らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0301

殿島城 (伊那市春近中殿島)  

◆上伊那郡で現存する最大級の館城跡◆

先日、父親の四十九日が終わり忌明けとなったが、今週末は初節句のお招きがあり相変わらず山城探訪も叶わないまま二ヶ月が過ぎようとしている。

twitterで他の方のT/Lを眺めては「羨ましいなあ」・・・(汗) 

これ以上、山城に行けないストレスを抱えると「死んでしまうがなあー」とマジで思っております・・・(笑)

今回は再び舞台を上伊那(かみいな)に戻して、2年前に訪問した「殿島城」(とのじまじょう)をご案内しましょう。

殿島城 (2)
城址公園として整備されている。大手門と足場の石垣は根拠のない想像上の復元の産物であり、お役所の勝手な独りよがり。

【立地】

※以下、解説は「定本伊那谷の城」(1996年 郷土出版社 P57殿島城)の飯塚政美様の掲載記事を引用しています

殿島城址は、大部分が伊那市春近中殿島にあり、東側の一部が近年造成された暁野区(殿島団地)に属している。西側は天龍川左岸河成段丘突端部に当たり、北側は宮狭間の洞(県道沢渡・高遠線が通る)、南側は火沢の洞に挟まれた範囲で、約5ヘクタールの面積に達する上伊那地方では最大級の平山城である。

殿島城 (7)
大手門に接続する北側の堀跡。箱掘りではなく薬研堀なのが分かる。

殿島城 (8)
構造はW堀なのだが、大きな段差(高低差)をつけて守りを厳しくしている。(大手門の北側接続部分)

昭和四十年代前半の開田事業によって外郭部は相当破壊され、流し堀(河川を引き込み水流や水の力を利用して堀を造成した手法)によって区画された本城と外城が現存している。

本郭は約1ha(ヘクタール)の面積を有し、北東の一部を除いて四方に土塁が全周している。現在、復元大手門の櫓が再建されている北東部の一隅について江戸時代後期の編集された「箕輪記」にも現存のような姿で絵図化されており、大手の一部分と想定されるが、今後の課題である。


殿島城見取図①
殿島城の縄張図。北東は鬼門除けの隅欠けではなかったのか?とも思える。その場合、大手は南側になる。

土塁は段丘崖面に近い西側は低くなっており、逆に東側は極めて高く、重層感を漂わせている。その最高値は4メートルぐらい、最低値は1メートルぐらいを示す。次に細部の特徴を記す。
●本城を取り巻く堀は断面W型を呈する。
●本城の東側に構築された帯郭の近くは二重の堀が取り巻いている。
●西側の段丘崖面に数段にわたって何ヵ所も帯郭が設置されている。

殿島城 (14)
本城東側の三重堀の中央の堀。廃城後は崖下との連絡通路だったようで石碑が点在する。

殿島城 (16)
西側の崖側から見上げると外堀と中堀がW堀になっているのがハッキリと分かる。

【二度にわたる発掘調査の結果】

外城(二の曲輪)と外郭部は昭和六十二年の団地造成に伴い、発掘調査が実施され、竪穴住居址一件、竪穴十七基、建物址四棟、溝状遺構二基、武将級墳丘墓一基、火葬墓群などが検出され、これらから出土した遺物を列記する。
室町中期古瀬天目茶碗、動機の古瀬戸灰釉大平鉢、同期の内耳土器、鉄製分銅、青銅製の切刃(刀の鍔の裏側に付ける)、貝殻製品による三味線の撥、さらに二十枚の古銭が出土しているが、文字の判読したのからみて北宋銭、南宋銭、明銭である。

殿島城 (17)
外堀と中堀の土塁の上から見下ろして撮影した本城北側の堀切。これだけキレイに残っている三重の堀切も稀有であろう。

殿島城 (18)
本城の北側の三重の堀を隔てた外郭には殿島大和守の宝筐院塔が祀られている。

平成七年度、都市計画公園報道整備に先立ち、本城内の一部分を発掘調査し、四軒の竪穴式住居址、二基の竪穴、一基の集石遺構が発見され、これらの遺構内から室町後期の陶器片が出土。最も注目されるのは竪穴の覆土(深さ1メートルぐらいの層)から礎石が発見された。
この現状は廃城時に竪穴に投げ込んだのであろう。石の表面に墨で柱を建てる一、柱の方角を明瞭に印をしてあり、かつて主殿と思われる建造物は礎石を敷いてあったことが判明した。

