らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0610

火打山狼煙台 (佐久市春日)  

◆春日城と芦田城を繋ぐの狼煙台か?◆

戸隠シリーズを一旦終了して舞台を久々の佐久方面へ移そう。といっても、二年前の話ではあるが・・・(汗)

この地域の未訪の山城は小倉城と笠原城を残すのみである。

小倉城は春日城の詰め城で、天正壬午の乱で家康の佐久平定戦で功績のあった依田信蕃(よだのぶしげ)が、大道寺政繁率いる北条の大軍を相手にゲリラ戦を敢行した三沢小屋ではないかと推定されている。今年の晩秋には探訪したいものである。

今回ご案内するのは、依田信蕃の父の信守が防衛上の理由で芦田城から春日城に移転した際に、繋ぎの狼煙台として機能したという火打山狼煙台。

火打山狼煙台(佐久市春日) (24)
春日城の麓から望月カントリークラブに通じる手前道路の最終ヘアピンカーブの北側が遺構である。(鉄塔が目印)

【立地】

春日地区の本郷の西の山頂で、望月カントリーゴルフ場の東の山になる。ここからは春日城、望月城、天神林城が眼下に見えて遠く浅間山連峰も見通すことが出来、狼煙台の立地としては申し分ない。

火打山狼煙台(佐久市春日) (10)
カーブミラーの脇からテキトーに登ると切岸が目の前に現れる。

火打山烽火台見取図①
東京ディズニーランドが35周年とは何の関係もありませんが、そのシルエットが・・・・(笑)


【城主・城歴】

宮坂武男氏の聞き取り調査の過程では栃久保城との関連では伝承が無く、ここが火打山と呼ばれていたことが判明したという。
春日城は山城であるものの、周囲を山に囲まれた谷中の城であったために春日城より70mほど高く芦田城との連携が可能なこの場所に狼煙台を造ったと推定される。

火打山狼煙台(佐久市春日) (8)
方墳と錯覚するような形と切岸。

火打山狼煙台(佐久市春日) (9)
主郭を囲む帯郭。輪郭式の縄張りである。

【城跡】

道路の開通による多少の破壊はあるものの、これが方墳のような主郭を取り巻くしっかりした帯郭とその一段先の平場。南西には小屋掛けできそうな平場も人工的に加工してある。

火打山狼煙台(佐久市春日) (11)
狼煙台の北側は削平され北側に続いている。

耕作地跡か?とも想定するものの、麓からの比高200mで標高960mの高地にわざわざ何をつくるのか・・という事で、往時の遺構であろうという結論付けとなる。

火打山狼煙台(佐久市春日) (13)
ミッキーシルエットの主郭内部。土塁は最初から無かったのであろう。

火打山狼煙台(佐久市春日) (17)
東南にある小屋掛けが想定される削平地。

山城や古城を利用した山城は伝承が数多く残るものの、古代よりの狼煙台となるとその素性は謎な場所が多い。

この火打山狼煙台の設立については不詳であるものの、このスタイルが往時の狼煙台のスタンダードであるとすれば極めて貴重な遺構であろう。公認するかの有無ではなく後世に伝えるべきものであると考える。

火打山狼煙台(佐久市春日) (15)
狼煙台は整然とした方形である。

この日は春日城にも登って写真を撮り直してリテイク記事の準備をしたのだが、それもいつになるやら・・・(汗)


≪火打山狼煙台≫ (ひうちやまのろしだい)

標高:960m 比高180m 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市春日栃久保
攻城日:2016年5月01日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分  駐車場:無し
見どころ:切岸・郭
付近の城跡:春日城、式部城、小倉城、天神林城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館① 佐久編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版)



火打山狼煙台(佐久市春日) (26)
春日城の麓から見た火打山狼煙台。
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Posted on 2018/06/10 Sun. 21:10 [edit]

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針立城 (長野市戸隠栃原)  

◆再調査が必要な居館城跡◆

基本的にはしっかり現地踏査を行った山城や城館を記事として掲載するのをモットーとしているのだが、再調査は直近でも晩秋になりそうなので、流れ的に掲載しておこうと思う。お赦しくだされ・・・。

今回中途半端にご案内することになったのは戸隠シリーズの「針立城」(はりだちじょう)。

針立城 (1)
南側より城跡の西側の堀切を見る。

【立地】

戸隠栃原の福平集落の700m東に位置する針立集落の東の小山になり、城の東側は奈良尾沢の深い渓谷となり天然の要害である。近くには福平城や南に円光寺館などがあり、福平城に関連する城砦と考えられている。

