らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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若神子城 古城/若神子城 南城 (北杜市須玉町)  

◆僅かな遺構と雰囲気だけが残る北条氏の本陣址◆

本日はピーカンの天気だったが、昨晩は新年会で飲み過ぎたし他国へ攻め込む予定も無かったので、一日中グダグダしていた~(汗)

ツイッターを覗くと雪無き地方の城攻めを堪能されている方も多く「羨ましいなあ・・・・・・・」

んで、本日ご案内するのは前回の続きとなる若神子城の「古城(大城)」と「南城」。

若神子城(北杜市) (1)
「須玉町ふるさと公園」として整備された古城址。確かに公園だった・・・。

【古城】

立地や城歴は前回記述した若神子城 北城をご参照下さい。

ちなみに、公園の入口の看板には以下の記載がある。

若神子城は「古城」あるいは「大城」と呼ばれる遺構を中心に東に北城、湯沢の西に南城の三ヶ所からなる山城の総称である。連郭式と呼ばれる中世の古い形態を残す山城で、新羅三郎義光によって築かれたと云い伝えられている。(中略)・・

若神子城見取図

天正十年(1582)武田氏滅亡後、信州から侵攻した北条氏直の相模勢と家康が率いる徳川勢が対峙した時、古城に篭った北条勢が築構した薬研堀が主郭部から二ヶ所、発掘によって検出された。さらに主郭部の東端から厚く焦土が堆積した址が発見され、南橋からは見張り台の跡と思われる柱穴と堀方も検出された。
往時、塩の道ならぬ「のろしの道」の情報、通信拠点としての若神子城に、つるべ式狼煙台を復元し、戦国の情報伝達を今に伝え、生きた歴史教育の一助になることを願います。

若神子城(北杜市) (4)
本当に公園なんだ・・・・

若神子城(北杜市) (6)
どうしても公園なんだ・・・・・

●古城の城跡

明治年間に発生した若神子の大火の後、大量の壁土の採集の為に城跡は破壊され、現在の地形はその跡を公園したものだという。公園整備の区域外の先端部(南側)も至る所に凹凸のある地形が残され、城跡の縄張りがみえにくくなっていて、往古の遺構もとらえられない状態である。

若神子城(北杜市) (9)
公園内に保存展示されている薬研堀の跡。

町の公園化に先立って行われた発掘調査によると、尾根の中央部に虎口を伴う堀跡と柱穴群とその南に長さ約10mほどの薬研堀(やげんぼり)が検出され、この堀は公園内に芝を張って残されている。

※薬研堀(やげんぼり):断面がV字形をした漢方薬の薬種を粉砕する薬研(やげん)という道具に似ているのでその名がある。

若神子城(北杜市) (11)
長さ10m、巾1m、深さ1.2mの薬研掘?? 子供の砂遊びじゃあるまいし、こんなハンパな工事を北条と認定するか?

残念ながら、公園化された古城に当時の面影を追い求めるのは無理がある。公園の東端に再現された狼煙台も「ロード オブ ザ・リング」の最終章の狼煙連携場面を彷彿とさせるような建物で、何を根拠に設計されたのか疑問点ばかりである。

若神子城(北杜市) (19)
現在は老朽化が酷く建物内には立ち入り禁止である。

公園の南側は土塁や空堀の一部が残り、往時の雰囲気が若干感じられるが、果たしてどこまでが遺構なのか判断が出来ない。

若神子城(北杜市) (33)
狼煙台の南側の堀跡。

若神子城(北杜市) (25)
土塁を伴う削平地。

若神子城(北杜市) (28)
宿借岩は虎口だったのであろう。

若神子城(北杜市) (29)
さすがにこの石積みは後世のものかと・・・

僅か二ヶ月余りの本陣とはいえ、北条さんちの陣城の遺構が残る場所を、土石採集で失った事は無念である。
氏直さんがロケーションの良さからこの地を本陣とした事には納得出来る思いではありますが、物見遊山じゃないので、タヌキオヤジとの決戦に望む陣地としてどうかといえば・・。

若神子城(北杜市) (20)
さりとて敵陣の様子が遠望できる場所でございます。

若神子城北城 (49)
このような看板に見覚えがあろうかと・・・。

【南城】

昭和57年に無届の土砂採集工事により遺跡のほとんどが失われたという。東斜面には少なくとも一本の竪掘があり、台地上には中央に土橋を伴う空堀によって区画されたふたつの郭が工事以前に確認されている。(定本山梨の城)

若神子城南城 (3)
今は法徳寺という宗教法人が建つ。

●南城の城跡

かつてあった標柱すらも残らず、ただただお寺さんである。
失われたものは戻らないが、残念な仕打ちをしたものである。

若神子南城①
東側に残る土手跡。ここに標柱があったというが、何も確認出来なかった(汗)

若神子城南城 (6)
ロケーションの良さは最高である。

若神子城南城 (7)
500年前も富士山が事の顛末を見ていたのであろうか。

御坂峠に前代未聞の巨大城郭を築城し若神子城に本陣を置き、戦局を圧倒的に有利にすすめたはずの北条さん、どこで歯車が狂ったのでしょうか・・。
少しずつ解明していけたら・・なんて思ってます。


≪若神子城 古城/南城≫ (わかみこじょう こじょう みなみじょう)

古城 標高:613m 比高:68m 南城 標高:610m 比高:90m
築城年代:不明 改修年代:天正十年
築城・居住者:新羅義光・義清 武田氏 北条氏直
場所:山梨県北杜市須玉町
攻城日:2015年1月11日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:-分 
見どころ:
注意事項:
駐車場:公園及びお寺の駐車場を借用
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著) 
付近の城址:谷戸城、古宮城、旭山砦など

