らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0713

7月13日は福島正則公の命日  

◆波乱万丈の64年の人生を閉じた、あまりにも有名過ぎた戦国武将の寂しすぎる終焉の地◆

本日、7月13日は、福島正則公の命日である。

歴史にそんなに興味が無くても、戦国時代に秀吉子飼いの部将として加藤清正と双璧を成す活躍で、最終的には安芸広島藩49万5千石の大大名となる。武断派・猪武者・大酒呑みとあまり後世の評価はよろしくないが、そのストレートな気質や武骨な忠誠心に惹かれるファンは多い。小生もそんな一人である。

だが、元和五年(1619)、広島城の無届修理により幕府より改易・転封を命じられ、信濃国高井野45000石となったその後の正則公の晩年と終焉の地を知る人は少ない。

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高井野陣屋跡(福島正則居館跡)に建つ高井寺(こうせいじ)。陣屋の取壊し後の移転だという。

【福島正則居館跡(高井野陣屋跡)】 (長野県上高井郡高山村堀之内)

詳細は⇒福島正則居館跡を参照願います。

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万座道路と呼ばれる県道54号線の脇に立つ標柱(高山村堀之内地籍)

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高井寺(こうせいじ)の山門には説明板がある。

大坂夏の陣で戦乱の世が終わりを告げ、福島正則公は、この陣屋で何を思い日々くらしたのか・・・。

寛永元年(1624)、福島正則公はこの屋敷で64年の生涯を終えたという。臨終に際して、彼の脳裏を横切ったのは、どんな事であったのだろうか・・・。

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巨大な石垣は福島正則時代のものではなく、高井野藩の領地没収後に勧進されたものであるという。


福島正則居館跡の場所。駐車場が無いので、200m東にいった道路脇の「JA高山選果所」の駐車場を借用のこと。


【福島正則公荼毘の地】 (長野県上高井郡高山村堀之内)

ここは福島正則公の霊に呼び出されるように、今回初めて訪問しました・・・(汗)

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たかやま保育園に向かって走ると道路脇に誘導看板がある。

道路脇から少し入った水田に囲まれた僅かな場所に「福島正則公荼毘之地」がある。

墓地ならまだしも、荼毘に付された場所が語り継がれることは少ないのだが、領民が一本の杉を此の地に植え、正則公の遺徳を偲ぶよすがにしたのが始まりだと伝わる。
その後成長し巨木となった杉の木は付近の領民より「一本杉」と呼ばれ崇拝される巨樹となった。

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嘗ての杉は昭和九年の室戸台風で倒れてしまい、現在は二代目の杉の木が植えられている。

寛永元年(1624)7月13日、堀之内館(福島正則公居館)で波乱に満ちたその六十四年の生涯を閉じた福島正則公。彼の遺骸は、幕府検使役の到着が遅れる中、家老津田四郎兵衛の計らいで、高井野のこの地で荼毘に付された。

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供養塔は最近の建立であろうか。

だが、幕府検視役の到着を待たずして正則公の遺体を荼毘に付した(火葬)罪を問われ、高井野藩二万石は所領を没収され改易となった。家老の津田が火葬を急いだのは、夏場における遺骸の腐乱が酷く検視を待ちきれなかったという説もあるし、正則公の死の原因を隠すためだとも言われているが、真相は闇の中である。

思うに、幕府が検視役を派遣してまでも福島正則の死を確認したかったのは、死を偽装した彼が豊臣勢力の再集結を画策することを恐れていたことに他ならない。
大坂夏の陣(1615)から9年の月日が流れても、幕府は福島正則への警戒を怠らなかったのであろう。

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説明板もしっかりあります。

福島正則公が荼毘に付された事に関しては、自刃を隠したという説も根強く残るのだが、自刃する理由が見当たらないのである。
豊臣家への不義理を理由に自刃するなら1615年の大坂夏の陣の終結時であろうし、広島藩からの転封に異議申し立てするなら1619年に華々しく広島城で籠城戦に及び幕府に挑むというのが彼らしいと思う。