針立城見取図①

【城主・城歴】

史料・伝承等無く不明。立地からは福平城の溝口氏に関係のある人物の城館と推定されている。

針立城 (4)
まあね、夏場は城館といえども突入するのは勇気がないと・・・(汗)

【城跡】

宮坂武男氏の踏査報告によると、土塁を伴う最高所の主郭の前後に三ヶ所の副郭を伴う城館で、周囲は深い渓谷に面しているため地続きの南側にのみ堀が穿ってあったようだという。
今回は藪が酷いのと本能的に警鐘が鳴っていたので探索は諦めて、周囲の地形観察に留めた。
都合が合えば、改めて調査してみたい城跡である。

針立城 (5)
この時は何故か突入するのを躊躇(ちゅうちょ)した。無理してはいけないのである・・・。

針立城 (10)
郭4は耕作化により改変されているが、切岸は往時のままだと思われる。

≪針立城≫ (はりだちじょう 沢尻の城)

標高:818.2m 比高9m 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2016年5月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分
見どころ:不明
付近の城跡:大昌寺山城、福平城、円光館など
注意事項:耕作地は無断侵入禁止  駐車場:無し
参考書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)

針立城 (7)
城の南側の堀跡(推定)

Posted on 2018/06/01 Fri. 22:32 [edit]

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0520

五十土城 (戸隠栃原)  

◆福平城の南口を守る砦か◆

GW明けは連休も取れずに一週間に一度の日曜休みだけで、これといって観たい映画も無いし、近くの博物館や歴史館も特別に興味のある展示会をやっている訳でもないので、なんとなく一日が終わってしまう焦燥感・・・(汗)

といって蜘蛛の巣や毛虫が降り注ぎ、蛇を警戒しながらスズメバチに追われる夏の山城探索などに出掛ける気にもならない(笑)

かといって天気が良いのにブログ記事を更新するのもどうなんでしょうかねえ・・・今回ご案内するのは戸隠の「五十土城」(いかづちじょう)

戸隠周辺の城と居館①
戸隠地区で残るは「高城」と「志垣城」「猿丸城」の3つでコンプリートなのだが、猿丸城は大藪に阻まれて一度撤退している。

【立地】

旧戸隠村栃原の五十土(いかづち)集落の北側の山裾の高台にある。ここは谷沢の谷に面して断崖となり集落を見下ろす場所に位置している。東の台地上には大昌寺と大昌寺山城、北の大地には福平集落と福平城があり、その台地の南側の登り口にあたる。

五十土城見取図①
まあ、高台にホームベースのような単郭があるだけなのだが・・・(汗)

五十土城 (2)
道路脇から数分登れば高台(主郭)へ。墓地への道路が付いているので軽自動車なら入れる。

五十土城 (3)
主郭の墓地。周辺はかつて耕作地だったようだ。

【城主・城歴】

史料、伝承等無く不明。宮坂武男氏の調査によれば、この南下の家の家号が「十」(じょう)なので、この山が城跡と考えられているという。展望はあまり良くないのが、五十土城の北側の斜面を比高50mほど登れば福平城の外郭に通じる事や、南東の大昌寺山城とは指呼の間にあるので、福平城の砦だった可能性も考えられるという。

五十土城 (6)
主郭の北側は窪地になっていて堀があったと推定してみるがどうであろうか。

五十土城 (1)
西の谷沢方面に下る堀形。それっぽく見えます。

【城跡】

33×38の五角形状の頂部は墓地とかつては耕作地だったようで、「十(じょう)」と呼ばれた麓の家号の家との間に削平地が確認出来るが、これは往時のものかは断定できない。
本郭の南側の断崖に下りる小径の中間に稲荷と数基の石祠が確認出来るが、この城跡との関係は不明である。

五十土城 (5)
東側に福平城の出城と伝わる大昌寺山城。

五十土城 (8)
「十(じゅう)」という家号の家は恐らく五十土城の代々の城守だったのであろう。

≪五十土城≫ (いかづちじょう) 

標高:780m 比高:20m
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2015年8月29日
お勧め度:★☆☆☆☆
居館跡までの所要時間:-
駐車場:墓地腋
見どころ:特になし
参考文献・書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:住宅地につきプライバシー注意
付近の城跡:追通城、福平城、中尾城、上祖山城、鬼ヶ城など
SpecialThanks:ていぴす殿

五十土城 (11)
高台の南側の斜面には稲荷社と石祠が祀られている。城と何か関係性があるのだろうか?