若神子城南城 (9)
東側の崖下より見た南城。









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Posted on 2015/01/24 Sat. 23:25 [edit]

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若神子城 北城 (北杜市須玉町)  

◆新府城の徳川軍と対峙した北条氏直の未完の本陣◆

二年前の10月に訪問した若神子城(わかみこじょう)=改変を受け公園化された古城という認識であったが、浸食された谷を隔てた北と南にも陣城跡があったとは知らず不勉強を恥じた。

そんでもってようやく今回訪問する事が出来た。

若神子北城遠景②
甲川と西川の合流地点(南城の東麓)から見た若神子城の古城と北城。運転中の撮影は危険です!(笑)

【立地】

旭山砦の約5.5km南で、須玉川、甲川、西川によって浸食された丘陵台地の尾根先にあり、遠く甲府盆地から富士山まで見渡せる絶好のロケーション。古来より逸見路と呼ばれる交通の要衝である。

若神子城北城 (45)
城域入口の朽ち果てた標柱には「若神子城(北城 大城)址」とある。あと何年もつだろうか。

【城主・城歴】

「甲斐国誌」に「若神子(若神子村)多麻ノ庄に属ス 天正陣の八月ヨリ北条氏直本陣ヲ置キシ処ナリ・・・・四達要枢今モ此筋ノ者陰ナリ逸見路ノ駅役ヲモ勤ム 相伝フ新羅三郎義光ノ城蹟也ト云(本村正覚寺ニ義光義清ノ碑子ヲ置ク)村西ノ山上ニ旧塁三所アリ 中央ヲ大城ト称ス 北ニ西川廻リ南ニ湯渓ソノ後ハ黒沢村蔵原村ヘ続キ麓を辰ノ口と云 又西河ノ北正覚寺ノ後山ニ一所アリ 其東北ハ籠手指坂(こてさしざか)ナリ 湯沢ノ南鯨川ノ北ニモ一所 下村ノ上ニモ一所在リ 何レモ山上広ク険ニ奇リ涅塁処々ニ存シタリ 近隣ニ大蔵小倉蔵原ト云村名存シ稲倉ハ穴山村枝ノ名ニ有リ皆屯倉ノ遺址ニシテ上代公庁ノ建シ処ナルベシ・・・・・東鑑ニ逸見山ノ館ト記スルモ居城ノ趣ニ聞エタリ 谷戸ハ要害ノ城壁ニシテ居館ハ此処ナラン・・・・」とある。

まあ、読む気にはならないでしょう(笑)

若神子城 北城見取図①
切岸と土塁のみの未完の城。

ざっと訳すと、北条氏直が天正壬午の乱で本陣を置いた場所で、三ヶ所の陣城の跡があるが、その昔は新羅義光・義清親子(甲斐源氏の始祖)の城跡で逸見路という交通の要衝でもあった。谷戸城の平時における居館でもあったという。

こんな感じかなあ?(汗)

若神子城北城 (40)
テニスコートの南側のグランド脇には巨大な土塁が残る。

若神子城北城 (3)
土塁の上には櫓台のスペースを持つ場所が連結してあるので城門或いは虎口があったと思われる。

【城跡】

北の土塁から南の土塁まで約350m、東西は75m~100mの広大な陣城。未完で放置されており城内もなんの変哲もない荒れ地である。
東側は切岸のみで、西側は巾10mの帯郭が取り巻いている。おそらく横堀を巡らす前段階の土木工事の跡かもしれない。西斜面側に対して防御を強化しているのは、古城との崖縁を信玄時代の軍用路(棒道)が通過している為であろう。

若神子城北城 (15)
広いだけで楽しくない城域・・(笑)

若神子城北城 (17)
西側の土塁跡。人工的な窪地(凹み地)があるが近年のものか判断出来ない。

若神子城北城 (27)
果てしなく続く城域に飽きてくる・・(汗)

南端の土塁を探し求めて彷徨うのだが、背丈程もあるススキ(?)に阻まれ位置感覚に苦しむ。
低い土塁と虎口に隣接する秋葉社を発見して安堵する・・(笑)

若神子城北城 (29)
秋葉社と背後の土塁。中央が虎口になっている。大手口はこの方面であろうか。

若神子城北城 (34)
秋葉社のある場所も削平が中途半端で終わり傾斜したままである。

若神子城北城 (35)
嘗ては耕作地だったようだが、今では休耕地となり荒れ放題。それほどの改変も無かったのかもしれない。

若神子城北城 (38)
城域の東側。林道が走る脇の斜面は切岸の加工のみである。

まあ、確かに四万とも二万とも伝わる北条さんの兵士を駐屯させるには、これぐらいの広さでも足りず、古城や南城も併せてようやく収まったのでしょう。

これだけの大部隊を移動させるには兵站補給を考えるのが普通で、万が一に備えて二次三次の補給路も想定するのが当たり前ですが、北条さんちにはその常識が無かった・・・(笑)

北条さんの合戦に対する根本的な過ちは、「勝負に対する真剣さが欠けている」・・・このことであった・・・・・(汗)

若神子北城遠景①
清里ラインの南側からみた若神子城の三拠点。

≪若神子城 北城≫ (わかみこじょう きたじょう)

標高:613m 比高:68m
築城年代:不明 改修年代:天正十年
築城・居住者:新羅義光・義清 北条氏直
場所:山梨県北杜市須玉町
攻城日:2015年1月11日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:-分 
見どころ:北側土塁の上の櫓台、南大手の虎口、周囲の切岸など
注意事項:テニスクラブに隣接しているので宿泊・日帰りの一般ビジターの方に迷惑が無いように。
駐車場:グランド脇の駐車場を借用
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著) 
付近の城址:谷戸城、古宮城、旭山砦など

