らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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飯縄山 里宮・奥社 (長野市富田)  

◆謙信公の兜の前立となり不敗神話を支援した飯縄大権現の本拠地◆

北信濃における修験者の三大霊場として全国にその名を知られた戸隠山・小菅山・飯縄山。

今回ご案内するのは、小生の三大霊場の最後の未踏の地であった飯綱山。

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甲越紛争の激戦地で、落城悲話の残る葛山城の本郭から見た飯縄山。登山の趣味などないので「ならば登りたくない・・・」(汗)

修験場としての飯縄山を記事にする場合、当然ながら里宮と奥宮がセットでないと片手落ちになる。が、肝心の奥宮が飯縄山(標高:1917m、比高:900m)の山頂に位置する為に、「登山」の覚悟と体力が無いと取材出来ない。

さりとて先延ばししても仕方ないので、先日何とか往復4時間30分の激闘の末、満身創痍(下山途中に両足の痙攣で立ち往生)で辛うじて生還を果たす。修験者の過酷な修行など、小生には絶対に無理だという事が判明しただけでも良しとしたい・・・(笑)

根小屋城(長野市戸隠) (6)
戸隠豊岡の根古屋城から見た飯縄山。


【修験道とは】 

小生が宗教を語るなんぞは百万年早いと言われるので、Wikipediaの主要部分のみを引用してみた。

修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教である。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。
また、修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られる。表現形態として、権現(神仏が仮の姿で現れた神)などの神格や王子(参詣途上で儀礼を行う場所)がある。

飯縄山里宮 (3)
飯縄山里宮の表参道。里宮は戸隠バードラインから少し外れた富田地区の荒安集落に佇む。

【飯縄神社の由緒】 ※飯縄神社公式HPより転載

飯縄神社は、西暦270年頃第15代応神天皇の御代飯縄山山頂に天神大戸道尊を祀り、飯縄大明神と称したのがそもそもの起こりで、本地を大日如来とし 848年学問行者が飯縄山に入山して、この如来の尊容を拝したと言われる。

 西暦1233年に信濃国荻野(信州新町)の地頭 伊藤兵部太夫豊前守忠綱が、飯縄大明神のお告げにより入山し、山頂に飯縄大権現を勧請した。忠綱の 子、盛綱も父に従い入山し、荼枳尼天の法を修得、 父より飯縄の法(管狐を使う独特の法術)を受継ぎ、飯縄原始忍法を確立、自ら「千日太夫」と称し、飯縄信仰を全国に広げると共に忍法の祖となった。
又、武門の尊崇を受け、特に足利三代将軍義満は、 紫金仏の地蔵菩薩像を飯縄山本地仏として寄進し、室町時代末期には武田・上杉両家の深い尊信を受け 神領を寄進され、徳川三代将軍家光も朱印地百石を寄進するなど、飯縄信仰は全国的に伝播、万余の末 社を有し、全盛を誇った。この里宮は、千日太夫の冬季居所に武田信玄が創建したものといわれる。

 飯縄山は山頂より食べられる砂(飯砂)を産し、参籠の行者等は、これを採って食べたことから飯砂山、転じて飯縄山と言い、これは保食神(皇足穂命)の霊徳として、明治六年長野県庁より皇足穂命神社の称号を与えられた。

※以上で引用終わり。

飯縄山里宮 (4)
自ら「パワースポット」と称するのは如何なものかと・・・。

「皇足穂命神社の称号が長野県より与えられた」などとは聞こえが良いが、実のところは、明治元年(1868)の神仏分離令が出されて神領を召し上げられ仁科宮司は退去。追い打ちをかけるように明治五年には修験禁止令が出されたため、名前を変更され郷社に列せられるという屈辱の過去だったんですネ。

飯縄山里宮 (6)
何で善光寺なの?この並びなら小菅神社(小菅山)でしょ。

【中世の飯縄山】

飯縄大明神は代々千日大夫と通称した修験者によって奉仕されていた。戦国争乱中の武将からも厚く信仰され、上杉謙信が兜の前立てに飯縄大権現を誂えたのはご承知のとおりである。また、その後の弘治三年(1557)、芋井の葛山城(長野市)を攻略した武田晴信(信玄)は、飯縄大明神の神官千日大夫に対し安堵状を与え、武田家の武運長久を祈らせた。またその功績によって、元亀元年(一五七〇)には、芋井を中心に沢山の所領を寄進した。また伝承では元亀頃飯縄神社里宮を荒安村に造営したといわれている。

 天正八年(1580)閏三月、武田勝頼は千日大夫あての朱印状(同文書)をもって、里宮の造営と遷宮を行っている。このようにして飯縄大明神の里宮が荒安村にでき、千日大夫もまた居を据え、門前百姓も定まったという。

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上杉謙信所用の飯縄大権現前立兜(上杉神社蔵)。戦の神である飯縄大権現(白い狐に乗った烏天狗)がモチーフとされている。

天正十年(1582)、武田氏滅亡後この地を領有した上杉景勝は、同年十一月二〇日、飯縄大明神の旧領を改めて寄進した。この間飯縄神領を含めこの地方の支配者は転々と代わったが、慶長九年(1604)七月二一日、暮府は飯縄大明神に、荒安村の壱百石を社領として寄付した。慶安二年(1649)、松代城主真田信之から幕府へ朱印下付を申請し、同年八月一七日、徳川家光から改めて百石の社領が寄付された等のことを経て、飯縄大明神の支配関係は一応安定を見せていた。

飯縄山里宮 (7)
里宮の大鳥居。「皇足穂命神社」などと云われてもピンと来ない。

飯縄山里宮 (9)
里宮の社殿。「千日大夫」の冬期における宿坊が信玄により造られ贈呈されたという。健康第一ですね(笑)

●飯縄山の衰退

江戸時代は、飯縄山頂をめぐる戸隠神領との境界争いが繰り返され、千日太夫仁科氏もその争いに明け暮れの毎日であったためか、修験者としての活動は無く、「神道無念流」が此の地で起こったという以外には、余り話題になる事柄や記録を遺していない。
戸隠との境界争いが続く中で、寛文十一年(1671)裁判では、飯縄山頂は戸隠神領とされた。 (戸隠衆徒共有文書)。
しかし天保十三年(1842)の幕府の裁許状では、判決は逆転し、飯縄山は干日大夫仁科甚十郎の支配となった。(戸隠衆徒共有文書)。
が、この判決を不満とした戸隠神領側は寺社奉行に訴え出て、弘化三年(1864)、両者の間の示談を経て、昭和の時代までこの争いは続いたが、結局戸隠側の敗北に終わった。

飯縄山の霊場としての人気も下火となり、信仰心だけが残る形となっていたが、明治の神仏分離令により信者も途絶えてしまい、善財はその昔の霊場跡を僅かに残すのみとなっている。

飯縄山里宮 (13)
西側からみた里宮の社殿。

飯縄山里宮 (10)
天然記念物に指定されている里宮の大杉。


飯縄山里宮の場所。葛山城の北方約1.2km。


【飯縄山 奥社訪問への苦難の道中】

小菅山の奥社への参拝は、下調べ不足による往復2時間の自業自得の苦しみであったが、飯縄山の奥社参拝の道中は、事前に下調べを万全にしたにもかかわらず、夏山の体力消耗を甘く見た初歩的なミスであり、往復3時間は夢物語であった事を深く反省する結果となった。(実際には約5時間の苦行)

飯縄山奥社 (1)
奥社参道入口。

飯縄山奥社 (4)
AM6:20だというのに既に6台の駐車車両。日帰り登山の山として人気が高いのがわかる。

飯縄山奥社 (6)
五分ほど歩くと「奥宮一の鳥居」。ここから十三仏を数え拝んで登れば良いはずだった・・・。

●飯縄登山道の十三仏

下調べをしてきた割には、「十三仏」が何なのか理解できないまま登山道を登った。途中の説明板には達筆で由来がかいてあるのだが、凡庸な頭では理解不能で、道標ぐらいにしか思っていなかった・・・(汗)

飯縄山奥社 (13)
一の鳥居から400m登った先に第一の不動明王があり、その近くにある説明板。「十三仏縁起」とある。

以下はWikipediaの「十三仏」の解説である。室町期の修験霊場の遺構ではなかったようだ。

十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとにして、江戸時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる13の仏(正確には仏陀と菩薩)である。また十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられる。

13の仏とは、閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地とされる仏である。 (以上、ウィキペディアより引用)

せっかくなので、十三仏を現地の写真に解説をつけてみましょうか。

『第一 不動明王』

裁判官:秦広王( しんこうおう)  審理:初七日(7日目・6日後)

飯縄山奥社 (11)

『第二 釈迦如来』

裁判官:初江王( しょこうおう) 審理: 二七日(14日目・13日後)

飯縄山奥社 (14)

『第三 文殊菩薩』

裁判官:宋帝王 (そうていおう) 審理: 三七日(21日目・20日後)

飯縄山奥社 (17)

『第四 普賢菩薩』

裁判官:五官王( ごかんおう) 審理: 四七日(28日目・27日後)

飯縄山奥社 (19)

『第五 地蔵菩薩』

裁判官:閻魔王 (えんまおう) 審理: 五七日(35日目・34日後)

飯縄山奥社 (21)

『第六 弥勒菩薩』

裁判官:変成王( へんじょうおう) 審理: 六七日(42日目・41日後)

飯縄山奥社 (23)

『第七 薬師如来』

裁判官:泰山王 (たいざんおう) 審理: 七七日(49日目・48日後)

飯縄山奥社 (25)

『第八 観音菩薩』

裁判官:平等王( びょうどうおう) 審理: 百か日(100日目・99日後)

飯縄山奥社 (26)


『第九 勢至菩薩』 (せいしぼさつ)

裁判官:都市王( としおう) 審理: 一周忌(2年目・1年後)

飯縄山奥社 (29)

『第十 阿弥陀如来』

裁判官:五道転輪王( ごどうてんりんおう) 審理: 三回忌(3年目・2年後)

