らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0324

松田館2  

◆保存整備事業の進む松田館(まつだやかた)を3月26日まで一部公開中◆

千曲市八幡の武水別神社で代々神主を勤める松田氏の屋敷は、知る人ぞ知る戦国時代の方形居館跡であり、巨大な土塁と堀跡が残る貴重な遺構。現在千曲市が保存整備事業を進め平成31年には公開予定(当初は平成26年だったような・・)としているが、その一部が今週限定公開されている。

松田館 (4)
3月21日~26日まで一部を無料公開中。(10:00~16:00)

見たいけど、遠いし日程も短いので無理・・・という方の為に小生が見学した内容をお伝えしよう。

※ここに関しての過去記事は⇒八幡松田館をご確認ください。

【武水別神社の概要】

長野県千曲市にある武水別神社(たけみずわけじんじゃ)は、平安時代に京都の石清水八幡宮より勧進された延喜式社である。祭神として「武水別大神(たけみずかみのおおかみ)、誉田別命(おんだわけのみこと)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、比咩大神(ひめのおおかみ)など水や農業の神様を祀っている。

武水別神社他 (1)

社殿(本殿)は江戸時代天保三年(1842)に火災により焼失、嘉永三年(1850)に、諏訪の宮大工立川富昌により再建。

IMG_2824.jpg
主な祭事として、毎年12月10日~14日まで「大頭祭(だいとうさい)」が執り行われている

【松田家史料保存整備事業の経緯】  ※千曲市教育委員会の説明資料より引用

松田家は、代々武水別神社の神主を勤めてきた家系です。
千曲市では、長野県宝に指定された主屋(おもや)ほか市指定文化財の附属建物を平成16年12月、所有者の松田孝弘様から寄贈を受けたのを機会に、江戸時代~明治時代の建物群、約2,000坪の屋敷内に中世の居館跡を偲ばせる堀や土塁、さらに1万数千点にのぼる古文書、書画、什器等の資・史料の散逸や滅失を防ぎ、その保存と整備を行い広く活用を図る事を目的に、平成17年度から松田家史料保存整備事業を行っています。

松田館 (2)
綺麗に復元整備された長屋門と水堀。

松田館見取図①
今回公開されたのは北側の約2/3で、南の斎館は工事中のため未公開。

【松田館の主な文化財】

1.名称:長野県宝「松田家住宅主屋」(まつだけじゅうたくおもや)
 指定:平成16年11月22日
 概要:主屋の建築年代は不明だが、建築部材の仕上げや建物の特徴から18世紀代の建築と推定される。
     19世紀前期に現在のように改造されたものと考えられる

松田館 (45)
北側から見た主屋。巨大すぎて写真に収まらない・・・(汗)

松田館 (9)
主屋の内部①

松田館 (10)
主屋の内部②

松田館 (14)
主屋南側の庭園

建物の特徴として、間口十二間語釈、奥行四間の細長い木造平屋建、茅葺(かやぶき)の建物で、間口中央から斎館に向かって凸字形に突き出した平面形となっている。
主屋の平面は、前後に五室が並ぶ形式で、土間が表から裏まで通る一般の民家とは異なった間取りとなっている。天井が低く、差鴨居(さしがもい)や長押(なげし)を用いない武家住宅のような趣がある。

松田館 (37)
主屋の台所

松田館 (19)
主屋の北側の裏庭

南側の突出部は書斎のような造りで、一画にある湯殿(ゆどの)は、神事の時に潔斎(けっさい)の場に使われていたところで、神主の家としての特徴が表れています。

松田館 (11)
湯殿。

2.名称:長野県史蹟「武水別神社神主松田家館跡」(まつだけやかたあと)
 指定:平成18年4月20日
 概要:敷地は東西約70m、南北約90mの方形を成し、中世の居館を構成する典型的な地割りである。
     四方に高さ約3mの土塁が廻り、その周囲を取り巻く堀跡が残存する遺構をもっている。
     これまでの調査結果から、松田館の土塁は16世紀、室町~戦国期の築造と推測される。

主屋の西側に接続する味噌蔵には、館の整備と並行して実施された発掘調査による遺物や調査当時の写真が飾られている。
また、松田家で使われた品々や松田家に伝わる古文書も一部公開されている。