殿島城 (34)
西側の崖面に落ちる本城の北側の堀切。三重⇒二重に収斂している。笹薮が酷く細部は見れなかった。

殿島城 (36)
復元大手門に接続する南側の堀切。

【城主・城歴】

殿島城は殿島氏に関連しているといわれているが、同氏が文献上に出現する動向について古い順に羅列する。

●嘉暦四年(1329)、諏訪上宮五月会付流鏑馬之花会頭(中略)結番之事 流鏑馬 殿島小井弩 黒河内三ヶ郷地頭(「諏訪家史料 「鎌倉下知状」)
●応永七年(1400)、小笠原軍に従い大塔合戦に参加(「大塔軍記」)
●永享十二年(1440)、小笠原軍に従い結城合戦に参加(「結城陣番帳」)
●文正二年(1467)、神林越後守盛兼(「諏訪御符礼之古書」)
●文明八年(1467) 同上
神林氏は以後、「赤羽記」によれば高遠頼継の老臣「上林上野入道」なる人物が見られ、殿島の地頭であったらしい上林氏は、高遠氏滅亡後は武田氏の旗下になったのであろう。

殿島城 (37)
本城内部。東側の土塁は結構な高さである。

殿島城 (38)
本城西側の崖面側の帯郭。

殿島城 (41)
本城の西側からみた復元大手門。

●天文元年(1532)、殿島大和守重度百五十貫文を領す(「伊那武鑑根元記」)
●天文七年(1538)、韮崎合戦参加(小平物語」)
●天文十四年(1545)、下諏訪合戦参加(「小平物語」)
●弘治二年(1556)、殿島新左衛門重国、信玄のため御成敗也(「伊那武鑑根元記」)

写真を掲載した宝篋印塔は伝殿島大和守のものと伝承されているが、隅飾突起の傾斜角度から鑑定して室町前期に編年づけられ、前述したように戦国時代に活躍したであろう殿島大和守の塔とはならない。
この塔は本城から堀を隔てた北側、護国寺所有の山林にひっそりと建立されているが、その状態から察して、どこかからか移転された可能性が濃厚であろう。
武士階級の人でなければ建立は不可能であり、周辺の歴史変還より殿島氏に関連すると思われる。

※以上、引用終わり。

殿島城 (42)
本城の広さと周回する土塁には圧倒される。

殿島城 (48)
公園という整備事業には必ず「ブランコ」「お砂場」「滑り台」という三種の神器が必要だった時代の忌まわしい副産物である。

殿島城 (43)
主郭(本城)と二の曲輪(外城)の間の堀切。

【城跡】

高度成長期における行政主体の宅地造成事業が城跡の破壊に直結した例は、伊那市に限らず全国で頻繁に起きており、民間事業も含めれば何百という城が消滅したらしい。

IMG_1174.jpg
東春近村誌に伝わる殿島城の絵図。(現地の説明板)

殿島城も、残念ながら二の曲輪(外城)は住宅地化による壊滅的な打撃を受けたものの、緊急的な発掘調査で城の歴史の一部を垣間見る事が出来たようである。

上伊那には、このような館城が数多く点在し、最も大きい遺構が殿島城である。

殿島城 (49)
本城の南側の虎口。小生、本来はここが大手口と思っているが、どうであろうか?

殿島城 (50)
南側の虎口から東側に回り込む横堀。

伊那八人衆として信玄に叛いて処刑された殿島大和守と他の七人にまつわるお話は、また次の機会としたい。

殿島城 (57)
外城(二の曲輪)との間の巨大なW堀。


≪殿島城≫ (とのじまじょう)

標高:660m 比高:40m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:伊那市東春近
攻城日:2015年2月22日 
お勧め度:★★★★☆ 
館跡までの所要時間:-分 駐車場:有り
見どころ:三重大堀切、土塁、方形居館跡
注意事項:二の曲輪は住宅地なので無断侵入禁止、撮影注意
参考文献:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P279参照)、「定本 伊那谷の城」(1996年 郷土出版社)
付近の城址:お寺の山、洞口城など
Special thanks:ていぴす殿

