らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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苗木城 ② (岐阜県中津川市苗木)  

◆狭い土地を有効活用する建築工法~縣造(かけづくり)~◆

さて、お待ちかね?(誰も期待していない) 「苗木城探訪記その②」でございますw

小学生の遠足の作文のような拙い記事と写真に今しばらくお付き合いくださいませ・・・(笑)

苗木城 (62)
木曽物見の手前の南端に突き出した巨岩の上には物置小屋があった。この石垣は「切込石整層積み」です。覚えまして?(笑)

では、また見取図の拡大図で場所を確認しながら進みましょうか。

苗木城中枢部


【木曽物見~小屋仕切門~的場~本丸口門】

清水門から南東部分の帯郭には「木曽物見」と呼ばれる監視小屋があり、木曽口からの侵入を常に警戒していたと思われる。
、また、二の丸へ侵入した敵が本丸へ突入する最後の防御地であるため、帯郭を階段状の石垣で囲み更に小屋仕切門を置き厳重な警戒態勢を敷いている。

苗木城 (60)
木曽物見から木曽川を挟んだ対岸。

苗木城 (58)
雨に煙る中津川市街地方面。(左の建物は中津商高)

苗木城 (65)
帯郭を石垣で階段状にして大軍の通行を不可能にしている。ここの石垣は「打込石乱層積み」だ。

●「打込石乱層積み」って?

積石の形が不規則で、他の石垣と比べて大きい積石を使用しています。積石の表面を平らにして、積み上げてあります。

苗木城 (66)
拡大するとこんな感じ。

苗木城 (67)
でもね、最終の帯郭の石垣は「ノミ伐り加工整層積み」だったりする・・(笑)


●小屋仕切門

城の二の丸から南側の通路は崖沿いに石垣が築かえr塀が建てられていた。この仕切門の「仕切」の意味は、二の丸と本丸との境を意味しこの先は本丸となる。
門は屋根付きの二間×四間半の建物で、門の右側は小屋(物置)として利用されていた。

苗木城 (68)
仕切門のあった場所から南側の通路を見る。ここで攻城兵を遮断するには理想の場所です。

苗木城 (69)
小屋仕切門の物置小屋の跡。


【的場~千石井戸~具足~武器蔵】

小屋仕切門を越えるとようやく城の中枢部に入るのだが、螺旋階段のようになかなか本丸には辿り着けない構造と防御が待ち構えている。

●的場とその周辺

的場~千石井戸に向かうと、本丸を取り囲む高石垣に圧倒される。ここは作りこそコンパクトでも近世城郭なのだという事を改めて思い知らされるのだった・・・(汗)

苗木城 (72)
本丸を囲む城壁ともいえる石垣に固唾を飲む一瞬である。

苗木城 (85)
千石井戸を撮影するていぴす殿。本丸口門の背後の石垣は下部が「野面石乱層積み」と上部の「切込石整層積み」の組合せ。

苗木城 (74)
的場跡には突き当りに標的の盛り土も残存している。

苗木城 (75)
的場から見た千石井戸・本丸口門方面。

苗木城 (82)
城内の最高所にある千石井戸。どんな日照りでも枯れる事はなかったといい、今も満面の水を湛えている。

苗木城 (84)
余談だが、ここから見下ろす三の丸の大矢倉の石積みは美しい。

苗木城 (87)
本丸口門を登った先に「具足蔵」「武器蔵」が並列に並ぶ。

苗木城 (90)
武器蔵の通路から見上げた天主台の懸造(かけつくり)。京都の清水寺の舞台の構造と同じ建築手法。あの柱の上に建物があった。

苗木城 (98)
往時の懸造を再現したというが、巨石とのコントラストが絶妙である。ちなみに壁面を構成する石垣は「野面石乱層積み」である。


【笠置矢倉~玄関口門~馬洗岩】

武器蔵の東の突き当りの高台には笠置矢倉(かさぎやぐら)があった。常時は何も置かれていなかったらしいが、懸造で三層の建物だったらしい。名前の由来は、正面に笠置山が見えることからついたのだという。

苗木城 (100)
笠置矢倉から見た西方面。

苗木城 (107)
笠置矢倉方面から見た天主台周辺。

苗木城 (108)
本丸への最終の門の「玄関口門」があった場所。左下に武器蔵が見える。

苗木城 (113)
天守台の南側にある「馬洗岩」。まさかこの上で馬を洗うのは無理だが、白米伝説の実演場だったかもしれない。

通常は玄関口を通らないと天守建物には入れないが、馬洗岩のある南側は勝手口として機能していたようである。城主の滞在する居間と従者が控える次の間に台所が接続しているので、平時の使用人の出入り口だった可能性はある。ここの石積みも見事なので、裏口見学者には必見であろう。

苗木城 (114)
馬洗岩から本丸天守への通路。石垣の種類は「切込石整層積み」・・(しつこい・・笑)

苗木城 (115)
一瞬、迷路が突き当りとなる錯覚を起こす石垣。

●「切込石整層積み」とは?

