らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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山城の最高峰に位置する「御坂城」(山梨県笛吹市)のリベンジに挑む ⑤  

◆御坂城の幾何学的な防衛網の中枢部◆

さて、色々と寄り道をして引き延ばしていたが、御坂城の最終回の記事を書かねば「愚か者」の誹りを受けるであろうか・・・(笑)

これだけの規模の山城となると、一度目の訪問では全体像を捉えて、二度目で細部を検証するという作業が必要になるだろう。

特に中枢部の「A地区」はその複雑な防御構造ゆえに、自分で縄張図に落とす作業を伴わないと理解が厳しいというのが実感だ。

IMG_6527.jpg
藤野木から1時間の登山で、素晴らしい御坂城の遺構が拝めるのなら安いものであろう。

【A地区】

中世城郭探訪の全国区のパイオニアであるウモ殿によれば、御坂城のA地区は御坂峠の関所であるという。

「やはり百戦錬磨の先駆者は、うまい事表現するなあー」  なるほどの一言である。

御坂城 (110)
D地区との接続部。北斜面を下る横堀をL字で屈折させて南側に三日月堀を連結させる技法が凄い。

御坂城縄張図②
今回ご案内するA地区はここ。

直線の横堀+L字堀の組合せを多用する御坂城にあって、中枢部A地区の三日月掘はひときわ目立つ防御機構であろう。
L字堀の「折れ」が局地的な殺傷を目的としているのに対して、三日月堀の中心部の郭は「全方位」の有効であり、背後に回り込まれた場合を想定していると思うが、どうであろうか。

御坂城 (111)
三日月堀への導入部分(C地区との接続部分)

御坂城 (131)
南斜面に弧を描く三日月堀。

三日月堀に隣接する東側のトイレ付近からはL字の竪堀が下る。この斜面の南側は河口湖からの峠道が回り込んでいるので傾斜が緩い。その為に増設されたと思われる。

御坂城 (138)
トイレ付近から南斜面に落ちるL字竪堀。

転じてA地域の北側斜面の防御について見てみよう。藤野木側は徳川軍に備えているので、斜面に対して横堀を二重としL字形とすることで「折れ」を作っている。中心部から二条の短い堀と間に高い土塁を置くことで進入路を限定し狭間を作っている。

御坂城 (114)
A地区北西の二重堀切の処理。

御坂城 (115)
L字堀を行き止りにしてその先に竪堀を落とす。

まあ、色々とウンチクを並べるよりも写真を並べて中枢部の防御を見てみましょうか・・・・(笑)

御坂城 (117)
高土塁を重ねて狭間を作り誘い込む

御坂城 (118)
南斜面をひたすら走る横堀

御坂城 (119)
あそこから狙い撃ちされたらヤバイ・・・(汗)

御坂城 (143)
A地区とB地区を遮断するL字堀切の通路は喰い違い虎口という念の入れよう。

御坂城 (16)
A地区の北斜面の堀で位置を確認する「ていぴす」殿(おまけショット)

さて、イッキに一話で完結する気力が無く、だらだらと5回に渡って連載しました御坂城は如何だったでしょうか?

最終回は「テキトー病」が発病してしまいました・・・・(笑)

残念ながら御坂城から見えるはずの美しい富士山はガスが深く巻いてしまい、見えずじまい。

それでも、「また探訪したい」と思わせる素晴らしい山城でした。未訪の皆さん、是非チャレンジしてみてください。


≪御坂城≫ (みさかじょう)

標高:1,575m 比高:630m (藤野木より)
築城年代:天正十年(1582)
築城・居住者:後北条氏
場所:笛吹市御坂町御坂峠
攻城日:2016年10月23日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
館跡までの所要時間:60分 駐車場:峠道文化の森公園入口(4WDでないとここまでは入れないので注意)
※天下茶屋からのルート、河口湖側のみさか道のルートもあり
見どころ:全て堪能してください。
注意事項:峠道とはいえ標高1,500mなので登山装備で。登山靴は途中ガレが多いので厚底のものがお勧め
参考文献:「甲斐の山城と館①中部・北部編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P384参照) 
付近の城址:小山城、大野城、蜂城など
SpecialThanks:ていぴす殿

御坂城① (4)
脚力に自信のある方は富士山撮影の絶景ポイントがある「天下茶屋コース」がお勧めですよ。

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Posted on 2016/11/26 Sat. 11:08 [edit]