もはや時代に抗う事を良しとせずに、風流に過ごした晩年という見方が自然に思えるが、どうであろうか。

そして彼の魂はここから 心安らかに天に召されたのであろう。

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「もはや武勇で優劣を決する時代は終わったのだ・・・」そんな声が聞こえてきそうです・・


福島正則公荼毘之地。駐車場は無いので、100m先の交差点の道路脇に駐車するのが良いかと。

【福島正則公霊廟】 (長野県上高井郡小布施町雁田)

ここは以前に記事にしているので、詳細は⇒福島正則終焉の地 を参照願います。

この日も結構大勢の観光客が参拝に訪れていました。彼の実直な人柄に対する人気の表れでしょうか・・・。

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福島正則公の霊廟のある岩松院。背後には雁田山の小城、大城があり、高梨氏の関連の山城と伝わる。

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山門の入口には霊廟の説明板がある。

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彼の亡くなった時期も紫陽花が咲いていたのであろうか。

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霊廟が今日まで続くのは、福島正則公がいかに破格の扱いであるかを端的に示している。

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三百八十年年忌って、ある意味で凄い・・・(笑)

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墓石をパチリ。

2024年に没後四百年となるので、盛大な法要が行われるのであろうか?

小生が没しても三日後には忘却の彼方であろう・・・・(笑)

そう考えてみれば、四百年後にも名が残る事は、マジで凄い事なのである・・・。



高山村や小布施町は葛飾北斎で賑わうが、戦国大名でも人気の高い福島正則が、晩年の5年間を過ごした地であることを知る人は少ない。
お近くをお通りの際には、是非彼の晩年の地をその目で確かめてもらえれば光栄である・・・。
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Posted on 2017/07/13 Thu. 22:03 [edit]

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0711

8年ぶりの鎌原城に驚く  

◆真田丸は終わっても嬬恋村の名所・旧跡として継続整備をお願いしたい◆

いまでこそ、真田氏関連の中世山城としてお城フリークの皆さんにだいぶ知られるようになった鎌原城(かんばらじょう 群馬県吾妻郡嬬恋村)ですが、小生が最初に訪問した2009年9月当時は、地元でもその存在を知る方はほとんどいなかった・・(汗)

2009年の当時の記事⇒鎌原城

場所が分からず、嬬恋村郷土史料館で尋ねても??。農産物直売のお店を開いていたおばあちゃんが辛うじて知っていただけ・・(笑)

2017年5月6日、ていぴす殿との上州遠征の帰りがけに8年ぶりに寄り道して見た。その変貌にビックリマンチョコであった。

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岩櫃城の本丸の標柱にも劣らない本丸の立派な標柱。家臣の城なのにネ。

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こちらは現在の岩櫃城本丸に立つ標柱。こちらも最近建て替えとなった(2017年7月撮影)

8年前は道路からの入口看板も無く、適当にキャベツ畑を30分も彷徨ってようやく発見したのに、今じゃ日本ロマンチック街道に道標があり、未舗装ながら農道も整備され駐車場もあるので、乗用車で迷うことなく到着できる・・・(汗)

羽根尾城・鎌原城 071
当時は何の標柱もないキャベツ畑の農道をひたすら歩いた記憶しかない・・。

8年の歳月で城跡はどう変わったのか比較してみましょう。

羽根尾城・鎌原城 067
2009年。堀切、二の丸(鉄塔付近)。本丸はほとんどが雑木林。

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2017年。堀切脇にも標柱が立ち、本郭は刈り払われてスッキリした。

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二の丸と三の丸の間の堀切。雑草が生い茂り形が辛うじてわかる程度。

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見事に刈られてバッチリ観察可。

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2009年は堀切の脇にひっそりと標柱と説明板があるのみ。

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掘脇の標柱も説明板も本丸に無事移転されました(笑)

真田丸には一度も登場することのなかった鎌原氏ですが、滋野一族の出自で戦国時代は上杉⇒武田⇒真田と仕え、最終的には沼田真田藩の家老となります。沼田真田藩が改易となると、上州街道の大笹の関守として明治まで続きました。

詳しくは⇒大笹関所

吾妻川の断崖を利用した崖渕の館城で、三の丸の虎口は喰い違い虎口であったというが、はっきりしない。
本丸の先端には笹曲輪、二の丸の東には堀を隔てて東曲輪があるので、マニアならそこまで踏み込むと面白いかと。

