らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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刎石堀切 (安中市松井田町坂本)  

◆大道寺駿河守政繁の碓氷峠の悪あがき◆

真田パパ幸の思惑は外れ、「徳川内野聖陽家康とゆかいな仲間たち」は事もあろうに北条高島氏政と和睦してしまった・・(汗)

ドラマでは、堺信繁が小諸城と碓氷峠の兵站補給を遮断するよう進言し策が採用されているが、ここで残念ながら脚本から割愛された武将が二名ほどいる。パパ幸を徳川方に引き入れる調略をした依田信蕃と、北条方の小諸城将として松井田城より赴任していた大道寺駿河守政繁である。

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依田信蕃が信濃において初めての大名の地位となるまであと一歩の夢を絶たれ討死した岩尾城。(佐久市 長野県指定史跡)

徳川家康の天正壬午の乱における対北条戦の圧倒的に不利な戦いを五分五分まで挽回出来たのは、依田信蕃の功績が一番で、その信蕃の調略に応じた真田パパ幸が二番であろう。
※依田信蕃の生涯については岩尾城を参照願います。

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松井田城遠景(2009年6月撮影)

さて、肝心の大道寺家であるが、後北条氏の宿老として代々仕え、政繁のパパ重興(異説あり)の代から関東七名城の一つである川越城代を任されていたという。父の跡を継いだ政繁は氏綱、氏政、氏直の三代に仕え、名だたる合戦には参戦し数々の武功を挙げたという。

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松井田城の安中郭に建つ大道寺政繁の記念碑。(2009年6月撮影)

天正十年六月、信長が本能寺で横死すると、東国では武田遺領をめぐり上杉vs北条vs徳川の争奪戦が始まる。(天正壬午の乱)
上野国に侵入した北条氏直は、織田方の将である滝川一益を神流川の戦いで破ると信濃との境に位置する重要拠点の松井田城の城代として大道寺政繁を任命し、そのまま信濃に進駐。小諸城を拠点として圧倒的な軍事力を背景に佐久・小県の国衆を降し北信濃に進出していた上杉景勝と決着を着けるべく対峙。

小諸城 (16)
天正壬午の乱で、北条軍の信濃侵攻の拠点だった小諸城。大導寺政繁が城代に任命されていたという。(写真は三の門)」

だが、上杉方の海津城代だった春日信達の北条方への内通が露見し景勝により成敗されると、氏直は上杉方との決戦を回避し甲斐へ進駐していた徳川家康の排除に向かう。

北条との兵力差では絶体絶命の徳川軍であったが、依田信蕃の進言により真田昌幸を北条方より寝返らせ、碓氷峠を越えて伸びる北条軍の兵站補給の遮断に成功すると息を吹き返し、佐久の国衆は依田・真田の勧誘工作で徳川に寝返り、甲斐の緒戦では北条方に勝利し、氏直は和睦せざるを得ない状態に陥ったのである。
この時北条方の信濃の拠点であった小諸城には大道寺政繁が残り、指揮を執っていたと伝わる。

さて、真田丸の復習はそれくらいにして(笑)、松井田城代の大道寺駿河守政繁が築いたという「刎石堀切(はねいしほりきり)」をご案内しよう。

刎石堀切 (2)
坂本宿側から見た碓氷峠の登り口と刎石山。あの険しい山の尾根伝いに峠道が通っている。ここからの比高差は300m。

【立地】

旧中山道の坂本宿から碓氷峠に入り、群馬県と長野県の県境にある熊野神社へ向かう途中で、刎石山(標高810m)と栗ヶ原との鞍部に立地する。坂本宿から登ると旧国道18号線の東屋の脇に中山道の峠道への入口があり、愛宕山城と堂峰番所が守っている。

刎石堀切 (66)
堂峰番所跡。ここから北東の尾根筋に愛宕山城がある。

刎石堀切 (7)
堂峰番所から登ると刎石坂の手前に「覗」(のぞき)という場所があり、坂本宿を一望出来る。ここで一休み。俳人の小林一茶はここで「坂本や袂(たもと)の下の夕ひばり」と詠んだという。

堂峰番所を過ぎてしばらくすると碓氷峠の最大の難所と言われた刎石坂(はねいしざか)の急坂があり、登り切る場所に弘法の井戸、その先に刎石茶屋跡がある。この辺りからは平坦な道となり、途中には東山道時代の碓氷坂の関所推定地とされる場所に東屋が立つ。そこから10分ほど下り鞍部に出た場所が堀切跡である。