飯縄山奥社 (32)

『第十一 阿閦如来』 (あしゅくにょらい)

裁判官:蓮華王 (れんげおう) 審理: 七回忌(7年目・6年後)

飯縄山奥社 (38)

『第十二 大日如来』  ※標高1,619m

裁判官:祇園王( ぎおんおう) 審理: 十三回忌(13年目・12年後)

飯縄山奥社 (41)

『第十三 虚空菩薩』

裁判官: 法界王( ほうかいおう) 審理: 三十三回忌(33年目・32年後)

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※写真を撮り損ねたのでブログ「のんびり生きよう」様の写真をお借りしました。

まあね、知ったかぶって書いておりますが、小生が死んだら四十九日辺りで審理はストップして「忘却の彼方」だと思う・・(笑)

【飯縄神社奥宮について】 ※飯縄神社HP参照

飯縄神社(奧社)は飯縄山南山頂にあります。ここからは東南方遙かに富士山・浅聞山を、西北に戸隠連峰高妻・乙妻・西岳が、北に妙高・黒姫ほか信越の諸山、西南には日本アルプスの山々をと、文字どおり360度の展望を楽しむことができます。

社殿は木造ですが、伊勢湾台風で被害を受けた経験や、雪害対策と信者や登山者の安全を考慮して、鉄筋ブロック建ての建物の中におさめられてあります。山頂を取り囲む岩石上には、武田勝頼が再建したことがわかる武田菱の旧社殿(石祠)や、日本各地の霊山を祀った石祠が立ち並んでいます。

「延喜式」神名帳に所載されている皇足穂命神社は、水内郡で九座ありますが、当飯縄神社はもその中の一社です。御祭神は、大戸道命・大戸辺命と保食命の三神で、春の祭典は五月八日と六月五日です。奧社祭典は六月五日で頂上祭と開山祭があります。秋は十月八日・十二月八日です。

●武田勝頼の再建した旧社殿(石祠)

3時間の悪戦苦闘の果てに見た社が、てっきり奥宮と思ったのだが、どうも違った。
下山して家に戻ってから、ここが武田勝頼が再建した奥宮の旧社殿だったことを知ったのである。

飯縄山奥社 (49)
皆さん奥宮と勘違いするみたいです。(といっても武田統治時代はここが奥宮だったのは事実)

飯縄山奥社 (52)

なんで武田って判るの?というと、石祠の正面に「武田菱」が彫られているんですよネ。

飯縄山奥社 (50)
南側から見た石祠。

飯縄山奥社 (50)
武田菱がお分かりいただけるでしょうか?

むやみやたらに写真を撮る愚かさはあるにしても、「とりあえず撮影した一コマ」がこんなに凄いのである。
※下調べがいかにいい加減だったか思い知らされました・・・・(笑)

●現在の奥宮

武田の旧社殿から少し登ったところの南のピークに奥宮がある。

片道3時間かけた目的地にようやく到着。既に息も上がり滝のような汗が流れ落ちたが、涼風が心地よかった。

飯縄山奥社 (55)
南のピークには石祠が点在している。

飯縄山奥社 (66)
奥宮の外側は鉄筋の建物で守られている。

飯縄山奥社 (65)
飯縄山奥宮。今回の登山はここが目的だった。

飯縄山奥社 (62)
何百年もの間、吹き曝しの頂上に木造の本殿では、風雪に耐えるのは難しい。

飯縄山奥社 (57)
奥宮から見た長野市方面。

●飯縄山山頂(北ピーク)

もはや帰る体力も微妙になっていたが、せっかくなので北の山頂へ向かうことにした。(奥宮から約10分)

飯縄山奥社 (59)
奥宮から見た飯縄山の山頂。

飯縄山奥社 (67)
日帰り登山としては2,000mくらいが限界であろう。小生はとっくに限界・・・(汗)

飯縄山奥社 (68)
さっきまでいた南ピークの奥社がよく見える。

飯縄山奥社 (77)
南麓の戸隠方面。

飯縄山奥社 (71)
飯山方面。

飯縄山奥社 (75)
頂上付近にも石仏がある。どんな思いで運び上げたのであろうか。

今回の奥社を巡る登山で気が付いた事がある。

それは、小生の趣味に間違っても「登山」の二文字は入らないということであろう。

比高200mクラスの山城を藪漕ぎで3往復している方が遥かに楽しい、というのが本音である・・(笑)

恥ずかしながら、下山途中で両足が痙攣してしまい10分ほど登山道脇でひっくり返っていた。(セミの最後かい・・・汗)

が、飯縄大権現のご利益で何とか生還出来ました・・・・(笑)


≪飯縄山奥宮≫ (いいづなやまおくみや)

標高:1,909m 比高:779m (奥社参道入口より)
造営年代:不明
場所:長野市富田 (飯縄山山頂)
訪問日:2016年8月7日
お勧め度:★★★☆☆ 
所要時間:2時間30分~3時間(片道)
駐車場:有り
見どころ:十三仏、武田勝頼奉納旧社殿、奥宮
参考文献:飯縄神社公式HP他
注意事項:登山届の提出必要。体力と装備に自信の無い方は止めましょう。

富士の塔砦 (31)
飯縄山の南約10kmになる富士の塔山から撮影した飯縄山。(2015年6月撮影)生涯登る事などないと思っておりました。

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Posted on 2016/08/18 Thu. 21:17 [edit]

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新海三社神社 (佐久市臼田)  

◆「神社の宝庫である」として、廃仏毀釈の静粛を免れた奇跡の三重塔が鎮座する由緒正しき神社◆

どう悪あがきしても神社仏閣の専門の方には及ばないのは仕方がないので、素人なりの視点で取材をしてみた・・(汗)

佐久市臼田のミニ五稜郭として有名な龍岡城跡の近くにある新海神社が、歴代の戦国武将の庇護を受けた著名な神社と知ったのは最近の事であった。

明治時代の廃仏毀釈の嵐の中で、併設する神宮寺は解体され南300mの上宮寺に移転統合、三重塔も解体の危機に瀕したが、神社側が「代々新海三社神社の宝物庫(倉庫)である」として難を逃れたという。
「嘘も方便」で貴重な文化財が救われたのである。

新海三社神社 (27)
豪快な「一の鳥居」。参道の途中まで車が入るので誘導看板に従って神社西側の駐車場に止めると良い。

新海三社神社 (26)
立派な杉並木の残る参道。源頼朝を始めとした歴代武家に保護されてきた証である。

【新海三社神社について】

※出典元⇒佐久市ホームページ新海三社神社

新海三社神社は、その創建は不詳ながら、興波岐命(おきはぎのみこと)を主神として東本社に祀り、その父神・建御名方命を中本社に、伯父神・事代主命を西本社に祀ります。
特に興波岐命が、新開神(にいさくのかみ)とも称されることにより、「佐久」の地名の由来ともいわれるほか、諏訪湖の御神渡の「佐久の渡」は、興波岐命が湖上にて父神とご参会された跡とされています。

新海三社神社 (1)
駐車場腋に立つ神社境内周辺の見取図。

古来佐久三床三十六郷の総社と言われた新海三社神社は、広大な社地を有し、境内の古墳からは蕨手刀(わらびてとう)が出土や、武神としても崇敬あつく、源頼朝による社殿の修理再興の口碑、武田信玄が箕輪城攻めの際における戦勝祈願の願文も残されています。
入口の大きな鳥居をくぐると遠くに大ケヤキと大スギが立ち並ぶ参道が薄暗い木影を落とし心地よい風が吹き抜けます。
その先の石段を上ると、拝殿が正面に見え、その脇には神楽殿があり、非常に静かな佇まいは、とても落ち着いた雰囲気を感じさせてくれます。

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拝殿に続く石段。

新海神社2 (14)
丸っこいチビッ子たちがお出迎えです。

新海神社2 (15)
愛嬌たっぷりの表情を見せてくれます。

拝殿と神楽殿は共に木造の簡素な装飾で、大きな社叢の中に静かに鎮座しているように見えます。
拝殿後方には、西本社、中本社、東本社の三つの社殿が並んで建っており、素木で作られた拝殿の質素な雰囲気とは一変し、西本社と中本社は朱と彫刻が見事な流造となっています。
また、西本社と中本社の間には、御魂代石(みたましろいし)の石幢(せきとう)があります。

新海神社2 (18)
拝殿。

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拝殿の東に位置する神楽殿。

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朱色が並列する西本社と中本社。

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西本社と中本社の間の「御魂代石(みたましろいし)」の石幢(せきとう)。

新海神社2 (58)
社殿の背後から見た「御魂代石」。結界より内側には入れないが、龍の彫刻が彫られているのが確認出来る。

新海神社2 (56)
「御魂代石(みたましろいし)」の真北には層塔が建つ。何かを意図している事だけは感じ取れる・・・。

一番右の東本社は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)・桧皮葺(ひわだぶき)で、母屋の柱貫木鼻(はしらぬききばな)の笹模様などに時代的な特徴が示され、国の重要文化財に指定されています。
当社の奥には、室町時代末の永正12年(1515年)の建造物で、東社と共に国の重要文化財として指定された三重塔があり、その建築様式は三間三重塔婆(さんけんさんじゅうのとうば)・柿葺(こけらぶき)で、禅宗様と和様を折衷した建築当時の特性をよく示しています。

※以上、佐久市のホームページからの引用転載終了

新海神社2 (32)
室町期の独自の美しさを表現している東本社。(背後は三重塔)

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元々は敷地内にあった神宮寺の建物だったが、明治の廃仏毀釈運動で取壊しの対象となる。しかし、新海三社神社側が「の宝庫と申告して破壊を免れた三重塔。

新海三社神社 (20)
背後から見た三重塔。


【信玄の願書について】

永禄八年(1565)、武田信玄は上州箕輪城の攻略における先勝祈願の願文を新海三社神社に奉り見事勝利をおさめている。
その時の願文の文面は以下の通りであったという。