松田館 (24)
発掘調査で出土した遺物

松田館 (29)
松田家で使用していたお重

松田館 (30)
松田家に伝わる文書

松田館 (34)
武田晴信(信玄)の朱印状(右)と、上杉景勝の朱印状も展示されている。

今回の一部公開では、北側の土塁、北西隅の御霊屋(おたまや)のL字土塁、裏門から氷室にかけての土塁が内側より見る事が出来た。

松田館 (53)
北側の土塁。北東隅の土塁は隠居屋建設の際に破壊された事が確認されている。

松田館 (71)
裏門付近の土塁。脇を地下水路が走っている。

松田館 (72)
北西のL字土塁の上に立つ御霊屋(おたまや)。江戸時代の天明に建てられた。

松田館 (80)
氷室のある西側土塁。

3.名称:松長野県宝「田家斎館」(まつだけさいかん)
 指定:平成26年2月28日
 概要:文久元年(1861)に再建された間口7間、奥行3間半の寄棟造の建物で、神殿が設けられた儀礼を主に行った。
    現在も9月14日の仲秋祭や大頭祭の頭殿さんの出達儀式の場として使われている。

 ※今回は工事中に付き未公開

4.千曲市有形文化財「松田邸」(まつだてい)
 指定:平成15年2月28日
 概要:江戸時代後期から明治期の主屋はじめ斎館、土蔵など16棟を指定。
    ※県宝指定に伴い主屋・斎館は除外

松田館 (67)
西の蔵。

松田館 (43)
北の蔵。

松田館 (42)
隠居屋。

松田館 (88)
裏門(裏長屋)。御霊屋から撮影。

さて、如何でしたでしょうか。

千曲市は、平成17年度から総事業費5億数千万円をかけて平成31年の完成・一般公開に向けて進めていますが、工期は延びるかもしれません。
でも、未来の子供たちに地元の文化財を残して受け継いで欲しい・・・その心意気に拍手喝采です。
完成の暁には、是非皆さんも訪れていただきたいと思います。



松田館 (86)

スポンサーサイト

Posted on 2017/03/24 Fri. 10:56 [edit]

CM: 10
TB: 0

0321

葛山城の連続堀切 (長野市鑪葛山)  

◆葛山城の東尾根の連続堀切が笹薮を刈り払って初のお披露目◆

城郭専門用語では、中世城郭の防御構造の種類の一つとして連続する空堀を「畝状阻塞(うねじょうそさい)」というらしい。

「連続空堀」でも「連続畝状(うねじょう)堀切群」でも、呼び名なんぞはどうでもよいと思うのだが、世の中にはその道のプロを自称する方々がおり、一言一句の間違いも赦さないという重箱の隅をつつくような輩も世の中にはいるらしい・・・(汗)。

その狭い了見が、山城入門者にとっては最大の阻害要因であることを自覚している方がどのくらいいるのでしょうか・・?(笑)

専門用語でしか語れぬ排他的な趣味の世界など栄えたためしはないし、滅びるしかないのが定めであろう。

中世の山城探訪がそういう世界観になるのであれば、小生は潔く山城巡りの趣味を捨ててブログも閉鎖しますよ・・・(爆)

葛山城201503 (20)
何度訪問してもその全貌が明らかになることは無いと思われる葛山城。(写真は主郭の説明板)

今回ご案内するのは、善光寺平における甲越紛争(武田VS上杉)において、武田方の旭山城に対峙するべく上杉方が築城した葛山城の東尾根の主要部。

ここの尾根を切り刻んだ7連続の堀切は全国的にも有名なのだが、現地は笹薮が酷くて突入すら出来ない状態であった。
最近、ここの強靭な笹藪が刈り払い機によって刈り取られ、その雄姿を拝めるという情報があり、残雪の城址に挑んだ次第である。

葛尾城縄張図①(宮坂武男氏作成)
宮坂武男氏はこの縄張図を描くために笹薮に突入したのであろうか。小心者の小には無理な相談である・・・。

葛山城2(長野市) (69)
2014年4月に撮影した二重堀切㋐(W底堀切)。堀底の土塁上には石祠が祀られている。

IMG_0477.jpg
今回(2017年3月12日)に撮影した二重堀切㋐。二年前に比べてかなりスッキリしているのがお分かりだろうか・・。

※甲越紛争時における葛山城と旭山城の城歴は下記の過去記事を参照願います。

旭山城
頼朝山砦

【謎の多い葛山城】

幾度となく調査が実施されている葛山城だが、背丈ほどに生い茂る笹薮に阻れてその全貌の解明は未だに進んでいない。甲越紛争時の上杉方による改修と拡張を指摘する方を多くお見受けするが、果たしてそうであろうか?
当初は在地土豪の簡単な物見砦であったようだが、四方の尾根を含めた山全体がコツコツと手間暇かけて拡張され、上杉によって更に要塞化され一応の完成をしてその後武田による改修が続けられたとみてもよさそうである。

葛山城201503 (18)
主郭の西側の二重堀切。ここの三連の堀切は毎年訪れても藪などほとんど無く快適に観察することが出来る。

【七連の連続堀切に感動】

ここに連続堀切があるのは周知の事実であったが、実際に笹薮に突入して堀切の数を数えて縄張図に記入したのは宮坂武男氏が最初であろうか。笹薮に突入する勇気は余ほどの覚悟がないと無理なのだが、今回は笹薮が刈り払われているので、偉そうに入ってみた・・・(笑)