殿島城 (63)
殿島城は、北信濃の高梨氏居館跡、東信濃の伴野氏居館と共に南信濃を代表する館城で、その造りは正に戦国の居館城である。

スポンサーサイト

Posted on 2017/03/01 Wed. 08:05 [edit]

CM: 7
TB: 0

0210

表木城 (伊那市西春近)  

◆西春近の南部を統治した表木氏の館城◆

「おんな城主 直虎」は最初の2~3回見ればいいかなあーなんて思っていたら、子役の演技に引き込まれてしまい毎回見る羽目になっている・・・(笑)

亀之丞(のちの井伊直親)が井伊谷を追われ、青年になるまでの12年間を過ごした地が南信濃の松岡城(松源寺)というのも何かの因縁であろうか。もうしばらくはお付き合いしてみますか。

で、今回ご案内するのは、上伊那(かみいな)の表木城。この辺りは段丘を利用した館城が多いのが特徴で、似たような縄張の城がしばらく続くのだが、ご了承願いたい。

IMG_1175.jpg
平成26年3月に設置された地元の自治会協議会の標柱と説明板。後世に伝えたいという気構えが感じられて嬉しかった。

【立地】

表木城は、伊那市西春近表木下村の西側段丘崖面上を利用して構築された平山式館城で、郭が南北に長い方形連郭式に含まれる。城郭の東側はJR飯田線開削時に破壊されたらしく、残念ながら往時がどのような形態を留めていたのかは不明となってしまった。

表木城①
飯田線が城内を貫通してしまったが、これだけ遺構が残っているので良しとすべきであろう。

表木城(伊那市) (1)
城域南側から見た表木城。堀切㋑の道路は地元では「ほりみち」という呼び名らしい。

表木城(伊那市) (3)
堀切㋑。道路を設置するには都合の良い幅であったらしい・・(笑)

表木城(伊那市) (10)
郭3(南郭)は東西に二段の段差を持つ変則的な郭だったようだが、飯田線に分断されていまい細部は不明のままだ。

表木城(伊那市) (12)
線路に分断されたが僅かに残る郭3の東側。

【城主・城歴】

※以下は「定本 伊那谷の城」(1996年 郷土出版社)のP64の飯塚政美氏の記述を引用し掲載。

表木一帯は典型的な中世郷村制を形成していたとみえて「鰍在家(かじかざいけ)」なる小字名がかなりの広範囲にわたって残存している。「表木」の名が文献上に初見されるのは文明十九年(1487)である。
この年の七月、高遠の諏訪継宗は伊那の軍を統率して諏訪に攻め込んだ。この経過を「諏訪御符礼之古書」では次のように記している。
「此年七月二十七日、信州有賀へ箭(や)あそはし候、同年被食福島孫七、真木殿、面木氏、中沢高見打死候、御射山無御延引故候、八月七日迄、鞍懸御陣被御座候有賀へ矢射、其間之りうか埼之城取立候、御知行候」。この合戦で福島孫七、真木氏、面木氏、中沢高見氏は討死している。福島孫七は伊那福島郷の、真木氏は福島郷に隣接している牧郷、面木氏は表木郷、高見は駒ケ根中沢郷の地頭であったろう。

表木城(伊那市) (15)
堀切㋑は線路によって一部を埋めたてられたが、南の防御ラインとして厳重に仕切っていたのであろう。

「下高井郡山ノ内町温泉寺所蔵武田信玄書状」によれば、永禄三年(1560)十月、武田信玄は京都清水寺成就院に伊那郡面木郷を寄進している。このことからして戦国期には表木氏は信玄配下となっていたことがわかる。

IMG_1187.jpg
主郭の四方を囲む堀切㋐。巾・高低差ともに文句なしの防御である。この地域のトレンドとして根付いたようである。

表木城(伊那市) (26)
主郭西側の虎口。全方位を2m~3mの土塁が囲む主郭の唯一の入口である。

表木郷一帯は諏訪神社関係御造営に積極的に取り組んだとみえて次のような記録がある。まず大永四年(1524)二月び「造営日記帳」に面木、天正六年(1578)二月の「造営手形之事」に表木郷、さらに同年「諏訪社上社郷柱諸役造営帳」には「面木之郷弐百、三百文 代官 百姓輪番」。