「今年永禄八年乙丑春皇二月七日、えらびて吉日良刻となし、天道運数に任せて吾が軍を上州箕輪に引率するの日、まず願状を新海大明神祠前に献ず。その意趣は、殆んど箕輪の城十日を過ぎず撃砕散亡せんことは必せり。それ当社は普賢菩薩の垂跡なり。人の願轂に来り苦を救い難を救う。しかのみならず、細軟の衣を鎧となし、瓔珞冠を甲となし、如意鉄を干戈となし、大白象を駿馬となし、百億の化身みなぎって吾が方に満たば、迂誕なかるべし。ここに太刀一腰(銘あり)・孔方五今緍進納せしむるところなり。神感なお余りて惣社・白井・嶽山・尻高等の五邑、たやすく予が掌握に帰さば、苾芻衆(僧侶)を請じ神前に於いて三百分部の法華経王を読踊し、もって神徳に報謝すべし、急々律令の如し。

時に永禄八年乙丑二月吉辰 信玄敬い白す (花押)」

箕輪城2016(高崎市) (237)
願文によって上州箕輪城の攻略に成功した信玄。ちゃんと願掛け成就のお礼はしたと思うのだが・・・。


【廃仏毀釈運動により移転統合を余儀なくされた神宮寺】

明治元年、明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した。

仏教排斥という誤った考えが引き起こした廃仏毀釈運動は全国に広がり、新海三社神社の別当寺であった神宮寺(本号:新海山上宮本願院神宮密寺、本尊は阿弥陀如来)も、神社の南300mに移転を余儀なくされ名前も「新海山上宮寺」と変えたようです。
※この時に三重塔は神社の宝庫として解体を逃れた。


●新海三社神社に残る神宮寺の跡地

神社の東側に広大な敷地跡があり、一部往時の石垣が残る。
現在は竹林に覆われ、往時の姿は不明となってしまった。

新海神社2 (34)
現存する石垣。

新海神社2 (36)
仁王門や堂宇を含めた伽藍があった跡地。

●現在の上宮寺

神宮寺からの移築物としては、南北朝初期の作である梵鐘、室町時代後期の作とされる金剛力士像が残る。(いずれも県宝)

新海神社2 (80)
何の変哲もない上宮寺の本堂。

≪梵鐘≫

南北朝時代初期の作で、鎌倉寺㋐ぢの風格を保っている点、県内でも数少ない貴重品で、鐘身高約70cm、竜頭高約17cm、口径約50cmである。
陰刻の銘文に暦応元年(1338)上州群馬郡高井郷(前橋市)に東覚寺(とうがくじ)の為に造られたとあり、のちの天文十二年(1543)に当地田口城主 田口左近将監長能(たぐちさこんしょうげんながよし)が、別当寺として神宮寺があった新海大明神に寄進したとある由緒来歴ある梵鐘である。(現地説明板より)

新海神社2 (78)
プアな鐘楼に貴重な県宝の扱い。これでいいのか?

新海神社2 (83)
鐘楼には登れないので、ズームで撮影。

≪金剛力士像≫

新海神社の境内にあった観音堂(本地堂)の仁王門としてあったが、慶応四年の神仏分離令によって、神宮寺の堂宇とともに現在地に移された。
構造は、檜材や松材を使った寄木造りで、躯間部は前後左右で接ぎ、体内は内刳り、頭部は耳の前で割り、玉眼を嵌(は)め入れている。
平成十九年の調査により、体内墨書銘から、造立が文明二年(1470)、仏師が大工祐得(ゆうとく)、小工伊賀寺雄真(いがじゆうしん)であることなどが判明した。

新海神社2 (70)
まさかこのようなミスボラシイ建物に仁王様がご在宅とは・・・・(汗)

新海神社2 (73)
逞しい阿形様

新海神社2 (76)
凛々しい吽形様

新海神社2 (81)
本堂との位置関係もおかしな仁王門の位置。扱いが酷すぎる。

こんな扱いしていたら長野県も笑われます。筋骨隆々の仁王様も湿気には弱いでしょうし・・・・(汗)
早めに改善を望みたい。今度、県の教育委員会に抗議しに行こう。




●おまけショット

新海三社神社の北側には三ヶ所の「御陵」(古墳)がある。ここまで見学する方はさすがに少ないが、小生、古墳マニアの端くれなので行ってみた。
本物のマニアは石室に入るらしいが、小生、「閉所恐怖症」であるとともに黄泉の入口みたいな羨道(せんどう・横穴式石室の入口部分)には怖くて入れない・・・(笑)

新海神社2 (60)
神社北側の中御陵(円墳)

新海神社2 (51)
中御陵の東50m付近には二基の東御陵。六世紀頃の方墳らしく復元作業が行われたようだ。

西側にもあるようだが、時間切れで断念。


≪新海三社神社≫ (しんかいさんしゃじんじゃ)

標高:810m 比高:-
造営年代:不明
場所:佐久市田口宮代
訪問日:2016年6月26日
お勧め度:★★★★★ (満点)
所要時間:-
駐車場:有り
見どころ:三重塔、拝殿、神楽殿、東本殿、西・中本殿など 上宮寺(旧神宮寺)はセットで必見。
参考文献:現地説明板
注意事項:特になし

新海三社神社 (8)
訪問したのが6月末だったので、夏越の祓の「茅の輪くぐり」。小生の厄は落としきれなかった・・(笑)



Posted on 2016/08/11 Thu. 11:24 [edit]

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信濃国分寺跡 (上田市国分)  

◆「百聞は一見にしかず」~遠き都の天平文化の地方遺産~◆

最近は中世の城郭から離れた記事が続いているので読者数も激減している。こればっかりは致し方ない・・・・(汗)

決して山城探訪が狭義だとは思わないし、これからも未訪の山城の探索は続けて行こうと思うが、「日本の歴史」という広義な視点も時には必要な気がする。

今回ご案内するのは、昭和四十三年に国の史跡として15万㎡が追加指定された「信濃国分寺跡」。(最初の指定は昭和5年)
上田市で生まれ育った小生、恥ずかしながら何の関心も無かった為に今までにで一度も足を踏み入れたことのない聖域である(笑)

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まずは、上田市立信濃国分寺資料館でお勉強しないといけません。(入館料250円)

信濃国分寺跡 (3)
資料館の外観。周辺には縄文時代の住居跡のレプリカまである凝った仕様だ。

信濃国分寺資料館には、発掘調査による信濃国分寺跡関係資料を中心に、上田・小県地方で人々が活動を始めた旧石器時代から奈良・平安時代までを8つのテーマに分けて展示しています。(残念ながら展示室は撮影禁止)

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全国の国分寺と国分尼寺の所在地。

小生の他にも何組か見学者がいたが、さほど広くない資料館で30分以上も見学している強者は小生だけであった・・・(笑)
対価に見合う学習をしているまでですが、何か?。

【信濃国分寺の創建】

 「国泰らかに人楽しみ、災いを除き福至る」を祈願された、天平十三年(741)の聖武天皇の詔は、諸国に七重塔を造り、金光明経・法華経を安置し、国の華と言うべき寺院を創建することを目的とした。僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺と称し、全国六十六ヶ国と壱岐・対馬の二島に国分寺を建立し、仏教の弘通により国土安穏・万民豊楽を祈願するとともに文化の興隆をはかったのである。奈良の東大寺が総国分寺として位置づけられ、国を挙げての大事業であった。地域によっては建設が進まなかった所もあったようだが、上田の地に建てられた信濃国分寺は比較的早い時期に完成したと考えられる。
発掘調査により、僧寺・尼寺ともに当時の伽藍配置や規模がほぼ明らかになっている。

※八日堂信濃国分寺公式HPより引用⇒http://www.avis.ne.jp/~kokubunj/

【史跡公園内のご案内】

奈良時代に全国に建立された国分寺の僧寺・尼寺は、当時の仏教文化を代表する象徴的存在であった。信濃国分寺の僧寺・尼寺は当時の信濃国府の置かれていたこの上田の地に建立された。
昭和5年11月19日、国の指定史跡を受けた信濃国分寺跡は、上田市が国・県の指導を得て昭和38年から昭和46年にかけて大規模な発掘調査を実施し、地下に眠る僧寺と尼寺の全貌が明らかにされました。この調査は、全国の国分寺発掘調査のなかでも学術的に多大な成果を納めた発掘調査のひとつであったという。

この間、昭和43年3月19日には、この辺一帯の約15万㎡が国の史蹟として追加指定され、国分寺史跡公園として整備され、昭和47年3月にはこの史跡保存環境整備事業が完成し現在に至る。

伽藍配置図①
昭和38年~昭和46年の発掘調査時の伽藍配置図。(「信濃国分寺跡」昭和57年6月発刊より転載) 

信濃国分寺跡 (2)
現在の公園の見取図。公園の整備と国道18号線の拡幅により発掘調査時の姿よりもだいぶ狭くなった。※方角を合わせて掲載

●僧寺 北門跡(推定)

発掘調査による確認は未だされていないが、ここは国分僧寺の北の入口、北門が建てられていたと推定される場所だという。
他の国分寺跡の例を見ると、南大門が国分寺の正面の入口として「八脚門」(はっきゃくもん)など威容のある建物であるのに対し、その他の門は四脚門(しきゃくもん)など、比較的簡素な建物であることが多いという。
ここの信濃国分寺跡でも南大門が礎石のある八脚門、西門が檜皮や柿を葺いたであろう掘立柱の四脚門として確認されているので、北門も同様な建物であった可能性が高いとされる。