石の形を調整して積み上げて作られています。積石の面はあまり加工されておらず、他のタイプの石垣と比べて積石が小さいものを使用しています。

苗木城 (117)
天守の台所から見た馬洗岩。この上に馬を乗せるのは至難の技であろう。

苗木城 (118)
裏口入学と言われようと、天守のてっぺんに登り詰めるこの一瞬がたまらないのである・・(笑)

●天守台

幕末まで存続した城持ち大名で、1万石クラスは遠山氏だけだったという。石高の多い大名でさえ、城の維持管理には多額の修繕費用が伴い、城が荒れ放題というのも珍しくなかった。松平氏時代の上田城なんて藩主屋敷以外は「烏の寝ぐら」とまで言われ、鬱蒼とした雑木林に変わり果てていたと伝わる。
遠山氏の苗木城は、明治維新まで建物も石垣もベストな状態に保たれていたというから、驚きである・・・(汗)

苗木城 (121)
高森山の頂上の巨岩でさえ、遠山氏の魔術にかかればご覧のとおりである。

苗木城 (124)
「お山の大将」の瞬間にトキメク・・・(笑)

苗木城 (122)
天守台の東端。何故か「千畳敷」の名前。名前だけでも広くあって欲しいという願いから?

苗木城 (123)
千畳敷にある景色の解説板。ここからも見えるが、天守台に登る前にこの解説版を理解してからお山の大将になろう(笑)

苗木城 (125)
この懸造(かけづくり)の上に天守建物があったというが、秘密基地じゃあるまいし、チョッとスリリング。(正面は城山大橋)

苗木城 (126)
天守台から見た東方面。遠山のお殿様が毎日眺めたであろう景色です

苗木城 (130)
天守台から南方面。「晴れじゃなくて残念かって?」 いやいや、小雨降る苗木城も風情があります・・(負け惜しみ・・・笑)

苗木城 (132)
本丸の居間部分。お山のてっぺんなので、城内も隅々まで見渡せます・・・といっても往時は建物の屋根ばっかりかもしれません。

苗木城 (133)
通常天守台へは、玄関口門から北→東へ廻り、本丸玄関から千畳敷に入り次の間に登るという念の入ったルートである。

苗木城 (135)
通常の見学コースは本丸玄関→千畳敷跡→木製階段→次ノ間→天守台。

苗木城 (139)
天守台の北側の本丸空間。ここの端には小屋が建っていてその直下には千石井戸と本丸口門がある。

苗木城 (143)
本丸広場から東下の的場を見下ろす。

苗木城 (144)
本丸広場より天守台方面。攻城兵がここまで辿り着ける確率はかなり低いと思われるが、どうであろうか。

苗木城 (146)
玄関口門跡。武器蔵から侵入した攻城兵は、ここを突破しないと本丸広場に入れない。

さあ、今宵も飽きてしまったので、ここまでにしたいと思います・・(笑)

あと何回分割すれば最終回になるのでしょうか・・・(汗)

秋の夜長は、気合が足りませぬ。

苗木城 (140)
本丸天守台の懸造(かけつくり)も凄いのだが、三の丸の大矢倉の孤高の迫力に魅せられている・・・(爆)

次回は三の丸との接続部分と嘗ての大手門と思われる駈門などをご紹介したいと思いますが、いつになるかしら・・・。
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Posted on 2017/09/19 Tue. 21:37 [edit]

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苗木城 ①(岐阜県中津川市苗木)  

◆岩山の巨岩と石垣との組合せが見事な山城◆

最近は、岩村城よりも苗木城のが人気が高いらしい。どちらも堅牢な石垣が組まれた山城なのだが、限られた狭いスペースで天然の巨岩を利用し縣造(かけづくり)という独自の建物の構築法は、「狭いながらも楽しい我が家」という庶民感覚に迎合したらしい(笑)