刎石堀切 (59)
碓氷峠の最大の難所と云われた刎石坂。

刎石堀切 (10)
茶屋跡。嘗ては四軒の茶屋で賑わっていたという。

刎石堀切 (12)
茶屋の先に進むと「碓氷坂の関所」推定地がある。899年に東山道の関所が置かれたという。

刎石堀切 (18)
刎石山の尾根伝いの平坦な峠道をひたすら歩く。この先で猿軍団(または秀吉軍?)と遭遇し焦ったが何とか通してもらう・・・(汗)

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こんな感じの現地状況図。


【堀切の設営】

天正十七年(1590)、秀吉による小田原攻めが全国の諸大名に発令されると、北条家家臣で松井田城代の大道寺駿河守政繁は、東山道を攻め上がる北国・信濃勢(前田・上杉・真田・松平・小笠原)を阻止する為に碓氷峠の刎石に堀切を穿ちこれに備えた。
同年三月、前田利家を総大将とする豊臣軍35,000は碓氷峠に向かう。松井田城の大道寺駿河守政繁はこれを迎撃せんと刎石の堀切付近に展開するが、予想以上の寄せ手の大軍勢に驚愕し慌てて撤兵し、松井田城での籠城に作戦を切り替えたという。

刎石堀切 (20)
堀切の手前200mぐらいからは峠道を挟むような地形。伏兵を置き上から攻撃出来そうだ。

刎石堀切 (22)
堀切手前100m地点。上から攻撃されれば反対側は急斜面なので逃げ道が無い。

刎石堀切 (26)
堀切手前50m。両サイドのコブを利用して挟撃が可能だ。

【堀切跡】

幅数メートルの岩の細尾根に続く鞍部の平坦地を両側を削って幅を狭くし土橋に加工してある。攻め手は並列から縦列に展開せざるを得なくなり、そこを守備側が道の両サイドの小山から攻撃しようと意図して造作されたものであろう。
ゲリラ戦で敵を一時的に足止めしようとしたらしいが、想像を絶する大軍に歴戦の猛将の大道寺駿河守もさすがに「無駄な抵抗」として諦めたのかもしれない。

刎石堀切 (51)
狭間を抜けた先の緩い下りの右カーブの先に土橋と堀切が見える。

刎石堀切 (30)
ここが「刎石堀切」(はねいしほりきり。または大道寺堀切の名も)

もっと長大で巨大な堀切かと期待していたのだが、チョッと短い。土橋など残さずにいっそ断ち切ってしまえば良かったようにも思えるのだが、時間が無かったのか人手不足だったのか、中途半端な構築で終わっている。
二、三千程度の軍勢ならば何とか時間稼ぎも出来たであろうがその10倍は想定外か・・・(笑)

刎石堀切 (31)
堀切跡には説明板が建つ。

それでも碓氷峠では怒涛の如く押し寄せる豊臣軍と迎え撃つ北条方の大道寺軍とで多少の小競り合いがあったらしいが、この程度の防御施設では支えきれなかったのであろう。

刎石堀切 (37)
西側の沢に向けて落ちる堀切。

刎石堀切 (41)
東側の沢に落ちる堀切は一部が杉林となっているが、往時はもちろん何もなかったはずである。

この峠道を前田利家、上杉景勝、真田パパ幸、松平康国(戦死した依田信繁の嫡男で小諸城主)、小笠原貞慶らの北陸勢・信濃勢三万五千の大軍が威風堂々と行軍していたかと思うと鳥肌(チキンスキンとも・・・・笑)ものである。
二列縦隊で通ったとしても全軍が峠を下りるには三日三晩は要したのかもしれない。

刎石堀切 (42)
看板裏の西側の堀切の拡大写真。

刎石堀切 (50)
南東側から見た東側の堀切。尾根を大きく抉っているのが判る。

実はこののち、碓氷峠の中山道を再度大軍が通る事があった。そう、慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠率いる徳川軍の主力部隊でその数は三万八千であったと伝わる。
第二次上田合戦の伏線となった碓氷峠越えが、真田丸ではどのように描かれるのか楽しみであるが、案外一瞬でワープすると思われる・・・・吉田剛太郎の本能寺の変なんて瞬殺でしたもの・・・・(笑)

刎石堀切 (34)
堀切の北側の通路は痩せた岩尾根を縫うように栗ヶ原に続いていた。

それにしても、たかがこれだけの遺構の為に往復6kmの碓氷峠の中山道を歩くヤツがいるだろうか?

