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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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桑田砦  

◆溝口上ノ城に関連する物見か◆

3月は何かと忙しい。(←更新しない言い訳か・・・見苦しいゾ!)

仕事的には年度末だし、母親の一周忌もなんとか済ませたし、最近は観光協会からの依頼もぼちぼちある。山城にも行きたいし。

それにしても、「あなたも行ってみたくなる?上田地域の山城」のYouTube再生回数が500回を超えていたのにはびっくり・・(笑)

今回ご紹介するのは、伝承だけ残り遺構的には何も残っていない「桑田砦」(くわたとりで)。更新詐欺の声もあるが・・・(汗)

桑田砦 (4)
最近建て替えとなった「桑田いきいき交流施設」の裏に薬師堂がある。物見はこのあたりにあったと考えられている。

【立地】

旧長谷村溝口の南で、御殿山の南の裾野に位置する南郷の桑田にある薬師堂付近が砦跡と伝わる。
ここから北北西に700mで溝口上ノ城(みぞくちかみのじょう)と下ノ城、南南西1kmに艮城、そして神明城と続く。

桑田砦 (2)
薬師堂の境内には立派な枝垂桜があり伊那市の文化財指定を受けている。

桑田砦 (3)
かつてあった枝垂桜は長野県の天然記念物指定で樹齢千年近くだったとか!。見たかったなあ。

【城主・城歴】

史料、口伝等なく不明。
合併前の「長谷村誌」(平成9年)によると、薬師堂周辺には「矢塚」「ほり畑」など城館に関係する地名が残っているので、ここに城館があったのだろうと推定している。

桑田砦 (5)
周辺は農地の構造改善で改変されてしまい、往時の面影すら残っていない。

【城跡】

薬師堂の建つ場所には堀や土塁などの遺構は全く見当たらない。薬師堂の境内も施設が併設されてしまったために往時の広さを知る由も無いが、かつてはここに居館があり、周囲に土塁や堀が囲んでいたのであろうと推測してみる。
農地の構造改善により地形が改変されてしまったが、ここからの見晴らしは優れているので、溝口上ノ城に関連した南に備えた物見が置かれ、地名が残ったと推定される。

桑田砦 (6)
薬師堂から南の秋葉街道方面を臨む。(旧秋葉街道は美和湖に沈んでいる)

桑田砦 (7)
薬師堂から艮城、神明城方面。

「なんで取るに足らない小さな砦跡まで掲載するの?」と時々聞かれる。

誰かが記録として残さなければ、永久に忘れ去られてしまい、再び思い出される事も無い。こうして記事にすることで、皆さんの記憶に残ればいいなあーと思ってます。


≪桑田砦≫ (くわたとりで) 

標高:902m 比高:-
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:伊那市長谷溝口
攻城日:2021年2月6日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け) 
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:-
注意事項:特になし
参考資料:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版) 
付近の城址:艮城、神明城、溝口上の城、溝口下ノ城など

桑田薬師堂航空写真
空から見た桑田砦の位置(Yahoo地図の航空写真に加筆転載)

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Posted on 2021/03/18 Thu. 22:18 [edit]

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神明城 (伊那市長谷黒河内)  

◆文武両道に長じる歴代黒河内家の根拠地◆

昨日、スマホの機種変更をした。4年3ヵ月の間、苦楽を共にした「7」であった。

想い起せば、画面のガラスは2週連続して落として割るし、バッテリーは2回ほど交換したが、山城の写真撮影や山ログで正確な位置情報の表示、城址からのtwitter発信など小生の厳しい環境下での山城ライフをしっかりサポートしてくれました!心より「ありがとう!」を伝えたい・・・・。

引退後は、娘の長女の室内専用デバイスとして第二の人生が待っています。今までの過酷な主とは違い大事にしてもらえると思いますw

マスクしていると顔認証してくれない新しい相棒の「12」の操作に悪戦苦闘しつつ、今回ご案内するのは「神明城」(しんめいじょう)

神明城 (1)
古屋敷とよばれる城の東側。

【立地】

人造ダム湖の美和湖東岸の黒河内の段丘上に位置する。ダムの湖面よりは約70mの高さがあり、段丘の中段には寺や数軒の民家がある。ダム湖が出来て水没する前には水田もあったようである。北東300mには沢を隔てて艮城があり、八人塚も傍らにある。