※南大門は東大寺の転害門が同時期の建築であるので、同様な建物と推定されている。
※東大寺の転害門に関しては「つねまる」様のブログの⇒ 東大寺転害門を参照願います

信濃国分寺跡 (6)
僧寺の北門は何故か未調査のままらしい。

信濃国分寺跡 (7)
北門跡の説明板。写真付きの丁寧な解説で非常に分かり易く秀逸な出来である。

【僧寺跡】

昭和38年(1963)から昭和46年にかけての8回の発掘調査により、僧寺(金光明四天王護国之寺 こんこうみょうしてんのうじごこくのてら)と尼寺(法華滅罪之寺 ほっけめつざいのてら)が確認された。
僧寺跡では、中門・金堂・講堂・廻廊・塔・僧房の遺構が明らかにされ、南大門の位置も推定された。百間(約177m)四方の寺域のなかに、南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並んでいる。中門と講堂は廻廊(複廊)でつながり、金堂の東南に「塔」、東には僧房がある。このような伽藍配置を「東大寺(国分寺)式」という。

金堂は今の寺院の本堂にあたり、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)が安置され、国分寺の塔には金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう 法舎利)がまつられた。

講堂は法を説き経を講ずる場所で、僧房は僧が生活する宿舎であった。

信濃国分寺跡 (12)
講堂跡から見た北門跡。国道を挟んで直線上の奥に現在の信濃国分寺の仁王門が建っているのが分かる。

●僧寺 講堂跡

発掘調査前は、従来仁王堂といわれていた地区で、国分寺の金堂跡とみなされていた。仁王堂と呼ばれる所以は、江戸時代に小堂宇があったためで、土檀の中央の礎石もそのためにわざわざ移動させられたようだ。
第一次調査で周辺一部の基壇を調査し、さらにその南方に金堂跡とみなされる遺構が明らかにされると、この仁王堂のあった場所が講堂跡と認められるに至った。

信濃国分寺跡 (21)
南側から見た講堂跡。礎石も再現されている。

信濃国分寺跡 (24)
雨落溝が玉砂利によって再現されている。(本来の玉石敷の雨落溝はこの下に埋め戻されている)

発掘調査の結果によれば、基壇のサイズは、東西29.4m×南北19.3mで、礎石から推定される建物は正面24.2m、側面14.4m。(七間×四間)

信濃国分寺跡 (16)
講堂基壇の内部。基壇の高さは50cmで、50個ある礎石のうち27個が良好な状態で発見されたという。(正面は金堂跡)

●僧寺 金堂跡

昭和38年の第一次発掘調査で、仁王堂(のちの講堂跡)が金堂跡と推測された場合に、南に中門の存在があると仮定され、発掘調査が実施された。(発掘前は水田 )その結果、北側の仁王堂と呼ばれる場所よ同じ規模でありながら、より優れた構築物が存在していたことが確認され、北側の基壇は講堂跡、そしてこの場所は金堂跡だった事が判明したという。

信濃国分寺跡 (20)
金堂跡の全景(講堂跡より撮影)。残念ながら信越線により南西部分が欠損している。

信濃国分寺跡 (27)
金堂の基壇。南東方向に塔の基壇が見える。

信濃国分寺跡 (28)
金堂の雨落溝の再現。講堂の玉砂利敷とは違って石敷きされた規模の大きな雨落溝の遺構がこの下に埋め戻されている。

金堂の基壇は、東西29.7m×南北19.3mで、推定される建物規模は正面24.2m、側面14.4m。(七間×四間)

信濃国分寺跡 (31)

基壇内部は数度の調査にも関わらず、後世による削平により礎石や根固め石が取り除かれてしまっていたが地固め石が辛うじて残っており、そこから建物の柱間が想定できたのだという。

●僧寺 廻廊跡

当初、廻廊は金堂と講堂を結ぶものk、或いは金堂と中門を結ぶという前提として調査が進められたが、結果としては講堂と中門を結ぶもので、金堂との接続は無かったものと確認されている。
発掘調査では、往時の廻廊は複廊で、柱間は3.3m~2.55m(四間ないしは五間)。線路内は発掘不能だったがほぼ全容が明らかにされたという。

信濃国分寺跡 (39)
東側の廻廊跡。礎石の配置から中央に仕切りのある複廊下であったことが分かったという。

信濃国分寺跡 (33)
鉄道によって分断された中門への廻廊。

信濃国分寺跡 (49)
東側の廻廊を北から撮影。

●僧寺 塔跡

昭和31年3月よりの調査だったようだが、往時は個人所有の土地で徹底調査が出来ず、昭和38年、上田市の用地買収からの本格調査となった。既に心礎は失われていたが、周辺の根固め栗石の残存状況から、基壇は13.2m四方で建物の柱間は7.8m四方だったと推定されるに至った。また、基壇の高さは1.1mだったらしい。

信濃国分寺跡 (40)
塔跡の基壇。

信濃国分寺跡 (43)
塔跡の基壇。

塔は七重塔だったと推定されているが、明確な根拠はなく、総本山の東大寺の東塔や相模国分寺との類似性からの想像であろうか。水煙などの塔の遺跡が見つかっていないので想像の域は出ないものの、塔そのものは建てられていたという結論にはなるようである。

●僧寺 僧房跡

金堂跡の東寄りの地域に当たるもので、昭和45年の調査で明らかにされた。建物は南北34.2m、東西9.6mで南北中央間に幅4.2mの馬道がある。
内部からは生活痕としての土師器破片の出土がみられ、排水溝の処理にも生活臭が伺え、僧房たる証が多数確認されたという。

信濃国分寺跡 (47)
金堂の東に位置する僧房跡。

信濃国分寺跡 (48)
結構巨大な建物だった事に驚く。中央から派遣された坊さん達がひしめき合っていたのだろうか?

信濃国分寺跡 (54)
信越線によって分断された史跡の南側は、地下道を渡る。

●僧寺 中門跡

昭和46年の第四次整備調査にあたって徹底的に調査された。以下の威容が想定されるという。

基壇:正面約20.8m、側面約9.4m

建物:五間×二間
   正面:約18m、側面約6.6m 二層の建物があったことが推定されている。

信濃国分寺跡 (60)
西側から接続する廻廊跡から見た中門跡。

信濃国分寺跡 (69)
南側から見た中門基壇。礎石が4個残存していたという。

信濃国分寺跡 (70)
東側より見た中門。礎石の配置からして結構立派な建物であったことが伺える。

●僧寺 西門跡

平成22年の発掘調査でその存在が明らかになった門で、僧寺と尼寺の出入り口を繋ぐ門であったと想定されている。
僧寺の外枠の領域区画を示す築地塀上にあり、金堂の真西の位置で発見されている。
四脚門に控え柱を持つ建物で、発掘時の瓦の量が極端に少ない為、屋根は檜皮葺か板葺きの屋根で掘立柱建物だったと推定されている。

信濃国分寺跡 (57)
西門の復元推定図と発掘現場の写真(現地説明板より転用)

信濃国分寺跡 (58)
西門跡から見た廻廊と中門方面。

●僧寺 築地塀跡

平成26年に南大門と寺領の外郭を示す築地塀の発掘調査が行われ、南大門は礎石下の栗石が発見され、八脚門であることが確認されました。しかし、築地塀についてはその存在と構造(板塀なのか築地塀なのか)についてははっきりせず、今後も調査が継続されるようである。(これは尼寺も同じなのだという)

信濃国分寺跡 (63)
築地塀と南大門の発掘調査の写真(現地説明板より引用)

信濃国分寺跡 (64)
築地塀と南大門の発掘場所に立つ説明板。私有地なのでここから先は立ち入り禁止。(民家の裏側が中門跡)

●僧寺の建物の配置と寺域

・中門と金堂     心々距離  38.5m (約127尺)
・金堂と講堂     心々距離  39m  (約128.7尺)
・塔の心礎の位置  金堂と講堂とを結ぶ南北中心軸の東62m(約205尺)と金堂の中心から南に46.6m(約154尺)にあたる地点
・僧房の位置     馬道の南北中軸線の中央は金堂の中心から南70mの位置の東60m

なお、寺域の全体は東西176.56m(約582尺)南北178.05m(約587.5尺)ぐらい、すなわち100間と考えられる。この場合、金堂・講堂・中門を結ぶ南北中軸線は、その中央に位置せず、西よりである。そしてやや広い区域の南に塔を配している。また、国分八幡社は、東北方の丘陵上にあたるが、あたかも寺域の東北隣に位置する。当初から計画的になされたものとみなされる。
(「信濃国分寺跡」 信濃国分寺資料館発行 昭和57年6月初版 より引用掲載)

信濃国分寺跡 (62)
上田市教育委員会が発掘調査報告に基づいて作成した僧寺建物の復元予想図。

【尼寺の規模】

尼寺後については、調査の当初は一帯が桑畑になっていたが、その後の史蹟関連整備事業に関連して土地の買収も行われ桑も除去されたので調査も進捗した。
中門・廻廊・金堂・講堂が発見され、その他尼房や経蔵の跡とみなされる遺構も検出され、僧寺の配置と同じことが確認された。しかし、廻廊は単廊である。(僧寺は複廊)
また、尼房は僧寺の場合が金堂の東側に南北に長く存するのに異なって、講堂の北に東西に長く存する。僧寺において、経蔵あるいは鐘楼とみなされるものは明らかにされなかったが、尼寺の場合には、この所在を認める事ができた。
(「信濃国分寺跡」 信濃国分寺資料館発行 昭和57年6月初版 より引用掲載)

信濃国分寺跡 (73)
尼寺伽藍配置図

信濃国分寺跡 (74)
僧寺の史蹟が鉄道により分断されているのに対して、尼寺はその難を逃れた。その遺構は全国的にも貴重なものだという。

●尼寺 講堂跡

昭和44年の発掘調査において、根固め栗石群から明らかになった規模は、基壇が東西31m×南北21.6mで、建物は正面22m×側面12.4m(七間×四間)と推定された。

信濃国分寺跡 (75)
講堂全景。

信濃国分寺跡 (77)
南東から見た講堂跡。奥に尼房が見える。

●尼寺 尼房跡

昭和44年と昭和47年の2回の発掘調査でほぼ全容を解明したという。それによれば基壇は正面51m×側面14.1mで、建物は正面44m×側面8.1mであったという。床面からは土師器の小片が多数発見されたという。