表木城(伊那市) (29)
主郭内部。飯田線の破壊が無ければ50×50の方形だったと推測される。

表木城(伊那市) (32)
主郭の周囲は葯4mの高い土塁が周回している。


伊那武鑑根元記」によると、「表木主膳十八貫ヲ領シテ仝村表木ニ住ス共ニ小出犬坊丸ノ末孫ニテ世々高遠城ニ属シ、天正年中仝氏ノトキ家名ヲ失ヒ其跡年貢地トナル」と記してあるが、その事実は詳らかではない。この文献の信憑性は問われるが、全般的に考えると、この十八貫文領から推察して、表木城は一時期に築城したのではなく、徐々に規模を拡張したのではないか。
総合的にみて、表木城は室町時代前期頃にその母胎が築かれ、戦国期に滅亡したと想定され、この「流れとともに表木一族の変遷を物語ってくれているのであろう。周辺には「タイホウ」という小字名がある。 

(以上、引用終わり)

表木城(伊那市) (40)
郭2(北郭)。

【城跡】

主郭は高さ4mもある立派な土塁が三面を取り巻いていて、西側中央に虎口が開いている。東側は飯田線の線路の為に削られているが、本来の姿は方形の形で周囲を土塁で囲まれていたと推定される。
主郭を取り囲む堀切は上巾20mほどの巨大な薬研堀で、堀底から土塁の上部までは10m以上の高さがある。
北側と南側には大堀切を隔てて郭が連なり、更にその外側も堀切で防御されているので、連郭式の館城であったようだ。

表木城(伊那市) (41)
郭2の北側の堀底は水路が走っている。

表木城(伊那市) (49)
主郭と郭2(北郭)の間の堀切㋐。上巾20mを越える。

表木城(伊那市) (48)
堀切㋐は箱堀ではなく薬研堀で、往時はもっと深く傾斜もキツかったと推定される。

表木城(伊那市) (52)
堀切㋒の線路より東側。

郭3の南側には横堀㋓が構築されているが、主郭を周回する堀切㋐とは接続されていないので、あとから普請されたのであろう。
宮坂武男氏はこの堀切㋓を大手方面と推定しているが、堀切㋑の堀底を経由して西へ回り込むのが大手という事も考えられる。

表木城(伊那市) (57)
堀切㋓の脇を郭3に向けて登る「ていぴす殿」。

南信濃の戦国時代は、武田信玄が諏訪氏を滅ぼすと同時にいち早くその占領下におかれた為に、戦国大名の国境紛争とは無縁に思われがちであるが、弱小の国衆故に家名存続に対する執念は北信濃の国衆よりも強かったかもしれない。

残念ながら表木氏は刻一刻と変節を遂げていく戦国時代を乗り越えられなかったが、彼らの居館城はこうして残ったのである。
彼らの魂は、不明な点の多い表木氏の経歴を調べる研究者の出現を待ち望んでいるのかもしれない・・・・。

表木城(伊那市) (23)
地元の自治会の皆さんが現地に立てた説明板。内容もしっかり精査されていたので驚いた。

≪表木城≫ (おもてぎじょう )

標高:647m 比高:30m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:伊那市西春近
攻城日:2015年2月22日 
お勧め度:★★★★☆ 
館跡までの所要時間:5分 駐車場:無し(路駐)
見どころ:大堀切、土塁、方形居館跡
注意事項:線路への立ち入りは厳禁。
参考文献:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P279参照)、「定本 伊那谷の城」(1996年 郷土出版社)
付近の城址:物見や城、小出城、義信の城など
Special thanks:ていぴす殿

表木城(伊那市) (18)
伊那谷の城は、飯田線に破壊された場所が結構多いのが特徴かもしれない・・・(汗)






Posted on 2017/02/10 Fri. 22:13 [edit]

CM: 8
TB: 0

0205

小黒城 (伊那市西町)  

◆住宅地の中に眠る中世の館城◆

二年前に同胞のていぴす殿にずいぶんと南信の城をご案内いただいたのだが、お披露目することも無く眠ったまま・・(汗)