神明城 (2)
城跡の真ん中付近は「中道」との呼名。耕地化による改変で遺構らしきものは何もない。

【城主・城歴】 ※以下「定本 伊那の城」(1996年 郷土出版社)P89より引用、一部追記

城は寿永二年(1183)頃、源為朝の直系黒河内二郎義純が築いたと伝えられ、往古は「黒河内藤沢之庄」の庄であった。諏訪社領に属し、鎌倉幕府の旗下、承久の乱には将として軍功をたて、文安二年(1445)小笠原家家督争いに加勢、蔵人正国討死、室町、戦国を高遠氏に属し、天文十八年(1549)武田氏高遠侵攻に鵯越(ひよどりごえ)で城主の黒河内八郎左衛門朝光戦死。弟の隼人政信が当主となるも、武田に叛いたため伊那の狐島で処刑される。その後黒河内家は存続を赦されたようで江戸時代は保科氏に属する。世々黒河内家の根拠としてこの地で活動してきた。寛文年間(1661~73)在に下り郷の始動の地位にあった。

神明城 (4)
天王という地名の残る場所。城(屋敷)の中枢部分であろうか。

【城跡】

「定本伊那の城」の解説によれば、城址は、南北約200m、東西約150m。北は稲村沢の急傾斜深く登坂困難な地形。西側は三峰川へ崖となり、東と南に空堀を備える単郭式平山城である。水の手は郭内に湧水がある。城跡はほとんど消滅しているが、泉水、庭石、神明社が祀られている。

と書かれているが、現地を歩いても堀など見当たらず、往時の姿をイメージするのはかなり困難であった・・・・(汗)
(というか、地図片手に歩いていても不審者そのものなので、通報される前に早々に退散したというのが事実である・・・笑)

神明城 (6)
南側の高台から撮影した城の西半分。恐らく住宅の立つ場所とその北側が中枢部だったと思われる。

神明城 (7)
同じく城の東半分。要害の地に築かれた巨大な館城というのが、往時の姿であろう。(奥に見えるのが美和湖)

そういえば、先日地元ローカルのニュース番組見てたら、伊那市高遠町にある長野県を代表する日本酒「黒松仙醸」の蔵元「株式会社仙醸」(せんじょう)の社長さんの苗字が黒河内なので、びっくり。神明城のゆかりの方なのかしら・・・いつかお尋ねしてみたい。(←いやいや、アルコール系の宣伝のチェックのし過ぎだと思うが・・・笑)

≪神明城≫ (しんめいじょう 神明の古城) 

標高:890m 比高:70m (美和湖より)
築城年代:不明
築城・居住者:黒河内氏
場所:伊那市長谷黒河内
攻城日:2021年2月6日 
お勧め度:★☆☆☆☆ (南の高台の道路から見る程度かと)
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け) 
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:-
注意事項:住宅地なので撮影注意。不審者と間違われない様、住民の方がいたら挨拶を忘れずに。
参考資料:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版) 「定本 伊那の城」(1996年 郷土出版)
付近の城址:艮城、桑田砦、溝口上の城、溝口下ノ城など

八人塚地図①

Posted on 2021/02/24 Wed. 22:40 [edit]

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艮城 (伊那市長谷黒河内)  

◆黒河内家の本城を守るために築かれた城◆

「明日やろう、は、バカヤロー」 そんな言葉をラジオのパーソナリティが言っていた。なるほど、的を得ている。

「明日からダイエットするから、今日は思いっきり食べよう!}とか、「明日から禁煙するから、今日までは吸っても大丈夫だよね」とか・・・自分自身に言い訳を探しはじめて、期限を延ばそうとする・・・

そう、その明日は、残念ながら永遠に来ないのである・・・(笑)

自慢じゃないが(←いや、充分に自慢してる・・汗)、週二日の休肝日は夕飯を食べない。そう決めて家族に宣言して即実行。おかげで4.5kgの減量に成功。しかし、空腹との戦いに無条件降伏したくなるのも事実である・・・(汗) さて、いつまで続くのかしら。「継続は力なり?」 ・・・いいから米が食べたい・・・心から・・・頼む・・・金払うから・・・(笑)

そんな「腹ペコ青虫さん」が今回ご紹介するのは、八人塚が祀られている「艮城」(うしとらじょう)。

艮城 (28)①
八人塚のある場所から西側に突き出た段丘に艮城があり、八人塚のある場所も改変されているが城に因んだ名が残るという。

【立地】

三峰川によって出来た河岸段丘を北の沢と稲村沢によって削り残された台地の上にある。南北を深い沢に囲まれ中々の要害地形である。現在、三峰川は美和ダムによって堰き止められ、分杭峠に続くかつての秋葉街道は半分以上がダム湖に水没したが、旧長谷村は高遠と大鹿を結ぶ要衝の地であり戦略的にも重要視された場所でもあった。

