らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0511

相木城(北相木村)  

◆天然の要害に築かれた相木氏三代の居館◆

信州に生まれ育っても、この歳まで訪れた事の無い場所も多い。

死ぬまでに一回は信州の全ての市町村のスタンプラリーをする必要があるかもしれない(笑)

北相木村は聞いた事はあるが、山城探訪という趣味が無ければ行く機会も無かったに違いない(爆)

aiki015 (20)
県道124号線の北相木村郵便局の周辺が城域となる。

国道141号線の小海町から東に分岐して相木川の沢沿いを約6キロ奥へ上る。こんな辺境の地に(失礼)民家があるのかと思いつつ車を走らせる。

毎度の事ながら、高地性集落におけるユートピアを築いてきた日本人のフロンティア精神には感動すら覚える。

aiki015 (5)
郵便局前にる相木城跡の石碑。しかし、説明板が無いのは不親切。

相木城は、南相木村に築かれた古城(峰尾城)と北相木村坂上の新城を総括した称号であり、天文十一年(1542)から天正十年(1582)まで相木氏四代の居城だったという。(常栄、常喜、頼房、信房)

天文九年以降、信州に攻め入った武田氏の傘下に降り常喜、頼房、信房の三人はいずれも「相木市兵衛」を名乗り、特に三代目の頼房は第四次川中島合戦で信濃先方衆として100騎(80騎とも)を率いて妻女山の奇襲隊10将の一人として活躍したとされる。

aikiIMG.jpg

その軍功を信玄に認められた頼房は、真田幸隆と共に武田家の外縁として一族に加えられ躑躅ヶ崎の館回りに屋敷を与えられたと云う。

現在の相木城址とされる新城は、先代の常喜が武田に従い各地を転戦するに及び、北相木に城館を含めた要害を築く事を晴信に願い出て許可され、子である頼房、信房の兄弟に守らせたという。

aiki015 (3)
相木川より御門郭方面

家督を信房に譲った頼房は、隠居地として佐久臼田の田口城を信玄より賜り移住する。

相木城主となった弟の信房は、勝頼の時に信州先方衆の総大将となるが、高天神城の攻防で戦死。

aiki015 (9)
相木城の西側にある天神山砦の主郭。

武田氏滅亡後、頼房(依田能登守という記載であり同一人物かは不明)は北条方に味方し、徳川方の依田信蕃による佐久平定を阻止するために奮戦するが、徳川方となった小海の三枝昌吉の攻撃により相木城は落城する。

aiki015 (14)
天神山砦の北側に残る堀切跡。

三枝氏は、相木城の弱点であった西丸の後方の天神山砦を攻めて城主不在の相木城を落城させた。

なるほど、現地に立つとこの砦は単曲輪の単純な構造であり攻める側が容易であった事が随所に窺える。

aiki015 (12)
10人程度で満員の主郭。加工度もかなり低い。

田口城を脱出した頼房は、前山城から逃れて来ていた伴野貞長と共に北条方に身を寄せるが、天正十七年から始まる小田原征伐の混乱に乗じて佐久に帰還を試み相木に拠る。

しかし、天正十八年三月には依田信蕃の息子松平康国により、北相木の白岩、木次原の戦いで敗れ伴野貞長は戦死、頼房(依田能登守)は上州へ逃れたという。

aiki015 (24)
北相木の白岩。城跡から更に5キロ上流にある。

aiki015 (27)
相木・伴野連合軍が敗れた木次原。上州(群馬県)へ逃れるぶどう峠は目と鼻の先だ。

白岩・木次原の戦いは、北条征伐の前哨戦として有名であり、秀吉は家康が報告した書状に対して感状を送り康国の武功を褒め称えている。(この時の手紙では、相木氏は阿江木氏と記載されている)

現在、相木城一帯は宅地と畑に変貌している。度重なる発掘調査でも城館の遺構や遺物は発見されていないという。

今回、丸岩城への攻防は断念したが、いつか全容を解明したい城跡の一つである。

aiki015.jpg

≪相木城≫

標高1000m 比高0m
築城年代:不明
築城・居住者:相木氏(依田氏)
場所:北相木村 郵便局付近
攻城日:2011年4月2日 
お勧め度:★★☆☆☆
所要時間:-
見どころ:天然の堀、天神山砦、白岩・木次原の古戦場跡
参考出展元:定本佐久の城(郷土出版社)、信州の古城(同左)





スポンサーサイト

Posted on 2011/05/11 Wed. 23:29 [edit]

CM: 8
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top