若神子城北城 (47)
南側の大手から登るのもアリかと・・・。



Posted on 2015/01/20 Tue. 21:45 [edit]

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旭山砦 (朝日山之塁 北杜市高根町村山)  

◆甲斐侵攻を企てた北条氏直の陣城◆

甲斐の国といえば、戦国時代の早くから武田氏により統一された為に争乱とは無縁だったように思われるが、天正十年三月に織田信長による甲州征伐で武田が滅亡し、その直後の六月に本能寺で信長が斃れると、武田旧領支配を巡り北条・徳川・上杉の三大勢力が衝突。いわゆる「天正壬午の乱」である。

朝日山之累 (2)
北杜市高根体育館前の道路を西へ進むと標柱がありこの林道を北へ。

織田家臣のうちで本能寺の変を知った上野の滝川一益、信濃の森長可はいち早く脱出したが、甲斐の河尻秀隆は逃げる事が出来ず蜂起した一揆勢に捕縛され甲府岩窪で処刑されてしまう。

徳川家康はこの機に甲府へ軍を進めて一揆勢を制圧。勝頼が築城・放棄した韮崎の新府城を確保・修築するよう命じる一方で、三河からも伊那谷経由で軍を進め信濃へ侵入。諏訪頼忠に服従を迫るが拒否され、諏訪攻め開始。

一方、北条氏直は四万とも云われる大軍を率いて上州から信濃の佐久へ侵入。家康の命を受けた依田信蕃がゲリラ戦で抵抗。氏直は大道寺政繁に掃討を命じ、自らは北条への帰属を申し出ていた諏訪頼忠を救援すべく大門峠を越えて徳川軍と対峙。

朝日山之累 (3)
林道を進むと「ウォーキングコース健康②」の看板があるのでここで下馬して道を行くと城域になる。

家康の後ろ盾で松本深志に復帰した小笠原貞慶だが、徳川軍の深志城への進駐を嫌い北条方に寝返ってしまう。
これにより退路を断たれる状況となった徳川軍は諏訪攻めを断念し北条軍にの追撃を受けながら辛うじて能見城・新府城まで撤退を完了した。

旭山砦見取図(北杜市)
城域の真ん中を遊歩道が貫通しているのが残念だが、綺麗に整備されており遺構の保存状態は良い。

一方の北条氏直は若神子城を修築してここに本陣を置き、信州峠の抑えとして斑山の尾根先の獅子吼城(ししくじょう)、谷戸城も改修して兵を入れ徳川軍との決戦に備えた。
この時に陣城として「朝日山之塁」が造成されたという。

朝日山之累 (6)
Dの虎口から見た東側の横堀。

【立地】

八ヶ岳山麓の裾野を流れる須玉川の左岸で西川との間にある旭山(911.5m)。須玉川に対しては河岸段丘となり落差を持ち、西2.5kmには谷戸城があり、対岸の津金には古宮城がある。

朝日山之累 (11)
虎口Dから見た西側の横堀。途中から切岸を伴う平削地となり造成が途中で終わった事を物語っている。

【城主・城歴】

甲斐国誌に「朝日山ノ塁蹟(村山北ノ割村)高サ拾町余ノ突峯也 頂ニ塁郭ノ跡存セリ 遠ク四方ヲ眺ムベシ壬午ノ時 北条氏直ノ築ク所ト云伝フ 北ハ長沢 南ハ若神子ニ当ル 東麓ニ平沢ニ出ル路亘レリ 古時ノ烽火台ト見エタリ 武田ノ軍法ニ飛脚篝(ひきゃくかがり)トテ四所アルベシ 今モ其照合タル場所預カリシメシハ知ラルル処ナリト云」とある。

武田氏時代から烽火台があり、天正壬午の乱で北条氏直がここに城を築いたと言っている。
佐久往還を抑える要衝として、また、佐久経由の援軍を駐留させる目的で陣城が築かれたのであろう。

朝日山之累 (19)
主郭は殆ど地山のまま。

朝日山之累 (14)
山頂を示す三角点(911.5m)


【城跡】

城跡は南北に長い山頂部の主郭部と、南西の斜面に区画された副郭から成り、城域は東西100m、南北300mとかなり広大なものである。

●主郭

北の尾根を横堀で遮断しているが、東側は切岸のみで西側は帯郭と切岸が周回している。恐らく横堀を全周させる予定だったが未完で放置されたのであろう。内部はほとんど地山のままで手が加えられた形跡は見えない。

朝日山之累 (83)
西側の帯郭と切岸。

朝日山之累 (79)
南西のG部分。横堀を連結させる作業が途中で終わったらしい。

●郭2

主郭の遊歩道を南下すると左右に土塁が見え城跡の標柱がある場所が虎口Cである。虎口の東側に横堀を入れ斜面に対して竪掘となっている。西は土塁と短い横堀を入れただけで切岸のみで区画している。
郭2は南西の傾斜地も含めて堀切が全周しほぼ完成していたようだ。

