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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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桑田砦  

◆溝口上ノ城に関連する物見か◆

3月は何かと忙しい。(←更新しない言い訳か・・・見苦しいゾ!)

仕事的には年度末だし、母親の一周忌もなんとか済ませたし、最近は観光協会からの依頼もぼちぼちある。山城にも行きたいし。

それにしても、「あなたも行ってみたくなる?上田地域の山城」のYouTube再生回数が500回を超えていたのにはびっくり・・(笑)

今回ご紹介するのは、伝承だけ残り遺構的には何も残っていない「桑田砦」(くわたとりで)。更新詐欺の声もあるが・・・(汗)

桑田砦 (4)
最近建て替えとなった「桑田いきいき交流施設」の裏に薬師堂がある。物見はこのあたりにあったと考えられている。

【立地】

旧長谷村溝口の南で、御殿山の南の裾野に位置する南郷の桑田にある薬師堂付近が砦跡と伝わる。
ここから北北西に700mで溝口上ノ城(みぞくちかみのじょう)と下ノ城、南南西1kmに艮城、そして神明城と続く。

桑田砦 (2)
薬師堂の境内には立派な枝垂桜があり伊那市の文化財指定を受けている。

桑田砦 (3)
かつてあった枝垂桜は長野県の天然記念物指定で樹齢千年近くだったとか!。見たかったなあ。

【城主・城歴】

史料、口伝等なく不明。
合併前の「長谷村誌」(平成9年)によると、薬師堂周辺には「矢塚」「ほり畑」など城館に関係する地名が残っているので、ここに城館があったのだろうと推定している。

桑田砦 (5)
周辺は農地の構造改善で改変されてしまい、往時の面影すら残っていない。

【城跡】

薬師堂の建つ場所には堀や土塁などの遺構は全く見当たらない。薬師堂の境内も施設が併設されてしまったために往時の広さを知る由も無いが、かつてはここに居館があり、周囲に土塁や堀が囲んでいたのであろうと推測してみる。
農地の構造改善により地形が改変されてしまったが、ここからの見晴らしは優れているので、溝口上ノ城に関連した南に備えた物見が置かれ、地名が残ったと推定される。

桑田砦 (6)
薬師堂から南の秋葉街道方面を臨む。(旧秋葉街道は美和湖に沈んでいる)

桑田砦 (7)
薬師堂から艮城、神明城方面。

「なんで取るに足らない小さな砦跡まで掲載するの?」と時々聞かれる。

誰かが記録として残さなければ、永久に忘れ去られてしまい、再び思い出される事も無い。こうして記事にすることで、皆さんの記憶に残ればいいなあーと思ってます。


≪桑田砦≫ (くわたとりで) 

標高:902m 比高:-
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:伊那市長谷溝口
攻城日:2021年2月6日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け) 
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:-
注意事項:特になし
参考資料:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版) 
付近の城址:艮城、神明城、溝口上の城、溝口下ノ城など

桑田薬師堂航空写真
空から見た桑田砦の位置(Yahoo地図の航空写真に加筆転載)

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Posted on 2021/03/18 Thu. 22:18 [edit]

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神明城 (伊那市長谷黒河内)  

◆文武両道に長じる歴代黒河内家の根拠地◆

昨日、スマホの機種変更をした。4年3ヵ月の間、苦楽を共にした「7」であった。

想い起せば、画面のガラスは2週連続して落として割るし、バッテリーは2回ほど交換したが、山城の写真撮影や山ログで正確な位置情報の表示、城址からのtwitter発信など小生の厳しい環境下での山城ライフをしっかりサポートしてくれました!心より「ありがとう!」を伝えたい・・・・。

引退後は、娘の長女の室内専用デバイスとして第二の人生が待っています。今までの過酷な主とは違い大事にしてもらえると思いますw

マスクしていると顔認証してくれない新しい相棒の「12」の操作に悪戦苦闘しつつ、今回ご案内するのは「神明城」(しんめいじょう)

神明城 (1)
古屋敷とよばれる城の東側。

【立地】

人造ダム湖の美和湖東岸の黒河内の段丘上に位置する。ダムの湖面よりは約70mの高さがあり、段丘の中段には寺や数軒の民家がある。ダム湖が出来て水没する前には水田もあったようである。北東300mには沢を隔てて艮城があり、八人塚も傍らにある。