某TVの「ビフォー・アフター」ではないが、2014年の4月と今回の2017年3月で比較してみましょうか。

葛山城2(長野市) (71)
2014年4月に南側より撮影した堀切㋑。突入する意欲も無くなる笹薮。

葛山城2(長野市) (73)
2014年4月に南側より撮影した堀切㋑と㋒。

葛山城2(長野市) (74)
2014年4月に南側より撮影した堀切㋓。ここに突入するには蛇への対策が必要である・・・(汗)

葛山城2(長野市) (75)
2014年4月に南側より撮影した堀切㋔。

葛山城2(長野市) (77)
2014年4月に南側より撮影した堀切㋕。藪に突入しない限り北側からの写真など撮れるはずもない・・・。

葛山城2(長野市) (78)
2014年4月に南側より撮影した堀切㋖。違いの分かる男でもさっぱり分からん・・・(笑)

葛山城2(長野市) (80)
ラストの三連㋖・㋗・㋘。もはやどうでもいい・・・(汗)

ところがどうであろうか。

笹薮を取り払い、雪のコントラストを加えると、ここが殺戮を想定した軍事施設であった記憶が鮮やかに蘇るのである。

葛山城201503 (24)

葛山城201503 (25)

葛山城201503 (26)

葛山城201503 (28)

葛山城201503 (29)

葛山城201503 (31)

葛山城201503 (32)

葛山城201503 (39)

葛山城201503 (40)

葛山城201503 (43)

葛山城201503 (46)

葛山城201503 (48)
堀の大きさがイマイチ分からないという方の為に「ていぴす」殿に登場願った・・・(笑)

記号も言葉も要らない8連続の堀切を順不同でご覧いただいたのだが、宮坂武男氏の縄張図における堀切㋘と郭4の接続状況が今回明らかになっていたのは特筆すべき事項であろう。

葛山城201503 (49)
堀切㋗から見下ろした堀切㋘と郭4。

葛山城201503 (59)
郭4から見た南側。

更に感動したのは、笹薮が酷くて絶対に入れなかった郭4に入れた事により、何度来ても絶対に見る事が出来なかった東尾根の堀切㋙と東尾根の竪土塁が拝めた事である。

葛山城201503 (57)
ここの遺構が見れたのは奇跡に近い快挙であろう。

葛山城の全体の遺構については、また筆を改めたいと思いますが、ほとんど見る事の出来ない東尾根の連続堀切についてレポートさせていただきました。

4月中旬までは何とか見れそうなので、見学したい方はお急ぎください・・・。

≪葛山城≫ (かつらやまじょう)

標高:810.6m 比高:411m(裾花川より)
築城年代:不明
築城・居住者:落合氏、上杉氏、武田氏
場所:長野市鑪葛山
攻城日:2014年4月5日、2017年3月12日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
城跡までの所要時間:葛山神社より30分 駐車場:無し(神社の先に路肩駐車)
見どころ:W型堀切、8連続堀切、東尾根の竪土塁など
注意事項:8連続堀切の北側は急峻な崖なので転落注意
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」
付近の城址:頼朝山砦、旭山城、大峰城、枡形城など
Special Thanks to ていぴす殿、笹薮を執念で刈り取ってくださった方・・感謝感謝!

葛山城201503 (16)
敵対する旭山城は目と鼻の先である。その緊張感にどう耐えてきたのか・・・。





Posted on 2017/03/21 Tue. 22:53 [edit]

CM: 9
TB: 0

0220

長沼城 (長野市穂保)  

◆廃城による破却と千曲川の氾濫により失われた縄張が推定復元された戦国の城◆

北信濃の長沼城といえば、甲越紛争における武田軍の飯山口方面攻略の最前線基地として改修され、そして天正壬午の乱では上杉景勝が北信濃の海津城攻略の中継地点として活用し、江戸幕府となってからは森忠政、松平忠輝が領し、元和元年には長沼藩一万石として初代藩主佐久間勝之の居城として交通の要衝に位置する戦国の世を駆け抜けた貴重な平城であった。

「?、であった???、 今は無いの?」

naganuma3.jpg
千曲川の堤防道路の下には長沼城の唯一の遺構として残る土塁があり天王宮が祀られている。(2010年11月撮影)

6年前、それでもと痕跡を求めて僅かな遺構しか残っていない長沼城を訪ねてみたが石碑以外は何も見つけることが出来なかった・・・。

先輩諸氏のブログやHPでも上にある写真ばかりが並ぶ。

naganuma2.jpg
6年前の探訪時の写真。「千曲之真砂」の長沼古城之図」を当てはめるとこんな感じで、千曲川の氾濫により本丸付近は壊滅。

その城歴は凄いのだが、なんせ遺構の欠片がほとんど無いので攻城戦記にも掲載を躊躇していた・・・・。

ところが、先日、長野県立歴史館の企画展「信濃国の城と城下町」を見学した際に「長沼城の復元縄張図」があってビックリ!!