折れ・横矢掛け・枡形を備えた厳重な装備が施された北条氏の城は、南への防御を強く意識して造られている。

朝日山之累 (22)
虎口Cとその奥に見える郭2。

朝日山之累 (26)
東斜面に続く横堀。宮坂氏はFは虎口ではなく、南からの出入りはこの堀底が通路だったと考察されているが・・。

朝日山之累 (27)
虎口Cの西側の高土塁と堀跡。

旭山砦1
城址の標柱付近から郭2の南側。枡形虎口Aと土塁が確認出来る。

朝日山之累 (36)
見取図F付近の土塁と東斜面の堀跡。

朝日山之累 (47)
郭2の南端の土塁と堀。折れを伴ってしっかり普請されている。

朝日山之累 (51)
郭2の南川の出入り口(虎口A)は枡形であろう。

縄張り図では傾斜の状況が上手く表現出来ないが、郭2の西半分は傾斜のキツイ斜面である。居住性など無く、防御の為の空間である。そういう割り切りもアリですよネ。

朝日山之累 (50)
ひたすら西斜面を下っていく防塁と堀。

朝日山之累 (55)
西斜面下部の堀と土塁。

朝日山之累 (56)
郭2の西半分は斜面と言う名の「空間」である。

朝日山之累 (58)
見取図に記載したBの土橋。

朝日山之累 (65)
郭2の北側を遮断する竪掘。まさに執念の造作物だ。

朝日山之累 (76)
見取図G付近から斜面を見下ろす。

郭2は「空間防御」という独特な発想の元で作られているように思える。

残念ながら小生は北条さんの築城した城の縄張りの数々をほとんど知らない・・・・(汗)。東国の縄張りヲタクの最先端が北条さんなのだと言う事は噂で聞いているが・・・。

それにしても広大である。兵士兼土木作業員を大勢引き連れての甲斐侵攻作戦なので、その気になれば陣城の三つや四つは朝飯前だっただろう。

その大人数ゆえに兵站補給が出来なくなると「腹が減って戦が出来ない・・城も作れない・・」このことであった・・。

朝日山之累 (23)
これだけじゃ何の跡なのか誰もわかりません・・・(汗)

≪旭山砦≫ (あさひやまとりで 朝日山之塁)

標高:911.5m 比高:85m
築城年代:天正十年
築城・居住者:北条氏直
場所:山梨県北杜市高根町村山
攻城日:2015年1月11日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:-分
見どころ:全部隅々まで見ましょう
注意事項:特に無し ニホンシカが生息してましたが逃亡していきました(笑)
駐車場:林道脇へ路駐。
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著) 
付近の城址:谷戸城、古宮城、若神子城など

朝日之累遠景 (1)
南約3km地点から撮影。どこからも目立つ山である。












Posted on 2015/01/17 Sat. 15:16 [edit]

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新府城2 (山梨県韮崎市中田町 リテイク)  

◆天正壬午の乱が証明した武田勝頼の「所堅固の城」の先見性◆

【城ヲタクの豆知識】

「堅固三段(けんごさんだん)」という言葉をご存知だろうか?

江戸時代に入ると、兵法の用兵・戦術に関する学問が盛んになり、戦乱が絶えると軍事学を後世に継承していくために「軍学(ぐんがく)」となり、研究者は軍学者と呼ばれた。

もちろん、城に関しての研究も進められて、いかにして自分たちの身を守るかを、城をキーワードに三段階に区分したものを「堅固三段」と呼んだ。

具体的には「城堅固」(しろけんご)、「所堅固」(ところけんご)、「国堅固」(くにけんご)の三つである。

新府城跡 040

「城堅固の城」は、城の堅固さを中心にした城のことで、城そのものを堅固に築き、城で敵の攻撃を防ぐという形になった城をさしている。城が防御の主体になったものである。近世城郭に多く見られる。

それに対し、「所堅固の城」は、城を中心にしながらも、その地域の地形などを巧みに盛り込んで防御を考えた城で、城の近くにある川や沼・池、さらに山など自然地形を文字通り、天然の要害にしようとしたものである。戦国の城に多く見られる。

もう一つの「国堅固の城」は一国、戦国時代であれば、その戦国大名の支配領域全体を防御地帯として構想して築かれた城のことをいう。国境の防備に力を入れたり、本城と支城を結ぶ繋ぎの城などが完備した形はこの「国堅固の城」の概念に当てはまると思われる。

あまり使われない分類方法ではあるが、知っていれば「さすが・は戦国の城中毒」の評価であろうか・・(笑)

能見城西側枡形
新府城の北側防御ラインとして築かれた能見城の西側枡形と西曲輪へ続いた横堀址。

さて、今回ご案内するのは四年前に適当な記事として載せた「新府城」のリテイクである。

目新しいものは特に無いが、小生が四年の歳月で得た泡のような知識とゴミのような経験で再訪した未完の城の再評価を改めて記事にして見ようと思う。

韮崎市エリアマップ①
これぞ「所堅固の城」というのがわかる観光マップへの落書き(著作権侵害か・・汗)

【立地】

釜無川と塩川の間にある七里岩の台地上に立地している。この台地上は岩屑流による小円頂丘が散在する流山地形となっていて、新府城は七里岩の浸食崖も接した流山を利用して築かれている。

新府城②(韮崎市) (2)

【城主・城歴】

天正六年(1578)に上杉謙信が亡くなり御館の乱が起こる。武田勝頼は景虎と景勝を和解させ甲・越・相の三国同盟を目論むが、結果として武田の支援を受けられなくなった北条側の景虎が滅亡してしまい、甲越同盟の成立と引き換えに甲相同盟が破棄されるという皮肉な結果となった。

関東の北条を敵に回し織田・徳川の連合軍からの挟撃という厳しい情勢の中で、天正九年(1581)一月、武田勝頼は武田家の命運を賭けて新府築城と本拠地の移転を決断する。

新府城②(韮崎市) (3)
新府城の縄張りにおける特徴と云われる「出構え」(でがまえ)。

【ちょっとタイム①・・出構えとは?】

現地の解説版では「外郭の一部を長方形に堀の中に突出させた鉄砲陣地」として「北方の敵襲に対して十字砲火を浴びせる場所」としている。(いわゆる鉄砲用の横矢掛)
未完に終わった新府城のこの防御施設には色々な見方があり、「木橋が先端に掛けられた虎口の一種」だとか、「その先には丸馬出しと三日月堀があったのでは?」、「外枡形になるはずだった」「稜保(りょうほ)の原型」、はたまた「西と東では形が違うので用途も違ったのでは?」という意見もあるという。
色々な妄想が膨らむのも多いに結構、なんて個人的には思ってますが・・(笑)