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山城の最高峰に位置する「御坂城」(山梨県笛吹市)のリベンジに挑む ④  

◆戦乱も終わり、旅人で賑わったであろう御坂峠◆

山城のシーズンインともなれば降雪までが勝負なので、休日は雨でなければ毎回どこかしこの城跡に出掛けてヘロヘロになる。

だからといって、ブログの更新が途絶える事への言い訳にはしたくない・・・が、現実には言い訳している・・・(笑)

今回は御坂城の分解解説のラストとして、峠部分の「B地区」をご紹介したいと思う。御坂峠を取り込んでいるので、城域では最も低い位置になっている。

御坂城① (11)
旧御坂トンネル側の天下茶屋からのルートの途中には富士山撮影の絶景ポイントがある。(2015年2月21日撮影)

残念ながらリベンジした今回は、御坂峠付近は深いガスが巻く天候不順で、富士山の雄姿は拝む事が出来なかった・・。

【B地区】

藤野木側の峠道がある西側斜面に造成途中で放棄された横堀があり、それ以外は三段の郭が置かれ土塁や堀の遺構はあまり確認できない。御坂城が放棄されたのちの御坂峠は、江戸時代から近世にかけて主要な往還として整備され峠茶屋などが置かれ、改変されたものと推察される。

御坂城 (14)
藤野木側の峠道のピーク手前50mには西側に向けて掘られた未完成の横堀が確認出来る。

御坂城縄張図①
再度宮坂氏の縄張図を基に解説させていただく。

御坂城 (148)
A地区とB地区の境には喰い違い虎口があり中枢部への侵入を拒む。

御坂城 (149)
峠茶屋の西側の一段高い場所には御坂天神が祀られている。右下の斜面を下りると河口湖への峠道に合流する。

御坂城 (151)
御坂天神の木造母屋。かつては石造だったようだ。

御坂城 (153)
御坂天神の郭から見た峠の茶屋の屋根。結構な高さの段差であることが分かる。

峠の頂上であるB地区は、北条軍による増改築当初はかなり手が加えられていた、または手を加える途中だったと想像されるが、それがどのような造作物だったのかは不明である。
或いは、最後に手を加える途中で放棄されたと見るのが妥当なのかもしれない。

IMG_6538.jpg
茶屋のある場所はB地区の南側最終の三段目。この御坂城内では最も低い位置となる。(といっても標高は1530m)

御坂城 (155)
B地区の二段目の削平地。

御坂城 (158)
二段目の郭の端には辛うじて土塁が残っている。

御坂城 (157)
この日も多くの登山客がこの茶屋付近で休憩していた。

団体で天下茶屋方面から縦走してくる方や、みさか道を河口湖方面から登るグループの方とも遭遇した。

驚いたのは若い女性の方がフル装備で御坂城内を縦走し黒岳方面へ一人で通り過ぎていきました・・・・(汗)

団体さんにも、うら若き登山家のお姐さんにも、我々が果たしてどのように映っていたのか気になるところではある・・(笑)

さて、次回はいよいよラストの「摩訶不思議な御坂城の中枢部」・・・一回行っただけじゃ理解出来ませんでした・・・・(爆)

御坂城 (161)
我々の行動を正当化するためにも、この看板は早く再作成してもらいたいと強く要望します・・・(笑)




Posted on 2016/11/19 Sat. 08:12 [edit]

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山城の最高峰に位置する「御坂城」(山梨県笛吹市)のリベンジに挑む ③  

◆峠を封鎖し稜線からの敵を迎撃する要塞◆

ようやく長野市でも初氷が観測され、マイカーの窓ガラスにも霜が付くほどの外気温となった。

既に暦の上では「立冬」である。雪が降るまでにいかに多くの山城を探訪できるか・・・勝負が始まっている・・(笑)

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御坂峠に立つ道標。御坂路の他に尾根伝いの稜線も往時から道として利用されていたと思われる。

【馬出しを備える屈強な構えのC地区】

峠から北側の尾根沿いに展開するC地区は周囲を長大で巨大な堀切に守られ、ほぼ独立した戦闘空間で峠との比高差も約50mある。ここから御坂山を越えれば天下茶屋を経由して清八峠、三ツ峠方面に抜ける。そこからの敵襲に備えた郭で、馬出を備えた厳重さが見どころである。

御坂城 (162)
C地区の西側斜面(藤野木側)を下る長大な竪堀の終点はL字となってB地区との境界を形成している。(かなりガスってます・・)