信濃国分寺跡 (79)
線路により分断されてしまった尼房跡。

信濃国分寺跡 (80)
尼房内側。

●尼寺 金堂跡

礎石の根固め栗石が10ヶ所ほど検出されたほか、基壇の南・東・西縁の雨落溝遺構が検出された。特に東縁においては、羽目石の立っている状態が出土して注目された。基壇は東西29.7m×南北19.5m、建物は正面22.4m×側面12.4mと推定される。

信濃国分寺跡 (81)
尼房からみた講堂と奥の金堂。

信濃国分寺跡 (86)
金堂全景。

信濃国分寺跡 (94)
南側よりみた基壇内部。

●経蔵跡・鐘楼跡

講堂の建物の西縁から26.5m離れた西側に南北に長い長方形の建物が検出された。位置からして経蔵跡とされた。建物は南北10m×東西6m(三間×二間)。
南北の中軸線をおいてこれと対照の位置にあったであろう鐘楼跡は、線路の敷地内で建物の検出は出来ていないという。

信濃国分寺跡 (84)
西から見た経蔵跡。向こう側に講堂が見える。

●尼寺 廻廊跡

西半分が検出されたが、東側は後世の改変により調査は不能とされた。僧寺と同じく中門の左右から派出して、北に折れ講堂に続くもので、金堂を囲んでいる。

信濃国分寺跡 (82)
北側から見た西の廻廊跡。

信濃国分寺跡 (85)
廻廊と講堂の連結部分。(西側)

●中門跡

根固めの栗石などが発見された。基壇規模は東西19.5m×南北13.0mほどが想定され、建物は正面11.8m側面6.4m(三間×二間)の四脚門と考えられている。

信濃国分寺跡 (93)
民家に隣接している中門跡。

信濃国分寺跡 (90)
西側から見た廻廊と中門跡。

信濃国分寺跡 (89)
尼寺の南側の周辺は断崖の浸食等で変化が著しく往時の様子を知る事は困難になっているという。

●尼寺の建物の配置と寺域

・中門と金堂     心々距離  30.0m (約100尺)
・金堂と講堂     心々距離  43.0m  (約141.9尺)
・講堂と尼房     心々距離  30.0m  (約100尺)
・経蔵の位置    建物の中心は南北中軸線より37.7m(約125尺)
            建物の中心は講堂建物の中心より約4m(約13.2尺)

信濃国分寺跡 (97)
中門の南側より見た尼寺遠景。

尼寺跡では、北から北門・尼房・講堂・金堂・中門が直線上に並び、講堂と中門が廻廊で結ばれ、講堂のにしには経蔵も確認された。ただ、南大門と尼寺を取り囲む80間(約148m)四方と推定される築地塀の南辺と西辺は、未だ確認されていないことや建物の詳細についても未だ解明されていない事も多く、これからの調査や研究が必要とされている。

信濃国分寺跡 (67)
史蹟のど真ん中を走る「しなの鉄道」。違和感が無いもの不思議だ・・・(笑)

【終わりに】

●国分寺の創建

天平十三年(741)、聖武天皇により国分寺建立の詔が下され、僧寺(金光明四天王護国之寺)、尼寺(法華滅罪之寺)の建立が全国に命ぜられた。僧寺には、僧侶二十人、尼寺には尼十人が置かれ、僧や尼は毎月八日に最勝王経を転読することなど、定められた規則に従って生活することが義務付けられていた。

ところが、各地の国分寺造営は期待したほどにはかどらなかったようで、天平十九年(747)には国分寺の造営を督励(催促)する詔が発令された。
天平勝宝四年(742)に総国分寺である東大寺の大仏開眼供養が執り行われ、総国分尼寺の法華寺も建立された。
しかし、天平宝字三年(759)になっても国分寺造営を督促する記事が「続日本書紀」に見られ、西暦770年前後に至ってようやく大半の国で国分寺が完成したと考えられている。

信濃国分寺跡 (55)
鉄道の下は地下通路になっている。

●僧寺・尼寺の廃滅時期について

幾度かに及ぶ信濃国分寺の発掘調査によれば、出土古瓦からみて平安時代までは存続していたと考えて良いという。ことに僧寺跡の北方に接して存した瓦窯跡からは平安時代の初期のものと考えられる瓦が発見されており、この瓦窯は、むしろこの頃の補修用の瓦の必要に迫られ設置されたものと見なされ、寺院としての機能が継続していたものと考えられるという。

また、僧寺の西廻廊跡で火葬壺が発見されている。この骨壺は平安時代の末期の頃と考えられるものであり、この頃に至って僧寺は機能が廃滅していたか、または建物の一部を残す程度のものであった事がうかがい知れるという。

寺伝によれば、天慶2年(939)の平将門と平貞盛との戦闘の際に焼亡したと云われているが、廃滅した時期については必ずしも矛盾を示さないようである。

IMG_5729.jpg
現在の八日堂信濃国分寺の仁王門。僧寺の伽藍配置と中心線で結ばれるので、僧寺が移転したものと見做される。

以下は「八日堂信濃国分寺」の寺伝としての解説であるので、この場に引用掲示しておく。
引用元⇒信濃国分寺の歴史

 創建時の国分寺は、939年の平将門の乱(天慶の乱)に巻き込まれて焼失したと伝えられる。尼寺はその後も当初の地にしばらく存続したようだが、この事件を機に約300m北方の現在の地に寺域が移転したと考えられる。しかし律令制度の崩壊にともない国家の保護が失われた国分寺は、漸次衰退に向かったと思える。現境内地には鎌倉期の石造多宝塔や五輪塔が存在し、また源頼朝が堂塔の再建を誓願したとの寺伝があるので、鎌倉期以降に現地での復興が始まったようだ。

IMG_5731.jpg
現在の八日堂信濃国分寺の本堂。善光寺の本堂を彷彿とさせる作りである。(長野県宝)

 室町時代には現存最古の建物である三重塔が建立され、地域民衆の信仰の中心となり、八日堂(ようかどう)縁日の市は当地方の交易の場ともなった。八日堂の名は今も信濃国分寺の俗称として親しまれている。また民間信仰である蘇民将来信仰も取り入れ、この信仰に基づく蘇民将来符は現在でも有名である。

 戦国時代になると、永禄・天正の頃に三重塔を除く諸堂が兵火によって焼失したと伝えられる。江戸時代に入ると諸堂の再建が進み、特に薬師如来をまつる現本堂は文政十二年(1828)の発願より万延元(1860)の竣工まで近郷一帯から広く浄財を募り33年の歳月をかけて完成した重層の壮大な伽藍である。現在、境内にはこの本堂(長野県宝)をはじめ、三重塔(国重文)、大黒天堂、観音堂、地蔵堂、鐘楼、宝蔵、仁王門、客殿、庫裏(寺務所)などがある。他に文化財として石造多宝塔(鎌倉期)、本堂勧進帳(江戸後期)、牛頭天王祭文(室町期)、八日堂縁日図(江戸初期)、蘇民将来符など(以上、上田市指定文化財)を有する。

信濃国分寺跡 (118)
室町時代の建立とされる三重塔(国指定重要文化財)

●国府は何処にあったのか?

国分寺の僧寺・尼寺を考える場合に、国府は何処にあったのか?というのが重要な問題となるが、今現在も明確ではなく今後の調査が待たれる所なのだという。
現在の信州大学繊維学部の所在地の字名が「堀之内」なので、そこが国府という推察もあるが、あくまでも推測の域は出ない。染谷台に条里制の遺構が残っているので、こことの関係も注目されているが、はっきりしていない。

●所感

神社仏閣の「じ」の字ですら危うい小生が、国分寺を語ることなど「愚の骨頂」であろう・・・(汗)

しかし、興味を持って調べることは「夏休みの自由研究」に匹敵する快挙だと思う・・・(笑)

信濃の国府や守護所=「深志」(現在の松本市)としてのイメージが根強いが、平安時代までは小県(上田市)であったのだ。

平城京の都人と違い、相変わらず竪穴式住居に暮らす信濃の住民が見た往時の国分寺はさぞかし異形の建物であったろう。
そして天に向かって聳え立つ七重塔に、彼らは何を思ったのだろうか・・・。

信濃国分寺跡 (116)
異形といえば、現在の信濃国分寺の本堂に「神の使い」の白い象さんが鎮座しておりました。


≪信濃国分寺 僧寺跡・尼寺跡≫ (しなのこくぶんじ そうじあと・にじあと)

標高:475m 比高:-
造営年代:奈良時代
場所:上田市国分
訪問日:2016年6月19日
お勧め度:★★★★★ (満点)
所要時間:-
駐車場:有り
見どころ:国分寺資料館(入館料250円)・国分寺史跡公園(僧寺跡・尼寺跡) ※公園への入場は無料
参考文献:「信濃国分寺跡」(上田市立信濃国分寺資料館)など
注意事項:特になし

信濃国分寺跡 (106)
八日堂信濃国分寺参拝の際は、必ずカイリュウ拙者をご利用ください・・・・(爆)


国分寺跡の航空写真。右が僧寺で左が尼寺。並列であることが良くわかる。

Posted on 2016/08/02 Tue. 20:58 [edit]

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0722

小菅山 (飯山市瑞穂)  

◆戸隠山・飯綱山と並ぶ信濃三大修験霊場◆

飯山市の名誉市民になりたいと思うならここは避けて通れない場所であり、戦国時代の甲越紛争を語る時も外せないだろう。

山城に飽きて、「いよいよ神社仏閣に突入するのか?」と思われるかもしれないが、広義的に見れば宗教と戦国時代は常に繋がっているのでここを掘るのは不思議な事ではないと思っております・・・。