新府城②(韮崎市) (7)
東堀から見た「西出構え」。ショートケーキのように堀に突き出した三角形は五稜郭や竜岡城なんかの稜保の原型かしら

城の普請奉行には真田安房守昌幸が任命され、天正九年二月から昼夜兼行の突貫工事が進められた。新府への築城を建策したのは御一門衆の穴山信君(あなやまのぶただ または穴山梅雪)で、七里岩の台地上は穴山氏の出身地である。
真田昌幸が信濃先方衆である出浦氏に宛てた手紙によると、起工の日は天正九年二月十五日とし、十軒に一人の人足を三十日間出す事、人足の食料は軍役衆が持つことなどが示されている。こうした動員は領国全域に及んだものと思われる。

新府城②(韮崎市) (10)
西出構から見た中堀(なかほり)。往時は水堀だった可能性が高い。

築城を開始した翌月の三月二十二日、遠江の高天神城が後詰め(救援のこと)されないどころか徳川軍に開城降伏を申し入れても拒否され、全員が突撃し全滅して落城。(城兵の半数以上は既に餓死していたという凄惨な状況だったという)
勝頼は徳川、北条の領国侵攻に対処し各地を転戦。新府城は九月には一通り完成していたようだが、躑躅ヶ崎から新府へ移転したのはそれから三ヶ月後の十二月二十四日だった。

新府城見取図①

勝頼は天正十年(1582)の新春は新府城で迎えたが、正月早々親族の木曾義昌が織田氏に通じ反逆したとの知らせが入り、一月二十八日木曾討伐の兵を出し、勝頼自らも二月二日に出陣し、上原城へ後詰めとして滞陣している。
これに対して二月三日、織田信長は諸候に命じ武田征伐の軍を起こす。伊那口、木曾口、飛騨口、そして駿河口、北条方は関東口から進軍が始まる。二月十六日、鳥居峠で武田軍は敗れ、伊那口や駿河口では寝返りが続出し、その為に勝頼は高遠城を後詰め出来ずに新府城へ戻る。

新府城②(韮崎市) (9)
外郭の土塁はキチンと普請されて堰堤と錯覚するような造りだ。

二月二十五日、一族の穴山信君が織田信長に内応し三月一日に江尻城を開城。三月二日に高遠城落城。武田氏が組織的に戦ったのは鳥居峠と高遠城ぐらいである。
こうした緊迫した中で逃亡者が続出し、新府城も三月三日に武田軍が火を掛け自落。勝頼一行は岩殿城へ向かうが、小山田信茂の背信により三月十一日田野において武田氏は滅亡する。勝頼が新府城に在城したのは僅か70日ばかりであり、まさに短命の城であった。

このあと信長が本能寺で斃れると、甲斐の国は徳川と北条の争奪戦となり天正壬午の乱の対陣となる。この時焼け落ちていた新府城は家康の命によりいち早く徳川軍が接収し本陣を置いた。
徳川軍により多少の改修はされたと思われるが、基本的には武田による築城時の遺構が残っていると見てよさそうである。

新府城②(韮崎市) (24)
搦め手口の西堀からL字型で空堀を引きこみ搦め手の郭を独立させている。

【城跡】

●搦め手郭(乾門)

搦め手郭は乾門(いぬいもん)とも呼ばれ、内枡形の外側は一の門、内側は二の門が建てられていたようだ。
枡形の土塁も外側は低く内側に向けて高さを増す特徴的な構造で興味深い。

新府城②(韮崎市) (39)
搦め手は字名として「三日月堀」という名が残っているという。信濃方面への備えとして丸馬出しと三日月堀を設置し二重馬出しだった可能性は否定できない。

新府城②(韮崎市) (40)
東西13m南北12mの枡形。奥に向かって土塁が高くなっているのがお分かりになるでしょうか?

新府城②(韮崎市) (34)
西側の望楼址から撮影した枡形内部。土の芸術作品でございます。

新府城②(韮崎市) (35)
この位置から狙い撃ちされたら一網打尽でございますw

新府城②(韮崎市) (31)
枡形の二の門を抜けた郭(馬出し)は土塁で囲まれているが、平削も中途半端で工事途中で放棄されたような印象。

●井戸跡

搦め手郭から二の郭へ向かう途中の中腹に直径32m(!)の井戸跡がある。発掘調査では地表から4m掘り下げても底に到達出来なかったことから「マイマイ井戸」(らせん状に掘り下げた井戸)あるいは雨水や染みだした地下水を溜める
天水溜め」だった可能性を示唆している。北西100mの外郭にも同様の井戸跡が確認出来る。

新府城②(韮崎市) (23)
草茫々の井戸跡。写真撮っても何がなんだか・・・(汗)

新府城②(韮崎市) (15)
中堀に接する外郭の土塁の内側にある井戸跡。

●二の丸とその周辺

比高がそれほど高くない新府城は、郭の輪郭と迷路のような通路に土塁を多用しているのが特徴で、普請奉行の真田昌幸を中心とした武田諸将の苦労の跡が伺える縄張りである。

新府城②(韮崎市) (46)
二の丸。

新府城②(韮崎市) (49)
H字形の土塁(しとみの構え とも?)で区分された本丸との接続用の郭。

●本郭(本丸)

城域の最高所にあり東西90m南北120mの広さもつ本郭は、周囲を土塁で囲まれロケーションも良い。
北1.5kmの能見城防塁も目と鼻の先である。

新府城②(韮崎市) (53)
広大な本郭。

新府城②(韮崎市) (55)
織田の侵入に備えた信濃口の防御ラインである能見城。奥の山は八ヶ岳連峰。

●馬出し・西三の丸・東三の丸

車道で破壊された土塁があるものの、概ね良好な保存状態である。仕切り土塁で区切られた東西の三の丸は未完成で、大手口である丸馬出し⇒枡形⇒東三の丸虎口という進み方になっているが、西三の丸から馬出しへの接続が良く分からない。

新府城②(韮崎市) (59)
車道によって破壊された土塁。本来は馬出し⇒二の丸⇒蔀の構え⇒本丸虎口という入り方であろう。

新府城②(韮崎市) (60)

新府城②(韮崎市) (66)
わざわざ土居で三の丸を分割している。何か意味があるのだろうか?