城の名前は、黒河内氏の本城である神明城(しんめいじょう)の艮(丑寅、北東)の方角にある事に由来する。

艮城① (7)
艮城と八人塚のある台地を遮断する上巾19mの巨大堀切。

艮城① (11)
北の沢側より見た大堀切。

艮城見取図①
主郭の背後を深い堀切で絶ち切り、正面の斜面に通路を兼ねた横堀を伴う。南側には段郭が伴う。

【城主・城歴】

高遠家に属した神明城主の黒河内氏一族の築城と伝わる。(黒河内氏の出自については、次回の神明城で記載したい)
「定本伊那谷の城」の記述によれば、「神明城主黒河内八郎左衛門朝光の弟隼人政信が、武田氏伊那侵攻に備えて築城した。天文十八年に武田と戦った兄の朝光が戦死後も、伊那の諸豪士と合力し武田氏に最後まで抵抗し、弘治二年(1553)武田氏のため伊那狐島で惨殺された。」とある。

艮城 (7)
北斜面の通路。

艮城 (9)
通路の幅が斜面を回り込み次第に太くなり横堀になる。塹壕として作られたように思えるが。

艮城 (13)
こんな感じの土手付きの横堀。主郭の正面の防御用に掘られたようだ。

艮城 (16)
結構しっかり叩いているよね。

艮城 (11)
横堀の先端。この先は適当に稲村沢につなげていて、特に加工された竪堀とはなっていないようだ。


【城跡】

67×28の主郭は、東側台地との堀切側に巨大な土塁を備えて背後から城の中が見えないように工夫している。土塁は大堀切の土を掻き上げて作られたようで、堀底からは13m、郭側からも9mあり、壁のようである。主郭への入口は南側で、ちょっとわかりづらいが、枡形虎口となっている。
主郭の南の稲村沢側には段郭が置かれている。この沢には現在も通路があるので平時は連絡路となっていたかもしれない。
主郭の北側は犬走のような連絡通路が堀切から伸びていて、斜面を取り巻くうちに横堀となり主郭の正面を防御している。
高遠方面からの敵に備え、本城である神明城の守備で新たに築城されたというのは合点がゆく。

艮城 (23)
主郭内側から見た背後の巨大土塁と枡形虎口。

艮城 (22)
南側の土塁はかなり低い。(奥に桝形虎口)

艮城 (21)
北側の土塁はかなり高く盛られていて、東側からの目隠し効果を担っている。

艮城 (24)
67×28の主郭。(東側より撮影)

艮城① (19)
67×28の主郭(西側より撮影、デジカメで撮影した補助用写真。やはりスマホに勝てないのか・・・汗)

艮城 (19)
主郭の南側にある帯郭。

武田軍の諏訪と伊那の侵略は、電光石火の如くで抵抗する地元勢力が無かったような記載も多いが、その実情は違うらしい。
隙あらば「武田信玄、何するものぞ。我ら伊那谷衆が結束し、再び我が郷土を昔の通りに取り戻して見せる!」

しかし、黒河内隼人政信ら上伊那八人衆の思惑は外れ、強大な軍事力を持つ武田信玄の前に散った。
本来であれば、八人衆の一族は根絶やしにするのが鉄則であるが、領民の反抗を抑える為に親族を取り立てる懐柔策を取ったという。

艮城 (27)
桝形虎口に立つ石碑。城友の久太郎さんだったら、寝転がって「いいよ、そのポーズ!!」とかいって撮影するんだろうなあ(笑)

艮城① (35)
主郭背後の大堀切の南側(稲村沢方面)。ここから沢伝いに通路があるので、往時も使われたものと推察される。


≪艮城≫ (うしとらじょう) 

標高:900m 比高:90m (国道より)
築城年代:不明
築城・居住者:黒河内隼人政信
場所:伊那市長谷黒河内
攻城日:2021年2月6日 
お勧め度:★★★☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け) 
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:大堀切、高土塁、段郭、横堀
注意事項:特になし(八人塚よりは害獣除けゲートを開けて入る。必ず閉める事)
参考資料:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版) 「定本 伊那谷の城」(1996年 郷土出版)
付近の城址:神明城、桑田砦、溝口上の城、溝口下ノ城など

八人塚地図①
あたしゃ国土地理院の地図しか信用できしまへん・・・(何語じゃ!・・・笑)

艮城① (28)
虎口にある「艮城」の石碑(昭和53年建立)と高土塁。

Posted on 2021/02/17 Wed. 19:49 [edit]

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0430

下の城 (上伊那郡宮田村中越)  

◆天竜川を眼下に望む館城◆

国難に臨む姿勢としては基本「Stay Home」である。ワクチン開発という後詰めを待ちつつ「臥薪嘗胆」(小生の好きな言葉・・なんで?)