長沼城の現状を憂えた地元の有志の方が平成20年に長沼歴史研究会を発足させ、長沼藩時代の検地帳や廃藩後の千曲川の増水による被災記録の古文書を読み解くという地道な努力を重ねて、平成26年に縄張の復元案をまとめたのだ。(「長沼城の研究 ~城跡の検証~」をその年に発刊)

長沼城復元縄張図①
足掛け6年という地道な努力により平成26年に完成した長沼城の復元縄張図。

今回は、長沼歴史研究会の皆様の長年に及ぶ努力に敬意を表しつつ、復元縄張図を辿りながら長沼城の歴史を振り返ってみたいと思います。

【立地】

長沼城は、千曲川の左岸、善光寺平の北よりの千曲川自然堤防上に築かれた平城である。飯山城と海津城(松代城)の中間地点にあり、往時は北国街道の脇往還が通る交通の要衝でもあった。

長沼城立地
※長野県立歴史館平成28年度冬季展「信濃国の城と城下町」の資料集5Pの地図を加工して一部分を引用掲載しています。

【城主・城歴】

長沼郷は古くは太田荘に属し、地頭は島津氏で長沼には南北朝の頃から島津氏の一族が住んでいたという。
戦国期に入り、島津氏は上杉方についた長沼島津氏と武田方についた赤沼島津氏に分裂。島津月下斎(忠直)は高梨氏とともに上杉方に属して長沼城を守ったが、弘治三年(1557)二月、葛山城が武田氏の手に落ちると、詰めの城大倉城へ退き第四回川中島合戦で景虎の先陣をつとめたが、退却し越後に逃れた。

長沼城跡2017 (10)
長沼城の大手門跡。長沼りんごホール(長野市役所の分館)の駐車場腋のクランク付近。

長沼城跡2017 (11)
城の北側にあたり、大手門を入ると侍屋敷が立ち並んでいたと推定されている。

永禄六年(1563)、武田信玄は戦乱で荒廃した長沼城下の地下人をふたたび戻すよう島津尾張守忠吉(赤沼島津氏)に命じている。永禄十一年(1568)には信玄は長沼城を拡張し、兵力を増強する。長沼城将として市川梅印、原与左衛門、島津泰忠等で守らせ、島津泰忠には本領夏川(飯綱町)・西尾張部(長野市)・普光寺(飯綱町)などを安堵した。これ以降、長沼城は上杉攻めの武田軍の最前線基地となった。

長沼城跡2017 (1)
長沼城跡の復元縄張図と現在地の説明板がポイント箇所に設置されているので有難い。

長沼城跡2017 (9)
守田神社は現在地よりも100m東にあったというので、城の鬼門除けの役割を担っていたと推定される。

天正六年(1578)三月、御館の乱の時には、武田勝頼は上杉景虎の援軍として長沼城に入り越後へ出兵している。

天正十年(1582)三月に武田氏が滅亡すると川中島四郡は織田の将の森長可の支配下となり森は海津城に入城する。武田の信濃先方衆であった芋川親正は森長可の配下となる事をよしとせず、上杉景勝の支援を受けて自らが総大将となり反織田方の牢人衆と百姓や一向宗門徒約八千を集め大蔵城で一揆を蜂起。景勝の命を受け密かに長沼城に入城していた島津忠直と共に飯山城を攻撃するが、森軍の反撃に合い撤退。逆に長沼城を落とされ1200人余が討死。大蔵城に籠城していた婦女子約1000人が撫で斬りにされ、一揆は鎮圧された。芋川親正と島津忠直は越後に逃れた。

長沼城跡2017 (3)
守田神社の境内の南側が北側の三日月堀跡だという。

長沼城跡2017 (4)
神社側から見た北三日月堀の痕跡。僅かだが積雪の段差に往時の土塁(岸)の痕跡が残る。

長沼城跡2017 (5)
西側寄り撮影。微妙な段差がお分かりいただけるでしょうか。

天正十年六月、本能寺の変により信長が横死すると森長可は美濃へ逃れ、上杉景勝が北信濃へ侵攻し川中島四郡を手中に収めた(天正壬午の乱)。景勝は6月27日に長沼城に入城し川中島四郡の仕置きを行い、長沼城は城将として島津忠直が命じられ、河北郡司として北信濃統治をおこなった。また、武田方であった島津泰忠は赦され忠直付きとなっている。

長沼城跡2017 (6)
北三日月堀付近から見た二の丸跡。廃城により破却埋め立てされ、耕作地となり現在に至る。

長沼城跡2017 (13)
大手門から西へ。復元縄張図では三の丸に侍屋敷が置かれ、その外側に外堀があったと記されている。

長沼城跡2017 (19)