神明城 (2)
城跡の真ん中付近は「中道」との呼名。耕地化による改変で遺構らしきものは何もない。

【城主・城歴】 ※以下「定本 伊那の城」(1996年 郷土出版社)P89より引用、一部追記

城は寿永二年(1183)頃、源為朝の直系黒河内二郎義純が築いたと伝えられ、往古は「黒河内藤沢之庄」の庄であった。諏訪社領に属し、鎌倉幕府の旗下、承久の乱には将として軍功をたて、文安二年(1445)小笠原家家督争いに加勢、蔵人正国討死、室町、戦国を高遠氏に属し、天文十八年(1549)武田氏高遠侵攻に鵯越(ひよどりごえ)で城主の黒河内八郎左衛門朝光戦死。弟の隼人政信が当主となるも、武田に叛いたため伊那の狐島で処刑される。その後黒河内家は存続を赦されたようで江戸時代は保科氏に属する。世々黒河内家の根拠としてこの地で活動してきた。寛文年間(1661~73)在に下り郷の始動の地位にあった。

神明城 (4)
天王という地名の残る場所。城(屋敷)の中枢部分であろうか。

【城跡】

「定本伊那の城」の解説によれば、城址は、南北約200m、東西約150m。北は稲村沢の急傾斜深く登坂困難な地形。西側は三峰川へ崖となり、東と南に空堀を備える単郭式平山城である。水の手は郭内に湧水がある。城跡はほとんど消滅しているが、泉水、庭石、神明社が祀られている。

と書かれているが、現地を歩いても堀など見当たらず、往時の姿をイメージするのはかなり困難であった・・・・(汗)
(というか、地図片手に歩いていても不審者そのものなので、通報される前に早々に退散したというのが事実である・・・笑)

神明城 (6)
南側の高台から撮影した城の西半分。恐らく住宅の立つ場所とその北側が中枢部だったと思われる。

神明城 (7)
同じく城の東半分。要害の地に築かれた巨大な館城というのが、往時の姿であろう。(奥に見えるのが美和湖)

そういえば、先日地元ローカルのニュース番組見てたら、伊那市高遠町にある長野県を代表する日本酒「黒松仙醸」の蔵元「株式会社仙醸」(せんじょう)の社長さんの苗字が黒河内なので、びっくり。神明城のゆかりの方なのかしら・・・いつかお尋ねしてみたい。(←いやいや、アルコール系の宣伝のチェックのし過ぎだと思うが・・・笑)

≪神明城≫ (しんめいじょう 神明の古城) 

標高:890m 比高:70m (美和湖より)
築城年代:不明
築城・居住者:黒河内氏
場所:伊那市長谷黒河内
攻城日:2021年2月6日 
お勧め度:★☆☆☆☆ (南の高台の道路から見る程度かと)
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け) 
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:-
注意事項:住宅地なので撮影注意。不審者と間違われない様、住民の方がいたら挨拶を忘れずに。
参考資料:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版) 「定本 伊那の城」(1996年 郷土出版)
付近の城址:艮城、桑田砦、溝口上の城、溝口下ノ城など

八人塚地図①

Posted on 2021/02/24 Wed. 22:40 [edit]

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艮城 (伊那市長谷黒河内)  

◆黒河内家の本城を守るために築かれた城◆

「明日やろう、は、バカヤロー」 そんな言葉をラジオのパーソナリティが言っていた。なるほど、的を得ている。

「明日からダイエットするから、今日は思いっきり食べよう!}とか、「明日から禁煙するから、今日までは吸っても大丈夫だよね」とか・・・自分自身に言い訳を探しはじめて、期限を延ばそうとする・・・

そう、その明日は、残念ながら永遠に来ないのである・・・(笑)

自慢じゃないが(←いや、充分に自慢してる・・汗)、週二日の休肝日は夕飯を食べない。そう決めて家族に宣言して即実行。おかげで4.5kgの減量に成功。しかし、空腹との戦いに無条件降伏したくなるのも事実である・・・(汗) さて、いつまで続くのかしら。「継続は力なり?」 ・・・いいから米が食べたい・・・心から・・・頼む・・・金払うから・・・(笑)