我ら信濃先方衆、日頃は土木構築物ばかり見ているので、久々の近世城郭の石垣は感動を新たにしてくれるので有難い。

苗木城 (165)
隅から隅まで見て回って史料館まで見学して3時間も滞在した苗木城。楽しかった・・(笑)

【立地・城主・城歴】

中津川市内を東西に流れ貫く木曽川の右岸、一段と高くそびえる高森山(432m)にある。木曽川から天主跡までの比高は約170mあり、自然の地形を有効に利用した山城である。

苗木城の築城時期については、一説に大永六年(1526)頃とされている。その後戦国の動乱の中で遠山氏は苗木城を追われますが、関ヶ原の戦いの後再び城主となり、以後明治維新まで十二代にわたり苗木城を治めた。

苗木城見取図全体
苗木城の建物配置図。明治の廃藩置県の時まで全て現存していたが、建物が払い下げられ解体されたという。残念な事である。

【遠山氏と苗木領】

中世の苗木領は現在の中津川市苗木・坂下・福岡・蛭川地区が含まれていたと思われる。鎌倉時代より地頭としてこの地を治めていた遠山氏は、戦国時代になると高森山(城山)に城を築き、織田氏・武田氏と縁戚関係を結び勢力を広げた。

本能寺の変の後、豊臣氏に従わなかった遠山氏は一時城を追われ、徳川氏に身を寄せた。関ヶ原の戦いに先立ち、家康より旧領奪還を命じられ、苗木城を取り戻し、この功績により苗木領一万石余を賜る。
これにより遠山氏は苗木領主として、初代友政から十二代友禄にわたり一度も国替えが無く、江戸時代を通してこの地を治めた。

苗木城 (3)
駐車場から竹門に入ると「切込石整層積み」という石垣に囲まれた足軽長屋の郭が現れる。

苗木城 (4)
足軽長屋跡。足軽が城に出仕する時は必ずこの場所に立ち寄る決まりになっていたという。

苗木城 (6)
「おお、あそこが天主台か・・・」足軽さんたちが毎日眺めた風景でも我々には感動ものであった。

苗木城 (13)
小里城もそうだったが、やたらと「マムシ注意」の看板。岐阜県の城にはそんなに多く生息しているのか?

苗木城 (14)
風吹門への通路の北側には天然の巨岩と「谷積み技法の石垣」の組合せが続く。「おら、ワクワクすっぞ!」(笑)

苗木城 (15)
石垣フェチにも人気の苗木城。全部で6Typeの石積みが観察できるそうな。

苗木城 (19)
長大な堀?と思いきや、後世に作業道として盛土されたんだね。我々は天邪鬼(へそ曲がり)なので、作業道経由で二の丸突入。


【二の丸~的場~不明門~清水門】

ここからは解説が面倒だし、写真をツラツラとアップするのが得策(ものぐさともいう)なので、当日我らが辿ったルートに沿ってみてみましょうか・・(笑)

苗木城二の丸付近
そうは言っても見取図が無いとどこなのか分かりませんよネ。

苗木城 (21)
風吹門と二の丸の接続部分の石垣を西下方面から見上げる。複雑な折れを伴う「切込石整層積み」という技法。惚れ惚れ(笑)

苗木城 (23)
二の丸から見上げた大門の石垣。大門と附属する建物が並んでいた。この石垣は「切込石整層積み」と呼ばれる。

苗木城 (24)
現在は通路のようになっている二の丸だが、往時は目一杯建物が林立していたようだ。

苗木城 (31)
別の角度(二の丸の西端、的場手前の住居跡)から見た本丸口方面。

この城には、的場(まとば)が二ヶ所あり、一つは本丸下の東側に、そしてもう一つは二の丸の端に位置する。日頃から軍事訓練を怠らなかったようである。

苗木城 (34)
二の丸端にある的場。この辺の石垣は最近修復されているようである。

苗木城 (37)
的場の石垣も違うタイプの2面で構成されている。

苗木城 (45)
不明門に続く岩場にも徹底して石積みが敷かれている。


●不明門跡(ふめいもん あかずもん)

苗木城の縄張りの南西隅の一段低いところにある門で、往時は二階建てだったという。二階部分は物置で床下となる一階部分は門であった。幅約一間の通用口の両側は石垣で、高さは最大で3.2mほどあるという。
普段は締め切られ忍びの門であったというが、城外に通じるルートは定かでは無いという。

