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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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母袋城 (長野市松代町西条)  

◆竹山城の背後を通る古道を監視した砦か?◆

2021年がスタートしました。喪中なので新年のご挨拶は控えさせていただきますがご了承ください。

年末年始は曜日の関係もあり例年よりは短く胃腸や肝臓への負担は少ないのですが、先月せっかく削った体重はリバウンド・・・(汗)

さて、今回ご案内するのは、宮坂本に載らない山城調査第二段の「母袋城」(もたいじょう)。

母袋城遠景 (6)①
上信越道の松代PA近くから撮影した竹山城と母袋城。間には乗り越しを伴う古道があり、謙信道と呼ばれていたという。

【立地】

長野市と千曲市の境界で鞍骨城の築かれた鞍骨山(798m)から北東に延びる尾根の途中530m付近にある。尾根の先端は象山(475.8m)で竹山城が築かれている。また鞍骨山の尾根伝いの天城山(694.4m)には天城城が築かれ、そこから西へ派生する二つの尾根先にはそれぞれ唐崎山城鷲尾城があり、川中島四郡の南の境目として重要視されていた事がわかる。

母袋城 (39)
竹山城の背後の鞍部には水道施設があり、城址へはそこから尾根伝いの鉄塔や電波塔を目印に尾根を進む。

登り方は、竹山城に登って尾根通しに登るか、鞍部の水道施設までは林道が入っているので4WDなら上がる。邪魔にならない場所に路駐して鉄塔から尾根に入る。

母袋城見取図①
堀切3条の古い形式の縄張りのようだ。

母袋城 (19)
郭2から見た主郭側。堀切㋑はかなり埋まっており上巾は5mぐらいだろうか。

母袋城 (6)
郭1から堀切㋑-郭2-堀切㋒

母袋城 (9)
堀切㋑の断面(東側)

母袋城 (8)
堀切㋑の断面(西側)

【城主・城歴】

史料等なく詳細不明。竹山城は「竹山砦」として松代町史(昭和47年再版)に載るが、「西條氏の拠る所と伝ふ」として詳細を不明としている。母袋城は口伝のようで、その名は地名なのか人物の名なのかすらもはっきりしない。ただ、竹山城との間の鞍部が清野と西条をつなぐ古道の乗り越しであり、さらに清野からは二本松峠を越えて倉科へ通じる主要な古道が通っていた。また、西条からは赤柴、関屋を通過し地蔵峠を越えて小県に通じる古道が通じているので、往来はかなりあったと推定されその古道の乗り越しを監視する砦として築かれた可能性がある。
また、竹山城とともに鞍骨城の北を守る砦としても機能していたのであろう。

母袋城 (11)
郭2より堀切㋒(上巾6m)

母袋城 (13)
堀切㋒の西側。斜面に対して竪堀として東斜面よりも長く加工されている。

母袋城 (14)
堀切㋒の断面(西側)

【城跡】

竹山城と接続する古道の乗り越しから南側へ入った二段目の尾根の突き出しを利用した郭2つのオーソドックスな砦であるが、郭2の背後の堀切は西斜面に対して長大な竪堀となっているし、東側の尾根に対しても帯郭と段郭を備えている。
主郭は24×6の楕円形で南へ傾斜し削平は甘い。堀切㋐は尾根に対して切岸を規模しくする程度の加工である。ここからは竹山城が良く見えるので、双方で連携したものと思われる。
武田統治時代には海津城の支城として竹山城のみ改修が続けられ、この砦は役目を終了したものと思われる。

母袋城 (15)
鞍骨城へ続く堀切㋒の先は特に遺構となるものは発見出来なかった。

母袋城 (21)
見取図には描き洩らしたが、郭2の西側で堀切㋒の脇には段郭が確認出来る。

母袋城 (29)
東尾根にも段郭が確認出来る。

母袋城 (33)
東尾根から見た主郭の切岸。

母袋城 (28)
堀切㋐の写真がほとんどない事に気が付く・・・(汗)

母袋城 (35)
城跡からの眺望はあまり良くないが、竹山城との連携には問題ない位置である。

甲陽軍鑑による第四次川中島合戦では、謙信は妻女山に本陣を構えたという。(その説の信憑性には疑問が残るが・・)
千曲川右岸ルートでの進軍経路がいわゆる「謙信道」として語り継がれる所以である。天城山の北の支脈の先端が「妻女山」なので、竹山城と母袋城の間の古道が「謙信道」として伝わるのには異存はない。
が、果たして武田方による海津城の築城が完成していた時に、この古道を通るリスクはあり得ないと思うが、どうでしょうか?。