御坂城縄張図①
BとかCとかはこちらで確認をお願いします・・

この日は曇天で遺構の写真を撮るには良いのだが、さすがに標高1500mを越えると気温も低くなり、時折ガスが巻いてしまう。
ガスを避けるように東側の竪堀を登ってB地区からC地区へ移動する。

御坂城 (164)
東側の竪堀を登る「ていぴす殿」

御坂城 (165)
途中で振り返って竪堀を撮影。結構な急斜面で息切れがしますw

御坂城 (166)
「えーっ、まだ登るの??」(苦笑)

こんな山の中で土木作業を続けた北条軍の兵隊、さぞかし嫌だったでしょうネ。幸いなことに築城作業が行われた三か月間は夏場だったんで、これが冬場だったら凍死者も出たと思われる。

御坂城 (168)
堀切は途中で途切れる。このあたりは岩盤地帯なので作業が後回しにされたと推定。(宮坂図には続いているような表現)

御坂城 (172)
さらに進むと再び堀が現れる。天候がコロコロ変わり日が差したりすると写真が斑(ブチ)になる・・(汗)

このあたりはCの中心地区の真下の斜面にあたる。西側に比べて横堀の作業の完成度が低いのは北条方が押さえている河口湖側なので、急ぐ必要もなかったからだと思われる。

【C地区馬出付近】

北側尾根の最終付近は馬出を置き堀切を二重にする厳戒体制で、東斜面に対してさらに堀をL字にしている念の入れようだ。
しかしながら、全体的に作業が途中で中断、放置されたようで未完だったことが分かる。

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C地区の最北端。土橋にして馬出に接続させている。

御坂城 (177)
東側から撮影した馬出の断面。

御坂城 (178)
C地区中心部への入口は平虎口で、馬出との段差は高く堀切で遮断されている。

御坂城 (184)
北側の最終堀切はL字となって東斜面を補強し警戒している。

御坂城 (186)
東斜面のL字堀(北側より撮影)

【C地区中心部】

楕円形の頂部はかなり広く、削平が途中で放棄されたようだが、面積ではD地区よりも広い。兵舎はここで、兵隊の半分ぐらいはここに駐留していたのかもしれない。

御坂城 (187)
雑木林になっていてロクな写真が撮れない・・・(汗)

御坂城 (188)
それでも中心部はなんとか削平されていた。

【C地区の西側の長大で技巧的な堀切】

御坂城全体でも西側の斜面(藤野木側)は対徳川軍への防御を意識し、巨大で長い横堀を構築しているが、C地区に関しては更にL字堀を二重に組み合わせた厳重な備えを施している。

御坂城 (190)
C地区西側のメインの横堀。

御坂城 (193)
メインの横堀と一段下にL字堀を接続する部分。敵兵の侵入を警戒し開口せずに土塁で閉鎖している。

御坂城 (195)
恐ろしく長く深く、ため息の出そうなメインの大堀切。

御坂城 (194)
一段下のL字堀。土の芸術品だ。

御坂城 (198)
二番目のL字堀の接続部分を堀底より撮影。

御坂城 (206)
藤野木側からの峠道より見上げたL字の竪堀。恐ろしく長く巨大だ。

御坂城 (202)
B地区(峠)にひたすら真っすぐ下って行くメインの横堀。圧巻である。

さて、如何だったでしょうかC地区。

次回はB地区と複雑怪奇なA地区を予定しておりますが、いつになるやらお約束は出来ません・・・(笑)

個人的には一つの城は一回の記事で掲載したいのですが、御坂城は無理ですネ・・・(汗)












Posted on 2016/11/09 Wed. 10:21 [edit]

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山城の最高峰に位置する「御坂城」(山梨県笛吹市)のリベンジに挑む ②  

◆天正壬午の乱で北条軍一万人が在陣するにはチョッと無理があるが、峠を守る凄い規模の長城◆

甲斐国(山梨県)は、四方を山々に囲まれた土地柄で、甲府盆地を中心とした「国中」(くになか)と、盆地東側に連なる御坂山地と北東域の大菩薩連峰を隔てた県東部の「郡内」地域に大別される。
さらに国中は、盆地中央部を中心に「峡中」「峡東」「峡西」「峡南」「峡北」という広域名で呼ばれる。