苗木城 (48)
両側を石垣で囲んでいる不明門。

苗木城 (50)
不明門とその周辺の石垣は「切込石整層積み」タイプだ。

●清水門(しみずもん)・八大龍王

不明門から東へ進むと、城の南口である清水門に接続する。ここは城内を仕切る門で、門の北側の岩場には清水が湧き出ていてどんな時も枯れる事が無く、水場として利用されていたという。
また門の北側には遠山家の守り神とされる八大龍王の祠が明治になってこの場所に移設されたという。

苗木城 (54)
城内を東に進むと清水門跡と八大龍王の祠。

苗木城 (56)
正面から見た八大龍王の祠。

そろそろ飽きてきたので、続きは「苗木城②」で・・・(笑)

また写真を並べるだけの記事なので、あまり期待しないでくださいネ(爆)










Posted on 2017/09/17 Sun. 14:26 [edit]

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小里城山城 (小里城 岐阜県瑞浪市稲津町)  

◆未完に終わった不等辺六角形の天主台に聳える望楼◆

瑞浪市に所在する小里城(おりじょう)は、正確には「小里古城」・「小里新城」・「小里城山城(または本城)」の三ヶ所が別々に存在している。

今回我々信濃先方衆が「美濃弾丸ツアー」で訪問したのは山上に天主台を持つ「小里城山城」。美濃でどうしても見たかった城の一つであり、ようやく辿り着けた。

小里城 (1)
この日のラストに比高177mにチャレンジとは我々らしいチョイスで「足が高鳴る瞬間」である・・(笑)

【立地】

小里川が木曽川と合流する瑞浪市の中心部から約3km南にあり、山岡の渓谷を流れてきた小里川が小里盆地に出る手前の独立峰に位置する。小里川の谷に沿った道を東に向かえば明智や岩村方面に通じ、瑞浪と東美濃の各地に繋がる交通・軍事上の要衝でもある。

小里城 (3)
上り坂を進むと見事な石組みがお出迎えしてくれる。

小里城 (100)
西側の奥にも石組みが見られる。

小里城 (6)
後で見ようと思って忘れてしまった西側の段郭方面。

【城主・城歴】

築城時期については、天文三年(1534)に小里忠光によって築城され、以後小里氏の居城となったと伝えられるが、「小里家晋」には、天文八年(1511)生まれの光忠が22歳の時に居住を小里に定めた旨の記載があることから、天文元年(1532)の事とも考えられる。

戦国時代末期の天正二年(1574)には織田信長が改修を命じ、池田恒興を置いて対武田戦の最前線として重要な役割を担ったが、その改修工事の内容は明らかではない。その後、小里氏は一時期小里城を退去するものの、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後、再び小里城を居城とし、山麓部の御殿場跡を陣屋・居館とするために改修を施したものとみられる。

現在も本丸曲輪(山頂部)ならびに御殿場跡(山麓部)には曲輪(平坦面)や石垣などの遺構を確認出来る市内唯一の近世城郭である。御殿場跡が陣屋・居館として使用されたのは20年程度という短い期間であったが、それ故に江戸時代初頭の陣屋・居館の姿をよくとどめている。
なお、山頂部の石組みや石垣が築かれた時期は明らかでなく、今後の調査・解明が期待される。

※以上、小里城顕彰会・瑞浪市観光協会のパンフレットより引用

小里城 (99)
縄張図を描くのも面倒なので、この現地案内図を引用させていただきますネ。

【城跡】

城の主要部分は登山口に近い御殿場跡の部分と城山の山頂部分、御殿場跡の東側の尾根の東砦跡の三ヶ所から構成されている。また、御殿場跡と小里川の間の山之田地籍には城下町の存在が考えられる。

●御殿場の遺構

伝大手門跡

小里城 (8)

御殿場跡の中でも最も規模の大きい中段の曲輪の北側に設けられた虎口(入口)で、下段の曲輪とを併せて桝形形状を呈している。両側には高さ2m程度の石垣を築いており、石垣には主に自然石を用いていが、、隅石には矢穴を穿った割石を用いている。向かって右側(西側)の石垣は修復がなされているようであるが、左側(東側)の石垣はほぼ原形をとどめている。

