らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0804

楽厳寺城(小諸市)  

◆別荘地開発で調査することも無く破壊された城跡◆

攻城戦には腹ごしらえが必須でございます。

らんまるお勧めの「元祖ニュータンタンメン本舗」の「タンタンメン大辛」
201008041318000.jpg

単純に辛いだけならお勧めしませんが、太麺に卵とスープが絡み最後の一滴まで完食出来ます。
上田市近郊を訪問の際はお立ち寄りください。(その後の隊長体調は保証しかねますが・・)

で、今回は先日ご紹介した布引城の対の城「楽厳寺城」

楽厳寺2
↑この台地の堀は水堀が特徴のようです

築城時期についてはハッキリしませんが、布引城とほぼ同年代と推察されます。
この地方の豪族であった楽厳寺氏の居城とされ、北信濃の村上氏に与していたものと思われます。

天正十七年(1547年)武田信玄による佐久侵略戦で攻撃を受け、布引城とともに落城。城主であった楽厳寺雅方は武田氏に一度は降伏しますが、その後村上義清を頼り落ち延び。砥石城の戦いでは籠城方の守将として武田軍を破りました。
その後、村上方の恩賞に不満を持ち真田家臣となったようですが確かな記録はないようです。

※村上十八将の一人である楽厳寺光氏は室賀氏なので同じ名字でも関係は無いらしい。

楽厳寺6
↑別荘脇に残る堀切跡

釈尊寺(布引観音)の末寺の僧侶だった楽厳寺雅方は、剛勇の武将として名を馳せていたらしい。
坊主が侍?と疑問に思う方もいると思うが、この時代が終わるまでは神社仏閣は戦国武将に匹敵する武装勢力だった事を想い出して欲しい。

徹底抗戦する布引観音ですら例外でなく、武田信玄が攻撃の目標としたのは非難を受ける行動ではない。
(現に織田信長は敵対勢力だった比叡山を焼き討ちにした)

楽厳寺3
↑別荘への取付道路のため破壊された土塁

残念ながらこの城跡は、高度成長期の日本における別荘開発の犠牲となり発掘調査されること無く破壊されてしまい、一部のみしか遺構が残っていません。
今でも城跡からは釈尊寺に直接行ける道路があります。

布引観音 023
↑こうして布引観音を見上げるとそれはまさに城塞

釈尊寺が本城であり、その詰め城が楽厳寺城と布引城だったと思うのは僕だけでしょうか・・・

布引観音 034
↑布引観音本堂からみる絶景

場所:小諸市大久保(標高750m 比高差約210m)
攻城日:2009年5月2日
お勧め度:★★☆☆☆
行き方:地図参照(別荘地ですので車で訪問可)
見どころ:水堀、土塁、堀切

スポンサーサイト

Posted on 2010/08/04 Wed. 20:25 [edit]

CM: 0
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top