最近では、同業者の富岡武蔵さんが徘徊したと聞き及び、あのお方ならそのまま軽井沢町の熊野神社まで走破する比類なき偉業を達成したと思われる・・・最近ご無沙汰しているが、本人に聞いてみたいものである・・・(笑)


≪刎石堀切≫ (はねいしほりきり 大道寺堀切)

標高:780m 比高:300m
築造年代:天正十六年~十七年
築造者:大道寺駿河守政繁
場所:安中市松井田町坂本刎石山
訪問日:2016年3月6日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
堀切跡までの所要時間:片道70分 駐車場:無し(東屋の脇に路駐)
見どころ:大堀切とその周辺の陣地遺構
注意事項①猿軍団(秀吉とウザい仲間たち)と遭遇したら目を合わせることなくひたすら進む。決して威嚇してはいけない。②刎石坂付近では落石に注意。装備はトレッキングと同じレベルで登山ステッキか登山用のポールがあれば楽です。
参考文献:「信濃をめぐる境目の山城と館」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)
付近の城址:愛宕山城、坂本城、虚空蔵山狼煙台、堂峰番所など

刎石堀切 (73)
東屋の観光案内板の地図ではそれほどの大変さは伝わらない。

刎石堀切 (79)
旧中山道碓氷峠の安見絵図には「ほりきり」と書かれており、刎石坂は「はんねいし」と表記され箱根よりも難所と書かれている。

さあ、あなたも吟遊詩人となり、中山道は碓氷の峠道を歩いてみましょう。自分探しの旅はここから始まる・・・・(笑)











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Posted on 2016/03/12 Sat. 21:49 [edit]

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横川関所 ・堂峯番所(安中市松井田町横川)  

◆信濃国と坂東を分け隔てる峠にして古来よりの最大の難所◆

某国営放送局の大河ドラマで草刈正雄が演じる「真田パパ幸」の黒さは限度を超えている・・・・(汗)

「そこまで描いていいのか?」と史実を知る中世城郭ヲタの我々が危惧するぐらいに放送事故寸前の際どさがある。

脚本を手掛けた三谷幸喜なる人物こそ、「表裏比興の者」であろう・・・(笑)

今回ご案内するのは、天正壬午の乱で北条氏政・氏直を見限り、甲斐で北条軍と対峙し窮地に陥っていた徳川家康の調略に応じて徳川に臣従した「真田パパ幸」が北条方の兵站補給路となっていた碓氷峠の封鎖に成功した上野国側の起点の横川。

横川関所 (4)
横川の碓氷関所跡の碑

天正十年十月、徳川方の依田信蕃、真田昌幸は北条方となっていた国衆の調略を行い切り崩しに成功。また、上野から碓氷峠経由で甲斐前線の北条本隊に送られていた荷駄隊を襲いこれを封じた。これにより佐久での足場を失い兵站補給すら不可能となった北条氏直は、圧倒的な大軍を擁しながら徳川家康との和睦に応じるほかなかったのである。

横川関所 (1)
横川関所は元和九年(1623)に江戸幕府により設置されたが、それ以前にも見張小屋が置かれていたのかもしれない。

【碓氷横川関所の立地】

碓氷峠の東麓、坂本宿の東、旧JR信越本線横川駅の西側になり、霧積川と碓氷川が合流する所に接する位置になる。付近は信越本線の廃線に伴い大きく改変されたが、旧街道の県道沿いには、東側に諏訪神社、茶屋本陣があり、街道より一段高い場所に関所跡が残っており、復元された東門から往時の面影が偲ばれる。

碓氷峠の変遷
碓氷峠における交通の変遷(※ウィキペディアの「碓氷峠」の補助資料を引用添付しています)

戦国時代の碓氷峠越えは、最も北側の中山道ルートの旧碓氷峠とほぼ同じだったらしく、江戸時代に整備されたという。

横川関所 (3)
旅人はどんな思いで通行手形を出したのだろうか・・

【碓氷関所の沿革】

東海道箱根関所と並び称される中山道碓氷関所が、現在地に設置されたのは元和九年(1623)でした。横川は碓氷峠山麓の三つの川が合流し、険しい山が迫って狭間となり、関東の境を守る関所要害としては最適の場所でした。

