らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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土橋城(信濃町)  

◆上杉軍が急造した信越国境の城◆

松茸のシーズン中は舞台を北信濃攻城戦に切り替えております(笑)

今回はイキナリ県境へ進軍して信濃町へ。

越後と信濃の国境にある野尻湖(別名:芙蓉湖)周辺は、川中島より後退を余儀なくされた上杉軍の最前線の防衛拠点であり、幾度となく武田軍との戦いが繰り広げられた場所でもあります。

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永禄七年(1564年)、上杉輝虎(謙信)の関東出陣の隙を突いた武田軍は飯山口と野尻方面を攻めて野尻を陥落させる。この時の上杉軍の拠点が湖畔にある野尻城だった。
(一説には湖に浮かぶ弁天島の琵琶島城と云われるが、恐らく湖岸の野尻城とセットで機能していたと思う)

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↑琵琶島城。現在は宇賀神社となっているが城郭としての遺構が残っています。

ほどなく上杉方が野尻を奪い返すのだが、永禄十一年(1568年)に再び武田軍に攻撃され、上杉軍の最前線は越後の関山に後退したという。
翌年上杉輝虎は「飯山・市川・野尻新地」の警護を命じ上杉軍は再度野尻湖に前進する。

日本考古学協会の松澤芳宏氏によれば、この野尻新地が土橋城ではないかとの説を展開されています。

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国道18号線の野尻湖交差点から見る土橋城。小丸山と呼ばれる尾根を利用した広大な城跡。

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北国街道の南側に接する要塞として意識的に作られた事は一目瞭然でわかる。

≪土橋城≫

平成三年に遠藤公洋教諭と信濃中学校二年の生徒たちによって発見・命名された城。

この城は、湿地帯に臨む尾根突端にあり、北国街道筋より大手を設け、大堀切りの推定箇所(小道がある)を経て本曲郭(主郭)のある小丸山に達する。幾重の曲輪と切岸で尾根を加工し、内部に空堀が無い事は、味方の動きを考慮した縄張りで、自然地形も残すことは臨時的要素が強い。城域が約100m×350mもある大城郭で、本曲輪は約20m×56mを測り、土塁を伴う。

~「探訪 信州の古城(2007年)」松澤芳宏氏の掲載文より転載~

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↑松澤芳宏氏による土橋城縄張図。切岸を多用しているのが築城年代の新しさを示しているという。

城域の南端から攻城開始。雑木林と笹と蜘蛛の巣との戦い。日中でも日が差さないのと周囲が湿地帯だったせいかじめじめしている。

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城跡の碑と思いきや灌漑工事完成の記念碑でした。土塁を乗り越えて城域へ。

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かなり広い郭。雑木林が無ければ充分な兵を収容出来たに違いない。

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低い土塁で本郭を仕切る。
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小丸山の頂上が本郭。建物の礎石は見当たらない。

西側は切岸で、東側だけに二段の腰郭を帯状に配置しています。

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北側の「推定堀切」。上巾4m~5mぐらい。確かにそれらしき雰囲気があります。

堀切を挟んだ北側には大手に通じる小郭があり、北国街道を監視する見張小屋だったのでしょうか。

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↑小郭を囲む土塁

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北国街道と連接している土橋城。

信玄によって、のど元に匕首を突きつけられた輝虎は、野尻に新城を築く事で、国境の最前線の死守に必死だったのでしょう。

その後この地が戦場となる事はなく、土橋城も役割を終えて打ち捨てられたものと考えられます。

野尻新地=土橋城という松澤氏の説は興味をひき、さもありなんと現地を訪ねて思いました。

場所:上水内郡信濃町野尻土橋
攻城日:2010年10月11日
お勧め度:★★★☆☆
見どころ:切岸、土塁、腰郭
詳細:国道18号線の野尻湖信号機を過ぎて野尻湖トンネル手前を旧18号線へ。
その他:野尻城、琵琶島城(冬は渡れませんので注意)、割ヶ岳城も近くなので必見。


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Posted on 2010/10/13 Wed. 19:00 [edit]

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