長沼城跡2017 (21)
三の丸西側の侍屋敷の中に建てられている吉祥庵。1650年の建立。この38年後に長沼藩は改易され城も廃城となった。

長沼城跡2017 (22)
現在では民家が立ち並ぶかつての侍屋敷通り。

慶長三年(1598)、上杉景勝の会津転封に従って島津忠直が長沼城を去ると、豊臣秀吉の蔵入地として代官の関一政が入城。その後、江戸幕府が成立すると、森忠政(森可成の六男で長兄は長可、長可が戦死すると森家の家督を継いだ)、松平忠輝が領し、元和元年(1615)に大坂の陣の功績により佐久間勝之に与えられ、ここに長沼藩(一万八千石、一部は近江領)が成立する。
※佐久間勝之は蒲生氏郷の家臣であったが氏郷の死去のあと、秀吉より既に長沼城を与えられていたという説もある

長沼城跡2017 (23)
二の丸正面にあったとされる西三日月堀の説明板。

長沼城跡2017 (25)
西三日月堀跡(推定)。堀の外側のカーブが筆境として確認出来るとしているが、全然見えない小生の目は節穴のようだ・・・(汗)

長沼藩は、佐久間勝之⇒勝友(勝之の次男)⇒勝豊(勝友の長男)と続き、佐久間勝親(婿養子、日向高鍋藩秋月種信の五男)の代の元禄元年(1685)に、将軍綱吉の御側小姓を命じられたが病と称して出仕せず、その後仮病とであったことが露見して改易、廃藩となった。

長沼城跡2017 (26)
二の丸の堀跡前に立つ三の丸の説明板。

長沼城跡2017 (27)
三の丸と言われても、耕作地が広がるばかり。

長沼城跡2017 (31)
説明板には中堀とあるが、二の丸の外堀の北側であろう。一部水路として残されたようだ。

【復元縄張図から見た城跡】

今回「長沼歴史研究会」の皆さんの努力によって蘇った「復元縄張図」は、「千曲之真砂」に掲載されている「長沼古城図」を基本に地形や地名(字名)を調査し辿ってつくられたものと推察される。

残念ながら長沼城は元禄元年の廃藩による廃城の際に、建物は破却され全ての堀は埋め立てられて石垣も撤去され完全な更地となり耕作地化してしまった。
加えて千曲川の氾濫原に隣接していたために度重なる洪水により嘗ての本丸付近の地形もだいぶ浸食・変形してしまい原形を留めていないいまいようだ。

長沼城跡2017 (32)
中堀跡の水路脇を堤防側に向かって歩くと櫓台跡の説明板。

長沼城跡2017 (34)
二の丸の北東で鬼門(隅欠)の位置に当たる。ここには望楼のような建物かあったのか?

本丸があったと推定される場所は、西側を堤防道路が貫通し東側は千曲川の河川敷となっているので全く不明だ。千曲川を背にした輪郭式の縄張りで、本丸と千曲川の間には馬場があったと指定されているが、川沿いには石垣は積まれなかったらしい。

長沼城跡2017 (36)
こんな積雪の中をわざわざ長靴に履き替えて狂ったように城跡巡りしているのは小生のみ・・・(汗)

長沼城跡2017 (38)
この堤防がなかった往時はどんな城跡だったのだろうか・・。現在の場所からは全く想像できない。

長沼城は元々は島津氏の居館であったが、永禄四年(1561)の武田軍の北信濃侵攻において、信玄に命じられた弟の武田信豊が大規模に改修し丸馬出を備えた武田流の縄張りの平城となり、その原型が出来たものと推察される。

長沼城跡2017 (42)
二の丸と西三日月堀の連結路付近は「おんま通り」と呼ばれていた。おんまは「馬」なので馬出しを意味しているようだ。

長沼城跡2017 (43)
広大な二の丸跡。冠木門跡は特定できていない。

永禄十一年(1568)、信玄は馬場美濃守信房に命じて長沼城を更に大規模に改修させ、越後攻めの最前線として大部隊が常駐できるようになったという。この時に侍屋敷を含めた総構えが出来たものであろうか。

武田滅亡後も北信濃の重要な戦略上の拠点として随時拡張と増強をされたものと推定される。また、上杉景勝の統治時代には、長沼城下を繁昌させるために北国街道の脇往還は横道でなく長沼の城下を通行するように命じたという。

長沼城跡2017 (45)
本丸内堀跡。積雪で雪の下に水路があるのが分からずトラップに引っかかり落ちました・・・(笑)

長沼城跡2017 (48)
堤防道路(本丸跡)に登って内堀付近を見下ろしてみた。

長沼城跡2017 (54)
堤防道路には新しく復元縄張図と説明板が建てられていました。地元の方の熱意に感謝ですw

長沼城跡2017 (52)
小生がグダグダと語るよりも分かり易く要約された城歴・・・(笑)