小里城 (20)
修復された西側の石垣。

小里城 (19)
往時の原型を留めているという東側の石垣。

●居館跡

御殿場跡は大きく三段の曲輪(郭)からなり、最も上段の曲輪と中段の曲輪では発掘調査が行われ建物の礎石や石組みの溝が確認されている(発掘調査は平成13年~17年に実施)
また、発掘調査では江戸時代初期(17世紀初頭)の陶磁器片や金属製品等が多数出土しており、これらは光親が旧領を回復した慶長五年(1600)から光重が没する元和九年(1623)にかけて使用されたものと考えられる。

小里城 (21)
最上段の御殿場跡。

小里城 (23)
御殿跡の石組みの井戸跡。井戸跡は中段の曲輪にもあります。

小里城 (28)
そういえば、このような石碑がお好きなブロガーさんもいましたよね。

小里城 (7)
登り口からみた曲輪3の切岸。

●東砦跡の遺構

御殿場跡の東側の尾根部においても、近年、小規模ながら曲輪や堀切などが確認されている。発掘調査が行われていない為、いつ頃築かれたものかは明らかではないが、築城時から戦国時代にかけてのものと推測されている。

小里城 (12)
東尾根に築かれた砦跡。看板は中心の広めの郭跡に立つ。

小里城 (18)
御殿場跡と東砦の間には馬出のような広い空間がある。

●本丸曲輪(山頂部)の遺構

「なんかオレ、ワクワクすっゾー」(野沢雅子のドラゴンボール風に・・・笑)

我々は険しい山城がお似合いである・・・・その使命感がある・・・・比高177mは序の口であろうか・・・・(笑)

小里城 (31)
途中の巨岩を乗り越えて進む。左後方に山頂部が見えるが、結構遠いなあー・・(汗)

小里城 (33)
尾根の長さに閉口しつつもなんとか大手曲輪に到着。

天主台

山頂部の平坦面は本丸曲輪などと呼ばれ、その最高部には天主台・桝形などと呼ばれる不等辺多角形の石組みが残され、周辺には石材を割るための矢穴が彫られた石材が散乱している。
この石組みは、これまで安土城との類似性が指摘され、安土城天主の試作であるともいわれているが、後世の修復を受けているため、築かれた時期や目的については明らかではなく、今後の解明が期待される。

小里城 (49)
北西部分から見た天主台。R部分で角度を変えている。

小里城 (50)
穴蔵式天主台の北側。

小里城 (53)
天主台の北側正面。

後日、家に帰ってよくよくパンフレットの文言を読むと(上記説明分の河川部分)「後世の修復を受けている」とあり、当日は感動のあまりろくに読まなかった天主台の前の説明板には、天主台入口に建つ石板の文字が転記されていたのだ。
そこには、
小里城 (58)

「・・・草にうずもれて影もなかったものを村民有志は本城の清掃枡型の復元を思い立った。」と書いてあるのだ。この石碑は昭和二十九年に建てられているので、おそらくその時の復元らしい。

てっきり往時の石垣が風雪に耐えて今日まで残っていたのだと思っていたので、少し落胆した・・・・(汗)

復元前の状態がどの程度だったかは知る由もない。何の資料や図面をもとに復元したのだろうか?

不等辺多角形(外側は六角形、内側は五角形という変則型)の石組みは安土城を意識して計算されて再現したのだろうか?

小里城 (63)
天主台の東側に鎮座する城山神社。

小里城 (71)
西側の天主台。内側、外側とも曲げている。

小里城 (73)
天主台の南側の処理。外の石垣はRを付けて面を分けているが内側は直線だ。

小里城 (88)
上の写真を南側の正面から見るとかなりの角度で多面形を形成しているのが分かる。これも後世の造作だろうか?

村人の熱き心で復元された石組みを猜疑の目で見るのは申し訳ない。天主台の石垣は間違いなく存在していて、四百年の風雪により崩れたのは事実だとして、せめて復元前の状況図は無いものだろうか・・・(汗)

これは憶測だが、破城で石垣が取り崩された、というのは考えられないのだろうか?

