らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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会田塚(松本市)  

◆強い霊気を感じる場所◆

ふと先日、リンクさせていただいているサムライ左近法律事務所の先生にご紹介してもらった会田塚と光城跡を訪ねました。

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会田氏の居館のあった旧四賀村殿村にある廣田寺を訪ねます。
もともと会田氏の菩提寺は此の寺の山を越えた東側にある知見寺だったのですが、小笠原氏に滅ぼされた際に寺も焼き払われてしまい、知見寺の住職が開基である岩下豊後守の位牌を持って廣田寺に逃れて来たという。

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↑滋野氏出身の会田岩下氏の家紋は六文銭。なので山門や本堂の屋根にも六文銭が彫刻されている

小県郡にある海野平の豪族滋野氏を本家とする一族は、東筑摩郡の四賀地方に移り住み会田岩下氏を名乗り、会田虚空蔵山城、苅谷原城、光城、塔ノ原城を戦略拠点として地域支配を強化していった。

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天文二十二年(1553年)、信濃侵略で小笠原氏を追放した武田晴信は深志城を拠点として、善光寺平への道を確保するために四賀、麻績方面への侵攻を開始する。攻城を開始した3月30日からおよそ三日間で苅谷原城を落とし、塔ノ原城は自落、会田城は放火により開城を余儀なくされ、会田氏は武田氏の軍門に降る。

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↑廣田寺から臨む虚空蔵山城

同年4月末、村上義清支援で上杉謙信が信濃に出兵し第一次川中島合戦となる。9月に戦局を有利に進めた謙信は麻績の青柳城、四賀の会田城を落とすが、すぐさま夜襲で武田軍が奪い返す(筑北合戦)

武田氏滅亡後、この地方は上杉景勝の勢力下となり、会田氏も上杉に従う。

徳川家康の後ろ盾で旧領を回復した小笠原貞慶は、天正十年(1582年)10月に会田氏を攻め滅ぼす。

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会田塚は会田氏滅亡の際に、一党の具足や刀剣が遺骸の変わりに埋められたところと云われています。

場所が分からずに諦めてしまった方々も多いとの事でしたので、住職に聞いてしっかり見てきました。

場所:廣田寺の本殿手前を左に曲がり寺を出ます。墓地を抜けて沢を挟んだ西側に「しだれ桜」が1本ある場所があります。そこが会田塚です。

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左近先生は「霊感の強い場所」と云われてました。

なるほど、一族の怨念なのでしょうか、僕の場合はもっと酷い状況になりました。

・この場所で涙が止めどなく流れました。
・その後訪れた近くの崩れかかった無人寺で、瓦屋根が崩れて落下してきた。
※寺の前を立ち去って数秒後の出来事。ガシャーンという音に振り返るとさっきまで立っていた場所に瓦が散乱
マジヤバかった・・・

霊感は強いほうでは無いのですが、悪戯されたのかもしれません。
その後は何もありませんでしたが・・・・(汗)

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↑殿村遺跡の発掘調査でしょうか(旧会田中学校跡)

城と古戦場のマサハレ様によると、会田氏の最後の場所はこの場所から南の沢の尾根にある「覆盆子城」であり、≪ 覆盆子(いちご)は「一期」で、会田一族がその一期をとげた城である(『四賀村誌』)≫としています。

いつか訪れて鎮魂したい場所でもあります・・・・(んーん、余計ヤバくなりそう?)

小県郡青木村に伝わる伝説では、会田虚空蔵山城から逃れて小県に向かう途中の十観山(じっかんざん)の頂上で自害したとも云われています。

主君を変えても何とか家名を残そうとした信濃の小豪族の悲劇は、会田氏だけではありません。
非情な戦国の世を想い、会田塚では涙が流れたのでしょうネ。

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↑十観山の山頂から臨む四賀村の会田地方。

≪会田塚≫
場所:松本市会田 廣田寺の北側墓地付近
見どころ:廣田寺とその付近、殿村発掘場所など  
注意:心を無にして塚に向きあいましょう。(決して囲みの石を越えてはいけません)
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Posted on 2010/09/14 Tue. 23:44 [edit]

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