複雑な縄張図を描くのが面倒だと言って、安易に平地の城館で誤魔化す目論見はもちろんあります・・・(笑)

そうはいっても、誰かが記事にしなければ忘れ去られてしまうのも口惜しいので掲載にしてみました。

そんな小生をSNSで批判ですか・・・心外です甘んじて受けましょう!!(爆)

Posted on 2018/05/20 Sun. 20:49 [edit]

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0513

追通の栗田屋敷 (長野市戸隠)  

◆戸隠に移住した山栗田氏の最初の居館跡◆

ここを探索したのは2015年8月なので、とっくに記事をアップしたと思い込んでいたが、ダイジェスト版のお知らせのみだった・・・・(汗)

未だに公開出来ずに抱えている在庫の城数はざっと500以上であろうか。

昨日食べた夕飯のメニューすら思い出せないのに、5年も前に探訪した城の写真を見ても、「ここは何処?私は誰?」・・・(笑)

今回ご案内するのは、断片的な記憶を辿りつつ、ボケ防止となるのか的な「追通の栗田屋敷」でございますw

追通の栗田屋敷 (1)
屋敷跡は栃原御厨神明宮の表参道(写真の道)の西側。奥の山が先日ご案内した追通城。

【立地】

裾花川の左岸で、戸隠栃原の追通集落(おっかよしゅうらく)の西端の台地上にある。屋敷のある台地の南側は裾花川の断崖で、西は西浦沢の渓谷が天然の堀切となり、北は追通城の山塊に守られている。正に要害の地である。

追通の栗田屋敷 (4)
表参道から西へ向かう路地に入る。道路の南側の段差にも住宅等が建つが、往時の切岸の跡が伺える。

【館主・館歴】

「長野県町村誌」には「古宅地」として掲載され「本村(栃原村)の西南の方字追通(おっかよう)にあり。東西三十間、南北二十間、面積二反歩。里俗伝にアナタ屋敷と云ひ、又栗田屋敷と云ふ。今畑となる。栗田氏始此に住し後豊岡村に移る。今同氏の末裔連綿して代々戸隠神社の神宮たり。」とある。明暦元年(1655)まで栗田氏(山栗田)が居住したと伝わる。

追通の栗田屋敷 (5)
中屋敷1.この周辺は和田一族が居住している。敷地の西隅に八幡宮があるので、ここが居館の中心地だと思われる。

追通の栗田屋敷見取図
yahooの航空写真を拡大し加筆修正。

追通の栗田屋敷 (23)
北側より撮影した中屋敷1(和田邸)

【館跡】

現在の屋敷地には和田氏一族が居住している。
中屋敷の北側の高台は上屋敷、一段下の南側は下屋敷と呼ばれ道路の開通や宅地による改変はあるものの、栗田屋敷だった往時の面影が残る。
上屋敷の西側には五輪塔が残り諏訪社が祀られている。

追通の栗田屋敷 (25)
中屋敷の西端の八幡宮。

追通の栗田屋敷 (8)
追通城のある山塊を背にした上屋敷。

追通の栗田屋敷 (10)
和田氏の墓地の脇の山際に残る五輪塔。かなり古いものだ。

追通の栗田屋敷 (13)
上屋敷より見た下屋敷方面。

【その後の栗田氏】

追通の山栗田氏は、その後宝光社の東側の原山に移り、最終的には1明暦四年(1658)、二条の堀之内城(栗田屋敷)に居館を移転し江戸末期まで戸隠神領の行政の中心としての役目を果たした。


≪追通の栗田屋敷≫ (おっかよのくりたやしき アナタ屋敷) 

標高:665m 比高:50m(裾花川より) 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2015年8月29日
お勧め度:★☆☆☆☆
居館跡までの所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:-
参考文献・書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:住宅地につきプライバシー注意、無断侵入禁止
付近の城跡:追通城、福平城、中尾城、上祖山城、鬼ヶ城など
SpecialThanks:ていぴす殿

追通の栗田屋敷 (18)
屋敷地より見た追通集落。十数年後も同じ風景が見られることを祈りつつ・・・・。

Posted on 2018/05/13 Sun. 11:20 [edit]