「神は乗り越えられない試練を与えない」このことである。春の選抜野球やインターハイを涙ながらに見送った高校生諸君の痛みに比べれば、山城探訪を我慢する事など取るに足らない。

さて、今回ご案内するのは上伊那シリーズ宮田村の「北の城・下の城」の下の城(しものじょう)である。

北の城・下の城(宮田村) (33)
北の城橋から天竜川南方面を撮影。

【立地】

下の城は、前回ご案内した北の城の南約200mに隣接しやはり天竜川の絶壁の上にあり、南には小田切川に続く台地に接している。北は大沢川が天竜川いそそぐ谷に面した天然の要害の位置に立地している城館跡である。
行き方は、北の城の駐車場から南曲輪沿いに遊歩道が設置されているが城跡は藪が酷いので細部の観察には難がある。

北の城・下の城(宮田村) (39)
耕作地脇の畦道を南に歩いて行きます。

北の城・下の城(宮田村) (77)
大沢川に架かる吊り橋を渡るとそこから城域になります。

下の城見取図①
天竜川の断崖を利用した館城である。

北の城・下の城(宮田村) (43)
リバーランド天竜公園の遊歩道が城の南端を通るが、近年は歩く人も絶えたようで歩道の両サイドは藪で荒れ放題。

【城主・城歴】

北の城の中越氏を参照願います

北の城・下の城(宮田村) (46)
郭3の南を遮断する堀切㋒。天竜川に落としている。

北の城・下の城(宮田村) (43)
郭3方面への突入を諦める・・・(汗)

【城跡】

今回は藪が酷くて郭3の周辺や細部の観察がままならなかったが、主郭の周囲は土塁がめぐらされてその外側には閉口して堀が設けられている。室町時代中期の形式の名残りを留めているこの構造は、堀底から見上げた土塁の比高が通常の倍にある。西側の土塁中央部には、大手(虎口)の位置ではないかと思われる切込が見られる。その西側には堀が南北に設けられている。
また、主郭の南側には幅の広い堀を隔てて郭2が造成され、さらにその南を堀切で遮断している。主郭の西側にも郭4があったと想定されるが土地改良工事により変形してしまったようである。城上の井という湧水が湧き出る沢を天然㋔堀として城域の西を防御したものと思われる。

北の城・下の城(宮田村) (52)
主郭(52×48)。さすがにここへは突撃したが、藪で細部が捕らえられない・・写真も無理だ・・(汗)

北の城・下の城(宮田村) (54)
主郭南側の堀切㋑。

北の城・下の城(宮田村) (58)
郭2(41×15)

北の城・下の城(宮田村) (56)
郭2の南を遮断する堀切㋐。(上巾5m)

北の城・下の城(宮田村) (62)
城域西側の郭4との接続部分

北の城・下の城(宮田村) (64)
主郭の虎口付近から堀切㋓に沿って北側。堀切㋓は「城上の井」の沢と連結するようである。

北の城・下の城(宮田村) (75)
主郭土塁の切込み。ここが大手(虎口)だと想定される。主郭内を探索するには藪漕ぎする度胸と装備も必要。

まあね、これほど酷い藪城とは思わないで訪問したものですから・・・(笑)
伊那方面は冬に行っても藪漕ぎが当たり前なので・・・だからといって夏の終わりに行く事ないでしょうに・・・(汗)

北の城・下の城(宮田村) (66)
城の水の手と伝わる「城上の井」。井戸ではなく湧水だったようで、流れ落ちる沢が天然の堀切を刻んでいたようである。

5年前の記憶を辿りながら記載する記事は、まず写真を見ながら「ここはどこ? 私は誰?」状態からスタートする・・・(笑)

おぼろげな記憶のある場所はなんとかなるのだが、記憶喪失の場所もあるのでこの先不安は尽きない・・・(汗)


≪下の城≫ (しものじょう)

標高:610mm 比高:20m(天竜川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡宮田村中越
攻城日:2015年9月22日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:主郭の土塁、堀切など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:下の城、中越館、塩田城など

北の城・下の城(宮田村) (32)
北の城端から見た下の城方面。




Posted on 2020/04/30 Thu. 20:27 [edit]

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北の城 (上伊那郡宮田村中越)  