長沼城跡2017 (53)
現在千曲川の河川敷にはかつてこのように本丸と馬場があったんだと想像してみた。

いかがでしたでしょうか。「らんまると歩く雪の長沼城址」・・・・(爆)

遺構の跡と思われる場所に、最近流行りのVR(バーチャルリアリティー)を組合わせてスマホ片手に往時を偲ぶってのもありかと思います。是非ご検討いただければ幸いです。

長沼城跡2017 (57)
唯一の遺構として紹介される事の多い南三日月堀の土塁の一部。(堤防側より見下ろして撮影 天王宮がある)

長沼城跡2017 (64)
天王宮が祀られている土塁の一部を西側より撮影。手前の道路と土塁の右側に三日月堀があったのだという。

長沼城跡2017 (62)
せっかくなのでもう一枚。冒頭の写真と見比べていただくと整備されたのが分かるかと思います。

長沼城跡2017 (68)
こんな感じで想像していただけると良いかと思いますw

長沼城跡2017 (70)
城域の南端の貞心寺も周囲を堀に囲まれた屋敷跡だった。

復元縄張図の南端には周囲を堀に囲まれた方形の居館跡が二つ描かれている。東側は貞心寺で、長沼藩二代目藩主佐久間勝友が早世した長兄の嫡男である勝盛に5000石を分知した際に、勝盛が知行所(代官屋敷)を置いた場所である。(長沼知行所)
元々侍屋敷のあった場所を勝盛が譲り受け利用したと思われる。

長沼城跡20171 (1)
ここは佐久間勝盛5000石の知行所が置かれたが23歳で亡くなり嗣子なく断絶となった。

北信濃における重要拠点として海津城とともに武田に築かれた長沼城。廃城と破却によりその姿は謎のベールに包まれていたが、かつての雄姿を見る事は敵わないが、少しずつだが往時の輪郭が見えてきたことは凄い進歩だと思います。

平成29年度には長野市教育員会による試掘も予定されているので、今後の調査に期待が持てます。

≪長沼城≫ (ながぬまじょう)

標高:332m 比高:-m
築城年代:不明
築城・居住者:島津氏、武田氏、上杉氏、森氏、松平氏、佐久間氏
場所:長野市穂保
攻城日:2017年2月11日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
館跡までの所要時間:-分 駐車場:長沼りんごホール借用
見どころ:南三日月堀土塁痕、北三日月堀塁線跡など
注意事項:民間住宅への無断侵入禁止、耕作地も通路以外は無断侵入禁止。地元の方とすれ違ったら挨拶を忘れずに。
参考文献:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P307参照)、「長沼城復元縄張図」(平成26年 長沼歴史研究会)
付近の城址:西巌寺、佐久間氏館(佐久間長助居館)、大蔵城など

長沼城跡2017 (55)
堤防道路の東屋の横に解説版があります。東屋を下った先に三日月土塁痕があり天王宮が祀られています。

Posted on 2017/02/20 Mon. 16:56 [edit]

CM: 14
TB: 0

0830

栗田城 (長野市栗田)  

◆長野市街地中心部に奇跡的に大規模な土塁が残存する栗田氏の居館跡◆

毎年の事であるが、訳の分からないうちに八月が終わろうとしている・・・。

自分の祖先の墓参りすら覚束ない(おぼつかない)のに、神社仏閣巡りして何かご利益があるのだろうか・・疑問だ・・・(汗)

今回ご案内するのは、善光寺の国衆であり善光寺の別当だった栗田氏が上杉方を見限って武田方に寝返り、旭山城に立て籠り上杉軍と対峙。武田方はこれを援けるべく、鉄砲二百挺と応援人員を派遣し支援したという栗田氏の平地における居館跡。第二次甲越紛争(弘治元年 1555)の原因となるも、その後はパッとせず甲斐善光寺の別当として表舞台から消えた・・・。

栗田城1 (2)
水内総社日吉大神社の入口に建立された石碑。

栗田城1 (6)
神社仏閣巡りに変わったのか?と言われそうな栗田氏居館跡に立つ大鳥居。

【立地】

栗田城は、裾花川扇状地の先端地域に位置し、西高東低する中州微高地の比較的安定した地域にあり、古来よりの要衝の地でもあった。
裾花川の支流が囲むこの場所は、しばしば裾花川の洪水に見舞われ堆積を重ねてきた。この地域には裾花川の支流の古川や計濁川などが、緩やかな段丘面を幾条にも分流し、一帯に広がる水田の灌漑用水として重要な役割を果たすと同時に、本城の水濠を満たしていた。
この付近には「栗田」「岡田」「高田」「吉田」「太田」などの地名が残っている。

