らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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村上氏居館跡(坂城町)  

◆信濃の名族 村上氏の歴史◆

戦国時代の信濃を語る時には、北信濃に覇を唱えた村上氏についても概略を知っておく必要がある。

≪信濃村上氏のルーツ≫

村上氏は清和源氏の流れであり、清和天皇ー貞純親王ー経基王ー満仲ー頼信ー頼清ー仲宗ー盛清と続く。

「源」を称したのは仲宗の代からと云うが、朝廷内で藤原vs源氏の公卿貴族政争があり、当時院政を行っていた白河上皇を呪詛した罪で寛治八年(1094年)に仲宗親子五人が流罪となった。

盛清が流されたのが現在の坂城町の千曲川西岸にある網掛上平(村上)地籍。流刑中に水田開発等を進め、その子為国の代に村上に土着し領主となる道を選んだようだ。

その後の村上氏は、他の信濃の豪族と共に平家打倒の兵を挙げた木曽義仲の上洛戦に加わり上洛時には客将扱いとなるが、義仲が後白河上皇攻撃に及ぶと朝廷側に参じて法住寺殿で討死したと平家物語にある。(実は生き延びて頼朝の御家人になったというのが真実のようである)

義仲が敗死すると、挙兵に加わった信濃の豪族は鎌倉幕府により悉く冷遇され没落してしまう。

その中で、村上氏は五つに分家し幕府の御家人として存続し支配地を拡大していく。

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↑千曲川西岸の坂城町村上地籍にある十六観月殿。旧居館はこの付近にあったのであろう。

≪南北朝争乱期の村上氏≫

元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅びると後醍醐天皇、足利高氏、新田義貞、北条与党による動乱が勃発。
信濃では鎌倉幕府により冷や飯を食わされていた依田氏、小笠原氏がいち早く足利高氏の支持に回り、滋野一族や諏訪一族は北条氏の再興に加担し二十年もの間対立が続く。

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坂城神社手前にある居館跡の碑(現在の満泉寺)

建武二年(1335年)に足利高氏の弟直義が守る鎌倉を、北条氏再興を願う連合軍が攻めて陥落させる事件が起きる。(中先代の乱)後醍醐天皇の勅許を得ずに直義救出の討伐軍を鎌倉へ差し向けた高氏は連合軍を破る。

この時に北条時行を支援していた信濃の諸豪族は小笠原氏や市河氏に各個撃破されるが、最後まで抵抗していた坂木北条に籠る薩摩氏は信濃惣大将に命じられた村上信貞・市河氏の連合により制圧された。

※官職でない「惣大将」という役職名がその後の村上一族と信濃の歴史を変えていく

薩摩氏討伐の戦功により千曲川東岸の坂城~南条の支配を得た村上氏はこの時に居館を村上郷から坂城郷へ移し、同時に葛尾城を築城したという。

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居館は170mの方形で土塁と堀を備えていたという(左端は満泉寺)

中先代の乱を平定した足利高氏だが、勅許を得ずに進軍命令を出した事で帰りにくくなり、後醍醐天皇の帰京命令にも従わなかった為に賊軍の汚名を着せられ、新田義貞らの追討軍と対峙する。

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村上居館跡地に立つ村上氏の菩提寺「満泉寺」。義清の息子である山浦国清により再建される。

追討軍を箱根峠に迎え撃った足利軍は、直義が竹之下で苦戦し敗色濃厚となるが、新手の援軍で窮地を脱し追討軍を破る。

この援軍が村上信貞であり、戦功により直義から直々の感状と共に上田平の塩田庄十二郷を賜る。(上田小県に初めて所領を得る)
この地は村上一族の福沢氏が代官として塩田城を中心に城下町を形成し天文二十二年まで村上氏の所領であった。

室町時代に入り応永六年(1399年)、守護の小笠原長秀と信濃国人が対立し大塔合戦となる。

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↑国人勢に加勢した大文字一揆衆の旗

国人連合軍の盟主は村上満信であったとされ、合戦の末、守護の小笠原氏は敗走し都へ逃げ帰る(のち罷免される)

国人勢力が台頭し一時は幕府直轄地となる有様の信濃国だったが、幕府は応永十年(1403年)信濃代官の細川滋忠に命じてそれぞれの国人を各個撃破降伏させ、その後守護に返り咲いた小笠原政康により永享九年(1437年)最後まで抵抗していた村上頼清が降伏する。

通常、将軍家に対して降伏を申し出したのであれば、勝者の条件を呑んだということに他ならない。

この時点で信貞から続いた嫡流は所領没収の上、上総国に流され足利持氏配下となる。

村上家は信貞の兄であった義国の系統が総領を継ぐ事で降伏を許されたという。(義清はこの系列)

総領家の交代というピンチを乗り越え版図を拡大する村上氏だが、満清以降の活動は文献に無く義清の代まで謎が多い。

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源氏直系という家柄では、武田にも小笠原にも劣らないのだが、血縁頼みの小豪族の盟主という古い慣習から脱却できずに、直轄地を増やし占領地には直属武将を置くという戦国武将の発想にならなかったのが村上氏の限界だったのかもしれない。

※参考文献~上田大紀行(2010年11月発行)「信濃の村上氏と戦国の争乱」 桜井松夫氏著

≪村上居館跡≫

場所:埴科郡坂城町坂城 満泉寺 しなの鉄道坂城駅より徒歩10分
見どころ:居館跡の碑、さかきふるさと歴史館、村上義清公墓所など

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坂城大橋を渡って5分ほどの場所には村上義清公の墓所がある









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Posted on 2011/02/01 Tue. 12:00 [edit]

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