らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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岩尾城(佐久市)  

◆芦田五十騎を率いて戦国の世を駆け抜けた依田信蕃の夢の跡◆

記念すべき100番目の攻城戦記はこの城跡になった。

特に意味は無いが、最初は依田信蕃を知らずに立ち寄りその後2回も訪問したのはこの城ぐらいだ・・・(笑)

色々な方がこの城について書かれているので、詳細は割愛しますが、秀作は「あおれんじゃあ」様の記事だと思うので、ご参照願いたい。北緯36度付近の中世城郭

プロフェッサーの記事に比べるとらんまるの記事は幼稚園レベルかもしれない・・・(汗)

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↑北側から見る西の曲輪全景。

≪信玄、信長、家康に惚れられた依田信蕃の武勇と知略≫

芦田の小豪族依田信守の子で、信玄に人質としてだされていた信蕃が、その才覚を発揮しだしたのは、信玄上洛の軍を起こした元亀三年(1572年)の三方ヶ原の戦いからであり、美濃岩村城が秋山信友軍により陥落すると織田信長は奪回の為に明智城主の遠山景行に五千の兵を授けるが、依田信守、信蕃父子は岩村城南方神村方面で僅か七百の兵で迎撃。敵将遠山景行を討ち取りその名を信玄は云うまでもなく、織田信長にも印象付けた。(信蕃24才)

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台曲輪の北側の堀跡(?)から城跡へ

当時の書物では「芦田五十騎」と記されているので一騎当りの歩兵が五人としてもせいぜい300人編成の小隊だったのであろう。

西上作戦で難攻不落と云われた遠州の二股城を陥落させると、信玄は依田父子にこの城の修築と守備を命じる。
信守と信蕃は、城攻めの経験に基づき周到な修築を行い織田・徳川の攻撃に備えた。

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三日月堀の跡と云われる通路と曲輪。んーん、よく分らん。

信玄亡き後、勝頼は長篠で無謀な合戦に及び大敗。遠州の高天神城と二股城は敵の領地内に取り残される異例の事態となる。

奪還を目指す徳川軍との小競り合いが続き、父の信守は戦の傷がもとで他界。家康も攻めあぐねて、籠城五ヵ月の末に、武田勝頼の命もあり城を開城を決意する。

先に降伏を申し出ては不利になると考えた信蕃は、次の条件を徳川軍から引き出して応諾した。

・城兵が安全地帯に退いた所で双方の人質を解放する
・城兵の落ち着き先が決まるまで一切の軍事行動を差し控える
・人質は大久保新十郎泰忠、榊原小平太康政を差し出す

謀略で開城と同時に討たれる恐れもあったが、城内の兵糧が尽きてしまった状態では賭けてみるしかなかった。

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三の曲輪に建つ伊豆箱根三島神社の鳥居

徳川軍は条件を守り、城兵は甲斐・信濃へ帰還の途についた。城明け渡し後に信蕃は高天神城へ退く。

恐らく家康は、ここで恩を売っておけば知勇兼備の依田信繫を家臣にいつか組み入れる事が出来ると考えたのだろう。

その後、信蕃は駿河田中城の守備につく。

天正九年(1581年)三月、徳川家康は降伏勧告に応じない高天神城の岡部真幸を総攻撃し城主以下七百余りを討ち取る。勢いに乗じて駿河の諸城を落とすが、田中城だけは避けている。

父以来恩顧のある武田家への義理は忘れないが、武田家もそう長くない事は信蕃も知っていたし徳川に抵抗するつもりもなかった。

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社殿の建つ場所が二の曲輪跡。恐らく数ヶ所に矢倉があったと思われる

天正十年、織田信長が武田討伐軍を起こし信州の諸城の攻撃を開始すると、家康は信蕃に田中城の開城勧告を行い、武田家の滅亡も時間の問題だとして徳川の配下となるよう説得する。

これに対して依田信蕃は、

「気持ちはありがたく受け止めたが、滅亡していない主家を裏切るのは武門の恥である。出仕については故郷(佐久の春日三沢小屋)に戻り考えてから返答する」

として、城を大久保忠世に引き渡して故郷に戻った。

世に「私事など考えている暇は無い」という彼の名セリフはこの場面から後の世に伝えられている。

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岩尾城を守る大井行吉は依田信蕃と同じ知略を持つ武将で、見事な采配で依田軍の猛攻に耐えた(本郭)

信濃を制圧した織田信忠は、父の信長より依田信蕃を臣従させるよう命令を受けてたが、信蕃は家康への手前もあり態度をはっきりさせなかった。
これに対して信忠は信蕃の子二人を人質に取り、信長に必ず出仕するように迫ったという。

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家康は依田方の前山城に伊那の知久氏を城番として置き、要害堅固の岩尾城の包囲に慎重に臨む。