賞味期限もさる事ながら、記憶も曖昧になる前に引っ張り出して掲載することにしました・・(笑)

小黒城(伊那市) (10)
郭3の跡に神社(大山社)がある。

【立地】

前回ご案内した伊那市の春日城の約500m南にあり、小黒川が天竜川に合流する地点の河岸段丘上に位置する。周辺は住宅地が造成され、段丘下は飯田線と国道153号線が走り、その周囲には商業施設が並ぶ。開発から取り残されたように小黒城がある。

小黒城(伊那市) (2)
神社脇の鉄塔は堀切㋓が埋められた場所に立っている。見学の際はこの場所に止めさせてもらおう。(道路が狭いので注意)

【城主・城歴】

この城についての記録や伝承は全くなく不明。長野県町村誌には「小黒の古堡」として「本村の内東南にあり。残塁尚存す。何人の居住せしや事歴分明ならず」とある。その絵図には二つの方形の曲輪が並びその周囲を堀が囲んでいるという。

小黒城見取図①
小黒城概略図。(yahoo地図に加筆)郭として確認出来るのは1と3で、2は残念ながら住宅地となり改変されてしまった。

小黒城(伊那市) (13)
神社(郭3)の北側の道は堀切跡。突き当たりには主郭が位置する。

【城跡】

天竜川に注ぐ小黒川の合流地点が形成する河岸段丘は比高が約30m程にもなるので、この段丘の先端は要害地形となっている。先端角地の主郭は52m×50mのほぼ方形で、周囲を高い土塁で囲まれている。土塁の所々には土留め用に用いたとみられる石積も散見出来る。

宮坂武男氏が訪問した平成9年の時の縄張図では郭2が果樹園になっていたが、小生が訪問した時にはすでに住宅が建てられており遺構は確認出来なかったが、主郭との間の堀切㋐は辛うじて残されていた。

小黒城(伊那市) (17)
堀切㋒。右が郭3(大山社)、左が郭1。春日城の堀との共通点が伺える。

小黒城(伊那市) (18)
堀切㋒を南側より撮影。郭4は宅地造成により壊滅したようだ。

郭3の西側の鉄塔のある場所から南側は斜面に堀形が確認できるので、鉄塔も含めて北側に一条堀切があり、郭4の先でL字に折れて堀切㋐に接続していたものであろう。
郭3と郭4は現在道路で仕切られているが、形状を見るとここにも堀があり区分けされていたものと想像できる。

小黒城(伊那市) (20)
果樹園だった郭2には壮大な石壁の庭園を持つ民家が建っている。

小黒城(伊那市) (21)
広大な巾を持つ堀切㋐。やはり春日城との共通が想定される。

●主郭

周囲を土塁で囲まれた貴重な遺構で、住宅地の中にこのような場所が残されていたことに驚くと共に地主の方に感謝したい。
ていぴす殿はよほどこの城館がお気に入りなようで、数え切れないほど訪問しているのだという。
伝承不詳の城とはいえども、せめてここだけは何とか後世に残して欲しいと思う次第である。

小黒城(伊那市) (24)
広大な主郭。

小黒城(伊那市) (26)
土塁で囲まれた方形居館であることがよく分かる。

小黒城(伊那市) (30)
主郭から見下ろした堀切㋐。

小黒城(伊那市) (41)
土塁に残る土留めの石積み。

小黒城(伊那市) (42)
堀切㋒越しに見た対岸の郭3(神社)

小黒城(伊那市) (35)
西側の平虎口。

春日城に近い事や堀の構造・縄張がよく似ていることから、小黒城の主は春日氏に近い人で、春日城の南側の防衛を担った事が想定される。

これほど見事な遺構が残る小黒城、官民挙げて後世に残して欲しいと切に願う次第である。


≪小黒城≫ (おぐろじょう )

標高:667m 比高:30m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:伊那市西町小黒
攻城日:2015年2月22日 
お勧め度:★★★★☆ 
館跡までの所要時間:5分 駐車場:無し、鉄塔付近にスペースあり
見どころ:大堀切、方形居館など
注意事項:住宅密集地なので撮影時のプライバシーに注意、道路狭いので無断駐車厳禁
参考文献:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P279参照)
付近の城址:春日城、狐林城など
Special thanks:ていぴす殿

