らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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望月城(佐久市)  

◆滋野三家 望月氏の居城◆

デッドストックになるといけないので、望月城についても掲載することにします。

らんまるの母親の実家が望月町(現在は佐久市と合併)なので、この地域には特別な思い入れがあります。

現在では中仙道の宿場町の面影の残る町として有名ですが、戦国時代に滅びた望月氏の居城があった場所であることを知る人は少ない。
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↑望月宿本陣の大森家に伝わる絵図。武田滅亡後にこの地に入った織田方によって作成された貴重な資料という。

室町時代に勢力を盛り返した望月氏だが、戦国時代になると長尾景虎や武田晴信の脅威と周辺への侵略にさらされ、弱体化を余儀なくされる。

天文十二年(1543年)、前年に諏訪氏を滅ぼした武田晴信は佐久地方より侵攻し、九月十九日に抵抗していた長窪城の大井貞隆を攻撃し落城させる。生け捕りにされた大井氏は甲府に送られる。

翌日には、共に抵抗していた望月一族は晴信により「生害」させられたという。

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三の郭から見る二の郭・本郭方面

この時に望月宗家は滅びたが、分家の望月源三郎(信雅)と弟の新六は布引城に逃れ最後まで抵抗したが、真田幸隆の説得もあって武田方に降りたという。

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二の郭の西側に残る縦掘り(一番堀)

望月氏を継いだ源三郎は、武田信繁(晴信の弟)に宗家の娘を嫁がせ、信繁の子を養子として迎い入れ(武田勝義→望月信頼に改名)は武田家に取り組まれていく。逆の見方をすれば、武田氏は望月氏を重要視していた事が分かる。

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二つの郭で構成される本郭。かなりの広さがある。

家督を譲った信雅は望月印月斎と名乗るが、信頼が第四次川中島合戦後に急死してしまい、弟の信永が家督を継ぐが長篠の合戦で戦死。印月斉が望月家の当主に復帰し信頼と信永の兄の武田信豊の管理下の元で領国経営にあたるという異常事態となる。

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主郭跡。天正十年の絵図では、この場所に隅櫓があったされるが真相はどうなのか。

主家の武田氏滅亡後、印月斎の跡を継いだ望月昌頼は他の佐久地方の豪族と共に北条方の傘下となったようだが、天正十年九月に徳川方で佐久の制圧戦を指揮していた依田信蕃の攻撃を受け落城。
望月昌頼は自刃し、望月氏の嫡流は途絶えたというが、確証となる記録は無いようです。

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城域の西側は急斜面。山麓には菩提寺の城光院がある。

その後、望月城は廃城となり、徳川家康が1600年に中仙道の宿場造営を大森家に命じ、宿場町として栄える事となる。

信濃の名家といえども家名を存続させることの難しさは、望月氏だけでは無く信濃の小豪族の悲哀が物語っている。

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↑城光方面から望む本城跡

≪望月城≫ 

築城年代:不明
築城・居城者:望月氏
場所:佐久市望月  標高776m比高110m
攻城日:2010年12月19日
お勧め度:★★★☆☆
見どころ:広大な曲輪群、土塁、堀切など
その他:老人ホームの入口脇に駐車場あり。徒歩5分






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Posted on 2010/12/23 Thu. 13:13 [edit]

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