◆天竜川の崖渕に築かれた要害城◆

4月の上旬に突然母親が他界してしまい、悲しみに暮れる暇もなく慌ただしい日々を送っている。

人の命なんていつ尽きるかわからない。もっとも「あなたの人生は○○歳です終わりです」と知っていたらもっと頑張れるのだろうか。

「親孝行、したいときには親は無し」 このことであった・・・。

明日の命の保証などないなら毎日こうして生きている事に感謝して、一日一日を精一杯生きなければと思う今日この頃である。

何とか頑張って更新したい思いから、今回ご案内するのは上伊那シリーズで宮田村にある「北の城・下の城」。先に北の城から。

北の城・下の城(宮田村) (1)
駐車場脇の巨大な土塁にびっくり!宮田村は伊那市と駒ヶ根市の間に挟まれた村で、人口約9,000人の村。北の城は桜の名所。

【立地】

天竜川の右岸、宮田村の中越集落の天竜川に面した段丘上に北の城・下の城と呼ばれる城跡が並んでいる。天竜川に面しては絶壁で、対岸は猿岩の岩壁が川に迫っていて、天竜川は峡谷となって流れている。いわゆる「後ろ堅固」の立地である。

北の城見取図①
大沢川と宮沢川に挟まれ、後ろは天竜川。舟形の主郭と外郭として西曲輪と南曲輪があったが耕作地化により原形は不明。

北の城・下の城(宮田村) (23)
主郭の西側の土塁に二ヶ所開口部があり、どちらかが虎口だったという。

【城主・城歴】

北の城と下の城の経歴ははっきりしたことはわからないが、位置からみて中越に本拠をおいた中越氏に関わるしろではないかと推測されている。
中越氏の文献上の初見は、元徳元年(1329)三月諏訪上社五月会御射山等の頭役を定めた鎌倉幕府の下知状、中越地頭と出ているがその地頭の名前はわからない。鎌倉時代に中越郷と宮田郷の地頭が諏訪上社に勤仕していたことを伺うことができる。
また、時代は降りるが応永七年(1400)の大塔合戦に、春近人びと一員として中越備中守が出陣していることが、「大塔軍記」等の戦記物にみられるところである。

北の城・下の城(宮田村) (17)
本郭の北隅でV字に折れる土塁。ここの土塁が最も高い。

以来、諸文献に名の見えなかった中越氏が再び出現するのは、永禄四年(1561)に書かれたとされる武田信玄関連の文書の中である。文中には中伊那の地侍たちの名が十三名挙げられており、ながらくなりをひそめていた中越氏は近郷の小身衆とともに信玄に服従したらしいことが読み取れる。

北の城・下の城(宮田村) (7)
主郭西側の堀跡。

北の城・下の城(宮田村) (15)
主郭内部。

【城跡】

北の城の主郭(122×60)は現在リバーランド天竜公園となっている。主郭の西側は堀に囲まれていて、その中ほどに土塁の切れ目がある。これが城の大手門(虎口)の位置と考えられるところである。ここを境として堀が北と南に分かれて設けられている。またた城上げ井(井戸)がこの辺りにあったが土地改良工事の為に失われたようである。

この北の城の堀の元凶を見ると、西側と南側の土塁の外側に現存するのみで、外堀は認められない。これらの堀と土塁の形は中世の中葉によくみられる形式である。また、この北の城では、北側が一段と高い土塁が設けられているのが特に注目されるところである。

北の城・下の城(宮田村) (24)
本郭の東側の土塁。天竜川に面しているので、途中から土塁が切れている。

北の城・下の城(宮田村) (27)
現在対岸とは北の城橋で連結されている。車は1台しか通れないので譲り合いの精神が大切ですw

北の城・下の城(宮田村) (10)
南曲輪。大沢川を挟んだ更に南側に下の城(しものじょう)がある。

北の城・下の城(宮田村) (12)
土地改良工事によって範囲が不明となった西曲輪。

西曲輪と東曲輪が外郭として存在したらしいが現在明確な遺構は見当たらない。堀で区画されていた可能性もありそうだが・・。

この後記事にする「下の城」とセットで使われたようであるが、両方合わせるとかなり巨大な城である。下の城は居住区としての居館城とすれば、北の城は堅固な要害城としての目的で築城されたのかもしれない。

北の城・下の城(宮田村) (34)
城の東側は鉄壁の水堀「天竜川」(橋から北方面を撮影)

≪北の城≫ (きたのじょう)

標高:610mm 比高:20m(天竜川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡宮田村中越
攻城日:2015年9月22日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:主郭の土塁、堀切など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:下の城、中越館、塩田城など

北の城・下の城(宮田村) (29)
対岸から見た北の城。桜の季節に再訪したいものである。


Posted on 2020/04/29 Wed. 16:46 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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