FC2ブログ

らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0511

関屋城 (長野市松代町豊栄)  

◆地蔵峠越えの松代街道を監視した砦か◆

先月から休日は自宅軟禁中(?)なので、プラモ製作数とかブログ記事の更新回数が伸びても良さそうなものだが、天邪鬼っぽい思想なので「それは違うだろう・・・」という訳の分からぬ回答となる・・(笑)

10年前の長女の結婚式と披露宴のDVDを見ながら、夫婦で涙腺崩壊しているのが正しい「Stay Home」なのだと思う・・(笑)

今回ご案内するのは、北信濃の川中島城砦群の一つであろうと伝わる関屋城(せきやじょう)である。

DSCF4273.jpg
主郭背後の見事な大堀切(南側)

【立地】

長野市松代町豊栄(まつしろまちとよさか)の関屋集落にあり、城址の東側は上田市の真田町へ通じる松代街道の地蔵峠の入口を抑える場所にある。明徳寺の南、小沢2つを隔てた300mの位置で、集落のある関屋川(蛭川)に面して急崖になっている。

DSCF4274.jpg
大堀切の北側は長大な竪堀となって沢を刻んでいるが、産業廃棄物の不法投棄で困った事になっているようである。

関屋城見取図①
主郭背後の土塁は崩されたが、主郭と一段下の段郭で構成された古いタイプの縄張りであろう。

【城主・城歴】

神氏(みわし)の関屋氏が代々拠った所とされる。関屋氏は諏訪大祝の後裔で、平安時代より松代地方を領した豪族であったが、明徳(1492~1500)以後、村上氏のために滅ぼされたと言われている。
その後の城主は不明だが、地蔵峠を越える街道の海津城の裏口を守るには良好な位置にあるので、見張り兵が置かれた可能性はあると思う。

DSCF4275.jpg
この農道は主郭背後の土塁を破壊した時に周回用として新たに造られたようである。

DSCF4271.jpg
東側から見た土塁跡。一見すると櫓台の郭のように見えるが、元々は主郭を目隠しするように高い土塁があったと推定される。

DSCF4277.jpg
尾根先を切断し北側に落ちる竪堀が斜面を遮断している。(上巾18m)

【城跡】

城址一帯は耕作地化され、現在は植林で大きく変貌してしまい往時の遺構を観察するには難しい状況となっている。
尾根先の舌状台地が主郭で、一段下に囲むような段郭が置かれ、尾根の根元は一条の大堀切で切断されている。
主郭とその下の郭の南側は石積みの切岸になっているが、これは近年の耕作地化による土留めであろう。また、北側斜面に数段の帯郭のような平場が数段あるが、遺構とは関係ないようだ。

DSCF4278.jpg
主郭内部(35×20)

DSCF4285.jpg
主郭南側の石積み。崩落留めで積まれたようで、三段で構成されている。城の遺構ではない。

DSCF4289.jpg
松代周辺は石積みの城が多いが、これは時代が新しいと誰もが気が付く。

DSCF4291.jpg
この帯郭は城の遺構のような気がするが・・・。

DSCF4294.jpg
主郭の先端から見下ろした段郭。

元々は在地土豪の要害として造られたようであるが、麓の屋敷等の場所は布目だという。宮坂武男氏によれば、この辺りには未だ見発見の砦が2~3あると伝わるが、場所の特定には至っていないという。

関屋城の正面には武田統治時代のノロシ山が良く見える。が、その高さゆえに、普段は麓の関屋城が活用されたようにも思うのだが、どうであろうか・・・。

ノロシ山①
関屋城から見たノロシ山。天候に左右される狼煙台は、麓の砦から次の砦へ銅鑼や鉦叩きで伝える方法が主流だったとも・・。

≪関屋城≫ (せきやじょう)

標高:510m 比高:45m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市松代町豊栄関屋
攻城日:2017年4月16日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:関屋集落から10分 
駐車場:無し (明徳寺の裏道経由で城までの農道は道が荒れているので、道路脇の南側の堀切から直登するのが良い)
見どころ:堀切、主郭、土塁跡など
注意事項:特に無し
Special Thanks to ていぴす殿
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」
付近の城址:ノロシ山、清滝城、尼巌城など

IMG_1128.jpg
地蔵峠へ向かう豊栄保育園側から見た関屋城。


集落側の南堀切出口から登るのが早いが、耕作地を進むので地元の方にはしっかり挨拶しよう。

スポンサーサイト



Posted on 2020/05/11 Mon. 20:41 [edit]