小山城(笛吹市) (8)
小山城(笛吹市)から見た御坂城。凄まじい標高なのがお分かりいただけるでしょうか・・・。(2015.2.21 撮影)

甲斐の地図① 001
御坂城(御坂峠)は、国中と郡内を結ぶ鎌倉街道の境目の要衝として武田時代にも狼煙台や砦が置かれていたという。

【城主・城歴】

甲斐国内では、古来より国中と郡内の境を結ぶ難所の峠として、そして戦国時代には甲斐国と関東を結ぶ軍事・経済上の重要拠点として重視され、武田氏時代には郡内との連絡手段として狼煙台が置かれたと思われるが、天正壬午の乱における北条方の大規模な改修で武田時代の遺構は失われたという。

この城が戦国史にその名を刻んだのは、天正十年(1582)「天正壬午の乱」の時であった。

御坂城 (66)
西側より撮影したE地区。峠の西の黒岳方面への防御地点。堀切の土橋の先は食い違い虎口で武者溜りとなる構造。

【天正壬午の乱】

①乱の勃発

天正十年(1582)三月、織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡する。甲斐と信濃は信長の領国となり、甲斐は配下の河尻秀隆が領主となる。しかし、同年六月に本能寺の変で信長が斃れると、甲斐では一揆が起き河尻秀隆は領民によって殺されてしまった。無政府状態の旧武田領国の甲斐と信濃は上杉・北条・徳川の草刈り場となり、特に甲斐は北条氏政・氏直父子と徳川家康が直接対峙し、激しい争奪戦が繰り広げられた。
この戦いはその年の干支によって天正壬午の乱と呼ばれる。

御坂城 (59)
E地区の北斜面の竪堀は、城の中枢であるA地区と間を連結するD地区の北側を守る長大な横堀と合流させて守りは固い。

②北条VS徳川の仁義なき戦い

相模から侵入した北条軍は郡内をほぼ制圧し、徳川軍は駿河から中道を経て甲府に入り、旧武田遺臣を募りこれを登用し対抗した。北条氏直は上野から碓氷峠を越え信濃の佐久を制圧し甲斐へ向けて南進した。家康は北条への帰属を決めた高島城の諏訪頼忠を攻めるが落ちず、氏直が率いる大軍を前に衆寡敵せず新府城まで撤退した。追撃する北条軍は峡北を勢力下として若神子城(北杜市須玉)に布陣した。

八月十日、家康は甲府から新府城に本陣を移し、若神子城の氏直と対峙した。八月二十日、御坂城に布陣していた北条氏忠の軍が、徳川軍を背後から挟撃するために出撃したが、事前に察知した徳川軍により黒駒付近で返り討ちとなり北条軍は敗走、御坂城に逃げ戻った。

局所の数度に渡るゲリラ戦には勝利したものの、峡北の若神子城に布陣する北条氏直の兵四万三千と郡内の御坂城に布陣する北条氏忠の兵一万に挟撃される形となった新府城の徳川家康(兵数八千)は相変わらず絶体絶命の危機に直面していたのである。

御坂城 (72)
E地区の南側の処理。竪堀に横堀を組合わせるL字処理を二連としているが、北側ほどの厳重さは感じられない。

③徳川方に寝返った真田昌幸による碓氷峠封鎖で停戦と和睦に追い込まれた北条氏直の誤算

全くやる気のない北条軍でも43,000vs8,000の大差なら勝てそうなものだが、「腹が減っては戦が出来なかった」らしい・・(笑)

10月に入り、西上野と信濃の小県に所領を持つ真田昌幸が、徳川方の依田信蕃の誘いに乗り北条方を離反し手切れを通告してきた。そればかりか、依田信蕃と共に北条氏直軍の兵站補給基地のある碓氷峠を攻撃・封鎖してしまったのだ。
※一説によると真田安房守昌幸は、北信濃を占拠した上杉景勝との決戦を避けた北条氏直に愛想をつかしたとも。

これが北条氏直への致命的なカウンターパンチとなった。若神子城の北条軍は補給路を断たれ戦闘が継続できない事態となってしまったのである。圧倒的な兵力の北条軍は、寡兵の徳川の優れた戦略にではなく、真田と依田という信濃の名もなき国衆の戦術に敗れ去ったのである。

※参考文献:「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(平山優著 平成23年6月発刊)