新府城②(韮崎市) (67)
通常なら「折れ」を付けても良さそうだが、全くの直線なので、不思議である。

新府城②(韮崎市) (68)
東三の丸。西側よりは若干広い。

●大手口(三日月堀・丸馬出し・枡形)

甲州流築城における最期の丸馬出しが現存している。諏訪原城、大島城、牧之島城と全く同じ構造で、枡形も前後二箇所に木戸(門)が置かれたと考えられる。ここの枡形も搦め手の枡形同様にかなりの威圧感がある。

新府城②(韮崎市) (69)
枡形の北側。ここを制圧しなけば城内には侵入出来ない。

新府城②(韮崎市) (70)
瞬殺されそうな威圧感のある枡形空間。

新府城②(韮崎市) (73)
低い土塁が巡る丸馬出し。

新府城②(韮崎市) (75)
三日月堀を見下ろして撮影。

新府城②(韮崎市) (79)
美しい弧を描く三日月堀と馬出しの切岸。(西側)

新府城②(韮崎市) (89)
東側は草が無く往時の面影があります。

新府城②(韮崎市) (90)
丸馬出し東側の入口(大手口)

いかん、ツラツラとまた写真を並べてしまった・・(汗)
土の軍事構築物に美を求めるなんぞ、笑止千万と思われるかもしれないが、土だからこそイイのである・・(笑)

●首洗い池

物騒な名前が付いた場所であるが、実際は東堀の一部で籠城時には堰き止めて水堀となったのであろうか。
周辺の草刈りをしていた叔父さんが巻尺持ってウロウロしている小生を不思議そうに見て訪ねて来たので、「信州の山猿がお城見に来ましたあー」と答えたら、「遠いところから御苦労さん!(笑)」

新府城②(韮崎市) (101)
立派な人工の堤である。

新府城②(韮崎市) (104)
一段上の堤から見下ろす。

新府城②(韮崎市) (106)
首洗い池の北側は水堀址で東堀として連結していたと思われる。

【武田領の新たな防衛拠点として築かれた新府城】

家臣の反対を押し切ってまで、わざわざ躑躅ヶ崎館(甲府)から新府城(韮崎)に移転する理由はなぜだったのでしょうか。
雑誌「歴史街道」2013年11月号の「特集Q&A武田勝頼の真実」の中で、歴史家「平山 優」氏は、
①甲斐・信濃・駿河・上野・東遠江に跨る武田領において甲府は東に寄り過ぎ韮崎なら中心にふさわしい。
②織田信長に対する防衛地点として地勢に有利であること。
と解説し、先見性のある決断としています。
残念ながら、織田との対決の前に自落してしまい、武田軍による籠城戦は無かったのですが、その後勃発した天正壬午の乱で、新府城を拠点とした徳川家康は、寡兵ながら北条の大軍を破り新府城(+能見城防塁)の堅固さと地勢の有利を実証しました。まさに「所堅固」の城であり、近世城郭へ移行する過渡期の縄張りは必見でしょう。

新府城②(韮崎市) (58)

≪新府城≫ (しんぷjじょう、新府中韮崎城)

標高:524m 比高:130m(七里岩下より)
築城年代:天正九年(1581)
築城・居住者:武田勝頼、徳川家康
場所:山梨県韮崎市中田町
攻城日:2013年10月12日 
お勧め度:★★★★★ (甲州流縄張最期の城)  
城跡までの所要時間:-分
見どころ:全部隅々まで見ましょう
注意事項:特に無し。夏は藪が多い。
駐車場:専用駐車場あり
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著) 「戦国武田の城」(中田正光著)
付近の城址:能見城防塁、丸山の塁、穴山氏館など

白山城(韮山市) (88)
釜無川の対岸にある原山神社付近よりの遠景。

Posted on 2014/07/21 Mon. 15:02 [edit]

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0713

谷戸城 (山梨県北杜市大泉)  

◆北条さんが戦国末期にアレンジしたと思われる美しい土の芸術作品◆

アウェイでの城攻めは土地勘が無いので難儀する。

迷ってグルグルしてると時々面白い旧所・名跡を発見して寄り道しちゃうので始末が悪い・・(汗)

谷戸城の近くにある深草城を探していたら「金生遺跡(きんせいいせき)」を見つけちゃった。

金生遺跡①

谷戸城の入口にある北杜市考古資料館を見学したあとだったので、チョッとだけ寄ってみた。

このあたりは、縄文時代の祭祀施設と集落があり、その後も中世の城館(深草館)と集落が存続していたという。

金生遺跡②
縄文時代のストーンサークルと住居が復元された公園。

戦国の城に飽きたら古代の祭祀について調査したいと思ってますが・・・(笑)

今回ご案内するのは平成5年11月に国史跡指定を受けた谷戸城(やとじょう)。

山城の基本パーツがしっかり確認出来る初心者にも優しい史跡公園です。城跡のそれぞれの場所に、そのパーツの丁寧な説明と発掘調査時の貴重な写真があるので、安心して見学出来ますよ。