栗田城1 (22)
縄張りについては「長野県町村誌」は輪郭式、地元の保存会は連郭式のようだが、周囲を水堀が囲む点では一致している。

【城主・城歴】

水戸家に伝わる「水戸栗田系図」、栗田寛覚の傍注に「栗田禅師初テ信濃国栗田郷ニ居住ス。依テ本名村上ヲ止メテ在名栗田ト号ス、同国戸隠明神別当ヲ兼ヌ」とある。
この覚書が村上氏の分家で栗田氏の祖である。

栗田城1 (9)
残存するL字土塁のコーナー部分に鎮座する社殿。

そもそも村上氏は799年に賜姓され、1094年に至って白河上皇に仕える殿上人(てんじょうびと)に列せられ、勅使の役を務め院に仕えていたが、権力争いに敗れ父子兄弟が諸国に配流された。そのうちの村上盛清が、信濃の更級郡村上郷に配流されたと考えられる。

栗田城1 (12)
社殿から見た南の表参道。土塁を上手く利用しているので、城の遺構とは思えない・・。

鎌倉時代には戸隠山顕光寺(現・戸隠神社)や善光寺の別当に就くなどして、里栗田・山栗田に分かれ善光寺平一帯に勢力を及ぼしていた。天文二十四年(1555)七月、第二回川中島合戦に、善光寺堂主栗田氏が「朝日の城」(現・朝日山)に入り武田方の支援を得て、ここを守り通した。この戦いの後に栗田氏は武田の武将として、善光寺衆と共に甲府に移り甲斐善光寺の別当となった。(呼称・里栗田)

栗田城1 (15)
L字土塁の内側は公園化に伴い二段に改変されている。

武田信玄没後(1573)、設楽ヶ原合戦(1575)で、織田・徳川連合軍に大敗した武田勝頼は、遠江の要である高天神城を城将岡部元信や栗田鶴寿(寛久)らに託したが、天正九年(1581)徳川軍に敗れ、鶴寿は城と運命を共にした。子の永寿(国時)は別当職を受け継いだ。

栗田城1 (13)
残存する土塁の東部分の内側。

一方、在郷して上杉を頼った栗田氏は、豊臣秀吉の「上杉会津移封につき、申し付け状(慶長三年 1588)」により上杉景勝と共に会津へ移った(呼称・山栗田)
徳川家康は関ヶ原の戦い(慶長五年 1600)に勝利した。大坂方に加担した上杉景勝は一年を経ずに、会津を没収さえr米沢に移り栗田氏も同行した。
※「栗田城址を整備する会」の説明文(平成26年12月完成)より引用。

栗田城1 (20)
保存会によれば堀跡、長野県町村誌によれば副郭跡。あなたはどっち?(笑)

【城跡】

栗田氏歴代の居館跡で堀之内城とも呼ばれ、中世の平城である。裾花川支流を利用し、二重の堀を巡らした複郭式平城で、長野市では最大規模の居館跡の一つである。
現在、主郭跡には西から北に廻り幅11m、高さ9m、長さ40m程の築堤が残されている。その位置関係から、土塁を含めた内郭範囲は120m四方の方形と思われる。北西隅には水内総社日吉大神社本殿がある。

栗田城1 (18)
土塁から見下ろした西側の遊園地。堀なのか、郭なのか?

文献に栗田城が登場するのは、南北朝時代の応安三年(1370)信濃守上杉朝房が栗田城を攻めたのがはじまりであり、文久九年(1477)栗田氏は漆田城を攻め領域を広げている。
明治期、栗田・北中地区には、東番場・西番場・舞台・源太窪・北河原・舎利田・部屋田の地名や古川堰・計渇堰・前堰・本城堰・太刀打場堰などの用水名が残されている。

栗田城1 (21)
西側の遊園地から見た神社本殿。結構な高さの土塁である。

栗田城1 (25)
土塁の東側の本郭跡。神社と共に地元の住民に大切にされてきた事が伺える。

市街地が形成されていく過程で、ほとんどの居館や屋敷が消滅してしまった中で、これだけの土塁が残ったのは奇跡に近い。
しかも、この居館跡の主は、あの有名な旭山城に立て籠った栗田氏なのである。

この一族の数奇な運命を辿るのも結構大変なのだが、興味が尽きないのも事実である・・・。

栗田城1 (32)
居館跡付近から見た西側の旭山城。


≪栗田城≫ (くりたじょう 堀之内城)

標高:355m 比高:-m
築城年代:不明
築城・居住者:栗田氏
場所:長野市栗田東番場
攻城日:2015年8月20日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:神社の駐車場借用。
見どころ:土塁
注意事項:市街地なのでプライバシーに注意
参考文献:「信濃の山城と館②長野・更埴編」(2013年 宮坂武男著)、「栗田城跡を整備する会」の説明板
付近の城址:旭山城など

