らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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替佐城(中野市)  

◆北信濃最大級の謎の城郭◆

上田小県の城郭もロクにアップ出来ないまま、北信濃方面に進出してしまい泥沼化(笑)

いずれ川中島の決戦になりそうな予感でございますw

ちょっと散歩のつもりが2時間近い攻城戦になるとは思いもよらなんだ・・・(爆)

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↑山麓にある「もみじの湯」から替佐城。

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↑もみじ公園にある説明板。この程度の縄張り図なら拙者にも描けるゾ(失礼)

とにかく広い城域。山城に辿り着くまでの登山時間が長いのはいつもの事だが、テキトーに城域を調べてもこんなに時間がかかったのは初めての事。

真面目に調査したら2日間以上は要するかもしれませんネ。

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水の手までは車でOK。駐車場やトイレもあり感謝感謝。

≪替佐城≫ (かえさじょう 別名:対面城)
戦国時代に武田方の城として千曲川右岸の壁田城とともに上杉方の飯山城に備えたものと云われている。城将は壁田城とともに小幡上総介と伝わるが、替佐城については厳密には城将の確認が出来ていない。
永禄十一年四月(1568年)、武田信玄は越後境の新地築城を無事に祈っているが、長沼、替佐、壁田城などの複数の城を「越後境の新地」としたものと推定される。(信州の古城より、松澤芳宏氏の掲載文の抜粋)

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二の郭と三の郭を遮断する堀切。深さは無いが巾は広い。

新地といっても土豪の城館を修築したものと思われるが、この城の普請は相当なものだったと思われる。

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南側に位置する三の郭。数段の腰廓を備え竪掘で斜面を防禦している。

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↑山裾に伸びる竪掘。埋まりかけているが、遺構は確認出来る。

永禄十一年七月、武田晴信は自ら出陣し、替佐城、壁田城を前線基地とし越後の本庄茂長と呼応して飯山城を攻め、陥落まであと一歩のところまで追い詰めるが、上杉の援軍と屈強な抵抗に遇い断念する。

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二の郭。膝の上まである雑草が生い茂り、歩行困難に陥る(笑)

参考にさせていただいた余湖くんのホームページでは、城跡はきれいに整備されていたのに、人口減少の余波をうけたせいか、今では荒れ放題(爆)

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上巾10m以上はあると思われる本郭と二の郭の堀切。草に覆われた階段が見えずに転落しそうになった・・

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ふだん良く分らない堀切写真が多いが、この城は圧巻の作りなのが分かります。

七月中旬には劣勢だった上杉方が長沼城付近まで押し返し、替佐城も奪われたようだが、下旬には再度武田方が奪還して八月末まで飯山口を攻撃するも、越後の国境を越える事は出来なかったという。

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草ボーボーの本郭。ある意味風情がありますw

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松澤芳宏氏の縄張り図。東側の防禦に苦心した跡がみられます。

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本郭跡から飯山方面。中央の山は高社山で左側奥が壁田城。

上杉と武田が凌ぎを削った飯山口の攻防戦は、最終的に天正六年、上杉の後継者争いで上杉景勝が甲越同盟の際に飯山を割譲し武田領となるが、武田の滅亡、織田信長の横死で再び上杉の支配下となる。

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本郭の北側には、類を見ない広大な腰廓が二の郭の裾まで広がる。

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竪掘を多様する手法は武田の改修跡か?

その後、この城の役割は終わり廃城となったと思われるが、史実には明確な記載が無い。
武田晴信が飯山攻略において、兵の駐屯地として最大限の活用をしたのかもしれない。
謎の多い山城でもある。今後の解明が期待される。

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独立系の山城であることが分かる宮坂武男氏の鳥瞰図。

場所:中野市大字豊津
行き方:国道117号線から豊井小学校前を左折。途中のY字路を右へ登るとほどなく駐車場に着きます。
標高460m 比高50m
攻城日:2010年11月3日
時間:駐車場から5分程度登ると広大な城域へ。
お勧め度:★★★★☆
見どころ:竪掘、堀切、土塁、景色など

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Posted on 2010/11/17 Wed. 00:05 [edit]

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