小黒城(伊那市) (36)
主郭の見事な土塁。

Posted on 2017/02/05 Sun. 10:45 [edit]

CM: 0
TB: 0

1015

春日城 (伊那市西町)  

◆河岸段丘を巧妙に利用した城◆

信州もだいぶ気温が下がり、朝晩は寒いぐらいだ。しかし、紅葉シーズンは例年より一週間以上遅れているので、山城探訪は10月末ぐらいからシーズンインと見た方が良いと思われる。

今回ご案内するのは、「春日城」(かすがじょう)。伊那谷の河岸段丘の城を代表する一つだ。

春日城(伊那市) (2)
二の曲輪と三の曲輪の間の巨大な堀切。上巾14mは圧巻だ。

【立地】

この城は、天竜川西の河岸段丘上に位置する。東側は中段を持つ段丘壁であり、天竜川の氾濫原との比高は40mにも及ぶ。さらに市街地との間には尾花ヶ崎が岬のように張り出して段丘を守る防壁の役割をしている。
また、北側と南側は自然の沢で、共に堀の役目を果たしている。西側には自然の防御となる沢などなく、木曽山脈の麓までの広大な台地に続いている。

春日城(伊那市) (9)
三の曲輪の西側には堀切があったようだが埋められてしまい痕跡が僅かに残る。

春日城(伊那市) (58)
三の曲輪の東側。ここに大手の虎口があったと推定されている。

【城主・城歴】

築城時期については、公園化整備計画に基づく二度の発掘調査によって、城の原初は南北朝に遡り、室町中期には現在の形に近い縄張になっていたものと推定されている。

また、築城者などについては不明で、城の動向を伝える文献も戦国時代に限定される。まず「伊那武鑑根元記」には、天文年間に平家の末流がこの城に来て「伊奈部大和守重慶ト称シ三百貫文を領シ」とある。「上伊那郡史」はこれに関して「伊那部氏は本姓春日氏」とし、美篶(みすず)の大島城との関連にも言及している。また、「小平物語」は天文十四年(1545)の武田勢による福与城攻めの部分に、小笠原定信が伊那衆を率いて「鋳部(いなべ)に本陣をとり・・・・・・」とあり、その人数は二千余に及んだと記されている。「鋳部」は「伊那部」でこの城と考えられるが、ここで戦いがあったかなどは不明である。

春日城縄張図① 001

春日城(伊那市) (10)
堀切㋑。うぐいす洞方面。

【城跡】

現在堀切として残っているのは主郭をL字で遮断している堀切㋐と二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀切㋑のみである。三の曲輪の西側には堀形が僅かに残る。さらに何本かの堀切が設けられていたと思うがはっきりしない。城の大手口は三の曲輪の北側で遺構が確認できる。

春日城(伊那市) (14)
二の曲輪に残存する土塁。

春日城(伊那市) (16)
二の曲輪の内部(北方面)土塁がL字に建物の裏まで残っている。

春日城(伊那市) (19)
二の曲輪の東側。

河岸段丘を巧みに利用したこの城は平山式館城で、主郭は南北70m、東西約60mのほぼ方形。二の曲輪は南北120m、東西約120mでL字形。三の曲輪は南北約100m、東西約50mの長方形である。

春日城(伊那市) (30)
二の丸との間に渡る本丸橋から堀切㋐を撮影。(市街地方面)沢を隔てて尾花ヶ崎出郭跡が見える。

本郭と二の曲輪の東側崖下中段の尾花ヶ崎には出曲輪があったと推定され、その東側も高く急な崖になっている。

春日城(伊那市) (27)
オレンジ色の屋根の建物が建つ付近が尾花ヶ崎出曲輪と推定される。

春日城(伊那市) (35)
主郭の東側の土塁。

春日城(伊那市) (37)
ほぼ方形の本郭(70×60)

春日城(伊那市) (25)
二の曲輪から見た本丸橋。堀切㋐の巨大さがお分かりいただけるでしょうか?