栗田城1 (42)
北側より見た土塁の上の神社。まさしく戦国の城のようである・・・・(笑)

Posted on 2016/08/30 Tue. 22:47 [edit]

CM: 2
TB: 0

0825

荒安 仁科氏屋敷 (長野市富田荒安)  

◆信玄造営と伝わる飯縄大明神の神官「千日太夫」の冬期居館跡◆

前回ぐだぐだと長編化してしまった飯縄山であるが、記事にも書いた通り現在の飯縄山里宮は神仏分離令及び修験道の廃止令により「皇足穂神社」(すめたるほみことじんじゃ)という名前に変えさせられてしまった。

明治政府により神領を取り上げられた神官の仁科氏が退去してしまった飯縄山里宮に、千日太夫時代の遺構などある訳なかろうと思っていたが、実は神社の隣に旧里宮跡と千日太夫の屋敷跡があったとは知らず、再度取材することとなった・・・(汗)

荒安仁科屋敷 (2)
荒安集落にある里宮。

荒安仁科屋敷 (4)
大鳥居の右側(東側)に旧里宮跡と屋敷跡がある。

【立地】

現在の長野市富田荒安にある飯縄神社里宮の東隣が仁科氏(千日太夫)の屋敷址である。現在は民家の宅地及び畑になっている。ここからは、葛山城が目の前に手に取るように見え、大峰城も指呼の間であり、眺望に優れた所である。ここからは飯縄方面はもちろんのこと、戸隠方面へも通じていて、古くは山道が開けていたものと思われる。

荒安仁科屋敷 (17)
旧里宮から見た葛山城と周辺の遠景。一段下は仁科屋敷(千日太夫屋敷)。

【館主・館歴】

飯縄明神の神宮である千日太夫の屋敷址である。伝承によると、元亀年間(1570~1573)に武田信玄が飯縄山の武田への帰属を評して荒安に里宮を造営した際に、冬季の居宅も建築し千日太夫に与えたという。
勝頼の代になると、安曇郡森城主の一族の仁科盛清が千日太夫の跡を継ぎ、神官も「仁科甚十郎」と名跡を変更したようだが、世間には受け入れられなかったようである。
武田滅亡後は上杉景勝、江戸幕府にも神領を安堵され、明治維新まで仁科家が神領を支配していたが、神仏分離令により神領を召し上げられるとと共に仁科氏も退去している。

荒安仁科屋敷 (5)
大鳥居から見た仁科屋敷址。

荒安 仁科氏屋敷見取図 001

荒安仁科屋敷 (8)
耕作地と化した屋敷址。江戸時代には飯縄山の修験道が廃れていくのに伴い、自給自足を強いられたと推定される。

荒安仁科屋敷 (10)
旧里宮と屋敷地は10m程度の段差で区切られていたようだが、旧里宮の建築物はだいぶ前に現在の位置に移築したようだ。

荒安仁科屋敷 (12)
旧里宮の敷地。かなり手狭な感じに思えるが、東奥はかなり広い。

荒安仁科屋敷 (13)
旧里宮と屋敷跡の中間にある段郭。

【館跡】

馬屋や長屋が入口にあったという。太平洋戦争後次第に廃墟となり、昭和60年に取り壊されたという。近くにある同家の墓地には寛文、延宝年間(1661~1681)などの墓塔が並ぶ。
現状は神社の参道に接して土塁が残り(今は無い)、東側にもあ土塁痕がある。屋敷は上下四段になり、中心になる平地は65m×35mほどで、山段の山際から湧水があり、水神碑が建つ。
後背に山を背負い、東側の沢に守られ、要害とは言えないが、南面する快適な居住地で、冬場を過ごすには格好の場所であったと思われる。

荒安仁科屋敷 (14)
なるほど、南向きの屋敷地はさぞかし快適であったろう。

荒安仁科屋敷 (19)
屋敷地と旧里宮跡地の中間地点にある水神の石碑。

荒安仁科屋敷 (9)
大峰城も眼下に抑える立地の良さ。

≪荒安 仁科屋敷≫ (あらやす にしなやしき)

標高:780m 比高:10m
築館年代:不明
築館者・居住者:千日太夫(仁科氏)
場所:長野市富田荒明日
攻城日:2016年8月21日
お勧め度:★★☆☆☆ 
所要時間:-
駐車場:参道より50m西側にあり
見どころ:段差の敷地跡、景色
参考文献:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:私有地なのでプライバシー注意、無断侵入禁止
付近の城跡:大峰城、葛山城は必見。
その他:飯縄山奥宮へのチャレンジは心して挑むべし。

荒安仁科屋敷 (27)
現在の飯縄山里宮。

Posted on 2016/08/25 Thu. 22:00 [edit]

CM: 6
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

▲Page top