≪母袋城≫ (もたいじょう) 

標高:530m 比高:179m (象山神社より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市松代町西条
攻城日:2020年12月12日 信濃先方衆未掲載の山城ツアー
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:C(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け) 
城跡までの所要時間:20分(水道施設より)
駐車場:無し(象山神社の駐車場借用または、水道施設の脇に路駐)
見どころ:堀切など
注意事項:特になし
参考文献:無し
付近の城址:竹山城、唐崎山城、鷲尾城、鞍骨城、妻女山、天城城など
Special Thanks:ていぴす様

母袋城付近図①

母袋城遠景 (3)
松代城の北口駐車場付近から撮影した竹山城と母袋城。
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Posted on 2021/01/03 Sun. 20:58 [edit]

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車城 (長野市松代町大室 ※推定)  

◆宮坂本にも載らない謎の山城◆

昨シーズンの暖冬とはうってかわり、須坂市から北の中野市や飯山市・下高井郡・下水内郡の山城は冬期間の店じまいなので、諦めてくださいね。三月下旬からの営業再開についてはまたご案内したいと思います・・・(笑)

今回ご案内する山城は、最近ご活躍の目覚ましい上野国の「清之介」さんのリクエストによる長野市松代の「車城」です。

この山城、ずいぶん昔に小生の恩人で陰の師匠である城と古戦場のマサハレ様が記事にしたのを見かけたぐらいの記憶でしたが、長野市がトレッキングコースマップに名前を載せたとは知りませんでした・・・(汗)

車城パンフ①
確かに新たに整備された霞城からのトレッキングMAPに「車城」の文字と堀切の文字が掲載されてます・・・。断定していいのか?

霞城は事ある毎に宣伝させていただいたし、訪問した皆さんが素晴らしい感想を広めて頂いたので嬉しく思いますw
その尾根筋に車城なる伝説の城址があったとは、なんたる体たらくでしょうか・・・・(汗)

車城①
我ら信濃先方衆、時間短縮のため霞城からのコースではなく、大室古墳群からのルートで調査を開始。

車城2 (6)
霞城からのルートとの合流地点。ここから奇妙山方面へ。

途中、尾根がなだらかになり、山の神の碑(天狗神)が建つ。霞城にも石仏があるぐらいだから地元の信仰の山でもあったようだ。

車城 (1)
この辺りに砦を築いてもよさそうなのだが・・。

【立地】

奇妙山(1099.6m)から派生する北尾根が千曲川の手前で2つに分かれ、その西尾根の中腹に築かれている。千曲川に臨む尾根の先端には霞城がある。またもう一つの尾根には古城山城がある。尼巌城は奇妙山の西尾根にあるのだが、車城からは結構遠い。

車城見取図①
堀切二条(尾根筋は片堀?)の単郭。32×20で堀切脇の土塁は叩き土塁で立派なもの。

車城 (5)南から撮影した西尾根を遮断する堀切。かなり堅固な土塁を伴う。驚きである。

車城2 (3)
北側より撮影。かなり埋まっているが、主郭側との角度と落差はなかなかのもの。

車城2 (5)
土塁の上から主郭を撮影。土塁の高さは主郭側からでも160cm以上はあるが堀側だけで周囲を囲ってはいない。


【城主・城歴】

「長野県町村誌」には記載がなく、車城について書かれたものを調べたところ「松代町史」(昭和3年発刊、昭和43年に加筆修正して復刻版を再版)の上巻の「七、尼飾城址」に以下名前が登場する。※以下、松代町史より引用転載

「埴科郡東條村尼飾山(天飾又尼巌山ともいふ)の嶺になり東條氏の拠る處にして村上氏持城六ヶ所の一つと称せらる。城郭は二段に造られ本城には穿井址を存し、子城を車城と称し堀切の跡及び水の手と唱ふる處がある。築城の年代は不明であるが東條遠江守信廣の城主たりし弘治二年、武田信玄麾下の知将真田幸隆の為めに落城せりといふ。
~(中略)~
斯くして尼飾城は遂に陥り、城将東條氏は越後へ逃れ、老臣栗田大膳は車城に於いて討死すといふ。麓の泣き坂に大膳の墓がある。其の後小山田備中守昌辰の守る處となったが暫くして廃城となった。其城跡よりは今も尚時々黒米を発掘することありといふ。推ふに当時の遺品であろう。」

弘治二年(1556)八月八日に信玄は真田幸隆に「東條の尼巌城が目障りだから早く何とかしろ!」と督促の書状を送った事が信濃史料で確認出来る。また、年号は不明だが落城後の尼巌城について信玄が西條氏に普請を命じた書状も信濃史料にあるのだが、車城についての史料は見当たらない。恐らく松代町史に書かれた事は伝承であろうと推察される。

車城 (7)
堀切の壁面には石積みの補強が見られるが、往時のものであろうか?