小里城 (55)
北東隅の石組みは天然の巨岩を利用したものである。

本丸周辺の曲輪と石垣、散乱する石材

山頂部には本丸曲輪以外にも複数の曲輪(平坦面)が確認されており、各所に石垣がのこされている。いじれも自然石に近い石材を積み上げているが、中には矢穴が穿たれた石材が確認でき、山頂部で割り出されたものとみられる。

小里城 (57)
東へ続く平坦地。

小里城 (66)
本丸曲輪から見下ろした二の曲輪

小里城 (75)
二の曲輪には、石材が掘り出され加工を待っていたようだが、途中で放棄されたのだろう。

小里城 (81)
麓から石を運び上げるよりは山上で原材料を調達するのが楽だが、その労力は凄まじいものがある。

小里城 (46)
大手曲輪を上ると二の曲輪(現地説明板)を経て虎口となる。

小里城 (47)
虎口より見下ろした二の曲輪。

小里城 (94)
大手曲輪を守る石垣。往時のものであろうか。

織田信長は、長篠の戦いで武田勝頼を破ると直ちに岩村城奪還作戦に移り、攻撃群の総大将としての信忠の本陣として、また信長の宿所となるように、信長が自らが指図して工事をしたという。(「濃州小里記」「小里家譜」)
しかし、岩村城が天正三年(1575)12月21日に落城すると、小里城の改修工事はその必要が無くなり打ち切られたという。

小里城 (96)
山頂から見た小里盆地・瑞浪市方面。

打倒武田と、そしてその先にある天下一統の志を持った信長が、この小里城にどのような望楼を建ててその意思を示そうとしたのか、考えるだけでワクワクすっゾ!(笑)

まあ、現地の現場監督を命じられた池田恒興氏の焦りと恐怖心もハンパなかったでしょうネ。

皆さんも是非ワクワクしながら、その目で見て確かめて観てくださいネ。

≪小里城山城≫ (おりじょうやまじょう 小里城)

標高:404m 比高:177m
築城年代:不明
築城・居住者:小里氏
場所:岐阜県瑞浪市稲津町小里城山
攻城日:2017年7月30日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
本丸までの所要時間:御殿場跡より20分 駐車場:あり
見どころ:不等辺多角形の天主台、麓の居館跡など
注意事項:特になし
参考書籍:瑞浪市観光協会パンフレット
付近の城址:小里古城、小里新城、鶴ヶ城など
SpecialThanks:ていぴす様

小里城 (83)


Posted on 2017/09/02 Sat. 16:01 [edit]

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岩村城 2017再訪記  

◆10年ぶりに訪れた境目の堅固な山城に感動が蘇る‥◆

先日敢行した「美濃の山城弾丸ツアー」の当初のリストには無くて、相方のていぴす殿が未訪だというので急遽加えられた岩村城。

小生は約10年前の1月に、大坂への出張の帰りに立ち寄った場所である。

みぞれ交じりの雪に覆われた堅固な石垣の城の幻想的な美しさに囚われの身となり、得体のしれない邪気にも取り憑かれた因縁の城でもあった・・・(汗)

岩村城2 (1)
復元された藩邸跡の城門と太鼓櫓がお出迎え

岩村城の探訪記は「美濃の城」の「岩邑城①~岩邑城⑤」に連載しているので、今回は写真と前回と違った視点で見た場所を記載してみたいと思う。

岩村城2 (4)
ではこの案内図をご参考に・・・。

岩村城2 (6)
ピンボケの藤坂。前回訪問時の事件発生場所。やはり何か見えない力で空間が歪んでいる・・・(汗)

岩村城2 (7)
攻城兵にクランクを強いる初門。

岩村城2 (9)
一の門。攻城兵を高石垣から狙い撃ちする位置にあるが、何かチョッと変だなあー。

岩村城2 (11)
良く見れば、二段の高石垣が孕んで崩落しそうになっている。五百年の歳月に耐えてきたが、限界なのか?

【車で本丸まで乗り入れできる事への賛否】

小生も、「ならば楽して山城見物にあやかりたい・・」という不埒な願望に苛まれているが、岩村城の本丸に車で乗り入れ出来る事は今回の下調べで初めて知った。
足弱のご老人や身体障がい者への配慮であったとしても、遺構を破壊してまで本丸への車道の開通が必要であったか?というのは極めて疑問である。

観光客の中には犬の散歩をさせている場違いな方もおるし、全く歴史や城に興味のない子供が親にブーイングしている光景も目にした。竹田城と同じく観光地化が著しいのだと実感するが、このままでは、六段壁の崩落も時間の問題であろうか・・・。

岩村城2 (14)
思いっきりヘアピンカーブさせた通路を塞ぐ「土岐門」。この門の石垣は年代の違いを物語っている。

●畳橋・大手門・三重櫓

岩村城の最も防御が厳重な箇所だ。天主の代りとなった望楼の三重層櫓はここに置かれ、畳橋は木製で有事の際には破却され攻城兵がキルゾーンの阿鼻叫喚地獄に陥るのである。

岩村城2 (15)
大手門の石垣。ここもかなり傷みがひどく修復しなけれなならないようである。

岩村城2 (16)
大手門と三重櫓の石垣。

岩村城2 (17)
畳橋が架かっていた場所。

岩村城2 (19)
晩秋や冬の趣も良いが、時代の違う苔むした石垣を鑑賞できる夏も良いと思う。

岩村城2 (20)
夏場の石垣も悪くないねえ・・(笑)

●謎の三層張りぼて櫓?