本郭からは、眼下に天竜川と三峰川の合流地点を中心とする平地(現在は市街地)が広がり、ほぼ真東の遠方の山麓には高遠城までも見渡せる。城域西側の台地上には古くから東山道が通過し、東の中段は近世の伊那街道が通っていた。
このような立地と堅固な構えのこの城をいつ、だれが、何の目的で築いたのかは、残念ながら分かっていない。

春日城(伊那市) (28)
伊那市の中心部、そして東の山麓には高遠城が見える立地である。

春日城(伊那市) (32)
本丸橋の脇の標柱。背後に低い土塁跡が残っている。

春日城(伊那市) (43)
主郭の一段下の腰郭から見た南側の沢である「うぐいす洞」。結構厳しく落差の大きい天然の沢である。

春日城(伊那市) (49)
南側の「うぐいす洞」から見た堀切㋐。

現在、城址は春日公園となっていて、桜の名所として、また憩いの場所として、隣接の文化施設などとともに市民らに広く親しまれている。

≪春日城≫ (かすがじょう 伊那部城)

標高:670m 比高:40m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:伊那市西町伊那部
攻城日:2015年2月22日 
お勧め度:★★★☆☆ 
館跡までの所要時間:5分 駐車場:有り
見どころ:大堀切、土塁など
注意事項:特になし。
参考文献:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P442参照) 「信州の古城」(2007年 湯本軍一監修 郷土出版社 P88参照)
付近の城址:小黒城、狐林城など

春日城(伊那市) (52)
伊那谷の河岸段丘の城は、いずれも大名系城郭に匹敵するような深くて広い堀切が特徴で、いずれも謎に満ちている。

Posted on 2016/10/15 Sat. 22:15 [edit]

CM: 2
TB: 0

1009

藤沢城 (伊那市高遠町藤沢)  

◆杖突峠の南を守った城館一体型のコンパクトな山城◆

今でこそ、天竜川沿いに中央自動車道が通るので、この道が諏訪と伊那谷を結ぶ道のように錯覚するが、往時は諏訪大社の上社から杖突峠(つえつきとうげ)を越える杖突街道(現在の国道152号線)ルートが往還であり、戦国時代も多くの軍勢がここを通ったのである。

藤沢城(伊那市) (80)
杖突峠から見た諏訪湖。武田信玄も織田信長もここからこの景色を眺めたのであろうか。

藤沢城(伊那市) (84)
正面には信玄が諏訪郡代を置いた上原城がよく見える。

今回ご案内するのは、諏訪から杖突峠を越えて高遠との中間地点に築かれた藤沢城。
場所は伊那市であるが、実質的には諏訪勢力圏内であり、当初は伊那への進出拠点としての役割を持っていたと考えられている。

藤沢城(伊那市) (1)
杖突峠を越えてしばらく下ると、藤沢地区の御堂垣外(みどうがいと)の道路沿いに登城口の看板がある。

藤沢城(伊那市) (2)
フェンスは棘の鉄線で開かないので、両サイドから適当に用水路を越えて入り道なりに進むと案内板があるので迷わない。

藤沢城(伊那市) (5)
10分も登れば尾根の分岐に着くので、そこを左に折れれば城域となる。

【立地】

伊那市高遠町藤沢の堂垣外の西で、藤沢川を隔てた蛇山(じゃやま)の山頂にある。諏訪市と伊那市に跨る守屋山(1650m)の支尾根先の末端部で、その名が示す通り平坦に伸びた蛇のような尾根先で頭の部分になる。
ここは松倉峠(金沢峠)と杖突峠からの道が合流する場所で、古来より交通の要衝であった。

藤沢城(伊那市) (8)
北側の搦め手方面。特に何もなかった。

藤沢城③ 001

【城主・城歴】

城主は、元暦・文治年間(1184~1190)に諏訪の社領に属していた藤沢盛景、さらに天文十八年(1549)には武田信玄に属した保科正直が居住していたと伝わるが、築城時期についてははっきりしていない。
保科氏は武田氏の滅亡とともに天正十年(1582)に高遠に移ったといわれ、その後の藤沢城の経緯は定かではないが、高遠城の砦として諏訪方面との往来を監視したのであろうか。