寛永十二年(1635)に参勤交代が行われるようになると、徳川幕府は関所で「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。関所手形を提出させ、鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれることや、人質として江戸に住まわせておいた大名の妻子が国元国え元h逃げ帰るのを防いだのです。

しかし十八世紀後半以降になると、街道交通の増大に対応を迫られ、関所改めも緩やかになります。享和三年(1803)以後は「女改め」が簡略化え、ついに徳川幕府が倒れると、新政府は明治二年(1869)二月に関所を廃止しました。

碓氷関所の構えは、中山道を西門(幕府管理)と東門(安中藩管理)で区切り、あいだの五十二間二尺(約95m)を関所内として木柵などで囲い、碓氷峠の登り口に堂峯番所を置いて二重に監視しました。
※碓氷関所保存会の現地説明版より引用

碓氷関所見取図
碓氷関所絵図(現地説明版より引用添付)

天正十八年(1590)、秀吉による小田原征伐が始まると、東山道方面からは前田・上杉・真田を中心とした約35,000の軍勢が碓氷峠を越え、小田原城を目指した。

そんな歴史的背景も思い浮かべながら峠道を歩くのもなかなかいいものですw

【堂峯番所】

復元された横川碓氷関所の東門だけ見ても実感のわかない方は、ここから旧国道18号線を3kmほど北西に辿ると「堂峯番所(遠見番所)」があるので、訪ねることをお勧めします。

横川関所 (10)
坂本宿を過ぎ、旧国道18号線の脇の東屋から中山道を10分ほど歩くと堂峯番所跡がある。

横川関所 (7)

実はこの堂峯番所の東側には武田が築き北条が改修したと伝わる愛宕山城があり、見学予定だったが日没が迫り泣く泣く断念・・(汗)

まあ、お楽しみは欲張らずに残しておきましょう・・・(笑)

横川関所 (8)
堂峯番所の石垣跡。


≪横川関所≫ (よこかわせきしょ)

標高:405m 比高:-
建築年代:元和年間(1615~1623)
管理者:江戸幕府
場所:安中市松井田町横川
訪問日:2016年3月2日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
館跡までの所要時間:- 駐車場:無し 路駐
見どころ:往時の木材を一部使用して復元された東門
注意事項:特になし
参考文献:現地説明板
付近の城址:松井田城、松井田西城など




≪堂峯番所≫ (どうみねばんしょ)

標高:570m 比高:-
建築年代:元和年間(1615~1623)
管理者:江戸幕府
場所:安中市松井田町横川
訪問日:2016年3月2日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
館跡までの所要時間:- 駐車場:無し(東屋の脇に路駐)
見どころ:石積み跡
注意事項:特になし
参考文献:現地説明板
付近の城址:愛宕山城、坂本城、虚空蔵山狼煙台、刎石堀切など





Posted on 2016/03/05 Sat. 09:06 [edit]

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箕輪城 1 (高崎市箕郷町西明屋)  

◆百戦錬磨の「土の城」の最終進化形・・・只今整備中です◆

我が師匠の「あおれんじゃあ」殿も「いつでも行けるからイイや、と思っている城には中々行かない」とおっしゃていた。

そう、小生にとって上野国の名城「箕輪城」は常に素通り。

真田丸に出ちゃったし、武田の郡代も置かれた重要なお城だし、こりゃー行っておかねば笑いものになること必死かと・・(笑)

箕輪城2016(高崎市) (1)
箕輪長野氏時代はこちら側が大手口だったらしい。

後発組のよそ者の小生が「日本百名城」であることすら知らない箕輪城を語るのは恐れ多いので、今回は城歴について何の知識も持たない素人目線で書いてみたいと思う。

【立地】

箕輪城は、群馬県高崎市箕郷町にあり、榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた。
その地形は正に要害の地であり、長野氏全盛時代を築いた長野業正は、武田信玄の幾度かの侵攻を防ぎきり難攻不落の名城を誇っていたという。

箕輪城縄張図① 001
高崎市役所の整備箇所が記された秀逸なパンフレット。これさえあれば、余計な能書きは不要だ。

まず驚くのは城域の広大さでろう。城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なもので、全ての詳細を踏査するには丸一日かけても難しいと思われる。

今回、小生は三時間弱で一回りしたが、時間が許せばもう一度トライして詳細を確認したいというのが本音である・・(汗)

