らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0608

和田城(長和町)  

◆総延長800mに及ぶ尾根の要塞◆

こんばんは。鳥の次は何を掲載しようかしら・・(笑)

病的な妄想に取り憑かれているという指摘もありますが、至って正常であります。

えっ?病気の自覚症状が無い人が言う言葉ですって???(汗)

今回は、全体の城域があまり知られていない和田城を掲載します。

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登城口は和田の本陣跡の西側の釈迦堂端の手前にあります。

実は2年前の冬に攻城したのですが、写真は行方不明だし祠のある郭と神社しか落としてない。

そののち閲覧した「図解山城探訪」(宮坂武男著)によれば、山頂を起点とした広大な城域だという。

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10分程度で辿り着く武尊神社。北側の尾根の最終防衛砦だったと思われる。

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神社から続く登り階段の途中には堀切が確認出来るが、写真にとると良く分らない・・。

で、一段高く、背後を土塁で囲んだ和田城跡の看板の残る郭に出る。

当時は愚か者だったせいか、ここが主郭と思うてしまいその後は退却したというそそっかしい失態をしでかす。

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この曲輪の南は二重の堀切で見事な深さを持つ。

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村上流の築城術に慣れていたせいか、背後を二重で断ち切る=主郭という定説を信じていたのだ・・・(笑)

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深い堀切に盛り上げされた北側の尾根は付属品という思い込み。

「とにかく北への尾根伝いに調査するか・・」

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この場所が拡張された和田城の最終の本郭だったとは知らなんだ。

20mほど歩くと驚愕の光景が目に入る。

何と尾根を3本の大堀切で遮断しているではないか!!

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その①

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その②

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その③

さして広くは無いが、加工度の高さから和田城の最終の本郭はここだったのであろう。

石積みで加工されているのも驚きだった。

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奇妙な事に、いずれの堀切も東側の斜面のみで尾根を越えた西側には貫通していないのである。

明らかに街道の通る東側からの攻城にのみ備えている。

痩せた尾根を更に進む。

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途中には沢に向けた竪堀が何本か確認出来る。

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こんなに尾根を歩いたのは曲輪の位置を間違えた佐久の雁峰城以来だ・・(笑)

最高地点の手前には深い堀切があり、恐らくここが詰めの曲輪の為の防禦だったと思われる。

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一条の深い堀切

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楕円形の曲輪は三角点のある頂上に位置する

本郭から頂上へ向けて拡張を続けていったのかもしれない。

天水溜めのような窪みも見られる。

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三角点と窪み。この曲輪の南側には堀切など無かった

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周囲を腰曲輪が囲んでる。未完成のようだ。

天文二十二年(1553)、武田晴信は和田城を攻め、城主の大井信定は矢ヶ崎で合戦に及び敗退の末討死。和田城も陥落したと伝わるが、それ以上の詳細な記録は見当たらないと云う。

佐久の諸城同様、凄惨な落城だったと思われる。

信定は武石城主大井信廣の次男とされ、村上方の城だった和田城を村上配下となる事で手に入れ、勢力拡大を続けてきたという。

巨大なブルドーザーに竹槍で立ち向かう信定の悲壮感と覚悟は、いかほどだったのであろか・・・。

ちなみに昨年12月に掲載した矢崎城は和田城の支城とされ、家臣の秦氏が城主と伝わる。

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東側のみに掘られた堀が特徴。

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山麓の和田宿旧本陣跡から望む和田城全景。

≪和田城≫ 

標高1016.4m 比高166m
築城年代:不明
築城・居住者:和田氏・大井氏
場所:小県郡長和町和田上和田上の山
攻城日:2011年6月4日 
お勧め度:★★★★☆
所要時間:麓から山頂まで約30分
見どころ:曲輪、石積み、堀切、土塁など
その他:松茸山なので、秋の攻城は止めるべし。
参考書籍:続山城紀行(清水長久著)
周辺の城跡:中山城、矢崎城、御岳山城(過去の記事を参照願います)長窪城などが街道沿いに目白押しだ。








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Posted on 2011/06/08 Wed. 21:47 [edit]

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