御坂城縄張図①
色々な方が御坂城の縄張図を描かれているが、宮坂武男氏の縄張図が小生にはしっくりくるのである。

【城跡を区切って検証してみた】

御坂峠を挟み込むように築かれた長大な城は、宮坂氏の解説によればざっと5区分に分けることが出来るので、それぞれについて検証てみた。(区分は宮坂武男氏の縄張図を参照願う)

●A地区・・・御坂城の中枢部分で司令塔にあたる。三日月堀に折れを伴う横堀を複雑に組み合わせている。
●B地区・・・峠のピークで茶屋のある平場。後世にだいぶ改変されてしまったようだ。
●C地区・・・東側の御坂山方面からの敵に備えた郭で二重堀の間に馬出を備えている。斜面にL字の横堀を組合わせている。
●D地区・・・A地区とE地区を結ぶ約100m程の平場で前後を横堀でガードされている。建物はここに集中していたと思われる。
●E地区・・・西側の黒岳・大石峠からの敵に備えた郭で食い違い虎口を持つ。南北の斜面の横堀と竪堀の組合せは見どころだ。

【E地区】

稜線の西側からの敵を想定した強固な郭で、大堀切で区切られた郭の入口は食い違い虎口となっている。前後を土塁で守られた武者溜りで南北の斜面に対する備えも厳重だ。

御坂城 (50)
D地区からE地区へ延々と続く北側の横堀を登るていぴす殿。結構な比高差がある。

御坂城 (53)
E地区北側の長大な横堀。箱堀ではなく薬研堀だ。もはや芸術品としての美しさを感じる。

御坂城 (78)
南斜面の横堀。L字に竪堀を組合わせる念の入れ方が観察できる。

御坂城 (94)
D地区との接続部分の東側より見上げたEの斜面には段郭が構築されている。

【D地区】

A地区とE地区を連結する長さ約100mの長大な郭で、前後を横堀で守られた居住空間である。この区域への出入りは完璧な防御システムを持つA地区を通らなければならないので、武器弾薬庫や兵糧等の倉庫も建てられていた可能性はあるだろう。
また、傾斜の緩い南斜面は河口湖側からの峠道が並行して通っているので数段の帯郭と竪堀を入れることで防御を強化している。

御坂城 (36)
D地区の北側の横堀。もはや言葉は要らない・・(笑)

御坂城 (97)
E地区とD地区の接合部分。巨大な北斜面の横堀の南側は長大な防塁壁となってD地区への侵入を拒む。

御坂城 (98)
D地区。防塁(土塁)の高さが半端ないのが分かる。削平が中途半端なのは、工事が中断されたせいであろう。

御坂城 (101)
南側の横堀。河口湖方面からの敵襲はあまり想定していないためか、北の堀に比較すると幅も深さもかなり緩い感じがする。

御坂城 (31)
A地区~D地区の北斜面の長大な横堀のさらに一段下の北側に残る堀切構築の跡。徳川を意識した増築工事であろう。

御坂城 (34)
北斜面の水の手跡。沢の水を汲み上げたものと推定されている。

御坂城 (24)
造成途中で放置された北斜面の横堀と従来の横堀を結ぶ竪堀。

D地区は未完のまま終わったとみてよいだろう。

北斜面にはもう一本の横堀が増築半ばで放棄された様子が確認出来る。

御坂城 (30)
VS徳川対策として藤野木側となる北斜面に造成された二連目の横堀。

天正十年の天正壬午の乱において、北条氏忠(氏政の弟)の軍約1万が御坂城に駐留していたという。

果たして、この御坂峠にそれほどの大軍が三ヶ月もの間駐留していたとは思えないが、兵隊のほとんどは御坂城の築城の労役を担っていたのであろう。それにしても凄い土木工事量である・・・。

さて、城の中枢部と東側(A地区・B地区・C地区)については、次号へ続くとしましょうか・・・・(笑)


Posted on 2016/11/03 Thu. 22:56 [edit]

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山城の最高峰に位置する「御坂城」(山梨県笛吹市)のリベンジに挑む ①  

◆領土拡大よりも境目の城の築城に執着した北条氏の山城の最高傑作とは◆

2015年2月21日、我々信濃先方衆は冬期間の御坂城(山梨県笛吹市と富士宮市の境の城)制圧に挑戦したが、天下茶屋からのルートは比高差は少ないとはいうものの、予想以上の積雪で途中からラッセル状態となり遭難の危険があった為断念した。

御坂城① (9)
2015年2月、天下茶屋から御坂山(1596m)に向かうルートは我々を歓迎することは無かった・・・。(写真はていぴす殿)