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北条時代の角馬出の名残りであろうか。

箕輪城2016(高崎市) (15)
搦手馬出と稲荷郭との間の水堀跡(本丸の側)。鉄砲を意識した広い堀。

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本丸北の御前曲輪(ごぜんくるわ)とは高低差70mの稲荷曲輪(いなりくるわ)

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稲荷曲輪と新曲輪の間の堀跡。新曲輪(しんくるわ)の中に「丸馬出」が置かれている状況から考えると、新曲輪は北条あるいは徳川(井伊直政)時代の普請と考えられる。

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箕輪城の最北端の新曲輪。北の守りを強化した事が伺える。

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うっかり通り過ぎてしまいそうな丸馬出。規模から見ると武田時代の遺構のように思えるがどうであろう。


【長野業正の死】

関東管領である山内上杉氏家に従い、山内上杉家没落しても義理立てし北条氏につくことも無く、武田信玄ですら退けた「孤高の戦士」であり名君の誉れ高き長野業正であったが、永禄四年(1561)に死去。享年71歳だったという。
業正は死去する前、嫡男の業盛を枕元に呼び寄せて、「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」と遺言したという(関八州古戦録)

また、「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と武田信玄が嘆くほど長野業正は信玄をてこずらせたという。

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稲荷曲輪と本郭の間の巨大な水堀跡。

【その後の箕輪城は?】

まあ、上野国を語るには「黙れ、こわっぱ!!」と上野国衆よりお叱りを受けそうなので、ちゃんと調べてそのうち掲載します・・・(笑)

なので、箕輪城の写真オンパレードでも・・・・

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井伊時代の石垣。(御前郭の西側の堀底にあり、土留めも兼用していた。

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この辺の堀の普請は徳川時代であろう。

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三の丸付近に残る井伊時代の石垣跡。ここに三の丸門があり、西側に下ると大手門(追手門)があった。

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郭馬出(二の丸の南の出郭)に建設中の二階建て櫓門。無理に再現するのはどうかと老婆心(笑)

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発掘調査も行われている事を示すトレンチ。(二の丸)


【城跡を隅々まで見たいなら2時間~3時間は必要】

平成23年度から始められた整備事業は平成26年度で終了予定だったらしいが、まだ終わらない・・・(汗)
高崎市が主体となり2億5000万円をかけて整備事業を継続中である。

郭だった平坦地は伐木し、切岸などの傾斜地は間伐することで全体の遺構がハッキリしてきている。
トイレや東屋が本当に城跡の中に必要な施設なのかは疑問に思うが、戦国末期まで使用され江戸時代の最初まで現役だった中世の山城は全国的に見てもそう例が無い。

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二の丸南側の堀底から見た二の丸と郭馬出を繋ぐ土橋。

城への入口は、「搦め手口」、「榛名口」、「観音様口」、「大手尾根口」、「大堀切口」、「大手虎韜口」、「霊置山口」の七か所がある。その全てを制覇し城の遺構を堪能するには、最低3時間は必要だろう。
弁当持参で来ても後悔しないだけの価値はあると思いますw

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城域の南端の大手門と丸戸張付近。

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広大な城域を分断する通称「大堀切」

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本丸跡の碑

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広大な本丸は北条時代の普請と拡張によるものだという。

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本丸の北に隣接する御前郭。

偉大な戦国時代の名将長野業正の後は14歳の業盛が継いだ。箕輪衆を率いて信玄の侵攻を一度は喰い止めたが、永禄九年(1566)に二万の大軍を率いて上野国に侵攻してきた武田軍に攻められて落城。上杉謙信に応援を請うも援軍は現れず9月29日に本丸北側の御前曲輪において父業正の位牌の前で一族郎党自害して果て、長野氏は滅亡。(業盛の享年24歳)

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御前曲輪に建つ箕輪城将士慰霊碑。

関東管領の謙信さん、国内の反乱分子も鎮圧出来ず、まして武田と北条退治も同時進行ではチョッとキツイか・・・(汗)

それにしても、素晴らしい名城である「箕輪城」

久しく行っていない方、整備がもうすぐ終わるので再訪お勧め。もちろん初回の方も大歓迎!