そんな「腹ペコ青虫さん」が今回ご紹介するのは、八人塚が祀られている「艮城」(うしとらじょう)。

艮城 (28)①
八人塚のある場所から西側に突き出た段丘に艮城があり、八人塚のある場所も改変されているが城に因んだ名が残るという。

【立地】

三峰川によって出来た河岸段丘を北の沢と稲村沢によって削り残された台地の上にある。南北を深い沢に囲まれ中々の要害地形である。現在、三峰川は美和ダムによって堰き止められ、分杭峠に続くかつての秋葉街道は半分以上がダム湖に水没したが、旧長谷村は高遠と大鹿を結ぶ要衝の地であり戦略的にも重要視された場所でもあった。

城の名前は、黒河内氏の本城である神明城(しんめいじょう)の艮(丑寅、北東)の方角にある事に由来する。

艮城① (7)
艮城と八人塚のある台地を遮断する上巾19mの巨大堀切。

艮城① (11)
北の沢側より見た大堀切。

艮城見取図①
主郭の背後を深い堀切で絶ち切り、正面の斜面に通路を兼ねた横堀を伴う。南側には段郭が伴う。

【城主・城歴】

高遠家に属した神明城主の黒河内氏一族の築城と伝わる。(黒河内氏の出自については、次回の神明城で記載したい)
「定本伊那谷の城」の記述によれば、「神明城主黒河内八郎左衛門朝光の弟隼人政信が、武田氏伊那侵攻に備えて築城した。天文十八年に武田と戦った兄の朝光が戦死後も、伊那の諸豪士と合力し武田氏に最後まで抵抗し、弘治二年(1553)武田氏のため伊那狐島で惨殺された。」とある。

艮城 (7)
北斜面の通路。

艮城 (9)
通路の幅が斜面を回り込み次第に太くなり横堀になる。塹壕として作られたように思えるが。

艮城 (13)
こんな感じの土手付きの横堀。主郭の正面の防御用に掘られたようだ。

艮城 (16)
結構しっかり叩いているよね。

艮城 (11)
横堀の先端。この先は適当に稲村沢につなげていて、特に加工された竪堀とはなっていないようだ。


【城跡】

67×28の主郭は、東側台地との堀切側に巨大な土塁を備えて背後から城の中が見えないように工夫している。土塁は大堀切の土を掻き上げて作られたようで、堀底からは13m、郭側からも9mあり、壁のようである。主郭への入口は南側で、ちょっとわかりづらいが、枡形虎口となっている。
主郭の南の稲村沢側には段郭が置かれている。この沢には現在も通路があるので平時は連絡路となっていたかもしれない。
主郭の北側は犬走のような連絡通路が堀切から伸びていて、斜面を取り巻くうちに横堀となり主郭の正面を防御している。
高遠方面からの敵に備え、本城である神明城の守備で新たに築城されたというのは合点がゆく。

艮城 (23)
主郭内側から見た背後の巨大土塁と枡形虎口。

艮城 (22)
南側の土塁はかなり低い。(奥に桝形虎口)

艮城 (21)
北側の土塁はかなり高く盛られていて、東側からの目隠し効果を担っている。

艮城 (24)
67×28の主郭。(東側より撮影)

艮城① (19)
67×28の主郭(西側より撮影、デジカメで撮影した補助用写真。やはりスマホに勝てないのか・・・汗)

艮城 (19)
主郭の南側にある帯郭。

武田軍の諏訪と伊那の侵略は、電光石火の如くで抵抗する地元勢力が無かったような記載も多いが、その実情は違うらしい。
隙あらば「武田信玄、何するものぞ。我ら伊那谷衆が結束し、再び我が郷土を昔の通りに取り戻して見せる!」

しかし、黒河内隼人政信ら上伊那八人衆の思惑は外れ、強大な軍事力を持つ武田信玄の前に散った。
本来であれば、八人衆の一族は根絶やしにするのが鉄則であるが、領民の反抗を抑える為に親族を取り立てる懐柔策を取ったという。

艮城 (27)
桝形虎口に立つ石碑。城友の久太郎さんだったら、寝転がって「いいよ、そのポーズ!!」とかいって撮影するんだろうなあ(笑)

艮城① (35)
主郭背後の大堀切の南側(稲村沢方面)。ここから沢伝いに通路があるので、往時も使われたものと推察される。


≪艮城≫ (うしとらじょう) 

標高:900m 比高:90m (国道より)
築城年代:不明
築城・居住者:黒河内隼人政信
場所:伊那市長谷黒河内
攻城日:2021年2月6日 
お勧め度:★★★☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け) 
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:大堀切、高土塁、段郭、横堀
注意事項:特になし(八人塚よりは害獣除けゲートを開けて入る。必ず閉める事)
参考資料:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版) 「定本 伊那谷の城」(1996年 郷土出版)
付近の城址:神明城、桑田砦、溝口上の城、溝口下ノ城など