CM: 2
TB: 0

0504

髻山城 小城 (長野市若槻西条・飯綱町))  

◆髻山城の東南を守る出城◆

毎年恒例の山城トップシーズンの店閉まいとなるはずはずだったGWは、「Stay Home」で終了のゴングが鳴る。

「臥薪嘗胆」そして「捲土重来」を誓って後詰めを待ち続ける高天神城の籠城戦である・・・勝頼さん、見殺しにするなよ!(笑)

今回紹介するのは、存在自体知る人が少なく訪れる人無き髻山城の小城である。

小城位置
髻山城の南東に位置するのだが、案外訪れる人はほとんどいない・・(汗)

髻山城の記事自体も10年前の昔の記事なので、リテイクせにゃあかんと思っているのだが、その為にはもう一度現状を取材しないといけない・・・。不要不急の外出制限発令中につきいましばらくお待ち願いたい・・・(汗)

motodori01 (31)
髻山城の主郭から見た小城。信玄は長沼城との連携も視野に入れて対上杉の要害としてこの山城を重要視していたという。

【立地】

髻山城(もとどりやまじょう)の本城は、長野市と飯綱町の境にある三登山(みとやま 標高923m)の東端の髻山(標高744m)に位置し、小城は髻山城の山頂から南東300mのj標高674mの小山にある。今回は別途に掲載しているが、本城と小城で髻山城と総称されている。この山は元々火山なので、小城のある山も派生して出来た山だと推定されている。

髻山城小城見取図①
本城の技巧的な改修工事に比較すると手はあまり入れられていないようである。

髻山城小城 (32)
鞍部から比高50m程度なので迷う事はないが、久々に感じた不気味な感じはなんだったのか?(汗)

【j城主・城歴】

詳細はリテイク記事の際に記載したいと思うが、元々は北信濃の在地土豪の城で甲越紛争が勃発すると上杉方に与して戦い、紛争が長引くと上杉に譲渡され善光寺平の背後を守る城として葛山城、大峰城などと連携しながら甲軍に備えたとされる。
しかし、永禄四年以降は善光寺平は武田の支配下となり、髻山城も武田方に帰属したものと思われる。

髻山城小城 (34)
北斜面の竪堀。掻き上げ土塁のようだが、現状では確認出来なかった・・。

IMG_5440.jpg
頂部からは数段犬走のような細い腰郭が周回する。

【城跡】

頂部の22×19の主郭には土塁の囲みは確認出来なかった。宮坂図では北斜面に塹壕のような竪堀が示されていたが、髻山城の本城ほどはっきりしたものでは無い。改修中に放棄されたのであろうか。
一段下に犬走のような郭が周回するが、植林作業時の作業道のようでもあり判断が難しい。

髻山城小城 (16)
主郭。

髻山城小城 (17)
主郭の周囲は土留めの石積で囲っていたようだが、遺構との判別が難しい。

髻山城小城 (11)
南斜面の段郭。削平が曖昧。

髻山城小城 (24)
宮坂図にある西斜面の竪土塁を懸命に探したが見当たらなかった・・・俺の目は節穴らしい・・・(笑)

髻山城の本体に比べると加工度も低く、甲越紛争の初期に上杉方が出城として簡単に手を入れた程度であろう。それに、比高差は約80mあるので、連携も結構大変だと思われる。直接の連絡通路は採石場により破壊されてしまい、現在は東の大手道にまわるか、西の山裾を回り観音清水のある場所からしか本体に登れない。

髻山城小城 (33)
頂部からの展望は無理なので、登り口からの風景。


≪髻山城 小城≫ (もとどりやまじょう こじょう)

標高:674m 比高:175m(北国街道より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市若槻西条・飯綱町
攻城日:2016年5月5日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:鞍部から10分 駐車場:無し (狭い農道なので路駐厳禁)
見どころ:主郭の土塁、堀切など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」
付近の城址:髻山城、若槻山城、三日城、矢筒城など



motodori01.jpg
髻山城遠景。(小城の遠景を探しましたが見当たらかったので悪しからず・・・汗)

Posted on 2020/05/04 Mon. 09:49 [edit]

CM: 2
TB: 0

0601

針立城 (長野市戸隠栃原)  

◆再調査が必要な居館城跡◆

基本的にはしっかり現地踏査を行った山城や城館を記事として掲載するのをモットーとしているのだが、再調査は直近でも晩秋になりそうなので、流れ的に掲載しておこうと思う。お赦しくだされ・・・。