≪箕輪城≫ (みのわじょう)

標高:280m 比高:60m
築城年代:永正九年?
築城・居住者:長野氏、武田氏、北条氏、井伊氏
場所:高崎市箕郷町
訪問日:2016年2月27日 
お勧め度:★★★★★ (満点) 
城跡までの所要時間:- 駐車場:三ヶ所
見どころ:全て
注意事項:特になし
参考文献:適当
付近の城址:いっぱいあります(笑)

箕輪城2016(高崎市) (213)
長野氏時代の復元予想図なんかもありました。せっかくなのでこの看板もリニューアルして欲しいものですw




















Posted on 2016/03/01 Tue. 07:33 [edit]

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大戸関所跡 (東吾妻吾町大戸)  

◆関所破りは重罪です◆

大河ドラマ「真田丸」では、「真田の郷」と「沼田城」や「岩櫃城」が近いような錯覚に陥るが、実のところ真田氏居館跡のある上田市真田町から岩櫃城のある群馬県吾妻郡東吾妻町郷原までは車で約1時間30分(しかも新しく開通したバイパス経由)、沼田城のある沼田市までなら2時間20分(徒歩なら17時間)。移動時間もさることながら、文明の利器など無い時代の情報伝達なのに、武将や国衆の情報収集が意外と早いのに驚く。

沼田城・名胡桃城 008
沼田城の天主閣の石垣跡。

弱小な地方の国衆に過ぎない真田家が、織田、北条、徳川、上杉などの並み居る戦国大名の大海の荒海を溺れずに生き残れたのは、情報収集の早さとその正確性であり、昌幸の類い稀なる決断のスピードも大きな大きな要因であろう。

CIMG2738.jpg
真田丸効果もあり、例年にない数の観光客が訪れているらしい岩櫃城。

ドラマの中では「シブサワ・コウ」の率いる百戦錬磨の地図部隊が的確な勢力図を提供しているが、ご自身で地図を開いてみるのも大事である。

今回ご案内するのは、上野国における北条との争奪戦で昌幸も重要視したであろう「大戸関所」。関所そのものは江戸時代の設置だが、戦国時代には街道の交わる要所であり、大戸浦野氏が手子丸城(別名:大戸城)を築城し周辺を支配している。

大戸関所跡 (1)

【立地】

大戸地区の温川(ぬるかわ)右岸、見城川が合流する所の交通の要衝に大戸の関所がある。往古は吾妻川沿いの道は吾妻峡の難所があり、これが通れないので、長野原から須賀尾須峠を越えて温川沿いの道が高崎への本道として使われていたために、この大戸の関所が重視された。

大戸関所跡 (2)

【関所の経歴】

現地の説明版には以下の記述が記されている。

大戸関所は信州街道街の要点をおさえる重要な関所で、近世初頭の寛永十八年(1632)に設置された。吾妻~北信濃の三候の廻米や武家商人の荷物、各地の産物の輸送路として、中山道を凌ぐ程の活気を呈したとも云われ、江戸と信濃を結ぶ最短距離距として重要な街道であった。別名信州道、草津道、善光寺道大戸廻りとも呼ばれていた。

大戸関所は、元和九年(1623)五月、将軍秀忠上洛の時に、要害の此の地を守護したのが始まりといわれる。その後寛永七年に幕府目付によって関所見立ての巡検があり翌八年に正式に関所が設けられた。中山道の脇往還で碓氷関所の裏固めの意味を持っている。以後二百三十有余年の間、幕府代官の管理下の下に運営され、明治元年九月に廃止された。

関所は通行手形によって往来の旅人を厳重に取締り、関所破りは重罪として処刑された記録がある。(関所破りとは、関所を避けて山越しなどをした者)通行の門限は「鬨六つ(午前6時)から暮六つ(午後6時)」までと定められていた。また、要害地域を守る関所付きの村として大戸、萩生、本宿の三ヵ村は、関所番人を出し警備に当たったり、関所破りを監視するなどの負担を義務付けられた。近隣の十一ヶ村は関所普請村に充てられていた。

嘉永三年(1850)十二月、関所破りの罪を受け、侠客国定忠治はこの地で処刑された。映画、演劇や講談浪曲等でも知られる處である。

大戸関所跡 (4)
近所の方の駐車場というのはどうなんでしょう・・・・(笑)

大戸関所跡 (5)
どこの関所も似たような作りでございますw

国定忠治という名は聞いた事がありますが、どのような生涯を送った方なのかは存じません・・・(汗)