「右府頻りに令して信蕃を呼ぶ」

信濃の仕置きを終えた信長だが、出仕するそぶりすら見せない依田信蕃の不遜な態度に業を煮やした彼は、出頭させて切腹を申し付けるよう諏訪本陣の信忠に申し付ける。

そうとは知らずに徳川への義を理由に申し開きをすべく諏訪の信忠本陣に向かっていた信蕃は、徳川家康が急を知らせるために走らせた隠密飛脚で事情を知り、その場から急ぎ甲斐市川の徳川本陣へ向かい、家康への臣従を誓ったという。

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本郭と西の曲輪の間には一条の堀切りがあり、石垣の跡が見られる。

家康より危急を救われた信蕃は鍛冶氏に変装し、かつて死守した遠州二股の山奥に匿われたという。


≪戦国大名への道を駆け上がった信蕃のその後≫

三方ヶ原の合戦から生涯不敗であった依田信蕃も、岩尾城の攻城戦で露と消え果てた。

岩尾城は、湯川と千曲川に挟まれた台地の突端にある。南、北、西は断崖に囲まれた険しい要害の上で、東側は扇状に展開し城域は東西500m、南北100m、比高30mの平山城である。
佐久平の中央付近に位置するこの場所からは、佐久の諸城が一望出来る。

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岩尾城は武田信玄、勝頼の二代に渡り武田流の堅固な修築が加えられており、佐久地方の城としてはかなり重要視された。

織田信長横死後、信濃と甲斐の支配を巡り北条氏vs徳川氏vs上杉氏の争いが勃発(天正壬午の乱)。

北条氏直は川中島に進軍したが、北信濃の支配権を狙う上杉景勝とのこう着状態が続き甲府に徳川軍が進軍する。
事態を打開するために北条氏は北信濃四郡の支配を上杉に譲る事で和睦し佐久へ後退。

当初は圧倒的な兵力にものを云わせた北条氏が戦局を有利に進めるが、徳川軍の先鋒を命じられた依田信蕃はゲリラ戦法で撹乱し、北条方に与していた真田昌幸を味方に引き入れて碓氷峠の補給路を断ち、劣勢だった徳川軍の窮地を救う活躍を見せる。

戦局が不利になり満足な兵站も確保出来ない北条氏は、上野国の支配権を認めさせる代わりに、甲斐都留郡と信濃の佐久郡は徳川氏が領有するという条件で和睦する。徳川家康の依田信蕃に対する評価はS級だったに違いない。

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冬の間しか訪問出来ないであろう西の曲輪。過去二度のチャレンジは雑草と恐ろしく痛い棘に阻止された(笑)

佐久郡と諏訪郡の所領を安堵されたものの空手形に過ぎず、北条軍が引き揚げた佐久は相変わらず北条方に与する豪族が多く、信蕃は各個撃破を開始する

天正十年(1582)十一月、岩村田城(黒岩城)の大井雅楽助を攻め落城させる。この攻城戦を真田昌幸に見学するよう伝え、実際に昌幸は浅科の八幡原まで出向いたという。

この戦のあと佐久の諸豪に降伏勧告を行うが、田口城の依田能登と小田井の市川氏は上州に逃れ、徹底抗戦を唱えるのは前山城の伴野信守と岩尾城の大井行吉だけとなった。

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西の曲輪から裾の段郭と琵琶島方面。城の搦め手でもあり、西側からの攻城は不可能だったと思われる。

武田が心血注いで改修した前山城と岩尾城の攻略については、徳川家康も依田軍単独では難しいと判断し、軍鑑として柴田康忠を遣わし、菅沼定利、松平家忠の援軍を送り大久保忠世を相談役として付けた。

天正十年の7月に一度は前山城を依田軍単独で攻めた信蕃だが、落とす事が出来なかった。

同年十一月、前山城を取り囲んだ二千の徳川軍は総攻撃を開始し三日間に及ぶ激戦の上で陥落させる。
伴野氏が滅亡すると、家康は前山城の城番を信蕃に命じている。

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依田軍が攻め入った時には甲冑の肩まで水位があったという千曲川。

甲州からの徳川軍の増援を妨害していた相木城の相木氏が三枝昌吉により駆逐されると、依田信蕃は翌年の正月に田口城山麓に居館を築き佐久の諸豪族や徳川軍の諸将を招き盛大な追鳥狩を催したという。

戦国大名として駆け上がり得意絶頂となった当時の彼には、有り余る才能を持ちながら肝心の謙虚さが欠落してしまい、軍監の柴田すら閉口してしまう高慢な態度と自信過剰に陥っていたという。