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この立派な標柱は8年前にもありました。

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個人的にはこっちの標柱がレトロでよろしいかと。

せっかく整備したので、ブームで終わらないように定期的な整備を臨みたいものです。

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駐車場には縄張付きの解説版があり、やる気十分だ(笑)

そして快く私有地を解放してくださった土地所有者の皆さんには感謝感謝でございますw

お近くをお通りの際は、鎌原観音堂・嬬恋郷土史料館とセットでお勧めです。


⇑鎌原城の駐車場はここ。誘導看板があるので、ここまで車で入れます。

Posted on 2017/07/11 Tue. 21:08 [edit]

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真田丸大河ドラマ館 (上田市)  

◆記念すべき50万人目の入場者にはなれなかった・・・◆

高嶋氏政もとうとう切腹してしまい、ドラマは狂気の小日向秀吉劇場となるようである。

先日、家人より入場券をプレゼントされたので、仕方なく「信州上田真田丸大河ドラマ館」に行ってみた・・(笑)

チケット①

週末は相変わらず団体客等で大混雑らしいので、平日の閉館1時間前に狙いを定めて突入する。

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元々は上田市民会館で馴染みの深い場所であるが、大河ドラマ館に改装後は初訪問である。

それでもね、結構駆け込みの団体さんがいたりして賑わってました。

展示物もドラマの前半のお話しに関するものが多く、やはり上田が中心の舞台設定でした。

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閉店時間なのでご覧の通り。

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週末は順番待ちの行列が出来るという大河ドラマ館の入口

あわよくば50万人目の記念入場者となるべく入ったのだが、何の反応も無かった・・・(汗)

家に帰ってから現在の入場者数を調べたら、その日で36万人。夏休みが過ぎて50万人ぐらいの計算になるだろうか・・。

それでも県庁所在地の長野市の人口が37万人なので、この田舎でいかに凄い数字の入場者数なのかは実感である(笑)

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館内で撮影出来るのはこの一か所のみ。

物語もいよいよ後半戦に突入していくので、大河ドラマ館の展示内容も第二次上田合戦~大坂の陣あたりにテーマを変えてみたらいいのになあーなんて思ってますが、掻き入れ時の夏休みを前にしてありえないか、と思う次第。

まあ、話のネタにはなったんで600円が高いか安いかはその方の判断でございますw

ご来場を検討されている方は、チケット売り場が混雑するので事前に近くの取扱所で入場券を購入しておくとすんなり入れます。
真田丸入場券販売情報

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波田山城の下書きが全然進まないので、とりあえず繋ぎで掲載してみました…悪しからず・・(汗)


Posted on 2016/06/22 Wed. 07:59 [edit]

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虚空蔵山城 (上田市塩尻)  

◆馬も登れず人も寄せ付けない村上連珠砦の最高地点を再利用した上杉の境目の城◆

「虚空蔵山」(こくうぞうざん)という名の山は全国に無数点在し、信濃にも結構多くある。その中で、上田市と坂城町の境に位置する虚空蔵山(標高:1079m)は戦国末期まで境目の城や砦が築かれた特筆すべき山である。

村上連珠砦群①
「上田 川と道の駅」から見た虚空蔵山の西尾根と砦群。

大河ドラマ「真田丸・第十回」に登場した上杉の守る「虚空蔵山城」とは、元々は村上義清が小県郡の防衛の為に虚空蔵山(標高1079m)を中心に複数の砦を築いた「村上連珠砦」(むらかみれんじゅさい)のネットワークの最も高い標高にある砦の名称である。武田統治下では使用される事もなかったが、天正壬午の乱が勃発すると上杉方によってVS徳川に対抗する境目の城として再利用されている。

村上連珠砦②
「上田 道と川の駅」から見た虚空蔵山の東尾根と砦群。

ドラマでは信繁が春日山城の景勝に直談判し、八百長の戦を演じるよう依頼し、虚空蔵山城にて直江兼続が攻め入る真田を打ち破る芝居をして、その結果として沼田城の北条勢を退却させる策に成功している。

