らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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鳥屋城(上田市)  

◆大井一族最後の拠点◆

先週は雨で攻城戦は諦めましたが、本日は3か所(鳥屋城、小山城、箱山城)を攻めて筋肉痛ですw

長和町~丸子町~旧武石村は、ほとんどの山が城跡といえるぐらい全国的にも珍しい場所です。

今回は信玄の軍事記「高白斉記」に出てくる「鳥屋城(とやじょう)」をご紹介します。

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↑小屋坂トンネルの入り口右側が鳥屋城と根羽城の登り口になります

戦国時代の初期、佐久地方は王城(佐久市岩村田)を拠点として大井氏が勢力を持ち、南佐久の伴野氏を排除し甲斐にまで攻め込みます(一説には信濃の守護職の小笠原系ともいわれます)

坂城に拠点を置く村上氏が甲斐の武田信虎(信玄の父)と同盟し佐久の大井氏を駆逐し、小県の海野氏をも破ると、東信濃の勢力図は変貌していきます。

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尾根からの登城路はかなりキツイ

佐久を追われた大井氏は貞隆が宗家を継ぎ、長窪城を拠点として和田、武石、依田窪の守りを固めます。
鳥屋城もこの時に強化されたのではないでしょうか。

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↑本郭に至る五重の堀切は見事です

1544年に武田晴信が長窪城を攻め、大井貞隆は降伏開城。(その後甲府に送られて謀殺されたとも)
和田城、武石城の大井氏も武田に降ります。

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鳥屋城より長窪城を臨む

しかし、1548年の上田原合戦、1550年の砥石城攻略で武田晴信が村上義清に敗れると、和田と武石の大井氏は村上氏と連携し武田に反旗を翻します。

1551年に砥石城を奪取し村上包囲網を完成させた武田晴信は、1553年再度長窪城に着陣し村上掃討作戦を展開します。

高白斉記には以下のように記載されています。

八月朔日乙亥、長窪へ御陣すえ居らる。和田の城(大丼氏一族の属城)攻めなされ、城主其外悉く討ち捕りなされる。

八月三日、高鳥屋へ登り見物。(高鳥屋城=鳥屋城の事か?)

八月四日戊司高鳥屋籠城の衆悉く討ち取られる。同田村落居。申刻勝利。

八月五日、塩田に向け御動き。地の城自落、本城に御旗立てらる。(塩田城には村上方の属将福沢氏が籠城していた)

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↑本郭跡。樹木が無ければ相当に見晴らしの良い場所だったはず。信玄も登ったのだろうか?

7年前に佐久を侵略した際には徹底した殲滅戦を敢行しました。(志賀城攻めは特に凄惨を極めた)
この地域の制圧も、抵抗する大井一族には容赦なかったようです。

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↑武石の小山城から見る鳥屋城遠景。大規模で見応えのある山城でした。

この城の別名は「首切城」

城跡を散策しながら思いだしたのは、新田次郎の小説「武田信玄」の中で横田備中守の諫言。

「叛く佐久を殺せば、佐久は限りなく叛くでしょう。佐久の人ことごとく叛いて死に絶えても、草木が武田に叛くでしょう。」

信州人で信玄公のファンが少ないのは、こうした背景がDNAに組まれているせいかもしれない。

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依田川流域の山城群。


場所:上田市武石鳥屋 ※今回は254号線小屋坂トンネルから登城したが、鳥屋地区からの登山道もある
攻城日:2010年5月29日
お勧め度:★★★★☆
見どころ:北尾根を絶ち切る5本の堀切、腰郭、本郭南側の堀切
時間:ふもとから40分程度。頂上の見晴らしは良くないが途中視界が開けるロケーションあり。



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Posted on 2010/05/30 Sun. 10:43 [edit]

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