今回ご案内するのは同じ修験者の霊場としての歴史を背負いながら、戸隠山(戸隠神社)のように観光地として生き残れるのか微妙な立ち位置となっている小菅山(小菅神社)。

小菅山 (37)
大倉崎館南手前の国道117号線の大関橋西交差点の脇の美妙寺(小菅山元隆寺の末寺と伝わる)に華表(一の鳥居)址がある。

小菅山 (40)
一の鳥居から見た大関橋。千曲川左岸からは渡し船で小菅山に向かったようである。

【パンフレットに記載された小菅山の歴史】

信州飯山観光局「小菅の里を歩く」のHPには小菅の歴史について以下の記載があるので引用する。

小菅神社は、明治時代の神仏分離まで、新義真言宗に属する小菅山元隆寺(こすげざんがんりゅうじ)といい、かつては戸隠や飯綱と並ぶ北信濃の三大修験場として隆盛を誇りました。創建の由来は定かになっていませんが、来由記によると、仏法を広めるのに相応しい地を求めて諸国を巡っていた修験道の祖・役小角(えんのおづの)が小菅山に出合い、白鳳8(680)年に小菅山を開山し、大同年間(806~810年)に坂上田村麻呂がこの地を訪れ、八所権現本宮や加耶吉利堂を再建したほか、修験寺院・小菅山元隆寺を創建。これが小菅神社の起源とされています。小菅権現(摩多羅神)を祀り、さらに熊野、金峰(吉野)、白山、立山、山王、走湯、戸隠の七柱の神々を観請して、八所の宮殿を石窟内に祀ったという記述が残されています。また平安時代後期には、本地垂迹思想が定着し、熊野修験が入り込んで、小菅山の確立に寄与しました。

小菅山 (1)
二の鳥居。

小菅山 (3)

小菅山 (4)

その後鎌倉時代に入り、南北朝時代の始まりころまでには、小菅一帯は、南朝の高梨氏勢力と北朝の市河氏勢力に接し、南朝党の高梨氏が逆撃を受けて小菅にて惨敗。以後、室町幕府の支配が安定すると共に、小菅山は修験霊場としての隆盛期を迎え、4年の歳月をかけた元隆寺の宮社坊中寺観の再建、奥社内の宮殿の建立や、桐竹鳳凰文透彫奥社脇立二面が制作されています。つまり、室町時代までは小菅山では造営が営々と続けられており、それを可能にするだけの繁栄があったと考えられています。

現在の小菅山
現在の小菅山周辺の散策図(小菅むらづくり委員会作成)

戦国時代に入ると、信濃全域が上杉氏と武田氏の争覇の舞台となり、小菅山一帯は、上杉氏の庇護下に置かれました。上杉謙信が武田信玄に合戦を挑んだ際には必勝祈願の願文を捧げましたが、そうした繁栄も、永禄10(1567)年の川中島の戦いまでのこと。この合戦で上杉軍は敗退し、武田氏の軍勢によって元隆寺は兵火に遭い、本堂を除く堂塔はことごとく焼失したとされています。その後、武田氏を滅ぼした織田氏支配の時期を経て、小菅は上杉景勝領となり、情勢が安定すると奥社本殿が再建されました。

小菅山 (48)
仁王門は17世紀後半に元隆寺の西大門として建てられ、元禄十年に改修されて今日に至る。


江戸時代になると、奥社参道の杉並木や宗教建築の多くが整備され、霊場としての小菅の統治は、領主の庇護下にある寺院の手から里人の手に移りました。祭礼の性格も宗教的なものから、観客(参詣者)に見せることに重きを置いた愉楽的・観光的な性格が加わったものになっていきます。

江戸時代を過ぎ明治になると、神仏分離によって、大聖院別当職が神職に就き、仏式什器を菩提院に移管する一方で、小菅社八所大神となり、明治33(1300)年には小菅神社と改称します。今日の直接的な起源にあたる小菅神社が成立したのです。

小菅山 (49)
仁王門の金剛力士像。(正面右手)

小菅山 (51)
仁王門の金剛力士像(正面左手)。金網デスマッチなので撮影には非常に苦労した・・・で、ピンボケ・・・(汗)

●仁王門

二の鳥居から、左右に田畑が広がる急な坂道を上ると、最初に現れる社殿が入母屋造の仁王門。もともとは仁王堂と呼ばれ、17世紀後半(元禄10年改修)に元隆寺の西大門として建てられた建物で、両脇には金剛力士像が祀られている。仁王尊堂との別称もあり、現在では門という機能ではなく、健脚の神である仁王尊が祀られている御堂とされ、草履などが奉納されている。明治時代初頭に発令された神仏分離令により大聖院が廃寺(小菅神社に移行)となり、多くの堂宇が破却されるなか、往時と同じ位置にある遺構として貴重な存在。(信州飯山観光局のパンフレットより)

小菅山 (53)
両脇を舗装道路が通ると嘗ての西大門のイメージが台無し・・・(汗)

【小菅山の歴史における通説への疑問】

パンフレットの引用文に小生が着色した赤文字に「?」と思った方は素晴らしい。

「永禄十年(1567)の川中島の戦い」・・・・んなアホな。小生も危うく鵜呑みしてしまうところであった・・・・(汗)

川中島合戦の最終戦は永禄七年(1564)の第五次で、これ以降は甲越合戦の記録は確認されていない。永禄十年の武田軍は今川氏真の駿河侵攻を企て、氏真の妹を正室とする嫡男義信の謀反が露見する。そのため信玄は家中を二分する家臣の統制に必死となり、信濃で上杉と会戦した記録は見当たらない。

これはいったいどういう事であろうか。

小菅山元隆寺之図
小菅の観光案内パンフレットに掲載されている絵図は「信州高井郡小菅山元隆寺之図永禄九年」(永禄九年=1566年)を元に作成されたもの。※史実と異なる部分はある、としています

この文の元はどうやらこの「信州高井郡小菅山元隆寺之図(永禄九年銘)」らしい。
中世における小菅山の繁盛の様子を描かれてものとして有名だが、調査によれば近世において遡及的に作られたものではないかという見解があり、絵図の史料としての信憑性には留意する必要があるとしている。

同様に、小菅山の通説は「信州高井郡小菅山元隆寺略縁起」(慶長五年作成・元禄元年改稿)が元となっていたようだが、近年の小菅山研究では従来の通説とは異なる展開をみせているようで、今後の解明に期待が持たれている。

恐らく南北朝の戦乱による兵火を受け、その後の甲越紛争においても二大勢力による宗教勢力の取り込みに巻き込まれて戸隠山と同様に受難の時代が長く続き、戦乱の終息とともにこの地を領有した上杉景勝により再興されたのであろう。

小菅山 (54)


【小菅山の散策】

小生のような門外漢が小菅山の歴史を語るなどお門違いなので、散策して見た現在の小菅山の様子を綴るとしよう。

●小菅神社里社本殿

石段を登った先に神楽殿(拝殿)、右手に柱松柴灯神事で担ぎ出される神輿が納められている神輿殿、左手に神馬殿が建っている。万治三年(1660)に飯山城主の松平忠俱によって改築され、現在の建物は大正十二年(1923)に大きく改修されている。

小菅山 (61)
小菅神社里者本殿の入口に建つ鳥居。

小菅山 (7)
比較的新しい狛チャンズと参道。

小菅山 (76)
神楽殿とその奥の神輿殿。

階段を上ると人の気配があり、里社本殿で何やら儀式が行われているではないか・・・。

見れば修験者の装束を身に纏った方々が祝詞・般若心教を唱えて、本殿から出てきたところであった。

小菅山 (78)
出羽修験者の先達「星野尚文」様ご一行。(階段に腰かけ、横に法螺貝を置いているのが星野さん)

この時点では何の予備知識もなくて、この修験者一行の長があの有名な羽黒修験道最高位の松聖(まつひじり)である星野尚文氏であると知ったのは、最近の事であった・・・・(汗)

これが運命の出会いになるのであろうか・・・・。小生が消息不明になったら出羽三山に修行に出掛けたと思って頂きたい・・(笑)

●講堂

小菅神社の参道の西側。かつては元隆寺の中之院に属しており、付近には、南大門、中門、金堂などが建っていたが、戦国時代の武田氏の侵攻でほとんどが焼失してしまった。(※異説あり)現在の講堂は元禄十年(1697)に飯山城主の松平氏によって修復された。中には阿弥陀三尊像が安置されている。また、講堂の天井絵は素晴らしいものだったようだが、残念ながら煤により見えなくなったという。

小菅山 (55)
講堂の手前には金堂、中門、五重塔があったという。

小菅山 (60)
講堂より見た奥社方面。この時は奥社まで片道1時間もかかるとは思ってもいなかったのである・・・(汗)

●菩提院(ぼだいいん)

かつては小菅じんっじゃの別当院である小菅山元隆寺大聖院の一坊桜本坊。川中島の戦いの兵火により焼失し上杉氏によって再建、享保年間に法印俊栄によって中興開基し菩提院と改称している。明治時代の廃仏毀釈により大聖院が廃寺(小菅神社に移行)となり寺宝、仏式諸道具などが菩提院に移された。寺宝には室町時代初期に制作された絹本著色曼荼羅図(県宝)の他、江戸時代に制作された紙本著色涅槃・極楽・地獄絵図と紙本著色十六善神画像があり市指定有形文化財に指定されている。

小菅山 (82)
菩提院の梵鐘。(昭和六十二年の再建)

小菅山 (83)
由緒ある風情の残る菩提院。


●三の鳥居

三の鳥居からは奥社へ続く石畳が延々と続く。鳥居の南側は護摩堂(大聖院跡)だが見学は後回しにして奥社へ向かう。

出羽修験者の皆様の邪魔になってはいけないので、一足先にここから奥社本殿を目指した。

偶然にも修験者ご一行のアテンドをされている地元の小菅神社奥社の管理責任者の方に同行させていただく事となった。
出羽修験者の方々が奥社本殿で祝詞と般若心教を唱えるというので、本日は奥社の建物の内部を先行して見せていただけるというラッキーが重なった。