御坂城のある御坂峠は、信州上田からは片道200kmもあり、標高も1600m近いので、そう簡単にリベンジ出来る場所ではなかったので再訪の決断までには1年以上の待機期間を要した。

「さて、そろそろリベンジマッチに行きますか・・・・」 信濃先方衆は例年よりも遅い紅葉シーズンにやきもきしていたのである。

2016年10月23日、我々は比高差が少なく「御坂城探訪における正攻法」と伝わる「天下茶屋」からのルートを捨てて、最短距離となる鎌倉街道北側ルートの「藤野木」からのチャレンジ。このコース経由での御坂城攻略記事は未確認である。

国道137号線の御坂トンネル手前の藤野木集落から入る「旧みさか道」(鎌倉街道)から御坂峠(御坂城)まで歩いて100分の表示。藤野木の分岐から中間地点の「峠道文化の森 入口」まで林道(結構荒れてはいる)が入っているので、SUVタイプの車両なら登れるし駐車スペースもある。さらにその先には堰堤の作業道があるので、軽のSUVなら歩道入口まで入る。

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藤野木からの「御坂路」(みさかみち)の入口。

御坂城 (1)
結構荒れた道を車で10分ほど登ると「峠道文化の森 入口」。駐車スペースもあるが普通車のSUVでもかなりしんどい場所にある。

御坂城 (4)
パジェロミニかジムニーならば更に奥に続く堰堤の作業道を進み分岐点まで辿り着けるが、落石が多いので慎重に進もう。

小川沢川の堰堤工事に伴い、かつての沢沿いの御坂路の「行者平」(ぎょうじゃたいら)までの一部区間が破壊されてしまったのは残念だが、気になるほどではない。

御坂城 (7)
小川沢川の分岐点から10分ほど登った「行者平」にある石仏。「役行者」(えんのぎょうじゃ)に関連した信仰の場と伝わる。

【鎌倉街道の要衝御坂峠】

御坂城は、甲府と駿河・相模を結ぶ鎌倉往還の要衝である御坂峠に戦地する。最高地点の標高は1,570mで、北東から南西に伸びる尾根上の鞍部を通る峠道を両側から挟むように長さ600m、幅150mにわたって遺構がみられる。

甲府盆地側は笛吹市御坂町、郡内は富士五湖町に属する。

峠には茶屋の建物があり、その背後に御坂天神が祀られている。御坂路(みさかみち)と呼ばれる往還の御坂町側にはところどころに石畳道も残り、小石が山積みになった子持石(こもちいし)という場所があり、この山を背にして股下から小石を投げてこれから生まれてくる子供の男女を占ったという。

御坂城 (9)
のっけからバテバテの息絶え絶えで峠道も登れずに、同行した「ていぴす」殿にはお荷物状態でご迷惑をお掛けしました・・・(汗)

御坂城 (11)
子持ち石の手前のお地蔵様。旅人も道中の無事を祈願したんでしょうネ。

また、役行者(えんのぎょうじゃ)にちなむ行者平という信仰の場も途中にある。富士河口湖町側の河口湖畔近くには、貞観六年(864)の富士山噴火に際し、鎮祭のために創建されたという河口浅間神社が鎮座している。

※「甲信越の名城を歩く 山梨編」(2016年 吉川弘文館発刊 P222御坂城の記事の一部を引用し転載)

御坂城 (207)
峠道に残る石畳。

【天下茶屋からの攻城ルートに一石を投じてみる】

御坂城への探訪は「旧御坂トンネル」の天下茶屋から尾根を縦走するルートが定着している。実は我々も昨年の二月に、その定番のセオリーに従って探訪を実行したが積雪で断念した。

が、積雪が無かったとしても、比高差を考慮してもアップダウンを繰り返す縦走が正攻法なのか?という疑念があった。
なので、今回の攻城ルートは「往時の当たり前の道をいかに楽して登るのか・・」この事であった・・・(笑)

御坂城 (13)
らせん階段のように続く峠道の途中の説明板。「現在位置ぐらいチャンと示さんかい!!」(怒)

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峠の茶屋。不気味なお化け屋敷みたいですw

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行者平から死にそうになりながらの50分。確かに疲れが吹っ飛ぶ山城でした。

この続きは、次号を待て・・・・(笑)

Posted on 2016/10/27 Thu. 21:48 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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