らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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山本勘助の墓(長野市)  

◆謎は謎を呼び、真相は知らないほうが浪漫◆

山本勘助という人物が実在したかどうかは、常に論争の的である。

近年、市河文書によって山本官助の存在がクローズアップされたが、真相は依然として闇の中である。

史実は忠実にあるべきだと思う反面、多少の揶揄や浪漫があっても許容範囲というのが小生の持論である。

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信玄公が初陣で倒したという平賀源信の胴塚は野辺山にあるし、山本勘助の墓は古戦場の河原にある。

後世の作り話でわざわざ墓を作るというのは、権力者に強要されるか神格化されたかいずれかに該当するのかもしれない。

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永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いで討ち死にした山本勘助は、陣ヶ瀬東高畑(じんがせ・ひがしたかばたけ)に葬られ、五輪塔が建てられた。ここは今でも「勘助塚」とも呼ばれている。元文年間(1736~1741年)に松代(まつしろ)藩士鎌原重孝(かんばらしげたか)が千曲川の増水等による古墳の荒廃を憂いて墓の再建に着手するが、志半ばで他界。その子重栄(しげひで)と原正盛(はら・まさもり)らは重孝の遺志を受け継ぎ、元文4年(1739)に私財を投じて川の自然堤防に建っていた信州柴阿弥陀堂(しば・あみだどう)の境内に遺骨を移し、墓碑を建立した。文化6年(1809)には勘助の没後250年にあわせて、重孝の孫鎌原重賢が末長く墓が守られるようにと、中台を設け土台を高く石積みし現在の墓となった。碑面には「山本道鬼居士墓」と刻まれている。

なお信州柴阿弥陀堂は現在、代々墓を守ってきた吉池家の宅地内にある

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私財を投じてまで、存在しない架空の人物の墓を守る意義があるのだろか?

小生は、山本勘助の存在を肯定している。

後世の検証で史実がその存在を明らかに否定出来ないのなら、浪漫に夢を紡ぐのもいいと思う。

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杉の木が一本真っ直ぐに伸びた場所に官助の墓がある。

山本勘助の存在を否定すれば、第四次川中島の合戦はトキメクものが無いのである。

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山本勘助については、「城と古戦場」のマサハレ殿が各方面の史料を用いて検証している。山本勘助は実在したか

彼の卓越した検証が今後の史実解明の楚となることを信じている。

≪山本勘助の墓≫

場所:長野市松代町(長野電鉄金井山駅より徒歩5分)
攻城日:2011年4月24日 
お勧め度:★★★★☆
その他:駐車場は無いので金井山駅に駐車(無料)。
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Posted on 2011/05/07 Sat. 23:41 [edit]

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