八人塚地図①
あたしゃ国土地理院の地図しか信用できしまへん・・・(何語じゃ!・・・笑)

艮城① (28)
虎口にある「艮城」の石碑(昭和53年建立)と高土塁。

Posted on 2021/02/17 Wed. 19:49 [edit]

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源太入城 (須坂市栃倉)  

◆在地土豪の要害城◆

「山城巡りって、お財布にやさしい趣味だよね」って時々言われます。

まあね、デジタル計測器(約7万円)とか産業用ドローンとか、林道走破用のジムニー購入とか、絶版となった「信濃の山城と館」や「日本城郭体系」なんかに手を出さなければそうかもしれません・・・(笑)

けれども、天下統一(?)を目指す全国版の山城ツアラーの皆様は「交通費・宿泊費・高速代」なんかが重くのしかかる訳で、もしかしたらクルーズ船で巡る世界一周の旅ぐらいの累計の出費になるのでしょうか・・・(汗)

我らボンビー山城探検家は、コスパを求めて「行こう、みんなのワークマン!」 登山靴以外はバッチリ揃いますよ・・(笑)

今回ご案内するのは、前回の仙仁城に関連する仙仁衆の要害城と推定される源太入城(げんたいりじょう)。

源太入城 (53)
源太入城の登り口にある観音寺。お寺の裏に林道の廃道があるのでそこを道伝いに歩いて登る(四駆も無理です)

【立地】

板倉集落の南方、観音寺後背の山尾根上の標高770mに立地する。この尾根を登り詰めると妙徳山(1293.5m)に至る。急な尾根で、高所にあるために仁礼地区一帯や明覚山の雨引城などが見通せる。登り口は東尾根からも登れそうだが、北の観音寺からが大手かと思われる。

源太入城 (52)
ここの尾根を登ると堀切㋐へ。あたしゃ「ていぴす殿」の情報を読み誤り正面奥の急尾根を突破して郭3に取りつき死ぬかと・・(笑)

源太入城見取図①
最近は雑な見取図ばかりでお叱りをうけそうなので、今回は少し真面目に描いてみた・・・(笑)

【城主・城歴】

伝承や口伝等なく不明。位置からして、前回掲載した仙仁城の仙仁衆の要害城と考えられる。
宮坂武男氏の考察によれば、武田氏滅亡後に上杉氏の重臣直江兼続が、織田方の森長可に従わない須坂周辺の地侍集団(信州十七騎)に持城を構える事を許していて、その中の一人の大峡氏がこの地の人なので、城山城と共に大峡氏が改修を加えたものではないか、としている。


源太入城 (9)
9×3の郭3

源太入城 (6)
郭3から見下ろした東尾根の急こう配。大手筋はこの尾根だったようだ。(アタクシもこの尾根を登るはずだった・・・汗)

源太入城 (11)
郭3と郭2の間には二つの段郭が置かれている。

源太入城 (14)
城内で最も広い郭2には北側に土塁のあとが確認出来る。

【城跡】

東に張り出した尾根を削平して築いた連郭式の山城である。最高位置にある主郭の前後を堀切で穿ち小さいながらも防御はしっかりしている。郭2の北側には削りの残しのような低い土塁痕が確認出来る。急峻な北尾根に接続する郭3は前後左右に段郭を設けて副郭への侵入を阻止している。城の主要部から先の東尾根は傾斜が厳しいのだが、やはり数段の段郭を刻み、堀切㋐までを城域としている。

源太入城 (18)
郭2と郭1の間の堀切㋑(上巾10m)

源太入城 (21)
別角度から堀切㋑

源太入城 (23)

源太入城 (31)
主郭背後を遮断する堀切㋒(上巾5m)。かなり埋まっている。

源太入城 (35)
別角度から堀切㋒。左右の斜面に対しても結構長く刻んでますよ。

源太入城 (40)
背後の西尾根方面から見た堀切㋓と郭4.(最近何故かあまり補助線は引きたくないと思うのだが、引かなきゃナニコレ珍百景)

源太入城 (37)
城域最終の堀切だけあって、上巾7m。往時は更に2m近く深かったと思われるが・・。

いかん、またツラツラと写真を並べてしまった(笑)

