らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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割ヶ岳城(信濃町)  

★カーナビが認定する野尻城?★

野尻湖周辺には戦国時代の城跡が4ヶ所あるのですが、どれが野尻城だったのかは推測の域を出ません。

7年前のカーナビを未だに駆使しているとマイナーな城跡が時々表示されます。

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この地図が示しているのは割ヶ岳城(わりがたけじょう)。

ゼンリンが野尻城と認定したようです(笑)

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割ヶ岳城全景。

上杉方の山城は雄山(おすやま)が多く、武田方は雌山(めすやま)に築くのが特徴だ・・・ふと思い出されますね。

≪攻城時の注意事項≫
県道の道路脇に看板がありますが、その通り進むと民家への不法侵入です。(不適切な表示)
その隣りの家の通路の脇から右へ折れて進むのが正解です。
いずれにしても民家の軒先をかすめるので、家の方がいらしたら挨拶してから登りましょう。

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トレッキングコースとして整備されているので、山頂までは約20分の単調な登山。ちょっと退屈。

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二の郭跡に建つ祠と説明看板

≪割ヶ岳城≫ ※【川中島の戦い】史跡ガイドより引用

信濃町と飯山を結ぶ東西の道と、新潟県から信濃町古海地区を経て牟礼(飯綱町)への道が交差する交通の要衝にあたり、戦国時代、信越国境における重要な軍事拠点となった城。在地領主だった柴津(しばつ)氏の城であったとの伝承がある。

 永禄4年(1561)5月には大森掃部助(おおもりかもんのすけ)が、割ヶ嶽城攻めの功績により、武田信玄に所領を安堵された。

 『甲越信戦録』の中では、永禄4年(1561)5月、上杉謙信が上洛したとき、武田信玄は停戦条約に背いて越後方面に兵を進め、割ヶ嶽城を攻めた。武田方の多田淡路守、浦野民部左衛門・原美濃守を先陣として戦い、激闘の末、城を陥落させた。謙信は信玄の卑劣な行為に激怒し、1万3千の兵を率いて信濃に出陣。信玄との直戦を決して第4次川中島の戦いに挑んだ。

 なお、永禄7年(1564)、野尻城をめぐって甲越両軍の争奪戦が展開されたが、一説にこのときの「野尻城」は割ヶ嶽城ではないかともいわれている。

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本郭と東側の郭の堀切。

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東側の郭までを3本の深い堀切で切断

城跡を調べると、武田方の城となった時にかなりの改修が加えられたのが良く分かります。

宮坂武男先生の推定鳥瞰図があるのもいいですネ。

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本郭には井戸の跡があり、西隣りの郭の先端からは野尻湖が見えます。

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↑これぞ光学7倍ズームの威力

割ヶ岳城の西側のふもとには「姫の泣き石」と呼ばれる場所があります。

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こうした地元の伝説を大切にして後世に伝えたいですね。

場所:上水内郡信濃町富濃柴津 
行き方:国道18号線から古間方面へ入り県道96号線へ。
標高767.8m 比高120m
攻城日:2010年11月3日
時間:登山口から20分程度
お勧め度:★★★☆☆
見どころ:曲郭、竪堀、堀切、頂上から野尻湖方面の景色、西側山麓にある姫の泣き石伝説





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Posted on 2010/11/10 Wed. 09:22 [edit]

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