今回中途半端にご案内することになったのは戸隠シリーズの「針立城」(はりだちじょう)。

針立城 (1)
南側より城跡の西側の堀切を見る。

【立地】

戸隠栃原の福平集落の700m東に位置する針立集落の東の小山になり、城の東側は奈良尾沢の深い渓谷となり天然の要害である。近くには福平城や南に円光寺館などがあり、福平城に関連する城砦と考えられている。

針立城見取図①

【城主・城歴】

史料・伝承等無く不明。立地からは福平城の溝口氏に関係のある人物の城館と推定されている。

針立城 (4)
まあね、夏場は城館といえども突入するのは勇気がないと・・・(汗)

【城跡】

宮坂武男氏の踏査報告によると、土塁を伴う最高所の主郭の前後に三ヶ所の副郭を伴う城館で、周囲は深い渓谷に面しているため地続きの南側にのみ堀が穿ってあったようだという。
今回は藪が酷いのと本能的に警鐘が鳴っていたので探索は諦めて、周囲の地形観察に留めた。
都合が合えば、改めて調査してみたい城跡である。

針立城 (5)
この時は何故か突入するのを躊躇(ちゅうちょ)した。無理してはいけないのである・・・。

針立城 (10)
郭4は耕作化により改変されているが、切岸は往時のままだと思われる。

≪針立城≫ (はりだちじょう 沢尻の城)

標高:818.2m 比高9m 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2016年5月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分
見どころ:不明
付近の城跡:大昌寺山城、福平城、円光館など
注意事項:耕作地は無断侵入禁止  駐車場:無し
参考書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)

針立城 (7)
城の南側の堀跡(推定)

Posted on 2018/06/01 Fri. 22:32 [edit]

CM: 0
TB: 0

0520

五十土城 (戸隠栃原)  

◆福平城の南口を守る砦か◆

GW明けは連休も取れずに一週間に一度の日曜休みだけで、これといって観たい映画も無いし、近くの博物館や歴史館も特別に興味のある展示会をやっている訳でもないので、なんとなく一日が終わってしまう焦燥感・・・(汗)

といって蜘蛛の巣や毛虫が降り注ぎ、蛇を警戒しながらスズメバチに追われる夏の山城探索などに出掛ける気にもならない(笑)

かといって天気が良いのにブログ記事を更新するのもどうなんでしょうかねえ・・・今回ご案内するのは戸隠の「五十土城」(いかづちじょう)

戸隠周辺の城と居館①
戸隠地区で残るは「高城」と「志垣城」「猿丸城」の3つでコンプリートなのだが、猿丸城は大藪に阻まれて一度撤退している。

【立地】

旧戸隠村栃原の五十土(いかづち)集落の北側の山裾の高台にある。ここは谷沢の谷に面して断崖となり集落を見下ろす場所に位置している。東の台地上には大昌寺と大昌寺山城、北の大地には福平集落と福平城があり、その台地の南側の登り口にあたる。

五十土城見取図①
まあ、高台にホームベースのような単郭があるだけなのだが・・・(汗)

五十土城 (2)
道路脇から数分登れば高台(主郭)へ。墓地への道路が付いているので軽自動車なら入れる。

五十土城 (3)
主郭の墓地。周辺はかつて耕作地だったようだ。

【城主・城歴】

史料、伝承等無く不明。宮坂武男氏の調査によれば、この南下の家の家号が「十」(じょう)なので、この山が城跡と考えられているという。展望はあまり良くないのが、五十土城の北側の斜面を比高50mほど登れば福平城の外郭に通じる事や、南東の大昌寺山城とは指呼の間にあるので、福平城の砦だった可能性も考えられるという。

五十土城 (6)
主郭の北側は窪地になっていて堀があったと推定してみるがどうであろうか。

五十土城 (1)
西の谷沢方面に下る堀形。それっぽく見えます。

【城跡】

33×38の五角形状の頂部は墓地とかつては耕作地だったようで、「十(じょう)」と呼ばれた麓の家号の家との間に削平地が確認出来るが、これは往時のものかは断定できない。
本郭の南側の断崖に下りる小径の中間に稲荷と数基の石祠が確認出来るが、この城跡との関係は不明である。

五十土城 (5)
東側に福平城の出城と伝わる大昌寺山城。

五十土城 (8)
「十(じゅう)」という家号の家は恐らく五十土城の代々の城守だったのであろう。

≪五十土城≫ (いかづちじょう) 

標高:780m 比高:20m
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2015年8月29日
お勧め度:★☆☆☆☆
居館跡までの所要時間:-
駐車場:墓地腋
見どころ:特になし
参考文献・書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:住宅地につきプライバシー注意
付近の城跡:追通城、福平城、中尾城、上祖山城、鬼ヶ城など
SpecialThanks:ていぴす殿

五十土城 (11)
高台の南側の斜面には稲荷社と石祠が祀られている。城と何か関係性があるのだろうか?