最近思うのですが、ここぞとばかり一杯写真を撮ってもブログで使うのは10枚も無い。

デジカメが出たばかりの頃は手ブレ写真が多いので、用心の為にたくさん撮影したものだが、デジカメの進歩で画素数が大きくなったし手振れ補正も自動で行うしピントも自動調整。そのうちにスマホのカメラがデジカメを凌駕してしまい、デジカメの出番も少なくなった。

でもね、この先どんなにカメラが進歩しても、人間の目にはかなわないと思う。遺構そのものはもちろん、そのからの景色、全体の構図・・・やっぱね、現場をこの目で見るからいいんですよ、絶対に・・・(←なんか仙人にでもなって悟りでも開いたか?笑)

源太入城 (47)
東尾根の斜面から郭3のある尾根を見上げる。この尾根も、ところどころに段郭がある。

源太入城 (48)
東尾根の堀切㋐を背後から見下ろしてみた。

それにしても人名のような名前の山城だが、名前の由来はどうなんでしょうね。


≪源太入城≫ (げんたいりじょう 栃倉城) 

標高:770m 比高:235m (栃倉より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:須坂市栃倉
攻城日:2020年12月2日 単独訪問
お勧め度:★★★☆☆
難易度:S(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け) 
城跡までの所要時間:40分
駐車場:無し
見どころ:堀切、土塁、段郭
注意事項:経験の浅い方は単独では不可。林道入口やお寺の入口は害獣除けの電流柵があるので注意。(通電してます)
参考資料:「信濃の山城と館⑧」(宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城址:城山城、仙仁城など
Special Thanks:ていぴす様(登り場所の情報提供)

源太入城案内図①
集落に入る手前の道路脇に邪魔にならないように路駐するしかない。

源太入城 (56)
この写真の場所なのか自信がイマイチ持てない・・・(笑)

Posted on 2021/02/01 Mon. 22:59 [edit]

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仙仁城 (須坂市仁礼仙仁)  

◆大笹街道を監視した在地土豪の砦か◆

「一年の計は元旦にあり」などというが、正月故の自分ルールを策定してしまう傾向があるのも確かである・・・(汗)

が、昨年12月から始めた週二日の断酒と夕食の断食は継続中である。自分でもその確固たる信念には感心しきり・・・(笑)

今回ご案内するのは、須坂地区では未踏査・未公表だった仙仁城(せんにじょう)である。

仙仁城 (3)
登り口は国道406号線沿いにある仙仁温泉岩の湯の南側のバスの回転場の脇にある延命地蔵から遊歩道に入る。

仙仁城 (4)
遊歩道を10分ほど歩くと「鉄塔No.60」への分岐の標柱があるので、そこから保安道を20分ほどひたすら登る。

【立地】

菅平高原を裾野に持つ根子岳(2207m)を源流とする仙仁川と宇原川が合流する場所の南の山頂(907m)に位置する。北側の仁礼の方から見ると丁度谷中に聳えていて、亀倉の地区まで見通すことが出来る。北方1.4kmには城山城があり、少し離れて米子城、更には明覚山の雨引城も視野に入る。生き方は、仙仁温泉南にある遊歩道経由で途中からNo.60の鉄塔の保安道を辿る。途中倒木等で道が荒れて迷いそうになるので注意。

仙仁城 (6)
心細さと戦いながらようやくNo.60の鉄塔に到着。ここまで25分ぐらい。麓から見ると近そうなんだけどバイパスは長い・・・。

仙仁城 (11)
鉄塔から遺構のある頂上までは「心臓破りの切岸」を這い上る。もー、息絶え絶え・・・この尾根の斜面に堀切は要らない・・(汗)

仙仁城 (12)
ちゃんと石段と鳥居がある。とにかく祠が見えて嬉しかった・・・(笑)

【城主・城歴】

はっきりした事は分からないが、南北朝争乱後にこの辺りを所領としていた仙仁衆に関りのある砦ではないかと推測されている。
仙仁温泉岩の湯の駐車場から旅館入口の間の橋の下にある遊歩道脇に立つ須坂市の説明板によると、