小菅山 (89)
三の鳥居。ここから奥社本殿まで、まさか1時間の苦行となるとは想像だにしていなかったのである・・・・。

小菅山 (90)
弘治三年(1557)五月十日の上杉景虎(謙信)の祈願文が三の鳥居の入口に掲示されている。

●奥社本殿への参道

奥社本殿の標高は840mで、登り口の三の鳥居の標高が528mなので比高差は312mということになる。この比高差は山城探訪の中でも峻険な部類に入る。また移動距離は1,200mもあるので、山城探索に慣れてきた小生といえども辛いものがあった。
その上、途中から降りだした小雨と山全体を覆う霧は湿度を上げる効果をともなったので不快指数の高さは「ハンパ無かった・・」

小菅山 (11)
永遠に続くような錯覚をもたらした杉林は800m続く。石畳とのコントラストは素晴らしい。

小菅山 (163)
現在は休憩場所となっている旧観音堂跡。菩提院の隣に移転している。

小菅山 (162)
登ってきた参道を振り返る。こんな急坂だとは・・・・。

さて、ここからはツラツラと途中の見どころをご案内します。

●隠れ石

川中島合戦の際に上杉謙信が追手から隠れたとされる石。信玄は小菅の里まで追ってきたが山鳴りと共に突然大岩が崩れ落ち、大木が倒れてきたため、小菅権現の神威に恐れをなし逃げ帰ったと言われている。

小菅山 (161)

●御座石(ございし)

役行者や弘法大師が参拝の折に座ったという「御座石」。小さなくぼみは、持っていた杖の先がめりこんだものと言われている。

小菅山 (158)

●加耶吉利堂跡(かやきりどうあと)

坂上田村麻呂が再建したと伝わる。

小菅山 (99)

●舟石(ふないし)

大海の波頭に船が浮かんでいるようだと言われたことから舟石と呼ばれる。

小菅山 (102)
ピンボケご容赦!(笑)

●蝦蟇石(がまいし)

その名の通り、形がガマガエルに良く似ている石。

小菅山 (108)
疲れすぎてピントも合わない・・・(汗)

●愛染岩(あいぞめいわ)

岩の下に恋愛成就の願いを叶える愛染明王が祀られている。

小菅山 (107)
不倫ばかりがもてはやされるこのご時世に愛染明王もお嘆きであろう。

●鏡石

鏡のような平らな鏡石と鎧石、隠れ石、御座石、舟石の五つの石の他に現在存在が不明の御割石、大黒石、臥象石を合わせて「七木八石」とされている。(七木って何?)

小菅山 (117)
同行させていただいた奥社本殿の管理人様の姿をお借りしてパチリ。

小菅山 (112)
不動岩の付近から視界が開ける。ヘタな山城訪問より体力的に厳しいものがある。

●不動岩

弘法大師が筆を投げて岸壁に梵字を書いたとされ、投げた場所には注連縄が張られている。深い沢の向こうに不動岩が見え、不動岩の中腹に不動明王が置かれている。

小菅山 (155)
弘法大師が筆を投げたと伝わる場所。

小菅山 (113)
対岸の不動岩。深い沢の向こう側にあるので、渡って登るのも不可能と思われる。

小菅山 (154)
対岸の不動明王を拡大撮影。奥社の管理人さんもあの場所までどうやって担ぎ上げたのか全く不明だと言っておられた。

●築根岩

戦国時代に上杉氏がここで千灯を献じたという。奥社本殿の手前の最後の難関の始まりである。

小菅山 (151)


●比丘尼岩(びくにいわ)

殺生禁断・女人禁制の掟を破ったものが石と化したと伝わる場所。奥社へはこの岩を乗り越えていくのだ。

小菅山 (149)
苔むした岩は滑りやすいので注意が必要。

小菅山 (119)
鎖場を上がると奥社は目の前である。

●小菅神社奥社本殿

息絶え絶えで最後の岩場を登ると再び景色が開ける。

小菅山 (124)
標高840m(比高312m)まで登るとは夢にも思わなかったが、この景色を見るとホッとした・・(笑)

小菅山 (129)
簡易宿泊施設跡。奥社の祭りの際は前日から泊まり込みで準備したのだという。嘗ては里の子供たちも寝泊まりしたという。

小菅山 (128)
北側に岩窟を背負い南に張り出した形の奥社。降雪による建物屋根の倒壊を防止するために最近文化庁による補強工事が為されたという。

天正19(1592)年の修復記録があり、小菅神社の祭神8柱を祀る。本殿と附属宮殿は室町時代中期のものであり、昭和39(1964)年に国の重要文化財に指定された。

建物は、南側を正面にして妻入りの入母屋造で、 北面に岩窟を背負って建てられており、庇は北側にはついておらず、西側の階段から社殿に上るようになっている。背後の岩場からは水が滴り、本殿の中には甘露池があって、この池がまず信仰の対象になったのではないかと言われている。また、上杉謙信が川中島出兵の折、必勝祈願の願文を捧げており、新潟県にも崇拝者が多い。ご本尊は馬頭観音だが、祭りなど特別な日以外は建物の中に入ることはできない。また、建物の奥には「鼓岩」と呼ばれる岩があり、手を打つと太鼓の音が聞こえるそうだ。

小菅山 (131)
社殿には西側の階段より入る。※社殿の外側の新しい木枠は文化庁による補強工事。

小菅山 (133)
室町時代の建築とされるが、このような山の上に資材を運んでの建築工事は想像が出来ない・・・。

小菅山 (134)
社殿の南側正面。こちら側に階段を付けるのはさすがに無理であろう。

小菅山 (17)
当初の信仰対象ではないかと伝わる甘露池。

小菅山 (143)
今回は特別に奥社の内部を見せていただく恩恵に賜り。社殿を掃き清めるお手伝いをさせていただく。(ピンボケご容赦!)

小菅山 (19)
上杉謙信公が祈願文を捧げたという奥社本殿。500年の時を越えて同じ場所に立てるとは恐れ多い・・・。

奥社の管理人様のご説明によれば、新潟県からの戦前から新潟県からの参拝者が多く、寄付もかなりの額にのぼったのだという。もっとも、最近は高齢化が進み、かなり少なくなってしまったという。
また、明治に入り神仏希釈により小菅山の管理が寺院から里に移った際には、里人は維持管理費の捻出に相当な苦労をしたらしく、樹齢三百年の杉の木を内緒で何本か伐木したらしい。(管理人様に該当箇所の切株を見せてもらった・・)

小菅山 (148)
山伏様ご一行が有難い祝詞をあげられるそうなので、一所懸命お掃除しました!!

管理人様のお話しによれば、7月15日に前信州大学副学長で長野県立歴史館の館長の笹本正治氏と長野県立歴史館の専門主事の遠藤公洋氏が小菅山に来られるとの事であった。(小生の訪問は6月25日)チョッと迷惑そうな口ぶりだった・・(笑)
小生も直接の面識は無いものの、笹本氏や遠藤氏のご活躍は存じ上げております、と言ったら結構驚いていました。

そう、笹本氏は白馬村の三日市場城の破壊事件の後に一度お目にかかっておりました。

小菅山 (18)
東側から見た奥社の縁側。奥の下に見えるのは宿泊施設跡。

奥社の境内にある太鼓を叩くと、こちらに向かって参道を登っている出羽修験道の星野様が法螺貝を鳴らしてコラボしてくださいました。
雨に煙る小菅山の深い森にこだまするように響く太鼓の音と法螺貝の音色は、小生を嘗ての修験場として隆盛を極めた小菅山にタイムスリップさせてくれました。

こんな体験は一生のうちでも滅多に無いと思われるので、我を忘れ、とても感動してしまいました。

この奥社で羽黒修験道最高位の松聖であらせられる星野様の有難い祝詞を直に拝聴したかったのですが、次のスケジュールも迫っていたので、奥社の管理人様にお礼を申し上げて退去させていただきました。

途中、比丘尼岩の付近で羽黒修験者様ご一行とすれ違いました。星野様には改めてもう一度お会いしたいと思った次第・・。

しかし、三の鳥居まで戻るのも結構大変でした。奥社に登るのなら、それ相当の装備と体力・心構えが必要かと。


●大聖院跡・護摩堂

最盛期には、上の院16坊、中の院10坊、下の院11坊、合計37坊を有し、100の末院、6社、5堂が立ち並び、修験、山伏、僧侶が300人いたとも言われている元隆寺。その総括をしていたのが大聖院だ。現在は元隆寺別当大聖院の跡地に護摩堂が建てられ、柱松行事の出発点のほか、火口焼きの神事も護摩堂脇で行われる。建物は1750年に再興されたもの。

また見事な石垣は「大聖院石垣」と呼ばれ、江戸時代末期、お台場を築いた地域の職人が造ったものだという。大きな石を使った梅鉢積みが素晴らしい。

小菅山 (21)
石碑だけじゃよくわかりません・・・(汗)

小菅山 (22)
説明板があってもなんとなくしか分かりません・・・(汗)

小菅山 (24)
大聖院跡地。想像力を働かせるしかないようです・・・・(笑)

小菅山 (23)
護摩堂。ここも廃仏希釈運動の犠牲になってしまったらしい。

小菅山 (27)
大聖院跡の石垣。

小菅山 (29)
近世城郭も真っ青の美しく力強い石垣。

さて、如何でしたでしょうか。

自分でもこんなに長い記事になるとは夢にも思わず・・・(笑)

平成27年1月26日に「小菅の里及び小菅山の文化的景観」が国重要文化的景観に選定された。

同じ修験場でありながら、小菅神社は戸隠神社のように観光地としての華やかさとは無縁である。そこが魅力なのだが、小菅の里の方々の尽力による景観の維持管理はもはや限界に近いのではないか。

飯山市、長野県、国の支援への期待もあるが、それ以前に私たちが一人でも多くこの地を訪れてその素晴らしさを体感し、リピーターを増やすという地道な活動の積み重ねが大切だとも思った次第。

といいつつ、そのうち修験者になりたいなどと夢妄想が始まりそうな予感・・・(爆)