車で岩村城に向かっているときに、山裾から岩村城址に何やら怪しい三層の櫓を見た。目の錯覚だろう気にしなかったが、まさか「ここで逢ったが百年目」になるとは思わなかった・・・(笑)

岩村城2 (22)
秀吉の小田原城攻めの石垣城(一夜城)を彷彿とさせる「張りぼて」の三層櫓。

岩村城2 (25)
いったい、何年前に作られたの?

岩村城2 (26)
けが人が出る前に撤去を希望します・・・(汗)

●名所「六段壁」も窮地に・・・

深刻なのは、「六段壁」の石垣も補修が必要になっている現状であろうか。
五百年の歳月の劣化であれば致し方ないが、押し寄せる観光客の無用な登壇によるものだとすれば人的災害であろう。
早急な復帰を望みたい。

岩村城2 (34)
真っ赤なスコーンが痛々しいし、史跡にはそぐわないものである。

岩村城2 (36)
「六段壁」は、最上段の石垣を支える為の土留めとして拡張され続け、六段になったのだという。

●美しき城の中枢部

埋門(うずみもん)を多用する本郭周辺は岩村城独特の構築であろう。武田支配下の秋山虎繁時代の岩村城の縄張りは近代城郭への改修により上書きされてしまい見る影も無いが本丸の位置は代々踏襲されたものと推測される。

岩村城2 (38)
二の丸門。石垣が強力な防御構造であることを思い知る瞬間である。

岩村城2 (41)
二の丸と本丸の接続部分。

岩村城2 (47)
本丸から見た埋門の枡形。

岩村城2 (54)
岩村城の本丸。降って湧いた観光客の切れ間をぬっての撮影。

岩村城2 (58)
岩村城の本丸その2。

●美しき石垣の山城

とかく忘れがちなのは、この城が山城であることだ。これだけの高所に石を運び石垣を造作するのはかなりの難作業であったと思われる。

岩村城2 (63)
六段壁に繋がる美しい二の丸の側壁。

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出丸(駐車場)側の壁面を形成する二段の美しい石垣。

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出丸側から撮影した本丸の側壁。


●中世山城の遺構

秋山時代の中世の山城の遺構を求めて、我々は出丸の隣の南曲輪に突入した。
石垣に魅了された我々ではあるが、土の城探索となると何故か嬉しくなる・・・(笑)

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南曲輪の最初の堀切跡。

岩村城2 (79)
南曲輪を探索するも藪が酷く写真は無理っぽい。

●再訪によせて

「境目の城」・・・我々はその言葉の響きに、その時代の背景を思い起こしてみる。

織田方との最前線にあった武田方の近畿方面作戦司令官「秋山虎繁」はここで何を想い、そして散ったのであろうか・・。

岩村城2 (80)

さほど険しい山城ではありませんので、坂道と石垣を楽しみながら散策して見て欲しいお勧めの山城ですw

Posted on 2017/08/27 Sun. 22:34 [edit]

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小幡陣屋 (別名:楽山園 群馬県甘楽郡甘楽町)  

◆信長公の次男信雄が非凡なる才能を示した美しい大名庭園◆

偉大な親父を持った息子の苦悩なんぞ、他人には分かる訳がない。

その親父が後継者として指名した長男ともどもあっけなく討死してしまったら、本家を継ぐと言いだしたものの心の準備など無理であろう。御神輿に担がれたまでは良かったが、百戦錬磨の妖怪たちに翻弄され坂道を転がり落ちてしまった。

今回ご案内するのは、土壇場で踏みとどまり家名を明治維新まで存続させた織田信雄の作と伝わる「楽山園」(らくさんえん)。

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楽山園の注文。高さ7m、門柱間4.5mで、屋敷の公式な出入り口であったという。

