最短コースの交通の要衝にあり、甲越紛争の際には武田も上杉もこの場所を重要視している。
山麓には芋川氏の居館があり、北北東2kmには芋川氏の本城である若宮城がある。

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郭3(現地説明板では郭2)には復元された井戸がある。主郭は公園化による改変で切岸の一部が変形してしまったようである。

鼻見城見取図①
東西に細長い山頂を堀切で分割し両脇を削平しただけの簡素な縄張である。

【城主・城歴】

芋川氏の初期の要害城として築かれたものであろうと推定されている。北信濃の豪族(国人)である芋川氏の経歴については、その後掲載を予定している「芋川氏館」で詳細を述べたいと思うが、芋川氏が一躍有名となった事件は、武田征伐後に信長の命により川中島四郡の領主となった森長可に上杉景勝の後ろ盾を得て反乱を企てた「芋川の乱」であろう。
※詳しくは過去記事を参照願います。

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主郭の説明板と秋葉社

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公園化による整備で東屋が建てられている。

【城跡】

城址に立つ説明板には、主郭とその北側の復元井戸が建つ郭の二つで構成されているように描かれているが、見取図で示す通り、頂部の尾根を堀切で分割し、頂部を主郭とし、西側を郭2(副郭)とみているが削平が不完全なために地山とされている。

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主郭と郭2の間の堀切。堀切というよりは単純に郭を区画するためのもので、竪堀にもなっていない。

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堀切南側の郭4。

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郭2。人工的な削平があまりみられないので、地山と言われても仕方ないか・・・。

驚いた事に、郭3には井戸が復元されている。宮坂武男氏が指摘するように、このような標高の高い場所の山城に掘抜き井戸は考えにくく、雨水を溜めるいわゆる「天水溜」の穴だったと思われる。
また、北側斜面は比較的傾斜も緩いので、馬による荷駄の運搬も行われていただろうと推測されている。

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お気持ちは分かりますが、この程度の山城にこのような立派な井戸は不要かと・・・(汗)

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郭3から見た郭1との切岸。古いタイプながらもしっかり削ってます(笑)

地元の教育委員会では、鼻見城は芋川氏の本城である若宮城を補完する副城であろうとの見解が述べられていました。
なるほど、城址からのロケーションは素晴らしい。善光寺平から野尻口方面を監視するにはうってつけの場所だということがこの場所に立つと分かります。

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最終的に芋川氏は表面的には武田信玄に降るが、その立地条件ゆえに上杉謙信にも通じていたのであろう。

≪鼻見城≫ (はなみじょう)

標高:722.7m 比高:185m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上水内郡飯綱町三水芋川
攻城日:2017年5月28日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:C(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:北側の林道駐車場所より10分
駐車場:林道のどん詰まりに2台ぐらい可
見どころ:堀切、切岸、井戸跡、眺望
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」、芋川氏館発掘調査報告書(三水村教育委員きあ)
付近の城址:芋川氏館、若宮城、矢筒城など


Ⓢは城跡に通じる林道への分岐点。軽自動車なら何とか通行できる。Ⓖは駐車場。オフロードならその先まで行ける。


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飯綱町庁舎付近から見た鼻見城。

Posted on 2020/05/20 Wed. 20:13 [edit]

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関屋城 (長野市松代町豊栄)  

◆地蔵峠越えの松代街道を監視した砦か◆

先月から休日は自宅軟禁中(?)なので、プラモ製作数とかブログ記事の更新回数が伸びても良さそうなものだが、天邪鬼っぽい思想なので「それは違うだろう・・・」という訳の分からぬ回答となる・・(笑)

10年前の長女の結婚式と披露宴のDVDを見ながら、夫婦で涙腺崩壊しているのが正しい「Stay Home」なのだと思う・・(笑)

今回ご案内するのは、北信濃の川中島城砦群の一つであろうと伝わる関屋城(せきやじょう)である。

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主郭背後の見事な大堀切(南側)

【立地】

長野市松代町豊栄(まつしろまちとよさか)の関屋集落にあり、城址の東側は上田市の真田町へ通じる松代街道の地蔵峠の入口を抑える場所にある。明徳寺の南、小沢2つを隔てた300mの位置で、集落のある関屋川(蛭川)に面して急崖になっている。

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大堀切の北側は長大な竪堀となって沢を刻んでいるが、産業廃棄物の不法投棄で困った事になっているようである。

関屋城見取図①
主郭背後の土塁は崩されたが、主郭と一段下の段郭で構成された古いタイプの縄張りであろう。

【城主・城歴】

神氏(みわし)の関屋氏が代々拠った所とされる。関屋氏は諏訪大祝の後裔で、平安時代より松代地方を領した豪族であったが、明徳(1492~1500)以後、村上氏のために滅ぼされたと言われている。
その後の城主は不明だが、地蔵峠を越える街道の海津城の裏口を守るには良好な位置にあるので、見張り兵が置かれた可能性はあると思う。

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この農道は主郭背後の土塁を破壊した時に周回用として新たに造られたようである。

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東側から見た土塁跡。一見すると櫓台の郭のように見えるが、元々は主郭を目隠しするように高い土塁があったと推定される。

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尾根先を切断し北側に落ちる竪堀が斜面を遮断している。(上巾18m)

【城跡】

城址一帯は耕作地化され、現在は植林で大きく変貌してしまい往時の遺構を観察するには難しい状況となっている。
尾根先の舌状台地が主郭で、一段下に囲むような段郭が置かれ、尾根の根元は一条の大堀切で切断されている。
主郭とその下の郭の南側は石積みの切岸になっているが、これは近年の耕作地化による土留めであろう。また、北側斜面に数段の帯郭のような平場が数段あるが、遺構とは関係ないようだ。

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主郭内部(35×20)

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主郭南側の石積み。崩落留めで積まれたようで、三段で構成されている。城の遺構ではない。

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松代周辺は石積みの城が多いが、これは時代が新しいと誰もが気が付く。

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この帯郭は城の遺構のような気がするが・・・。

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主郭の先端から見下ろした段郭。

元々は在地土豪の要害として造られたようであるが、麓の屋敷等の場所は布目だという。宮坂武男氏によれば、この辺りには未だ見発見の砦が2~3あると伝わるが、場所の特定には至っていないという。

関屋城の正面には武田統治時代のノロシ山が良く見える。が、その高さゆえに、普段は麓の関屋城が活用されたようにも思うのだが、どうであろうか・・・。

ノロシ山①
関屋城から見たノロシ山。天候に左右される狼煙台は、麓の砦から次の砦へ銅鑼や鉦叩きで伝える方法が主流だったとも・・。

≪関屋城≫ (せきやじょう)

標高:510m 比高:45m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市松代町豊栄関屋
攻城日:2017年4月16日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:関屋集落から10分 
駐車場:無し (明徳寺の裏道経由で城までの農道は道が荒れているので、道路脇の南側の堀切から直登するのが良い)
見どころ:堀切、主郭、土塁跡など
注意事項:特に無し
Special Thanks to ていぴす殿
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」
付近の城址:ノロシ山、清滝城、尼巌城など

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地蔵峠へ向かう豊栄保育園側から見た関屋城。


集落側の南堀切出口から登るのが早いが、耕作地を進むので地元の方にはしっかり挨拶しよう。

Posted on 2020/05/11 Mon. 20:41 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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