らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0501
伴野氏館(佐久市) 
◆500年前の館跡が現代に残る奇跡◆
平地に築かれた豪族の居館が現在まで残っているケースは極めて稀である。
ましてや鎌倉時代の遺構など皆無に等しいだろう。

鎌倉時代、佐久の伴野(ともの)の庄の地頭であった小笠原長清は源氏一門の有力御家人であり頼朝の信任も厚く、その六男時長は地頭職を父より譲られこの地に土着し伴野館を築いたという。

平成14年の発掘調査で発見された土橋を復元した居館の入口。
伴野氏の居館跡は、東西80m×南北110mの長方形で周囲に堀を巡らし内側に高さ5m程度の土塁が築かれている。
鎌倉時代の遺構が、南北朝の争乱から室町時代、戦国時代、江戸時代と500年に及ぶ時代を乗り越えて我々の前に残るのは奇跡に近い。

堀は用水路に姿を変えてるが、四方を囲む土塁には感動を覚える
戦国時代の伴野氏は大井氏と佐久地方の覇権を争い、度重なる出兵の疲弊により没落の一途を辿り、甲斐の武田氏を頼る事になり信濃の武田攻略の足掛かりを作らせた重要戦犯とされるが、鎌倉時代は確固たる地位にあったのであろう。

石垣は後世の土留めだが、この時代の居館の様式を伝えている
室町時代~戦国時代にかけて平城として二の郭、三の郭と増強したらしい。

本郭には数棟の屋敷があったと想われる
戦乱の世にあっては、この地を支配する豪族に政庁として利用され、江戸時代以後は官庫、陣屋、岩村田藩の出張役所となり、幕末以降は官公地であったという。

館跡に建つ大伴神社
都市開発で破壊された城館が数多くある中で、鎌倉時代からの姿を残してくれたのは奇跡であり、感謝でもある。
≪伴野氏館≫ (野沢城、伴野城)
場所:佐久市野沢
標高:675m 比高:0m
築城:大井氏
攻城日:2011年3月20日
お勧め度:★★★☆☆
見どころ:土塁、堀
その他:駐車場無し、路駐。
平地に築かれた豪族の居館が現在まで残っているケースは極めて稀である。
ましてや鎌倉時代の遺構など皆無に等しいだろう。

鎌倉時代、佐久の伴野(ともの)の庄の地頭であった小笠原長清は源氏一門の有力御家人であり頼朝の信任も厚く、その六男時長は地頭職を父より譲られこの地に土着し伴野館を築いたという。

平成14年の発掘調査で発見された土橋を復元した居館の入口。
伴野氏の居館跡は、東西80m×南北110mの長方形で周囲に堀を巡らし内側に高さ5m程度の土塁が築かれている。
鎌倉時代の遺構が、南北朝の争乱から室町時代、戦国時代、江戸時代と500年に及ぶ時代を乗り越えて我々の前に残るのは奇跡に近い。

堀は用水路に姿を変えてるが、四方を囲む土塁には感動を覚える
戦国時代の伴野氏は大井氏と佐久地方の覇権を争い、度重なる出兵の疲弊により没落の一途を辿り、甲斐の武田氏を頼る事になり信濃の武田攻略の足掛かりを作らせた重要戦犯とされるが、鎌倉時代は確固たる地位にあったのであろう。

石垣は後世の土留めだが、この時代の居館の様式を伝えている
室町時代~戦国時代にかけて平城として二の郭、三の郭と増強したらしい。

本郭には数棟の屋敷があったと想われる
戦乱の世にあっては、この地を支配する豪族に政庁として利用され、江戸時代以後は官庫、陣屋、岩村田藩の出張役所となり、幕末以降は官公地であったという。

館跡に建つ大伴神社
都市開発で破壊された城館が数多くある中で、鎌倉時代からの姿を残してくれたのは奇跡であり、感謝でもある。
≪伴野氏館≫ (野沢城、伴野城)
場所:佐久市野沢
標高:675m 比高:0m
築城:大井氏
攻城日:2011年3月20日
お勧め度:★★★☆☆
見どころ:土塁、堀
その他:駐車場無し、路駐。
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Posted on 2011/05/01 Sun. 22:58 [edit]
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