車城 (18)
東の尾根筋方面から見た主郭。奥に巨大な土塁が見える。


【城跡】

急激に高度を上げて急坂となる尾根の突き当りの鞍部を利用した駐屯地で、広さはある程度あるがこんな場所で敵を迎撃するなど正気の沙汰ではないというのが、我ら信濃先方衆の見解である(笑)
西の尾根先にもう一条堀切でもあればそれなりの構えになるが、自然地形で何もない。南の尾根の取り付きには堅固な石積みが主郭の背後を守るようにあるが、後世の植林における造作物であろう。
霞城方面からの北側の尾根は東側のみ竪堀として西側は段郭を作り尾根を断ち切っていない。なんとも中途半端である。

車城 (12)
南の奇妙山や尼巌山へ向かう尾根には石垣があるが、後世の造作物であろう。

車城 (13)
砦の背後(搦め手方面、奇妙山方面)はこれだけの急坂なので、堀切など必要ない。

我ら信濃先方衆、「真田幸隆の尼巌城攻略のための臨時の付け城」という事も想定してみたが、どう考えてもここからじゃ遠いし砦の縄張りの指向性は千曲川方面(北側)だよねって事になる。
じゃあ、霞城の詰城の線はどうよ?まあ、無くは無いが、遠すぎ。ならば山の神の場所で造ろうよ・・(笑)

車城 (6)
堀切の先の西尾根は自然地形で、人工的な削平の跡は見られない。この先に堀切でもあればよいが、何もない。

車城 (20)
北の虎口。片掘りで尾根は遮断されていない。

車城 (21)
東の沢に向かって落ちる竪堀。

「ここが本当に伝承の車城なのだろうか?」 堀切はあったが、水の手は見当たらないし、坂はあっても墓なんてどこだろう。
そもそも、何の根拠があって、ここを車城と推定しているのであろうか・・・。

まあ、確かに尼巌城の尾根続きの金井山城と寺尾城は東條氏と反目する寺尾氏の持ち城なので支城ではない。出城を作るとすれば、北尾根方面しかない。が、霞城の大室氏と東條氏の関係も良くわからない。謎は深まるばかり・・・・。
さあ、この記事を見た貴方も現地へ出掛けて一緒に考えましょう!!


≪車城≫ (くるまじょう) ※候補地であり確定出来ません

標高:510m 比高:166m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市松代町大室
攻城日:2020年12月12日 信濃先方衆未掲載の山城ツアー
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:C(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け) 
城跡までの所要時間:30分(大室古墳コース)
駐車場:古墳館の駐車場を借りるか林道脇の邪魔にならない場所に路駐。
見どころ:堀切、土塁など
注意事項:城跡に標柱は無い
参考文献:「松代町史」(昭和47年再版)、「信濃史料」(長野県立歴史館アーカイブ)
付近の城址:霞城、古城山城、尼巌城、清滝城など
Special Thanks:ていぴす様

車城地図①

霞城と併せて縦走訪問したい方は、下記のトレッキングマップを参照してくださいネ。

車城パンフ②


車城遠景
対岸の更埴橋の堤防より見た遠景。

Posted on 2020/12/24 Thu. 22:10 [edit]

CM: 2
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関屋城 (長野市松代町豊栄)  

◆地蔵峠越えの松代街道を監視した砦か◆

先月から休日は自宅軟禁中(?)なので、プラモ製作数とかブログ記事の更新回数が伸びても良さそうなものだが、天邪鬼っぽい思想なので「それは違うだろう・・・」という訳の分からぬ回答となる・・(笑)

10年前の長女の結婚式と披露宴のDVDを見ながら、夫婦で涙腺崩壊しているのが正しい「Stay Home」なのだと思う・・(笑)

今回ご案内するのは、北信濃の川中島城砦群の一つであろうと伝わる関屋城(せきやじょう)である。

DSCF4273.jpg
主郭背後の見事な大堀切(南側)

【立地】

長野市松代町豊栄(まつしろまちとよさか)の関屋集落にあり、城址の東側は上田市の真田町へ通じる松代街道の地蔵峠の入口を抑える場所にある。明徳寺の南、小沢2つを隔てた300mの位置で、集落のある関屋川(蛭川)に面して急崖になっている。

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大堀切の北側は長大な竪堀となって沢を刻んでいるが、産業廃棄物の不法投棄で困った事になっているようである。