藤沢城(伊那市) (10)
最初に現れる堀切㋔。

藤沢城(伊那市) (14)
三段の小さな郭を越えて堀切㋓へ。

藤沢城(伊那市) (15)
堀切㋓の手前から主郭方面を見上げるが、これじゃよく分からん・・・。

藤沢城(伊那市) (20)
本郭手前の堀切㋒から見下ろしてみた・・・。

【城跡】

連郭式のコンパクトな山城で、防御は5本の堀切と数段の段郭のみである。
垣外(がいと)という地名の示す通り、麓の藤沢川と南沢の合流地点には根古屋があり、往時は城館一体型であったことが伺える。
現在道は消えてしまっているが、根小屋から郭2に通じる大手道があったと思われる。
根小屋は残念ながら耕作地化による改変の為にその遺構をうかがい知る事は出来ないが、天正十年の城絵図が伝わっており、藤沢城の最終形と考えられている。

藤沢城(伊那市) (22)
主郭手前の堀切㋒。急斜面を断ち切り落差を稼いでいる。

藤沢城(伊那市) (75)
堀切㋒(東側)から見た堂垣外集落と松倉峠方面。

藤沢城(伊那市) (69)
本郭付近から見た南側の高遠町方面。抜群のロケーションだ。

藤沢城(伊那市) (29)
辿ってきた杖突峠方面と街道。

●主郭

周囲を土塁に囲まれた18×8の広さで、虎口は東側にある。結構狭いので、籠城というよりも普段は物見台、緊急時には搦め手へ逃れるための時間稼ぎの類いであろう。

藤沢城(伊那市) (56)
標柱と説明板の立つ本郭(西側より撮影)

藤沢城(伊那市) (53)
主郭の西側の土塁。

藤沢城(伊那市) (72)
古城には老松が似合うのは何故?(笑)

●二の郭

主郭の南に堀切㋑を隔てて郭2(28×6)がある。土塁の囲みはなく長方形の郭の東西に細長い帯郭が数段確認できる。
大手方面の堀切㋐との出入り口に土塁があるので、門が置かれていた可能性がある。

藤沢城(伊那市) (52)
主郭と郭2の間の堀切㋑。

藤沢城(伊那市) (33)
逆にしてみるとこんな感じ・・(笑)

藤沢城(伊那市) (39)
下り坂となっている郭2.

藤沢城(伊那市) (40)
んーん、この時期の浅い堀切の撮影はちと厳しい。

藤沢城(伊那市) (44)
堀切㋐の断面。

藤沢城(伊那市) (46)
かつての大手方面に立つ老松。

●根古屋

麓が見える高さなので、そのまま郭2から藪漕ぎして下っても良かったのだが、夏場なので遠慮した・・。地元の方にクーさんと間違えられても洒落にならないし、何より「蛇山」の名の如くヘビに遭遇するのも遠慮したい・・(笑)

藤沢城(伊那市) (73)
説明板に掲載されている藤沢城の天正十年の時の絵図。本丸の左下の「orz」(?)のような記号が砦の場所である。

藤沢城(伊那市) (61)
かつての麓にあったという本丸はとその周辺は改変により確認出来なかった。

藤沢城は、WEBで検索すると結構訪問記事にされている方が多い。お手軽に登れて城跡からは絶景が眺められるというメリットは大切な要素で、修験者の修行に近い荒行を求める信濃の山城の中では異質である・・・(笑)

先日、信濃先方衆の「ていぴす」さんにこの城の事を尋ねたら、本郭に立つ老松をスマホの待ち受け画面を見せてくれました(笑)
山城フリークの皆様にはメジャーな城なので、結構自分としては衝撃(笑劇)を受けた次第ですw・・・。


≪藤沢城≫ (ふじさわじょう 蛇山)

標高:1032m 比高:80m(国道より)
築城年代:不明
築城・居住者:藤沢氏・保科氏
場所:伊那市高遠町藤沢
攻城日:2016年8月28日 
お勧め度:★★★☆☆ 
館跡までの所要時間:15分 駐車場:道路脇路駐
見どころ:堀切、土塁など
注意事項:特になし。最近まで整備されていたようだが、だいぶ荒れてきている。
参考文献:「信濃の山城と館⑤上伊那編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P442参照)
付近の城址:台の城山、栗木田城、中条の城など

藤沢城(伊那市) (63)
「おーい!」と叫べば聞こえそうな高さの城跡だ。














Posted on 2016/10/09 Sun. 20:08 [edit]

CM: 2
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

▲Page top