谷戸城(北杜市) (123)
北側から見ると小山というよりは岡の上という感じ。城域を道路が貫通しているが残念だが仕方なかろう。

【立地】

八ヶ岳の南麓の裾野にいくつか点在する流れ山の一つに築かれている。独立した小山でその形から茶臼山あるいは城山と呼ばれている。この一帯は湧水が多く、泉川、宮川、衣川、甲川となって地域を潤していて古くから開発された場所である。

谷戸城(北杜市) (124)
北東から見た城域の北側側面。

【ほくと・山城の里】 ※現地説明板より引用

大治五年(1130)、常陸国(茨城県)から甲斐国に配流となった源義清・清光親子の土着は、甲斐国に大きな歴史のうねりをもたらしました。甲斐源氏の誕生です。
清光(1110~1168)は、御牧(みまき 馬を飼育するための官営の牧場)に近い逸見(へみ 八ヶ岳南麓の台地一帯を指す古い地名)に目を付け、ここを本拠とし、逸見清光と名乗りました。清光が本拠とした北杜市域には、若神子城(わかみこじょう 古城・南城・北城)や谷戸城跡のような山城のほか、鎧堂(よろいどう)、清光寺、逸見神社、白旗神社といった神社仏閣まで、初期甲斐源氏にまつわる伝承をもつ旧跡が多くあり、戦国大名武田氏に繋がる甲斐源氏は、ここから甲斐全域に広がりました。

谷戸城(北杜市) (119)
北側を遮断する堀切㋐。道路で分断されているが、発掘調査では堀を渡る土橋が確認された。

段上または台上と呼ばれる八ヶ岳南麓の台地上は古来より逸見氏の勢力下にあり、武田信虎が享禄五年(1532)に甲斐を統一するまでは、守護武田氏だけでなく諏訪氏、佐久の大井氏などとの戦いが幾度となく展開されました。

台地上に点在する山城や砦も、この頃に使われたと考えられます。軍用道路といわれている棒道は、この台地を通って信濃へ抜けており、天文十七年(1548)に武田信玄が信濃へ出兵した際は、谷戸に陣所を構えたとの記録が残っています。(高白斉記)

天正十年(1582)、武田家滅亡後の甲斐国の領有をめぐり徳川家康と北条氏直が争った天正壬午の戦い(てんしょうじんごのたたかい)では、信濃側から甲斐に侵入した北条方により台地上はほぼ制圧されました。北杜市域は主戦場となり、この時にいくつかの城が北条氏により修築されたと推測されています。 (引用終わり)

谷戸城見取図①
発掘調査図を参照して作成。

【城主・城歴】

平安時代末期に居積み清光が築城したと伝わる。逸見の地を本拠とした清光は多くの男子に恵まれ、その子らが甲斐国内で勢力を扶植したことから、次の代では甲斐国の広い範囲を甲斐源氏が支配する事となる。
なかでも武田信義は頼朝の同盟軍として平家討伐に功を上げ、戦国大名武田家の礎を築いた。
が、強大な勢力となることを警戒した頼朝からは遠ざけられ中央政権に参画出来ず、同等の立場から御家人に転落を余儀なくされたという。

前述にある通り、谷戸城が文献に現れるのは「谷戸の御陣所」として高白斉記での記述である。
棒道の中継地点として佐久方面の侵攻作戦に利用され、武田滅亡後の甲斐領争奪戦では若神子城、獅子吼城、笹尾塁、旭山砦とともに北条軍の拠点として改修が施されたようである。

谷戸城(北杜市) (118)
城域の正面となる北側は大手となるが、傾斜が緩い為に二重堀切になっている。

谷戸城(北杜市) (117)
東斜面に対して竪掘となる堀切㋑。北条時代の改修であろう。

【城跡】

城は、流れ山と呼ばれる小山を利用して築かれており、北に巡らせた横堀と西側を流れる西衣川で区画している。城内は山頂部の一の郭を中心に、二の郭から五の郭まで円心状に配し、西側の山裾には館が置かれていたと想定される六の郭が広がる。
各郭の出入り口は「喰い違い虎口」(くいちがいこぐち)が多用され、空堀は等高線に沿うように掘る横堀が発達している。
発掘調査による出土品は14~15世紀のものが中心を占め、現代に伝わらなかった歴史を持つ城跡であることがわかってきている。

●東斜面

郭4の土塁の東外側斜面は部分的に帯郭らしき跡が見られるが、自然地形を生かしてそのままにしたようだ。
斜面には通路を兼用したであろう長大な横堀が掘られ、東衣川と共に二重の防御構造となっている。

谷戸城(北杜市) (113)
東斜面の横堀。戦国末期の仕様であろう。

●郭4

輪郭を低い土塁で囲った奇妙な形の郭である。説明板によれば、造成された痕跡がなく、発掘調査では縄文土器が出土したという。東の斜面まで続く低めの土塁は防塁として造成していたようだが、どうも工事の途中で放棄されたらしい。
城内で最大の面積を誇る謎の郭だ。

谷戸城(北杜市) (18)
郭2手前の帯郭から見た郭4

谷戸城(北杜市) (11)
土塁の断面(北側の境界)

谷戸城(北杜市) (17)
郭2との接続部分。どうしたかったのか縄張りの意図がチョッと分かんない・・(笑)

●帯郭(郭2の北側緩衝地帯)

郭2への虎口手前は堀が掘られ、郭4と郭5を繋ぐ連絡通路としての役目だったという。
パッと見は巾の広い堀に見えるが、違うらしい・・・(汗) オレの目は節穴らしい・・(爆)