関屋城見取図①
主郭背後の土塁は崩されたが、主郭と一段下の段郭で構成された古いタイプの縄張りであろう。

【城主・城歴】

神氏(みわし)の関屋氏が代々拠った所とされる。関屋氏は諏訪大祝の後裔で、平安時代より松代地方を領した豪族であったが、明徳(1492~1500)以後、村上氏のために滅ぼされたと言われている。
その後の城主は不明だが、地蔵峠を越える街道の海津城の裏口を守るには良好な位置にあるので、見張り兵が置かれた可能性はあると思う。

DSCF4275.jpg
この農道は主郭背後の土塁を破壊した時に周回用として新たに造られたようである。

DSCF4271.jpg
東側から見た土塁跡。一見すると櫓台の郭のように見えるが、元々は主郭を目隠しするように高い土塁があったと推定される。

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尾根先を切断し北側に落ちる竪堀が斜面を遮断している。(上巾18m)

【城跡】

城址一帯は耕作地化され、現在は植林で大きく変貌してしまい往時の遺構を観察するには難しい状況となっている。
尾根先の舌状台地が主郭で、一段下に囲むような段郭が置かれ、尾根の根元は一条の大堀切で切断されている。
主郭とその下の郭の南側は石積みの切岸になっているが、これは近年の耕作地化による土留めであろう。また、北側斜面に数段の帯郭のような平場が数段あるが、遺構とは関係ないようだ。

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主郭内部(35×20)

DSCF4285.jpg
主郭南側の石積み。崩落留めで積まれたようで、三段で構成されている。城の遺構ではない。

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松代周辺は石積みの城が多いが、これは時代が新しいと誰もが気が付く。

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この帯郭は城の遺構のような気がするが・・・。

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主郭の先端から見下ろした段郭。

元々は在地土豪の要害として造られたようであるが、麓の屋敷等の場所は布目だという。宮坂武男氏によれば、この辺りには未だ見発見の砦が2~3あると伝わるが、場所の特定には至っていないという。

関屋城の正面には武田統治時代のノロシ山が良く見える。が、その高さゆえに、普段は麓の関屋城が活用されたようにも思うのだが、どうであろうか・・・。

ノロシ山①
関屋城から見たノロシ山。天候に左右される狼煙台は、麓の砦から次の砦へ銅鑼や鉦叩きで伝える方法が主流だったとも・・。

≪関屋城≫ (せきやじょう)

標高:510m 比高:45m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市松代町豊栄関屋
攻城日:2017年4月16日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:関屋集落から10分 
駐車場:無し (明徳寺の裏道経由で城までの農道は道が荒れているので、道路脇の南側の堀切から直登するのが良い)
見どころ:堀切、主郭、土塁跡など
注意事項:特に無し
Special Thanks to ていぴす殿
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」
付近の城址:ノロシ山、清滝城、尼巌城など

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地蔵峠へ向かう豊栄保育園側から見た関屋城。


集落側の南堀切出口から登るのが早いが、耕作地を進むので地元の方にはしっかり挨拶しよう。

Posted on 2020/05/11 Mon. 20:41 [edit]

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髻山城 小城 (長野市若槻西条・飯綱町))  

◆髻山城の東南を守る出城◆

毎年恒例の山城トップシーズンの店閉まいとなるはずはずだったGWは、「Stay Home」で終了のゴングが鳴る。

「臥薪嘗胆」そして「捲土重来」を誓って後詰めを待ち続ける高天神城の籠城戦である・・・勝頼さん、見殺しにするなよ!(笑)

今回紹介するのは、存在自体知る人が少なく訪れる人無き髻山城の小城である。

小城位置
髻山城の南東に位置するのだが、案外訪れる人はほとんどいない・・(汗)

髻山城の記事自体も10年前の昔の記事なので、リテイクせにゃあかんと思っているのだが、その為にはもう一度現状を取材しないといけない・・・。不要不急の外出制限発令中につきいましばらくお待ち願いたい・・・(汗)

motodori01 (31)
髻山城の主郭から見た小城。信玄は長沼城との連携も視野に入れて対上杉の要害としてこの山城を重要視していたという。

【立地】

髻山城(もとどりやまじょう)の本城は、長野市と飯綱町の境にある三登山(みとやま 標高923m)の東端の髻山(標高744m)に位置し、小城は髻山城の山頂から南東300mのj標高674mの小山にある。今回は別途に掲載しているが、本城と小城で髻山城と総称されている。この山は元々火山なので、小城のある山も派生して出来た山だと推定されている。