【立地】

信濃との国境の秩父山地から東へ派生する関東山地の稲含山を源流とする雄川(おがわ)が、富岡市で鏑川と合流する3km手前の小幡地区の河岸段丘上に位置する。陣屋の西側は雄川を挟んで紅葉山があり屏風の役目となっている。
江戸時代初期の築城で、小幡藩の藩邸として行政上の拠点としての機能なので要害性はあまり考慮していないようだ。

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中門を内側より撮影。意外と「門フェチ」だったりする・・(笑) 門の内側は桝形。

【藩邸とその周辺の構築物】 

建物は現存していませんが、藩邸としてある程度の軍事的な防御機能はキチンと施してあり、有事の際に備えています。といっても一時的な抵抗の為のものでしょうか。
それではツラツラと写真紹介しましょうか・・・(笑)

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中門の枡形を抜けて分岐点①。庭園よりもこの石垣と土塁にどうしても目が向く。

全体図①
パンフレットからの全体図。結構広い庭園なので、この図に基づいて掲載してみましょう。


元図①
入口の中門とその付近。

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西側より見た拾九間長屋。藩邸の使用人たちの居住地。現在は事務所と資料館になっている。


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この日の午前中に雨天決行して登った小幡氏の居城だった国峯城が背後に見える。ってか何で餅つき大会?

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庭よりもこのアングルに萌える・・(笑)

元図②
参考にしてください・・・

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北裏門。出口専用なのでご注意。

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北隅には作事小屋跡。

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分岐②から見た御殿(藩邸)方面。背後中央の山は国峯城(しつこい・・笑)

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藩邸北側の区画。

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藩邸跡(御殿)。奥に見える建物は「梅の茶屋」

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桶屋長屋から見た藩邸跡と庭門。中央奥の山城は「●●城」です・・・ハイ、正解ですw

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金明水井戸とその周辺。

【楽山園について】 ※甘楽町作製のパンフレットより引用

江戸時代初期に織田氏によって作られた小幡藩邸の庭園。池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の借景庭園で、「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園と位置付けられ、京都の桂離宮と同じ特色がある。

元図③
チョッと見づらいですが、ご参考までに。

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南東から見た昆明池を中心とした庭園。

「景石」の置かれた池を中心として、「中島」や「築山」を築いて起伏のある地形を造りだし、「梅の茶屋」や全国的にも珍しい五角形の形状をした「腰掛茶屋」など複数の茶屋を配し、それらを巡る園路にも工夫を凝らしています。

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梅の茶屋から見た庭園。

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梅の茶屋から見た五角形の腰掛茶屋。織田一族は多角形が好きなんだ。

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梅の茶屋から見た南東庭園方面。

借景庭園としても秀逸で、庭園の西側にある雄川(おがわ)を挟んで紅葉山、南方の連石山、熊倉山などの山並みを借景として取り込み、豊かな広がりを演出している空間構成は、「庭園美」の極みと言えます。

さらに、複数の茶屋を配していることから。「織田氏を茶事」との関連も深く伺うことができ、歴史的・文化的にも価値のある庭園です。

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背後を流れる雄川とその背景。残念ながら雨天の為「借景」は一部のみ。

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梅の茶屋。詫び寂びが分かる年頃になりたい・・・(笑)

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梅の茶屋の内部はこんな感じ。

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南東庭園の築山と泉水(せんすい)

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南東庭園の築山の上から見た風景。「借景」とは背後の山を借りたこのような構成をいうのであろうか。

楽山園という名前の由来は、「知者(ちしゃ)ハ水ヲ楽シミ、仁者(じんじゃ)ハ山ヲ楽シム」という「論語」の故事から名付けられたといわれています。群馬県内に唯一存在する貴重な大名庭園で、国の名勝に指定されています。
(※引用終わり)

≪小幡陣屋≫ (おばたじんや 楽山園)

標高:210m 比高:-m
築城年代:江戸時代初期
築城・居住者:織田氏
場所:群馬県甘楽郡甘楽町小幡648-2
攻城日:2017年8月15日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
館跡までの所要時間:- 駐車場:無料 入園料:300円
見どころ:庭園、藩邸跡など
注意事項:特になし
参考書籍:甘楽町パンフレットなど
付近の城址:国峯城、内匠城、八幡山砦など
SpecialThanks:清之介様(ブログ情報を参考にさせていただきました)⇒そよ風訪城日記

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史料館に展示してある復元模型。



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拾九間長屋(資料館)の小幡藩初代藩主織田信雄公の木造。信長公の文化人としての才能の血を受け継いだのであろう。

Posted on 2017/08/20 Sun. 11:31 [edit]

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