≪岩尾城攻防戦≫

岩尾大井氏は、佐久地方に覇を唱えた清和天皇を祖とする小笠原系大井氏の出自であり、武田氏の配下時代は不遇の時を過ごした。当主の大井行吉は武田が滅ぶと碓氷峠に難を避けていたらしいが、北条氏の支援で岩尾城に返り咲き、家柄では格下の依田信蕃が佐久の大井一族を平定して行く様子に我慢がならず、反依田の勢力を集め蜂起したという。

「男のプライドとは時にやっかいだが、命を賭しても守るという美学がそこにはある・・(笑)」(byらんまる)

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攻城戦で特に熾烈を極めた台郭跡。何層もの矢倉から繰り出される鉄砲と弓矢に依田軍は悩まされ斃された。

「難攻不落の城ゆえに、ひたすら囲み長期戦に持ち込み兵力を温存するが得策」とした戦目付の柴田康忠の忠告にも従わず、「我が軍のみで一両日もあれば攻め落としてみせましょう」と豪語した依田信蕃。

天正十一年(1583)二月二十一日の早朝より総攻撃開始。奢りゆえに無理押しで落とせると楽観していたが、城側の反撃は予想を越えて台郭すら落とせない。味方の死傷者は増える一方で、一旦兵を引き上げる。

その夜、徳川の軍監柴田より遣いの伝令があり「こちらの策を受け入れずに落とすと豪語したはずだが、何故落ちない?」と詰問される。

信蕃はこれだけの装備を施された城を攻城した経験が無かったのだ。その点で云えば、経験値は真田昌幸が格上であり彼ならばこのような無理押しをしなかったはずだ。

翌二月二十二日。このままでは家康に合わせる顔が無くなると思い立った信蕃は、弟の源八郎信幸とともに攻撃軍の先頭に立ちようやく三日月堀の淵に殺到する。

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二の曲輪と三の曲輪の間の堀には、ここで撃たれた依田信蕃と信幸兄弟の供養塔がある

依田信蕃と信幸兄弟の最後の様子を「岩尾家請」では次のように記している。

「みずから来たり、からほりの際、士卒を指揮す。時に浅沼従卒山中嘉助、紺垣武右衛門に令し匿塀内で各々発砲、信蕃、信幸を倒す。」

総司令官が最前線で指揮を取るなど普通はありえない。それほど憔悴しきっていたのであろう。

末弟の信春は撃たれた二人を陣営に運び全軍を撤退させたが、信幸は即死しており重傷だった信蕃はその夜絶命したという。

死の間際に彼は何を思ったのだろうか・・・・。享年35才。

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信蕃が本陣を置いたと云われる桃源院。岩尾大井氏の菩提寺でもある。

指揮官を失った依田軍は信春が引き継ぐが、徳川の軍監に叛いて単独攻めを強行したので援軍の申し入れも出来ない。信蕃を信頼していた家康も軍令に反した依田に加勢せよとは言えなかった。

大軍を相手に一歩も引かず、信蕃を倒した大井行吉には、家康もかつて二股城を守り通した信蕃の面影を見る思いだったに違いない。軍監の柴田に命じて開城勧告を行い、行吉もそれに従った。

この時、大井行吉は次のように答えたという。

「吾、素より徳川殿に対し恨み無し、又、信蕃に降るを恥じるのみ。彼、今や滅び憤りを散ず。まさに氏等の言に従うべし」

その後、大井行吉は上野国榛名山麓の村に移り一年後に死んだと云う。信蕃の末弟の信春に兄弟の仇として討たれたという説もある。

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南東方面から見た岩尾城全景。その姿はまさに不沈戦艦にも似ている。

彼がもし生き永らえたなら、第二の真田になりえただろか?

答えは「NO」だと思う。

会社組織で言えば、一部署の課長がラッキーの連続で昇進を果たし会社の重要なプロジェクトで馬脚を現し失敗したようなものだ。丁稚奉公で辛辣を味わい、世の中の酸いも甘いも経験し「人生の底」を見た者だけが戦国大名の家名を名乗れるのだ。

家康の計らいにより依田家を継いだ康国も北条征伐軍の渦中で敵の謀略にかかり死んでしまったし、跡を継いだ康真に至っては藤岡藩を預かりながら、囲碁対局をしていた家康の旗本を短気故に斬り殺すという思慮に欠いた行動で改易される。

さりとて彗星の如く現れた依田信蕃は、信州が生んだ戦国時代の寵児に違いない。

≪岩尾城≫

標高765・67m 比高30m
築城年代:戦国時代
築城・居城者:岩尾大井氏、武田氏
場所:佐久市鳴瀬
攻城日:2011年3月13日
お勧め度:★★★★☆
見どころ:堀切、郭、土塁、断崖からの景色
その他:岩尾大井氏の菩提寺である桃源院は直ぐ近く。

※参考文献:「もうひとりの真田 依田信蕃」市川武治著 郷土出版社

















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Posted on 2011/03/31 Thu. 22:49 [edit]

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