≪小菅山 奥社本殿≫ (こすげやま おくしゃほんでん)

標高:840m 比高:491m(二の鳥居より)
造営年代:室町時代
場所:飯山市瑞穂
訪問日:2016年6月25日
お勧め度:★★★★★ (満点)
所要時間:60分(三の鳥居より)
駐車場:菩提院に有り
見どころ:いろいろ
参考文献:「小菅の里を歩く」(信州いいやま観光局)など
注意事項:岩場なのでトレッキングシューズは靴底の厚めのものが良い。奥社にはそれなりの装備でお越しください。
Special Thanks:奥社本殿管理人殿 (小菅の里で民宿を経営なさっているとか・・ご利用ください・・小生もそのうち・・・)

小菅山 (123)

北信濃にお越しの際は、是非お訪ねください。(奥社はパスしても大丈夫・・・笑)


Posted on 2016/07/22 Fri. 23:46 [edit]

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0616

若澤寺跡 (松本市波田)  

◆松本藩の廃仏毀釈令によって取り壊された「信濃の日光」◆

いずれ城巡りに飽きたら神社仏閣巡りに突入する予感はするが、この歳にもなると、なんせ神様仏様が覚えられない・・。

初心者向けの古事記も読んでみたが、戦国武将ほどのワクワク感が無いのだ・・・(汗) 我が想像力の乏しさに涙・・(笑)

今回ご案内するのは、江戸時代に栄華を極め、明治の廃仏毀釈運動により廃寺となった「若澤寺」(にゃくたくじ)である。

若澤寺①
江戸時代後期に描かれた「若澤寺一山の略絵図」には壮大な伽藍が描かれている。(現地のパンフレットより転載)

この巨大な廃寺跡・・・実は昨年の6月に「ていぴす殿」に松本市の波田山城をアテンドして頂いた時に、併せて案内してもらって感銘を受けたので、今回の再訪となった次第である。

波田山城2016 (142)
旧野麦街道の上波田地区の田村堂から水沢林道へ入り約1.5km登った先が若澤寺跡の入口。

若澤寺2016 (12)
登り口には誘導看板があるので迷うことは無い。

【立地】

松本市の波田地区は長野県のほぼ中央に位置し、梓川流域右岸に広がる河岸段丘と飛騨山脈より分かれた山岳地帯、ならびにこれに連なる山麓平地より成り立っている。波田地区の中央にある白山(1387m)の山頂付近に「元寺場跡」(もとてらばあと)、中腹の水沢に「若澤寺跡」がある。また、若澤寺跡の沢を挟んだ北東には戦国時代の山城の波田山城がある。

若澤寺②
※若澤寺史跡保存会パンフレットより引用転載。

現在、若澤寺跡への入口は二ヶ所ある。林道から入ってすぐの最初の登り口を辿るのが表参道で、山番所や六地蔵などがあったと思われる平場を経由して「方丈・護摩堂」に至る。

若澤寺後201606 (4)
方丈・護摩堂に通じる最初の平場。

若澤寺後201606 (3)
方丈・護摩堂に続く表参道。


【歴史】

「若澤寺」は山号を水沢山といい、江戸時代には「信濃日光」と呼ばれるなど、真言宗の由緒ある古いお寺だった。
伝承によれば、若澤寺は奈良時代に僧侶である行基によってお寺が開かれ、田村将軍(坂上田村麻呂)によって大きくされたと云われている。当初は、白山の山頂近くにある大堂ヶ原と呼ばれる場所に建てられていたと云われている。
※白山付近に「元寺場跡」(もとてらばあと)と呼ばれる場所に山岳系寺院があり、若澤寺の前身の寺田と伝わる。

若澤寺は中世に地元の豪族に守られ、戦国時代にも武田氏や小笠原氏などの有力な大名からも保護を受けていて、この頃に元寺場跡から現在の場所に下ったとされている。

若澤寺後201606 (6)
方丈付近から見た護摩堂跡。無数の礎石が建物の大きさを語っている。

若澤寺後201606 (12)
護摩堂から見た方丈(僧侶が日常の生活を送った場所。庫裡の事)

江戸時代は最も若澤寺が栄えていた時代とされ、松本藩の藩主の保護の下、絵図に描かれたように寺を大きく広げたほか、江戸時代の著名な作家である十辺舎一九を始め多くの参拝者を集め、松本平からも多くの寄付を集めるほどの繁盛ぶりだったと伝わる。

若澤寺後201606 (15)
護摩堂の礎石跡。

若澤寺後201606 (17)
南側から見た護摩堂の礎石群。いかに巨大な建物だったかがうかがい知れる。

しかし、明治四年(1871)に松本藩の廃仏毀釈令により寺は取り壊され、仏像は散逸し、建物も周辺の寺に移され、現在は石垣や礎石を残すのみである。

若澤寺後201606 (18)
同じく南側から見た方丈(庫裡)の礎石跡。

若澤寺③
発掘調査を元に作成された若澤寺跡の平面図(パンフレット掲載図に加筆)

若澤寺後201606 (21)
護摩堂と中堂救世殿の接続部分。石垣の崩落が著しく最近立ち入り禁止のロープが設置されたようである。

波田地区にある文化財においても、田村堂をはじめとしてその多くが元々は若澤寺の遺構であるとされており、波田地区の歴史を語る上では若澤寺は切っても切れない存在である。

若澤寺後201606 (23)
中堂救世殿との間より見下ろした護摩堂・方丈の遠景。

若澤寺後201606 (24)
中堂救世殿の崩れた石垣。この石垣は波田山城に使用されていた石積みの一部を転用したとも伝わる。

【寺跡】

若澤寺跡は主に6つの平場で構成されており、全体の面積は11,000㎡という大規模な寺院跡。上の段からそれぞれ、「田村堂」、「金堂」、「中堂救世殿」、「護摩堂・方丈」などの建物があった。廃寺によって建物などは破壊あるいは移転され、現在は石垣と一部の石仏が残っているだけであった。

若澤寺後201606 (27)
近世城郭並みの往時の石垣も崩落して見る影も無い。

若澤寺後201606 (31)
石垣の間の参道を登った先には山門があったようだ。

若澤寺後201606 (30)
中堂救世殿跡。

しかし、平成11年(199年)から旧波田町の教育委員会が行った総合調査の結果、各平場から大規模な建物の礎石が発見され、その位置は江戸時代に描かれた若澤寺の絵図にある建物とほぼ同じ場所にあり、この絵図が当時の寺の状況を正確に描いていたことが証明されたのである。
また、室町時代から江戸時代までの寺で使われていた遺物も大量に発見され、若澤寺が当時活発に活動していたことも証明された。

若澤寺後201606 (38)
「水沢観世音霊場」と書かれた石碑と石燈籠が残る。

若澤寺後201606 (44)
金堂から見た中堂救世殿跡。

若澤寺2016 (6)
廃仏毀釈令の過激な解釈により首を落とされた石仏。このような仕打ちを受けた石仏は全国で数え切れないほど存在する。

若澤寺2016 (5)
中堂救世殿から見上げた金堂と田村堂。

【神仏分離の誤った解釈により廃寺となる】

慶応四年(1868)に明治新政府によって発せられた「太政官布告(神仏分離令)」及び明治三年(1870)の「大教布宣」は神道と仏教の分離が目的であって、仏教の排斥は意図していなかったが、結果として廃仏毀釈運動が起き、神仏習合の廃止、寺院の廃止、仏具の破壊など拡大解釈が横行し廃寺に追い込まれる寺院が全国で続出した。
若澤寺もその悲劇の被害者となってしまったのである。

若澤寺後201606 (45)
金堂跡。

若澤寺後201606 (56)
若澤寺跡の最上段に位置する田村堂。


【雄鳥羽の滝】 (おとはのたき)

中堂救世殿の南東の崖下に「雄鳥羽の滝」(おすとはのたき)がある。往時は寺院の東側を流れる川をせき止めて弁財天を祀り、高石垣の間から滝のように落水させて池を形成していたようだが、現在は崩れた石垣と石造物がかすかな記憶をとどめている。

若澤寺後201606 (84)
今じゃ「雄鳥羽の滝」も枯山水・・(笑)

若澤寺後201606 (89)
雨乞いしないと水も溜まりません。

若澤寺後201606 (93)
天狗様の祈りは通じたのかしら・・・。

如何でしたでしょうか?廃寺ツアー第一弾・・(笑)

栄華を極めた若澤寺が廃仏毀釈令により抹殺されたという事実。

「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い・・・・・・」

檀家制度に恨みを持つ庶民もいたと思われるので、何とも言えませんが重文クラスの文化財の破壊は如何なものかと・・(汗)

波田山城攻略にお越しの際は、是非この廃寺跡もお尋ねくだされ・・・。


若澤寺後201606 (80)
若澤寺の「雄鳥羽の滝」側の入口にある「阿弥陀来迎三尊種子碑」。長録二年(1458)の年号が刻まれている。


≪若澤寺跡≫ (にゃくたくじあと)

標高:950m 比高:210m (上波田地区より)
造営年代:不明
存続年代:戦国時代~江戸時代末期
※若澤寺の前身である元寺場(白山の手前に遺跡)は平安時代~戦国時代に山岳系寺院として信仰を集めた。
場所:松本市上波田
訪問日:2015年6月21日、2016年6月12日
お勧め度:★★★★☆ 
所要時間:林道より5分
駐車場:無し、路駐
見どころ:礎石、石垣など
参考文献:若澤寺史跡保存会パンフレットより抜粋(2014年発行)
注意事項:石垣付近は崩落が酷いので立ち入り禁止順守。
その他:上波田地区にある田村堂など若澤寺より移設された遺構も御覧ください。
付近の城跡:波田山城、櫛木城、淡路城、夏道の砦など

櫛木城2016 (8)
上波田地区に移された若澤寺の田村堂。

櫛木城2016 (10)
田村堂に安置されている坂上田村麻呂像(重要文化財)

Posted on 2016/06/16 Thu. 23:46 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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