「赤城の山も今宵限り・・かわいい子分のてめえ達とも離れ離れになる門出だ・・・」(?)というセリフだけは知っております。

関所破りが極刑というのも凄い時代ですネ。


≪大戸関所≫ (おおどせきしょ)

標高:503m 比高:-
建築年代:寛永十八年
管理者:江戸幕府
場所:東吾妻町大字大戸
訪問日:2016年2月21日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
館跡までの所要時間:- 駐車場:無し 路駐
見どころ:特になし
注意事項:特になし
参考文献:現地説明板
付近の城址:手子丸城、仙人窟、羽田城など

大戸関所跡 (6)
大戸関所の東側に聳える手子丸城は、巨大な「一城別郭」で、真田VS北条の最前線であったと伝わる。全て見るなら三時間は覚悟すべし・・(汗)



Posted on 2016/02/24 Wed. 22:33 [edit]

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大笹関所 (吾妻郡嬬恋村)  

◆信州街道における信州口への関門◆

ようやくお盆休みとなった。

山城攻めに「オンシーズン」も「オフシーズン」も無いという豪傑の方々には頭が下がる。

蜘蛛の巣、ホーネットの襲撃、時々落下傘攻撃を仕掛ける蛇、藪蚊の逆襲・・・・そんな思いをして「藪茫々」「草茫々」なんて(笑)

小生は、夏場は「整備された史跡公園」「平地の居館跡」の探索が一番と思っているヘタレでございますw

今回ご案内するのは関所シリーズ第一弾の「大笹関所」(おおざさせきしょ)。

大笹関所跡 (1)

【立地】

長野原町から続く信州街道(長野街道)は、長野県境の鳥居峠を越えて上州街道と名前が変わるが、群馬県側の最終宿場町である大笹宿の東端に位置する。ここは吾妻川へ鹿之籠川(しかのろうがわ)が合流する所で、鹿之籠川が10m余の深い峡谷を造っている所を利用した立地で、信州口への関門である。

大笹関所跡 (6)
昨年移転されて元々あった場所に整備復元されている。

【関所の歴史と現在】

江戸時代、中山道高崎宿から、烏川沿いに遡って吾妻郡に入り、浅間山北麓を通って鳥居峠を越えて須坂方面(別名:大笹街道)、または上田方面に通じる街道を信州街道といった。信州街道は関東と北信濃を結ぶ重要な街道で、各所に関所が設けられた。大笹関所はその一つで、寛文二年(1662)幕府から許可され、沼田藩主真田伊賀守により建設された。
その後天和元年(1681)沼田藩は改易、明治の廃関まで幕府の所轄となる。

大笹関所跡 (3)
鹿之籠川に架かる刎橋(はねばし)は有事の際には切落とす仕掛けだったという。(図面は現地説明板を掲載)

大笹関所は、一反五畝八歩(約450坪)とされ、中央に白洲を、それに向かって改所(取調所)など設置され、周囲は土塀や木柵で限られ、それぞれに北門(正門)、東門が設けられた。
現在再現された門は、昭和三十一年、廃関後土屋源三郎氏の先祖が払下げ所蔵していたものを別の所に復元していたが、御関所橋の架け替え工事に伴い現地に移転・再現したものである。
※現地説明板より

大笹関所跡 (9)
正門だけじゃ淋しいですね。

≪大笹関所≫ (おおざさせきしょ) 
標高:945m 比高:-
場所:群馬県吾妻郡嬬恋村大笹
訪問日:2015年7月12日
お勧め度:★☆☆☆☆ 
城跡までの所要時間:-
駐車場有り
見どころ:門
参考文献:「信濃をめぐる境目の山城と館」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版) 
注意事項:道路脇なので通過して「あれっ?」と思ったら引き返そう。
付近の城跡:鎌原城、金毘羅山砦、西窪城など

【沼田真田藩改易後の家臣達の再就職として】

天和元年(1681)に沼田藩が改易されると、沼田真田家の家老鎌原縫殿(五千五百石余)は一転して二十俵二人扶持の大笹関所番となり、代々伝えて明治に至り現在も子孫が続いているという。
他に西窪氏、湯本氏、横谷氏等の家臣も交代で大笹関所番を務めたという。

藩主真田伊賀守信利の暴走を止められなかった家臣たちの支払った代償は高いものとなった訳で・・・・(汗)

大笹関所跡 (10)




Posted on 2015/08/13 Thu. 09:46 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

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