複雑な縄張図を描くのが面倒だと言って、安易に平地の城館で誤魔化す目論見はもちろんあります・・・(笑)

そうはいっても、誰かが記事にしなければ忘れ去られてしまうのも口惜しいので掲載にしてみました。

そんな小生をSNSで批判ですか・・・心外です甘んじて受けましょう!!(爆)

Posted on 2018/05/20 Sun. 20:49 [edit]

CM: 6
TB: 0

0513

追通の栗田屋敷 (長野市戸隠)  

◆戸隠に移住した山栗田氏の最初の居館跡◆

ここを探索したのは2015年8月なので、とっくに記事をアップしたと思い込んでいたが、ダイジェスト版のお知らせのみだった・・・・(汗)

未だに公開出来ずに抱えている在庫の城数はざっと500以上であろうか。

昨日食べた夕飯のメニューすら思い出せないのに、5年も前に探訪した城の写真を見ても、「ここは何処?私は誰?」・・・(笑)

今回ご案内するのは、断片的な記憶を辿りつつ、ボケ防止となるのか的な「追通の栗田屋敷」でございますw

追通の栗田屋敷 (1)
屋敷跡は栃原御厨神明宮の表参道(写真の道)の西側。奥の山が先日ご案内した追通城。

【立地】

裾花川の左岸で、戸隠栃原の追通集落(おっかよしゅうらく)の西端の台地上にある。屋敷のある台地の南側は裾花川の断崖で、西は西浦沢の渓谷が天然の堀切となり、北は追通城の山塊に守られている。正に要害の地である。

追通の栗田屋敷 (4)
表参道から西へ向かう路地に入る。道路の南側の段差にも住宅等が建つが、往時の切岸の跡が伺える。

【館主・館歴】

「長野県町村誌」には「古宅地」として掲載され「本村(栃原村)の西南の方字追通(おっかよう)にあり。東西三十間、南北二十間、面積二反歩。里俗伝にアナタ屋敷と云ひ、又栗田屋敷と云ふ。今畑となる。栗田氏始此に住し後豊岡村に移る。今同氏の末裔連綿して代々戸隠神社の神宮たり。」とある。明暦元年(1655)まで栗田氏(山栗田)が居住したと伝わる。

追通の栗田屋敷 (5)
中屋敷1.この周辺は和田一族が居住している。敷地の西隅に八幡宮があるので、ここが居館の中心地だと思われる。

追通の栗田屋敷見取図
yahooの航空写真を拡大し加筆修正。

追通の栗田屋敷 (23)
北側より撮影した中屋敷1(和田邸)

【館跡】

現在の屋敷地には和田氏一族が居住している。
中屋敷の北側の高台は上屋敷、一段下の南側は下屋敷と呼ばれ道路の開通や宅地による改変はあるものの、栗田屋敷だった往時の面影が残る。
上屋敷の西側には五輪塔が残り諏訪社が祀られている。

追通の栗田屋敷 (25)
中屋敷の西端の八幡宮。

追通の栗田屋敷 (8)
追通城のある山塊を背にした上屋敷。

追通の栗田屋敷 (10)
和田氏の墓地の脇の山際に残る五輪塔。かなり古いものだ。

追通の栗田屋敷 (13)
上屋敷より見た下屋敷方面。

【その後の栗田氏】

追通の山栗田氏は、その後宝光社の東側の原山に移り、最終的には1明暦四年(1658)、二条の堀之内城(栗田屋敷)に居館を移転し江戸末期まで戸隠神領の行政の中心としての役目を果たした。


≪追通の栗田屋敷≫ (おっかよのくりたやしき アナタ屋敷) 

標高:665m 比高:50m(裾花川より) 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2015年8月29日
お勧め度:★☆☆☆☆
居館跡までの所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:-
参考文献・書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:住宅地につきプライバシー注意、無断侵入禁止
付近の城跡:追通城、福平城、中尾城、上祖山城、鬼ヶ城など
SpecialThanks:ていぴす殿

追通の栗田屋敷 (18)
屋敷地より見た追通集落。十数年後も同じ風景が見られることを祈りつつ・・・・。

Posted on 2018/05/13 Sun. 11:20 [edit]

CM: 2
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top