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0510

追通城 (長野市戸隠)  

◆裾花川流域の古道を見張る物見砦か◆

もはや山城探訪もオフシーズンとなった。

そんなひ弱な戯言を・・・とオールシーズンツアラーの方には叱られそうだが、夏場の城址探訪などまっぴら御免である・・(笑)

夏は古墳とかダムとか博物館とか峠とか・・・・涼を求めて彷徨うのが正しい過ごし方である。(でも峠はどうなんでしょうか・・汗)

今回ご案内するのは、前回鬼ヶ城を攻めた面々が、返す刀で急襲した追通城(おっかよじょう)でございます。

朝日城 (15)
南側の陣場平山(1257m)にある朝日城の手前の林道から見た戸隠の山城群。(ズーム撮影)

【立地】

裾花川の左岸で、追通(おっかよ)集落の後背の山が「城の山」と呼ばれる。ここが追通城である。東西に長い山嶺で、東は滝沢の谷、北も田頭集落に面して急斜面で容易に人を寄せ付けない険しい山体である。西は荒倉山の岩峰が続き、そこに鬼無里に通じる古道があり、祖山地区から七二会(なにあい)に通じる交通の要衝である。

IMG_5953.jpg
郭4と郭1を連結する尾根。

「いかに労せずして遺構(城跡)に辿り着くか・・・」 

我々は山城の位置を特定すると、探訪プランの立案に際して最短距離と最小の体力で到達する方法を真っ先に考える。

往時の城へのアプローチ方法や築城に至ったプロセスよりも、いち早く現場について検証する事が最優先なのである・・・(笑)

追通城見取図①
最近見取図もテキトーだなあ・・・(汗)

【城主・城歴】

史料なく詳細は不明。麓の追通集落(おっかよ)に「追通の栗田屋敷」(すでに記事を掲載してあるかと思い込んでいましたが、未掲載でした・・・やば)があり、栗田氏関連の城と推定される。

※栗田氏(山栗田・里栗田)に関しては過去記事で⇒栗田城にざっくり書いたのでご参照ください。

追通城 (5)
主郭の切岸。

追通城 (6)
主郭は12×11の平場で三角点がある。

【城跡】

荒倉山の裾野が裾花川に突き出す険しい痩せ尾根を利用した砦で、自然地形の小山や岩場に最小限の加工を施しただけのようだ。主郭は周囲に石積みが見られるのだが、土留めというよりは祠を勧進した時の後世の加工の跡のように思える。
主郭南側の堀切は往時のものであろう。城域は郭2と細長い平場の郭3が終点で、その先は道がしっかりついているので表参道として人々が登ったのであろう。

追通城 (7)
郭1(主郭)から堀切を見下ろす。

追通城 (8)
主郭の石積み。結構しっかりと組んでいるので、祠を勧進したときの施工のように思えるが・・・。

追通城 (9)
堀切の先の南に突き出した岩場。物見兵はここに立って裾花川流域を見張ったのであろう。

【物見からのロケーション】

主郭の南の岩場からの景色は素晴らしく、何故ここに物見が置かれたのかを雄弁に物語る。

追通城 (10)
麓の栗田屋敷。目と鼻の先である。

追通城 (11)
対岸の山脈を越えれば善光寺平である。

追通城 (15)
郭2の小山。ほぼ地山のままだ。

追通城 (18)
郭3の削平地。ここは後世の参道だったように思えるが・・。

【城へのアクセス】

田頭集落から林道経由で城の西側の平場の近くまで軽自動車ならアスクセスが可能。これが最短距離で比高差は最小限となるが、ある程度歩く。夏場は休耕地の笹薮が酷くお勧めできない。麓の追通栗田屋敷から大手道があるらしいが不明。

追通城 (1)
我々の当日のGPSログ。


≪追通城≫ (おっかよじょう 城の山) 

標高:877.9m 比高:250m(国道より) 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2018年4月29日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:20分(上入林道途中より)
駐車場:林道脇に路駐
見どころ:石積みのある主郭、頂上からの景色
参考文献・書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:痩せ尾根につき岩場からの転落注意。
付近の城跡:栗田屋敷、福平城、中尾城、上祖山城、鬼ヶ城など
SpecialThanks:ていぴす殿、えいき殿(越後国)、小太三郎殿(相模国)



追通城 (22)
田頭集落入口から見た追通城。

Posted on 2018/05/10 Thu. 20:34 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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