「仙仁氏は、南北朝争乱の後、信濃国高井郡仙仁山に発祥した清和源氏の流れをくむ半農半武士の一族です。戦国時代の川中島合戦の際には、北信濃の群小武士団の一つとして武田方につきました。仙仁氏の率いる仙仁衆は「新衆」として、軍役上の職制の表面には浮上することなく、架橋、陣地道路、砦の建設、敵手には、城累、河川、堤の破壊挑発行為、謀略、隠密、伝令など陰の存在として活躍しました。常に真田氏と密着して行動し、縦横に活躍した真田氏の奇略の影に、仙仁の谷で養われた先祖伝来の生活を活かした仙仁氏の存在があったといえます。
天正十年、武田氏滅亡後、井上氏の勧告を受けて、長年の敵であった上杉景勝に仕官を許され、以後上杉家に臣従しました。」

仙仁氏説明板①
仙仁温泉岩の湯の駐車場から旅館入口の間の橋の下にある遊歩道脇に立つ説明板。(ていぴす氏の発見で、写真もお借りしました。あたしゃ見学するのも忘れました・・・汗)

仙仁城見取図①
単郭の物見あるいは烽火台だが、独立峰にあるのでしっかり堀切を備えているのには驚く。

仙仁城 (14)
主郭に建つ祠の祭神は中央が風大神、左が三宝大荒神、右が福大神の三社。地元の方に大事にされているようだ。

仙仁城 (19)
15×21の三角形の削平された主郭。

【城跡】

山頂は15×12mほどの三角形の平地で鉄塔の保安道から北西尾根を登り詰めた所に鳥居があり小祠が鎮座している。北西尾根は急斜面で堀切は無い。山頂の主郭の狭さの割には、北東尾根に二条、南尾根に一条のしっかりした堀切があるには驚く。主郭の西側には簡単な段郭が置かれ簡単な縄張であるが、物見や狼煙台とすれば充分すぎる防御構造である。
西の保科の霜台城との連携、南の真田領との連携手段として中継の狼煙台が置かれたはずで、今後の発見が待たれる。

仙仁城 (21)
南尾根の搦め手方面は鞍部までの傾斜も結構キツイので上巾7mの堀切一条で遮断している。(堀切㋐)

仙仁城 (23)
堀切㋐の断面。

仙仁城 (25)
堀切㋐の南側は削平された平地が確認出来る。

仙仁城 (28)
南尾根の鞍部から見上げた堀切㋐と主郭方面。

北東尾根は比較的傾斜が緩いせいか、念入りに堀切二条(㋑と㋒)を穿ち警戒している。
「こんな山の斜面に登る奴なんていないでしょ!」と思うかもしれないが、生活道路は全て山道だったと往時の方々にとっては直登など造作もない事だったと思われる。

仙仁城 (29)
北東尾根の堀切㋑の断面(上巾5m)

仙仁城 (44)
北杜尾尾根の堀切㋑(上巾5m)

仙仁城 (45)
本郭の切岸斜面から撮影した堀切㋑。

仙仁城 (35)
北東尾根の二条目の堀切㋒(上巾6m)

仙仁城 (38)
堀切㋒の断面図。

残念ながら城跡からの眺望は周囲の雑木林に邪魔されて芳しくない。60番鉄塔の脇から見える風景をお勧めしたい。

仙仁城 (10)
鉄塔脇からの風景。北方面には亀倉町、その背後に米子城、そしてさらに奥に明覚山(雨引城)が良く見える。

この砦が仙仁口において、上州方面への交通の要衝として、また小県郡の真田領との往来に関しての監視を担った重要な砦であった事は想像に難くない。真田の配下として忍びの役割を果たしたと伝わる仙仁衆、その実態の解明が待たれる。
(平山先生、出番ですよ!!・・・笑)

仙仁城 (43)
北東尾根から見た頂上方面。


≪仙仁城≫ (せにじょう 城山) 

標高:907m 比高:217m (仙仁温泉より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:須坂市仁礼仙仁山
攻城日:2020年12月2日 単独訪問
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:A(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け) 
城跡までの所要時間:30分
駐車場:無し
見どころ:堀切など
注意事項:経験の浅い方は単独では不可。
参考文献:須坂市の現地説明板及び「信濃の山城と館⑧」P292参照。
付近の城址:城山城、源太入城など
Special Thanks:ていぴす様(登り場所のご教示と説明板の写真及び設置場所の情報提供)

仙仁城地図3
城の場所と城跡までのルート。

仙仁城遠景①
麓の仙仁集落から見た仙仁城

仙仁城遠景②
集落入り口の西側から見た仙仁城の遠景。かなり険しい独立峰に築かれた砦だという事がお分かりいただけるでしょうか。

Posted on 2021/01/20 Wed. 18:03 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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