放送直後から小生のブログは「虚空蔵山城」の検索ワードによりアクセス数がかなりアップした。残念ながら、真面目に虚空蔵山城の記事を書いていないので、お役に立てず心苦しく思い、この臨時号を思い立った次第である・・・(笑)

しかしながら現実の虚空蔵山城は、ドラマのように馬で登れるような立地ではなく、人すら寄せ付けない比高647mの険しいガレの岩尾根の頂上に築かれた砦である。十人程度の兵士が辛うじて籠れるような狭い場所で、とてもまとまった兵士を収容できる規模ではない。もし、そのような機能が持てる場所とすれば、西尾根の先端に築かれた和合城(わごうじょう)が最適であろう。

2015山城納め (19)
山城マニア必見の和合城。信濃の戦国時代の境目の城を代表する美しい縄張と絶景を体感して欲しい。

さて、肝心の虚空蔵山城は信濃屈指の比高差を誇る山城なので、生半可な装備と意思では辿り着けない・・・(汗)
登山道は地元の皆さんのご尽力により整備されているので歩きやすいが、片道125分の過酷な日帰り登山という認識で挑戦していただきたい・・。

kokuzou (68)
虚空蔵山城へは、上田市上塩尻にある「座摩神社」経由でトライするのが良い。

【城跡】

ここの頂上からは連珠砦の全てを掌握出来て、更に上田城はもちろん塩田平、坂城方面の諸城は全て監視下に置くことが出来る。軍事的な要衝として村上氏の時代から上杉景勝、そして真田昌幸も重要視したことがわかる。
1076mの頂上の看板のある郭から西側にかけて直線距離で約180mぐらいまでが城域である。吹きっさらしの山尾根の北側に削平地を穿って土塁を作り北風を防ぎ、小屋掛け出来る場所を設けた工夫が見られる。

虚空蔵山頂上
三角点のある頂上は主郭ではないので注意。

虚空蔵山城主郭付近
主郭は西尾根へ80mほど下がった場所で石の祠が置かれている。

虚空蔵山城東主要部
主郭から見た東側の頂部。

kokuzou (53)
上杉軍はここに交代で見張りを置いて上田城の築城を監視させ、和合城経由で海津城に状況を逐次報告していたのであろう。

虚空蔵山からの遠景①
遠く塩田方面まで見渡せる絶好のロケーションである。

虚空蔵山からの遠景②
北信濃方面も良く見渡せる。

上田市の北側に屏風のように聳える虚空蔵山。ここの山城群に対抗すべく大大名の徳川軍の力を借りて上田城が完成するのである。

この時徳川家康は、昌幸と約束した諏訪、甲斐における加増の約束を履行しないばかりか、事もあろうに沼田城の引き渡しを真田に命じ、反発した昌幸から断交される。そしてまさかに自分の築いた上田城を攻める立場になるとは思っていなかったでしょう・・・。

葛尾城よりの遠景

徳川に手切れを通告した真田昌幸は上杉に再度臣従を誓い、第一次上田合戦後はその功績によって景勝より坂城の知行を加増された。合戦で大きく破損した上田城の修築は上杉軍がメインで修築し、葛尾城や虚空蔵山城は真田によって改修されたという。引き続き上杉方の対徳川の最重点拠点として上田城とその周辺の山城が強化されたのは言うまでもない。


≪虚空蔵山城≫ (こくうぞうざんじょう 御殿城)

標高:1076.9m 比高:647m
築城年代:不明
築城者・城主:村上氏、武田氏、上杉氏、真田氏
場所:上田市塩尻(坂城町との境)
お勧め度:★★★★☆ 
所要時間:片道125分 駐車場:無し。迷惑がかからぬよう適当に路駐
※オフロードの四駆なら高津屋城のすぐ北側まで行ける。
見どころ:周辺の村上連珠砦も併せて見ると良いでしょう。車2台でデポして和合城まで縦走するのが効率的。
注意事項:登山です。それなりの準備と体力と心の準備は必要。縦走して見るなら5時間は覚悟。岩登りあり足元注意。
参考文献:「信濃をめぐる境目の山城と館③上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)

虚空蔵山城②
堀切の脇にある石祠。








Posted on 2016/03/16 Wed. 07:46 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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