らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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二ツ柳城(長野市)  

◆大塔物語に登場する大塔の古要害◆

応永七年(1400年)九月、室町幕府の守護職小笠原長秀の圧政に抵抗した信濃の国人は、村上満信を盟主として国人連合を結成し大文字一揆の民衆も合流し中央政権に立ち向かった。世に云う「大塔合戦」である。

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二ツ柳城は現在の二ツ柳神社跡にある。

善光寺から横田城に拠点を移し国人連合との決戦を模索した小笠原長秀だが、一揆衆を含めた敵対勢力が自軍を上回る勢力で城を包囲している事を知り、味方の籠る塩崎城で合流しようと軍を移動する。

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神社西側の空堀。現在は川が流れているが、防禦の為に川を意図的に加工したとも伝わる。

夜陰に紛れての移動だったが、反乱軍に発見され猛攻を受けて守護軍は分断され、長秀軍は辛うじて塩崎城に逃げ込む。(詳細は塩崎城を参照)

逃げ遅れた300騎は大塔の古要害(廃城となっていた二ツ柳城)に逃げ込んだという。

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主郭跡の本殿への階段。本郭は、もともとは楕円形だったらしいが江戸時代の神社造営で方形になったという。

「大塔物語」によれば古要害に駆け込んだ守護軍は、その辺の植木を伐り、鹿垣を結い、塀を塗り、築地を築き、堀を穿ち、櫓をあげたとしている。(山城にしては表現が過ぎるきらいもある)

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籠城の際に築かれたと思われる本郭東側の空堀。

兵糧の武器の備えも無いままの一ヶ月近い籠城では、馬の血を啜り生肉を食らう凄惨な状況となり、籠城兵は自害したとも最後の突撃をして全滅したとも伝えられる。

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↑社殿の立つ場所が本郭跡。雑兵を含めても1000名が籠城出来るとは思えない。更に上の台地に籠ってもせいぜい500名が限界か?

二ツ柳城の所在については諸説があり、二ツ柳の東部の「字大当」という説も有力だ。しかし、南北朝の城が丘陵であった事や、大塔の由来が万田山作見寺の大塔(石造多重塔?)を考慮すると二ツ柳神社付近が古要害を指すものではないか・・・というのがこの数年来の主張のようだ。

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神社の山麓にある石造多層塔。もとは三重または五重だったらしい。

中央対地方の戦いは罪のない庶民を巻き込む戦であり、勝利した国人連合もそののち幕府軍により鎮圧される。

阿鼻叫喚の地獄絵巻を目の当たりにした守護職軍が、目と鼻の先の塩崎城に逃げ込んだ本隊の後詰めに望みを託した心境が哀れでならない。

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↑城址から望む塩崎方面。

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↑丘陵の途中にある城跡。山城のイメージとは違う南北朝時代の特徴ある遺跡だ。

≪二ツ柳城≫

標高440m 比高差90m
築城年代:鎌倉時代
築城・居城者:二ツ柳氏(村上氏の分流)
場所:長野市篠ノ井二ツ柳方田
攻城日:2011年2月20日
お勧め度:★★☆☆☆
見どころ:堀切、土塁、曲郭
その他:大塔合戦で大文字一揆軍が拠点とした赤沢城(塩崎新城)、塩崎城、夏目城も近くにあります。
交通手段:車で行けるが車道は狭いので路駐は迷惑にならない場所を選ぶ事。

※参考文献:「信州の山城」~小穴芳実先生の掲載文章より。


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Posted on 2011/03/03 Thu. 22:07 [edit]

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