谷戸城(北杜市) (19)
ここを奥に進むと東端の郭5に連結する。

谷戸城(北杜市) (15)
郭2へは簡単には行かれない仕組みだ。

●郭2・郭3

実質的な城の中枢部で、掘立建物の跡が確認されている(現在の東屋付近)。周囲を囲む高土塁の内側に堀を周回させた独特な作りである。
あくまで推測だが、元々の縄張りは西の居館を除けば1・2・3の単純な輪郭式(りんかくしき)の城で、土塁も低く高さを稼ぐ方法として土塁の内側を掘ってあったのだろう。
それを北条さんが改修して内側の堀を巾を広げて深く掘り下げ、残土を土塁のかさ上げに利用しただけの話だと思う。
にしても、見事な仕上げではある・・(笑)

谷戸城(北杜市) (24)
土塁の頂部は幅広く兵士の犬走りとしても使える仕様だ。石垣よりも防御性の高い「土の壁」である。

谷戸城(北杜市) (25)
旧式の内堀仕様が最新の防御システムに刷新されている。地形に合わせた縄張りの見本である。

谷戸城(北杜市) (26)
堀底に逆茂木(さかもぎ)を置いてあげればバッチリでしょう。(郭2の東側)

谷戸城(北杜市) (51)
郭1から見下ろした郭2の東側。

谷戸城(北杜市) (34)
西側の郭3。横堀の為に面積が狭く帯郭のような感じ。補助線を引かなくても良いので嬉しい(笑)

谷戸城(北杜市) (57)
郭3の南側。郭1からの斜面は切岸として丁寧に加工されているのが良く分かる構図。

●郭1(本郭)

谷戸城の最高所にある郭で、周囲を高さの違う土塁で囲まれている。これは、本郭が平時は物見や烽火台として役割を担っていたためで、北側と東側は高く、その他方面は低く作られている。
また、土塁を切る形で東と北西に虎口(こぐち)が開いていて、北西は喰い違い虎口(くいちがいこぐち)としている。これは土塁をずらす事で直進的な敵の侵入を妨げる効果があり、郭の内部を見えづらくする効果もある。

谷戸城(北杜市) (27)
土塁の高さの違いを示してみました。

谷戸城(北杜市) (39)
北西の喰い違い虎口(ヘタクソ!!・・・汗)

谷戸城(北杜市) (41)
東側の平虎口(ひらこぐち)。後詰め投入用だろうか?

谷戸城(北杜市) (46)
西側から見た本郭全景。

発掘調査結果によれば、郭の北側に直径20cmほどの小さい穴が30基見つかったが、建物跡を示す配列ではなく、柵のようなものが建っていたあとではないかと解説している。

谷戸城(北杜市) (50)
北条軍の主力の置かれた若神子城方面を臨む。

●郭2・郭3の南虎口/南帯郭

郭2と郭3の接続部分は南口として喰い違い虎口になっている。
一段下の南帯郭からの通路で、増強部隊はここを介して郭3または郭2に堀を走って迎撃に向かったのだろう。
搦め手側だが、万が一に備えて喰い違い虎口にする念の入れようである。

谷戸城(北杜市) (49)
主郭からみた南口。

谷戸城(北杜市) (58)
かなり改変されたが、発掘調査では虎口の遺構が確認されている。

谷戸城(北杜市) (64)
南帯郭。通路にしか見えない・・(汗)

●搦め手虎口

縄張図の竪掘㋖の部分。防御としての堀切というよりは、通路としての堀切だったと推定されている。

谷戸城(北杜市) (76)
城域南側の道路から見た堀切㋖。

谷戸城(北杜市) (70)
城の中心部に向かう竪掘り。通路と云われれば通路ですが。

谷戸城(北杜市) (77)
搦め手の西側にある逸見清光公の墓。後世の英雄伝説で建立されたんでしょうね。

●郭6

居館があったとされる郭6(西の丸)は西衣川を境とする広い郭である。宅地化及び耕作化で改変されているが、土塁や堀切が一部残存している。

谷戸城(北杜市) (82)
郭6の南側。

谷戸城(北杜市) (83)
居館跡には住宅が建っている。

●郭5

南東の尾根の一角に位置してきれいに削平されている。この方面にも通路があり、途中竪掘を入れている。

谷戸城(北杜市) (103)

谷戸城(北杜市) (108)
竪掘㋕。

【戦国の城を楽しもう!】

気が付いたらカンカン照りの初夏の日差しの中を汗だくになりながら90分も熱心に見学してました。

イチイチ感動しては「凄いなあー」 独り言も多くて、傍から見たら完全にアホですわ、きっと・・(笑)

立派な考古資料館もセットで見れる(大人200円)し、云う事ありませんわー。

「国指定史跡」の称号はハンパありません。思いっきり楽しんで堪能させていただきましたよ。

谷戸城(北杜市) (2)
北杜市考古資料館。古代~中世までしっかり学べます。ここでも30分勉強しちゃいました。

あっ、そうそう、せっかくなので天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)における北条さんの甲斐侵攻の拠点を地図で示しておきましょうネ。こういう地図を掲載すると、思わず出掛けちゃう人もいるんだろうなあー(爆)

天正壬午の乱と城砦の位置
※能見城防塁は徳川さんが抑えてました。


≪谷戸城≫ (やとじょう、茶臼山)

標高:860.5m 比高:40m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:山梨県北杜市大泉谷戸
攻城日:2014年7月2日 
お勧め度:★★★★★ (見どころ満載、整備状況も最高なので)  
城跡までの所要時間:-分
見どころ:全部隅々まで見ましょう
注意事項:特に無し
駐車場:北側、南側にも専用駐車場あり
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著) 現地解説版
付近の城址:深草城、旭山砦など

谷戸城遠景
城域南側の深草城から見た谷戸城遠景。


Posted on 2014/07/13 Sun. 17:01 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

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