髻山城小城見取図①
本城の技巧的な改修工事に比較すると手はあまり入れられていないようである。

髻山城小城 (32)
鞍部から比高50m程度なので迷う事はないが、久々に感じた不気味な感じはなんだったのか?(汗)

【j城主・城歴】

詳細はリテイク記事の際に記載したいと思うが、元々は北信濃の在地土豪の城で甲越紛争が勃発すると上杉方に与して戦い、紛争が長引くと上杉に譲渡され善光寺平の背後を守る城として葛山城、大峰城などと連携しながら甲軍に備えたとされる。
しかし、永禄四年以降は善光寺平は武田の支配下となり、髻山城も武田方に帰属したものと思われる。

髻山城小城 (34)
北斜面の竪堀。掻き上げ土塁のようだが、現状では確認出来なかった・・。

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頂部からは数段犬走のような細い腰郭が周回する。

【城跡】

頂部の22×19の主郭には土塁の囲みは確認出来なかった。宮坂図では北斜面に塹壕のような竪堀が示されていたが、髻山城の本城ほどはっきりしたものでは無い。改修中に放棄されたのであろうか。
一段下に犬走のような郭が周回するが、植林作業時の作業道のようでもあり判断が難しい。

髻山城小城 (16)
主郭。

髻山城小城 (17)
主郭の周囲は土留めの石積で囲っていたようだが、遺構との判別が難しい。

髻山城小城 (11)
南斜面の段郭。削平が曖昧。

髻山城小城 (24)
宮坂図にある西斜面の竪土塁を懸命に探したが見当たらなかった・・・俺の目は節穴らしい・・・(笑)

髻山城の本体に比べると加工度も低く、甲越紛争の初期に上杉方が出城として簡単に手を入れた程度であろう。それに、比高差は約80mあるので、連携も結構大変だと思われる。直接の連絡通路は採石場により破壊されてしまい、現在は東の大手道にまわるか、西の山裾を回り観音清水のある場所からしか本体に登れない。

髻山城小城 (33)
頂部からの展望は無理なので、登り口からの風景。


≪髻山城 小城≫ (もとどりやまじょう こじょう)

標高:674m 比高:175m(北国街道より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市若槻西条・飯綱町
攻城日:2016年5月5日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:鞍部から10分 駐車場:無し (狭い農道なので路駐厳禁)
見どころ:主郭の土塁、堀切など
注意事項:特に無し
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」
付近の城址:髻山城、若槻山城、三日城、矢筒城など



motodori01.jpg
髻山城遠景。(小城の遠景を探しましたが見当たらかったので悪しからず・・・汗)

Posted on 2020/05/04 Mon. 09:49 [edit]

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針立城 (長野市戸隠栃原)  

◆再調査が必要な居館城跡◆

基本的にはしっかり現地踏査を行った山城や城館を記事として掲載するのをモットーとしているのだが、再調査は直近でも晩秋になりそうなので、流れ的に掲載しておこうと思う。お赦しくだされ・・・。

今回中途半端にご案内することになったのは戸隠シリーズの「針立城」(はりだちじょう)。

針立城 (1)
南側より城跡の西側の堀切を見る。

【立地】

戸隠栃原の福平集落の700m東に位置する針立集落の東の小山になり、城の東側は奈良尾沢の深い渓谷となり天然の要害である。近くには福平城や南に円光寺館などがあり、福平城に関連する城砦と考えられている。

針立城見取図①

【城主・城歴】

史料・伝承等無く不明。立地からは福平城の溝口氏に関係のある人物の城館と推定されている。

針立城 (4)
まあね、夏場は城館といえども突入するのは勇気がないと・・・(汗)

【城跡】

宮坂武男氏の踏査報告によると、土塁を伴う最高所の主郭の前後に三ヶ所の副郭を伴う城館で、周囲は深い渓谷に面しているため地続きの南側にのみ堀が穿ってあったようだという。
今回は藪が酷いのと本能的に警鐘が鳴っていたので探索は諦めて、周囲の地形観察に留めた。
都合が合えば、改めて調査してみたい城跡である。

針立城 (5)
この時は何故か突入するのを躊躇(ちゅうちょ)した。無理してはいけないのである・・・。

針立城 (10)
郭4は耕作化により改変されているが、切岸は往時のままだと思われる。

≪針立城≫ (はりだちじょう 沢尻の城)

標高:818.2m 比高9m 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2016年5月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分
見どころ:不明
付近の城跡:大昌寺山城、福平城、円光館など
注意事項:耕作地は無断侵入禁止  駐車場:無し
参考書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)

針立城 (7)
城の南側の堀跡(推定)

Posted on 2018/06/01 Fri. 22:32 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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